偽り
そのハンスの言葉を聞いた瞬間、なぜか私は泣いてしまいそうな衝動に駆られていた。
油断すれば今にもあふれそうな涙を必死にこらえる。
けれど、ハンスの手のひらが余りにも暖かくて、涙腺がゆるみそうになって。
「このっ! ふざけるな! 俺を誰だと思っている!」
マーリクが殴られた患部を押さえながら立ち上がったのは、そのときだった。
マーリクは、激怒した様子を隠そうともせず叫ぶ。
「逃がさないからな! この報いはいずれ必ず……」
「──汚い口を開くな」
「っ!?」
しかし、直後マーリクへと振り返ったハンスのたった一言でハンスを押し黙った。
私に向けていたのが信じられない殺意に満ちた眼で睨みながら、ハンスは口を開く。
「次許可無く口を開けば殺す。覚えておけ、お前は平民でさえない罪人で、侯爵家の執事である私が手を下してもそれを咎める法はない」
その言葉に、マーリクのが一気に蒼白となる。
……けれど、それでもマーリクが口を開くことはなかった。
いくら身の程を弁えていないマーリクでもようやく理解できたのだろう。
ハンスは、自身を殺せる立場にあるのだと。
「相手が上位者だと黙るのか。いや、今更そのことに気づいたということか。本当にお前はどうしようもないな」
そんなマーリクをハンスは、地面を這う虫を見るような目で見ていた。
そんなハンスに、マーリクは何も言わない。
……どうやら、恐怖に口も聞けないらしい。
視界の端に入った震えるマーリクの手に、そのことを理解した私は何とも言えない気分になる。
先ほどハンスに向かって叫んでいたことが、より現在のマーリクの無様さを際立てていた。
そんなマーリクをみるハンスの目からは、もう一切の感情が消えていた。
「そもそも、お前の言っているお嬢様に恨みを持っている者、それは元裏社会の者達だろう?」
「……っ!」
その瞬間、震えるマーリクの肩。
それにようやく私は気づく。
今の状態のマーリクが話を聞けるなど、浮浪者くらいしかいないことを。
そして今この領地にいる浮浪者は、今現在も逃げ回っている元犯罪者だけなのだ。
ようやくそのことに思い至った私は、ただ呆然と立ち尽くす。
その私の意識をハンスの言葉が正気に戻した。
「本当にお前は、お嬢様の弱みを見つけることだけうまいな。そして、その弱みをつくことだけは。そのことに優越感でも感じていたか?」
「ちが、俺は……っ!」
その瞬間、耐えきれなかったようにマーリクが口を開く。
しかし、その顔に浮かんだ怒りはすぐに困惑の表情に変わることになった。
……自身をみる、ハンスの表情を見たことによって。
「そんなことしか考えていないから、お前は気づかないんだよ。──お嬢様がどれだけお前に慈悲を与えようとしていたかにも」
そうマーリクに告げるハンスの顔に浮かんでいたのは、怒りではなく。
……どうしようもなく愚かなものに向けた憐憫が浮かんでいた。




