厭悪
『ヴェルダンの戦い』
第一次世界大戦中期に勃発した戦い。
小モルトケの修正シェリーフェンプランに基づいて作戦を遂行していたドイツ軍は、ロシアの初動の速さやベルギー軍の予想外の抵抗によって進行が停滞、シェリーフェンプランは失敗した。
小モルトケは責任を取り参謀総長を辞任、その後釜に座ったファルケンハインは大戦初期からの経験から陣地攻略ではなく消耗戦に持ち込み敵を失血死させる事を考えた。
その理念に基づき考えられたヴェルダン攻撃の指令には、ヴィルヘルム皇太子が選ばれた。
しかし、ヴィルヘルム皇太子はこの戦いを消耗戦とは認めず、ヴェルダン攻略へ固執した為に多大な被害を被ってしまった。
オアは銃声が遠くから鳴り響く塹壕の中で目覚めた。
体を起こして、背中についた土をはらおうと外套を叩くたびに土がボロボロと零れ落ちた。
辺りは木々が生い茂る林で、岩陰の間を縫うように塹壕が掘られ、際に土嚢が積み立てられている。
「……えーっと、いつかなあ今は」
オアは今がいつであるかを確認しようとあたりを見回してみる。すると、あたりに灰色の軍服を着た死体が塹壕や森林の中に数体転がっている事に気づいた。。
その死体はレバーアクションのライフル銃を抱えている。オアはその銃と軍服から、ここが西部戦線のフランス側の陣地である事に気づいた。
「またフランスかぁ、戦時中だし美味しい物もないかなあ」
そう毒づきながら、塹壕から身を乗り出して後ろの方を見てみると、近くにコンクリートで作られた簡易拠点がある事に気がついた。
「……まぁ、パンくらいはあるよね」
オアは塹壕から出て簡易拠点へ歩いていった。
********
ベルリンの参謀総長の一室、白色の壁と赤いラグが敷かれた格調高い小部屋で、二人の男がテーブルにを挟んで激論を交わしている。
テーブルにはフランスのヴェルダン周辺の地図が広げられており、ペンで様々な情報が書き込まれている。
この二人の男の一方はドイツ帝国参謀総長ファルケンハイン、そしてもう一方はドイツ帝国皇太子ヴィルヘルムであった。
「皇太子、この戦いは消耗戦である事に意義があるのです! ヴェルダンを攻撃する事によって敵を"失血死"させることだけを考えなければ!」
ファルケンハインの怒号がヴィルヘルムへ容赦なく降りかかるが、ヴィルヘルムは余裕の表情を崩す事はなく淡々と、冷静にファルケンハインに反論を述べる。
「しかし参謀総長殿、兵士の命は道具などではなく、また名誉ある死こそが兵士には相応しい、私には兵士を使い捨ての鉄砲弾のように扱う事は考えられない、ヴェルダンの攻撃ではなく、我々は攻略を考えるべきだ」
片手でペンを回しながら理想論ばかりを語るヴィルヘルムに、ファルケンハインは憤りを感じられずにはいられなかった。
ファルケンハインはヴィルヘルムの気高さや優秀さはある程度認めている。しかし、その優秀さがこのような理想論からくる事もまた見抜いているつもりではあった。
しかし、ヴィルヘルムの頑固さはファルケンハインの予想を超えていた。
「作戦を理解してください皇太子。今までの戦いを思い返してください。同数の敵に対しての攻略は、突破地点が防衛側の鉄道網によって塞がれる故に無意味! むしろ、無駄に攻略にこだわっては敵よりも多くの血を流す事となるのです!」
「安心したまえ、リエージュ要塞は簡単に落ちたじゃないか? 最早現代においては要塞ごときになんの価値があるのか」
ファルケンハインの顔が呆れに歪む。一度頭を抱えてから、「どうしたものか」と呟いて、ペンを見つめるヴィルヘルムに再び向き直った。
「要塞がある事が問題ではないのです。 問題は防衛側の優越性にあるのです。我々が必死に敵陣にあけた穴は、即座に鉄道によって塞がれてしまうのですから」
ヴィルヘルムの顔が苦虫を潰したような顔に変わる。しかし、それでもヴィルヘルムは自らの意見を変える事はなかった。それどころか、大きくため息をついて、諦めたかのような顔を浮かべる有様である。
ファルケンハインはそのあからさまな態度にイライラとしていたが、少なくともそれを口には出さずに、代わりに視線を合わせない事でなんとなしにヴィルヘルムに意を示した。
また、その様子を見て気づかないほどヴィルヘルムは鈍感な男ではない。むしろ、人一倍そのような事には敏感であった。
