Α
『黒ミサ事件』
1679年にラ・ヴォアザンとギブール神父が逮捕された事によって、有力な貴族達を初めとして黒ミサや毒殺の依頼を様々な者が行っていた事が露見した。
ギブールが明かした顧客リストの中には、時の王ルイ14世の愛人フランソワーズまでもが名を連ねていた。
ルイ14世は黒ミサ事件の捜査には意欲的であったが、自らの愛人であるフランソワーズの名前が裁判で出される事を恐れてか「こんな話は聞きたくない」と途中で裁判を中止させた。
その後、フランソワーズは元々のヒステリックな性格からルイ14世に愛想を尽かされ、自ら宮殿を去った。
焦げ茶色の外套に頭まで身を包んでいる者が、松明を片手に裏通りを進んでいる。
時折、何者かがずるずると地面をこする音を鳴らしはするが、それは大抵、小さなネズミや虫によるものだった。
"人はいないだろう"という確信からか、あるいは慣れているからか、その者は音に臆する事なく歩みを止める事はなかった。
しかし、その明かりに人が照らされ、立ち止まった。
「おい、ここで何しているチビ」
やせ細った、色白の男がその者を隈の深い目でじーっと見つめている。
街灯の光が届かない裏路地に、いかにも誂え向きなゴロツキが一人。
その者はうっすらとフードの影に顔を隠しながら、それでも視線をその男に向けた。
「……別に」
幼い少女の声でそうその者は答えた。あまりに意外な声をしていたので、男は少し驚いた。
それと同時に、どこかの家出をした子供なのだろうかと考えると、"面倒な事になりそうだな"とけだるく頭を掻いた。
「悪いがこの先は"お客さん"じゃないと来れないんだよ。だからおうちに――」
「知ってる」
男の言葉をさえぎって、その者はそう答えた。
男は目を細め、その者を見る。そうして、家出の子供にしてはどうにも落ち着きすぎている事に気づいた。
少女が外套のフードを脱ぐと、銀の髪と瞳をした色白の少女の顔がそこにあった。
しかし、明らかに怖がりも動揺もしていない。男は警戒し、腰のナイフを抜いた。
「……"知ってる"? どういう事だお嬢ちゃん」
男が少女に詰め寄る。ナイフを片手に詰め寄っているというのにも関わらず、少女は全く臆する様子はなかった。
ただ、言葉を返しもせずにこちらを人形のように見つめているだけである。
ただひたすら、男が地面の砂を踏むジャリジャリという音だけがしばらく断続的に鳴り続け、それから少女の目の前にまで男は来た。
「答えろ」
男がそう言って少女の喉にナイフを突きつける。あと数寸前に突き出せば、少女の喉にナイフがグサリと突き刺さるだろう。
それでも、少女は表情を全く崩さない。いよいよもって、男は不気味になってきた。
気づけば、虫の声も、風の音もなく、ごうごうと松明の燃える音だけが響く。
耐えがたく、冷や汗が男の額から流れ出てくる。ナイフを突きつけているのは自分であるのに、底知れぬ不安が男を襲っている。
「……答えろといっているだろう」
ナイフをもう少し前に突き出して、喉仏を刺す直前になってようやく少女は口を開いた。
「聞きたいことがある。この時代、この国、貴方の主の商売について」
訳のわからない答え、いや、答えにすらなっていない。男はそう思った。
だが、少なくとも男は"商売"という言葉に反応した。
この娘は自らの主の商売について、"黒ミサ"について何かを掴んでいる。
「この時代? この国? 素っ頓狂な……だが、商売だと?」
男は少女の後ろに回りこみ、突き刺さらない程度にナイフを軽く背中に当てた。
ナイフがザラザラとした外套の生地に擦れる音が聞こえる。恐ろしい程に静かなのが、男のそこしれぬ不安を掻き立てた。
「その質問をした以上……帰してやる訳にはいかなくなった……来てもらおうか」
