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――雷。
雨音が絶えず響く中、自分は真っ黒な空を見上げている。
ここはどこ?
どうしてここにいるの?
そうだ、あたし。
あたしは。
「君以上の殺人鬼は見たことがないよ、アリスさん」
振り返ると、雨に濡れた幼い少年がいた。
彼は憐れむような楽しむような、複雑な色の目でこちらを見ている。
そして忠臣のように跪き、あたしに向かって首を垂れた。
「いいえ……魔王様」
その言葉に呼応するようにまた雷が落ちる。
ああ、どうして、こうなってしまったんだっけ……。
あたしは、自分の悪いところを知っている。
「あら、その荷物重そうだわ。お手伝いするわね!」
「え……いいの? アリスさん」
「もちろんよ!」
優しくすれば相手があたしにいい印象を抱くと知っている。
「アリスちゃん、勉強教えてくれない?」
「ええ! お安い御用だわ!」
できることが多ければ頼ってもらえることも知っている。
「3年のアリス先輩ってモデルみたいに美人だよな」
「ああ、それに優しいし。有栖川知恵って言ったらほかの学校でも有名だぜ」
「ボランティア活動までしてるんだろ? あの人ってまるで……」
美人なことも、当然知っているし。
その結果、自分がどう呼ばれているのかも。
「女神様みたいだな」
あたしは全部、知っている。
それを知らないふりしてただの善人のように振る舞っている。それがあたしの悪いところ。
「知恵」
「どうしたの、お母さん?」
夕食中に、いつもは無口な母が声をかけてきた。
母は気まずそうに、父からもあたしからも目を逸らしている。口を開くまで数秒かかった。
「……あーなんっつーかその……無理してるだろ」
ぶっきらぼうだし冷たい印象を受ける声色だけど、とても優しく感じる。普段は家事ばかりの母だが、あたしを心配してくれているのはよく分かった。
しかしあたしは、首を横に振った。
「いいえ。周囲の人に恵まれているし、大変なことなんてないわ」
そう言うと、母の隣にいた父がくすくすと笑い出す。
「私たちの知恵は本当に立派な子ね。でも、疲れたらすぐに言うのよ」
「う、うん」
「今日は家事のお手伝いはいいから。勉強してもいいけど無理しちゃダメ。受験が近いからって焦らないように。お願いね?」
物腰柔らかだが、いつもあたしのことを見透かしてるように話す父。
もしかしてあたしが全て理解した上で行動していることに気づいているのではないかと不安になる。こういうことは、愚鈍であったほうが万人受けするのに。そわそわする心をなだめながら、あたしは頷いた。
夕食を終え部屋に戻ると、あたしはすぐに勉強をはじめた。いくら優しく美人だと好かれていても、勉強ができなければ評価は落ちる。
難問に当たり悩んでいると、ぴんぽんとスマホが鳴った。クラスメイトからの連絡だった。
『明日の日直、代わってもらっていいかな?』
いいわよ、と返信してから、あたしは机に突っ伏した。
「疲れたぁ~……」
ここまでして他人からの信頼を集める必要があるのか。自分でもたまにそう思うことがある。
でも。
「それでも、みんなに好かれることができたら……」
そのときになってようやく、あたしもあたしを好きになることができるはずだから。
「ヒャッハッハッハッハァ!?」
突然、部屋の中からけたたましい笑い声が響いた。
驚きで肩を跳ねさせて、振り返る。あたしのベッドの上に、見知らぬ男性が立っていた。
誰だかは分からない。笑っている理由も、土足の理由も、意味も分からない。
分かるのはただ、不審者だということだけだ。
「きゃ……っ」
すぐに叫ぼうとしたが、その男はあたしに飛びかかる。なだれるように床に倒れこんで、あっという間に口を塞がれてしまった。
「ひひっ、お月様感謝しまァす」
暴れようとするが、馬乗りになられていて体が思うように動かない。自分より一回りも二回りも大きな男性相手。抵抗もろくにできなかった。
「こんにちはァ、かわいいかわいい女神様。お願いがあって参上しましたーぁ。もう一回殴るけどその前に話聞いて?」
固まっているあたしを気にかける様子もなく、その人物は話を続ける。
「単刀直入に言うかァ。女神、やめてくんね?」
意味が分からなかった。
本当の意味での『女神』ではなく、あたしが人に優しくした結果手に入れた『女神というあだ名』を指しているのだろうけれど。
