第二章(分割後半)
スナーの予想通り、夕食は日没前となった。村長夫人が部屋を訪れ、居間を兼ねた食堂に集まるように言った。
言われた通りに一行が移動すると、既に村長一家は食卓に着いており、料理も並んでいた。雑多な野菜を刻んで豚の塩漬け肉と一緒に煮込んだスープとパン、チーズ、例の薬臭い香草酒という、この貧しげな村にしては豪勢な献立であった。
村長が家族にスナー達を紹介した。特に親しくしたいわけではないだろう。彼らは単に知らない者同士が一つ屋根の下で過ごすことで生じる問題を予防したいだけである。
紹介が済むと、村長夫人が木匙を使って鍋からスープを皿によそい、チーズを切り取り、家族の前に取り分けた。その間、村長は分量の多寡や食器の扱いに文句をつけ、夫人を怒鳴りつけた。スープが多ければ「全体の分け方をちゃんと考えろ」と怒鳴り、少なければ「俺達の分を削って自分の分にするつもりかと怒鳴る。チーズを大きく切り取れば「今日で食い尽くす気か」と怒鳴り、小さく切り取れば「ケチケチするな」と怒鳴る。村長が怒鳴るために怒鳴っていることは最早明らかであった。一行の内、スナー以外の誰もが不快感を露わにしたが、言い争いになれば村長の仕打ちが悪化する虞のあることは皆が承知していたため、口に出しては何も言わなかった。
村長夫人が家族の分を取り分け終えた時、卓上に手つかずで残されたのは、申し訳程度に具が残ったスープ鍋と、古くなって硬くなった黒パン、そして一家の一人分よりも小さなチーズの欠片だけであった。目の前に示された露骨な格差は挑発的ですらあった。
「あんた達の分だ。持ってけ」
村長が冷ややかに言い放つと、アルンヘイルが火花のような声を発した。
「ちょっと、大銅貨五枚も取ろうって宿が出す食事がこれ?」
「嫌なら食うな」
村長はむっつりと答えた。
「アルンヘイル、口が過ぎますよ。我々は無理を言って泊めてもらっているのです」フィオナがすかさずたしなめ、村長に軽く頭を下げる。「すみません、仲間が失礼なことを……」
「でもさ、親父」長男がおずおずと口を開いた。「このお姉さんの言うことももっともじゃないか」
「そうだよ、親父。兄ちゃんの言う通りだよ。いくらなんでもこりゃ酷いよ」
まだ十四、五歳といった次男が兄に同調して村長に訴えた。
丁度色気づいた年頃の二人が若い女――特に男の目にとって魅力的なアルンヘイル――を前に浮き立っているのは明らかだった。本気で口説こうとまでは思っていないだろうが、美女の歓心を引きたい男の本能に忠実なのだろう。もしかしたら、という淡い期待もあるかもしれない。
「お前達は黙っとれ」
村長は不機嫌そうに言ったが、夫人に対する厳しい態度と比べれば、かなり優しい態度と言えた。親として、息子達にはどうしても甘くなってしまうのだろう。
「気遣いは無用だ、二人とも」
スナーは穏やかに割って入った。どのみち、何も期待していないのだ。清潔なものが出てきただけで十分すぎる。村長の性格を思えば、捨てる予定だった傷んだ食品を出されても不思議はなかった。
「失礼する」
スナーはパンとチーズを手に取り、仲間達を促した。アルンヘイルが鋭い怒りの一瞥を村長の顔にくれ、鍋の把手を掴む。フィオナとラシュタルが村長夫人から食器や酒の小樽を受け取る。
「食前の祈りを捧げよう」
冒険者達が食堂を出ていく背後で村長の呟きが聞こえた。
食堂の扉を閉めながら、スナーは村長の呟きが秘めた響きに考えを巡らせた。村長の声は酷く真剣なものだったが、それは信心深さから来る敬虔な態度ではなさそうだった。深刻な恐怖からの救いを求めるような、表向きのそれとは全く異なる願いを秘めた切実なものであるような感じがした。村長は何か深刻な問題を抱えているらしい。村長がこの一件に関与している疑いが、スナーの中でまた深まった。
