校正作業の二人
校正の仕事は赤ペンとともにある。
短髪が可愛らしい若い女性と、長い髪をした垂れ目の女性は、二人顔を見合わせてから、赤いボールペンのボタンをノックした。
今回の仕事は大長編だ。幅広いジャンルで活躍している多産作家が一年に一回のペースで発表するその作品は、やや難解な内容だが、注目度も高くやり甲斐はある。
うん。と同時に気合を入れてペンを構えると、文章を先頭から順になぞり始めた。
「えっと……一段目の十三行目ラスト、トル……」
「トル」
短髪が告げた指示を反復して同じ記号を書き込んでいく垂れ目は、言葉は少ないが手の動きが速い、というか多い。言われていないところにもどんどん書き込んで、瞬く間に余白が赤くなる。
「二ページ目……一段目の字下げ。二段目……改行、三段目の三十三行目、五文字目トル、三十五行目四文字目、トル、四段目……」
「トル、トル」
二人の背後で他の作業をしている同僚が大声でやり取りしたり通路を行ったり来たりしているが、二人はなかなかの集中力で、そういった喧騒をものともしない。淡々と校正作業が進められていく。
「……九段目、三行目、二文字目…………トル、改行……。十一段目、字下げ。十二段目、五行目の五文字目、トル……ですよね? ここ」
「トル」
合っているわよ。と頷いて、垂れ目が短髪に続きを促した。平気そうな垂れ目と反対に、短髪は少し疲れてきているようだ。いつ休憩を挟むかと考えながらも手を動かす。
「三ページ、七段、二行目、トル」
「トル」
「下から二段目の十五行目、トル。ああ、えっと……?」
「トル。……ページが変わるわね。少し休憩しましょうか」
両手で目を覆って細いため息を吐き出している短髪のために、垂れ目がコーヒー入りの小さい紙コップを持ってきた。嬉しそうに礼を言いながら受け取った短髪はそれを一息に飲み干して、すぐにゴミ箱に放る。
「さて、やりますか! 次は四ページですね」
「さすがに若い子は回復が早いわねー。えらいわ」
「へへ。行きますよ〜。二段目、十四行目、一文字目、トル」
「トル」
「五ページ目、一段目の二十六行目、九文字目、トル。改行、字下げ……」
「トル……あ、待って」
電話応対も同僚に任せていた垂れ目が、自席の電話が鳴ったことで作業を止めた。頭を下げているところを見ると相手は客先らしい。結果確認の電話は次の月曜以降にしてほしいことや、折り返すので留守電に判りやすいメッセージを残してほしいこと、複数の番号を使わずに一つに絞ってもらいたいことなど、丁重に、しかし細々とリクエストをした。
最後に礼を言って深く頭を下げてから、電話を切る。
「先さんですか」
「そう。ごめんね中断しちゃって。続けましょ」
「はい。次は……同じく一段目。三十一行目の、下から二文字目、トル……、三十二行目、トル……、ページが変わって……」
「トル、トル……」
その時、大慌てで分厚い原稿を持って駆け込んでくる上司の姿を視界の端に映した垂れ目は、嫌な予感しかしない状態で作業を再び止め、ゆっくりと立ち上がった。
締め切りとか割り込みとか優先とか、そういう言葉を聞いて短髪が微妙な表情で笑う。それから彼女たちは二人して、赤ペンを持った手でガッツポーズを決め合う。
二人の地味な戦いは、まだまだ始まったばかりなのであった。