第1話
‡第一話‡
夜のヴァナーシャを、一人の少年が駆けてゆく。
少年は足音もたてず、夜の闇となってひたすら走る。
年の頃はまだ10かそこらだろうに、それにそぐわぬ痩躯は、いっそ痛ましいくらいでもあった。
「……はっ……はっ……」
これから起こることへの興奮に息を切らせながら、少年は、シャマイ村を目指して、ただ、走った。
「いってぇ!!」
夜の海は暗い。そんなの、海に住まない者でも知っている。
しかしここに、アンコウチョウチンも持たずに夜の海に繰り出したアホ人魚が一匹。
「ったく……こんなとこに生えてんじゃねえよクソ珊瑚!」
固い珊瑚に頭をぶつけて逆ギレするそのアホ人魚は、名をワコジーと言った。
ニルフォン海の底深くに建てられた、人魚の帝国『マーメイド帝国』――大柄な皇帝、ニシフラ・ワヒロシーの善政により繁栄を極めるその国の第7皇太子として、ワコジーは生を受けた。今年で12歳になる。
煌びやかな宮殿に住み、海中の富をほしいままにするその生活は、誰もが羨むほどだ。
実際、ワコジーもその事を自慢せずにはいられないほど、この生活に満足していた……ついこの間までは。
数週間前、たまたまワコジーは都のはずれの洞窟まで遊泳した。特に目的があったわけではなく、ただひまだったから行ってみただけだったのだが。
しかしそこで、ワコジーは大発見をした。
なんとその洞窟には、陸に住む『にんげん』と言う種族が使う様々な道具が沈んでいたのだ。
何に使うのかも分からないそれらを調べるうちに、ワコジーは次第に海の上の世界に憧れるようになった。
「ベンキョーベンキョーって……まじかったりぃし‥…」
釣り上がった眉をしかめ、厚めの唇を尖らせながらグチる皇太子。
皇太子という身分に生まれながらも、ワコジーは勉強や政治が大嫌いだった。
家庭教師には
「7人の中で一番できが悪い」と言われる始末……
そんなワコジーにとっての最近の唯一の楽しみは、勉強をサボってあの洞窟に行ったり、兄弟にばれないよう(そして特に両親にバレないよう)、海の上に顔を出すことだった。
「この前は、なんか同じ顔したやつらの乗った船に捕まりそうになっちまったからな…」
アホなワコジーは先日、真っ昼間に海の上に顔を出すと言う暴挙に出て危うくイケモンド族の商船につかまるところだった。
イケモンド族は、金銭第一主義をかかげる商人の民族で、かつては一国を形成していたが、今ではミラ皇国の1部族となってしまった民族だ。
彼らの特徴は、なんと言っても民族全員が同じ顔、同じ体型をしていることだった。
「人魚の剥製は高く売れるとか言ってたな…」
だから今日は、そいつらに見られないよう、夜中に宮殿を抜け出したのだった。
「俺は足が欲しい〜歩いたり走ったりしてみたい♪」
歌いながら、海面にむけて上昇を開始するワコジー。
人魚と言うのは皆歌が上手い、と思ったら大間違いだ。ヘタ、とはいかないまでも、ワコジーの変声期の声で紡がれる歌は、お世辞にも良いものではなかった。
「“道”の上を歩いて〜♪……ぷはっ」
ついに海の上に出たワコジーは、手近な岩の上に座り(俗に言う“人魚座り”)、ノリノリで声を張り上げた。
「陸の上で〜にんげんとして〜♪♪」
すーっと息をため、
「生ぃぃきぃぃぃたぁぁぁいぃぃぃぃいいいっ♪♪!!」
ワコジーが熱唱を終えた瞬間、内陸のほうで大爆発が起こった。
「え?! 俺?! 俺の歌ぁ?!」
一瞬昼間のような明るさで輝いた空に、何か小さな影が見えた――
[続く]