部屋に戻るまでの間、アルンヘイルの口から流れ出す悪態が絶えることはなかった。取引というものに拘りを持つ半闇エルフ女は、宿代の高さに文句をつけ、渡されたものが価に見合わないお粗末なものであることを詰り、口と手の暴力を弱い者に振るう人格の下劣さをあげつらい、聞き役のラシュタルを辟易させた。その声は大きく響き、或いは食堂にまでも届こうかというほどであった。
悪態の奔流は部屋に戻ってもまだ続いたが、みすぼらしい夕食が並んだテーブルの前でフィオナが手を打ち鳴らして注目を集めると、渋々といった風に薄桃色の唇が閉じ合わさった。
「まずは主に食前の祈りを捧げるとしましょう」
フィオナが言うと、一同は姿勢を正した。ラシュタルは異教徒であり、アルンヘイルは特定の信仰を持たない。スナーは元々御子教徒だったが学院入学時に棄教宣誓をし、今では専門的見地から、神々を人類が生み出した霊的装置の一種としてしか見なくなった。しかし彼らは、殊更に敬虔な女剣士に逆らおうとはせず御子教の儀式を敬い、沈黙した。部族の祖神を崇める勇者に異教を貶める意思はなかったし、特定教団に入信する気のない女傭兵も神々そのものには敬意を払っていた。不信心な魔術師といえど必然性もなく宗教に挑戦する気はなかった。
顔の前で手を組み、目を瞑ったフィオナの薄い唇の間から静かに御子教の祈りの文句がこぼれ出る。
「父なる主よ、救い主たる御子よ、清らかなる聖霊よ。賜ったお慈悲に感謝してこの食事をいただきます。これらの食物を祝福し、私達の心身を健やかに保つ糧とされんことを」一拍の間を置き、締め括る。「父と子と聖霊の御名において、かくあれかし」
残飯のような夕食が済んだ頃、世界は夜闇が支配する時間帯に入っていた。唯一の光源であった太陽が地平線の彼方に沈んだため、村は暗闇に包まれていた。村人達は灯りの油や蝋燭を惜しんで既に眠りに就いたのか、どの家の戸口や窓の隙間からも、光が漏れてくることはない。
しかし、冒険者一行が宛がわれた部屋はその限りではなく、スナーが作り出した精気光球の灯りにより、室内は真昼のような明るさを保っていた。
食器を纏め終えたアルンヘイルがそれらを食堂に持っていこうとした。
「待った」スナーはアルンヘイルを引き留めた。「君が持っていくとまた要らない諍いになりそうだ」
「こんな仕打ちされて黙ってる方が怪しいわよ」
アルンヘイルが不機嫌に応じた。
「もう十分噛みついたと思うぞ。これ以上は相手に余計な刺激を与えるだけだ」
「では私が行きます」
「君もつまらないことで村長に食ってかかりそうだから駄目だ」
スナーが首を振ると、アルンヘイルが鬱陶しそうな視線をよこした。
「なら、あんたが行きなさいよ。まさか、ラーシュに行かせる気じゃないでしょ」
「面倒だが仕方がないな」
不承不承の面持ちで食器を受け取り、スナーは食堂に向かった。消去法からいって仕方のないことだった。
食堂の戸を叩くと応えがあった。村長夫人の声だ。
扉を開けて食堂に入ると、夫人が一人居残り、後片付けをしていた。皿を台所に持っていこうとしていた夫人は作業の手を止め、不安の面持ちで物問いたげな視線を魔術師に向けた。
「食器を返しにきた。テーブルに置けばよろしいか」
スナーの問いに夫人は「ありがとうございます」と頷いた。スナーはテーブルに食器を置いて部屋に戻った。
仲間達は部屋で思い思いに過ごしていた。ラシュタルはベッドを占領しており、アルンヘイルは逞しい荒野エルフの傍に潜り込んでいる。フィオナは専用の磨き布で銀灰色の刃を注意深く磨いている。
「お疲れ様でした」
フィオナが労いの言葉をかけた。
スナーはそれに軽く頷いて答え、定位置と化した椅子に腰かけて一息ついた。
「スナー」とフィオナが呼びかけた。
スナーは視線で用件を訊ねた。
「昼間にマッサージの話をしたでしょう。よければしてあげますよ」
