「カミの落とし子」 凍星
街の中心部から少し外れた、金曜夕方の騒がしい通りをゆっくりと歩いて行く。道のいたるところにある、崩れたりひびの入ったりしているコンクリートに躓かないように、シキは一歩一歩を慎重に進めていく。
いつもは辺りが真っ暗になってから歩いているこの道を、今日はバイトを早く上がることが出来たため赤い夕陽を見ながら歩いている。今日の夜は読む時間が取れずに積みあがっている本でも読もうか、とスキップでもしたくなるような浮ついた気分で人がだんだん増えてきた道をシキは進む。秋という言葉が似合う冷たい風が少し強く吹き、シキはジャケットのポケットに手を突っ込み、身体を縮こませる。
店ごとに色の違う電灯を見ながら少し歩く速度を上げていると、特別騒いでいる男たちの声が聞こえてくる。
「こんな早い時間からできあがっているのか?」
口の中でそう呟きながらシキは軽く口角を上げる。騒いでいる方に近づいていくと、だんだん彼らの声が鮮明になってくる。
「こんなに稼げないんじゃ、戦争やった方がちっとばかしマシだったかもな!」
呂律の回っていないその声に、シキは目を見開き、唇を血が出るくらいに噛みしめる。シキは拳を強く握りこみ、地面を蹴り走り出す。覚束ない足取りで歩いている男たちの前にシキは飛び出し、キッと睨みつける。
「おい、さっきの言葉取り消せよ」
「あ、なんだよ。お前」
うざったそうに眉を顰めた男がシキの方をちらりと見る。シキは喉から捻り出すように男たちに話し始める。
「知らないとは言わせない。ブソウ教のこと! あんたらの言ってたことまんまあれと変わらないだろう! あんなこと二度と起きていいわけない! だから取り消せ!」
一息で言い切ったシキを男たちは鼻で笑い、シキの顔に自身の顔を近づける。
「おい、俺たちがあんなふざけた宗教と一緒だっていうのか? 人殺しと? 冗談じゃねえ」
「ボクはふざけてなんかない! 戦争とか言い出したら、その宗教と言ってること変わらないだろう!」
奥歯を強く噛みシキは男たちを見上げる。男たちは大声でひとしきり笑った後、表情を消しシキを見下ろす。
「お前の意見なんか知るかよ。ちょっとふざけて言ったことに突っかかってくるなよ。うぜえ」
そう言って一人の男が拳を振り上げる。殴られる、とシキが目をつぶった時だった。
「連れが失礼した。その辺で勘弁してくれないか」
和装の女が男の拳を受け止めて、そう軽い調子で言う。男が驚いて拳に込めていた力を緩めた瞬間に、女はシキの手を引いて走り出す。突然のことに足が絡まりそうになりながらもシキは何とか女についていく。
「おい、あんた誰だよ。何でボクを助けた」
先ほどいた通りを抜けたところでシキは足を止め、息を整えながらそう尋ねる。
「ただの気まぐれだ。助けたつもりはない、気にするな。ここまで引っ張ってきてすまなかったな。それじゃあ失礼する」
女はそう一気に言い切り、右手を頭の位置まで上げてシキに背を向ける。シキは慌てて女の左手を掴み引き留める。
「ちょっと待てよ。助けてくれたことには変わりないだろう。礼を言わせてくれ! それにあんたの名前は?」
「しつこい男は嫌われるぞ? それに、ああいう風に気に入らないことにすぐ突っ込むのもやめた方が身のためだ」
女はシキの頭を軽く撫で、困ったように微笑む。二、三度優しくシキの頭を叩いてから女は再び背を向けようとする。シキはその女の身体にしがみつく。そんなシキに女は顔を引き攣らせる。
「もう少しあんたと話がしたいだけなんだ! それは駄目でも、せめて名前ぐらい教えてくれ!」
「ああもう、わかった。今はクロって名乗ってる。これで満足だろう? だからもう離せ」
クロはシキを引き剥がし、アーモンド形の大きな吊り目を不快そうに細める。前触れもなくクロは走り出し、シキから距離をとっていく。
「あ、待ってくださいよ! クロさん!」
シキはそう叫びながらクロを追いかけていく。
見ず知らずの人間であるシキを損得なしに助けられるクロのことをもっと知りたいと思った。クロともっと話せば、自分の目指すべき姿が見つかる気がした。
シキは足に力を込めて走るスピードを上げる。
「クロさん! 少しだけでいいですから、お話ししましょう」
