「そして世界から金魚が消えた。」 古住楠雄
壁の中でテレビがニュスを流している。秋だ。秋が過ぎればすぐに年末だ。するともう年が明ける。今年も何も成し遂げられなかったか。来年の干支は何だ。……今年もなんだったっけ。ついにそんなことへの興味も失ったのか。自分にはどうでもいいことだったんだろう。時間の無駄だ。
ともかくコヒメカからコヒを取り出す。
口元へ掲げたカップの上で一度大きく息を吸って吐くと肺いっぱいにコヒの風味が詰め込まれる。この空気が消えて無くならないうちに胃に流し込む。
噴き出す。
薄茶色になったダイニングの床とクック・マシンの上をペパで拭いていると、ユーミから通知が来た。作業を続けながらカチリと耳たぶを押してモニタを出現させる。
「要件は」
「せっかち」
「それだけか」
「そう」
「切るぞ」
「そんな熱いの飲もうとするから」
「なんでわかッた」
「昨日生体管理デバイスを入れたでしょ四十歳になったから」
「……あ、そうだった」
「粘膜は軽視されがちだけど重要だから」
「粘膜もグルプ・エゴにできればよかッたんだがな」
「三年前にHaP社がやったでしょ、忘れた? どうなったかも」
「管理担当者が味噌汁を零したことで保管されていた二六三人の粘膜が損傷HaP社は本プロジェクトの一切の撤退を表明」
茶色く染まったペパをホルに落として焼却する。
「慌てたからね」
「そいつが飲んでいたのが味噌汁だッたからだ」
「判断を急いだから」
「俺は慌てていないし味噌汁は飲んでいない」
「聞いてないしコーヒーでも同じだから」
「仕事だ切るぞ」
「わかたー」
カチ、カチッ。
「変な喋り方をするな」
「そんなことでわざわざ掛け直さなくていいから」
家を出て車に乗り込み職場であるコズモ・タミナルに向かう。今日もある惑星から来客がある。ジャンクションを緩やかに曲がってタミナルのステションに侵入する。車を降りる。客は既にコズモホルで待っていた。
「お待たせ致しまして大変申し訳ありません。遅刻は絶対に起こらないようにしているのですが」
「あーー、君は遅刻なんか、していないよ。仮に君があとーーー……五時間早く来たとしても、私は二十分早くここに居たよ」
彼はつるつる厚くなだらかな顎をひらひらした指で触りながらぎょろぎょろと天井や床を見て言う。彼は時折喋る途中で眼球を動かしたり息を吸うように口をぱくぱくさせたりして言い淀む。
自分の左手を見ると親指の付け根で黄色い光が小さくちかちかしている。
「あー、君、震えてるけど大丈夫かな。ひどい汗だね。そんなにー、緊張しなくていいよ。本当に。私は変な見た目かもしれないけど、ほらーー、よく言われるし、気にしてないけど、君を食べたりしないし、慣れてもらえればーー」
「いや大丈夫です」
点滅していたランプが消える。
「改めてご挨拶を。トです」
「えーーと、君が地球代表の外交官だったね。約束通り一人で来てくれて本当に嬉しいよトェス」
彼は喋りながらコズモホル内に設置された卵形の椅子のひとつに腰を掛ける。こちらも向かいのそれに座り向き合う。二人の間を埋めるように奥に彼が乗ってきた宇宙船の出入口が見える。
「ト、です」
「あーーーーーーーーー。これはご無礼を。そういう言葉だと勘違いして。サー、みたいな。卓球のさー。ちょれい」
「そちらお伺いしても?」
「あーーーー……そう。そうだった」
彼は何か喋ろうと口を開いて一本の指を立ててから数秒押し黙ったのちに話し始めた。
「事前にデータを送ったはずだけど、こういうのもう一回言うんだよね。順層太陽系第三亞空帯に属する、惑星グロリオサの、地球大使です。私は、グロリオサでは最も人口が多いとされる、グロリアという種の出身で、名前はマルコ。よろしく、ト君」
「恐縮ですが」
「あ……普通に喋ってくれて構わないよ。そうしないと地球に殲滅隊を送り込むよ」
「宣戦布告か」
「た……ただのジョークだよ。……怖いことを言わないでよ」
「何故一人だけで来るよう要求した」
「私が一人で来るつもりだったから! 何人も来ると、ひとつのことを伝えるのに何人も間に挟むことになってしまうだろ? もし私が君たちに、ポカリが欲しいーって要求したら、要求を聞く人が居て、要求を聞いた人から要求を伝えられる人が居て、伝えられた人がポカリをくれるかどうか決めて、それから、えーーーーーーっと」
「時間の無駄だ」
「そう! その通りだ。私は、私が、ポカリが欲しい、って言った人に、よかったら買ってきてほしくて、だめなら断ってほしかったんだ。そう思わないかなぁ、ト君そう思わない⁉」
「一個人に重大決定を委ねるのは時としてハイリスクながら完全に同意する」
「そう、わかってくれてうれしいな。……お土産があるんだよ、この星にさ。これ、受け取ってもらえる?」
マルコが宇宙船の方へ招くように指を動かすと開いたままの出入口から濃い黄橙色の風船のようなものがこちらへぷかぷか浮いてやってくるのが見えた。近づくにつれて形がはっきりしてそれがマルコに似た頭部をもつ《魚》のようなものだと気付いた。
「それはなんだ」
実際トはその物体を見て「何だろう」と思うより先にそう言った。
「これ、金魚」
「地球にあるものとは違う金魚か」
「え……金魚は、大昔のグロリオサに、地球人が持ち込んだものだって聞いたのにな。あれ、違ったかなー……あ、大昔、グロリオサと地球が交流していた時期があって。今日みたいにさ。太古のグロリアはちょうーど君みたいな顔をしてたらしいよ。それで地球の大使が金魚を贈ってくれたんだ。それが星の環境に合ったのか、成長して知恵を持った金魚が、旧グロリア人を駆逐していったというわけ。長い時期地球と交流が途絶えていたのはそういうこと。人口移行に伴って、食糧供給ソースが変わったり天変地異が起きたり、忙しくってだよ。君も知っての通り、グロリオサって水の惑星って言われてるよね、以前は家畜や穀物を食べていたのが、虫やプランクトンでも代用できるようになって、そのせいで在来の生物の数は危惧されてるけどーー……」