男は刺さらない程度になるべく力を込めてナイフを押し付ける。自らの優位性にすがりつくように。
しかし、少女は進もうとはしなかった。
『いっそ殺してしまえば話が早い。"ヴォアザン"はそうしてもどうにかするだけの力くらいならある』
緊張に耐えかね、とうとう男はナイフを持つ手に力を込めた。そうするほどに、男はこの少女に気圧されていた。
しかし、それを見計らったかのように、少女はポツリと呟いた。
「今は、まだ早い」
男の思考がその言葉に奪われる。全てが一度真っ白になる。松明の音も、とうとう男の耳から消えうせた。
ナイフへ込めた力は抜けていき、少女の外套にも傷はついていない。
すぐに男ははっと意識を取り戻したが、既に少女はこちらに振り向いていた。
「な――」
男の言葉は、腹への痛烈な打撃によって意識ごと断ち切られた。
********
蝋燭の光だけで照らされた薄暗い教会で、中年の女が一人で聖書を読んでいる。
ひとつ奇妙なのは、その聖書が逆さまである事だ。
じっくりと一つ一つの単語を舐めるように眺め、その発音を確認して、逆さまに"読めるように"訓練している。
おぎゃあ、おぎゃあ。
突然、赤子の泣き声が聞こえた。
赤子は必死に泣き喚きながら、主祭壇の上で身をくねくねとよじらせている。
女は聖書を閉じて椅子に置くと、赤子に近寄り抱き寄せて優しく泣き止ませた。
「ヴォアザン、その子が次のミサに使う生贄かしら?」
突然、中年の女――ヴォアザンの後ろで甲高い女の声がした。
ヴォアザンがゆっくりと振り向くと、そこそこ上品な外套に身を包んだ美しい女が蝋燭を片手にこちらを見つめていた。
ヴォアザンはそれに気づくと、安堵したかのように赤子を揺りかごのようにゆらしてあやしながら女に近づく。
「ええ、その通りですフランソワーズ様。貴方様の為にご用意した次の贄でございます」
フランソワーズはヴォアザンに歩み寄ると、その赤子をじっくりと観察し始める。
蝋燭を近づけて肌の色を確認したり、手を触ってみたり、頭を撫でてみたり、胸に手を当てて心臓の鼓動を確認したりして、赤子の"新鮮さ"を確認する。
一通り確認し終えると、満足そうに笑顔になってヴォアザンに向き直る。
「うん、いいわね。それはそうと、今日は見張りがいなかったけどどうしたの?」
ヴォアザンは眉間にしわを寄せて不可解な表情を浮かべたが、すぐに呆れたようにため息をついた。
「どうせアイツの事ですから、仕事をサボって町をぶらついているんでしょう。まぁ、口を滑らせなければそれでいいですが」
「ふーん、まぁ黒ミサ商売の用心棒の質なんて、たかが知れているわね。それよりギブールはどうしているの?」
ヴォアザンはフランソワーズの質問に苦い顔をする。というのも、正直に答えたら恐らく、この女は不機嫌になるであろう事を分かっているからだ。
それでも嘘をついても仕方がないと、ヴォアザンはフランソワーズに正直に白状する事に決めた。
「ギブールは今は出かけております。神と悪魔を繋げる為には様々な用意がいる、と」
ヴォアザンの予想通り、あからさまにフランソワーズは不機嫌になった。普段、待たされるという事をこの女は経験していないからだ。
深いため息をつくと、蝋燭の火を消してから外套を脱ぎ、近くの席に腰掛けた。
「つまり儀式の為の道具を調達しているのね、ここで待たせてもらうわよ」
すこしむくれた顔になったフランソワーズを見て、それでも特にそれ以上は何も言われない事にヴォアザンは安堵した。
「申し訳ありません、ギブールが帰ってくるまでの間、ご辛抱ください」
そこでヴォアザンは赤子がすっかり泣き止んだ事に気づいて、ゆっくりと赤子を主祭壇におろすとまた聖書を逆さまに読み始めた。
教会はどこまでも薄暗く、黒ミサにはうってつけの雰囲気であった。
