第三章
エートン村はミドルトン伯爵領西部に位置し、或いは領主からも忘れ去られて存在している。
痩せた土地の上にへばりつく寒村には、村内を南北に分けるようにして、石畳の剥がれかけたみすぼらしい畦道のような街道が横一直線に通っている。しかし、それは平和街道や海の恵み街道のように重要な大街道では勿論ない上、そこから分かれる支道ですらない。支道の支道のそのまた支道の、軍事地図か余程の小縮尺地図でもなければ記載もされない毛細血管のような小道である。
小道はエートン村の西門を出た後、半時間行程弱ほど西に向かった辺りで、北西と南西に分岐する。北西に向かう道は、途中で丘陵を迂回し、中継点となるいくつかの村を経てミドルトン伯爵領西部の都市ノルザベルギエと繋がる。南西に向かう道は、草原の中に孤立した森の近くを通って、海の恵み街道へのいくつもある――そして取るに足らない――中継地点の一つであるジゲリントン村へと伸びる。モルクとハイドランの目的地であった場所だ。ジゲリントンの向こうには南西部第二位にしてミドルトン伯領第一位の都市、ミドルトン伯が住まうブランベルギエ市がある。
太陽がすっかり地平線から顔を出した頃、スナーは仲間達と共に至ノルザベルギエ街道の石畳が割れて草が生え出し、あちらこちらが凸凹とした路面を歩いていた。男女に分かれ、女二人が十数メートルも前を往っている。彼らを知る者がこの位置関係を目にしたら、彼らの関係が険悪なものになっていることを感じるだろう。それが作戦を立案したスナーとアルンヘイルの狙いであった。
事前の話し合いにより、彼らはエートン村の人々に対し、目的地をノルザベルギエと偽ることとなっていた。自分達が森への関心を完全になくしたことを示す必要があると判断したスナーとアルンヘイルの意見が通ったのである。迂遠なことを嫌うラシュタルは森への直行を望んだが、慎重派であるスナーとアルンヘイルは取り合わなかった。
村から直線距離で半時間行程ほど離れた地点まで進むと、前を往くフィオナ達が、産毛のような草で薄緑に染まった大地の瘤のような丘陵地帯に差し掛かった。一行は迂回する道をそのまま辿り、丘陵の向こう側に回った。念のために更に半キロメートルほど進んでからフィオナ達が停まり、後続するスナー達に振り向いた。
スナーとラシュタルは足を速め、立ち止まったフィオナとアルンヘイルに追いついた。
フィオナが仲間達に確認する。
「この辺りでよいでしょうか」
「そうね」アルンヘイルが体操でもするような動きでさりげなく周りを見渡す。「この位置なら、村から見えないわ。尾行されてる気配もないし……」動きを止めてスナーに目配せする。「スナー、あんたの方はどう?」
「見る限りじゃ、魔法的な監視はないな」
「では、ようやく森に行くのだな」
ラシュタルが溜まった鬱憤を感じさせる声を発した。
「そうですよ」ラシュタルに微笑みかけてから、フィオナはスナーに視線を転じた。「スナー、お願いできますか」
村から観測できない場所まで移動したらそこで違和感解消の魔術を使い、街道と街道に挟まれた平原を南下して直接森に向かう計画となっている。自然が生み出した荒れた街道以上の悪路を行く案を出したのはアルンヘイルであった。肉体的苦労を嫌うスナーは反対したが、少しでも早く会敵したいラシュタルと、半闇エルフ傭兵の経験に絶対の信頼を置くフィオナが賛成したため、提案は可決された。個人的好き嫌いから反対の声を上げただけのスナーに、合理性を軸に据えたアルンヘイルの意見を覆すことなど無理な相談であった。
「わかった。少し待ってくれ」
スナーは違和感解消の魔術に使う触媒を求めて腰のポーチを探った。
魔術には各星幽的操作に適した環境とは別に、それぞれの操作に対応する触媒が存在する。特定の操作を為さんとする意志を増強し、星幽光の変質を促進する作用を持つそうした物質や物品は多岐に亘る。毎年のように改訂が加えられる『触媒事典』でも網羅しきれないほどで、全てを持ち歩くことなど到底叶わない。それどころか、場所や鮮度の問題もあり、纏めて備蓄しておくことも難しい。そのため、自然と魔術師が手許に揃えておく触媒も、非常に重要なものか、使用頻度の高い魔術に関わるものか、なるべく多くの操作に対応した汎用的なものが中心となる。
敵を倒すことよりも敵に倒されないことを重視する――敵は誰かに倒させればよいのだ――スナーの場合は、道中の安全性を増すための魔術の触媒を中心に揃えている。彼がポーチから取り出した革の切れ端も、そうしたものの一つである。虹を掻き混ぜたような色合いをした爬虫類の革は万色透明蜥蜴の皮をなめしたもので、己の存在を変幻自在に擬態する爬虫類の皮は、まやかしに類する魔術の触媒として非常に汎用性が高い。
「今から一人ずつかけていくから――」
言いかけてスナーはある可能性に気づき、口を噤んだ。訝しむ三つの視線を無視してじっと考え込む。
魔術の行使は星幽光の操作であり、星幽光の操作は多かれ少なかれ星幽界に波紋を起こす。星幽光を魔法現象に変換すればその分だけ星幽光の稀薄状態がその場に生まれ、過剰を和らげ不足を満たす平衡化作用により、水が高きから低きへと流れるが如く、周囲に充溢する星幽光が殺到するのだ。その動揺を森の魔法使いに察知されるかもしれない。森からはそれなりの距離があるが、土地に定住する魔術師ならば、周囲数時間行程圏内での魔法発動を察知する警戒機構を組み立てていてもおかしくはない。スナーでも一月もあればそれくらいのことはできるし、彼は実際に似たようなものを「広く深い迷宮」にある拠点に築いている。
特別に監視されているのでもない限りこの程度の魔術には無縁のことだが、感知される危険を懼れるのであれば、星幽的に場を隔離するに越したことはない。そうすれば星幽界の動揺もその範囲内で済み、動揺が落ち着いてから場を少しずつ解放していけば、隔離によって生じる微細な――つまり星幽界に絶え間なく続く揺らぎに埋没する――波が立つだけに終わる。
臆病さにも似た慎重さを具えた魔術師は更に思案する。
魔術の発動を無事隠し果せたとしても、違和感解消の魔術が相手に破られない保証はない。どうせ隔離して発動を隠すのだ。強力だとわかっている魔術師を相手にするのであれば、常に全力を費やすべきだ。
心を決めたスナーは、ポーチに革の切れ端を戻すと星幽界に結界を張って場を隔離し、腰のポーチから透明な液体の入った小瓶を取り出した。中身は魔晶液で、常人には不可視の星幽光の輝きを淡く放っている。錬金魔術と附与魔術の技法を駆使して手ずから作製したものだ。瓶の中に封じられた清水には、彼自身の星幽体から抽出した星幽光が含有され、保存されている。いわば星幽光の貯金である。引き出して取り込めば星幽体が一時的に増強され、星幽光に働きかける意志が強化される。肉体を通じて大量の星幽光を一気に吸収することが健康に良いはずもないが、この場合はそれも仕方がないと諦めた。必要な危険は躊躇わず冒すのがサルバトン一門の流儀だ。得るためには失う覚悟が必要で、生きるためには死ぬ覚悟が必要だ。賭け金を出さないことには始まらない。
木栓を抜き、低次星幽界を介して意志を液体に伝達すると、液中で不活性状態にあった星幽光が活性化し、ただの水にしか見えない液体が常人にも視認可能なほどに濃密な神秘的光を放ち始めた。
フィオナが見惚れるように蒼瞳を揺らめかせた。
「いつ見ても綺麗ですね。まるで夜空の星々のようです」
「的外れな感想じゃないな。星幽光という名前は、元々、星明りのことを指していた。かつて星界と呼ばれ、今は宇宙と呼ばれる領域の研究が進んで、星幽光と星明りが関係ないことがわかると、星明りとしての用法は廃れてしまったが……というのはもう何度も話したか」
スナーは学院時代に習った知識を披露した。これを教わった時、間違いというものは時としてとても味わい深いものを生み出すものだ、と彼は思ったものだった。
フィオナは笑った。
「この間は宇宙や惑星のことも話してくれましたね。生憎と、学のない私にはよくわからず、あなたに退屈な思いをさせてしまいましたが」
「そうだったな」
頷き、スナーは光る液体に視線を落とした。緊張の面持ちでじっと眺めた後、意を決して中身を一息に飲み干す。無味無臭の、それでいて味覚に挑戦しているとすら思えるほどに不快な感じがする、根本的に飲用に適さない液体が舌の上で踊り、喉の奥に滑り落ちた。
数秒後、火精霊が宿ったかのような熱が臓腑を焼き、爆発的な勢いで全身に拡がり出した。血管の一本一本が何倍にも拡張され、心臓の脈動が何倍にも激しくなったかのような苦しくも爽やかな感覚が彼を襲う。心身は過剰なまでに満たされて弾け飛びそうで、肉体は不気味なほどに軽やかで、意識は神になったような万能感に昂っている。星幽体は太陽のような熱を内側で暴れさせている。彼が彼のために調整した星幽光は、彼の存在を稀釈することも侵蝕することもなく、実によく馴染んで浸透していた。
恐ろしいほどの充実感に翻弄されつつ、右手に万能の触媒である杖を握ったまま、まずはアルンヘイルに向き直る。左手は瓶に代わって万色透明蜥蜴の革を掴んでいる。
「じゃあ、違和感解消をかけるぞ。抵抗しないで受け容れてくれよ」
全霊を尽くして振り絞った意志が左手に持った蜥蜴の革を経由して杖に集約され、可塑性に富んでいて魔術に織り上げやすい星幽光に満ちた高次星幽界へと放たれた。衝き動かされた不可視の星幽光が吸い集められるようにアルンヘイルに絡みつく。
魔術はほんの数秒で完成してアルンヘイルの心身を一時的に変性させ、見えながら見えない存在と化した。その姿を捉えても、意識が勝手に彼女をそこにいることが当たり前の存在として処理し、注意を逸らしてしまうのだ。最早、術者であるスナーと当人であるアルンヘイル、例外として設定しておいたフィオナとラシュタル、そしてスナーの魔術を見破るほどの眼力の持ち主以外に、半闇エルフの女戦士の存在に違和感を抱くことはできない。この中では最も星幽的に鈍感なフィオナはおろか、スナーに次ぐ鋭敏な感覚を持つラシュタルでさえも、本来ならばアルンヘイルを認識できない。スナー自身も、彼がかけた魔術でなかったならば、或いは姿を見失ってしまうかもしれない。まさに会心の結果であり、かつての師である大陸一の大魔術師ウェイラー・サルバトンですら騙し果せるのではないかとすら思われた。
