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「静かな夜と気が利く友人」 蓮下

「こんばんは。隣に引っ越してきた安部といいます」


 自分より二つほど頭の低い丸いフォルムがゆっくりと頭を下げる。数秒の沈黙の後、伺うようにひょいと目を上げると俺に向かってニッと笑みを向けた。小じわの目立つ疲れたような顔色。俺の母親と同じくらいの年頃だろうか。


「これね、少ないのだけれどお近づきの印にもらってくださいな」


 紙袋の中から差し出されたのは駅前の店の菓子折りだった。俺は押しつけられるままに受け取ると、「はぁ」とだけ応えて挨拶もせずに部屋に引っ込んだ。おばさんの笑顔がドアで遮られる。菓子折りをベッドの上に無造作に放り投げて息をついた。俺は近所付き合いというのが苦手だ。小学生の時は近所の同級生達と遊ぶことが多かったからあまり嫌いでは無かったが、親や近所の大人のうさんくさいやりとりには辟易していた。


『これで直樹くんに美味しいものでも食べさせてあげて』


 と人を巻き込んでお金やら物品やらの押し付け合いをする光景が中でも一番嫌いだった。


 それにしても変わったおばさんだと思う。別に奇抜な格好をしていたわけではない。こんな何も無い田舎のアパートに越してくる人など居ないに等しいからだ。最寄りのコンビニだって自転車で二十分。駅近でも観光スポットがあるわけでもない。ここは、郊外の端の方だ。投げ捨てられ積み上げられたようなアパートや住宅がひしめき合っている。


 しかも、手土産が駅で買った菓子だなんてまるで無計画に移住してきたみたいじゃないか。


「まぁ、近所付き合いなんてろくにしない俺には関係ねぇけど」


 改めて放り投げた菓子折りを見て顔をしかめた。せいぜい喜ぶのは実家暮らしの家族くらいだろう。後で郵送でもしてやればいいと適当に考えていた。


 


 


   ***


 


 


 眠い目をこすりながら玄関の扉を開ける。現在の時刻は午前九時十分。今から学校に向かっても授業が半分以上終わっている頃だ。のんきな俺とは違い、昨日のおばさんはせわしなく廊下の端から掃き掃除をしていた。


「あら、おはようさん」


「っす……」


 起きてはじめて口にした言葉はせいぜい語尾しか音にならなかった。それでもおばさんはにこにことこちらに笑いかけている。


「朝から早いのね」


 俺は足元の小さな埃を靴裏で押し潰しながら「いぇ、別に」と答えた。


「もう授業始まってるんですけどね」


 焦る様子を見せない俺に、おばさんは目を丸くして手足をばたつかせた。持っていたちりとりから集めたゴミがざらざらとこぼれ落ちる。掃き散らかされたゴミとそれが混ざって空気が濃くなったような気がした。


「遅刻じゃない! 急がないと!」


 寝起きの頭にヒステリックな声はとても効く。


「大丈夫ですよ。今から行っても意味ないので」


「ねぇ、朝ご飯は食べたの? よく見たら顔色も悪いじゃない」


 それは恐らく昨日の深酒のせいだ。おかげで朝飯も入らない胃の中は綺麗な状態だろう。


「いえ、お構いなく」


 ニワトリのように騒ぎ立てるおばさんの横を通り抜けて階段を降りる。なるべく関わり合いになりたくないというのに、面倒なおばさんが引っ越してきたものだ。


 


 


   ***


 


 


 一日の授業を終えて俺は友人達と飲みに出かけた。懲りずに、「元を取る」なんて酒豪の友人と息巻き、ペースなどお構いなしにアルコールを胃に流し込んでいた。おかげで、店を出てからの記憶は曖昧だった。電車に揺られていた記憶はかろうじてあるものの、部屋の鍵を差し込んだ記憶が微塵もなかった。


 目が覚めると知らない天井が見えた。いや、全く知らないとも言いがたい。俺の部屋の天井に良く似ていた。ただ、俺の部屋の天井は小さなシミが一つ。見えた天井には大きいシミが二つあった。知らない間に雨漏りでもしたのかと一瞬考えたがすぐに違うと分かった。バターと卵の香りがふわりと漂っているのだ。さらに、食器を重ねるような音まで聞こえる。床の上をパタパタと歩き回る音がした後、


「あら、起きた?」


 と昨日の朝も聞いた声が降ってきた。困惑しながら恐る恐る上体を起こすと、やはりおばさんの笑顔がこちらに向けられていた。驚きのあまり何も反応ができなかったが、聞くまでもなくおばさんから事の顛末が語られる。


