或る詩書きの漫ろ言
日常生活で、突然、神秘的なフレーズが思い浮かぶことがないだろうか。ふと目に映ったものや、ぼうっとして考えていたことを何気なく一つの文章にしてみると、なんと、とても頭に残る響きではないか。思いついたそれを、私はできる限りメモ帳やチラシの裏に書き留めることにしているが、それでも仕事中や会食中など、手を離せない事柄の最中にある時だっていくらでもある。そのような時、私はそれを、後で書き留めよう、と思うのだが、その時を過ぎ、私が疲労とともに布団に深く沈み込む時には、既にそのようなことなど忘れてしまっているのだ。
書き留めていなかったフレーズを思い出そうとしても、上手く引き出すことが出来ない。頭に靄がかかったような、水で溶かした絵の具をいくつも混ぜたような、そんな感じ。大抵の場合、こうなると、当時考えていたことは、いくら唸っても思い出すことがない。
こういう文章を、私は、“死んだ詩”、と呼んでいる。それが小説の案だったとしても、短文の案だったとしても、もしくは何の纏まりもない、ただのフレーズだったとしても、それらは全て死んでしまって、もう蘇ることはない。つまり、思い出すことは出来ないのだ。
「かなしいな」
かなしい。
ただ、かなしい。
折角思いついたものを、形に出来ずに、なくなり、忘れてしまうことが、かなしい。
文章が死ぬと、そこに委託されていた思想も、感情も、残らずに消えてしまう。
私はそれが、かなしい。
だから私は、出来るだけ詩を殺さないようにする。