皇宮からの追放
「第六皇位継承者、エミリオ・ウル・マルクト様、ご入来」
マルクト帝国皇宮内謁見の間に、宰相の男の声が響き渡った。
長く伸びる赤絨毯の果て、玉座に鎮座するのはマルクト帝国第三十二代唯一皇帝グラス・リ・マルクト。皇子エミリオの実父である。
対して入来を果たした少年はエミリオ・ウル・マルクト。
宰相の男が入来の際に述べた通り、皇妃エステルが長子にしてマルクト帝国第六皇子の地位を持ち、母エステルは自身の出産と同時にこの世を去った過去を持つ。
皇帝に対する謁見の権利は貴族の中でも一部の上流階級の人間にしか認められない特権の一つであったが、エミリオの持つ第六位の皇位継承権を持ってしてようやくその順番は一桁に届いた。
玉座までの道すがら、エミリオは謁見までの過程を思い出す。
どうして実の父に会うためにこんなにも面倒な手順を踏まねばならなかったのか、皇族というものの理不尽さ、そして血によってなかば強制されていく己の人生の行く先を憂う。
彼は子供心に何度も考え、そのたびにそれを憂いてきた。何度も己の血筋を呪った、どうして自分は皇族なんかに生まれてしまったのかと。
しかしエミリオは自身がこの場所に立つ意味を頭の中で反芻する。どうしても彼には皇帝に直訴しなければならない理由があった。
齢八歳にも関わらず威風堂々とした立ち姿でエミリオは玉座を目指す。母譲りの翡翠色の瞳は父に似て鋭い眼光を放ち、赤絨毯の横にずらりと並んだ臣下たち上流貴族が皆エミリオの前に頭を垂れる。
やがて玉座の前、皇帝の御前へ辿り着いたエミリオは形式的な礼の後に口を開いた。
「皇帝陛下、どうしてマリアンを皇宮から追放されたのですか」
エミリオが皇帝に謁見を申し込んだ理由、それは産まれと同時に実母を亡くし、四歳の時に乳母をも亡くした彼の身の回りの世話をしていた使用人の女性マリアンを皇帝の一存で皇宮追放処分としたからである。
世話をしていたというよりも、させていたといった方がその実態を指すにはいささか正確であった。
マリアンの父は帝国の中で一代限りの下位貴族に当たる騎士候の爵位を持つが元は平民であった。
騎士侯令嬢という皇宮内の使用人たちの中で圧倒的に下位の身分を持つ十六歳の少女は、その身分差を理由に使用人たちの間で密かな迫害を受けながらも父の名誉のため立派に奉公を勤めていた。
そんなマリアンに対して母と乳母を亡くし、新しい乳母ともそりが合わず心を閉ざしていた幼いエミリオは、写真でしか見たことのない亡き母にどこか似ていたマリアンに懐き、次第に心を開いていった。
そしてエミリオはその身分ゆえに下仕事にしかついていなかった彼女に自身の身の回りの世話をさせ、まるで侍女のように扱った。
皇宮内で迫害を受けていた少女と、母と乳母が亡くなったことから呪われているのではないかと影で囁かれていた皇子の少年。二人が心を通わせるのにそう時間はかからなかった。
最初は皇子という身分の違いすぎるエミリオを前に委縮していたマリアンも、彼が慕ってくれることが純粋に嬉しくて心を開いた。
そんなマリアンを更に疎ましく思う使用人たちも多かったが、エミリオが贔屓にしているとあっては異を唱えれるものはいなかった。
マリアンは聖母のようにただエミリオに優しく接してきた。例えそれが地位の違いから来るものだったとしても、亡き母と多忙な父から優しさを施してもらえず過ごしてきたエミリオの孤独な心を癒したのは確かだった。
マリアンが影で後ろ指を指されていることの理由を歳を重ねるごとにエミリオは理解していき、そしてマリアンよりも遥かに上流の身分たらしめる自らの血を呪った。
自分が皇族でなければ、政略のため将来は隣国の公爵令嬢との結婚が決まっている将来でなければ、もしかしたら誰にも恥じることなく彼女と添い遂げる人生もあったのではないかと。