「昨日の夜遅くにね、部屋の前に座り込んでいたのよ。話しかけても反応がいまいちだし、このところ物騒じゃない? 私の部屋にあげたのよ」


 いくら何でもお節介すぎやしないか、と無礼なことを考えたものの一応外で一夜を明かさなくて済んだことは事実である。それに、財布や携帯を盗られた形跡もないしひとまず無事だ。


「マジすか……。それは、申し訳ないです」


「良いのよ。無事で何よりだわ。それより朝ご飯を作ったのだけど、オムライスはいかが? ああ、あと二日酔いだしあさりのお味噌汁も出せるけどどう?」


 ずっと空の胃を誘惑していたのは、どうやらおばさんの作ったオムライスの匂いだったらしい。迷惑になるだとか厚かましいだとかそんなことを考えるより先に口が動く。


 


 


「いただきます」


 スプーンを何度も往復させる俺の前におばさんが座る。おばさんは白飯と焼き鮭とあさりの味噌汁を前に手を合わせた。


「お口に合うかしら?」


「めちゃくちゃ美味いっす。オムライス、好物なんですよ」


「あらあらありがとうね。いい食べっぷりだこと。オムライスが好きだなんて、息子とおんなじね」


 おばさんは嬉しそうに笑った後、焼き鮭に箸を差しながら肩を落とした。急におばさんが黙り、しばらく食器とスプーンがぶつかる音だけが部屋に響く。息子と喧嘩でもしたのだろうか。聞いてくれと言わんばかりの態度は癪だが、沈黙に耐える方が俺には無理な話だった。


「息子さんは現在どちらに?」


「実は、就活のストレスからか自室でね……」


 おばさんが首に手をやったのを見て、俺は口を閉じた。ぐちゃぐちゃになった卵と飯を飲み込む音がやけに大きく聞こえた気がした。


「……なんかすみません」


「気にしなくて大丈夫よ。それより、息子と近い年頃の子とお話できて楽しいもの」


 食事を終えて身支度を済ませ、俺は改めておばさんに頭を下げた。


「迷惑をかけたのに、親切にしてくださってありがとうございました」


 おばさんは変わらない笑顔で玄関に立った俺に手を振る。


「本当に気にすることないのに。もし良かったら、またおばさんの話し相手になってほしいわ。それと、今回みたいに困ったことがあったらおばさんを頼ってほしいわ」


「……そんときはお世話になります。安部さん」


 軽く会釈して閉まるドアに背を向けた。


 


 


   ***


 


 


 学校から帰り、玄関の鍵を開けようと扉の前で立ち止まった。ポケットから鍵を取り出したのと隣の部屋のドアが開いたのはほぼ同時だった。


「あら! 直樹君!」


「あ、どうも」


「ちょうど良いところに! 今日ね、ピーマンの肉詰めを作り過ぎちゃってね。おすそわけとしてもらってちょうだい!」


 皿にかけられたラップは白く曇っている。ピーマンの緑は見えなかったが俺はこれを受け取れない。顔が引きつるのをこらえながら安部さんに謝る。


「すみません、俺、ピーマンアレルギーなので……」


「もう! そう言って、ピーマンが苦手なだけでしょ! 私にはお見通しなんだから! 好き嫌いしてちゃいい大人になれないわよ。うちの辰紀もね、はじめはピーマンが嫌いだったんだけどこの肉詰めだけは食べれるようになったのよ」


 俺の拒否もお構いなしに安部さんは皿を押しつけてくる。無理に押し返して皿を割っても面倒なので、大人しく押しつけられるまま仕方なく受け取った。


「じゃ、感想待ってるわね」


 俺が部屋の鍵を解錠するより先に安部さんは部屋に引っ込んでいく。部屋に戻るなりポリ袋の中に肉詰めを突っ込んだ。それをさらに紙袋の中に放って、外から見えないようにする。ピーマンアレルギーは冗談なんかじゃない。この頃から安部さんの得体の知れない、善意なのかお節介なのか不明な干渉に嫌な予感を感じていた。


 


 おすそわけのために毎日のように部屋に来る。学校の行きと帰りの時間帯は必ず外に出ていて、登校下校時の俺に挨拶を毎日欠かさなかった。その程度ならまだ良かった。大学の正門で俺を待ち伏せしていた時は、さすがに寒気を感じた。


