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「空席の雛菊」 白井雲

 八月二日朝


 タン、タン、タンと一定のリズムで音が響く。それは僕の足音。いまは夏真っ盛りでやはり暑い。太陽は昇りきっていないが、それでも汗がじんわりとにじむ。冷えた室内が恋しい。


 家を出て、二十分程。ようやく、目的の自販機が見えてきた。ほんのわずかな達成感に「うんー」と背伸びをする。日課の散歩。ただ歩くだけだが心地よい。……左の頬が痛むが、それすらも幸せを運んでいると感じられる。


 僕がいつも目的地としている場所は、かなり廃れている。ベンチとそのすぐ後ろにくっつくように自販機が置かれ、車道を挟んで反対側には、元々がホテルか工場かも分からないほど、ボロボロになった建物がある。それ自体は派手だがあまりに鬱々としている。そのため、外から来た人はもちろん、地元の人間さえこの道を通ろうとはしない。それでも、僕は毎日ここを歩く。


 歩き続けると先客がいることに気づいた。その人物はベンチに座っている。どんな人だろう。こんな所に来るなんて、よほどの暇人に違いない。そう考える理由は、僕がまさしくだからだ。高校二年の夏休み。それに部活にも入っていない。そのため、ビックリするほどやることがない。(宿題はギリギリまで取っておくタイプ)


 目的地まで残り五,六歩と言うところで、先客の容姿がハッキリする。女性だった。自販機に力なく寄りかかっている。年齢は僕より二、三歳ほど上といったところだろうか。その女が着ているものはどれもこれもぼろぼろ。しかも、髪は胸のあたりまであり、ボサボサだった。おそらく何か意図があって伸ばしているのではなく、切っていないだけだろう。


 そして、何よりも特徴的なのが彼女の表情だった。およそ感情が見受けられない。そして、顔色は真っ青だ。


 僕はその女を横目で見ながら歩く。どうすべきだろう。無視するべきか、声を掛けるべきか。普段なら、前者を選ぶだろう。たとえ、老人が荷物をひったくられたとしても見なかったことにする自信がある。


 しかし彼女の目の前を通った時、


「大丈夫ですか?」


 気づけば歩みを止め、声を掛けていた。


 しばらく待ってみたが、彼女は僕の質問には答えてくれない。恥ずかしさのあまり顔が熱くなるが、不思議と逃げ出そうとは思わなかった。


 仕方ない。別の質問をしよう。


「何かあったんですか」


 これまた、女は黙ったままだった。次は何を聞けば良いのだろうと考えていると、


「……失恋」


 女は僕に目を合わせることなく何かを言い、空虚に笑った。しかし、声が小さくてうまく聞き取れない。もう一度聞き返そうとするが、それより先に再び声がする。今度はさっきよりも大きい。


「失恋、しちゃった」


 僕は言葉を失ってしまった。言葉以上に、在りようがあまりに弱々しかったのだ。そんな彼女だが、


「なら、君は何をしているんだい、少年」


 いきなり質問してきた。僕はうろたえながらも正直に答える。


「え、僕ですか。僕は、散歩してるだけですよ」


 女は口角を片方だけ上げて笑う。


「へえ、散歩ね。随分年寄りくさいことしてるのね」


 馬鹿にしていることがありありと分かった。だが、僕自身も思っていることなので言い返せないし、いらだつこともなかった。


「確かにその通りですね。でも、僕は好きなんですよ。散歩が」


「ふーん。あっそ」


 相変わらず、女は体重を自販機に預けている。


「なら、いろいろなところを歩き回っているのかい」


「いえ、ここだけです」


「へえー」


 女は返事をする。そして、一度、息を吸う。


「じゃあ、少年とって散歩ってどんなもの?」


「どんなもの……ですか」 


 まさかこんなこと聞かれるとは思っておらず、ついつい動揺してしまう。自分にとってか。今まで考えたことなかった。それに、そんな理由は今まで必要なかった。


 健康のためだろうか。それともリラックスできるから。しかし、どれもピースを無理矢理はめ込もうとしているみたいで、ピンとこない。


 ……いや、考えたことがない、これ自体が答えになるのか。


 パズルの最後のピースがはまった時のような快感があった。言葉がすらすらと出てくる。


「僕にとって、散歩は食事や睡眠と同じくらい無くてはならないものです。やらなければ一日が始まらないし、だから、例え大雨だろうときっとやめません」


「あはは、何よそれ。……まるで、告白じゃないか。」


「え、そうですか」


 僕は全然そうとは思わないけれど。


「それに、今のじゃ散歩をする理由になってもここを歩く理由にはなってないよ」


「……確かにそうですね」


 失念していた。どうしよう。なんとなくで道を選んでいたから何も理由が出てこない。眼球だけで周りを見回し、理由になりそうなものはないだろうかと探す。すると、自販機が目に入ってきた。その瞬間、ひらめきが走る。きっと、これだ。