他人から咎められることではない。やめさせられる意味が分からない。
男はあたしの胸ぐらを掴んで持ち上げた。口は自由になったが、苦しくて声が出てこない。そして彼は冷たい目で笑いながら言った。
「そうじゃないとお前の身の回りでたくさんの人が死ぬから。じゃ、そゆことで」
そして、彼はあいている手を振り上げて。
まだ痛みから解放されていないあたしの頭を殴りつけた。
側頭部が痛い。
頭の中がぐわんぐわんと揺れている。
とにかくここから離れたい。お父さんとお母さんに会いたい。まだやり残したことがいっぱいあるのに死にたくない。
はやく、助けを……。
「アリス!」
またもや聞き覚えのない男性の声。
「大丈夫か……?」
目を開くと。
見たこともない茶髪の男子が、こちらを覗き込んでいた。
「きゃあああ!!」
自然と叫び声が出る。後ずさりすると、背中に椅子らしきものがぶつかった。
また新手が来た、逃げないと。と思ってその男子から逃げるように床を張っていく。
だが、そこで異常に気が付いた。
「……え?」
そこは教室だった。
あたしが通っている学校の教室……ではない。一定間隔に並んでいる机といす、そこに座っている制服を着た人たち。その様子で教室だと判断できただけ。
教師らしき影はないけれど、黒板にある「自習中」の文字から見て、おそらく授業中ではあるのだろう。
いや、そんなことはどうでもいい。それよりも。
「ここどこ……」
そう呟くと、目の前の男子が驚いた顔をした。
「アリスが寝ぼけるなんて珍しいな。俺のこと分かるかー?」
冗談めかしてそう訊ねてくる男子を見て、あたしは首を横に振る。
「あなた、誰……」
その一言で、教室内が騒然とした。
「落ち着いたか?」
怯えるあたしに対し、教室の人たちは優しく接してくれた。女子生徒が背中をさすってくれ、男子生徒は暖かい飲み物をくれる。
そこまでされてようやくあたしも落ち着きを取り戻す。椅子に座った状態で、その人たちからのいくつかの質問に答えた。
「じゃあアリスは今雪城中学校三年生で、志望校は畢生館高校ってことか?」
最初にあたしに駆け寄ってきた茶髪の男子がそう聞いてくる。あたしは頷いた。
その答えで何かに気づいたらしく、彼はなるほどなと困ったように頭をかく。そしてあたしの目の前で床に座った。
「とりあえず自己紹介だな。俺は幻日、叶幻日。呼び捨てでいい。他のみんなの紹介は追々な」
「あ……あたしは有栖川知恵」
「ありがとう。で、今アリスが気になってるだろう現状についてだ」
あたしがもう一度頷くと、幻日くんは話を続ける。
「ここはイデア学園高等部。この教室は2のFだ」
「何であたしがここに?」
「クラスメイトだからな。アリスは2のFで、学級委員長をしてるんだ。だからまぁ、言いづらいんだけど……」
幻日くんは真剣な目であたしを見上げ、言った。
「アリスは今このタイミングで、2年分の記憶を失ったってことになるな」
記憶喪失。
変な男に殴られてから、それだけの時間が経っている。だとしたら、あの後あたしは殺されなかったということだろうか。
何から質問したらいいか分からずにいると、幻日くんはさらに続ける。
「今先生たちは緊急会議中で、保健室も開いてねぇ。もうちょっとここで我慢してくれるか?」
「あ、はい……」
「同い年だし敬語じゃなくていいぜ。あと話に出た怪しい男だけど、誰か知らねぇ? アリスから話を聞いたとか」
その質問に、クラスメイトたちは首を横に振った。あたしはあのことを誰にも言っていなかったのだろうか。大きな事件ではなかったのかもしれない。
「安心してくれ、俺たちいつもアリスに世話になってるからさ、怖い思いはさせねぇ。なぁお前ら?」
その言葉に、クラスメイトたちは明るい声色で返事をした。
「当たり前でしょ! 心配しないでね、アリスちゃん!」
「俺たちもできる限り注意するし、そんなやつ近づけさせねぇよ!」
「おう! 俺たちの女神様だからな!」
「だからアリスちゃんも何かあったらすぐに言ってね!」
優しい。
ここでも自分はうまくやっていたのかもしれない。ほっと胸を撫でおろしていると、クラスメイトの人が話しかけてきた。
「それでね、アリスさん。私たちアリスさんが今何を考えているのか知りたいな」
「考え?」
「うん。不安がってるなら、力になりたいと思っ――」
ガタン!!
