9.少年の記憶
実は前に1度この話を書いていたのですが保存する前にタスクキルしてしまって萎えてました(笑)
一応更新はまだ続くのでよろしくです。
ある、1人の男の子の話をしよう。あまりに幼いうちに世の中の非情さ、冷たさを知ってしまった、可哀想な男の子の。
彼は6歳にして、未だ父親の顔は見た事が無い。しかし初めて入った小学校では、明るく顔も中性的なイケメンだったのでいわゆる優等生、小学生には似つかわしくない言葉で言うと陽キャポジションに立っていた。物分かりも良く運動神経も抜群、皆から好かれるようなそんな生徒だった。
全てを断っていたが、その容姿から子役にスカウトされた事も1度や2度ではない。
そんな子が家ではどんな暮らしをしているのかなんて、生徒はもちろん教師でさえも考えたことは無かった。さぞ幸せな家庭で良い暮らしをしているんだなぁ、それくらい。
「ただいま」
そう言っても帰ってくるのは虚しい自分の言葉のこだまのみ。靴を脱いで家に上がると古臭いアパートの床がギシリと軋む。
机の上を見ると日本通貨の中では最も価値が低い紙幣が1枚と、好きな物を買って好きに食べろと言う趣旨の置き手紙が1枚、雑に置かれていた。晩御飯が用意されている時の方が数えるほどしかなかった少年はそんな事にも慣れてしまっていた。
近くのコンビニで買ってきた味気のない晩御飯を一人虚しく食べる、そんな毎日を送っている。すっかり常連客となってしまった少年を店員は心配そうな目で見ていた。
母親は夜遅くまでどこかに出掛けていて朝早くにどこかに出かけてしまうので、顔を合わせる事すらあまり無い。それが遊びに出かけているのか働きに行っているのかすら知ることはなかった。
壁の小さな穴から吹き抜ける隙間風がその虚しさを強調して、寂しさを呼んでくる。
学校に行くと友達や先生の温かさに触れられ、寂しさを忘れられるから、彼はいつも早く家を出て1番に学校に着いていた。そんな事とはつゆ知らず感心な事だと周りの人間は見ていた。
不幸か幸いか、そんな生活が異常ではないのかと疑問を持つには、年齢と器量が足りていなかった。友達がする両親の話に、羨ましいがあの子達が特別なんだと自分を納得させていたのだ。下手に物わかりが良すぎたのが仇となってしまっていた。
それからそんな生活を続けて数年が経ち、13歳になった少年は優しく明るい性格と、大きくなってより造形が綺麗になった顔を武器に、老若男女問わず人気になっていた。
新しく入った中学校では初日から小さいながらも噂の的になっていたのだが、緊張をしていた彼はそんな噂の標的が自分だとは思ってもいなかった。
入学式に周りの生徒が皆両親を連れて嬉しそうに正装や自転車を見せびらかし、笑顔を浮かべているのをとても羨ましそうに見つめていた少年に、見つめられていた女の子達は顔を紅くしてきゃいきゃいとはしゃいでいた。あぁ、あれが普通の家庭。普通の生活。
「普通」じゃないのは、自分。
小学校の過程を卒業してようやくあの時の疑問を持ち、自分で解決してしまう。急に孤独の波が押し寄せて、自分自身を押し潰してしまいそうになる。入学式というおめでたい日に、似合わない感情を持ってその日を迎えるのも普通とはかけ離れていると自覚し、そんな自分も嫌いになった。
しかし彼は、羨望の感情を持ったとしても、嫉妬や怨恨の感情を持つ事は無かった。両親を恨んだり悪く思ったりする事も絶対になかった。子供ながらも、本当に出来上がった人間であったと思われた。
が、中学生なんて、そんな出来上がった人間ばかりではない。一般の中学生は思春期の真っ最中で嫉妬や恥に敏感な時期。少年の周りの学生もその例外では無かった。