********
夜のパリを街灯が照らしている。17世紀後半になって、やっとパリには街灯の光が灯った。
それは"女癖"が悪いと有名な、太陽王ルイ14世による一大事業であった。
それまで夜道を歩くのは警察や犯罪者だけであり、出かけるにしても松明がなければ話にもならなかった。
舞踏会で太陽神アポロンに扮して踊り、太陽王と呼ばれたルイ14世は名前に相応しく、夜の街すらも眩く照らしてしまったのだ。
そのお陰で夜になっても酒場や食堂はより繁盛しており、昼間には少し劣るもののうるさいくらいの人が集まっている。
そのパリのある大衆食堂で、先ほどの痩せた隈の深い男と外套の少女が何故だか同席していた。
しかし、食事を取っているのは外套の少女だけで、男は"軽くなった財布"を手に持って悲しみの表情で少女に何か話をしていた。
「……という訳で、ヴォアザンは黒ミサ商売をやっているって訳だ。これで満足か? オアちゃんよ?」
外套の中身は銀色の髪と瞳をした、雪国を思わせる白い肌をしたオアという名前の少女だった。
どこか気だるそうな表情をしながらも、オアはムニエルを咀嚼しながら、男の話を流し聞きしていた。
「うん、大体わかった。一応、一通り確認させてもらっていい?」
男はあからさまに不愉快な顔を見せた。そもそもオアに付き合っているのも、オアが"次は頭"という一言で男を脅迫しているからだ。
明らかにこの少女は武術か何かの心得があり、最高に屈辱的な事に、男はこの少女にかないそうになかった。
だからこそ男は早くこの場から離れてしまいたかったのだ。
「なんでそこまでテメエに――」
しかし男が拒絶の言葉を吐ききる前に、オアは勢いよくフォークをムニエルに突き立てた。ガチンと食器とフォークが不快な金属音を奏でる。
そのままぐりぐりと無残に引き裂かれ、バターやら何やらを染み出させるムニエルを目にして、男は諦めてため息をついた。
「わかった、わかったよ。どうせ逆らったら一発ズドン! だろ?」
男は観念したように両手を挙げて降伏の意を示した。それにオアは満足したのか、フォークに突き刺さったムニエルを口に一口運んで、咀嚼しながら頷く。
オアはムニエルの衣のカリカリの食感と、ほんのりと香るレモンの風味と舌を包むバターの甘さにとろとろに蕩けただらしのない表情を浮かべる。
そんな表情を見て男は唖然とし、『やっぱこの様子なら逃げられるのではないか』と思ったが、ものすごい勢いでオアに追いかけられる自分を想像してやめた。
オアがやっとムニエルを飲み込むと、口を開いて男から聞いた事を確認する。
「今は1678年で、ここはフランスのパリだよね。それで、貴方の仕事は黒ミサ商売をするヴォアザンの用心棒」
「そうだな」
軽く頷きながら、男は答える。
「黒ミサ商売は現代のフランスでは違法で、厳しい取締りの対象になる。でも、ヴォアザンは強力な裏社会のネットワークを使ってバレないようにうまくやっている、と」
「そうだ。もういいか? いいならさっさと帰らせてくれ」
この状況に辟易としているのか、あるいは慣れてしまったのか、男はオアに恐怖よりも呆れを覚えていた。
"今は何年"、"ここはどこの国"、そんな常識以前の事を尋ねてくるのだから、呆れるのも当然の話である。
しかし、オアはまだ男を帰しはしない。
「ううん、まだ聞きたい」
「……何を聞きたいんだ?」
オアはフォークについたバターを舐めとると、食堂の窓から見える表通りへと向けた。そうして、一度首を傾げてから男に尋ねる。
「街灯がある、それで思い出したの、ルイ14世の時代だよね。ルイ14世とフランソワーズについて聞きたい」
「……はぁ?」
男はオア以上に首を傾げて問いかえす。
「何で俺みたいなゴロツキに宮殿事情なんか聞くんだよ?