「……なんか、ずっとピンと来てなさそうな顔してるね。私、なにか難しい話してたかな……」
「地球ではグロリア人が生まれるより前に穀物も家畜も廃止された」
「え、あれ? 本当? じゃ何を食べて生きてるんだ?」
「多くの人間は企業に内臓を預けて半自動的に給餌されるか食料を必要としない体に置き換えるか代替食品を」
「え、え、そんなの……そういえば、地球も昔、水の惑星って呼ばれていたらしいよね。私、個人的には、グロリオサはそれを真似て自称してるんだと思ってるけど。でもここに来るとき……知ってはいたんだけど、今の地球は本当に鉄の外殻で覆われているんだねー……来るとき、宇宙船の窓から見て実感したよー。あれが人工の空だよね。今はさしずめ、鉄の惑星って感じだね。なら金魚はぴったりだ」
何も考えていそうにない顔をした金魚がマルコの隣で上下にぼっくり揺れている。まるで兄弟だ。それも知恵遅れの弟をもった。
「在来種が危惧されていると言ったけど、金魚もそうでね、将来的に絶滅する可能性があるとされてるんだ……今は大丈夫だけど。この金魚は私たちの祖先……を、飼育用に品種改良したものだ。これを、地球への親愛と、祖先たちの帰還の印に。贈呈するよー」
「受け取ろう」
「ありがとう!」
金魚がトの方に来る。無表情だが犬並みの知性はあるらしい。マルコがその金魚の尾を捕まえて腹側の穴へコドを差し込む。まんまるに膨れた金魚の腹がなおさらそれを風船のように見せる。
「餌は金属」
「餌を食うのか」
「え……生きてるんだから当然だよ。金魚に限らず、動物は餌を必要とするだろ。地球の金魚は餌を食べないの……?」
「金魚は生きていない」
「……。じゃあ、これは生きてる金魚だよ。えー、何日も餌無しでも少しは生きていけるけど、できれば一日一回は必ず餌を与えてくれると嬉しいな。……気に入らなかったら、捨てても構わないけど」
「わかッた。今日はもうコンパニョンルムに戻れ」
「ええと……それも聞いてたけど、コンパニオンルームなんて、変わった部屋があるんだよね。それで、今日から私はコンパニオンルームに引きこもって、地球とグロリオサとの間に関わる仕事をする。で、合ってるよね」
「ああ」
「あー……ありがとう! ポカリはくれるかな」
「固形で良ければそこの自販機で買え」
「え、ああ……。わかった……ありがとう」
車の中で金魚がぶかぶか浮かんで車内の天井にぼんぼん当たっている音が気になる。家に着いて金魚のコドを取り家に入ろうとほんの少し歩く途中で野良犬が家のドアの前に鎮座しているのを見た。しかもこの個体はかなり気性荒く設定されているようで蛇腹剣のように尾を振ってこちらへ唸っている。もしもこの足に噛みつけばきっと肉を抉られることになる。不躾な人間が警備用に飼っていたそいつを逃がしたのか管理局が提供した野良に不良品があったのか窺い知れないが。左手の親指の付け根で埋め込まれたランプが血管を透かして黄色に光っている。どうするべきか迷って立ちすくむ未来に耐えられずその邪魔者の横をすり抜けてやろうと突き進んで、案の定……飛びかかってきた野良犬に押し倒され鉄の歯で頬の一部を食いちぎられた。食い込んだ歯の冷えた感触。黄色かった光が赤くなって激しく点滅する。犬は嫌いだ。
流血の攻防の末なんとか野良犬を地面に叩きつけて起き上がった。ガシャンと音を立てて野良犬の細かいパツが散らばる。すぐに体勢を立て直そうとする野良犬へ金魚が近づいてきていたことに気が付いて少しハッとした。しかし野良犬もまたインプットされていないアイテムが現れたことで即座に処理できなかったようだった。その場に止まって対象を検索している野良犬へどんどんと近づいて金魚はとうとうクロム鋼の頭蓋をボクリと食ってしまったのだ。
唖然としている間にも金魚は制御を失った野良犬の骨をもいもい食べていく。そうしてすべて口の中に収めてしまった金魚はご飯をくれてありがとうとでも言うようにこちらへ帰ってきたのだ。
ベッドに横たわって医療用ロボットから手術を受けた。頬の傷は口腔に達さなかったものの深さ数ミリと相当な大けがだったといえよう。医療技術の発展は凄まじい。ラメラ構造で創部を埋められたのちに貼り付けられた絆創膏はわずか七日間のうちに一切の傷跡を残すことなく外せるだろうとのことであった。この件はロボットから管理局へ自動で報告されそれに対する管理局の返答は当該個体のシリアルナンバを特定して機能を停止させるという旨であった。もう既にまったく無駄なことなのだが。
ユーミから通知が来た。目を閉じたままカチリと耳たぶを押してモニタを出現させる。
「導入初日からすごい警告件数だよ」
「通知全部受け取るからだろ」
「気になるじゃない何があったの」
「……ただ走ッただけだ」
「そんな軽微な刺激で反応するなら不良品だね。クレーム入れて交換してもらわなきゃ。でさっきのやばい通知、何?」
「こんなもの何の意味があるんだ? 自分の身に危険が迫っている場面なんて機械に頼らなくても自分で分かるだろ」
「導入前からずっとそれ言ってるじゃん……デバイスの反応を確認すると医療機関にも連絡が行きやすいよ。気絶している患者と寝てるだけの患者、窒息してるかどうかとか、一目で分かるよね」
「起こせ」
「もうそういうわけにもいかないよカンちゃん……」
「……今日、初めて動物を見たよ」
