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我が大いなる大蛇のイドへ:Egophilia  作者: Exception
第二章 ウロボロスの尾は猛り狂う
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達観者 前編

『パンクラチオン』

打撃技と組技を組み合わせた古代ギリシャにおいて行われていた格闘技。

目潰しと噛み付きの禁止以外には禁則がなく、ギブアップによって勝敗が決まるが、試合の結果死ぬ事は全く珍しい事ではなかった。

また、ピリクスという打撃力を上げる為の東洋武術に似た稽古法がパンクラチオンには存在していた。

"無知の知"によって名を馳せた哲学者ソクラテスの弟子である哲学者プラトンはレスリングが得意で、パンクラチオンの事を「不完全なレスリングと不完全なボクシングが一つとなった競技」と批判的に評している。

 闘技場はむさくるしいほどの熱気と歓声に包まれていた。

闘技場の中央で筋骨隆々の大男が、オアを本気で警戒し、睨み付けている。

対するオアは特に警戒するそぶりも見せずに、ただ遠くの観客席にいる、二人の男を見つめていた。

白ヒゲの筋骨隆々の不機嫌そうな男と、黒髪の程よく筋肉がついたご機嫌そうな男の二人は、互いにオアを指差して片やふてくされ、片や興奮気味に笑っている。


「小娘……どこを見ている!」


まるで相手にされていない男は舐められていると感じ、怒ってオアに飛びかかる。

鋭い前蹴りが繰り出されるが、オアはそれに視線を合わせる事すらなく、男の蹴りを持ち上げるように合わせ技をやってのけた。

男はそのまま勢いよくぐるりと半回転し、頭を強く地面に叩きつけて意識を失った。

余りにもあっけない結末。しかし、観客たちはより一層の歓声と拍手でオアの勝利を讃える。


「……」


オアは歓声や拍手には無関心に、ただ遠くにいる男の姿を見つめているだけだった。

その男は満足そうにオアを見つめて、腕を高く上げて勝利を祝っていた。




********




 数週間前に、オアは目が覚めるとその視界一杯に柱と壁画が飛び込んできた。

起き上がって辺りを見回してみると、比較的原始的だが、それでいて荘厳な巨大な建築物群がそこにあった。どうやら、オアやその神殿の入り口にある階段に倒れていたらしい。


「古代……多分、ローマじゃない。 ギリシャかな」


町の人々はまだ太陽が昇りきっていないからか、神殿には顔を出していないようで、あたりはきもちいい程に静かである。オアは静かながらも偉大さを感じさせる町並みをぼーっと見つめて感心しながらこれからの事を考える。

目が覚めた、という事はこれから"何か"が起こるという事だからだ。しかし、オアにはそれが具体的に何であるかはわからない。

分かるのはその何かのぼんやりとした位置や出現する時間、そして勘めいた"原因"の臭い。 精々その程度しかなかった。

そもそも、今が紀元前何年かはわからない。少なくとも、神殿をはじめとした様々な建物が未だに後世で失われた極彩色の姿を見せている事や、火の灯してある松明などの生活の息吹などから遺跡などではないという事は分かるが。

そういった細かい所に気を回して情報を整理していると、突然神殿の中から怒鳴り散らすような、あるいは激論を交わしているような声が聞こえてきた。


「――だとでも――ラチオンは」


「いや――不完全なのは――ピリク――」


オアは臭いを感じた。その会話に、"何か"の臭いを感じたのだ。

"今回は早く終わるかもしれない"、そんな期待を胸にすぐに立ち上がり、大げさにすら感じさせるような荘厳な神殿の中にオアは歩みを進める。




********




「ピリクスの発展系だと? くだらない、そもそもパンクラチオンなど不完全な格闘技に過ぎないではないか」


白いヒゲを蓄えたたくましい体つきの男が、控えめな体つきをしているふくらはぎに大きな傷を持った黒髪の男を怒鳴りつける。

体格差もかなりあり、白いヒゲの男には黒髪の男は到底かないそうには見えない。しかし、黒髪の男は臆せずに、むしろ白いヒゲの男よりも強い語気をもって反論をする。


「筋肉主義的な格闘技の時代は終わったのだプラトン! レスリングやボクシング、そしてパンクラチオンにおいても理想の格闘技は完成されていない。これからは力ではなく、術こそが格闘を制する」