「……しょうがないな、参謀総長殿には話しておくか」
ファルケンハインはその言葉に視線を引かれる。そうすると、ヴィルヘルムはニヤニヤとしており、ペンをいじる手は止まっていた。明らかに先ほどよりも"ご機嫌"だった。
「話しておく? 何のことですか?」
ファルケンハインはその顔を訝しんだ。一体この男が何を考えているのかが、ファルケンハインには皆目検討がつかなかった。
しかし、ヴィルヘルムの口からは考えもしなかった言葉が出てくる。
「参謀総長殿、敵陣の突破の後には確かに陣の穴は即座に埋められてしまう。それは歩兵の進軍速度が遅いから、敵の展開には間に合わない事に所以していると思わないか?」
ファルケンハインは少し顎に手をあてて考え込む。ファルケンハインは大戦初期からの知見に自身があった、それ故にヴェルダンへの攻撃を考えたくらいだ。
しかし、そのような"電撃的"な物には全く想像が及ばなかった。そして、そのような発想をするヴィルヘルムは何かしらの"電撃的"な切り札があるのではないかと思われた。
「確かにその通りです。しかし、現実手段として何かしらの速度を持った物がある訳ではないでしょう」
ファルケンハインはなんとなくカマをかけてみた。そうすると、ヴィルヘルムは予想通りにニヤっと笑う。
「いいや、あるんだよファルケンハイン。新兵器がな」
ファルケンハインは驚きの表情を見せた。ヴィルヘルムの顔が、何一つ嘘をついているようには見えなかったからでもあるが、最大の理由はそこではない。
明らかに、ヴィルヘルムは何かを持っていた。何かを隠して、その上でそれに"電撃戦"ともいえるその作戦の成功を見ていたのだ。
しかし、それは"新戦術"か何かであろうと予想しており、それが"新兵器"であるなどとは全く思ってもいなかった。参謀総長に就任したばかりとはいえども、自らにそのような情報は入っていなかったからだ。
久しくファルケンハインは驚くという事をしていなかった。それがこの"新兵器"への興味を助長したのか、ファルケンハインは口を開いた。
「……その何かを見せてもらいましょう、皇太子」
ファルケンハインも、僅かに笑っていた。
********
「オア、とか言ったかお嬢ちゃん。一体こんな戦場で何をしてるんだ?」
オアは灰色のコンクリートの壁に包まれただけの質素な簡易拠点の中で数人の兵士たちからパンを分けてもらいつつ、色々な事を聞いていた。
今が1916年の2月1日である事、ここがヴェルダンである事、最近は目立った交戦がない事などだ。
答えてくれる兵士たちは最初、明らかにオアにある程度の疑いの眼差しを向けてはいた。
しかし、あまりにも"おっとり"しすぎているオアを見て、最初に抱いた疑念――ドイツ軍のスパイではないか――は、少なくとも消えていた。
「見たところスパイでもなければ、来て早々"今は何年何月何日?"とか"戦況はどう?"なんて、頭でもうったか?」
「ううん、大丈夫。ただ、聞きたかっただけ」
素っ頓狂な返事をしながら、オアはパンを齧る。カチカチに固まってはいたものの、小麦粉の香ばしい風味が口いっぱいに広がり、オアは口がすこし緩む程度にはこれに満足した。
「もしかしたらコイツ、どいつかがさらってきた女の子じゃねえのか? 珍しくもない話だろ、戦場で女犯すだのなんだのなんて」
一人の兵士がそう言ってオアの頬をつつく。その柔らかい感触が心地よかったのか、その兵士は何度もオアの頬をつついた。"人肌が恋しいんだろうな"とオアは思い、好きにさせている。
その様子をみて、もう一人の兵士がまた口を開いた。
「いや、それにしてはなんつーか、おっとりしすぎだろ……それにフランス軍人がそんな事するか! そういう事すんのは飲んだくれのイワンどもって相場が決まってる!」
「ハハハ、確かにな。アイツらはいいヤツだけど手癖が悪いからなぁ」
「東部戦線は今頃どうなってんだろうな、うまくやってくれているならいいんだけどな……」
「大丈夫だって、俺たちはパリへ続くヴェルダンを守る事だけを考えればいいんだよ。そのヴェルダンだって、こんなかわいい女の子が迷い込むくらいには今は平和だけどな」
兵士たちが疑念を忘れ雑談にふけっている間にも、オアは頬をつつかれながらもぐもぐとパンを齧っている。
少なくとも、おっとりとして愛くるしいオアの姿は兵士たちの癒しにはなっているようであった。
