私は、邪魔ですか?
今年も、もうすぐ終わりですね。
しとしとと降り注ぐ雨の音に混じり、どこか遠くで雷鳴が轟く。朝だというのに窓の外は薄暗い。いつもなら時間通りに訴える腹の虫も、今日は不思議と大人しい。鏡に映った自分の顔は、目蓋は腫れ、頬に髪が張り付き、乾いた涙の痕が蛇行しているひどい有様だった。蛇口をひねりお湯が出るのをじっと待つ。こんなふうに贅沢に水やお湯を使えるのもエドのおかげだというのに、自分は……気を抜くとすぐにじわっと涙がわきあがってくる。まだ冷たい水を顔へかける。ひやりとした水が、火照りを振り払ってくれる。
コン、コンコン。何処か躊躇いがちなノック音にばっと振り返る。
「ユエ、起きているかい。話があるんだ」
ドアの向こうに今ここにいるはずのない人がいる。その声を聞くことを切望していて、それでいて死刑宣告をされた囚人のように私は脅えている。素人目から見ても、深夜から早朝の間で事態が、解決することがないことくらいわかる。オルフェス商会という決して小さくないこの商会のトップが、私に会いにくる。その理由は……。
「はい」
答えた声は震えてはいなかっただろうか。今まで通りにできていただろうか。寝間着のまま恥ずかしいが、時間を取らせるわけにはいかない。エドのような商人にとって文字通り時は金なりだ。ガウン姿を昨夜みられているのだから、かまわないかと思い至り、掛けてあるガウンを軽く羽織り、扉を開ける前に鏡で今の自分の顔を確認する。
「エド様……」
扉の向こうにいたのは、疲労の色をにじませた顔をしたエドとその横になぜかあきれ顔をしたカルだった。エドの顔を目にした途端、後悔の言葉が怨嗟のように流れ込んでくる。頭は鉛を流し込まれたかのように重く垂れ下がり、うまく上げられなかった。
「ユエ、君のせいじゃないよ。昨日は、リックが悪かったね。あいつも、気が立っていたんだ。許してやってくれるかい」
閉口一番にエドはそう口にした。きゅと唇を結ぶ。縦に振った頭に乗せられた手には、所々黒い斑点が染み付いている。的を射ていたリックさんの言葉に怒ってなんかいない。閃光がカーテンを突き破り瞬く。
「それでね、君にお願いがあるんだ。君にしかできないことなんだ、ユエ。頼まれてくれるかい」
「はい」と口にしたその返事に、一瞬たりともためらいの気持ちはなかった。たとえ、出てってくれないかな。そう冷たい口調と熱のない瞳で告げられたとしても。
「突然だけど、少しの間、僕の知人の家にお世話になってくれないかな」
耳をつんざくかのような音と共に、足元にずんと振動を与える。
「っ」
覚悟が足りなかった。言葉を、理解したくなかった。
やんわりとした言葉で、ここを出ていけと告げられているのだ。小さく開いた唇は何かを言おうとして何も言葉が出ずに震える。
「ユエ。アリアも忙しくなるから君の勉強はしばらく見てあげられない、約束したのにごめんね。向こうに、事情は伝えてあるから君の勉強は見てもらえるはずだ」
それに、このままでは君を余計に追い詰めてしまいそうだと付け足された言葉は水の中にいるかのようにどこか遠い。誹謗中傷、悪口等を全部庇ってあげられないから、避難してってことだとその知性を宿す甘い翡翠の瞳が諭すように向けられる。
「迎え馬車が、一時間後に来るから、荷物をまとめ置いてね」
「はい」
ここに居ても、私にできることはない。それどころか、邪魔になる。そんな当たり前の事実に心が悲鳴を上げる。何か、何でもいいからしたかった。私程度の頑張りで、失ったものを取り戻せるはずがないのだ。
「さよなら」
この数十日で増えた私物を皮の鞄に詰め込み、お世話になったオルフェス家を背にした。料理長に渡された酔い止めをしっかりと飲み下し、ぎゅと鞄の取手を握る。当たり前だが、見送りにエドは来ない。さっきも忙しそうに呼ばれていった。
「はぁ。ユエ、勘違いしているようだが言っておくが、これが最後じゃないぞ。必ず俺もあいつも迎えに行く。だから、さよならじゃなくて、またねだ」
大仰なため息とともに背後から投げかけられる言葉は再開を願う暖かなもの。振り向かなくても、後ろにいる人間がだれだかくらいわかった。タコのある武骨な指先が、髪の毛をくしゃりと乱す。
「カル。仕事、頑張れ、エドに……またね」
「ああ。そんなお先真っ暗な顔すんなよ。お前がこれから行く家は、あいつの未来の奥さんとこだぞ。すげぇー豪華なお泊り会くらいの軽い気持ちで楽しんでこい」
ばんと音だけは大きな癖に、痛みの少ない衝撃に押され馬車に突っ込まれた。本当に乱暴なやつだ。動き始めた馬車のカラカラと回る車輪のリズムにいつの間にか目蓋は落ちていた。
今年最後の更新になります(たぶん)。来年もよろしくお願い いたします。次回からは、明るくなります。だって、新年早々暗いのは嫌じゃないですか(*'▽')