白いヒゲの男――プラトンはイラつきを誤魔化すようにそれを笑う。

そうして、黒髪の男の腕を掴んで、男の体の貧弱さを見て鼻息を鳴らして馬鹿にしたように目配せをする。


「術だと? ばかばかしい、魔法のような物があるわけでもないだろう。 格闘においては、どんな術があろうと体格こそが重要とされるべきなのだ」


「だがプラトン、お前はオリンピアでは結果を出したか? お前のような者に、私の格闘技を馬鹿にする資格はあるのか!?」


黒髪の男はまっすぐとプラトンにそう言ってのける。当然、プラトンはその侮辱に顔を引きつらせ、わなわなと手を震わせた。


「ディミトリ、貴様……貴様のような物を知らぬ者がいるから――」


「お前の師匠は無知の知などと言っていたではないか! お前の知らぬ事がまだあると私は言っているのだ」


「貴様ごときが我が師の教えを利用するか? 侮辱もいい加減にしろ!」


二人の口論は段々と互いの人格批判へと移行していく。松明の炎よりも、二人の怒りは激しくごうごうと燃え上がって互いの信念を焼き尽くしている。

しかし、その激論はディミトリの背中を何者かがつついた事で終わった。


「……何だ、君は?」


「……神様じゃない物」


ディミトリの問いかけにそうオアは答えた。あまりにも素っ頓狂な答えに、プラトンもディミトリも固まってしまった。

先ほどまでの熱が嘘のように急激に冷やされて行く。プラトンもディミトリも、気まずそうにお互いの顔に目配せを送る。


「おい、プラトン。 お前には娘がいたのか? それも、他民族の嫁との」


「いや、あずかり知らん」


再び二人の間に気まずい空気が流れる。

ガタイのいい男二人に、小さな少女がその男たちをじーっと見つめている状況は、喧嘩の権利を二人から取り上げてしまった。

しかしお互い、この奇妙な少女に話しかけようとは思えず、無言の押し付け合いをするが、それでも長い間黙っている訳にはいかずに、とりあえず誤魔化すようにディミトリが口を開いた。