「大家さんから部屋を借りてね、今日もお部屋の掃除しておいたわよ。男の子の部屋なんてすぐに荒れ放題になるじゃない」


 ドヤ顔で胸を張る安部さんからそう聞かされた時は、やたら綺麗な部屋が気のせいじゃないと思い知った。部屋中に消毒液を意味もなく吹き付けて、びしゃびしゃのカーペットの上で眠りについた。


 


 突然、自分の部屋の玄関から物音が聞こえたような気がした。課題に勤しんでいた俺はふと手を止める。コンコン、と二回のノックが再び響く。俺は立ち上がってドアスコープをのぞいた。やはりドアの前にいたのは安部さんだ。俺はほんの少しドアを開けた。


「あの、何ですか」


 安部さんは部屋着の腕をこすりながら具合悪そうな顔をしていた。


「まだ起きているの?」


「そうですが」


 俺がいつ寝ていつ起きていようと関係ないだろう。むっとしてぶっきらぼうに言うと


「もう寝なさいな」


 と安部さんは返す。


「早く寝ないとね、身体だけじゃなくて心も駄目になるのよ」


「やることがあるから、まだ寝れません」


「そんなもの放っておきなさい」


 当然そういう訳にはいかない。


「じゃ、俺は忙しいので」


 無視してドアを閉めかけたが、ドアの間に腕を差し込んで安部さんが割り込んできた。


「ちょっと待って、一つ聞かせて」


「……今度はなんすか」


 必死の形相に気圧されて応じる。慌ててドアを押さえた。危うく腕をはさんでしまうところだった。


「前に、ピーマンの肉詰めを作ったことがあるでしょう」


「はい」


「どうして捨てたの?」


 背中を冷たい、嫌な汗が伝う。何故、この人はピーマンの肉詰めを捨てたことを知っている。部屋の中にカメラか盗聴器でも仕掛けられていたか?いや、部屋が綺麗になりだしたのは安部さんが大学周辺に現れるようになった後だ。ピーマンの肉詰めを俺に寄越す前に部屋に、入ってはいないはずだ。


「だから、アレルギーです!」


 俺は安部さんを突き飛ばすと、ドアを思い切り閉めた。鍵をかけてチェーンも付けて、ドアスコープからのぞくと間近に安部さんの顔があった。驚き、のけ反った身体が玄関の壁に押し返される。こちらをのぞこうとしているらしい。向こうからは見えないはずだが、安部さんは身じろぎもせず俺と目を合わせたままでいる。


 やばい。


 そう思った。俺はドアスコープをガムテープで意味もなく塞いで、机に向かう。それでも、ドアからの視線はずっと突き刺さる。再びのぞく気など起きるはずもなく、結局、課題が終わっても眠りにつくことができなかった。


 


 それから数日、安部さんの挨拶という名のストーキングが行われることはなかった。しかし、代わりに俺への嫌がらせが始まった。


 毎日深夜、俺が部屋の電気を消すと激しく壁を叩く。布団に入ると、毎回頭上の壁からドカドカ音と振動が伝わってくるのだから、とても寝れたものではない。


 それが一週間続いて、いい加減苦情を言いに行こうと外に出た。ぐちゃり。玄関先で嫌な感触が靴の下から這い上がった。何か良くないものを踏んだことはすぐに分かった。とっさにその場で足踏みして、部屋の扉に手をつく。が、その手はドアの上を滑り支えの役目を果たさなかった。バランスを崩して倒れ、俺は手と玄関先を見遣る。


「何だよ……。これ……」


 手に付いたものと同じヘドロのようなものが、ドアとその周辺にまき散らされている。俺を見下ろすドアの前には、動物の死骸がいくつも積み重ねられていた。彼らが腐臭の主な原因なのだろう。


「安部さん!」


 隣の部屋のドアを思い切り叩く。ピーマンの肉詰め程度で、こんなことをされるなんてたまったものではない。なんとかしてやめさせなければ。五回程呼びかけて、白々しい顔がドアの向こうから現れた。


「どうしたのよ」


「ふざけないでください! 何でこんなことをするんですか」


 俺は自分の部屋の前を指さす。安部さんはさも嫌そうな顔をしながらそれを眺め、鼻をつまんだ。


「あらやだ、直樹君。借りたお部屋を汚しちゃだめじゃない。ちゃんとお片付けしなさいね」


「は? あんたがやったくせに何言ってんだよ!」


 安部は耳に指を突っ込みながら部屋の中に戻っていく。ドアを蹴り飛ばしたかったが、騒ぎを大きくしたくない。すんでのところで怒りを抑えた。手のひらのヘドロが少しずつ乾いていくのを感じながら、俺は部屋の前の死骸としばらく睨み合いをしていた。