スナーは同じことをラシュタルにも行ない、最後にフィオナに向き直った。戦神の祝福を受けた者に魔術をかけるのはちょっとした難題だ。戦神の祝福は、魔法に対する高い抵抗力を与えるだけに留まらず、良いものと悪いものとを問わず戦神に由来しないあらゆる魔法の効果を拒絶する。「祝福」の名にふさわしいこの守りは、接触して直接発動された魔法によってしか破り得ない。
何者の加護も持たない魔術師は星幽的な意味において心身の延長である長杖の先で戦神に祝福された女剣士の肩口に触れた。意志の力で星幽光を衝き動かし、凝縮し、纏わりつかせる。魔術は大過なく完成した。
そして最後に後始末に入る。まずは星幽界上に構築した隔離結界の内側に生まれた波紋を落ち着かせ、次いで結界の一部に穴を開け、少しずつ消費した分の星幽光を取り込む。結界内外の星幽界の状態を慎重に見定め、両者の星幽光濃度を始めとする状態が一致乃至近似するまで細心の注意を払って調整していく。調整が終わったところで少しずつ結界を開放し、ごく自然に隔離された部分を全体に帰着させる。
決して簡単とは言えない魔術を最高度の力と準備を以て立て続けに発動し、その後始末までもを終えたスナーは、息も絶え絶えで、立っているのもつらいほどだった。酷使した意志は疲労に喘ぎ、鈍磨した精神と頭脳は思考を拒絶している。
しかし、魔晶液をもう一瓶開ける気にはならなかった。星幽光を手軽に補給できる便利な液体だが、濫用は破滅を招く。どれほど魅力的に見えても、必須でない限りは服用すべきではない。
荒い息をつき、杖に縋って眩暈を堪えながら、疲労困憊した魔術師は仲間達を見た。
「すまない、少しだけ休ませてくれ」
「半時間ほど休憩にしましょう」
フィオナの言葉に異議は出なかった。
「助かる」と礼を言うが早いかスナーは地面にへたり込み、精神を復調させる瞑想に入った。半時間もしっかりと休めれば、万全とはいかないまでも十分な調子を取り戻せる。
およそ二時間後、一行は件の森の近くに辿り着いた。直線距離で一時間行程強ほどの道程だったのだが、悪路での歩行速度の鈍りと、体力不足のスナーの鈍足とが足を引っ張り、必要以上の時間がかかってしまったのである。ひ弱なくせに意地っ張りなところのある魔術師は、素直に荒野エルフに担いでもらえばよかった、と疲労に包まれながら後悔した。
森の手前百メートル地点で見つけた灌木と草の茂みの後ろに身を伏せるようにして隠れ、彼らは様子を窺った。
陽射しの下、森は青々と広がっている。一見、大陸のどこにでもありそうな何の変哲もない森だ。特に目を留める気にもならず、通り過ぎて少し時間が経てばもう忘れ去ってしまい、風景を正確に思い出すことができなければ思い出そうという気持ちすら起こらない。一見する限りでは、そういう森だ。実際に確かめてみれば無論そのようなことはないのだが、印象稀薄化の魔術が施されていると言われても違和感がない。
しかしスナーは、そのどうということもない森が、不思議な好奇心を刺激して内部に人を誘う雰囲気を発していることに気づいた。常人では気づかないほど微弱かつ自然な心理誘導の魔術が施されている。愚かな少年達はきっとこの魔術的に作り出された雰囲気に誘われて囚われたのだ。或いは、時折ここを通りかかる旅人にも、犠牲者は出ているのかもしれない。
その周囲は苦々しいほど出来の良い結界で覆われており、肉眼で眺めると、投射視覚で観察した時よりもその完成度の高さが窺えた。都市に構築するものに比べれば器材や人員等の問題から当然劣るが、純粋な結界としては並大抵のものではない。敢えて注目しない限り生半可な星幽的感覚では気づくことも難しいほど密やかに星幽界上に張り巡らされた結界は、本来与えられた機能とは無関係に、その存在に気づいた者を威嚇する効果をも発揮している。
「で、どうなの」アルンヘイルが渋い顔でスナーを見る。「ここまでくると、私でもやばさがわかるんだけど」
「視覚投射で探るのは無理だな。ちょっとした都市の結界に匹敵しそうだ」
「では乗り込んで調べるしかない」
目を凝らして森を眺めていたラシュタルが嬉しそうに言った。スナーに劣り、アルンヘイルに勝る星幽的認識能力を持っているのだから、彼は当然相手の恐ろしさも理解できているはずだ。それなのに、戦いを楽しみと誉れとする種族の勇者は強敵を前にしてますます昂った様子だった。
「スナー、その前に、私の鎧を取り寄せてください」
移送の魔術で拠点からドワーフの具足師謹製の真銀鋼の軽鎧を運んでくるよう求め、フィオナもやる気満々の態度を示した。
「戦いに来たわけじゃないだろう」スナーは鬱陶しそうに手を振って二人の期待を砕いた。「これだから戦馬鹿共は困る」
「そうよ、二人とも。目的は偵察でしょ、偵察」
「ですが、状況次第では戦闘になるでしょう。強力な魔法使いが相手となれば、相応の備えが必要です。ですから、私の鎧を」
「そのことだが」とスナーは悔しさの滲む声で告げる。「最初は俺もそう思っていた。つまり、いざとなれば乗り込んでの決着も止むなし、と。だが、ついさっき、少々予定が変わった。あれだけの結界を作る魔術師だか魔術師集団だかの本拠に乗り込むのは愚策だ。率直に言って俺は嫌だ。死ににいく気はない」
アルンヘイルが敗色濃厚な戦場で援軍を得たような顔をした。
対するフィオナは読みを外された将軍のような顔になっていた。不服そうにスナーを見る。
「……確かに結界は強力に見えますが、相手方の魔法使いは、あなたがそこまで恐れるほどの使い手なのですか」
「俺よりも格上だと思う。他に候補者がいなければ誰の異論もなく導師になれそうなくらいには腕がいい。真正魔術師としてどうかは知らないが、そいつの得意分野で挑んでこられたら勝つのは難しそうだ」嘆息する。「まさか、これほどとは思わなかった」
「あなたにそこまで言わせるほどの魔法使いの根城に無策で乗り込むのは、確かに愚か者のすることですね」
「そうよ」アルンヘイルがここぞとばかりに口を挟む。「もうこれは私達だけでどうにかなる話じゃない。あとは組合とお上に投げちゃいましょ」
ラシュタルが苦虫を噛み潰したような顔で、撤退論を唱える己の恋人の横顔を見た。
「優れた敵を前にしてすごすごと引き返すのか」
「帰るのも一つの案ではあるが」スナーは早くも結論に達したような三人に待ったをかけた。「俺としては、撤退以外に、いつものように、アルンヘイルに偵察してもらうという案も捨てがたい」
一同の視線がアルンヘイルに集まった。アルンヘイルは虚を衝かれた様子で目を瞬かせたが、話を呑み込むと、掴みかからんばかりの勢いでスナーに詰め寄った。
「ちょっと待ちなさいよ! 私に死ねって言うの?」
「君一人を潜り込ませることくらいはできるし、君の潜入技術があれば十分ごまかせる……はずだ。いつものように頑張って、何か見つけてきてくれ」
「『はず』って何よ、『はず』って!」腰に手を当てて身を乗り出し、人を呪い殺せそうな目つきでスナーを見据える。「『はず』で殺されちゃ堪ったもんじゃないわ。あんた、あの結界なめてるんじゃないの」
「アルンヘイル、落ち着いてください」フィオナがアルンヘイルの肩に手をかけて引き止める。「一応、スナーの話も聞こうではありませんか。スナーは決して無謀な意見を出す人ではありません。あなただって知っているでしょう」それから、蒼い瞳にごまかしを許さない厳しい光を宿してスナーに言う。「さあ、詳しいことを説明してください」
荒野エルフの勇者も恋人を死地に赴かせようとした男に無言で険しい眼差しを注いでいる。
三者三様の圧力を受けたスナーは、頭の中で言葉を整理し、軽く咳払いして三人に答える。
「まず、最初の予定じゃ、視覚投射で探るかアルンヘイルに偵察させるかした後、状況が許すようなら突入するつもりだった。だが、予想外に結界が強いことから予想される相手の実力が上方修正され、このやり方は危険だと判断した。ここまではいいか」
スナーは言葉を切り、仲間達に確かめた。三人は頷き、各々なりの仕草で、先を話すように促した。
「よろしい。ここで問題になるのは、見つかってもごまかせれば大丈夫なのか、見つからなければ大丈夫なのか、見つからないことそのものが不可能なのか、だ。俺が見たところじゃ一番目だ。だから、戦闘前提で全員で乗り込むのは無謀でも、偵察要員を送り込むくらいなら問題はないはずだと判断した」
「なるほどね」アルンヘイルが忌々しげに理解を示した。「少なくとも賭けは成り立つってこと。かなり分が悪そうだけど」
「理解が早くて助かるよ。物分かりがいいともっといいんだが」
アルンヘイルの整った顔が挑発的な笑みを形作った。
「物分かりがいいって言葉は、要するに、都合が良いって意味でしょ」
スナーは出来の良い学生を褒める教師のような微笑を返した。
「そういう見解が成り立つ余地は大いにあるな」
「でも、見つかってもごまかせれば、ってのはどういうことなのよ」
「結界は星幽界に在って星幽界と物質界を監視している。この結界は、中で消費する星幽光を補充するためか知らないが、少しずつ、ほんの少しずつ、簡単には気づかれないほどこっそりと周りの星幽光を引き込んでいる。そこに紛れればいい。物理的監視の方は――推測だが――人はともかく小動物の出入りまで一々感知していてはきりがないだろう。小動物は見逃すように出来ている公算が高い。例外が設定されている時点でこちらに有利だ。違和感解消の魔術は認識をごまかすものだからな。『例外がある』という認識自体を利用させてもらう」
「砦に入ろうとする奴は犬猫や虫けらでも殺せって言った貴族を知ってるよ」