「毎日見てるじゃん。この辺なんて野良猫も野良犬もいっぱいいるんだからさ。昔金魚飼ってたこともあるし、忘れた?」
「忘れてくれ。寝る」
「今日、変だね。おやすに」
カチ、カチッ。
「変な喋り方をするな」
「そんなことでわざわざ掛け直さなくていいから」
朝目覚めるとベッドのそばに縛っておいた金魚の下の地面にいくつかの丸いものが落ちていた。顔を近づけてよく見てみると薄い膜の中で一ツ目の付いた足首がうごめいているようだった。
「それは君ー、災難だったね。早く治るといいな! それにしてもあの金魚、もう卵を産んだんだね。早かったなぁー。金魚は金属の摂取で産卵が促進されるんだ。君の話を聞くに、その……Dob-6602って個体だっけ。だいたい私の星で言うドーーーーベルマンくらいの大きさかな。約二〇キログラム。餌五日分か……金魚一匹に与えるには過剰量だと思うけど……まあ、その分産卵したからオッケーだね! 今度は気をつけてね!」
「金属を食うと言ッたな。人体には鉄もカルシウムもある。影響は?」
「あ、心配しないで! 金魚はアンモニアに弱いんだ。タンパク質を摂食すると、分解過程で体内の鉄と結びついて水酸化鉄を生成するんだよ。彼らには毒なんだ。ヒトの体は二〇パーセントがタンパク質でできているよね。ちょうど空気中の酸素みたいなものだ! だから金魚は動物を食べないよ。全身鉄人とかでもなければね。そんなチマチマしたものを食うぐらいだったら、まだこういうネジを食べに来ると思うな……」
マルコは無機質な机に座って手の中の切頂六面体のどこに小さなネジを嵌め込むか悩みながら言った。
「ねえ、ト君。君ってコンパニオンにしては随分無愛想だねえ」
「指名したのはそッちだ」
「そりゃそうだよ! 私はそれが悪いなんて言わないけど。でも一応外交官なんだろ。あ、そうそう。仕事中にコンパニオンが指名できるって、君の上司かな? 彼に言われたから、じゃあト君がいい! って言ったら、特定の人物を指名する場合はオーガナイズ・コードで言えってさ! なにそれ! 会って一日しか経ってない人の個人情報なんて知らないよ! じゃあ昨日来た外交官の彼をお願い、って言って来てもらったけどさ。それで君のおーがなんとかコードって何なの?」
「と-40255-K1」
「なんだよ、じゃあ結局ト君でいいじゃん! 頭固いなぁ。うんうん、覚えたよ! もう使わないけど! ね、ね、ト君。ト君はなんでト君なの?」
「ト君……ええっとね。つまり、どうしてトって名前なの? って……そんな分かんなそうな顔しなくても」
「短いから」
「え、え? その名前ってト君が決めたんじゃないよね?」
「俺が決めた」
「あっ……そう。それっていつ?」
「三年前」
「三年前まで名前がなかったの?」
「その時には別の名があッた」
「なんて名前?」
「教える理由はない」
「そんな。まあ、無理にとは言わないけどさ。つまり、任意で名前を変えることができるってことだよね。そんなの、分かんなくなっちゃわないの? 昨日はマルコって名前で、今日はキャリコって名前でもいいわけだよ。よくないよ! 私、他人の顔ってあんまり覚えられないからさ。さすがに何日も見れば覚えるけど!」
「多くの人間は出生時頬の内側に必ず埋め込まれるマイクロチップに内蔵されたオガニズコドで他者を判別している。ほとんどの場合名前は飾りだ。外交官は他文化の生命体を相手にするため便宜上の名前を持つことが必須とされている」
「親近感を持たせるため? 君に親近感が湧くとは到底思えないよ! 私以外はね!」
「な……へっ、クショイ!」
「あ! たった今親近感が湧いて出てきた! 今まで君がくれた言葉の中で一番親近感があるぞ。地球はあんまり機械でいっぱいだから、君も機械なんじゃないかと疑ってきていたところだったんだ。それに、ヒトのクシャミを生で見るのは初めて! 思ったよりかわいいね」
「この部屋はあまりに寒い」
「あーーーーー。そうだ。ごめんね。ほら、私っていわゆる、なんだっけ、低体温症? だからさ。室温は低めじゃないとね。死んじゃうんだよ、ヒトより簡単に。ぽっくり、ね! ごめんごめん、我慢してたんだねえ! 変な顔するなーって思ってたんだよー。君が変な顔ってことじゃないよ! いや変かも。君のために二度ほど、室温を上げよう。でも、これに懲りたら着込んできた方がいいね!」
ピピ、ピ。
「……もっかいやって」
「ふざけるな」
「かなしくなっちゃった」
「失礼。そこのペパを貰えるか」
「なに? 唐突に辛味を感じたくなったの……あ!」
マルコは卓上のそれを一枚取って渡す。
「君ティッシュペーパーのことをペパって呼んでるのかい⁉ 普通ペーパーの方を略さない⁉ なんでティッシュの方なの! じゃあ何! 携帯電話は携帯って呼ぶのかい! それは呼ぶな。『電話』か! じゃあトイレは⁉ トイレットペーパーは⁉」
「なんだそれは」
「無いのかい⁉ どうりでゴミ箱にさせられると思ったよね!」
「言っておくがトイレはある」
「じゃあなんで私あんなことさせられたの!」
「誰か悪いやつに騙されたんだろう」
「信じらんないよ! ねえ! 思ってたんだけど、言わないようにしてたけど、っていうかそれがこの星の普通なんだと思って! 君ってすごーーーーーく変な喋り方だよね! やたら早口だしカタカナの言い方ヘタクソだし、今朝君の上司と喋って思ったよ! むしろ君の上司のが外交向きだよ! 君って……! ……なんでなの⁉」
「そ」
手の中のティッシュ越しに危険信号が黄色く光っている。
「…………。……申し訳ない。私も感情的に喋ってしまったと思う。許してほしい。でも、気になるな。訊いちゃ駄目だったかな」