 


 


   ***


 


 


「もういい加減、我慢できないですよ」


「うーん、問題起こすような人に見えなかったけどな」


 ヘドロ事件から二日後、俺は大家さんに安部の異常な行動について抗議していた。薄い頭をぽりぽりと掻きながら防犯カメラの映像を見ているものの、ため息ばかりつき関わりたくない気持ちが露わになっている。彼の淀んだ目に対して、液晶画面に浮いた汚れは部屋の照明のせいでやたらてらてらしていた。


 昨日も安部は俺の部屋に侵入したようだった。家に帰ると部屋の中はゴミが大量にぶちまけられていて、俺はまた玄関先で怯む羽目になった。しかも、ぶちまけられていたゴミは登校前に俺がゴミ捨て場に出してきたゴミだ。安部はどうやら俺が出したゴミのことも把握しているらしかった。ピーマンの肉詰めを捨てたことを知っていたということは、その頃から飽きずに俺のゴミの中身の確認をしているということだ。完全に私生活をのぞかれていたと今更ながらに自覚してぞっとした。


「この映像を警察に提出すればもう大丈夫だと思うよ」


「ありがとうございます」


 無事に安部が俺の部屋に侵入している映像と、死骸をぶちまけている映像を廊下に設置された防犯カメラから入手することができた。


「私は安部さんに鍵なんて貸してないからね。私は本当に関わってないからね」


「大家さんのところから鍵を盗んだのであれば、窃盗の罪も問うことができますよね」


「だろうねぇ……。ま、難しい話はおまわりさんとしてきてよ」


 やることはやったと言わんばかりに大家さんは、手をひらひらと振って俺を追い出した。これで、あの迷惑な隣人ともおさらばだ。そう考えると大家さんの適当な態度など気にならなかった。俺は深くゆっくり息を吐いた。先程の大家さんのため息とは段違いの朗らかなため息だった。


 


 


 


 警察に囲まれて安部が部屋から出てきた。警察官の肩越しに安部と目が合った。憎悪の目が向けられるもののと思っていたが、彼女は俺を見るなり天の救いでも現れたようにひざまずいた。


「直樹ちゃん、いや、辰紀! 許してちょうだい!」


 安部を連れ出した警察官が腕を掴んで立たせようとするも、岩のように丸まった身体は道端にしっかりとしがみついている。


「おまわりさん、いや! やめて! 辰紀と私を引き離さないで! あの子は辰紀の生まれ変わりなのよ! 私がいてあげないとだめなのよ!」


「いいから起きてください!」


「辰紀ぃ!」


 警察官が三人がかりで、半ば引きずるように泣き叫ぶ安部を連れて行く。息子さんが亡くなったのは気の毒だが、代わりにされるなんてとんでもない話だ。俺から事情を聞いていた警察官の影に隠れて、俺は安部が去るのを待った。警察官は背後をちら、と一瞥し


「もう大丈夫ですよ」


 と言った。


「後日、安部さんの息子さんが根井場さんに謝罪にお伺いしたいとのことですが」


「え、息子さんは亡くなったんでは?」


「いや、実は安部さんの息子さんは二人いまして。長男の方が亡くなられたようです。次男の方がお父様といらっしゃると」


 長男が亡くなって母が警察の世話になるとは、本当に家族が気の毒だ。心に余裕が出てきたからか同情心すら抱いてしまう。


「では、また何かありましたらご連絡ください。くれぐれも、戸締まり等にお気をつけて」


 警察官はそう言って帰って行った。祭りの匂いを感じ取って始終見物していたアパートの他の住民達も、ぞろぞろと各部屋に戻っていく。


 


 


   ***


 


 


 平穏な生活がいつぶりだか戻ってきた。もう壁を叩かれることもないし、ピーマンを押しつけられることもない。快適な生活を送っている。寧ろ、いささか快適すぎる気がする。


「あれ、机の上に置いておいた封筒はどこに行った?」


 快適にはなったが強いて言えば、物が無くなりやすくなった。大体、探せば見つかるのだが時折ゴミ箱の中から物が見つかる。きっと、酔った時に間違って捨ててしまったのだ。……そう思うことにしている。それで、机の上の書き置きと新しくなった歯ブラシは友人の悪戯に決まっている。


『歯ブラシ、新しくしておいたよ』


 だなんてなかなか気が利く友人を持ったな。

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