聞き覚えのある話だったので、スナーは記憶を掘り返してみた。すぐにそれらしい史実に行き当たった。彼の生まれる百年以上前、実に一世紀半以上も過去の逸話だった。王国のホライネ伯爵が、共和革命に呼応した魔女達が王国本土で起こした叛乱を鎮圧するに当たって、そういった指示を出したというのを史書で目にしたことがあった。
「王国本土の魔女叛乱だな。だが、あれは一時的な措置、それも魔女との戦いを想定した特別な措置だったはずだ。常日頃からそうだったというわけじゃないだろう。もっとも、仮にそうだったとしても、結界をごまかすくらいのことはまず問題なくできるが。それが魔術というものだ」それから、蚊帳の外だったフィオナに顔を向けた。「さて、お頭殿。君はこの案をどう思う」
フィオナは腕組みし、賭けるよう要求されたものが自分の命であるかのような顔で、真剣に考え抜いてから答えた。
「理に適っているとは思います。でも、そのまま認めるつもりはありません」
「じゃあどうすれば認める」
「まず、やるかやらないかは、私やあなたではなくアルンヘイルが決めるべきです。それから、やるとしてもアルンヘイルの安全が優先です。私は仲間に怪我をさせたり命を落とさせたりしてまで情報を得たいとは思いません。まずアルンヘイルが無事に戻ってくることが前提です」
「と、お頭殿は仰せだ」スナーは粘着質な声音でアルンヘイルに話しかけた。「俺としても君がどうしても嫌だと言うんなら無理強いする気はない。やる気のない者には無理な仕事だからな」
石炭のようにくすんだ黒瞳で、神秘的に煌めく黒瞳をじっと覗き込む。覗き込む瞳には相手にだけわかる揶揄と挑発の色があった。
アルンヘイルは耐えかねたように視線を外した。
「わかったわ。やるわ。やってやるわよ」と不貞腐れたような態度で承諾した。「でも、その代わり、魔法は気合入れてかけなさいよ。手抜きなんか許さないわ」
「ありがとう、アルンヘイル」
フィオナが頭を下げた。
「いいのよ、フィオナ」スナーを親指で指す。「悪いのはあいつなんだから」
「頭は私です。仲間の責任は私の責任ですし、決めるのも私です」
アルンヘイルは堪えきれなくなったようにくすくすと笑った。
「何年経っても真面目なんだから。でもいいことよ。それが指揮官ってものだから」
それから森歩きの準備を整え始める。背嚢から木の棒や鉈を取り出して適宜身につけ、長靴の紐をきつく締める。
スナーはふと、黙ってやりとりを傍観しているラシュタルを見た。
琥珀のような瞳が真っ向から見返してきた。
「何か用か」
「いや、相変わらず何も言わないんだな、と思ってな」
「アールはやると言った。ならばやるだろう。もし戻らねばこの森に住まう者を残らずこの手で殺すだけのことだ」
ラシュタルの態度は当たり前のことを当たり前に語っているかのようだった。
「相手は俺よりも強い魔術師だぞ」
「知らぬ」ラシュタルはどうでもよさそうに言った。「私はそうすると決めた。だからそうする」
「アウルターク大王にでもなったつもりか。王になれると思うのか、という剣聖カルミルスの問いに、大王はそんなようなことを答えたそうだぞ。なれるかなれないかではない、なると決めたのだ、とな」
スナーは馬鹿にするように鼻で笑い、手袋をしたままの手を懐に入れた。少しの躊躇いの後、目当てのものを取り出した。蓋を開けて時刻を確かめる。八時十五分十二秒。
「持っていけ」
蓋を閉じてアルンヘイルに差し出した。
「何よ」掌の上のものに気づき、アルンヘイルは目を見張った。「ご自慢の時計じゃない。貰っちゃっていいの?」
「どさくさに紛れて何を言っているんだ」スナーはこめかみを押さえた。「貸すだけだ。経過時間を確認するのに必要だろうから貸してやるんだ。今回は確実に時刻を知る必要があるからな。いいか、ちゃんと後で返すんだぞ」
もう一度手を差し出すと、アルンヘイルが気後れした様子で革手袋を外し、おっかなびっくり時計を手に取った。唾を飲み込み、穴が開きそうなほど、じっと掌の時計を見つめている。その手は微かに震えているように見えた。無理もない。その掌に載っているものは、要するに金貨数十枚だ。しかし、いつもどこかに余裕を残すアルンヘイルが緊張と狼狽に支配されている様子は、その妥当さとは無関係に面白かった。
その愉快な反応を眺める内、時計を触らせたのはこれが初めてであることにスナーは気づいた。いつの間にか人生の宝物と言える時計を貸してやる気になるほどの信頼関係が生まれていたことに思い至り、感慨深いものを覚えた。ティートバルクで出会った時、ラシュタルやアルンヘイルと、こんなにも長く付き合うことになるとは思ってもみなかった。あの時は――フィオナの認識はともあれ――二つの二人組が必要上から一時一つになっただけに過ぎなかった。
しかし、スナーはそうした思いをおくびにも出さない。ラシュタルはともかく、アルンヘイルはからかいの種にしてくるに決まっているからだ。
何事もなかったような態度で告げる。
「手袋をしたままで構わない」
「でも、汚れちゃうよ。大事なものなんでしょ。いいの?」
「問題ない。俺も手袋を着けたまま触っている。真銀は強い金属だ。簡単には傷つかないし、多少汚れたところで磨けば綺麗になる。知っての通りドワーフ細工だから造りも頑丈だ。そう簡単には壊れない」ふと根本的な問題に気づき、指摘する。「第一、森の中で一々お上品に手袋を取るわけにもいかないだろう」
「持ち主がよいと言っているのだ。言う通りにしておけ」ラシュタルがアルンヘイルにぶっきらぼうに告げる。「お前は使命を果たして生きて戻ってくることだけを考えろ」
アルンヘイルはじっとラシュタルの顔を見つめてから、意を決した風に頷き、懐中時計を腰のポーチにしまった。荒野エルフは満足そうに頷き返した。
アルンヘイルはスナーに強張った笑みを向けた。
「そこまで言うなら借りてってあげるけど、何かあっても弁償なんて無理だからね。したいとかしたくない以前の問題よ、こんな馬鹿みたいな高級品。そこのところ、わかってる?」
「わかっている」スナーは深刻な顔で頷いた。「こんな状況で貸すのだから、覚悟はしている。君の安全を優先していい……だが、できれば無事に戻ってきてほしい。君と一緒にな。俺は仲間も宝物も喪いたくない」
「私だってまだまだ生き足りないわよ。最低でも千年は生きてやるって決めてるんだから。時計はともかく、私のことは善処するわ」軽口を叩いて自信に満ちた微笑を浮かべたアルンヘイルは、いつもの調子を取り戻したようだった。それから、戦いに赴く戦士の顔になる。「それじゃ、具体的な話を聞こうじゃない」
「基本的にはいつも通りだ。違和感解消の効果を少し弄ってから、全力で君に害毒除けの魔術をかける。その後、君はこっそりと忍び込む」
「透明にする奴は使わないの? 姿隠しだっけ?」
「透明化の魔術か。もう一つくらいなら同程度の強度でかけられると思うが、俺の責任で勧める気にはなれないな。長すぎる生涯を透明人として過ごしたり、あらゆる免疫を喪失して魔法の助けなしには生きていけない身になったりする覚悟があるんなら、敢えて引き留めようとは思わないが」
附与魔術はかける側にもかけられる側にも相応の素養を要求する。時間的或いは質量的な許容範囲を超える星幽光を附与されたものは、与えられた星幽光に星幽体が侵蝕され、本来持っている星幽的性質を変性させられてしまうことになる。そして多くの場合、変化は不可逆だ。アルンヘイルは半分とはいえ闇エルフであるため、人間よりも星幽光の変性作用に耐性があるが、その耐性はスナーが全霊を籠めた魔術をいくつも重ねがけするに十分であるとは言えない。
「少なくとも、今はまだそんな覚悟をする時じゃないわ。諦める。話を続けて」
アルンヘイルは賢明な臆病さを示した。
「それでいい」と頷き、話を再開する。「いつもと違うのは、普段よりも隠密性を重視する点だ。常に外部から星幽光を供給していれば術者の制御能力が及ぶ限り魔術は持続する。だがそれをすると星幽界に不自然な揺らぎが起こり続ける。かと言って君の星幽体から補充するとなると、今度は君の消耗が激しくなる。だから、今回は第一方式でいく」
スナーは、周囲や被術者の星幽光に頼ることなく、最初に籠めた星幽光を使い潰していくやり方を選んだ。
「どれくらい持つの?」
「二時間は保証する。それ以後は少しずつ効力が減衰するはずだ。四時間は持つまい。安全を重視するなら、一時間半程度と見ておいた方がいい。一時間半で侵入、偵察、撤収を済ませるんだ」
「このくらいの森なら、ざっと調べるだけでも三、四時間は欲しいんだけど」
「無理だ。諦めてくれ」スナーは即答で切り捨てた。「その代わり、隅々まで見て回る必要はない。何かめぼしいものを見つけた段階で帰ってきていい。俺達の目的は、組合が納得するだけの情報を手に入れることだ」
「現物はなくてもいいのよね」
スナーは頷いた。事前の話し合いにより、物的証拠は余裕があれば持ち帰る、ということに決まっていた。組合からの星付き冒険者への信用度は高いし、魔術師間での真正魔術博士の地位は学院の導師や大博士に次ぐ。証拠のない報告だけでも、頭ごなしに否定されることはないはずだ。
「最後に二つ警告しておく。まず、さっき俺が、魔術の効力を二時間保証する、と言ったことは憶えているな」
アルンヘイルは黙って頷き、目で先を促した。
「結構。それは裏を返せば、十分と思われる効力が二時間以上発揮されないということだ。そして、害毒除けはともかくとしても、違和感解消の効果が切れた時が君の人生が終わる瞬間だ。いつもの感覚で動いていると時間切れになるから気をつけろ。二時間が過ぎても戻らない場合は死ぬか捕まるかしたものと見做す」
スナーは複雑な表情で宣言した。彼はそうなれば見捨てるつもりでいるが、きっと周囲がそれを許さない。ラシュタルは女を捨てて生き延びるくらいならば殉じることを選ぶだろうし、フィオナは仲間を絶対に見捨てない。そしてスナーはフィオナを見捨てられない。そのことを示すように、二人が厳しい視線をスナーに注ぐ。