「話すことはない。しつこい! 追いかけてくるな」
クロが少し低めの通る声でそう冷たく言う。冷たい言い方ながらもシキが話しかけると律義に返してくれるクロに、シキは頬を緩ませる。シキはクロの横まで追いつき、あからさまに嫌そうな顔をしたクロにシキはにっこりと笑いかける。
「そんな冷たいこと言わないでくださいよ。おごりますから、そこの喫茶店でも行きません?」
「行かない。私に構うな」
「急ぎの用事でも何かあるんですか? そうじゃないならお茶行く間に少しお話したいだけですから、ね?」
シキが少しクロの前に出て顔を覗き込むと、クロはばつの悪そうな顔をする。少し間をおいて、クロは「……用事はない」と掻き消えるような声で言う。
シキはクロにふわりと笑いかけ、クロの手を引っ張って喫茶店に入る。あからさまに不機嫌な態度のクロの分も注文を済ませ、シキはクロに微笑みかける。
「クロさんは、どうしてボクを助けてくれたんですか?」
「さっきからそればっかりだな、そんなに気になるのか? 理由がないと駄目なのか?」
クロは呆れたような表情でそうぼそぼそと言う。興味なさげに頬杖をつこうとしたクロの手を取り、シキは目を輝かせる。
「そういうこと言えるクロさんかっこいいです! クロさん、ボクとそんなに歳変わらなさそうなのに……。どうしてこうも違うんだろう」
「歳は近くても、生きてきた環境はそれぞれだろう。そんなに気にするな。それに、私はそんないい奴じゃない」
クロはシキの手を振り払い、窓の外を見つめる。寂しげな表情を浮かべて外を見ているクロに、シキは口を噤む。
沈黙から逃げるように店員が運んできたコーヒーをシキは口に含む。コーヒーの苦みが舌に絡みついてくるようで、シキは少し眉を寄せる。
「あれだけ追いかけてきた割には、そんなに話すこともなかったんだな」
皮肉交じりに笑いながらクロはコーヒーを一気に飲み干す。音を立てずにコーヒーカップを置き、会計伝票を持ってクロは立ち上がる。
「私はこれで失礼する」
ひらひらと手を振ってシキの前から去っていくクロをただ見ていることしかシキは出来なかった。気がついたら、クロが喫茶店の会計を済ませて店を出てから大分時間が経っていた。
「連絡先ぐらい聞いておけばよかった」
喫茶店から出た瞬間に吹きつけてきた風に身体を震わせながらシキは呟いた。
わずかに欠けた月がやけに冴えて見えた。
クロと会ってから一週間ほど経ったころ、シキがいつもの道をバイト帰りに通っていると、やけに人だかりが出来ているのを見つけた。野次馬根性で人だかりに近づいていくと、見知った和服の女を見つけた。
「クロさん……?」
薄汚れている少女を背後に隠しながらクロが大柄の男を睨みつけていた。クロは財布から何十枚ものお札を取り出し、男の前にばらまく。
「これで足りるだろう。私は失礼する」
冷え切った目で金を搔き集める男を見ながらクロは簡潔にそう言う。クロは少女に柔らかい笑みを向けてから手を引き走り出す。「あっ!」と思わずシキは声を出し、人混みをすり抜けてクロたちを追いかける。
人の寄り付かなさそうな路地に着いたところで、クロたちは足を止めた。クロはどこかへ電話をかけているようだった。不安げにクロを見上げる少女の頭を時折優しく撫でてあげながら電話する様子は、喫茶店で見た表情とは全然重ならない。
クロの電話が終わったタイミングでシキはそうっとクロに声をかけた。
「クロさん、お久しぶりです」
「——お前は、この間のしつこかった」
「シキです。クロさん」
シキが突然現れたことに驚いた少女の背を撫でて宥めてやりながら、クロは面倒くさそうに顔を顰める。
「それで、また追いかけてきたんだろう? この間の件はもう終わったはずだ。今度は何だ」
「クロさんは、人助けが趣味なんですか?」
シキがそう問いかけると、クロは意味が分からないというような表情で首を傾げる。
「だって、前にボクを助けてくれて、今回はこの子を助けてて。明らかに面倒くさそうな問題事に見えたのに自ら首を突っ込んでいって、もう趣味なのかと」
シキが慌ててした説明をクロは鼻で笑い、シキを追い払うように手を動かす。
「そう思いたきゃ思えばいい。お前が私の事情を知る必要はない。関係ないのに首を突っ込むな。分かったら、前みたいになる前に帰るんだな」