震える。寒い。寒いはずなのに汗が止まらない。手や下顎ばかりが震える。止まらない。息のリズムを。リズムを……。
「ト君。ト君、大丈夫。じゃないよね。ちょっと失礼するよ。許してね。君を助けたくて、救命行動の一種だと思って」
マルコが席を立って歩いてきたかと思うとトの肩を屈強な腕で抱きしめた。パニックも忘れそうなほど強い。ひらひらした指が首筋に当たる。反射的に肩をすくめる。マルコの湿った肌が目前にある。しょっぱい。
「熱っ、舐めないで」
「三年前」「君が名前を変えた頃かい」「丁度前日」「名前を変えるきっかけ?」「く、か、おく」「大丈夫、落ち着いて。少しずつでいいから」「お、俺は会談に。あ、あ」「に、何? その先を言うのが怖い?」「……」「大丈夫。怖くないよ。言ってごらん、平気だ」「お……く、れた!」「重要な会談に、遅刻したということ?」「あ、あ、あ」「ごめん。この言葉、怖い?」「こわ……」「ごめんね」「た、た、たッッッた二分、ただ少し起き、起きられなかッッた」「叱られた?」「……」「違うのか。クビにもされなかったんだろ?」「誰も、何も」「それじゃ、どうしてそんなになってしまったんだい」「台無しだ……」「そんなことない」「なぜ言い切る!」「私がそう決めた」
だらりと下げた腕の先でランプが青く光った。
「俺には妻がいる。ユミという名前だッた。俺が言葉をケチッた末極端に短い名前に改名してからすぐユミもユーミに改名した」
「なぜ?」
「俺が伸ばし棒を忘れないため。ユーミはそう言ッた」
「いいかい、ト君。君は少なくとも私の前では、なんとか普通に喋るんだ。三年もそれを続けてきた君には慣れないことかもしれないが」
トは、自分の体の形の火傷を負ったマルコに、角砂糖を一個、口に押し込まれて帰らされた。
マルコに会ってから、一週間が経った。家に帰ると、金魚の卵も孵っていて、ざっと六匹の金魚が漂いながら部屋を食い荒らしていた。
「うわ、わ、わ! やめろ!」
まだ孵ってから時間が経っていなかったらしい。ベッドの縁や諸々のロボットは多少食べられて、金魚共が吐き出した酸にまみれてはいるものの、まだ形を保っている。それより、ダイニングの辺りに近づく個体があった。トは青ざめて走り、そいつを払いのける。間一髪のところでコーヒーメーカーはひとつの酸の焦げもなく救出された。
「畜生! 出て行け! 二度と戻るな!」
そういうわけで、トは金魚を一匹残らず追い出してしまった。尾を振りながら夜の闇の中に遠ざかる金魚の背を見送って、固くドアを閉める。コーヒーメーカーのプラグを引き抜くと、奴らが帰ってこないことを祈りながら、それを抱きしめて縮こまり、眠った。
朝。テレビをつける。コーヒーを飲もうとして、コーヒーメーカーがいつもの場所から消えているのに焦燥するが、自分が寝ぼけて抱きかかえたままだったことに気が付き、頭を掻く。
コーヒーが出来るのを待っていると、テレビの中に見覚えのあるものが映ったのに気が付いた。あれは金魚だ……どこかの人間が偶然それを見つけて、太古の動物の生き残りだとか、世紀の発見だとか褒められている。どうしても羨ましいという気になれなかった。見つかった金魚は三匹。奴らは企業に目をつけられ、次世代コンパニオンアニマルとして繁殖のために引き取られることが決まった。伝説上の生物である「金魚」に酷似したこの動物の発見者には多額の褒賞金……まるで興味が無い。
コーヒーを取る。この数日でコーヒーの飲み方を思い出して、ようやく口の中を火傷せずに済むようになった。カップを口元に掲げる。熱気を感じる。大きく息を吸って……吐く。もう一度。吐く息でわずかに熱を冷ます。……口に含む。
ユーミから通知が来た。空いた手でカチリと耳たぶを押してモニタを出現させる。
「……要件は」
「見た? 見た? 今のニュース、見てる⁉ すごいよね!」
「見てない」
「すごいよ! 人間の他に動物がいたんだよ。もしかしてこの間言ってた動物ってあれのこと?」
「忘れろと言ッたはずだ。……あれは勘違いだった」
「ぅ。そっか。最近変だよ?」
「何が。俺が?」
「変だよ」
「……」
「……喋り方は今の方が好きかな! カンちゃんだった時にすごく近いね」
カチッ。
好き、という言葉を聞いて、トは独り頬を緩めていたが、そのうちとある非情な事実に気付いて、コーヒーの水面を見つめ口を結び、少し泣きそうになった。
「君、奥さんの話をしている時、すごくうれしそうだねえ」
トは内心急所を突かれたような気持ちになったが、マルコを睨みつけることで事なきを得た。
「ごめんごめん、申し訳ない。謝る。ほら謝った。いや、君たちの話を聞いているとまるで昔の漫画に書かれてた未来の話みたいだって思ってさ。ときどき、カルチャーショックとは違う意味で、怖くなるよ。もしかして、こことグロリオサは遠く離れているせいで時間の進み方が違っていて……グロリオサではもう、何千億年も経っていて、家族や祖国や、私の大事なものはすべて滅んでしまっているんじゃないかってね……そう、まさかまさかって思うけど、君たちまだ有性生殖はしてるよね……奥さんがいらっしゃるくらいだもん、さすがにね……」
「いいや」
「そ、それは君の思想に関連して? ねえ、もし私が想像するより怖いことを言われたら、私はここで自分の目玉をくり抜くとこを試みるよ!」
トは心なしか気まずそうに言い淀んでから言った。
「今から約二億年ほど前には人類は有性生殖を行っていたと言われるが、フェーゼント技法の発達によって、今や世界のほぼ百パーセントが生物学的な性を持たない。ジェンダーという概念はある」
「子孫を残さないつもりなの!」