「遠回しに死んでこいって言われるの、久しぶりよ。革命戦争の時を思い出すわ。あの時も酷かった」アルンヘイルは柳眉を歪め、眉間に皺を寄せ、重苦しい吐息を漏らした。「……わかった。次は?」
「森には、心理誘導の中でも『人寄せ』と呼ばれる魔術が施されている。これは外に対しては人を招き寄せ、内に対しては離れがたくする作用を持つ。害毒除けをかけるから大丈夫だとは思うが……森に囚われないよう気をつけろ」
「わかったわ。もういい?」
「俺からはもうない」
「よろしいでしょうか」とフィオナが声を上げ、話し合っていた二人を見た。
二人は頷いた。スナーは邪魔にならないよう一歩脇にどき、アルンヘイルがフィオナを見返す。
「何?」
「アルンヘイル」とフィオナは気遣わしげな顔で名を呼んだ。「気をつけてくださいね」
気遣われた当人はいかにもおかしそうに噴き出した。
「やめてよ。そんな死にに行く相手を見送るみたいなの。平気よ。いつも通りやっていつも通り戻るだけよ」悪戯っぽく微笑む。「それとも何、あんた、私のこと信用してないの?」
「そういうつもりでは……」フィオナは咄嗟に否定したが、結局ばつの悪い顔で呟いた。「すみません」
「いいのよ。心配してくれてるんだもん。ごめんね、意地悪言って。でも、どっちかって言うと、されるんなら心配より期待の方がいいかな、私は」
フィオナは真面目な顔で少し考え、それから、微笑と共に口を開いた。
「……アルンヘイル、必ずや情報を持ち帰ってくれるものと期待していますよ」僅かな逡巡の気配の後、付け加える。「無事に帰ってきてくれることも、ですよ」
「期待されたら応えないわけにいかないわね」アルンヘイルは笑って旅荷物の入った背嚢を地に下ろし、スナーに視線を移した。「さっさと済ませてくるから、魔法よろしく」
「わかった。少し待っていてくれ」
スナーは再び星幽界上に結界を展開した後、杖をアルンヘイルにかざし、手始めに違和感解消の魔術の星幽光補充機能を切った。半闇エルフの体に吸い寄せられる仄かな星幽光の流れが止まった。
時計の砂は静かに落ち始めた。決して狭くはない森から二時間でめぼしいものを見つけ出す難題を引き受けたアルンヘイルから、更に時間を奪うわけにはいかない。仲間の決意に報いるため、スナーは再び魔晶液を一息に飲み干した。心身が弾けそうになる慄然たる充実感がスナー・リッヒディートという存在の全体を駆け巡って荒れ狂う中、右手に万能の触媒である杖を握ったまま、害毒除けの魔術の発動準備に移る。左手で害毒除けの魔術の触媒となるコートの袖を握り、魔術を待つ半闇エルフに告げる。
「害毒除けをかける。準備はいいか」
「早く済ませてちょうだい」
アルンヘイルが静かに目を瞑った。スナーは昂揚した精神を努めて平静に保って統御して、意識に嗜好性と統一性を持たせ、その全身に満ちる意志の力を一度に出し尽くすほどの意気で魔術を発動した。自らが御し得る限りの星幽光を彼は動かした。強大な意志の力に衝き動かされた星幽光が、まずコートの布地の触媒作用の後押しを受けて変性し、アルンヘイルの流れるような輪郭を包み込み、纏わりつき、吸い込まれる。その工程が進むにつれてスナーの全身に満ちていた星幽光の煌めきが弱まっていき、意識が朧になり、頭脳が鈍っていく。
純粋魔術を中心にいくつもの魔術体系の原理を併用した真正魔術はほんの数秒で完成した。半闇エルフの浅黒い肢体と繊細な星幽体が、あらゆる害毒を防ぎ、逸らし、和らげ、癒す、強大な抵抗力に満たされた。矢除けや毒除けのような特定の害に対処するものに比べると個別の抵抗力は落ちるが、何が来るかわからないこういった状況ではその汎用性が頼りになる。
立っているのもつらいスナーは、その場に座り込み、大儀そうにアルンヘイルの顔を見上げた。
「完了だ。時間を確認しておけ」
アルンヘイルは黙ったまま、恐る恐るといった手つきで懐中時計の蓋を開けた。針は八時三十四分二十一秒を指していた。
「行ってくるわ」
時計をしまい、親指を立てて背を向けたアルンヘイルは、棒を片手に禍々しい森に向かって駆け出した。
「行ったな」
ラシュタルは立ったまま腕組みをし、真剣な顔で森を眺めた。
「俺はしばらく結界を分析してから休む。集中したいから、何もないようなら話しかけないでくれ」
スナーは座ったまま、遠くに見える不可視の結界に意識を集中し、不用意に刺激してしまうことのようない細心の注意を払って精神の触手を伸ばしていった。
アルンヘイルはいかにも侵入者を誘うように口を開けた森道を無視し、獣でも通りそうにない木々の密生地帯を目指して森に駆け寄った。敵陣を探る時は容易く侵入できそうな場所を避けるのが鉄則だ。相手が馬鹿でない限り、そういう場所に備えをしていないはずがないからだ。最も危険な道が最も安全な道だ、と彼女に傭兵としての生き方を教えた女戦士は言った。ただし彼女は、裏を掻いて危険な道に罠を仕掛ける戦巧者もいるので油断は禁物だとも言っていた。
森の縁で立ち止まる。森に潜む魔法使いが張った結界は、近づけば近づくほどにその威圧感を増していた。
見かけは然程恐ろしくもない。やや木々が密生気味で薄暗いというだけで、凶悪な魔法使いの隠れ家がある場所だという感じはしない。だが、平凡な人間ならばたとえ目の前にあっても気づかないかもしれないが、人との混血とはいえ闇エルフである彼女の目は、これから踏み込もうとしている場所の恐ろしさをはっきりと捉えていた。
ここは人が踏み入ってよい場所ではない、とアルンヘイルは感じた。しかし、仲間達に先駆けてそういう場所に飛び込むのが彼女の仕事、彼女の存在意義なのだ。フィオナ達は、誰もが掛け替えのない存在として役割を分担している。統率のフィオナ。魔法と知識のスナー。武勇のラシュタル。彼らの仲間だと胸を張って名乗るには、彼らが必要としているのにできずにいることをして、空白を埋める形で居場所を求めるしかない。それが部隊というものだ。一人として怠けることは許されず、真の意味での無能者に居場所はない。他の三人にできず、彼女にしかできないこと。それが、傭兵や冒険者としての経験の中で習得した技術による、交渉や偵察だった。上流階級との接触は流石に手に負えないからスナーやフィオナに譲るしかないが、逆に下層民や裏社会との交渉はアルンヘイルの独壇場だし、偵察や潜入も同じだ。彼女が培った技術に比べれば、都市育ちで学者崩れのスナーと所詮はお嬢様のフィオナなど子供同然、荒野育ちのラシュタルでようやく見習いといったところだ。
鈍る決意を固める支えを求めて振り返る。彼女の優れた視力は、百メートルほど後方に腕組みをして立つ大きな人影をはっきりと捉えた。隣には小柄な人影が立ち、日蔭の色をした人影が座っているが、それはこの際どうでもよかった。
アルンヘイルは荒野エルフの勇者から勇気を貰った気分になった。前に進む意志が沸々と湧いてきた。意を決し、棒を握る手に力を籠める。樹枝を切り落として手ずから加工した棒は握り心地がよかった。道具がきちんと手に馴染んでいる事実が不安を和らげる。
目の前を塞ぐ丈の高い草叢に棒を差し込んだ。先端が森の内側に入り込んだ時、棒が蜘蛛の巣を引き裂くような手応えを伝えた。星幽界にあるとやらいう目に見えない結界を通り抜けたのだろう。姿勢を維持して動きを止め、息を顰めて反応を窺う。
たっぷり一分ほども待ったが、これといった異変は起こらない。アルンヘイルは気づかれずに済んだか、見逃されているか、誘われているのだと判断した。
引き返すのも立ち止まるのも論外だ。彼女の目的は森の調査だ。見逃されたのならばその事なかれ主義に付け入り、誘われているのならば敢えて乗ってやるしかない。
棒を使って茎を掻き分け、中の安全を確かめる。特に罠の類はなく、危険な生き物の気配もない。植物自体も毒性のあるものではないようだ。
準備は終わった。
しかし、不安は依然として消えない。
スナーの見通しでは結界に出入りを感知されても問題ないとのことだったが、恐ろしいものは恐ろしい。たとえ相手がこちらに気づいていないことが確実であるとしても、相手に丸見えになっているかもしれないと思いながら行動を起こすのは、酷く精神的圧迫感のある仕事だ。見えていても気づかないということはよくある。しかし、見えていれば気づくこともできるはずなのだ。彼女は理屈の上ではスナーの魔法の有効性を理解していたが、感情的な部分でどうしても納得がいかなかった。
不安を抑え、常人には感じ取ることもできない恐怖の領域に一歩足を踏み入れる。棒を通じて伝わった蜘蛛の巣を破るような感覚が、一瞬、全身を走り抜けた。肌に何かが貼りつくような不快さが走り、無意識の内に頬を掻いたが、すぐに違和感はなくなり、気にならなくなった。
森の中にはやや濃密な星幽光――彼女にとっては魔力という呼び名の方が馴染み深い――が漂っていた。それらは一時もその場に留まろうとはせず、吸い込まれるように森の内側へと流れていく。
もっとも、アルンヘイルはスナーやラシュタルのように、淡い光の流れ――と彼らは表現している――を目で捉えたわけではない。彼女の霊的感覚は星幽界の事象を明確に認識するほど鋭くはない。中途半端にエルフの霊的感覚を受け継いだ混血児は、風を肌や鼻で感じるようにして、いわば星幽光の風や匂いをその全身で読み取っているのだ。
スナーは、結界が魔力を吸い込んで閉じ込めていると言っていた。魔力の動きを感じる限りでは確かにそのようだ。少なくとも、魔力が外に出ていく動きは感じられない。集まった魔力は森の奥へ奥へと流れていくばかりだ。戻ろうとする流れはどこにも見つからない。
魔力は寄り集まり、星幽光に耐性のある半闇エルフをしてその中に身を置くことを躊躇わしめるほどに濃密な流れをいくつか形成していた。荒れた道の上を川のように流れ、時に分かれて支流を作りもするそれは、何かに引き寄せられているかのようだった。それは明らかに自然に生まれる流れではない。何者かが魔法を使って歪めたのに違いなかった。