それは最初に子供が母に抱く感情を恋情と勘違いしたものなのかもしれない。しかしエミリオはドレスで着飾った許嫁の公爵令嬢よりも、目の前の優しいマリアンが世界で一番美しく、その心が一番清らかであると信じて疑わなかった。
目の前の玉座にいる父に少しでも気迫で負けぬようにエミリオは毅然とした振る舞いを保ってきたが、しかし実際にこうして皇帝を目の前にすると、その眼光のあまりの鋭さに射抜かれてしまいそうになり、そしてそんな自分の小さな肝に嫌気がさした。
相手は皇帝。たった一代で王国だったこの国の歴史を、世界を塗り替えた男。
持つ空気が、放つ覇気が尋常ならざるもの、エミリオは身を持って眼前の父がこの国で一番権力を持ち、ゆえに絶対的な強さを持つ存在であることを実感させられていた。
「どうして……だと?お前はそんなことの為にこの皇帝に謁見を申し込んだのか」
短い沈黙の後に放たれた皇帝の言葉。エミリオはその厳しい語気に怖気ついたが、半端な覚悟でこの場に立っているわけではないことを思い出す。
彼はここにいたるまでに確かな覚悟を決めてきた、必ずマリアンの追放処分を撤回させてみると。
しかし皇帝はエミリオの目の色が微かに曇るのを見るや、彼がその身に隠そうとしている怖気を悟り、反論を許さなかった。
「奉公に値する実力を持たぬ。私がそう判断しそう決めた。力なきものの存在そのものが罪なのだ、罪人がこの皇宮にいる道理なぞない……次の者を呼べ、これ以上子供に使う時間はない」
「ですが父上っ!」
たまらず叫んだエミリオに側近の衛兵が立ちふさがるが、皇帝が片手を挙げると警戒は保ったままに衛兵たちも下がっていった。
「……お言葉ですが父上、マリアンは献身的にその身を僕のために捧げてくれました、皇宮内での身分の違いもものともせず立派に--」
「くどいっ!」
皇帝の一声で謁見の間は静まり返り、一瞬にして緊張した空気が流れる。
「エミリオ……帝国成立に当たり一番必要だったものは何か?諸外国を倒すための圧倒的な力だ、叶えたい願いも通したい己が道理も、全て戦いの果てに力で手に入れるものなのだ」
玉座から腰を上げ、皇帝はその高い背丈も相まって遥か下にエミリオを見下ろした。
八歳の少年の小さな決意を力でねじ伏せようとしているそのさまは、強者が偉く、強者こそが道理を通す資格があるとして圧倒的な軍事力でその栄光を築いてきたこの国の在り方そのものであった。
そんな皇帝に気圧され、エミリオは必死に二の句を継ごうとしたが、それは声にならない小さな悲鳴となって消えた。
「納得がいかぬか……横暴だと思うか……そう思う心が既に弱者の、力なきものの心なのだ、お前の体に流れる血の力はそんなものか、使用人風情にうつつを抜かすように育てた覚えはないぞエミリオッ!」
皇帝のその言葉にエミリオは強く反感を覚える。
自分はこの父に育ててもらった覚えなどない、与えてもらったのは命そのものと望んでもいない皇位継承権だけであり、この身を育ててくれたのは乳母とマリアンだけだと。
奥歯が砕けんばかりの歯噛みをしながらエミリオのその想いは眼前の皇帝に対して一矢報いたいという言葉となって現れた。
「父上。僕はあなたに育ててもらった覚えなんてありません、父上が僕と一緒に居てくれた時間なんて数える程しかないではないですか、それに僕は力や権力が欲しいなんて……皇族の血が欲しいと思って生まれてきてなんていないっ!」
エミリオの言葉に周囲の貴族たちは息を呑んだ。一歩間違えば実子であろうとも打ち首になりかねない発言であり、皇帝陛下とはそういう男であることをこの場にいる貴族たちはよく知っていた。
対してエミリオは幼いころから反抗の機も与えてこられなかった自分が、初めて父に言いたいことを、自分の心中を告白できたと、ある種の達成感と高揚感でいっぱいだった。
しばしの沈黙、それは皇帝の笑い声によってかき消された。