「そういえばオアって、なんだかヘンテコな名前をしているけどな。スペルはどう書くんだ?」
オアは食事を止めて、少し考える。自らの名前のスペルを教えた所で信じてもらえるとは思わなかったからだ。
真実をそのまま伝えるよりは、ごまかしておいた方がよいと考えた。
「……忘れた」
兵士たちは神妙な顔つきになったが、さして気にする様子もなくまた雑談を始めた。
1916年2月1日の今、事が起こるのは20日後。
その20日後を考えて、オアは"忘れられる"事を考え、往年の間柄のように楽しげに話している兵士たちを見て寂しい気持ちになった。
それを紛らわすように、またパンを齧った。
********
ファルケンハインは参謀本部の自室のデスクに肘をつき、ヴィルヘルムに見せられた物について考えていた。
一体、ヴィルヘルムはどのようにしてあのような物への知識を得たのか。
そもそも、あのような物がキチンと制御できるのであろうか。 できたとして、その後にフランス側にも同じく軍事利用されるのではないか。
そもそも、あれは"何"なのか。
しかしそんな様々な憂いの中でも、それ以上に光り輝く希望として、あのような物の絶対的な"性能"については絶対の信頼を寄せていた。
ファルケンハインはぼーっとデスクに広げた地図を見る。確かに、ヴィルヘルムに見せられた"何か"ならば、ヴェルダンの攻略も夢ではないように思える。
「悪魔のようではあるが、少なくとも……」
口に疑念を出した瞬間に扉がノックされ、ファルケンハインの心臓が跳ねた。
即座に体制を整えて、「入れ」と一言呟くと、扉が開かれ、一枚の封筒を手に携えた、黒い礼服の兵士が入ってきた。
「参謀総長殿、ルーデンドルフ様からのお返事です」
そう兵士は封筒をファルケンハインに出しだす。その封筒を、内心穏やかではない気持ちでファルケンハインは受け取った。
ファルケンハインはルーデンドルフに、ヴィルヘルムに見せてもらった新兵器をそれとなく示唆しつつ、ヴェルダン攻略についての意見を求めていたからだ。
「そうか、ありがとう。 下がっていいぞ」
「はい、それでは失礼します」
兵士は敬礼をしてから、赤いラグをサクサクと踏んですぐに部屋から出て行った。
それを確認してから、それでも少しの間待ってから、ファルケンハインは封筒を開けて中の手紙を取り出した。
折りたたまれた手紙の下に書いてあるルーデンドルフ直筆のサインを確認すると、ファルケンハインは一呼吸してから本文を読んだ。
『ファルケンハイン参謀総長殿
件の相談についてであるが、確かに即座に敵陣地を突破できるような物が存在すれば、ヴェルダンの攻略も不可能ではないと思われる。
しかし、そのような実験兵器を投入するくらいならば、東部戦線への兵力の増強をし、ロシアへの追撃を考慮すべきである』
東部戦線への兵力増強には興味すら示さずに、ファルケンハインは"不可能ではない"という文字に心を奪われた。
「……"不可能ではない"か」
ファルケンハインはルーデンドルフとは犬猿の仲であったが、それでも武官としての能力は信頼していた。
そのルーデンドルフが、ヴィルヘルムの"プラン"について後押しをした事に、この返事は等しかった。
ルーデンドルフは"新兵器"を知らない。だが、ファルケンハインはそれを知っている。だからこそ、そこにルーデンドルフの一押しが加わってよりヴェルダン攻略への確信を深めた。
心の中にライバルとも言える相手へのモヤモヤとした気持ちはあるものの、ここはルーデンドルフの意見を信じ、ファルケンハインは作戦を承認する事に決めた。
あの、わけのわからない存在を戦場へと放つ事に決めたのである。
********
「なんだ、なんだよあれ!?」
塹壕から身を大きく乗り出してやたら滅多に発砲するほどに、フランス軍の前線部隊は大混乱していた。
何故なら、巨大なムカデのようなどす黒い"何か"がものすごいスピードで接近しているからだ。
「撃て! 撃てぇぇぇええ!」
悲鳴とも怒号とも取れる叫びを上げながら巨大なムカデに発砲するも、ムカデのような"何か"は全くそれを意に介さずに全速力の鉄道のように向ってくる。
木々をなぎ倒し、土煙を巻き上げ、それは一直線に向ってくる。なぎ倒された木々は干からびて枯れており、兵士たちは否応なしに自らにその"何か"が触れた所を考えてしまう。