だが、純血の闇エルフでもなければ熟練の魔法使いでもない彼女には、その表面的事実から先に考えを進めるのに必要な知識も感性も欠けていた。その流れが作り出された方法も、その流れが持つ目的も、まるで考えつかなかった。理解できたのはここが普通の森でないことだけだった。
森の得体の知れなさに、修羅場を幾度も潜り抜けた女戦士の心の片隅で恐怖が鎌首をもたげた。しかし、彼女は脅威を前に目を閉じて蹲ることしか知らないたおやかな貴婦人ではない。恐怖を叩き伏せて脅威に立ち向かうことを知る戦士だ。
背の低い木々の合間をなるべく音を立てないよう気をつけて進み出す。
森の中には単なる魔力だけでなく、何らかの強い魔法の気配も漂っていた。しかも単に強力というだけでなく、邪悪でもあった。
当然ながら、アルンヘイルにはその気配がいかなる魔法の存在を示すものかはわからない。スナーならば、あの優れた魔法使いならば見抜いたかもしれないが、生憎なことに彼はここに来られない。こういう時、魔法の気配があればすぐにその正体を暴いて知らせてくれるスナーの有難味を思い知らされる。
鋭敏な嗅覚がどこからか漂う悪臭を捉えた。エルフの血を感じさせる形の整った鼻をひくつかせて臭いの元を探る。魔力の流れていく先から漂ってきているようだった。
アルンヘイルは美貌を険しくした。その臭いは腐臭と死臭が入り混じった酷いものだった。死んでいるのではなく、まさに死んでいこうとしている臭いだ。こういう臭いの心当たりは二つしかなかった。一つは死を待つ負傷兵の天幕に立ち込め漏れ出る哀れな臭い。もう一つは死にきれずにいる屍霊生物が漂わせるおぞましい臭い。アルンヘイルは慣れ親しんだ前者を連想しかけたが、状況から後者であろうと考え直した。ここが邪悪な魔法使いの根城であることを彼女は確信した。
どこに敵の目があるかわからない。何が潜んでいるかわからない。すぐそこの茂みからゾンビや骸骨兵士が飛び出してくるかもしれない。利き手に持っていた棒を左に移し、空いた右手を優に百年以上の時を共に戦い抜いた魔法の短剣に添える。いつでも戦いに応じられる構えだ。
アルンヘイルは勇敢な臆病さとも臆病な勇敢さとも言える精神を発揮し、一歩一歩に時間をかけ、周辺を最大限に警戒して慎重に進む。足取りはまさに熟達の潜入者のそれで、生粋の森エルフよりも細やかな所作は、物音を立てず、足跡も残さず、草木に傷もつけない。その場に自分の痕跡を残さず、そこに自分がいることは勿論いたことさえも察知させない者こそが優秀な偵察兵である。この信念を彼女は忠実に守った。
草木を掻き分け、最も大きな魔力の流れを辿るようにして森を歩き回るアルンヘイルは、進めば進むほどに緊張の度合を強めていた。
一見、森の中は彼女が知る普通の森林とそう変わらないように感じられる。濃密な魔力の影響で著しい発達と微妙な変形が見られる以外は、植生がこの地方のそれから外れているわけでもなく、あからさまな怪生物が巣食っているわけでもない。だから彼女も、一時は森そのものへの注意を弱め、奥へ行けば行くほど強まる死の臭いと魔力への警戒ばかりを強めていた。
しかし歩く内、鳥獣の姿が一切見えないことに気づき、方針の誤りを悟った。その時からは特に生き物の気配に意識を集中して探索を行なったが、違和感が解消されることはなかった。虫はあちらこちらで見かけるのに、それらを餌とするはずの小動物の姿を彼女はまだ一度も見かけていなかった。濃密な死の気配に比べ、生命の気配があまりにも稀薄だった。
アルンヘイルは立ち止まり、スナーが貸してくれた懐中時計で時刻を確認した。もうすぐ八時五十分。侵入からおよそ十五分が経っていた。彼女の時間感覚とほぼ一致している。流石はドワーフの作品だけあって精確だ。
これだけの時間を歩き回っても生き物を見かけないのだから、この森には動物がいないと考えて差し支えなさそうだった。スナーは指摘しなかったが、彼女が感じた魔法の気配の中には、或いは鳥獣除けの魔法か何かが含まれているのかもしれなかった。そうでなければ、と彼女の脳裡におぞましい想像が浮かび上がった。動物達は魔法で追い払われたのではなく、恐ろしい妖術師に捕まって邪悪な魔法の実験に粗方使われてしまったのかもしれない。
音を立てないようにゆっくりと時計の蓋を閉じた。アルンヘイルはふと、時計を触らせてもらったのはこれが初めてであることに思い至った。自分達の間柄がようやく仲間らしいものになってきたように思えて、ここに至るまでにかかった時間に僅かな苦笑を洩らしかけ、彼女は偵察兵にあるまじき振る舞いを慌てて自制した。
更に二十分ほど探索したが、一向に成果は上がらなかった。アルンヘイルが辿る魔力の流れはくねりながらまだまだ先へと続いている。それなのに、スナーが保証した魔術の効果時間の半分がもう目の前に迫ってきている。
侵入箇所の選定を間違ったのではないか、浅い部分の探索に時間をかけすぎたのではないか、追いかけるものを間違えたのではないか、とアルンヘイルは焦りの中で自問した。そろそろ撤収を考えるべきか、と不愉快な考えも浮かんだ。だが、手ぶらでの退却はなるべくならば避けたかった。何も得るところなしに戻ったとしても、彼女を嘲ったり詰ったりするのはスナーくらいで、ラシュタルもフィオナもただ彼女の生還を喜んでくれるだろうことは想像に難くない。しかし、大見得を切って任務に就いておきながら、どの面下げて手ぶらで仲間達の許に帰れようか。それではアルンヘイルの名が泣く。
なんでもよいから成果が欲しい。心が焦る一方で、体は極めて冷静に、経験が芯に焼き入れた熟練の偵察兵の動きで静かに探索を進めていく。
アルンヘイルの時間感覚で更に五分ばかりが過ぎ、いよいよ本格的に撤収を検討すべき時期が訪れた頃、彼女は行く先に一際濃い死の臭いと、動くものの気配を感じ取った。喜びに逸る心を抑え、一層慎重に何者かに忍び寄る。
茂みからねじくれた林道を覗き、アルンヘイルは息を呑んだ。魔力の川と化した森道には、この森で初めて目にする動物が佇んでいた。しかしそれは、彼女が見慣れた生き物達とはあまりにもかけ離れた姿をしていた上、邪悪な魔法の気配を漂わせていた。四つ足で歩くその獣の大きさは牛ほどもあり、狼を思わせる獰猛そうな頭が背中や脇腹からも生え出していた。牙や爪は短剣のようで、腹部には蜥蜴のような鱗が生え、目玉は白く濁って汚汁を滲ませ、毛の禿げかけた皮膚はあちらこちらが腐敗し、蛆虫の揺り籠と化していた。魔法変異を起こした生物が屍霊生物化した存在に違いなかった。
魔力の流れの真っ只中に佇む腐りかけた怪物はその一部を吸い込んでいるようだった。屍霊生物が魔力や生者の生命力を糧に自身を維持することはよく知られた話だ。アルンヘイルは、この森の中に引き込まれる魔力は亜人よりもおぞましい怪物を養うためのものだったのだと理解した。
不気味な屍霊生物は、ほんの四、五メートルの距離まで近づいたアルンヘイルに気づく風もなかった。相手が感覚の劣化していそうな屍霊生物とはいえ、獣の感覚さえも欺くスナーの魔法には驚嘆するばかりだった。鼻にかけている博士号は伊達ではない。彼女の潜伏技術だけでは、ここまで獣に接近するのは不可能だ。
アルンヘイルが屍霊生物を見るのは無論これが初めてではない。むしろ、大陸の住人としては見慣れている方であるはずだ。何と言っても彼女の仲間には、屍霊魔術に長け、かつそれを行使することを躊躇わない魔術師がいる。彼が敵の死体を起き上がらせて墓穴を掘らせ、そこに飛び込ませるのを何度も目にした。しかし、今目の前にいる屍霊生物は、スナー・リッヒディートが作った連中とは似ても似つかない、唾棄すべき邪悪な存在に見えた。スナーが作る屍霊生物がただ機械的で虚無的であるのに対し、こちらは邪悪さと痛ましさに満ちていた。
変異した生物が死んだので屍霊生物にしたのか、屍霊生物にするために哀れな変異生物を死なせたのか、変異生物がいたから屍霊生物にしたのか、屍霊生物にするために変異生物を作ったのかはわからない。だが、生物の魔法変異とこの森の魔法使いが無関係であると考えるのは楽観が過ぎる。森の動物達が妖術師の邪悪な実験の犠牲に供されたとの想像は、おそらく正鵠を射ている。アルンヘイルは、きっとこの森は妖術師の実験場に違いないと考えた。
ともあれ、調査はこれで十分、と彼女は判断した。エートン近郊の森には妖術師が潜んで邪悪な実験を行なっている。現に変異生物のゾンビを目撃した。星付き組合員の信用があれば報告はこれで十分だろう。この乏しい情報にスナーが専門的見地からの分析を添えてくれれば完璧だ。
アルンヘイルが引き返そうとした時、森の奥に伸びる道から、だらしなく足を引きずって歩く音が聞こえた。静かな森の中においてこれは、俺はここにいるぞと叫んで回るような愚行だ。新兵でももう少しましな歩き方をする。彼女は釣られて忍び笑いを漏らす愚を犯すことなく嘲りを内心に留め、音のする方向に注意を向けた。
新しい腐臭が妙に甘ったるく漂ってきた。何事か引っかかるものを覚え、アルンヘイルは咄嗟に口と鼻を手で覆った。その臭いをあまり長く嗅いでいるのはよくない気がした。
土と体液で汚れた旅姿の腐乱死体がそこに立っていた。死体は武装しており、汚物が沁み込んだことで汚物と化した革鎧を纏い、腰に安っぽい小剣を二振り下げている。屍霊生物化してからそれなりの時間が経ったようで、顔や指先などは特に酷く腐敗していた。ゾンビは巡回する警察兵のように森道を辿っている。もっとも、どんなに不真面目な警察兵でも、あのようにだらしなく足を引きずりはしないし、あれに比べればもっときびきびと素早く動くが。
アルンヘイルは魔法に造詣が深いとは言えないが、流石に自分にかけられた魔法の効果くらいは把握している。魔法を制御する技を知らない彼女の場合、違和感解消の魔法が効果を発するのは隠れようと努めている間だけだ。激しい動作をしたり、攻撃行動に出たりした瞬間、その効力は失われてしまう。その一方で、物陰に身を潜めたり、目立たないようにじっとしたりと隠れるための努力をするほどに、その効果は高まる。