それにさっきからヘンテコな質問ばっかしやがって、お前は一体何なんだよ」
「いいから答えて。フランソワーズとルイ14世の近状について、詳しく知りたい」
男はからかわれているのかと疑いもしたが、どうやらオアの目を見る限り真剣にそれを聞いている様子だった。
「……まぁいいけどよ。モンテスパン夫人……一応断っておくが、フランソワーズの事だぞ?」
「うん、確かそんな名前もあった」
「いちいち引っかかるやつだな……で、国王は女癖が悪くてな。夫人も近々捨てられるんじゃないか、っていうのは聞いた事があるぜ」
オアはそれを聞いて少し目を細めた。オアは"何か"にここで気づいた。
「まぁ、俺たち庶民には関係のない事だ。この話もヴォアザンから聞いただけだからな、何でヴォアザンが知っているのかも俺にはよく分からんが」
「うん……なるほどね、やっぱりそうだよね。じゃあ、多分……」
オアは何度か頷きながら、ムニエルをじーっと見つめて"何か"について考え込んだ。事情の飲み込めない男には何がなんだか分からなかったが、気にする事もなくオアの言葉を待った。
しばらくするとオアはムニエルをまた口に放り込み、口についたバターをペロりと舐めてから男に向き直った。
「よし、もう満足か? じゃあ俺は――」
「舌平目のムニエル、もうひとつ奢って」
オアの目は輝いていた。
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黒い魔方陣の上に、組み立て式の簡易祭壇がおいてあり、その祭壇の上に裸のフランソワーズが赤子を抱えて横たわっている。
その赤子は、ナイフを突き立てられながらもピクピクと痙攣していて、まだ生きている。
その赤子の生き血は祭壇にヘキサグラムの形に彫られた溝を伝って赤い六芒星を浮かび上がらせていた。
その主祭壇の近くではギブール神父が聖書を逆さまに読み上げて、それを遠巻きにヴォアザンが見守っていた。
赤子は段々と痙攣をやめ、ついには完全にその心臓の動きを止めた。
それからもしばらくは同じように儀式が続けられていたが、数十分ほどしてやっと聖書の読み上げが終わる。
「……ギブール? 終わったの?」
フランソワーズが問いかけると、ギブール神父は頷いてフランソワーズから赤子を取り上げた。
赤子の体に残っている血がギブールの服を汚す。それを気に留める事もなく、ギブールはフランソワーズの体を起こした。
「ええ、これで今日は終わりです。ですが……」
「"ですが"?」
フランソワーズはギブールの言葉に首を傾げる。
しかし、ギブールは首を横に振ると、布をフランソワーズに手渡した。
「いいえ、何でもありません。とりあえず、赤子の血をお拭きください」
「……まぁいいけど」
フランソワーズはそれ以上を聞く事はなく、血をふき取ってから自分の服を身に着けた。
そうして再び外套に身を包み蝋燭に火を灯す。
来た時の格好と変わらない姿になったフランソワーズは、儀式を終えた安堵からか一度深いため息をつくと、急に不安に襲われた。
フランソワーズはルイ14世に捨てられないようにとヒステリックに、あるいは狂ったように必死であったが故に、儀式の有効性に疑問を持ったからだ。
「本当に効果は出るんでしょうね? これであの人の寵愛を受けられなかったら……」
ギブール神父を鋭く睨み付けるが、ギブール神父は平然とした顔を崩しはしないどころか、ニヤニヤと赤子の死体を"あやして"いた。
「当然、効果は絶大かと。しかし……少々"おぞましい物"を見るかもしれません」
「おぞましい? どういう――」
急にフランソワーズは耐え難い喉の激痛に襲われた。
蝋燭を手から滑らせ、そのまま膝から崩れ落ちて喉を押さえて嗚咽を漏らす。
そうすると嗚咽によって床にぶちまけられた自らの体液が、どす黒い事に気がついた。
「ギ、ブール! どういう……」
苦しむフランソワーズにギブールは答えない。しかし、その狂ったような笑顔からはむしろこの状況に愉悦を感じているのが丸わかりだった。
フランソワーズはギブールを睨み付けるが、それは何の解決にはならない。ついにフランソワーズは死を覚悟した。
しかし、不意にフランソワーズの背中がやさしく摩られた。
「吐いてください、その者を」
ヴォアザンのその言葉が引き金であったかのように、フランソワーズの口から黒く、しかし薄く輝くドロドロの液体が流れ出る。
********
「おい、頼むよオア! ヴォアザンにとっちめられるのは俺なんだからさぁ!」
痩せた男は未だにオアに従わされていた。
二人が出会った教会へと続く裏道を二人は進んでいるが、違うのは歩く速度が明らかに先ほどよりも速い事だった。