自分の領域には一切踏み込ませない、というクロの態度にシキは唇を尖らせる。クロはシキの問題に踏み入ってきたというのに、クロ自身のことには関わらせないという態度に納得がいかなかった。
「前みたいになりたくないから、クロさんのことを知りたいんです。少しでも知識があれば、事前に防げるかもしれないから。もう何も出来ない木偶の坊には戻りたくないから」
そう強く言い切ってシキはクロの目をじっと見つめる。クロは唇を軽く噛みながらそっとシキから視線を外した。
「……好きにしろ」
シキとは一切目を合わせずにクロは不機嫌そうな声色で小さくそう言う。シキはにっと笑いクロとの距離をつめる。
「その子は、どうしたんですか」
「迎えが来るのを待っている。ちょっと特殊な事情だから、何も聞かないで上げて欲しい。嫌な記憶を掘り返すのはこの子が可哀想だ」
クロの淡々とした口調の中にある気遣う言葉にシキは笑みを深める。「分かりましたよ」とシキが調子よく言うと、クロが安心したようにふうと息を吐く。
シキがそのクロの様子に首を傾げていると、路地の近くに一台の車が止まる。止まった車から出てきた人物に、シキは目を丸める。
「あれ、レイ先生じゃないですか」
シキがそう声をかけると、レイも驚いたようにシキを見つめる。レイはクロとシキを交互に見ながら口を開く。
「どうしてシキ君がここにいるの? クロさんと知り合いなの?」
「ええ、ちょっと色々あって。レイ先生が来たってことは、この子もボクと同じような……」
シキがそこまで言うとレイは小さく頷き、少女の前にしゃがみ込み少女と話し始める。
レイは孤児院を経営している。この孤児院が少し特殊なところで、ブソウ教という一時期一世を風靡した宗教によって家族を失った子どもという、他の孤児院が受け入れを嫌う子どもたちを積極的に受け入れている。シキも例にもれずブソウ教の被害を受けた子どもで、つい数年前までレイの孤児院で暮らしていた。
「クロさん、レイ先生と知り合いだったんですね」
「……ああ」
目を泳がせながらそう言うクロにシキは目を細める。露骨にシキに背を向けるクロに、シキは首を傾げる。
レイが少女を連れて車を走らせたのを見届けて、シキは言葉を選びながら口を開く。
「クロさん、ブソウ教と何か関係あるんですか?」
シキはクロの顔を強引に自分の方に向かせて、クロにそう問いかける。悲しみと怒りを混ぜ合わせたような複雑な表情を浮かべてクロは口を固く閉ざしている。
「何で、何も言わないんですか」
シキが語気を強めてそう言った時だった。
ピッピッピッという一定の音を刻む機械音が直ぐ近くから聞こえだした。
その瞬間、クロは血相を変えて走り出した。今までにないクロの様子に拍子抜けしたシキもワンテンポ遅れて走り出す。少しもしないうちに機械音の発生源についた。尋常ではない様子の人々の慌てようにシキは眉間に皺を寄せる。
シキは人だかり中の一人を捕まえて状況を問いただす。
「何があったんですか?」
「あの悪魔の兵器が急に動き出したんだ! あのブソウ教の!」
そう叫んで頭を抱えて蹲った男にそっと礼を告げ、シキはクロの姿を探し始める。クロは人だかりの中心にいた。
「姉ちゃん、無茶だ。誰もどうすることも出来なかった代物だ。みんなで一緒に逃げた方がいい」
「これはそんなことでどうにかなるものじゃない! 私にまかせて早くあなた達は逃げろ! 私ならどうにかなる」
そう叫びクロは手にしていた箱を懐から取り出した工具で解体し始める。
シキはその様子を固まって見つめた。ブソウ教の教徒の間で配られたとかいうあらゆる人を死に至らせたふざけたものが目の前にある事実が怖かった。死ぬかもしれない、という可能性が頭をよぎった。だが同時に、クロになら何とかなると思った。
クロが丁寧に最後の部品を取り外し、解体は無事に終わった。周囲が「奇跡」に盛り上がる中で、シキはクロを静かに見ながらゆっくりと歩き出す。クロの目の前に着いたところで、シキは顔をぐしゃりと歪めた。
「あんたのせいだったのか……。あんたのせいで、ボクの家族が! あんたのせいで! あんたのせいで!」
シキがそう泣き叫ぶと、クロは表情をごっそり落としてゆっくり口を開いた。