彼女は魔法の効果を最大限に活かす道を選んだ。じっとその場に蹲り、ゾンビの動向を注視する。
半闇エルフの優れた視力は、およそ二十メートルほども離れたゾンビの姿をその目鼻立ちに至るまで、はっきりと捉えていた。素材にされたのは若い男性のようだが、腐敗が激しすぎて正確なところはよくわからない。持ち物から何かわかることはないかと観察の焦点を移す。腰の辺りに引っかかりを覚えた。そこには小剣が二振り吊ってある。
アルンヘイルは決定的な情報を思い出すことに成功した。行方不明となった冒険者の片割れが、確か小剣を二振り使うのだ。状況的に考えて、目の前のゾンビこそが彼女らの尋ね人の一人のはずだった。この分では尋ね人の片割れも歩き回る死者の仲間入りをしたことだろう。
つまり、とアルンヘイルは内心で結論づけた。この森の魔法使いは、入り込んだ者を殺して屍霊生物にする程度には危険なのだ。口封じのためか、実験のためか、娯楽のためか、他のことのためか。なんでもよい。理由などは関係ないのだ。いつだって大事なのはそいつがそうしたという事実だけだ。魔法使いと屍霊魔術への本能的嫌悪感から、彼女はこの森の魔法使いは怪物や亜人と同様、討伐されるべき存在であると断じた。
十分すぎる収穫を得たと判断し、アルンヘイルは踵を返そうとしたが、身を翻す直前、ふとゾンビの姿に不審な点があることに気づいた。
腐敗の仕方がおかしかった。汚らしい体液が染み出し、黄色がかった骨が覗くような部分もあれば、皮膚の表面が不快な変色を始めているだけの部分もある。死体の腐敗が全身で一律に始まるものでないことは確かだが、死後何ヶ月も経たような腐敗と死後数日ほどにしか見えない軽い腐敗が同時期に起こるというのは余程のことで、何らかの魔法や病気の存在を疑わずにはいられない。
そしてアルンヘイルは、そうした死体を作るものに心当たりがあった。その病は安直に腐敗病と名付けられ、庶民からは腐り病と呼ばれている。罹患すると頭や手足などの体の末端部から腐り始め、適切な処置をせずに放置しておくと、生きながら腐り果てていく地獄の苦痛と苛酷な変貌を経て死に至る。伝染性もあり、患者の体液や呼気が僅かでも体内に入ると、それから一週間ほどの間を挟んで発病する。人々の多くはこの病の原因を神罰や呪詛、魔法に求め、アルンヘイル自身もかつてはそう思っていた。腐り病に罹るのは日頃の行ないが悪いか毒素を浴びたからで、病が人から人に伝染するのは魔力や毒素を浴びるからだ、と彼女は認識していた。事実、最初にこの病に罹るのは、浮浪者や傭兵、娼婦のようなお世辞にも社会的な道徳に適うとは言いがたい者達だからだ。しかし、魔術学院で医学も齧ったという博学なスナーが頼みもしないのに教えてくれたところによれば、必ずしもそういうことではないらしかった。それどころか、病原菌という小さすぎて目に見えない生物が体に入り込んで毒素を出すことによって肉体が腐敗に似た症状を起こし、破壊されるのが、本来の腐敗病なのだという。彼に言わせれば、不潔な環境に身を置きがちな浮浪者などが真っ先に罹患するのは、神罰などではなく自然の摂理に過ぎないのだ。
もしゾンビがスナーの言う「本来の腐敗病」に罹っているのであれば、接触は勿論、接近すらも憚られる。腐り病の原因となる病原菌は、短い間であれば宿主から離れても死なず、風や羽虫に運ばれて新しい宿主を見つけることができるらしいのだが、生憎なことに、半闇エルフは純血エルフが持つ病毒への耐性を持ち合わせていない。害毒除けの魔法で一応の安全は保たれているとはいえ、進んでおぞましい病毒に身を晒すのも気分が悪い。アルンヘイルは間違っても触れられることのないよう、ゆっくりと後ずさって距離を取った。
ゾンビは巡回経路が定まっているのか、茂みには注意を払う気配すら見せず、林道を通り抜けていった。
アルンヘイルは、これ以上ろくでもないものを目にする前に撤収することにした。
肩を揺さぶられ、瞑想が破られた。まだ完全に精神の疲労が癒されていなかったため、スナーは不機嫌な唸り声を上げて目を開けた。
安堵の表情を浮かべたフィオナが横に膝をついていた。肩を揺すったのは彼女だった。
「どうした」
「スナー、アルンヘイルが戻ってきましたよ」
フィオナは弾んだ声で答え、森の方を指さした。見ると、アルンヘイルが小走りに戻ってくるところだった。違和感解消の魔術は切れかかっていた。害毒除けの方はまだ余裕を残しているが、細々とした被害を防いだようで、アルンヘイルの星幽体にその名残が見える。
フィオナは仲間の帰還に喜びを露わにしていた。彼女はこの一時間以上の間、ずっとアルンヘイルの無事を祈り続けていた。ただしそれは、不信の裏返しとしての心配ではなく、人としてのごく自然な親愛の情に基づくものだった。
スナーは立ち上がり、既に出迎えに向かっているラシュタルをフィオナと一緒に追った。
三人の仲間に囲まれたアルンヘイルは、労いの言葉をかけようとするフィオナを「触らないで!」と制し、スナーを見た。
「腐り病に罹ったゾンビがいたわ。もしかしたら病原菌貰っちゃったかもしれないから、どうにかして。場末の娼婦じゃあるまいし、病気撒いて回るなんて嫌よ、私」
スナーは顔を顰めた。
「腐敗病か。随分といやらしい話だな。それにしても、面倒なものを持ってきてくれたものだ」
星幽的に観察したアルンヘイルの姿には若干の淀みが見えた。持ち帰ることが当然予想されていた屍霊魔術や純粋魔術の気配の残り香の他、何らかの毒素の痕跡も窺える。害毒除けの魔術があるから感染はしていないはずだが、このような簡易観察では、付着したかもしれない菌が今現在どうなっているかまではわからない。詳しいことを知るためには落ち着いた環境での精密な観察が必要となる。
そういった手間をかける余裕はないし、そのようなことをする必要もない。スナーは手っ取り早い解決法を選んだ。精神を集中し、慎重に加減した上で殺菌の魔術を発動させた。星幽光の迸りが仲間全員を貫き、技法を伝授した魔術学院が「人体に有害」と定義する病原菌を手当たり次第に殺していく。加減を間違えると効力が広がりすぎ、生命活動に資する良性の菌はもとより保菌者自体まで殺してしまうため、初歩的な魔術ながら発動には細心の注意を要する。これは――大抵の魔術はそういうものなのだが――人を容易く殺め、不具にし得る魔術だ。発動を終えるまでの短い時間はスナーの精神をヤスリのように苛んだ。星幽体からの星幽光放射を終え、彼は安堵の吐息を漏らしたが、まだ警戒は解かなかった。まだ半闇エルフはろくでもないものを纏わりつかせていた。彼の魔術に守られているおかげで影響は出ていないようだが、放置したまま解除すれば、多少の悪影響が出るかもしれない。
スナーは一応、ごく形式的な問いを発した。
「意識が鈍るような感覚はないか」
「特にないけど……なんで?」
半闇エルフの女戦士の顔が不安げに翳った。
「ごく微量ではあるが、君の体に物質毒と星幽毒の両方が入り込んでいる」
ラシュタルが顔を顰め、フィオナが悩ましげに眉根を寄せた。アルンヘイルは動揺した様子でスナーを見返した。
「毒って……私、大丈夫なの?」
「害毒除けで守られているから今は平気だ。魔術が解けても、君は我々人間に比べれば毒物や星幽光への耐性が強いから、深刻なことにはならないだろう。汚染具合から推測するに、ちょっと吸い込んだ程度だな。なんの備えもない並みの人間が軽い眩暈を起こす程度の量のはずだ。君なら特にどうということもない」
「……それってどういう毒?」
「ざっと見たところ、物質毒の方は麻酔、麻痺、催眠といったところだな。量が過ぎれば死ぬが、それは多分副作用だ。だから、放っておいても消える。君が望むなら解毒を試みてもいいが」
「ならお願い。いくら効かないって言ったって、毒が体の中に残ってるなんていい気分しないもの」
「わかった。少し待ってくれ」
スナーはアルンヘイルに手をかざし、半闇エルフの星幽体の整復を始めた。肉体と連動する星幽体を調べ、異物や異状を見つけ、排除し、修復していくことで、心身の不調を取り除く。
星幽的治療を受けながら、歴戦の女戦士は首を傾げた。
「でも、どこで毒なんか貰ったんだろう。その手のものに触った憶えはないんだけど……」
「勘だが、多分屍霊生物からだな。屍霊薬というものを知っているか」
治療を終えて一息つき、スナーは答えた。その不穏な響きにアルンヘイルのみならず、フィオナとラシュタルも表情を厳しくした。
アルンヘイルの浅黒い顔が見てわかるほどに蒼褪めた。
「え、それって……確か、屍霊生物を作る薬……」
「あまり正確な理解じゃないな」屍霊薬の使用法や調合法にも精通するスナーは、俗人の偏見と誤謬に小さく首を振った。「屍霊薬は生物を譫妄や麻痺や昏睡を経て仮死に陥れ、ゾンビを思わせる朦朧状態に至らしめるものだ。実際にゾンビ化させるわけじゃない。生物をゾンビに変えるのは不死薬――不死の霊薬の紛い物だ――の方だ。今回は両方が使われたようだが。言いそびれたが、星幽毒はおそらく不死薬だ」
「そんなのはどうでもいいよ。それより、私は本当に大丈夫なんでしょうね」
「それは請け合う。害毒除けで無効化できていたし、体内に入ったままの薬効成分も今取り除いた。気になるのは投与経路だが、君はどこかで甘い臭いを嗅がなかったか」
記憶を掘り起こすように瞑目したアルンヘイルは、数秒後、はっとした風に目を開けた。
「嗅いだ。嗅いだわ。そんなのが腐り病の奴から漂ってきた」
「なるほど、やはりか。ひょっとすると、そのゾンビには蠅がたかっていなかったんじゃないか」
アルンヘイルは思い出そうとするように少し沈黙してから頷いた。
「うん、確かそうだった」