「あの自販機の飲み物を、全種類飲んで、みたかった、から……です」


 言っていてあまりの馬鹿馬鹿しさに気づく。恥ずかしくなり、声が小さくなる。そんな僕を見て、女はぷっと吹き出した。さらに、


「くく、あはははは」


 大きな声で笑い始めた。出会ったときの彼女からは想像もつかない行動だ。本来ならば僕も笑うべきだろうが、しかし、苦笑いしか浮かべられない。


「何よ、その理由。本当に最高だよ。そんなことがあるなんて。あはははは」


 笑いは収まる気配がない。もうここにいたくない。彼女も元気になったし、もう僕帰っちゃっていいかな。帰る算段を頭の中で組み立てていると、


「はは、ふう。少年のおかげで今までの悩みがどうでも良くなったよ」


「なら良かったです。なら僕はこれでか」


 しかし、女は僕の話なんて聞いていない。ベンチを指さす。


「座れよ。もう少し話そうじゃないか」


 


 僕は彼女の命令に逆らうことができずにベンチに腰掛ける。女は背もたれに寄りかかる。そして、にやりと笑う。


「さあ、少年。何か言え」


「いきなり何ですかそれ。あんまりで……」


 不満を口にしようとしたが思いっきり睨まれた。


「……はい。分かりました」


 誘ってきたのは彼女なのに全て投げ出すなんてあんまりだ、と思ったが言い返すことなんてできっこない。言ったら消えないトラウマを植え付けられそうだ。そう思わせるほど、彼女の目つきは鋭かった。


 なら、とりあえず名前を聞くか。


「僕は山本亜()()と言います。名前、教えてくさい。」


「ん、名前。そういえば言ってなかったね。少年。私は御手洗波瑠(はる)よ」


 少年……。


「どうした、少年。名前言ってやったぞ。反応なしか」


 せっかく名前を言ったのに、彼女は僕を少年と呼ぶ。


「その、少年って言うのやめてくれませんか。名前言いましたし」


 ハルは僕へ顔を向け、しばしの沈黙。そして、


「ははーん」


 小学生がいたずらを思いついたときのような笑顔を浮かべる。


「そんなに嫌か。少年と言われるのが」


「そりゃ、僕にだって名前ありますし、それで呼んでほしいです」


「そうかそうか。そんなに嫌か。だが悪いな。私の中で少年と呼ぶのは決定事項なんだ。耐えろ」


「なんでそんなに頑ななんですか。良いじゃないですか。呼び方は僕が決めても」


「あーあー。うるさいうるさい。わがままが過ぎるぞ。少年」


「それはあなたですよ」


 僕たちはお互いににらみ合う。しばらくそうしていると、なかなかどうにも腹の中から笑いがこみ上げてきて、お互いに豪快に笑い声を上げた。


「はーあ。くだらな。でも、またこんな風に笑えるとは」


 ハルは言う。


 それは良かった。僕という存在が誰かの役に立てたのなら、それ以上の幸せはない。その充実感に身を任せる。


 その時、僕はハルが話のネタを振る気がないことをすっかり忘れていた。僕が物思いにふけっていると少しずつハルの笑顔が消えていく。そして、真顔になると、


「……ほら、次。まさか名前聞くだけじゃないでしょ。さっさと話題出しなさいよ」


 ハルが僕を急かしてきた。


「はいはい、分かりましたよ。それじゃあ……」


 そして、僕たちは語り合った。


 


 とはいえ、僕は会話があまり得意ではない。むしろ苦手だ。そのため、頑張ってみたものの、しばらくするとネタ切れになってしまった。そのとき、意外なことにハルが助け船を出してくれた。しかしその行き先はひどいものだった。


「失恋相手について話してやる」


 誰が想像つくだろうか。さっきまであんなに辛そうにしていたのに、その核心に自分から触れに行くなんて。しかも、交友関係が広いとか積極的とか、上機嫌にペラペラと。豪胆というべきか、それとも自虐趣味なのか。