頭も物分かりもよく、見た目だってイケメンでスタイルもいい。おまけに性格も良く女子や先生、増してや保護者からも大人気。家族や親戚から彼を紹介してくれと頼まれた子供もいた。そんな少年が、ありがちな男子生徒の嫉妬の標的にならない訳は無かった。自分より優れた人間がいるということは、それだけで腹が立つということだ。
クラスの中に渦巻く醜い嫉妬の感情。元は小さかった子供が大きく育ち大人になるように、それは大きく育っていくのが摂理。元は仲が良かった友達も、話しかけたら愛想笑いはしてくれるが近づいては来なくなった。
そしてやがては小さな嫌がらせまで受けるようになった。女子や先生は気づかないような、小さな物。今までは誰からも受けた事が無い悪質な感情に、少年は酷く疲弊した。
そんな事は知る由もない少年を囃し立てていた側の人間は更に数を増やしていき、応援の声は大きくなっていく。それが少年を追い詰める結果になるとはつゆにも思わずに。
小さな悪意が積み重なり2ヶ月ほど続いた結果、少年の顔から笑顔はすっかり消え去っていた。薄々と気付いた人も心配そうなのは表面だけ。いくら取り繕っても本心から思っているではないのは分かってしまう。そこに関しては小学生時代の方が良かったのかもしれない。
少年は、本当の意味での「孤独」を12歳にしてして知った。それを飲み込み、理解するには早すぎる年齢だった。
少年は、1人だった。表向きにはたくさんの味方がいて、好かれて、時には愛されて。しかし、彼は精神的には生まれてきてからずっと、1人だった。
そしてそれから更に1年が経った。少年は止まない嫉妬に嫌気が差していた。良くしてくれる人に対する笑顔も枯れ果てて行った。そうなって初めて教師も彼に対する考えを変えた。最ももう手遅れだったのだが。
たまに顔を見かける母も憔悴しきっていた。その頃からだろうか。母親からも向けられる怨恨の視線に気づいたのは。夫のいない母親は生活のためにひたすら働いていたことに気づいたのは。
そして彼が生きる気力を無くす決定打となった日のことを話そう。
中2のある夏の事だった。その日はやけに蒸し暑く、太陽が照りつけていた日だった。男子から向けられる侮蔑の視線と女子から向けられる見定めの視線をその身に受けながら、彼は重苦しい体を学校に運んだ。
日に日に憔悴していく彼を見て、いじめっ子は満足していた。実際はそのいじめがその原因ではなかったのだが、彼らからして見ればそんなことはどうだって良かったし知ることもなかった。
その日の3時間目が終わったくらいのタイミング。先生が血相を変えて教室に飛び込んで来た。息切れした息を整えて、声を張り上げた。
「お母さんが倒れたらしい!今すぐ病院に行った方がいい!」
その場は騒然となった。心配そうに見つめる人がほとんどだったが、ニヤニヤと教室から出ていく少年を見ていた男子の目線を感じて、少年は初めて他人の嫉妬に怒りを感じた。
かなりのスピードで走る先生の車に乗って、整備され切っていない道路をトップスピードで駆ける。状況に頭が追い付いていない。窓から見える、駆け抜ける景色の向こう側に意識だけ置いてきたような、そんな感覚。
病院に到着してからもそんな感覚は抜けなかった。エレベーターで階層を上がっても、先生の小難しい話を聞いても、何をしても意識が現実に戻されることは無かった。
そう。病室に入って病床に伏せる母親を見るまでは。
それを見てから、急に体が現実に引き寄せられる。涙は既に枯れ果てていた。ただ、今までに経験したことがない感覚が、脳に警告を送る。
「もう、目は覚めないかもしれません」
さっきの会話で、確か重度の過労、がんという単語が聞こえたような気がする。断片的な記憶が1つに固まる。ろくに思い出もない母親も、亡くなるとなるとそれを受け入れられるような年ではない。
「心の準備を、お願いします」
