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苦手な方はご注意ください。

短編小説

掌編小説『マリスの海』

 友達のロジェが唇を尖らせて言った。

「なあ、マリス。僕はふざけているのでもなければ、ましてや踊っている訳でもないんだぜ」

 揺らぐ水の色が辺りに反射している。青く染まったロジェの顔。マリスの掛けている眼鏡に波飛沫の粒が点々とはねた。眩しい太陽が世界を漂白してゆく。



 マリスは今日、市立図書館で海の作り方が書かれた本を見付けた。いや、今日ではないのかも知れない。マリスの頭の中では時間が行ったり来たりしていたから正確には今がいつなのか分かっていなかった。

 市立図書館は郵便局だった古い巨大な建物をそのまま再利用していた。その大広間の中、南側の壁、所々の漆喰が剥がれて赤茶の煉瓦が見えている。壁の中央には棺くらいの大きさの柱時計が置いてある。それは三時ちょうどを指していたけれどマリスが産まれる前から止まっているので図書館はいつでも三時だった。午前ならば窓の外に月が丸くあり、午後ならば夏の陽射し。立葵の赤い花が下から上へ咲き上って行くのが見える。

 マリスは手を伸ばし胡桃材で作った古い本棚から『海の作り方』を取り出した。その装丁は澄んだ水色の透明なアクリル。本当の表題は分からない。眼鏡の度が合わなくなったからではなくて、ラテン語だったので読めなかった。しかし装丁から判断して、『海の作り方』だとマリスが決めた。


 マリスは書棚の隙間から抜け出して大きな円卓を囲む椅子に座った。天鵞絨(ビロード)を張った優雅な古い椅子。ここでは何もかもが古く、空気にも埃が被っているようだった。マリスは、南の海のような表紙を捲った。マリスの横に座っていたメリーが本を覗き込んで来る。蜂蜜色の髪先がマリスの腕に絡むようにしんなりと触れる。

「マリス。これはラテン語の本でしょ。あなた読めるの」

「読めるさ」その嘘を見透かしたようにアクアマリンの瞳がマリスの目を覗く。「少しだけど」

「じゃあ、この題は何て書いてあるの」

「……海の作り方」

「へえ。作るの?」

「これからね。良かったらメリーも一緒に作るかい?」

「そうね。いいわ。手伝ってあげる」

 マリスとメリーは本の言葉を拾い始めた。二人の細い指先が活字をなぞって行く。メリーの爪は磨いてあるらしくツヤツヤとしていた。

「cunis abyssi……アビスに似てるから、これは海のことだ。es creatura……クリエイトに似てるから、これは創作のこと。なんだ、やっぱり海の作り方じゃないか」

「当てずっぽうだったのね」

 メリーに笑われてマリスは恥ずかしいと思ったが、それを無視して読み進めた。

「animalia……アニマルに似てるから、これは動物のことだ」マリスは類推出来る単語だけを拾って本を読んだ。「海、創作、動物……海を作るには動物が必要……」

「ねえねえ、ここのreverti ad primumって、revert…戻る、primitive…原始、ってことじゃないかしら?」メリーが横から口を挟んだ。

「あっ、そうだね。原始に戻る……。海を作るには動物が原始に戻らなきゃならない……ってことかな」

「あたし、知ってるわ。すべての動物は海から生まれたのよ。きっと動物の時間を戻して海を作るのよ。きっとそうだわ」

「そうかも知れない」

「それで、あなたはどうして海を作ろうとしてるの?」

「ロジェに会うためさ」

「ロジェって?」

「二年前まで友達だったんだ」

「引っ越したの?」

「そうかも知れないけど分からないから、確かめるためにロジェがいる海を作るんだ。最後に会ったのは海だから」

「ふーん。会えるといいわね」

 海を作る。材料は何でもいい。動物ならば。動物は海から生まれたのだから動物の時間を逆行させると海になる。マリスは、手に入れられる動物は何かと考えていた。不意にメリーの手がマリスの手に触れて体温を感じた。マリスは、メリーが人間という動物であると気付いた。

「メリー、君の時間を戻して海になってよ」

「イヤよ。絶対にイヤ」

「……冗談だよ」

「ねえねえ、ここのterriti cattusのcattusはきっと猫よ。territiは分からないけど。猫の時間を戻すんじゃない? 思い出したわ! あたしの家で飼っていた雪のように白い猫が車に轢かれて死んだのよ。三日前のことよ。そう、この大事件をあなたに話そうと思っていたのよ。試験が挟まったから忘れていたの。今思い出したわ」