 しかし、僕はそのときのハルの表情を忘れられないだろう。名も知らない男を語るハルはとても楽しそうで、どこか自慢げですらあった。僕は言葉では言い表せない気持ちを覚えたがが、それでも楽しい時間だった。


  


 八月二日昼


 気づいたときには太陽が真上まで昇っていた。驚くほどあっという間に時間が経過している。もっと話していたいが、さすがにこれ以上遅くなると親が心配する。と言うか、僕が怒られる可能性が飛躍的に上昇する。とはいえ、まだ話の途中だし、言い出しづらい。ああ、どうしよう。


 ここでハルが願ったり叶ったりの提案をしてきた。


「もう昼か。お腹もすいたし、解散にするか」


「……はい」


 少しばかり罪悪感を覚えたが僕は立ち上がる。


「今日はありがとうございました。楽しかったです」


 感謝の気持ちを伝えてから、ハルに背中を向け歩き出す。すると、


「なあ、少年」


 ハルが再び声を掛けてきた。


「はい、何ですか?」


 背後へ振り返り、ハルを見る。


「少年は、いつから散歩を続けているんだい」


 なぜそんなことを聞くのだろうと思ったが、ハルの問いに頭をひねらせてみる。


 いつからだろう。ずっと続けているから、曖昧になっている。昨日、一週間前、一ヶ月前、一年前、そして二年前。ああ、そうだ、思い出した。


「ええと……。多分、三年前からです。三年前の、夏休み初日から」


 はじめはなんとなく朝早起きして、手持ち無沙汰になったから始めた。それがまさか、生活の一部になるとは思わなかった。


 ハルは、「そうなのね」とつぶやく。そして、


「さようなら」


 別れを告げる。


 ……そっか、これで別れなのか。


 僕は彼女のことを名前以外、何も知らない。住所も電話番号も、それに何をしているのかも。別れたら再び出会う手段はない。だったらこれで最後だ。短い時間しか関わっていない。それでも悲しいものは悲しい。


 ……しかし、どうしようもない。もう駄々をこねるような子供ではないのだ。


「さようなら」


 非情な現実を受け入れ、僕は再びハルに背を向ける。そして、トン、トン、トンと歩き出す。すると、


「また、明日」


 声がした。勢いよく振り返る。


 そこには、四月の風のように柔らかな笑みを浮かべる女が一人いた。


 また明日、その言葉はなんて素晴らしいだろう。これ以上の幸せはきっと無い。ハルは、ここにいてくれる。明日、また会える。たったそれだけの事実が僕を退屈から救い出す。


「はい!」


 真夏の力強い太陽が世界を燦々と照らしていた。


 


「あなたは誰ですか」


 


 八月三日朝


 自販機を前に何を買うか迷っていると、隣のベンチに座っていた女が「やあ、少年」、といきなり声を掛けてきた。僕は驚きのあまり、かなりひどいことを言ってしまった。傷つけてしまっただろうかと思ったが、女性はそんな様子はなく、楽しそうに笑っている。


「少年は何をしているのかい」


 これまたいきなり。しかし、まるで食べ物を嚥下するような自然さがあった。


「散歩をしているだけですよ」


 僕も不思議と言葉がスムーズに出る。


「あなたは何をしているんですか」


 試しに僕からも。すると女性は空を見上げ、足をバタバタと振る。そして、しみじみとした声で語る。


「人を、待っているんだ。決して会いに来てくれない人をね」


 言い終わると、女性は再び僕を見る。


 その姿は、例えどれだけ高名な画家であっても一枚の絵に収めるのは不可能だと確信させるほどに美しい。


 ズキリ。


 その笑顔を向けられるのが僕ではないことに、苦虫を噛み潰したような気分になった。


 


 **********************************”


 


 ある日、あらゆる人間の中で私という存在は更新されなくなった。そして、しばらくすると現れなくなった。それでもみんな、なんとか見つけてくれる。それがかけがえのない幸せだった。しかし、事態はそれで終わってはくれなかった。


 三年前、母と父は私に関わるすべてを捨てた。目の前で、一切合切。


 


 八月一日朝


 私はいつも通りベンチに座り、自販機の前で立っている少年を見る。最近、少年が毎日やってきてくれるので、日々が充実している。きっと、夏休みだからだろう。まさか学生じゃなくなってからの方が夏休みに感謝することになるとは思っていなかった。