「畜生、なんなんだよあれ!? 弾ちゃんと効いてんのかよ!? クソッ!」
「弾切れだ、誰か弾をよこしてくれ!」
兵士たちの焦燥は"何か"が近づけば近づくほど高まっていく。
そしてとうとう目の前にたどり着くと、"何か"に触れた人間は触れた所から"干からびた"。
「う、うぁあああああ!」
兵士たちは恐怖に犯されたまらなくなり、蜘蛛の子を散らすように塹壕から飛び出した。
しかし、"何か"のスピードにはかなわずにどんどん彼らは干からびていく。
「たすけ、助けてくれ! 死にたくない!」
「畜生、こんなヤツに……うわあああ!」
断末魔の叫びが、この戦場のいたるところから聞こえてくる。先ほどまで森林であったこの戦場は、最早、荒野と何も変わりなかった。
次々と人間を干からびさせていく。必死にライフルや拳銃で応戦する者もいたが、その応戦はなんら結果を残しはしなかった。
そして、最後の一人になった時、わきわきと何十本もの足のような"何か"を動かしながら、その兵士にゆっくりと近づいていった。
「たす、助け……」
その兵士は恐怖にかられ、必死で助けの声を出そうとする。しかし、その兵士はあまりの恐怖から口すらまともに開けなかった。
兵士が後ずさりをする分、"何か"はじりじりと距離を詰めてくる。まるで嬲るように、これからの死を兵士に自覚させるように。数日前まで、楽しげに少女と話していた事など忘れさせるかのように。
そして、とうとう背中に固い壁を感じた。
命の終わりを感じた兵士は、目を閉じて神に祈った。
「1匹目」
突然、聞き覚えのある少女の声と破裂音が聞こえた。思わず耳を疑い目を開くと、そこには無残に破壊された"何か"の死体がころがっていた。
シュー、と導火線に火がついたような音をたてながら、ゆっくりと"何か"は蒸発していった。
そして、そのムカデを見下ろすように、あの少女――オアが立っていた。
「……神、様?」
オアはその言葉を聞くと、すこし驚いた表情を見せてから、すぐに悲しそうな顔になってこう言った。
「私は神様なんかじゃないよ」
オアはそれだけ言うと、目にも留まらぬスピードで走り去っていった。
********
ムカデのような"何か"によって干からびた森林は、焦土作戦の後のように荒野と化している。
その中をものすごい速さでオアは移動している。断末魔を頼りに"何か"を探しているのだ。
「いた、2匹目」
再び上空からかかと落としを"何か"の頭部に食らわせると、"何か"の頭部が大きな破裂音を立てて霧散し、そして動かなくなった。
周りには生き残りの兵士はいなかったが、オアにとっては特に関係なかった。すぐに断末魔のする方向へと走り出す。
実際の所、"事が終われば元通りになる"からだ。オアが行動をするという事は、そういう事である。
しかし、オアは断末魔が少なくなってきた戦場を走りながら、悩んだ。"何かを残せたはずなのに、それを消してしまう事"に悩んだ。
「……神様、じゃないんだけどな」
先ほど助けた兵士の言葉がオアの脳裏に焼け付いて離れない。そんな状態で3匹目を見つけた。丁度、最後の一人が"何か"に触れて干からびかけていた。
オアは"何か"の尻を踏み潰すと、"何か"は声すら上げずに長い体をぐるりと捻ってこちらに振り向いた。
「たす……けて……」
兵士の悲痛な声がオアの耳に入る。必死に、オアに兵士は助けを求めている。オアは顔をしかめてあからさまに嫌そうな顔をする。
「……私は、君たちに誇れるような存在じゃないんだけどなぁ」
もやもやとした感情を抱えながらも、オアはこちらに体全体を振って体当たりをしてきた"何か"にタイミングよく飛び乗った。
"何か"は必死に振り落とそうとより激しく体を左右にふりまわすが、オアは右の拳を握り締めて、頭部に拳底を叩き込んだ。
頭部は小さな破裂音を鳴らして半壊して千切れかけたが、"何か"は余計に激しく暴れだす。
オアは"何か"の頭部をつかんだまま飛び降りた。すると、"何か"が激しく暴れた衝撃で頭部は引きちぎれオアごと吹っ飛んだ。
そのまま空中で姿勢を整えてオアは着地し、頭部を地面に投げつけると、今度は頭部はこれまでと同じように蒸発して消えて行った。
「3匹目……」
安堵の表情を浮かべる兵士を見て、オアは不快感を覚え、すぐにその場から走り去った。