 ちょうど良い。その猫の時間を戻して海が作れる。マリスはそう思った。

「猫の死体を僕にくれよ」

「庭に埋めてあるのよ。きっともう腐ってるわ。それよりも図書館に来たんだから帰りにお菓子作りの本を借りたいの」

「自分で作るの?」

「ううん。見るだけ。今は何時かしら? あー、ここの柱時計はいつまでも三時ね。あの中に住んだらきっと若いままよ。うちのお祖母様は皺くちゃだから今すぐにでも、あの中に押し込めたいわ。イジワルだし。そして針をぐるぐると逆に回してあげるの。お祖母様が赤ちゃんになるまで。そうしたら少しは可愛くなると思うの」

 動物の時計を巻き戻す。柱時計の中に入れて、針を戻す。動物は海になる。時間を合わせれば……その海にロジェはいる。

「君はイヤだと言う。猫は腐ってる」

「そうね……だったらお祖母様を柱時計に入れましょうよ」


 去年の夏に引っ越して来たメリー。メリーの家はマリスの家の斜向(はすむ)かいにある。時計草が塀を這い、いろいろな草花やハーブが植わった庭。緑の三角屋根には丸い嵌め殺しの窓がある。そこから雨や雪や星が見える。

 メリーのお祖母さんは大きすぎて図書館までは運べない。自分で歩いて貰おうとマリスは提案したが、お祖母さんは足があまり良くないらしかった。そこで、お祖母さんを柱時計に入れるのは諦めることにした。

 庭の端には薔薇の茂みがあり、その手前に小さく土を盛り上げた塚があった。塚には木の枝を組み合わせて作った十字架が突っ立ててあった。枝を交差した真ん中の所を麻紐で括ってあるが、既に弛んでいる。その周りを萎びた白百合の切り花が囲んでいた。マリスは十字架をそっと引き抜き、白百合を退()けて、メリーから渡された園芸用の(こて)を使い、土を掘り始めた。

 猫の墓を暴きながらマリスはロジェの話をした。

「ロジェは凄く遠くまで泳ぐことが出来たんだ」

「私だって骸骨岩まで泳げるわ」

「それは遠くないよ」

「それならあなたは骸骨岩まで泳げるの?」

 マリスは黙って土を掘っている。土は柔らかく、程無く猫の棺に辿り着いた。

 猫の棺になる前は中国の陶器が入っていた箱。今その中に眠っているのは小花柄の布にくるまれた猫の死体。箱の蓋を開けてそれを取り出す。しっとりとした臭い布を剥がすと猫は舌を飛び出させたまま固まっていた。毛の色は、もう雪白ではなく薄く黄ばんで汚れている。全部を図書館まで持って行くのは難しいと思った。マリスはポケットからナイフを出し、猫の舌だけを切り取った。飛び出している舌を邪魔だと感じたからだ。それで、その部分は猫の死体に必要ないだろうと思った。メリーが差し出したハンカチに舌を包みポケットにナイフと一緒にしまった。

「一苦労ね」

「君は鏝とハンカチを差し出しただけじゃないか」

「あら、違うわ。大事な猫の大事な舌をあなたのために差し出したのよ」

「……ありがとう」

「いいわ。この子も役に立てて嬉しいはずよ」

 猫を箱に戻し、もう一度埋葬する。麻紐をきつく結び直し、十字架を突っ立てた。

「じゃあ、行く?」

「オヤツが用意してあるから食べてってよ」

「うん」

 メリーの部屋に窓から入った。物置小屋に立て掛けてある梯子を登り、その屋根に上がるとちょうど窓がある。メリーはマリスよりも先に梯子を上がったから、マリスには彼女のスカートの中がちらちらと見えた。メリーの部屋の床には銀のトレイが置かれていて、そこに蜂蜜とバターを乗せたパンケーキとグラスに注がれたミルクが二人分置かれていた。

「狐色に焼けていて美味しそうだね。借りた本にパンケーキが載ってたの?」

「あなたが急がせるから借りた本は図書館に忘れてきたのよ。だからまだ見てない。それはママが焼いたのよ」

 床に座り、向かい合わせで黙ったまま二人はパンケーキを食べた。


 マリスとメリーが部屋を出て、物置小屋の屋根に並んで立つと燃えるような夕焼けが西の空を染めていた。夏鳥が二羽、高く緩やかに夕空を(よぎ)って行く。庭のダチュラの花が強く甘く(かお)って二人の鼻先まで届く。どこに咲いているのかと庭を見下ろせばメリーのお祖母さんが庭の花に如雨露で水をあげていた。優しそうなお祖母さんだった。

 二人が通りに出るとお隣のジョイス夫人に見付かり、二人は彼女に声を掛けられた。

「何処へ行くのかしら? もう暗くなるわ」

「図書館に本を忘れたの。すぐに帰ります」

 メリーがにこやかに挨拶をする。マリスは黙って会釈だけした。


 市立図書館は藍色に陰り、いつものように誰の影も無い。正面玄関には鍵が掛かっていた。二人は裏口の方に回り、右から三番目の窓から中に入る。そこの鍵はずっと壊れている。マリスが先に窓を潜った。廊下に飛び降りると床の軋みが病人の呻きのように響いた。少し早足で廊下を進み、たびたび振り返ってはメリーが付いて来ているかを確かめた。彼女は蜂蜜色の髪を揺らして付いて来る。