「フハハハハハ……愚かだ……実に愚かよエミリオ……あの娘がお前に悪い影響を与えたのだろうと思っていたがまさかこれほどとはな……」
皇帝の笑い声を含んだ言葉はやがて怒気を含み、それはエミリオの心を折るに十分足るものとなる。
「お前には失望したぞ、戦いもせずに望みだけを叶えてもらおうなどとは真の弱者の発想、搾取されたくないのであれば戦え、この私の決めたことに……皇帝の決めたことに納得がいかぬというのであればこの場で私を打ち取ってみせよ!」
納得がいかないのであれば皇帝を殺して自分が新しい皇帝になれと、エミリオは眼前の男の言葉をそう解釈したが、そんな道理は間違っている。と心中で声にならない叫びを上げる。
しかし体格の差が、持つ力の差が、圧倒的な支配が、その形を眼前に成した時に八歳の少年はこれ以上の戦意を保てず、ただ自身の無力さを呪う他になかった。
その挫けそうな心の中にいる笑顔のマリアンのことをエミリオは一心に考え、溢れそうになる涙だけを必死にこらえた。
「いいだろうエミリオ……そんなに女の尻を追いたいのであれば好きにするがいい、力なきものに用はない……皇位継承権を剥奪し、娘とともに追放処分と処す!」
皇帝のその言葉を最後に、エミリオの最初で最後の謁見は終わった。
☆
「……すまないマリアン、君の居場所を……守れなかった」
謁見の後、ともに皇宮を追放処分となったマリアンは、エミリオとともに馬車に揺られて辺境の地を目指していた。
‐‐皇帝陛下相手に命を懸けて自分の名誉を守ろうとしてくれた主君への忠義は一生をかけて果たさなければならない。
自分をかばった結果、お互いが追放処分となったと聞かされたマリアンは、強く心にそう誓っていた。
最初に自分だけが追放処分となったときに彼女は人生の終わりまでもを覚悟した。父が戦果を上げ、その手に掴みとった騎士候の爵位が無に帰すと悟り、何のために皇宮にきて奉公の任についたのかと、己の振る舞いを悔やんだ。
追放となった理由はマリアン自身には見当も付かなかったが、皇帝陛下直々の帝命であると知れば、理不尽を嘆く気持ちすら浮かんでこなかった。
「いいんです殿下……お命があっただけで十分ですわ、わたくしのために戦ってくれたのでしょう?」
マリアンがどこか慈しむように言うと、エミリオはその目に涙を浮かべた。
「マリアン……僕はっ……僕は……っ……何もできなかった……父上が……ぐすっ……怖くて……」
まだたった八歳の子供でも、エミリオは帝国の皇子として力こそが絶対だという父の考えの下厳しい教育を受けてきた。その矜持にかけて人前で涙だけは流すまいと必死に耐えてきたのだろう、とマリアンは心中を慮る。
殿下の皇位を奪い、その人生を大きく歪めてしまった大罪人、自分のしてしまった事はそう捉えられてもなんらおかしくはない……、エミリオの綺麗な瞳から溢れていく涙を見ながらマリアンはそう思う。
継承権を剥奪されてもエミリオは帝国の元皇子、万が一最近その活動が活性化されていると噂される反帝国勢力に素性が知れればどんな風に政治の道具にされるかわからない。
ゆえに誰も彼のことを知らない場所へ、そんな場所などマリアンには果たして見当もつかなかったが、絶対的強者を相手に自分のため立ち向かってくれた主君に、今度は自分が命を賭けてその身を守る番だと強く思った。
しかし今だけは、主君と臣下という立場を忘れて、この勇気ある少年を抱きしめてあげたいという気持ちでマリアンは心がいっぱいになり、無礼を承知でエミリオを力強く抱きしめた。
「僕は……絶対にこれから君を守ってみせるからっ……」
エミリオもまた強くマリアンを抱きしめ返し、彼女の腕に抱かれながら大粒の涙を流して言った。
「わたくしの方こそ……殿下を……あなたをお守りしてみせますわ……」
揺れる馬車の中で二人は誓った。
ともに帰る場所も、地位も名誉も失ったが、互いに相手のことを守り抜くと。