「お前の娘じゃないとなると……君、迷子か?」


「ううん、迷子じゃないよ。 オアっていうの」


「オア……変な名前をしているな。やはり他民族の者か? 面倒だな……」


ディミトリが頭を掻いてそうぼやくと、プラトンがすぐに反論をした。


「いいや、他民族の娘にしては流暢に喋るではないか。おそらく、ギリシャの民だ」


「ああ、なるほどな……」


ディミトリはじーっとオアを見つめる。

しかし、どう見てもギリシャ系とは違う、北方の国を思わせるような顔つきをしているオアを見つめれば見つめるほど、違和感は高まる一方であった。


「オア、とかいったな、 親はどうしているんだ?」


プラトンの問いにオアはしばらく首を傾げて考え込む。オアには親など存在しない。だからこそ、返答に迷ってしまったのだ。

そして、一通り考えてから、答えるのが面倒くさくなり、プラトンを無視してディミトリに向き直る。


「ディミトリの格闘技って、どういうの?」


無視された上に話題が掘り返され、ムっとした顔をするプラトンを他所に、ディミトリの顔が明るくなる。

ディミトリは意気揚々とオアに自らの格闘技の理念を語りだした。


「よくぞ聞いてくれた! いいか、現代ギリシャで主流となっているパンクラチオンにはピリクスという呼吸法についての鍛錬がある」


「知ってるよ、力の発揮を最大限に引き出す呼吸法だよね。 打撃力を上げるのに効果的の」


「な……?」


ディミトリは目を丸くして驚いた。幼い少女がここまでパンクラチオンについて詳しいとは思わなかったからだ。

しかし、同時にその事実はディミトリにより熱を持たせた。"類は友を呼ぶ"という言葉の通り、格闘を愛する者は、同じく格闘を愛する者に強く惹かれる。


「すごいなオア! そうだ、その通りだ。そして、私が開発した格闘技は、ピリクスの発展系なんだ!」


オアの眉が、分からないほどに小さく上がる。歴史には役目柄かなり詳しいオアではあったが、ピリクスの発展系など一度も聞いた事がないからだ。

そして、オアはほぼここで確信した――この男こそが、今回の"何か"であると。


「……」


1瞬、脳裏に迷いが浮かんだ。ディミトリを殺してしまう事への苦悩が、オアの脳裏へ浮かんだ。

オアはディミトリの無邪気な顔から目をそらして、罪悪感から逃れる。その様子を、ディミトリもプラトンも不思議そうな目つきで見つめている。


「どうしたんだ? オア」


ディミトリが心配そうにオアの顔を覗き込むが、オアはそれにあわせて更に目をそらすばかりであった。プラトンはその様子を見て、嘲笑気味に口を開く。


「お前の馬鹿な理想論を聞いて呆れたのだろう」


「なっ……貴様、先ほど侮辱するなと言っておきながらその言い草はなんだ!?」


「なんなら"大会"にでも出てみればいいだろう、お前の間違いを証明する為に」


プラトンの"大会"という言葉に、オアは顔を上げた。


「大会になどでなくとも――」


「言い訳かディミトリ? ああそうだったな、お前はもう足が潰れかけているのであったな。ならば仕方ないな、証明ができなくてもな?」


ディミトリが苦虫を噛み潰したような顔をする。ディミトリのふくらはぎには大きな生々しい傷跡があり、長時間の激しい運動をすると激しい痛みに襲われてしまうので、激しい運動ができないのだ。

大勢の男たちが集まり、必然的に何度も戦う事になる大会においては、この欠点は致命的であった。故に、ピリクスの発展系などという"負傷して未来を奪われた男の世迷い言"をプラトンは笑い飛ばしていたのだ。


「クソッ、貴様――」


ディミトリがプラトンに今にも殴りかかりそうなその時、オアがディミトリの手を取って、力強く握り締めてこう言った。


「私が大会でるよ、ディミトリ」


「……はぁ?」




********




 闘技場は沸きに沸いていた。一人の少女が、次々と大男を軽々と投げ飛ばして勝ち進んでいるからだ。

観客席に腰掛けるディミトリは、隣にムスっとした表情のまま腕を組んでいるプラトンに煽り気味の口調で話しかけている。


「どうだプラトン、あの小娘が決勝へ進出だぞ? 俺が稽古をつけたあの娘がだ! 俺の技はパンクラチオンを大発展させたんだ! みろ、あの小さな少女が大男を軽々と投げ飛ばしているではないか!」


プラトンはそう煽られるたびに、眉間にしわをよせてピクピクと頬を痙攣させる。自らの間違いという屈辱以上に、自分も眼中の小さな少女の魔法染みた技に対抗できそうにない事と、ディミトリの煽りが純粋にうざったらしい事にイラついていた。

プラトンの目には本当に、オアの技は魔法にしか見えていない。男たちがまるで"自分から転んでいる"ようにしか見えない。ディミトリのインチキも疑ったが、財力を考えると到底不可能だとしか思えない。


「貴様、一体あのような技をどうして思いついたんだ……悪魔に魂でも売ったか?」


プラトンの言葉にディミトリはぽかんとした顔になったあと、"ぶっ"とふきだす。そして、半笑いのままプラトンの肩をトントン叩く。


「私は魂など売ってないさ! ただ、傷にめげずに歩みを止めなかっただけだ。この傷を負ってもなお、力を失ったからこそ、私は技術を求め続けただけだ」


そう言って満足げに鼻を鳴らすディミトリを見て、プラトンは感嘆してしまい、それを隠そうとした。高い者が、更に上の高みを見てしまった時の嫉妬として。

しかし、ふとプラトンはピタゴラスが無理数を弟子が発見した際にそれを愚かにも隠し立てした事を思い出し、自らを恥じて、とうとうディミトリを認めた。


「わかった、わかった。お前の作り上げたあの格闘技は確かに素晴らしい物だ、パンクラチオンどころではなく、格闘技全ての歴史が変わるほどに」


「な……!」


いたってつまらなそうに、素朴に、プラトンは告げたが、ディミトリには頑固者のプラトンが素直に認めるという事に驚き、そして往々にして堅牢な物を破った際にはむせ返る程の幸福があるように歓喜した。