医師が目を瞑って顔を伏せる。嫌だ。そんな事は受け入れられない。受け入れたくない。まだ何もして貰ってない。何も、してあげられていない。様々な思いが頭の中を駆け巡る。
少年は、そのまま立ちすくんだ。声を出すことも動くことも無く、息をすることすら忘れていた。それでも、涙は出なかった。
それから誰一人として声を発することなく、張り詰めた空気が数分続いた。永遠に続くのではないかと思われたその時間も、母親が重い瞼を持ち上げた事によって破られる。
「先生!目を、覚ましました!」
「最後の時間かもしれません。私達は出ていくので伝えたい事など今のうちに、お願いします」
医師が静かにドアを閉めて、空間に二人きりになる。不幸にも、母親と二人きりで話をする記憶は今が初めてになるかもしれない。母親の死の寸前にしかそんな瞬間は訪れていなかったのだ。
少年は何も話す事ができなかった。何か話そうと口を開いて試みるが、母親との会話ですら慣れていない少年は、口を開けたまま固まってしまう。
少し開いた窓から吹き抜ける風がカーテンを揺らす。少し視線を逸らして青空を見る母親は、少年より先に口を開いた。
「あなたには、申し訳ないけど」
久々に聞いた母親の声は弱々しく、今にも消えてしまいそうだった。
「あなたの事なんて産まなければよかったと思ってる」
散々浴びせられてきた数百の悪意よりも、この1つの言葉の方がずっと心の奥に刺さった。
「あなたの声が、生き方が、優しすぎる性格が、きらい」
刺さって、抉って、溶けていく。浸透した悪意が、じくじくと奥の方を痛めつける。聞きたくない。それでも耳を塞ぐこともできない。体が、心が、動かない。
「あなたの、その顔が嫌い」
それが、彼女の最後の言葉だった。全て吐き出し切ったように眠った彼女の顔は、一言で表すと無であった。もう枯れたと思った涙も、出ているかすら怪しいほどの一筋だけ、頬を伝った。母に与えられたのは、命と、孤独だけだった。
冷たい電子音が鳴り響いた後、医師が入ってきて手を合わせていた。母の死という受け入れ難い事実。更に母から向けられた悪意を少年は消化しきれなかった。思春期の学生にありがちな自分は悪くないという自己防衛に走る事すらできなかった。
夫のいない母は身を粉にして働いていた。煽りくる不況にも負けず、朝から晩まで働きに出ていた。生きるために、一心不乱に。初めの方は、それこそ子供のために。
だが、大きくなるにつれて何もかもうまくいっているような顔で育っていく少年が嫌になった。これといった欠点も無しに人生を送っている息子に嫉妬を抱いた。あらゆる方面から少年を殺してしまったのは、嫉妬だったのだ。
そして少年が中学校に入った後、絶世な美少年と噂になった息子を、年甲斐もなく紹介をせがむ職場のおばさんも多くなった。そんなのありえないと思うだろうが、本気で息子を狙っている女達に母は吐き気を催した。
そんなおばさんも一応上司なので、やんわりと断り続けていたが、やがて怒りを買った。嫌がらせも沢山されたし、職場を何回も変えた。その度に、同じ光景の繰り返し。心も体も、憔悴しきっていた。
そして母親は、少年を憎んだ。
母も息子も、生きていくための理由が「生きている事」しか無かった。
他人同然の親戚に引き取られて大勢の夫人に手篭めにされかけた事もあった。厄介者扱いされてたらい回しにもされた。結果、血のつながりの濃い親戚全員の協力で一人暮らしをさせて貰えることになった。
少年は、愛を欲していた。
それは、叶わなかった。そして誰にも心を開かないし見せるのは全てが愛想笑い。必要以上に他人を近付けない、冷たい少年が出来上がった。
少年は、壊れてしまっていた。
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