「人間は、いつも勝手で卑怯だな」
クロは抑揚なくそう言い残し、走っていった。
***
机の上を散らかしながら部品と設計図を見比べてロンは頭を掻く。どうにも設計図通りになってくれない手の中のものをじっと見つめて、ロンは大きく溜息をつく。
「神子様! 研究のご様子はいかがですか?」
そう声をかけてきたロンの世話役の信者に、ロンは歯を出して笑う。手で持っている製作途中のものを見せながらロンは口を開く。
「あともう少し、ってところかな。ちょっと行き詰ってるけど、私ならどうにでもなるさ」
声を出して笑い飛ばすと、世話役はくすりと一つ笑みをこぼす。その様子にロンは満足して、笑みを深める。
「完成する日が待ち遠しいです。神の力と人の力の融合、神と我々を繋ぐ尊く素晴らしい物」
恍惚とした様子でそう呟く世話役に、ロンは誇らしげに笑いかける。ロンは頭上に手のものを掲げ、口を開く。
「父なる神に与えられた使命をこなすだけだ。あと少しの辛抱だからな」
そのロンの言葉に世話役が拍手を送っていると、後ろの扉から一人の男が入ってくる。
「神子様、素晴らしい心がけでございますね。わたくしも、完成の日を心待ちにしております」
「チカ! 私に任せてくれ」
ブソウ教の教祖として神の教えを説いているチカに、胸を叩いてそうロンは太陽のような笑みを浮かべた。
「みんな喜んでくれているかな」
ロンは椅子の上で足をバタバタと動かしながらにやける。
先週やっと完成した物をやっと今日配ることが出来た。チカの後ろで配る様子を見届け、自室に戻ってきたロンは達成感から口角が上がるのが止まらなかった。
と、いきなり扉が勢いよく開けられた。
「いたぞ! 悪魔だ! 早く捕らえよ!」
「えっ?」
驚きのあまり固まったロンを見知った信者たちが拘束していく。突然のことすぎて抵抗の一つも出来ずにロンは引きずられていく。いつも集会をしている場所に着いて、ロンは乱暴に投げ捨てられる。身体の痛みに耐えながら起き上がると、チカと目が合った。
「チカ! これはいったいどういうことなんだ!」
そう叫んだ瞬間、ロンは殴り飛ばされた。初めての痛みに、ロンはアーモンド形の大きな瞳からボロボロと涙を零す。
「悪魔風情がチカ様のことそのように呼ぶな!」
いつもロンを優しく世話してくれた世話係がそう叫ぶ様子に、ロンは表情が抜け落ちる。ロンはゆっくりと起き上がり、チカを見上げる。冷え切った表情でロンを見下ろしたチカに、ロンはごくりと唾を飲み込む。
「神の子を偽った悪魔よ。我々を欺き辱めたその罪は重い。よって神の名の下に極刑を命じる!」
「は……どういう……私は、ただみんなの幸せを願って!」
頭の中でチカの言葉を咀嚼しきれず、ロンはそう叫ぶ。そこまで叫んでロンに冷たい視線を向けられていることに気がついた。ロンは全く理解が出来なかった。
ロンは神からお告げを貰っているというチカが望んだものを忠実に完成させただけだ。神の子というのもロン自身が言い出したことではない。生まれた時から神の子だ、と言われて育ってきたのだ。それを今の今まで疑わずに、みんなの描く神の子像のままに振舞ってきたつもりだ。それなのに、今更悪魔だ、なんだと言われても意味が分かるわけがなかった。
ロンは何を責められて、極刑という意味の分からない処分をくだされているのか分からなかった。ただ、自分の命が危険にさらされているということだけは分かった。
「私は、何も罪など犯していない。ただ、みんなのために生きていた私になぜ神が罰を下すのだ!」
ロンは身体全体で叫び、チカにそう訴えかける。チカはロンを塵でも見るような目で見ながらただ「うるさい」と一蹴した。
「刑の執行は明日とする。それまで牢にでも入れておけ」
興味なさげにそうつらつらと告げていくチカに、ロンは怒りを通り越して笑いが込み上げてきた。
今まで誰よりも信用していたチカに裏切られた。ただその事実を理解しただけでロンは少し冷静になれた。
牢屋に放り込まれてからロンはただ逃げることを考えた。みすみすこんな所で殺されるわけにはいかない。この建物の外に一切出たことがないロンが簡単に生きていけるわけがないのは分かっている。ただ、このまま死にたくなかった。
ロンは牢屋にあった小さな窓から抜け出した。