「唯一、なんだ? お前は何の用なんだよ? 明らかに商売の話じゃないよな? 冷やかしなんかつれてきたら俺の立場ってもんが――」
「大丈夫」
オアは振り向くこともなければ歩みを止める事もなく男にそう語る。
「それどころじゃないから、大丈夫」
「それどころじゃないって……ああ糞! 今日はなんてついてない日なんだよ……なぁ、ムニエルまた奢ってやるからさぁ!」
オアの足が止まる。そして少し考える素振りを見せたあと、すぐにまた歩き出した。
「それどころじゃない、ムニエルは美味しいけど」
男は観念してオアについて行く事に決めた。この後の面倒をどうしようとか、解雇されたら次の仕事はどうするかとか、そんな事を考えながら。
「ったくなんだって――」
突如、まばゆい閃光が教会の方から襲ってきた。自らの運に悪態をつく男の思考は、その光に奪われた。
そして、すぐにオアの言葉が脳裏に浮かぶ。『それどころじゃない』というオアの言葉が。
「……急ごう」
あまりの事に立ち尽くしている男を尻目に、オアは教会の方へ走り出した。
「……マジで何だってんだよ!」
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フランソワーズの目の前に、薄暗く、しかし光り輝くわけのわからない"何か"がいた。
それは薄暗い夜の教会を、まるで満月のように薄暗く照らしている。
人間のような形をしながらもそれは、明らかに人どころかこの世の物ではない事がフランソワーズにも容易に理解できる。
「ギブール、これは……」
フランソワーズがギブールに尋ねると、ギブールはその"何か"を称えるように両手を高く掲げて、高揚気味に口を開いた。
「神と悪魔の結合。それが私の目標でした」
「……何を言っているの?」
ギブールは困惑するフランソワーズを置いてけぼりに、玩具を見つけた子供のように興奮して語り始める。
「これは、神であり悪魔である物です。神でありながら、神に憎まれし物……いいえ」
一度言葉を切り、ギブールはは"何か"に近づいて十字架を胸に跪く。
そして、数秒"何か"に対して祈りを捧げると、立ち上がってからフランソワーズに向き直った。
「悪魔とは元々神と同一なのです。純粋な、純粋な絶対がこの物なのです」
フランソワーズはわけのわからない言葉としか聞こえないギブールの言葉を無視し、目の前の何かに目を向けた。
「……一体なんだってのよ」
"何か"はよく見ると体の表面がうねうねと波打っていて、粘土細工のように人を模造しているだけの"何か"である事を実感させる。
満月のような光を見て、フランソワーズは『満月の光が狂気を呼び起こす』というヨーロッパに古くから伝わる伝説を思い出していた。
そして恐ろしくて直視できなかった"何か"の顔を見ると、急にフランソワーズの思考にある言葉が"流し込まれた"。
『願い』
その瞬間、フランソワーズは悟った。そして、納得した。
この"何か"こそが、自らの願いをかなえる存在なのだと。
「ヴォアザン、願いをこれに言えばいいのね?」
ヴォアザンはフランソワーズが先ほどと比べて明らかに困惑していない事に気づいた。
そして、同時に恐怖ではなく期待による興奮を帯びている事も、その上ずった声から聞き取れた。
「ええ、どうぞ」
ヴォアザンがそう答えると、フランソワーズは"何か"に語りかけた。
「ルイ14世。この国の王の愛を、私に全て捧げさせなさい」
フランソワーズは語りながらも、"何か"に近づいて行く。
満月のような光が、フランソワーズを染め上げて行く。
そして、"何か"の目の前までくると立ち止まって、両手を掲げて叫んだ。
「彼の永遠の愛を私に約束しなさい!」
"何か"はうねうねと体を変形させながら、一気に天へと跳ね上がった。
そして、天井を突き破りそのまま夜空へと舞い上る。
月のない夜であったが、満月に似た狂気の光が夜空に輝く。
「だめ」
教会の上、"何か"の横に、オアがいた。
そして、オアは足を頭上に上げると、そのまま"何か"の頭に踵落としを食らわせる。
"何か"は一気に教会の床に叩きつけられて体が散り散りになった。
「……え? ちょっと――」
フランソワーズやギブール、ヴォアザンらの驚きの視線がその物に続いて落下してきた少女、オアに向けられた瞬間、オアが手を叩くと3人とも意識を落として眠りについた。
肝心な散り散りになった"何か"はすぐさま体を元通りにさせた後、オアの様子を伺うかのようにじーっと静止する。
そうしてしばらくにらみ合うと、教会の扉が勢いよく開かれた。男が教会にようやく到着したのだ。
「な、何だこれ――」
男は驚愕の表情で"何か"を見て反射的にナイフを取り出そうとするが――即座に"何か"が男に飛び掛る。