両手を掲げ"うぉお!"と雄たけびをあげると、何度も拳を天に振り上げて自らの技の素晴らしさを祝福した。

それがあまりに突然であったので、オアに向いていた周りの者の注目が一斉にディミトリに集まり、ついでにその隣にいたプラトンにも目をやる者がいた。


「……勘弁してくれ」


ついさっきの自らの賞賛を後悔して、プラトンはため息をついた。

遠くで控え場所へと戻ろうと闘技場の出入り口に向うオアですら、ディミトリの尋常ではない雄たけびが聞こえたのか、明らかにこちらを振り返って苦笑を向けていた。




********




 小さな松明によって照らされた闘技場の控え場所へ向う廊下では、私闘が起こらないように警備する武装した警備兵たちがちらほらと目に入る。

パンクラチオンは元来その野蛮的とも言える性質から、審判をはじめとしていつでも止められるようにこのような武装をする事が基本となっていた。

当然、そのような危険な場所に、小さな少女――それもダークホースから決勝戦進出者となった――オアがいるのだから、当然嫌でも視線はオアへと集まっている。

好奇の目を沢山向けられる事に、オアは少なからぬ不快感を覚えていた。だからこそ、足早に控え場所へと向っている。

しかし、道中で闘技場に向うであろう自らの2倍は大きな体格をしている大男を見てオアの足が止まった。明らかにその男がこちらに尋常ではない視線を送っていたからだ。

男は立ち止まったオアに対して、歩みを止めずに近寄ってくる。そして、オアの目の前にくると、オアを見下ろして、まるで大型猛獣かと聞き間違う程の低い声で話しかけてきた。


「オアとか言ったな、娘」


この大男も、オアが"本気を出せば"数秒もなくして殺せてしまう。しかし、大きな体格をしたゴツイ顔つきの男が尋常じゃないほど力の入った真剣な顔をこちらに向けているのを見て、オアは少なからず恐怖心を覚えた。

思わず1歩後ずさると、男は意外そうな顔を見せた後に、少し考えてから"ああ"と呟いてから、膝をついてオアへ視線を合わせた。しかし、その顔は全く変わってはいなかった。