突然激しい物音がした。
窓際を見てみれば、一人だけ席に着いていた男子生徒が立ち上がっていた。
透き通る白い長髪に、血のような赤い瞳。彼に睨まれたからか、クラスメイトは黙り込む。
彼はツカツカとこちらに歩いてくると、あたしの右手を掴んで無理やり立ち上がらせた。驚いて振りほどこうとするが、びくともしない。
その様子を見て、幻日くんが声をあげる。
「お、おいラット! アリスがビビってんだろ!」
ラットと呼ばれたその人は、幻日くんを見ようともしない。冷たい表情で、冷たい声色で、言い放った。
「……卑怯者が」
クラスメイトが固まる。
幻日くんだけが真正面からラットさんを睨んでいた。その視線だけで、この二人は仲が悪いのだろうと分かる。それほど鋭い目だ。
「あ、あの……はなして……」
やっとの思いでそう言葉を絞り出すが、ラットさんは放してはくれなかった。
そのとき。
『ザザッ……』
スピーカーがノイズを鳴らす。
続いて、女性の音声が聞こえてきた。
『3年E組の合月千香子さんが殺害されました。皆さんの殺戮生活が素晴らしいものでありますように』
……。
それ以上は、何も聞こえてこなかった。
「な、何、今の」
あたしの問いに、ラットさんが素早く答える。
「ここは能力者が殺し合う学園だ」
「っ、ラット!」
幻日くんが咎めるように叫ぶ。だが、ラットさんは話をやめない。
「フィロソフィアと呼ばれる力を持つ者……それが私たちだ。そして卒業までに十人を殺さねばその時点で死亡する。よく聞け」
彼はあたしを見下ろして、吐き捨てるように告げる。
「こいつらはお前を騙して殺そうとしているだけだ」
手を引かれて、あたしは引きずられるように窓際に連れていかれる。
あたしの困惑など関係なしに、ラットさんは冷静な顔つきで窓の外を指さした。あたしは恐る恐る窓の外に視線をやる。
一階分下のグラウンド。ここからでもはっきり見えるくらいの血が、倒れている女性からあふれ出していた。
「きゅ、救急車!」
そう言ったが、ラットさんもその他の人も無言。
当然誰かが助けに入るのだろうと思っていたが……その死体は数人の人間たちによって麻袋に入れられ、どこかに引きずられていった。
呆然としていると、ラットさんが言い放つ。
「分かったな?」
心の中に芽生えていた安心感が、ガラガラと崩れた。
意味は分からない。能力とは何のことか。フィロソフィアとは。ラットさんの言葉はとても信じられない。
しかし、異常な状況が、信用を壊したのは間違いなかった。
同時に授業終了を告げるチャイムが鳴り、廊下が騒がしくなる。それに合わせて、ラットさんも教室から出て行った。
静かな教室。静寂を破るように、幻日くんが他のクラスメイトたちに言う。
「……先生呼んできてくんねぇかな」
「あ、お、おう」
体の震えが止まらない。
なのに今度は、誰も声をかけてはこなかった。