「違う、違う。人間の右脚には腺があって、この部分で遺伝子物質がつくられる。かつてはわざわざ埋め込まれていたが、生体に馴染む素材で出来ていたおかげで、今や人類は生来これを持って生まれる。遺伝子が雄や雌の概念に囚われるのは古い考えどころの話じゃないということだ。遺伝子は培養ポッド内で合成され、誕生した子供は十二歳までポッド内の養液で育ち、脳に送られる信号を経て教育を受ける。それからは晴れて家族と暮らす……」
「……すごく不自然だ! もしポッドがなかったら?」
「有り得ない。そんなことを考える必要があるのか?」
「まるでカイコだな……人間を機械に置き換えた、さ! それに、十二歳の子供っていうのは、一番かわいい時期だと思うんだけど。本で読んだよ。君たちの生態上のことに物を言うのもおかしいけど、なんかもったいないな」
「そうか? 十二歳になったばかりの子供は言語すら発達していない。立つことも難しい。その上、養液は重要だ」
「その成育過程に問題があると思うんだ。学ぶばかりで実践を……ええと。ト君さ、失礼だけどー……今、何歳だったっけ?」
「先月で四十になった」
「へえ! そのわりにはものすごく若いな。きっと日頃の努力を怠らないんだね」
「知人からは年の割に老けていると言われる」
「じゃ、みんな見る目がないね! グロリアの寿命は長くて十五年。私は十歳だからな。お迎えもそろそろだなって思ってるんだ。四十年も生きれていいね、って今言おうとしたけどさ。長生きっていいことなのかなあ。寿命は何年?」
「……二百年前後」
マルコは作業の手を止めて、片目を押さえた。
「き、き、君は、君たちは、せっかちなくせに、どうして、なんて矛盾なんだよ。なぜ? 時間がますます早まっているようだ! 私は十五年をゆっくり過ごすことだけを考えて生きてきた。これじゃまるで、君たち自身が家畜みたいじゃないか。それも、品種改良された……私……こんな」
「落ち着け。時間を求めすぎた結果だ。矛盾はしていない。目をえぐるな」
「こ、これ以上何が欲しい。何を。ああーーーーー……分かった。分かったよ。降参だ。……安心してくれ、目玉はくり抜かない。でも……。私たちの星は、地球から来た物で溢れてる。私を含めてみんな地球のことが好きだ。本や芸術や文化がいっぱいさ。地球のパクリってくらいにね! ……寂しいな。幼稚園の時に良くしてくれた先生が薬物濫用で捕まったのを知った時くらい、かなしくなっちゃったね。私は先生をとてもリスペクトしていたのに……」
「なんだかすまない。でも俺には何をそんなに悲しんでいるのか」
「うーん……そうだよね。まあね。でも私の想像が、完全に現実に起こったんだってわかると、きついものがあるね。奥さんを大事にしなよ。そしたら、いつか会わせてよ! 明日でもいいよ!」
マルコは手に持っていた切頂六面体を、半ば投げ捨てるように机の上に置いた。
「さっきの話だけど……それで君って大きな中学生みたいな見た目なんだね! ええと、もしかして学習はそのポッド内ですべて済ませるのかな」
「物分かりがいいな」
「あは! これで私も地球人マスターだな! じゃあ、長寿の秘訣はその養液?」
「それもあるが、成長後に任意の……ほとんど強制されたようなものだが、改造手術で更なる延命を図る。これもその一部だ。主な機能は身体的・精神的な管理だが、こいつを導入すると約十年は寿命が延びるとされている。俺は好きじゃないが」
マルコに左手を見せる。薄い皮膚越しに、光が血液の赤さを反映しながら点灯している。
「へえ、ずっと光ってると寝にくそう。このランプ? ってなんの意味があるの?」
「体調によって色が変わる」
「へえー。橙色って良い意味?」
「え……」
驚いて手の中を見る。確かに、オレンジの光が点灯している。これは継続的に体調が悪いことを示していた。
「君、今日は少し変な声だと思ったよ」
「……寒い」
「こんなに着込んでいるのにな。……設定温度も気休め程度だったか。悪いね、これ以上は私にも危険が及ぶ気温だよ。君、なぜ休まなかったんだ。君の上司はかなり休んでいるようだったよ! ここに来てまだ三回しか会っていない。二十四度も部屋を訪ねたのになぁ。いい傾向だ。私も明日からガンガン休むしね。まあずっと休んでるようなものだったけど。君も休めなかったわけじゃないだろ」
「……」
「休みたくなかった?」
「……仕事を休むことは考えていなかった」
「君のせっかちはよくなったけど、そもそもを考えれば、君の意識から変える必要がありそうだな。個人の問題だね。出勤停止を命じます! 出停!」
「そんな!」
「んーん。ガイジンに未知のウイルスを感染させていいわけ? あ、そう言えばウイルスはまだいるんだね! 進化だなあ」
「…………」
「大丈夫大丈夫! その席には他の適当な人を置いとくからさ! でも絶対戻ってきてよね! 待ってるよ!」
からがら、車を運転する。路上で金魚を見ない日がなくなった。腹からコードを吊り下げた金魚が、ありとあらゆる人々に連れられて宙に浮かんでいる。彼らは企業の思惑以上に、快調に数を増やしているようだ。金魚に性はあるのだろうか……?
医療用ロボットのかなり重要な部分が酸によって完全に腐食していることに今更気付いて絶望してから、早三日が経つ。今まで仕事や何やらで少したりとも気にしなかったが、独りで、しかも体調を崩しているというのは、本当に寂しい。早退して休むことをユーミに伝えたら、忙しいのですぐには見舞いに来られないとのことだった。普段から人を排斥して生きていたので、他の親しい人間はおろか、仕事関係を除いた誰の連絡先もわからない。腕の内側に文字が流れてきたので、誰かからメールでも来たのかと思って見てみると、それが企業からの一斉送信広告で、これがますます寂しさを煽る。あまりに寂しい。あまりの寂しさで、出停二日目にはベッドの中で涙が止まらなくて、一日中泣いていたほどだった。本当に……。