「なら決まりだ。近寄る蠅はみんな薬にやられたんだ。仕込まれていた屍霊薬と不死薬にな。含まれる麻薬成分の抽出原料のせいで、伝統的な製法の屍霊薬は甘い臭いのする奴が多いんだ」スナーは愉快そうに笑った。「そいつを相手に戦っている内に、いつの間にか体が動かなくなって、気づけば死人の仲間入りという寸法だな」
「えげつないことするわね」
アルンヘイルが辟易した風に表情を歪めた。
「古代から伝わる由緒正しいゾンビの使い方さ」そうした運用法に心当たりのあったスナーはそうさらりと答え、片手を差し出した。「さて、時計を返してもらおうか」
「……ちょっと汚れちゃったけど、怒らないでよ」
アルンヘイルがポーチから真銀時計を出した。銀灰色に革手袋の汚れが混じっていた。
「元々、綺麗なまま返ってくるとは思っていない」
スナーは受け取った時計に冷たい視線を注ぎ、綿のハンカチで軽く汚れを拭った。汚れはまだ残っているが、ここで汚物分解の魔術を使うわけにもいかなかった。魔術の使用は最低限に留めたい。目立つ汚れを落としたことでひとまず満足し、彼は時計を懐にしまった。
「ところで、中で他に何か見つかったか」
「あ、そうそう、それなんだけど――」
「アルンヘイル、報告は今ここでしなくてはならないものですか」
フィオナに遮られたアルンヘイルは少し考える様子を見せてから、首を縦に振った。
「では手短にお願いします」
「モルクっぽいゾンビがいたわ。小剣二振り腰に吊ってた。あの分じゃハイドランももうやられてるんでしょうね」
「つまりは、何重もの意味で大当たりだったわけだな」
おかしそうに唇を歪めるスナーに咎めるような眼差しを向け、フィオナが重々しく言う。
「すぐに戻らなければなりません。彼らのことも妖術師のことも、組合や協会に伝えてすぐに手を打たなければ」
「星幽跳躍の魔術で一息にイルアニンに戻るか。疲れるから、あまりやりたくないが……」
スナーは嫌々ながらフィオナに提案した。
フィオナは苦悩に満ちた顔で頷いた。
「止むを得ませんね。お願いします」
アルンヘイルとラシュタルも嫌な顔をしたが、表立って異議を唱えることはなかった。
「早速取りかかる」
スナーが頷いてすぐ、空が曇り始めた。陽光が遮られて辺りが薄暗くなった。雷が蠢く低い唸りも微かに響いた。エートン村を訪れた際に見かけた不吉な黒雲が彼らの頭上に集まっていた。
フィオナが眉を顰めた。
「嫌な雲ですね」
「悪魔でも潜んでそうな雲ね」言って、アルンヘイルは妖術師が潜む森に目を向けた。「こういう天気だと、いかにもろくでもないのが潜んでそうに見えるわ」
アルンヘイルの言う通りだった。曇り空の下、平凡な森は雰囲気を一変させていた。黒雲が地上に投げかけた影の中で森は不気味な静けさに沈み、打ち棄てられた墓地めいた雰囲気を放っている。朝でもこうなのだから、日が落ちれば更に気味の悪い風景が生まれることだろう。村の少年達が度胸試しの場所に選んだということもわからないではなかった。
「雨の匂いがする」ラシュタルがぽつりと呟いた。「じき、一雨来るぞ」
「濡れ鼠は御免よ。早くしてよね」
「善処はする。俺だって濡れるのは嫌だ」
スナーはアルンヘイルの言葉に頷き返し、しばらく待つよう一同に告げた。
意識を集中して瞑目する。しかし、それは星幽跳躍を行なうためではない。空間を操る召喚魔術の秘奥の一つである星幽跳躍の魔術は、とても高度で、繊細で、危険である。大陸の魔法使いの上澄みであるスナーであっても、軽々しく用いる気にはなれない。使用には慎重に慎重を期し、できれば更に慎重を期す必要がある。
星幽跳躍の際には目的地と星幽界上の移動経路の事前確認が必須である。目的地までの経路が致命的なまでに乱れていたり、移動先の空間に何らかの「硬い物」があったりすると、重篤な失敗を引き起こしかねない。想定外の場所に跳んだり、星幽界の混乱に心身が反応して不気味に歪んだり、行き先にある物体や星幽体と混ざり合ったり、心身に欠損が生じたり、そのまま星幽界の光と消えたりした事例はあまりにも有名である。
スナーは視覚の投射を始めた。ただし、物質界上の経路を地道に辿る通常の視覚投射ではない。高次星幽界を通じて一足飛びに目的地に視覚を飛ばす遠隔魔術だ。
無限の色彩に満たされたこの世ならぬ光の空間が彼の視界を覆う。あらゆる色の光が明滅し、明滅のたびに色合いが無秩序に移り変わり、揺らめく炎や流れる水のように精神を誘惑し、幻惑させる。
夢幻的な光景が心を奪い、星幽界の永遠の虜としようと煌めくのを強靭な意志の力で撥ね退け、スナーは必死にイルアニンの記憶を呼び覚まそうとする。記憶の中のイルアニンを拠り所として星幽界上のイルアニンを見出す。イルアニン市それ自体は結界に覆われていて星幽的側面から細部を確かめることができなかったが、目的はイルアニン市の内側ではないので問題はない。そこに至るまでの経路を眺めたスナーは、熟練の船乗りが雲の形や風の匂いで天候を予測するように、星幽界の状態を見極めた。これと言った問題は起こっておらず、しばらくは起こりもしそうになかった。
分析結果に満足しつつ、そこから物質界へと視覚を移動させる。記憶の中のそれより鮮やかで活気に満ちた城砦都市イルアニンの風景が視界に広がった。こちらも周辺に異状はなかった。移動する上での障碍はない。
一旦視覚投射を切り、仲間達に視線を戻した。
既にぽつりぽつりと小雨が降り始めていた。雨は少しずつ勢いを増している。急がないと本当にずぶ濡れになってしまう。
スナーは腰のポーチから細縄を三本取り出し、それぞれに渡した。
「いつも通りにやってくれ」
フィオナ達はめいめい手首に縄の一端を結びつけ、もう一端をスナーの腕に結びつけた。スナーは腕を動かし、縄がしっかりと固定されていることを念入りに確かめた。
「まあいいだろう。次は君達を眠らせる。虚心に魔術を受け容れるように。横になってくれ」
意識を保った生物を伴っての星幽跳躍は、スナーが今なお敬意を籠めてその名を呼ぶ、黄金期の魔術学院の導師や大博士達でさえも躊躇うほどに――気違いのウェイラー・サルバトンですら一度も試したことがないという――難度が高い。術者の力量が足りなければ勿論のこと、同行者が魔術を受け容れずに抗うようなことがあるだけでも――そして困ったことに生物の精神は多かれ少なかれ星幽的干渉に抗うように出来ている――繊細な魔術はしばしば混乱し、悲惨な結果をもたらす。そうした場合に起こる悲劇は、単独での星幽跳躍の失敗がかわいく思えるほどのものである。通常の報いに加えて、同行者同士の心身の混合や結合などの事態が起こり得る。スナーはそうした危険を軽んじる気はなかったし、真正直に挑む気もなかった。
ラシュタルが弱々しい草を押し潰すように仰向けになった。スナーは以前の教訓から縄の長さに余裕を持たせていたので、その荒々しい動作に引きずられてよろめく醜態は晒さなかった。
スナーはラシュタルの頭側の地面に膝をつき、逆さまにその顔を見下ろす。誇り高い荒野エルフの勇者は不愉快そうに顔を顰めていた。その表情を浮かべさせるものが、上下逆の顔に絶えず滴り落ちる水滴だけでないことは明白だ。
「魔術をかけられるのが不快なのはわかるが、くれぐれも抵抗しないようにな。君に抵抗されると、眠らせるのに酷く骨が折れる」
ラシュタルは、表現型としては――先祖に半エルフがいなかったとは言いきれない――純血エルフである上、心身を鍛え抜いた戦士である。しかもそれに加えて、肉体に刻まれた魔除けの刺青は、抵抗する意志を何倍にも高め上げる効力を持つ。従ってその魔法抵抗力は、戦神の祝福を受けた人類や修行を重ねた魔術博士のそれに匹敵する。全身全霊で抵抗されたなら、確実に眠らせるためには、スナーが制御し得る最大限の力を投じなくてはならない。
「わかっている」不愉快そうに吐き捨てて目を瞑った。「早く済ませろ。服が濡れて気持ちが悪い」
アルンヘイルとフィオナもラシュタルに倣って横になり、目を閉じた。
スナーはまず気難しい荒野エルフの額に手を触れ、星幽体を眠らせるための魔術を施した。横たわる肉の体に重なるようにして存在する星幽体に、接触した掌を介して意志を伝達し、活動を鈍らせていく。単に肉体を眠らせるものと違い、星幽体を眠らせた結果として生じるこの心身の眠りにおいては、無意識の活動さえも大きく鈍る。そうした者は夢を見ることすらなく、ただ眠る。
心配性の半闇エルフと戦神の祝福を受けた娘にも同じことをし、魔法的な眠りの中に二人を落とし込んだ。
スナーは死んだように眠る一人一人を注意深く観察し、その肉体から星幽体に至るまでが深い眠りに就いていることを確かめた。それぞれが一瞬の反発ですら魔術を台無しにしかねない猛者揃いのため、確認には念を入れた。一人の例外もなく無意識に至るまでの全ての精神活動が沈黙した魔術的無防備状態に陥ったことを確認し、スナーは安堵すると共に、己の手際を自讃した。
雨足が強まり、天候は雷雨の様相を呈してきた。雨粒の大きさと勢いが増し、一行の体を濡らし、衣服に染み込んでいく。
スナーは焦らず作業を続けた。再び視覚を投射し、目的地の安全を再確認する。南門近くの草原が依然として跳躍に適した状態であることを見て満足し、スナーは視覚投射を保ったまま、その場に至るべく自身とその関連物の星幽体化の作業に取り掛かった。
一行の肉体と所持品が淡い光を放ち、物質と非物質の間を取り持つ中間質料である精気光を経て精神という核に統御された純粋な星幽光の塊に融解し、高次星幽界に存在の基盤を移していく。それぞれ星幽的干渉に強い耐性を持つ仲間達の肉体や一部または全部が真銀で出来た品々は星幽的融解作業に強い抵抗を示したが、スナーは根気強く作業を続けた。
仲間達と厄介な品々が不可視の光となって物質界から去ると、散り散りになって星幽界に溶け消えてしまわないよう彼らをしっかりと保持した上で、今度は自分自身の星幽的融解に取りかかる。得も言われぬ不快感と不安感が魔術師に襲いかかった。肉体の質量と感覚が消失し、確固たる肉から曖昧模糊とした別のものに溶け崩れていく感覚に、肉の体を持つ生き物が親しめる道理がない。