「オアとか言ったな、娘」


男は全く同じ問いかけをする。だが、オアの恐怖心も少し和らいだのか、オアは頷いてそれに答えた。

すると、男は少しだけ口角をあげ、やわらかい顔つきに変わってから、すぐにまた糞真面目な顔に戻る。


「お前の全ての試合を見ていたぞ。まるで魔法か何かのような、美しく、それでいて恐ろしい技だ」


「……ありがとう」


オアは素直に賛辞を受け取ったが、男はその感謝に少しだけ不機嫌になったのか、今度は眉をしかめ、唇をへの字に曲げる。

思わず"何か間違ったことを言っただろうか"と、オアは自らを省みた。しかし、男がすぐに曲がった口を開いた。


「戦士として、感謝される事は不要だ。私は戦士としてこう君に言われたい、"お前は我に勝てるか"と。私は君に敵として接したいのだ」


男のその言葉に、オアは自らの賛辞が男のプライドを、ささやかにではあるが傷つけていた事に気づいた。

そして思わず俯いて、「ごめんなさい」と呟いてしまう。そうしてから、男に向き直って、できる限り同じように糞真面目な顔を作った。


「お……お前は私に勝てるか?」


男はきょとんとした顔に変わる。そうして、自らが明らかな無理強いをさせた事を自覚し、戦士としてではなく、人として己を恥じた。

そして思わず、男も俯いてから「すまん」と呟いた。


「え? あっ……うん」


オアがそう返してやるが、その先には言葉がなく、二人の間に微妙な空気が流れる。

視線をせわしなく泳がせる二人だったが、男はふと自らの名前を名乗っていなかった事に気がついた。


「君にまだ名乗っていなかったな。私はニコラオスだ、君と当たるのは決勝戦……次の試合になる」


ニコラオスは手を差し出して、できる限り柔らかい笑顔を作った。オアは呆気にとられたが、すぐに自らもやわらかい笑顔で握り返した。


「パンクラチオンの選手なのに、優しいんだね」


ニコラオスの手の温もりを感じながらオアがそういうと、またニコラオスは糞真面目な顔になる。


「戦士たるもの、強者へこそ敬意を払いたい。それだけの事だ」


「……ふっ……あはは!」


余りに頑固な受け答えに、オアは思わず噴出してしまった。ニコラオスはそれでも糞真面目な顔を崩さない。その事が更に面白くて、オアは笑った。

そして、自らが笑うという事が余りに珍しいので、オアは驚愕した。そして、ニコラオスを見つめる。


「……笑ってみれば、年相応のかわいらしい女の子だな」


ニコラオスはにこやかにそう言う。オアは思わず赤面して、手を振りほどいて別れの言葉も告げずに控え場所へと小走りで去って行った。

その様子をニコラオスはオアが角に消えるまで見届けた後、闘技場へと再び歩みを進めた。


「決勝か」


ニコラオスは、自らを対戦者として待っていた自らよりも少し大きい大男を前にして、そう呟いた。大男は怪訝な顔を浮かべる。今は準決勝であるからだ。


「何言ってんだお前? まだ今は準決勝だぞ? この勝負はもう決まったとでも言いたいのか?」


「違うな」


ニコラオスが否定の言葉を発した瞬間、審判の"始め"という声が耳に入った。

その瞬間、ニコラオスは地面から自らを蹴り放し、巨大な大砲の弾と化して大男に襲い掛かった。

しかし大男も伊達ではなく、その速さに驚きつつも横にステップを踏んで回避体制を取り、瞬時に回避した後の攻撃についても思考を巡らせる。"背中への蹴りは有効性が低い、ここは後ろから首を締め上げて消耗、あわよくば降参させる"と、そんな打算が頭を駆け巡る。

しかし、大男のそんな打算は、顔面への強烈な"何かしらの衝撃"によって一気に消し飛んだ。

ニコラオスが突進の勢いをそのままに、大男の顔面に蹴りを入れてみせたのだ。勢いを殺さぬように、かつ方向を少し曲げるように、軸足をぐりぐりと回しながら、蹴り足は鋭くつま先で大男の鼻先を捕らえて真正面から強烈な一撃を叩き込んだ。

大男は思わず倒れ、大量の鼻血と折れた数本の歯を地面に散らした。しかしニコラオスはそれに満足せず、大男の腕を取ると、思い切り背中の後ろの方へ体重をかけた。


「う、お……うぉおおおお!」


大男は肩の付け根に走る激痛に耐えかねて大声を上げながら、取られている腕の人差し指をピンと伸ばした。パンクラチオンにおいて、これは降参を意味している。

直ちにニコラオスは腕を放し、すぐに大男に背を向けて歩き出した。呆気に取られて静まり返った会場も、審判がふと気づいたようにニコラオスの勝ちを宣言すると同時に、大きく沸きあがった。


「決めなければいけないのだ。あの娘に"決勝戦で当たる"と宣言してしまったのだからな」


ニコラオスは背を向けた大男に、そう呟いた。




********




 質素な木作りのテーブルがあるだけの、石壁と石床の小部屋で、オアは体育座りで悩んでいた。

ディミトリが編み出した"格闘技"とは、未来日本で生まれるはずの"合気道"に他ならず、今回の"何か"とはこの本来生まれるはずのない合気道、そしてその創始者――ディミトリに他ならなかったからだ。

オアは"何か"を滅さなければいけない。それは今回の場合、ディミトリを殺す事を意味していた。

オアはこの罪悪にこそ悩まされていた。自らを悪魔だと何度思い、自己嫌悪に陥ったかは知れない。それが例え自らの使命であって、誇りがあろうと、激痛を伴う罪悪にオアは耐えかねていた。

だからこそ、その激痛を少しでも和らげようと、ディミトリの願いを叶えてやりたかった。しかしほんのささやかな自己擁護でも、やってみれば自己擁護をする己に更に嫌気がさすだけだった。


「……ごめんなさい」


誰に聞かれるでもない謝罪。その謝罪を自らが滅する"何か"に対して届かせたのは、そんな迷いをする度に深く相手を傷つけ、惑わせる事に気づいてからは一度としてない。

それでも謝らずにはいられないオアは、たまにこうして誰に聞かれるでもない謝罪をして、自らを癒しつつも、またその自己憐憫への辟易で自己を傷つけていた。

そうして、辟易する自分にすら辟易して、ようやく迷いぬいて、最低限の気力が沸いて来る。自分を嫌わなければとても立ちもできない。

オアは立ち上がると、気だるい足取りでニコラウスの待つ闘技場へと足を運んだ。

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