 少年は相変わらず悩んでいる。ピンとくるものがないようだ。


 おっと、いつまでも考え事をしていられない。少年が飲み物を選び終えたら、帰ってしまう。その前に話しかけなければ。


「やあ、少年」


 足を組みながら、もう何度口にしたか分からないセリフを言う。


 声を掛けられた少年は、笑ってしまいそうになるほど驚く。彼は前髪を目にかかるぐらいまで伸ばし、服も茶や黒など地味なものばかり。きっと会話は苦手だろう。仕方ないことではあるが、毎日こうでは何も思わないわけがない。しかし、どうしようもない。


「あなたは誰ですか」


 いつも通り少年は答える。


「私は御手洗ハルさ。少年、暇なら私と一緒に時間を潰そう」


 少年は、戸惑いながらも首を縦に振った。 


 


 八月一日昼


 私たちはいつも通り、一つのベンチに腰掛け、語り合った。その内容は何度も何度も繰り返してきたものだが、それでも素晴らしい時間だった。


 彼がある一言を言うまでは。


 会話が止まり、空気が一変する。今までこんなことは無かった。


「どうしたんだい、少年」


 この頃には少年は私にも慣れ、時折笑顔を浮かべるようになっていた。


 少年は右手で頬を掻く。


「ええと、出会ったばかりの人に言うのは変かもしれないんですけど、一つ相談に乗ってくれませんか?」


「もちろん良いとも。人生の先輩として、できる限り力になろう」


 頼られたことがうれしい。


「うーん、何ていえば良いんだろ。難しいな」


「なんだいなんだい」


 いじめられているのだろうか、勉強にでも行き詰まっているのだろうか。様々な予想が頭を駆け巡る。


 しかし、そのどれも見当違いだった。


「多分一番近いのは」


「うん」


「恋愛相談に、なるのかな」


「……え」


 時間が止まる。


「うん、きっとこれは恋愛相談だ」


 息もできず、体もピクリとも動かない。心臓すら止まってしまったみたいだ。


「同じクラスの子に気になることがいるんです」


 彼が言っていることがまるで理解できない。宇宙の言語を聞かされているようだ。


「その子は奈津(なつ)っていうんです。ああ、そういえば、さっきその子を見かけたんですけど、面白いんですよ。黒くて、つばの広いとんがり帽子をかぶって歩いていたんです。あんなのかぶる子いるんですね。……ああ、話ずれちゃったな。すみません」


 ああ、どうしてだろう。こんな簡単なことにも気づかないなんて。


 ……いや、違う。気づかないふりを、していただけか。


「で、相談っていうのは、最近どうしたら良いのか分からないんです。ナツを見ると確かに恋愛感情が湧き出てくるんです。でも、それが気持ち悪いんです。まるで全て添加物で構成された食べ物みたいで。会いたくない、でも会っているときの快感が忘れられず、求めてしまう。ずっとその繰り返し」


 私にとってここは唯一の居場所だった。でも、彼は違う。彼には他にも一杯居場所があって、それぞれの場所でいろいろな人と関係を持っている。友人、親友、家族……そして恋人。


 私はどうすべきか。いや、逃げるな。そんなものは決まっている。


「気持ち悪くてたまらないんです。どうか助けてください。何でも良いんです。お願いします」


 私は覚悟を決め、少年を見つめる。


「なあ」


「はい」


 期待に満ちあふれた声で少年は返事をする。私は、覚悟を告げる。


「帰れ、少年」


 私は少年の大切な時間を奪っている。そんなことがいつまでも許されるわけ無い。私という存在は誰の記憶にも残らない。だったら、私が誰かに関わること自体、殺人よりもなお罪深い。少年の時間が消えていく。その時間は本来彼にとって忘れがたいものになったかもしれない。新たな発見に繫がるはずだったかもしれない。その全てを私は奪っている。


 ああ、(まさ)しく、それは、極刑に値する。


 許されない。決して許されない。今すぐ謝罪せよ。反省せよ。そして二度と繰り返すな。


 私にとって少年は大切な人。だったら私の欲望はすべからく悪だ! 