しかし、主観的には酷く遅々として感じられるその苦痛も、客観的には一瞬の出来事だ。熟達した魔術師が自身を星幽的に融解させる場合、瞬きするほどの時間さえ必要としない。
関連物として一つの単位に纏められた四人とその所持品は、こうして物質界から掻き消えて、物質界と同様世界の一側面である星幽界の存在と化した。何もかもが光で構成された眩い世界が四人の前に広がる。
混ざり合ってしまうことのないよう慎重に区別された四人の星幽体は、スナーの意志を推進力として物質界とは異なる法則の下に運行する星幽界を光のように駆け抜け、目的地に至った。
星幽体が今度は逆の手順を経て肉体に変換される。眩い星幽体の内、元々「肉」であった部分が輝きを徐々に鈍らせ、凝固し、物質へと変成していく。失われたものが戻り、隙間が埋められるような充足感と安心感がスナーを優しく撫で回す。彼はその感覚に陶然となった。しかし、体験した魔術師の多くが永遠に味わいたいと願う、空白が満たされていく快い一時もまた、物理的には瞬く間の出来事だ。纏めて星幽界を旅した四体の知的生物とその関連物は、出発前と同様の状態で、イルアニンの南門から少し離れた草原に出現していた。本当は組合支部にでも一息に跳びたいところだったが、都市を覆う結界のおかげでままならない。
星幽光の塊と化して星幽界を移動し、実体化する性質上、星幽跳躍の魔術は星幽界を掻き乱す。だが今回はそうした混乱を他者に感知されることのないよう特別に気をつけておいたため、心身の著しい疲労と引き換えに星幽光の乱れは、さながら樹木の枝葉が風にざわめく中でそっと枝を揺らした程度の、ごく自然なものに留まった。
高度な魔術を行使したことで生じた精神の鈍磨による倦怠感に苛まれ、意識を手放す誘惑に晒される中、スナーはそろそろと重い瞼を持ち上げた。
晴々とした空から陽射しを浴びて輝く草原と農耕地が広がっていた。あの忌々しい黒雲も降り注ぐ雨もここにはなかった。
景色を眺めて場所が合っていることを確かめ、次いで暢気に寝入る仲間達を見て、ほっと息を吐いた。跳躍は成功した。外見上は誰一人として、何一つとして、損なわれていない。今のところ、星幽体にもおかしな点はない。至って穏やかに眠っている。スナーは自分の腕に結びつけてある縄をほどいた。
精神の深奥に直接作用する目覚めの刺激を放ってやると、まずラシュタルが跳ね起きた。僅かに遅れて、アルンヘイルが不安の面持ちで辺りを眺めた。それから、接触して発動されない限り星幽的干渉を受けつけないフィオナの濡れた頬に触れて刺激を送る。戦神の祝福を受けた女剣士は眠たそうに目を瞬かせて身を起こした。
「無事に終わったのよね」
縄をほどいたアルンヘイルが縄を返して、心配そうにスナーを見た。
「今のところ、問題はない」
魔法の恐ろしいところは、その場限りで終わってくれないことのある点だ。ベッドで臨終の呻きを上げながら十年前に使った魔術を思い出すことも、そう珍しい話ではない。
「今のところって……ちょっと、そういうのやめてよ。不安になるじゃない」
科学的正確性を重視する態度はアルンヘイルに不評だった。半闇エルフの美女は恨めしそうにスナーを睨んだ。
己の腕前に自信を持つ魔術師はふてぶてしく答える。
「実際はただの予防線だ。何も起こらないさ」それから、感心の表情を浮かべる。「それにしても、屍霊薬と不死薬のゾンビと言い、こんな所でゼノー・オルギアスの戦術にお目にかかるとは思わなかった」
「ゼノーなんちゃらって、どこかで聞いたことがあるわ」
マントについた水滴を払い落しながら、アルンヘイルが記憶を掘り起こそうとするように首を傾げる。
「ゼノー・オルギアス。古王国の建国者アウルターク大王の最初で最後の首席宮廷魔術師だった男だ。魔術学院の建学者の一人でもある。前身となったのが彼の一門だったそうだ」
「そう、それよそれ、講談で聞いた。血も涙もない魔法使いだったらしいけど、そいつがどうしたの?」
「彼はあらゆる魔術を使いこなしたとされるが、取り分け屍霊魔術が好みだったようで、記録によるとしばしば戦場に屍霊生物を投入していた。森の魔術師はそのゼノーが用いていた戦術とよく似たことをしている」
「どういった戦術なのですか」
フィオナが好奇心と不安感の混ざった顔で訊いた。
質問を受けたスナーは思いきり苦い顔をした。武門の娘がする質問ではなかった。武門の習いとしてフィオナが戦史をある程度学んでいる事実が、その苦々しさに拍車をかける。フィオナの疑問は、知略より腕力を、魔法より武芸を重視する旧時代の悪弊の象徴のように、スナーには感じられた。
「勉強嫌いの君でも古代戦史くらいは学んでいると思ったがな」
スナーはつい嫌味を言ってしまったが、言い終える頃には後悔していた。
「不勉強ですみません」
フィオナが神妙な顔で俯くのを見て、後悔は余計に深まった。こういう反応は彼の好むところではない。相手が不快感に衝き動かされて反発してくるのを見たいのであって、落ち込ませたいわけではないのだ。フィオナは非を責められると大抵の場合こういう反応をよこすから、嫌味を言っても却って気が重くなるだけなのだ。スナーはうっかりとそのことを失念していた。
スナーは額を押さえた。
「そんなに深刻に受け取らなくていい。話を戻すが、オルギアスは単に屍霊生物を投入するだけでなく、屍霊生物にいろいろな仕掛けを施していたんだ。例を挙げれば、ゾンビに薬を仕込む、疫病患者をゾンビにする、はらわたを取り出して代わりに火薬を詰め込む、といったものがある」
「おぞましい話だ」
ラシュタルが唾でも吐きそうな顔で一言吐き捨てた。エルフであろうと人間であろうと、死者が起き上がって動き出す現象に嫌悪感を覚えない者はそうそういない。死者の眠りを妨げる者に至っては尚更だ。
フィオナが憤然として頷く。
「全くです。単に死者を戦の道具とするだけでも鬼畜の所業であるというのに、亡骸を愚弄するなど……最早、責める言葉も見つかりません」
「そうよね。私は似たようなの見てきたばっかりだけど、あれは人のすることじゃないわ」
「俺も屍霊魔術を使うんだがな」
スナーはからかいの笑みを湛えて三人を眺めた。
ラシュタルは片眉を上げる以上の反応を示さなかった。アルンヘイルは肩を竦めた。
フィオナが怒ったような顔をした。
「あなたはどうしてそう偽悪趣味なのですか。あなたが悪い目的のために屍霊魔術を使うところなど見たことがありませんよ」
「君達に遠慮しているだけだ、君達はそういうのを好まないだろうから。君達がいなければ、俺はすぐに自制心をなくしてサルバトンやウェルグナーと同じ道を辿るはずだ。誰にも見咎められない暗闇の中には悪人しかいない。実際、学院じゃ、君達の感覚からすれば人でなしと言われても仕方のないことを沢山やってきた。俺がどんなことをやってきたか知ったら、君達はきっと俺と一緒に過ごしたことを後悔するだろうさ」
「昔は昔、今は今です。出会う前のことではなく、出会ってからのことで見定めるべきです。それに、今は私があなたを見ています。だから、よいのです。だって、私達が見ている限り、もうしないのでしょう」蒼い瞳がじっとスナーを見つめる。「あなたはウェイラー・サルバトンとは違います。真に救いがたきは、誰にも配慮できない者と、配慮する相手を持たない者なのですから」
真っ直ぐ見据えられたスナーは堪らず目を逸らした。自己を律しようと努める人の眼の輝きは、根っこの部分に利己主義を抱える者には眩しすぎた。
アルンヘイルがフィオナの言葉を引き取る。
「それに、あの魔法はあんたのとは違うよ。あっちは本当に邪悪って感じだった。魔法のことはわからないから、細かいことはわからないけど……」
「……まあ、確かに違うだろう」これ幸いと話題を替える。「使う魔術の質や意図によって星幽体の質は変わるし、星幽体の質によって発動する魔術の質も変わる。だから、魔術の質には人の数だけ違いがある。つまりその屍霊生物を作った奴は、常日頃から邪悪な――と一般的に言われる――魔術を使っている上、星幽体の質を整えて取り繕う気がないか、そうする暇もないというわけだ」
「では、討伐せねばなりませんね。生かしておいてはならない相手です」
「本来、学問に善悪などないんだがな……邪悪と言われる魔術も、それだけを見るなら、別に邪悪でも善良でもない」
スナーは物憂く嘆息した。今更魔術師がどのような風当たりや偏見に見舞われようと大して気にもならないが、それによって魔術研究それ自体がやりづらくなるのは勘弁してほしかった。彼は心の中で、邪悪な魔術師を気取るなら、「広く深い迷宮」の奥底だとか、とにかく人目につかない場所でこっそりと楽しんでほしいものだ、と毒づいた。
「あなたの言う通り、学問に罪はありません。善悪もです」慰めるように、しかし断固たる態度でフィオナが言う。「ですが、行為には善悪や罪が付き纏います。裁かれるべきは魔法ではなく、かの妖術師です」
「敵は敵だ」ラシュタルが口を挟んだ。「敵は敵であるというだけで殺すに足りる。他にいかなる理由が必要か」
「単純な奴が羨ましいよ」スナーは皮肉っぽく微笑した。「だが、確かに言う通りだ。善悪だの罪だのを考えるなんて、俺らしくもなかった。そういう哲学はもう卒業したんだ。俺はあの森にある資料や道具が欲しいから、あの森に潜んでいる奴を殺す。それでいい」
「まるで野盗ね」
アルンヘイルは冷笑した。
フィオナが悩ましげに応じる。
「それが世のためになるのであれば、目的には目を瞑りましょう。行ないの価値は動機だけで決まるものではありません」
「少し賢くなったな、フィオナ……よろしい。君がそういう態度なら、俺も少し賢いところを見せてやるとしよう」
アルンヘイルがスナーに疑うような眼差しを向ける。
「何しようっての?」
「組合や協会が動きたくなるような話をでっち上げてやるのさ。必要なら報告書だって書いてやる」スナーは草原の向こうに鎮座するイルアニン市の城壁を眺めた。「さあ、行こうか」