あの建物から少しでも離れることだけを考えて走っていると、途中で誰かとぶつかりロンはその場に尻もちをついた。
「おや、お嬢ちゃんどうしたんだい。こんな時間に、こんなところに一人で。親御さんは?」
「親? 何だそれは」
ロンが小首を傾げながらそう言うと、目の前の女は眉を寄せながらロンを優しく立ち上がらせる。されるがままのロンの頭を柔らかく撫で、女はにっと笑う。
「それなら私の家に来るといい。あんまりいいところでもないが、まあ我慢してくれ」
女は豪快に笑いながらロンの手を引いて歩き出そうとする。ロンはその場に立ち止まり女を見あげる。
「いいのか? 素性も分からない子どもだぞ」
「そんなこと子どもが気にするな。ほら行くぞ」
女に強く手を引かれながらロンは女の後ろをついていく。少し歩くのが速い女に必死についていきながら、女の高く結われた長い黒髪が揺れるのをじっとロンは見ていた。
成り行きで出会ったトキという女と暮らしだして、ロンはクロと名乗ることにした。名乗るのを渋っているロンにトキが、クロという名前を与えてくれた。以前の自分とは違う自分になれたような気がして、ロン——クロは名前を気に入って使っていた。
トキは山の中の家で暮らしていた。トキは自分のことを歴史学者だと言っていた。山の中で好きなように本を読んだり研究したりしながら、時々街に降りて街の子どもたちに勉強を教えていると言っていた。元々知識欲の強いクロは、トキによく懐いて色々なことを聞いて熱心に勉強していた。
山での生活に慣れてきたある日のことだった。
「クロ、何を書いているんだ」
「設計図! これはみんなを幸せにしてくれるものなんだ。前に作っていたのを思い出して書き起こしたんだ」
クロはそう言ってトキに設計図を見せると、トキは厳しい顔つきになってクロの設計図を取り上げた。今までにないトキの行動にクロはぽかんとトキを見上げる。
「トキ、どうしたの」
「クロ、これは作っちゃいけない代物だ。誰も幸せになんかならない。この世のみんなが不幸になる物だ」
トキは真剣な声色でクロにそう言った。トキの曖昧な言い方にクロは首を傾げる。
「どうして。だって、これを作っている時色々な人が喜んでくれていたんだよ?」
「そいつらがろくでもない奴だったのは、クロが一番分かっているだろう。とにかく、それはこの世にあっちゃいけないものだ。分かったら、もうこれは忘れるんだ」
トキは暖炉の火にクロの設計図をくべて、自分の部屋に戻っていった。クロは、トキの行動が全く理解できなかった。意地になったクロは設計図のそれをトキに内緒で作り上げることにした。
一度作ったことがあるだけあって、それが出来上がるまでにそう時間はかからなかった。トキを驚かせようと朝食の時にクロはいきなりそれを見せた。
トキの顔は絶望の色で染まっていた。その顔に不安になりながらもクロは、それの蓋を開けた。
それが起動した瞬間、トキに向かって管が動いていく。管の先の針がトキに刺さった瞬間、トキは苦しみだす。その様子にクロは箱を手から思わず離した。トキは一分ぐらい苦しんでいたと思うと、急に動かなくなった。
クロは床に尻もちをつき、がくがくと震えだす。
「な、何が起きたの?」
クロは床に座り込んだまま後ろに後退っていく。壁にぶつかり、床に落ちていた今日の新聞が目に入る。目に入った「ブソウ教」という文字に、クロは目を見開く。
新聞にかぶりつきその中身を隅々までクロは読み込む。
「戦争を教唆し凶悪兵器を生んだブソウ教幹部逮捕……」
見知った名前が並び、クロは新聞を掴む手に力を籠める。
「あれは、兵器だったの……? 私がみんなを殺した……」
そう呟きながらクロは床に寝転んだ。
涙の一つ、出てこなかった。
***
「ここに来るのは久しぶりだな」
走る足を止めて、ロンは軽く伸びをする。
山の中に出来た崖の下には街が広がっている。昔はここに来てぼうっと街を見つめるのが好きだった。
「あの街にはもういられないな」
案外気持ちの籠っていない声が出て、クロはくすりと笑う。
この罪にまみれた自分が生きていられるだけでも感謝しなければならないのに、そんな欲に満ちた言葉が出てクロは自嘲的な笑みを浮かべる。