「え、いきなりどうゆうことですか」


 私は、こわばってうごかない口をなんとか動かす。


「言っただろ。少年、もう帰れと。そんな難しいことじゃないはずだぞ」


「いやです、そんなの。まだアドバイスもらってませんし。……それに、僕はもっとあなたと話していたいんです」


 彼もまた頑なだ。確固たる意思を持って拒絶する。私だって本当はいやだ。できるなら、もっと話していたい。でも、このまま話していたら、だめなんだ。


 私はもう我慢の限界だった。きっと、彼を納得させられるような言葉は出てこない。ずっと、でたらめに時間を浪費するぐらいなら。


 私は最悪の手段に出ることにした。


 右手を挙げる。そして、私を一心に見つめる少年の頬に向かって……思いっきりたたきつけた。


 私は言う。


 できるだけ侮辱するように、


「少年。好きな子がいるのに他の女と一緒にいたいなんてのは」


 彼をできる限り傷つけるように、


「最低よ」


 そして私の願いは叶った。叶ってしまった。


 少年はその後、弱々しい足取りで帰って行った。最後にただ一言、「はい」と小さく告げて。


 


 八月一日夜


 太陽が沈み、街灯に灯がつく。少年が去ってからの記憶がまるで無い。


 唇をかみしめる。


「私、本当にひとりぼっちだ」


 カラスが一羽、気味の悪い鳴き声を残して闇の中を飛び去った。その鳴き声が、大気をゆらし、木霊する。木霊し、木霊し、小さくなっていき…………そして、消えた。


 突然、焦燥感が駆け巡り、そこら中から汗があふれ出る。体中が訴える。


 だめだ。否定しなくては。受け入れてはいけない! 


 思考が信じられない速度で回る。


 いや、違う。そんなことない。だって、私は少年を有意義な人生に導いたんだ。素晴らしいじゃないか。そうだ、これはきっと少年の命を救ったも同然だ。一体どれだけの人間が笑顔になった。アキの親に、友達に、それに……。


 歯と歯が擦れる音がする。歯を削りながら、思考もすりつぶす。


 なら、きっとそんな私をどこかの誰かがきっと、よくやったねと言ってくれるはず。そして、頭を撫でてくれるはず。そうだ。そうじゃないとおかしい。


 頭が痛い。


 私やったよ。自分を犠牲にしたよ。救ったよ。神様見てるよね。大丈夫だよね。


 時間感覚がおかしくなる。視界がゆがむ。


 彼は幸せになるよ。なら、私も幸せになるよね。一人きりなんて無いよね。


 誰も答えてくれない。誰も否定してくれない。誰も反応してくれない。


 あ……あ……。


 何かが消える。何かがする。何かが痛い。何かができない。何かが早くなる。


 苦しい。苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しいああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ……ブツン。


 自分の中でなにかが切れた……ような気がした。


 


「久しぶりー」


 いきなり声が聞こえた。誰かいるのだろうかと顔を上げると、工場のようなホテルのような跡地の前に二人の女がいた。二人は、私と同世代に見える。それに、どこかで、見たことがあるような気がする。


 ……あ、思い出した。中学で同級生だったリサとサオリだ。いつも一緒にいて、時には喧嘩したりしたけれど、それでも最後の最後まで仲良くしていた二人だ。


 二人は、跡地の前で楽しそうに話している。


 なぜ彼女たちはこんな薄気味悪いところに、それもこんな夜遅くにいるのだろう。何かあっただろうか。今は……八月。ああ。そうか。学生なら夏休みか。二人とも勉強できていたし、きっと大学に進学したのだろう。そして、今は帰省中で、会う約束をしたのだろう。場所も時間帯も、なかなかに個性的だが。


 久しぶりの再会、会話に花を咲かせる二人。


 その姿を見ていて気づいた。ああ、これは救いだと。体中の血液がカアーと熱くなる。押さえようのない衝動に支配される。


 ああ、なら、いかないと。


 だって、私も、二人と、仲、良かった、もの。だったら、彼女たちが、かわいそう、だよ。だって、一人、足りない。そんな、のは、いけない。


 笑いがこみ上げてくる。


 しょうが、ないなあ。いまから、行くよ。


 幸せでたまらない。久しぶりに友達に会って、話ができるなんて。


 私は立ち上がり、彼女たちの近くまで歩く。リサとサオリは話に集中していて、私にまるで気づかない。たかだか数メートルにすぎない距離がたまらなく遠い。ふらつきながらもなんとかたどり着き、リサとサオリに声を掛ける。大丈夫。なにも恐れることはない。これはきっと神様からのご褒美だもの。