"何か"の飛び膝蹴りが男に当たる寸前に、オアが"何か"の股間を思い切り蹴り上げて上に吹っ飛ばした。
「そんな事は考えないで」
けだるい顔を崩さないが、語気の強いオアの言葉でようやく男は"わけのわからない物にナイフでとりあえず立ち向かおうとした"という自分の愚かさに気づいた。
それと同時に、目ですら追えなかったオアと"何か"の動きから、絶対に相手にしてはいけないと直感した。
天井に叩きつけられた"何か"は落ちる時間に壁を蹴り、主祭壇に着地しオアから距離を取った。
「お、おい。俺、逃げた方がいいよな?」
「逃げたら私が殺す。 黙ってそこで立ってて」
オアの言葉を聞いて、男は覚悟を決めた。
どうやら、とんでもない現場に出くわした。まず常識でどうにかなるような状況ではない。
とりあえずこの状況に対応できているオアを信じるしかこの男には道は残されてはなさそうであった。
「わ、わかった。 ただ事が終わっても殺さないでくれるか?」
「当然――」
"何か"が突然飛び掛ってきた。オアはそれを横に流しながら足をかけて背中に手を添え、一気に回転させる。
そのまま"何か"を地面へ叩きつけるが、"何か"は叩きつけられる寸前に液状化してダメージを無効化した。
そのまま液状化した"何か"は一部を長い刃のように変形させてオアに射出するが、すぐにオアは距離をとってそれを避ける。
「面倒……」
オアは全く気だるい表情を崩していなかった。
"何か"は液状化したままオアに近づき、そして急に水しぶきのように襲い掛かる。
しかしオアは腰を深く落とし、引き手を深く取って"迎撃体制"を取っていた。
そのまま"何か"に正拳突きを叩き込む、"何か"は渦巻きのように中央から霧散する。
そして、そのまま飛び散った何かの破片はジューと音をたてて蒸発して消えて行った。
「……」
男はすさまじい戦いに、立ち尽くしてしまっていた。
一体、オアが何者なのか、あの"何か"は一体何だったのか、様々な疑問が男の頭に渦巻く。
しかし、オアが振り向いてこちらに歩み寄ってくるのを見て、疑問に優先順位をつけた。
「お、お前は……一体何なんだ?」
「オア」
オアはそう呟いて、男の目の前に立ち止まる。
「そうじゃない、名前なんかよりも、お前は……お前は何なんだよ!?」
オアはその質問に言葉を詰まらせた。
しばらくうーんと唸って考え込むと、難しい顔をして口を開く。
「……私は神様じゃない物」
「はぁ!? わっけわかんねえ……」
そう言いつつも男は感じていた。オアの身体能力の異常さではない、教会の天井がいつのまにか元通りになっている事でもない。
そういった"超常的"な物よりも異常な存在と、そうオアに対して何故か直感していた。
敵対や友好など、それ以前の問題として関わっては絶対にいけない物、そう直感が何故か告げていた。
「多分……関わっちゃいけないんだよな? 俺はお前と」
「ううん、私には関われないけど、関わり続けてる」
相変わらず、オアの"言葉"は理解できなかった。しかし、男の脳裏には何故か1匹の蛇が浮かんだ。
何故だかは理解できないが、男はとにかくその蛇をオアに重ねて感じていた。
オアはその様子を見てか、少し悲しそうな顔をして呟いた。
「大丈夫、すぐに忘れるから」
「そ、そうか……何がなんだかわかんねえけど……」
男は困惑しつつも安心していた。 忘れるという事が、何故だか救いに思えるからだ。
しかし、安堵すると同時にひとつの心配事が頭によぎった。
自らの雇い主が作り出したであろう、あの存在について。
「なぁ、最後にひとつ教えてくれ」
「何?」
「アレはなんだったんだ?」
オアは難しそうな顔をして、しばらく考え始めた。
ブツブツとああでもないこうでもないと自問自答を繰り返して、しばらくすると何かをひらめいたようにポンと手を鳴らした。
「沈んだ物であって、神様であって神様でもない物。内側にありながら、本質ではない物」
男は困惑すら通り越して、笑った。考えるにしても何がなんだか分からなさ過ぎた。
「……ははっ、やっぱわかんねえわ」
満足げな表情を浮かべるオアとは対照的に、苦笑いを男は浮かべていた。
「大丈夫」
そうオアは言って、男の額に手をかざした。
「すぐに忘れるから」
そこで、男の意識は途切れた。
そして目覚めた時には、男を含めて誰もその事を覚えてはいなかった。
男は後頭部の痛みと、いつの間にか軽くなっている財布に疑問を抱きながらも、ついには思いだす事は決してなかった。
しかし、ある一つの言葉だけはしっかりと覚えていた。
神様ではない物、その言葉だけが男の頭に刻まれていた。
10月2日最終更新