「カンちゃん!」
部屋の外から声がする。ユーミだ! 慌ててブランケットで目を拭う。声を出すために喉を鳴らす。
「入れ」
「おっけ~」
ユーミが顔を出す。また背が伸びている。もうすぐ天井に頭がつきそうなほど。正直、改造しすぎだ。黒地に時折青い房がちらつくミディアムロングが、狭い肩の上で揺れている。透き通った肌は既に温感を失っている。彼女は両手で盆を持って笑う。
「会えてそんなに嬉しかった?」
「なんでだ?」
ユーミの体の前面が組成を変えて、彼女の前方を反射する。丁度鏡のようになった彼女の体に映し出されたのは、煮溶けた、締まりのない笑顔を浮かべる自分の姿だった。喉にクサビを刺し込まれるような気持ちになって言葉に詰まる。
「ご飯作ってきたよ」
「有り難い! 仕方なく食っていたが代替食品は大嫌いだ。形は違うが、どれもこれも茶色くて……カーキっていうのかな……しかも変な匂いがする! こんなものは人間の食べるものじゃない! 板ッ切れみたいなコイツもそうだが、もっとひどいのは、この、一口サイズの大便みたいなヤツ! カリカリして、ざりざりして……ああ、食ってるとゾクゾクする! 最悪だ!」
「今流行りの完全食だよ。毎日作ってあげないと食べないんだから、本当に手が掛かるな。クック・マシン、せっかく買ったんだから使いなよ」
「お前が買わせたんだ。……使い方わからない」
「テレビと車と自動で動いてくれるやつしか使わないの、時代錯誤過ぎでしょ……生体改造も言わなきゃしてくれないし。僕を残して先に死ぬつもりなの?」
白飯。さつまいもの味噌汁。これに限る。(非常に類似した菌類を加工して作ったこれらも代替食品というべきなのだが、個体としての形をもった植物や動物が滅んだ地球では、代替「元」が既に存在していないため、これがオリジナルとされている。本来の米やさつまいもが何であるかを知っている者は皆無といって差し支えない)
「……そんなつもりじゃない。でも、これはあまり譲りたくない部分なんだ。分かってくれてると思ってたが」
「僕も分かってるつもりだったよ。でもずっといるから、不安になる。これじゃ一人で生きていけないじゃん……」
実際、こんな暮らしをあと百年以上続けると思うと、今すぐにでも死にたくなる……百二十歳で死ねれば万々歳だ。老い先は長すぎる。いずれ俺は死ぬ。
「あのコーヒーメーカー毎日使ってるよね。今淹れるね!」
白いカウンターの上のそれのボタンを押す。ユーミが誕生日にくれた。白いカウンターの上の白い体、コーヒーの下側で支える白い楕円の側面に文字が書かれている。コーヒーは嫌いだ。
トタニカンイチ、あれが俺の名前だった。
「お前は俺の名前を呼んでくれたことがないな」
「ずっと呼んでるじゃん」
「……。今の俺のことが好きじゃないのか」
「前の方がよかったよ。そういう意味だと最近の君は好きかな」
「それが分からない! お前、俺に変化を求めるくせに、俺の変化は受け入れない。俺 が 好 き じ ゃ な い の か !」
「大声を出さなくても聞こえるし、その質問に答えるなら好きだよ」
「矛盾していると思わないのか、自分で?」
「思わないかな。僕は変化を認めてないんじゃなくて、変なんなってほしくなかっただけだし、改造してほしいのは……まあ、別にカンちゃんにわかんなくてもいいかな。……言っておくけど、僕、カンちゃんの喋り方にケチつけたことないよね」
ユーミがかなしく笑う。
「でも今の君は好きじゃないかな。こんな話やめとこ、わからないね、どうせ。未来は勝手に進んでいくんだから。付いていかなきゃ。……やっぱだめだね! 僕、今から痛いとこ突くよ! 君って過去に縛られているんだ……っていうか、まじで今までの態度でそんなこと言えるじゃん! ばか! 僕ずっとさみしかったんだから! 電話してもこっち見てくんないし、ほんとのこと言ってくんないし、なにそれ!」
「俺、嘘をついたか⁉」
「忘れた⁉ ほっぺ怪我したとき! 急に取り乱したとき! 知らないと思った⁉」
「思ってた!」
「本当に説明書読まないなあ! どこに異常が出てるかも表示されるの! 聞けばいつか言ってくれると思ってた。……でも、それは……やっぱり、難しいよね」
目を伏せたユーミがこちらに歩いてくる。まだベッドの上に座るトの肩を抱き寄せて、ほとんど力任せともいえる勢いで締め上げた。
「試すようなことしてごめんね。僕は君が好きだよ」
「…………俺もだッ……」
ところでユーミは前述の通り、改造によってそろそろ天井に頭が付きそうなほど体の質量を増加させている。もう付いてる? 天井を二・五メートルとすると、彼女の身長は俺の一・七倍相当。トの肋骨から薪が燃えるような音がする。
「わかッたから離してくれ……」
「好きって言ってくれるまで離さない!」
「好き! 好き! 大好き!」
ユーミはようやくトを離して、トが口や鼻から赤い泡を吐いているのを見てから事の重大さに気が付いたような顔をした。
「熱かった……やっぱりまだ熱あるよ。早く風邪治さないと」
違う違う。違う。
「……あ」
ベッドの上でくたばっていると、ユーミが部屋の隅を見ている。トもなんとか首を持ち上げてそれを見る。赤い風船のようなもの……違う。黒や白を赤い体に散らしたそいつは、確かに金魚だがトの知っている金魚じゃない。それが部屋の中に、何匹といる。数えるのが嫌になるほどだ。
「どこから入ってきたんだ!」
トが叫ぶのも束の間、それが窓から侵入しているとすぐに判明した。窓の金具を食い破っている!