「久しぶり」


 私は彼女たちに挨拶する。こんな風に誰かと関わるのは久しぶりでなんだか恥ずかしい。声も思ったよりも小さかった。二人は声を掛けてようやく私に気づいた。二人が、固まる。


 二人はまず何というだろう。リサは悲鳴のような歓喜を上げるだろうか。サオリはかっこつけたことを言うだろうか。楽しみだ。楽しみだ。


 二人の硬直が解けていく。私の中で幸せが満たされていく。


 しかし、私の夢想が現実のものになることはなかった。


 え……。


 リサとサオリは何も発することなく、私からまるで逃げるかのように距離を取る。決して私に顔を見せようとしない。


 なんで……どうして……。


「待、待ってよ」


 手を伸ばす。けれども、まるで届かない。私の声にリサが反応し、顔を向ける。


「ヒッ」


 その目には確かな恐怖がこびりついていた。


 グチャ。


 ああ、なんてことだろう。その目が、私からあらゆる逃げ道を奪う。もう私は、否定するすべを持たない。


 私はもう一歩も前に進めない。呆然とする。時間がまるで、外れた歯車がカラカラと回るように進む。


 


「嘘だ」


 後退する。リサとサオリの姿はもう見えない。


「あんなに一緒にいたのに」


 後退する。誰もいない。


「何も覚えてないの。何もかも?」


 後退する。音もない。


「もう、いいよ、それは。でも、でもさ。そんなのって無いじゃない」


 後退する。光もない。


「そんな、化け物みたい扱わなくたって、良いじゃない」


 ドッと膝の裏をベンチに打ちつける。その拍子に体のバランスを崩し、座り込む。


「ははっ。そりゃそうだよな」


 悟る。これが現実だと。私に声を掛けてくれる人はもう誰もいないと。おはようもさようならもこんにちはもこんばんはも。……またね、も。


 だって、私は罪深いもの。なら、この苦痛も当たり前なの。当たり前なら怖くない。大丈夫。そうだ。ははっ。ははっ。ははっ。


 あれ、でも、おかしいな。今は、夏真っ盛りのはずなのに。汗が止まらないはずなのに。


 全身の鳥肌が逆立つ。震えが止まらない。それはきっと、外側からではなく、内側から、まるで地獄が湧いてくるにあふれ出る。


 私は、自分で自分を抱きしめる。


「寒い……寒いよ。パパ、ママ」


 ああ、そうか。これがずっと、続くんだ。


 


 八月二日朝


 太陽が昇る。もうそんなことすら、いや、なにもかにもどうでも良い。


 あれからずっと、自販機に寄りかかり、時間を潰した。すると、トントンと規則正しい足音が聞こえてきた。


 この足音は……あいつか。その音は私をさらに傷つける。


 やっぱり私は誰にも影響を与えられない、いてもいなくてもどうでも良いような存在なんだ。


 少年が私の前を通り過ぎようとする。ああ、それでいい、そのままさっさと帰ってしまえば良い。今更気づく。簡単なことだ。あはは、昨日の私の覚悟は何だったんだ。例え彼がここにやってきても、彼の中に私という存在はいない。だったら、わたしが何もしなければ、あっという間に私と少年は赤の他人になれる。いや、はじめから他人か。ははっ。


 少年は、一瞬私の方を見た。そして、顔を苦渋にゆがめた。なぜだろう。どこか体の調子でも悪いのだろうか。確かに、片方の頬は少しばかり赤くなっているが。まあ、私には関係ないことだ。だって……。


 しかし、ここで彼は私の予想外の動きをした。


「大丈夫ですか?」


 彼の方から声を掛けてきたのだ。


 え、どうして。どれだけ月日を重ねようとも一度も彼から声を掛けられたこと無かったのに。とはいえ、私は無視をする。でなきゃ、本当に何もかにもが無駄になってしまう。


 しかし、少年は私の予想よりもずっと優しい。こんな愛想の悪い女なんてほっとけば良いのに、別の問いを口にした。


「何かあったんですか」


 ああ、これじゃ、だめだ。きっと彼は、私が返事をするまで、何度もいくつも質問してくる。なら答えるしかないじゃないか。


 私は、彼と会話をしてもいい理由をひねり出していることに気がつかないふりをする。頭はまるで動かない。だから、もう適当に。


「……失恋」


 出てきた言葉は、アキが昨日言った言葉に似ているような気がして、ついつい失笑してしまう。けれども、今の私を表す言葉は、これ以上無いように感じられた。もちろん、満点ではないけれど。自販機に体重を預けながら、視線だけを少年に向ける。