地面に座り、クロは街を見つめる。と、背後から誰かの足音が聞こえた。
「誰だ」
「久しぶりだな、ロン。やっと見つけた」
クロは振り向いて目を見開いた。大分草臥れてはいるものの、かつて慕っていたチカに間違いはなかった。
「まだ捕まっていなかったのか。なんでここに来た」
チカを見上げて睨みつけると、チカは壊れた玩具のような笑い声を上げてクロに近づいてきた。クロは警戒しながら立ち上がり、一歩後ろに下がる。
「私が捕まる? そんな馬鹿げた話があっていいはずがない。私は、あの時人々が求めていた教えを説いただけ。あの時、人々は武力での解決を求めていた、戦争を求めていた。その手助けをしただけだ。それがなぜ罪になる。それこそ、人殺しのお前が捕まる方が先だろう。悪魔」
チカは血走った目でクロをじっとりと見る。クロは呼吸が浅くなるのを感じながら、そっと口を開く。
「確かに私が作ったもので、多くの人が亡くなった。それは間違いない。何も知らずにアンタの指示に従って、ただ作るだけの道具になり下がった私にも罪がある。ただ、私だけの罪ではない。アンタに罪がないとは言えない」
「いいや違う。私はきっかけにすぎない。お前が勝手に作っただけだろう。そんなことも分からないとは、本当に罪な存在だ。生きているだけで、罪が増えていくなんて」
わざとらしい泣きまねをするチカに、クロは顔を大きく歪める。こんなふざけたことを言うやつの言いなりになっていた自分にひどく腹が立った。クロのことを完全に馬鹿にして、道具としてしか見ていなかったチカにはもっと腹が立った。
「都合のいいように使うだけ使って、人を何だと思っているんだよ! ふざけるな!」
「所詮、作られただけの人間じゃないお前が偉そうにするな! お前みたいなやつを作ってやった私に感謝すべきのお前が、何で私に口答えするんだ!」
殴りかかってきたチカに思わずクロは身体を縮こませる。避けるのは、なんとなく負けな気がした。チカの拳がクロに届く前に、チカの頬が誰かに殴り飛ばされた。
「テメエが、クロさんをこの人を馬鹿にするなよ! この自意識過剰野郎!」
肩で息をしているシキがそう叫び、再び拳を振り上げる。その手をクロは止め、シキに話しかける。
「どうして、ここに来た」
「どうだっていいだろう! ボクがあんたの言動に納得いかなかったから、ただついてきただけだ! 言っただろう、勝手にしろって!」
そうクロを睨みながら言うシキに、「確かに言ったな」とクロは苦い笑みを浮かべる。シキはクロの手を振り払い、チカに近づいていく。
「お前にクロさんをとやかく言う資格はねえよ。さっさと捕まって、罪を償うことだな」
シキは着ていたパーカーを使ってチカを木に拘束し、警察に通報する。電話が終わった瞬間、茫然とその様子を見ていたクロの手を掴み、走り出す。
「おい、どこに行くんだ」
「少しここから離れるだけだ。言っただろう、ボクはあんたと、クロさんと話がしたい」
落ち着いた声色でそう言うシキにクロは小さく頷き、崖から離れて木々の深いところに入っていく。少し先に進んだところで、シキは立ち止まる。
「あんたにも事情があったのは分かった。あんたが……クロさんがボクの父さんや母さんを殺したあの兵器を作ったんだろう」
「ああ、そうだ」
クロはそう短く返す。そのクロの返答に唇を噛みながらも、シキは必死に口角を上げる。
「助けてくれたことには感謝している。事情があったのも分かる。でもボクの親が死んだことには変わりはない。あんたを許すことは出来ない」
「そうか」
クロは静かに笑い、シキの目をじっと見つめる。クロは少し間をおいて、ゆっくり口を開いた。
「私は、私の罪は背負っていくつもりだ。無知も罪だ。これは変わらない。ただ、勝手な人間は嫌いだ。道具としてしか扱われてこなかった私を人と認めてくれたお前には感謝してるよ、シキ」
クロはそう言って、ふうわりと微笑む。クロはゆったりとした動きでシキに背を向けて、右手を上げる。
「もう会うことはないだろう。私なんかが言うのはなんだが、元気でな。では、私はこれで失礼する」
「クロさん……クロさんも元気で」
歩きだしたクロにそっとそう声をかけ、シキもクロに背を向けて歩き出す。
薄いシャツだけを着た身体には、秋の風がひどく冷たく感じた。