まだ理解の追いつかないトをよそに、金魚がユーミに襲いかかる。奴らと来たら何も考えていなそうな目をしながら、焦点の合わない野犬のような荒々しさだ。恐るべきことに、金魚の一匹はユーミの肩に吸い付いて、ぱりぱりと酸で溶かし始めたのだ。
「や、あ、あ、あああっ‼」
「この野郎! それをやっていいのは俺だけだ!」
コーヒーメーカーの下で熱いコーヒーを湛えるデカンタを掴み取るとスイングして殴るのと同然に金魚へコーヒーをブチ掛ける。鱗に黒い熱がぶつかって滴る。暴れる金魚、口吻を離してみるみる弱っていった。
「大丈夫か、ユーミ、痛いか」
「大丈夫……」
「と、とにかく逃げ……」
ユーミの手を引いてドアを開ける。走りだそうと一歩踏み込んだところで、自分の家のすぐ前で、赤や白や金の靄のようなものが空の彼方まで塔のように伸び上がっているのを発見して、そのひとつひとつが金魚であることに気が付くと……トは目を回して意識を失った。ユーミの名誉のために言っておくが、この失神は彼女が与えたダメージのせいではない、といいな。
「聞いてよ! 君の同僚マジやばいよ! あの機械ダルマ! 私が食べ物を買ってもいいかって聞いたら、上司に聞きますってさ! 上司なんかいないんだよ、私その朝部屋に行ったから知ってたんだ! それを言ったらあいつ、バチッだよ! バチッッって! 何がバチッだったっけ? よく分からないけど、起きたら私、机に座ってたんだ。椅子じゃないよ! 机に! しかも私、リンゴを持ってた! 待って。あれリンゴじゃないかも。リンゴなんてないもんね。白くて脚が八本あったし。あ、おはよう!」
「あああっ!」
赤くかすむ視界がはっきりしてきたと思ったら最初に脳に入った情報は大写しの金魚の顔、思わず大声を上げる。
「とととととト君! 私だよ!」
「ああ……。 …………ああああ!」
トはマルコの顔に安堵したようだったが、少し間を置いて喉笛を掻き切ってやる勢いで掴みかかった。
「お前、お前、お前お前お前お前なんてことを!」
「と、ト君! やめて! 落ち着いて!」
バチッ。
トの脇腹に衝撃が走ったかと思うとまた視界が暗くなった。ランプが白く光る。
「あ、それだったんだ。そういうことはやめて」
マルコは彼のそばにいた、カゥラという機械漬けの巨大な男にそう告げた。
「あ、おはよう! 頭は大丈夫?」
再び起き上がったトはしばらく焦点を合わせるためにうつむいて、静かにかぶりを振った。
「ごめん、えっと、頭は大丈夫? って聞きたかったの」
「変わってない。……大丈夫だ」
トはマルコの方を見る。彼のそばにはカゥラがいて、ユーミがいる。揃って一列に立って、自分を責めるような感じ。そんなことはない、本当に、彼らは本当にトを心配していた。それを感じ取るほどの余裕があったわけがない。トは震える目つきで静かに話し始めた。
「……あの金魚は、侵略行動のつもりか」
「私が侵略者だっていうの! 違うよ……そんなつもりじゃない。けれど、行動は、確かに浅はかだったと思ってる。……謝りきれないよ」
「ユーミを襲った」
「……私の計算違いだったよ。こんなに機械人間がいっぱいだとは」
「ユーミは機械人間じゃない!」
「カンちゃん!」
「黙れッ!」
叫ぶトの頬にユーミが平手打つ。その硬さたるやスコップで殴られたようなもの。トは自分の意志とは無関係に折れた歯の隙間から血を流すはめになった。かわいそう。いたそう。マルコもカゥラもこれにはドン引き。これはまぎれもなくヤツの言う通り。
「僕……いつか言わなきゃいけないって思ってた。ごめんね、僕……君を責める資格なんかなかったよ」
「……なんの話だ?」
「私が説明するよ! 反則的だけどね。彼女から聞いた。ト君、ユミさんは先天性の心疾患だ……った」
驚いてユーミの顔を見るより先に彼女は言う。
「でもっ、大丈夫! もう全身改造済み! 筋肉はエラストマー、心臓も血管も合成ファイバーだよ! 脳が腐るまでは生きられる!」
「……」
「だ、黙っててごめんね。でも、改造しなかったらト君より先に死んじゃうから、ト君が仕事休む前に私、改造しに」
「……。すまない。こんなことになったのは俺がしッかりしてなかッたせいだ……もッッと俺がお前を気にしていれば」
「それは違う。落ち着いてト君。私のせいだ。君は頑張りすぎてる。頑張りどころが違うだけ。今頑張るべきもの、わかるよね!」
「……ああ。金魚のことだろ」
ユミが笑う。
「ふふ……わかってくれてありがト!」
なんだそりゃ。
トたちはコンパニオン・ルームから出て、外の空気を知る。上空に漂う金魚を眺めながら、カゥラが言うのを聞く。
「実際、CHeaD社は金魚の繁殖には成功したが、その生態について詳しく知るよりも早く彼らのビルを食い破られた。生態を知るまでに至らなかった理由はつまり、人類―少なくとも、現代の我々にとって、人間以外の生物の出現は前例のないものだったからだ。ただし……これは義務教育の現場で語られるおとぎ話の範疇だが、何億と数えられないほど昔に地球で起きた……いや、何が起きたかは具体的な記録が残っていないがために、大気汚染説、隕石衝突説、一時的に酸素が失われた、等……諸説言われているが、何らかの原因で、地下に逃げていた人類を除く動植物の多くが絶滅したと、まことしやかに語られている。……それが事実なら、地球にはかつて生物がいた! マルコ! それは事実か⁉」
「見てないから知らない! でも私が知ってる情報ではそうだ!」
「カゥラ。なぜ人類以外滅亡前の情報が無いんだ?」
「そもそも動植物が存在しなかったか……情報が残っていないこと自体が、この星に天変地異が起きた事実を裏付けているとも考えられる、か」
誰もが空を見上げるなか、カゥラは足下に視線を落とした。
「その答えはこの厚い鉄板を引っ剥がしてみれば分かることだ」
「剥がすってどうやって? 何センチどころじゃない。既に下の層に癒着している」
「……賭けてみようじゃないか」
『こんばんは。ドラナ紀五百七十九年申年の行く年来る年は──』
「いえーい! 明けましておめでとう、ト君!」
「おめでとう」
マルコは熱いコーヒーを持って、ベンチに座っていたトに言う。隣に座ってそれを手渡す。湯気が夜の中に溶けていくようだ。
「それ、本当にコーヒーそっくりだな。祖国の味をもう忘れてきてるけど、匂いまですごくそっくりだよ」
「……本来は豆とかいうものから作られるなんて信じられない。コーヒーはコーヒーだ」
「私にとってはそれが菌で出来てるって事がまだ信じられないね! 菌が出した液を飲んでるって、なんだか最悪。いつかコーヒー豆が復活したら、本物のコーヒーを飲ませてあげるよ」
「コーヒーは嫌いだ」