「失恋、しちゃった」


 泣きそうになるのを笑いでごまかしながら。


 少年は私の答えを聞くと再び、顔をしかめる。そりゃそうだ。いきなり、失恋だなんて言われても、なんと言えば良いか、私にだって分からない。ふと、少年への嫌がらせにはちょうど良いだろうと思った。なので、彼が何かを言うまで黙っていようとしたが、しかし口が勝手に動く。


「なら、君は何をしているんだい、少年」


 完全に無意識のうち。


 ああ、私にとっても彼との関係はこんなにも当たり前になっていたのか。失ったものへの大きさに涙が再びあふれ出そうになるがなんとか抑える。


 少年は、びくりと肩をふるわせる。


「え、僕ですか。僕は、散歩していただけですよ」


 知ってる。そんなの何百回って聞いてきた。


「へえ、散歩ね。随分年寄り臭いことしてるのね」


 嫌みだ。受け取れ。しかし、少年は苦笑いをする。頭を掻きながら、


「確かにその通りですね。でも、僕は好きなんですよ。散歩が」


 何でも無いように流された。これじゃ、私がガキみたいじゃないか。いらだちが募る。


「ふーん。あっそ」


 本当は、罵倒の十や二十浴びせてやりたかったが、なんとか自重する。代わりに、


「なら、いろいろなところを歩き回ってるのかい」


 少年は即答する。


「いえ、ここだけです」


「へえー」


 意外だった。私はずっといろいろな道を歩いているだろうと思っていた。だって、同じ道ばかりでは飽きるじゃないか。ふと、どうしても聞きたいことができた。


「じゃあ、少年にとって散歩ってどんなもの」


「どんなもの……ですか」


 少年は考え込む。そして、しばらくしてから口を開く。その声音は、表情は、晴れ晴れとしていた。


「僕にとって、散歩は食事や睡眠と同じくらい無くてはならないものです。やらなければ一日が始まらないし、だから、例え大雨だろうときっとやめません」


 こんなに力強く返されるとは。


「あはは、なによそれ」


 適当に笑ってやったが、胸が張り裂けそうだった。それは、どこかあれに似ているように思えた。……そう、


「まるで告白じゃないか」


 もし彼が私のことを覚えてくれていたならどれだけ幸せだっただろう。しかし、あり得ない。だって、彼にとって私は、今日初めて出会ったその他でしかないから。


「え、そうですか」


 少年は、私のセリフの意味がよく分からなかったようだ。


 しかし、構ってなどいられない。私の中で悲しみがあふれ出したからだ。


 私がどんなに言葉を尽くしても彼は散歩をやめない。それに、毎日、ただ私の前を通り過ぎているだけのアキを見ているなんて、きっと耐えられない。


 なんてことだろう。なら、私はここにいられない。いくつもの思い出のあるこの場すら捨てなくてはならない。


 仕方の無い……仕方の無いことなんだ。今度は私から距離を置こう。大丈夫。私は決して忘れたりしないから。


 でも、それでも最後に、一つだけ教えてほしい。


「それに今のじゃ散歩をする理由になっても、ここを歩く理由になってないよ」


 彼はなぜ、ここまで言いのけるのだろう。どうか、教えて。最後に。


「確かにそうですね」


 少年はあちこち見回しながら黙考する。しばらく待っていると隣の自販機を指さしながら、口を開く。


「あの自販機の飲み物を、全種類飲んで、みたかった、から……です」


 少年は苦笑いを浮かべる。それはあまりに馬鹿馬鹿しい、くだらない理由だった。きっと誰もがあきれるに違いない。でも、


「くく、あはははは」


 私は笑った。豪快に。


 この瞬間、溢れ出た感情の波は、今まで感じてきた全ての思いになお勝る。 


 一言、たった一言だが、私にとってかけがえのない、価値あるものだった。それはまるで、人類が初めて灯した炎のように。 


 そうか。そういうことだったのか。彼の言葉は何かしら理由がなければ納得できないほど力強いものだった。しかし、私は知っている。アキが一度も自販機で飲み物を購入したことがないことに。なら、彼の言葉は理由足り得ない。だったら理由は存在しないのか。いや、それこそあり得ない。それに、アキはいつも自販機の前で考え込んでいた。もし全て飲もうとするならばそんなことをするはずがないのに。


 だったら、少年がここに来る目的は? 


