二人が目指した理想郷
皇宮より離れた離宮内の一室にて、前皇帝グラスはベッドで横になり、祈るように胸の前で手を握りしめながら来訪者を待っていた。
「久しいなグラス……歳を取ったものよ、お前の最期の願いを叶えにきたぞ」
どこからともなく魔女は現れそう語った。その邂逅は若き日のグラスが皇帝に即位したとき以来のものであった。
「あぁ……長かった……ようやくお前に会うことができたのだな……」
「グラス……自分でも分かっているだろうがお前はもう死んでしまう……最期になるが……」
魔女は横たわるグラスの手を取り、彼も力なくそれを握り返した。
「懐かしいぞ……あの日宝石のように美しいお前の蒼い瞳に心を奪われたことを私は昨日のことのように覚えておる……」
グラスの目にはその光景が浮かび上がっていた。若き日の自分と、その姿を一目見た時に恋をした、時を経ても一切変わらぬ美しいままの魔女の姿が。
魔女狩り。それは代々の皇帝たちが、異端の力が自分たちの支配を脅かすものになると恐れたゆえに強く進めてきた政策の一つだった。
その兆候が少しでも見えたものは問答無用で首を跳ねられ、多くの魔女たちが、そしてそうではない人間も無慈悲な制裁によって命を散らし続けた。
しかしここにいる魔女姫だけは違った。何度首を跳ねても、業火に身を焼かれても永遠の命と若さを持つ彼女が死ぬことはなかった。
しかし当時の魔女は今に比べればまだ魔力が弱く、元々断片的な未来しか視ることのできない彼女は自身が捕まってしまう未来そのものを防ぐことができなかった。
「まだ十を数える頃の子供で皇子だったお前は、処刑を行っても死なぬ妾がその身を皇宮の地下牢へと捕らえられたと知ったとき、妾に会いにきたのだったな……」
幼き日のグラスは、秘密裏に運ばれてきて地下牢に捕らわれている魔女の姿をたった一目見ただけで、この世のものとは思えぬその美しさに心を奪われた。
看守のいないときを見計らい、グラスは何度も地下牢に通った。そして決して外に出ることのかなわぬ魔女に、庭園に咲く美しい花を摘んで贈り届けた。
「そうだ……あの頃から変わらず、お前はいつまでも美しいな……アネモネ」
名を持たぬ魔女の姫にグラスは魔女の瞳と同じ蒼い色の花の名前を、美しさの中に毒を含むところもまた彼女らしいと庭園に咲く花の中でも特に好んでいたものにちなんだ名前を名付けていた。
そしてグラスはその不遇な魔女の処遇を憂い、必ずその身を自由にすると誓ってみせ、当時の皇帝である父へと謁見を行った。
魔女は帝国に仇なす恐れる存在ではないこと、自分が皇帝になった暁には魔女と手を合わせて必ずよりよい国を作ってみせると、たった十歳の少年は当時の皇帝へと謁見の間で大声で熱弁した。
しかしグラスの父はそれを子供のたわごとであると一蹴し、魔女は永きにわたってその身を冷たい地下牢の中で過ごし続けた。
時は流れ皇位継承権一位であったグラスが新しい皇帝に即位し、彼はすぐに魔女の身柄を解放した。しかし魔女はグラスとともに生きることを選ばず、その身を自由にした餞別に魔法の力だけを授けて姿を消した。
「あぁグラス……すべてはあの時、お前への感謝の気持ちで魔法を授けた妾が悪かったのだ……お前はその身に余りある力のせいで狂ってしまった……」
魔女がグラスに授けた魔法。それは呪いによりいかなる相手でも殺すことのできる魔法であったが、グラスはその力を使い自身に仇なすものを殺しつくして帝国に絶対的な支配を築き上げた。
魔法は授けられし人間の内なる願いを具現化するためのもの。運命を変えたいと願ったエミリオには時間跳躍の力が、魔女を真には殺したいと願ってしまったグラスにはいかなる相手でも殺すことの出来る呪いの力が顕現した。
「アネモネ……若き日の私は、世界を手に入れれば君のことも手に入れることができるって……そう思っていたんだ……」
そこでグラスは力なくまぶたを閉じた、かろうじて意識はあったが最期の時は刻一刻と近づいて来ていた。
「馬鹿な……男よ……」
魔女はため息をつくようにその言葉を漏らした。
「愛し合えば死んでしまう。ゆえに妾にはそれができぬ、この身は魔女の姫であるからだ……何度もお前に話したことではないか……」
魔女の姫は生まれながらにして永遠の命を持つ、首を跳ねても業火で焼いてもその身が朽ちることはない。
しかしそんな魔女姫の命を唯一奪う方法が人間と愛し合うことであった。それは魔女が人間よりも遥かに上位の存在であると論じる女王によりかけられた絶対の呪いである。
「お前を真に愛することを恐れた妾はお前の前から姿を消した。ひどく悲しんだお前は妾ではなく世界の方を憎んだな。愛するもの同士が自由に愛し合えない、この世界こそが間違っているとな……」
魔女はグラスが自身に付けた名前に込められた意味を慮る。
アネモネ。
その蒼の花言葉は〝あなたを待っている〟
「そしてお前はその力で世界を変えた……若き日のお前は世界を自分のものにすれば人間と魔女が誰に恥じることもなく愛し合う世界に変えられると考え、そしてどこかに妾の呪いを解く方法があると信じて……そんなものは夢物語というのに馬鹿な男よ……」
魔女は魂が今まさにあの世へ旅立とうとするグラスの手を優しく握りしめ、彼へ最後の魔法をかけた。安らかな死と、その魂が死後の世界で救われるようにと最後の願いを。
「妾には親も兄妹もおらぬ。ゆえに妾は愛の意味を知らぬ、これからさき永遠の時を経てもそれを知ることはないだろう、しかしなぁグラスよ……」
魔女アネモネは彼の亡骸を抱きしめながら、静かに泣いた。そこにはただ真の愛しさだけがあった。
「お前を想う妾のこの気持ちは一体何と呼べばいいのだ……グラスっ……答えよっ……」
その答えを、魔女は物言わぬ亡骸へと問いかけ続けた。
魔女の瞳からこぼれ落ちる雫に濡れたその男の最期の顔は、魔女の最後の魔法にかけられてとても安らかなものであった。
「お前はやり方を違えた。しかし若き日のお前と妾が夢見た理想郷へはお前の息子が連れていく、真の自由な世界にな……」
そして魔女は何度となくエミリオに見せてきたものとは違う幸せそうな笑みを浮かべた。
「そうか……未来は……」
そこに魔女が初めて視た未来には、ただ幸せだけが広がっていた。
エミリオもマリアンも、そしてその間に産まれた子供たちも皆心から幸せそうに笑っていた。
愛する二人が、誰に憚ることもなく自由に愛し合える平和な理想郷。
その未来が確かに訪れることを、魔女はこの世界でただ一人だけ知っていた。