「砂糖やミルクを入れるんだ! そうすればきっと君も好きになるよ。あ、そのためには復活する必要のあるものが多すぎるなあ……」
マルコと会ってから二ヶ月が経って、ついに年が明けた。トたちは世界に蔓延る金魚の数を、火炎放射器による駆除という形で調整してきた。これは製鉄所が金魚の被害を受けなかった事実によって発覚した、金魚の体温の低さを利用した駆除方法である。たった数周間で金魚共も学習したのか、群の一部は人工空まで到達し、その鉄を食い破っていった。空は今やクリームブリュレの表面のように穴が開き、ひび割れている。映し出された雲がぱっくり割れているのは、恐ろしくて、滑稽だ。
「体調が悪くなった金魚は、水面で口をぱくぱくさせる、鼻上げっていう行動をするんだ。それによく似てる。あは! あの穴、まるでオゾンホールだよ! 昔地球人はオゾンホールに相当ビビってたって聞くよ。今あの『金魚鉢の口』にビビってる人もいるんだろうねぇ。でも私たちはあれが良いものだって知ってる! 少なくとも私は。朗報だ! あの機械ダルマ君によれば、金魚が温度調節機構を食い荒らしたおかげで、今日にでも『季節』ができる予測だって! 夏が楽しみだよ」
「夏になるとどうなる」
「金魚が死ぬ! バタバタ、バタね! そうだよ、きっと一匹と残らない。自分で自分の環境を奪うなんて、馬鹿な奴らだよ!」
「お前の祖先だったんじゃないのか。いいのか、全滅しても」
「元々ここにはいない生き物だった。そうなるのは当然だよ。私が持ち込んだ〈不便〉に過ぎないさ。……それに私にはもう先祖も子孫もない」
「どういう意味だ?」
「今から私が言うこと以上に、聞くなよ。……私が地球に来たときから一度も、母星からの連絡は無かった」
「…………」
「……だから、私に、帰る場所も、行く場所もない。もう割り切ってる。気にするなよ」
「……だったらウ」
「チに住むか、って言うんだろ! でも駄目だね。永住権を取得したからさ! 君の家のすぐ近くの、角を曲がって、向かい側の家に住むんだ! 晴れて私は地球人! やっほー!」
「いつの間に……なんで隣とかじゃないんだ」
「君が外交官を辞めた時! つかず離れずが一番! 君の隣に居るべきはユミさんだもん。私はそれぐらいが一番いい」
足の下の草を踏みしめる。
「気になるな。君はなんで外交官になれたの?」
「背が高かったからだ」
「え……マジかよ、誰でもいいんだね」
「おい、背が高かったからだと言ってるだろ」
風が頬をなでる。
「金魚が来たことは本当に良いことだったのかな。確かに色んなことが変わったよね。土の下に眠っていた動植物の生き残りが見つかったし、これから夏が来て、秋が来て……でも、すべて私の手柄だって思うには難しすぎる。この星は変わることを望んでいたのかな?」
「変わることを望まなかったとして、変わらされるものだ」
トはマルコの方を見ると、眉間を寄せて笑う。
「いじわるだ。お得意のいじわるだな? ふふふ、でも悪いもんじゃなかっただろ。そうか、それが君の答えかい」
「ひとつ気にかかる」
「なにか?」
「変わるのは金魚もそうだ。お前が言う人類は、俺たちと全く違うだろう。その上、金魚はお前たちの祖先だというじゃないか。これを照らし合わせれば、奴らはこの環境に適応して、体を変化させる可能性があるということにはならないか?」
「正しいね」
「金魚を絶滅させるのは可能なのか?」
「私には分からないことだけど、旧グロリア人の例を思えば、絶滅するのは……奴らが残らず死に絶えるか、金属を食い尽くすか……金魚人間ができるか、かなあ」
「金魚人間が人類を滅ぼそうとしたら?」
「その時は私が外交官として交渉しよう。実際、内交というべきだがね」
「お前の寿命はそんなに持たんだろう」
「ふふふ。そうかもね。でも、私が延命手術をしたって聞いたら、君、驚くかな」
「驚くな」
マルコが左手を見せる。いつの間にかひらひらしたものは彼の指から消え失せていて、中でも一番短い指の付け根では、青い光が点灯していた。
「驚いた」
「君が言った通り、私もこのデバイスが、最高に好きじゃないよ! だがね、これはすごいよ。熱いものも持てるし飲める! 君と同じものをだよ! ある程度はね。でもそれ以上にト君。君と金魚を置いて死ねるわけないだろ」
「君もユミさんと子供を置いて死ぬなよ」
「そのつもりだ。……ま、ユミは無理だな」
「マルコ、お前……性別はどっちだ?」
「正直考えたことないな。生物学的にもよくわからない。遺伝子を調べたらもしかしてわかるのかな。私に恋しちゃったかい、浮気者」
「金魚の卵を見て聞いただけだ。声も男らしい。お前は良いやつだが、抱きしめられて思った。お前から首筋にキスをされたくない」
「ははあ。金魚は確かに雌雄の概念がなくて、食べて産むの繰り返しだ。生物というより製造機みたいだね……君が私と子孫を残したいって言うなら、ふぇなんとか技法の手術、私も受けてみようかなあ!」
「絶対に残したくないし、フェーゼントはロストテクノロジーだ」
「えー! 残念だ」
「誘うならカゥラのやつにでもしろ。ユミじゃなけりゃいい」
「絶対取らないよ。でもあの機ダルマか、いいね。もし生まれたら名前は何にしようかなあ。……冗談。こんなことを言っておきながら子供には興味が無いかな。あいつ破滅願望ありそうだし。でも子供は好きだよ! 君の子供たちならなおさら歓迎だ!」
「会うのはもっと先になるぞ。会いたきゃ更に改造を進めろ」
「あは、君もだな!」
「……ッくしゅん!」
「わ! いいな。私、人間のクシャミが一番かわいいと思うんだよね。私はかわいくない。えら呼吸の辛いとこね、これ」
「寒い」
「うふふ、わかる? これ、きっと『冬』だよ。寒いと眠くなってくるなあ……ブランケットを持ってくるべきだった。でもまず君に必要なのは脂肪だな」
「医者気取りか?」
「私は医者だったんだよ。言ってなかったっけ。ふふ、職がなければ君を見習い看護師として雇うよ」
「……じゃ、医者先生。いつまでここにいればいい。凍えそうだ」
「まあもうちょっと待っててよ。具体的には……まあいいや」
トは首に何か冷たいものが当たるのを感じて飛び上がった。ついに凍死する前兆が来たと勘違いするが早いか、上空からちらちらと、冷たい「それ」らが降りてくるのを見た。
「な、な、なんだ⁉ この世の終わりか⁉」
「これは雪だ! あははは、すごいことになるよ! きっと明日はヤバいね! 家中のドアというドアが開かなくなるほどだ!」
「それで済むのか?」
「それで済むといいな。ほうら、見てよ!」
マルコが指さす上空を見上げると、『金魚鉢の口』のふちから、赤々と燃える光球が顔を出し、世界中に優しい光線を突き刺していた。