 大広間の扉を開き胡桃材の書棚を抜けて行く。迷路のようなそこを迷うことなく、大きな円卓と柱時計の所まで進む。マリスは書棚に並ぶ本を覚えていたから、それを目印にしていた。ロンサールを右に見ながら真っ直ぐ……ランボーがあったら反対側の棚にユイスマンスを探して、その角を左……ポーを右……ヒサオジュウランを左……バタイユを右……円卓の前に出る。円卓に座っている者はひとりもいない。騎士達は今、戦いに出ている。マリスはポケットからナイフを出して刃を立て、目が眩むほど高い天井に向けた。

 いつの間にかメリーが追い付き、柱時計の前にいた。胸にお菓子作りの本を抱えて。

「マリス。早くしなさいよ」

「ああ、うん」

 マリスはハンカチに包んだ猫の舌をポケットから取り出し柱時計に近付いた。ハンカチが血で湿っている。メリーは柱時計の蓋を開けて待っている。マリスはハンカチを開き、柱時計の中に猫の舌を投げ入れた。

「針を戻すのはあたしがやるわ」

 そう言ってメリーが長い針に指を掛ける。そしてゆっくりと時間を戻して行く。

 波が打ち寄せる。図書館の床板に桃色の海藻が一欠片、打ち上げられた。エメラルドの香りが溢れる。柱時計の中を覗いたがロジェはいない。メリーがマリスに聞いた。

「ロジェが海にいたのは何時ごろなの?」

「太陽が一番高かったからお昼くらい」

「あら、今は七時よ。それならいる筈がないわ」

 針をくるくると戻すメリーの薬指には玩具の指輪が嵌まっていた。長い針が何周かを駆け戻り、柱時計の中は穏やかな潮騒で満ちた。海は夜。凪。

「何よ。午前なの? あと十二周も戻さなければならないの?」

「あ、待って……」

 遠く沖の方にロジェがいる。バシャバシャとふざけて暴れていた。美しい人魚が幾人かでロジェを囲み、濡れた両手で拍子を取っている。マリスは、彼等が踊っているのだと思ったが、遠すぎてよく見えない。海風が運んできたロジェの声がマリスを呼んでいた。眼鏡を外し、レンズをシャツの裾で拭い、また掛ける。人魚達の掌から宝石のような雫が輝いて弾ける。夜空に丸い月が光を放ち、その光が海まで這い降りて来て海面に道を作っていた。サフラン色に光る道。真っ直ぐ行けばロジェのいる所に付く。

 マリスは柱時計の中に入り、月が作った道を歩いて行った。数メートル行ったところで振り返り、メリーを見た。

「メリーもおいでよ」

「私はロジェと友達じゃないから此処で待ってる」

 メリーはお菓子作りの本を読み始めていた。それで仕方無く、心細いままで、マリスは骸骨岩の辺りまでひとりで歩いて行った。夜釣りをしている小舟がカンテラを灯しながらマリスの横を滑って行く。その小舟に乗ったお爺さんが釣り竿を上下させながら独り言を繰り返していた。

「昼間は酷い時化(しけ)だった」

 ロジェに近付くに連れて、マリスの耳にロジェの声がはっきりと届いた。マリスは心臓を掴まれたように苦しくなり、胸を掻きむしって(きびす)を返し、そのまま光る道を駆け戻った。ロジェの声が追い掛けて来ている。そんな気がした。


 柱時計を出るとマリスは力を込めて海を閉じた。マリスの額には冷たい汗が流れ、呼吸は乱れている。開いたページのお菓子ラング・ド・シャから目を離し、メリーは怪訝な表情を浮かべた。

「あなたが勢いよく飛び出して来るから波飛沫で本を濡らしちゃったわ。怒られるかしら? それよりあなた行かなくていいの?」

「いいんだ。だって、ロジェはもう死んでるから」マリスは怒ったように早口で言った。

「ふーん。夏休みになったら一緒に骸骨岩まで泳がない? 岩の潮溜まりにキレイな魚がいることもあるの。ちょうどアバラ骨の所よ」

「……泳げないんだ。僕は」

「あら、だからロジェは死んだのね。もしあなたが溺れてもあたしがいるから平気よ」

 市立図書館は全てが静まり返っていた。マリスは、大きな円卓の上に埃の一粒が降り積もったのを見た。柱時計の蓋の隙間から聞こえてくる(かす)かな潮騒。メリーが本のページを捲り、溜め息をひとつ()いた。



「マリス。分かったろ? 僕は踊っていたか?」

「分かったよロジェ。やっぱりあの時、君は溺れていたんだ」

 図書館の柱時計は三時を指している。ロジェは唇を歪めて、海に消えた。



         『了』


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