この感情の正体は分かりきっていた。 罪悪感と、使命感の二つだ。
オアは誰かを助ける事は嫌いではない。しかし、その事で誰かに感謝される事は、何よりも嫌っている。
いくら誰かを助けようと、結局の所オアは自分が人の敵である事に罪悪感を覚えていた。
「……いた」
4匹目の"何か"を見て、オアはまた悩んだ。ここで"なかった事にする"事が、許されるのだろうか。
そうする事が分かっていても、悩まずにはいられなかった。
「……」
しばらく黙って"何か"を見つめていると、"何か"がオアに襲い掛かる。
オアはその様子を見て、吹っ切れたようにその"何か"を、できる限り無残に殺し尽くした。
********
その兵士は、ふと気がついたように前を見た。
何か、長いこと幸せな気持ちでいられたような気がした。あるいは、恐怖をごまかせている気がした。
「おい、ぼーっとするな! ドイツ軍が目の前にまで迫ってるんだぞ!」
「え? お、おう……」
その兵士は手元に取っておいたパンがない事に気がついた。それから、この状況にありながら何故か安堵している自分にも気がついた。
何故だかは分からない、それでも、ものすごい恐怖に、戦場においてもありえない程の恐怖に襲われていた気がしてならなかった。
だが、すぐにそんな事を気にする余裕はなくなった。
「お、おいおい。 マジでアイツら突っ込んでくるのか!?」
「そうだよ! まったく、初戦闘がこれとはツイてねぇ!」
その兵士は疑念を忘却し、銃を構えた。生い茂る木々がその兵士の視界を遮りつつも、兵士は必死で照準を敵に合わせて引き金を引く。
そして敵を殺す罪悪感と銃の反動を抑えている内に、取っておいたパンの事すらも忘れ去った。
********
同時刻、前線から少し後方の方に位置しているヴィルヘルム率いる隊の前線拠点の一つ、そこにファルケンハインとヴィルヘルムは前線の視察に伺っていた。
小さな崩れかけの廃教会を利用したその場所でも、迫撃砲の音や銃声などはよく聞こえる。
フランス軍の迫撃砲が飛ばないであろうギリギリの地点に位置どっているからか、あるいはそれを気にする余裕もないのか二人はその音を全く意に介さない。
ただ、ボロボロのデスクに広げられた報告書に目を通しながら、現状の戦況を分析していた。
「作戦の調子はどうですか、皇太子」
ファルケンハインはヴィルヘルムに尋ねずにはいられなかった。何故だか、何よりも大切な事を忘れたのではなく、失ったような気がしてならなかったからだ。
そして、それはヴィルヘルムも同じであったのか、苦い顔をしながらファルケンハインにこう答えた。
「……包囲殲滅を目的としているのですが、中々思ったよりも作戦の進捗はよろしくないです。しかし、本来の目的、消耗戦としては十分な戦果かと」
ヴィルヘルムは自らの言葉に違和感を持ち、またファルケンハインも自らの疑念に違和感を持っていた。
「皇太子……ひとつよろしいですか」
「ああ、何かな」
ファルケンハインはゆっくりと息を吸い込んでから、頭の中を整理しつつ、たどたどしく喋りだした。
「私は、どうも、何か……忘れているような気がしてならんのです。まるで、ドイツの全てが喜びに湧き上がるであろう何かが、そこにあったというのに……」
そこでファルケンハインは言葉を詰まらせた。形容する言葉が見つからなかったからだ。
そうして悩むファルケンハインを見て、ヴィルヘルムが口を開いた。
「……忘れるとも違い、失うとも違う。何か、あったような気がしてならない」
ファルケンハインは驚いた。驚きを覚える事など久しくなかったはずなのに、どうしてか久しく感じられなかった事にもまた驚いた。
どうしてか、ヴィルヘルムの言葉は自らの言いたい事を言い当てている。それも、観察などではなく明らかに共感として。
「皇太子、まさか……」
「夢想だよ」
ヴィルヘルムはファルケンハインの言葉を遮る。
「きっと、夢を見ていたんだ。 我々も人の子だ、戦争のストレスでおかしくもなるだろう」
「夢? 夢などという……いや……」
ファルケンハインは顎に軽く手をあてて考え込む。そうして考え込む内に、思考の沼に"大事な事"はズブズブと埋もれて行った。
考え込む程に、それがくだらない杞憂であったような気がしてきた。
「……そうですね、夢だったのでしょう」
ファルケンハインは、そう結論付けた。
10月2日最終更新