 それはきっと、きっと……


「何よ、その理由。本当に最高だよ。そんなことがあるなんて。あはははは」


 アキは、会いに来てくれていたんだ。例え記憶が無くとも。


 笑いが止まらない。


 今まで私の全ては無意味だって思っていた。誰の記憶にも残らない。何を言おうとも何を成そうとも消えてしまう。


 まるでそよ風が風車を回せないように。


 でも違った。たとえ風車を回すことができなくとも、地面に小さな小さな傷をつけることはできる。そして、それはいつの日にか、世界の形を大きく変えるんだ。


 心の中が晴れていく。


 ああ、私生きてて良いんだ。アキと一緒にいて、良いんだ。


「はは、ふう。少年のおかげで今までの悩みがどうでも良くなったよ」


「なら良かったです。なら僕はこれでか」


 アキはすごく帰りたそうにしていたが、私はまだまだ物足りない。だから、帰さない。私は、ベンチの空いているところを指さす。 


「座れよ。もう少し話そうじゃないか。」


 


 そして、私たちはいつも通り、くだらないことを話し合った。幸せな時間だった。まあ、アキが話題を振れなくなったときは、意趣返しも込めて失恋相手について説明してやったが。もちろん、どれもこれも嘘ばかりで。


 時間はあっという間に過ぎてゆく。気づいたときには太陽が頂上まで登っていた。


 ふと、少年に落ち着きがなくなっていた。そっか、もうそんな時間か。


「もう昼か。おなかもすいたし、解散にするか」


「……はい」


 アキは立ち上がる。


「今日はありがとうございました。楽しかったです」


 そして、私から遠ざかろうとする。そこでふと、新たな疑問が生じた。


「なあ、少年」


「はい、何ですか」


 それは、決して聞くことはないだろうと思っていた問い。


「少年は、いつから散歩を続けているんだい」


 アキは、わずかな時間、視線を宙に漂わせた。しかし、意外にもすぐに答えてくれた。


「ええと……。多分三年前からです。三年前の夏休み初日から」


 その答えに私はもしかしたらと思っていたし、やっぱりとも思った。三年前の夏休み初日、それはきっと私とアキが初めて会った日。


「そうなのね」


 もう十分。もう私は大丈夫だ。


「さようなら」


 私は言う。


「さようなら」


 少年は言う。


 いつもならこれでお別れだ。が、私は目をつぶり、アキが言った言葉を咀嚼する。


 私と会ったから彼は散歩を続けている。


 なら、言えるだろうか。今までずっと言えなかった言葉を。


 ……大丈夫、何も疑う必要は無い。私はただ、待っていれば良いのだ。


「またね」


 それは、再開を願う祈りの言葉。


 私は今、どんな顔を浮かべているだろう。


 アキは、太陽の様にまぶしい笑顔を浮かべている。


「はい!」


 


 八月三日朝


 今日もアキは来てくれた。


「あなたは誰ですか」


 話しかけて、彼が第一に発した言葉はいつもと何一つ変わらなかった。やはり奇跡は起こらない。


「私は御手洗ハルよ」


 でも、構わない。記憶には残らずともアキにとって私という存在は大切なものだと確信したから。


 だから私は、自信を持っていつもどおり質問する。


「少年は何をしているのかい」


 アキは、おどおどしながらも答える。


「僕は、散歩をしているだけです」


 答えは分かりきっていた。でも、その一言は掛け替えのない大切なものだ。


「ならあなたは何をしているんですか」


 初対面の人が苦手なアキだが、すらすらと言葉が出ている。その一言が私という存在を証明してくれる。


 私も答える。


「人を待っているんだ。決して会いに来てくれない人をね」


 確かに求めてはくれない。けれども、ここには来てくれる。


 ふと少年が、複雑な表情を浮かべていることに気がついた。ははっ、どうせくだらないことでも考えているのだろう。


 くしゃみでもしそうなアキの顔に笑い出しそうになるのを堪えながら、私は立ち上がる。そして、今度こそ一歩を踏み出す。


「付き合え、少年」


 私が歩む、その果てまで。私はもう諦めない。


 


  風は時に、嵐へと至り……。

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