スナーの肉体は旅の疲れを訴えていた。それは魔術を使えば問題なく取り除かれる程度のものではあったが、他者からの奉仕にも魅力はある。少し考え、彼は申し出を受けることにした。
「頼むとしよう。ラシュタル、アルンヘイル。ちょっと場所を空けてくれ」
「よかろう」とラシュタルはアルンヘイルを促してベッドから降りた。平均に合わせた椅子は大きさが合わないため、そのまま埃っぽい絨毯の上に尻を置く。
スナーはエルフ達の温もりが残った敷き布の上に俯せになった。剣を鞘に収めたフィオナが腰に跨るように座り、スナーの薄い背中に手を当て、両の親指を抉り込むように突き立てた。力の籠もったマッサージを受け、痩せた魔術師は時に身悶えし、時に悲鳴を上げた。鍛え抜かれた女剣士は数学と度量衡で散々いじめられた鬱憤を晴らすかのように手をあちらこちらに這わせ、魔術師の反応が激しい部分を見つけるたびに楽しげに責め立てた。
部屋の扉が叩かれた。遠慮がちな叩き方は、明らかに村長のものではなかった。和やかな空気が急に張り詰めた。アルンヘイルは素早く身を起こし、ラシュタルも目を覚ました。フィオナもスナーから離れ、スナーも痺れたような四肢を曲げ伸ばししながら、横に寝かせておいた杖を掴んだ。
アルンヘイルに身振りで促され、スナーは扉を透視した。扉の向こうには粗末な衣服を着た村娘が二人、不安に曇った面持ちで立っているのが見えた。昼頃に井戸端で見かけた女達の中にこんな娘達がいたような記憶があった。
アルンヘイルが目配せした。スナーが無言で自分を指差して首を傾げると、彼女は大きく頷いた。
額に指先を当てて不満を表明しつつも、スナーは扉に向かった。ただの村娘に何ができるものかと思いはしたが、生来の臆病さから扉越しの攻撃を警戒した彼は、精気光の防護幕を展開してから、透視を続けたまま静かに問いかける。
「誰かね」
「村長さんに言われて来ました」
年長の――それでもフィオナよりも年下だ――の娘が不安に震える声で答えた。
「村長に?」
「あの、冒険者さん達に楽しんでもらいなさい、って……」
扉の向こうにいる娘達がどういう存在かは明白だった。どのような所でもそうだが、ある程度以上の外見的魅力を具えた若い女はそれだけで「資源」である上、時には「商品」ともなる。エートン村には女を商品として旅人に提供せざるを得ない条件がいくつも備わっている。つまりは、この貧しい村が有する素人娼婦なのだろう。
「女を買う気はない」
「お金は要らないです。村長さんが払ってくれました」
スナーは難しい顔になった。倫理観を刺激されたわけではない。村長がその貴重な資源を彼らに与えようとしていることが理解しがたかったのだ。たかが夕食を出し渋るような男が、そのようなものより遥かに値の張る「商品」を軽々しく差し出すとは思えなかった。
「あの……開けてください、お願いします」
娘が震える声で哀願する。
「だ、大丈夫です、私達、ちゃんとできますから……」年少の方が縋りつくような声で言葉を継いだ。「いつも冒険者さんや旅人さんに褒められるんです。よかったぞ、って」
「……少し待っていろ」スナーは遮音の魔術を使ってから、聞き耳を立てる仲間達に振り返った。「村娘が二人、娼婦として送られてきたぞ。村長の好意だそうだ」
ラシュタルはどうでもよさそうにスナーの顔を一瞥したきりだったが、女性陣の機嫌は急降下していた。アルンヘイルは不快そうな顔で、フィオナは深い憤りを覚えたような表情だ。
「まさかとは思いますが……」フィオナが先制した。「受け容れるつもりではありませんよね」
静かな声には抗しがたい圧力が籠もっていた。それは未然に表われる嫉妬であるばかりでなく、娘達の悲惨な境遇への同情と義憤、そして何もすることができず、何かをする気もない自分への失望でもあった。
「私は、まあ、あんたらが楽しみたいなら仕方ないと思うけど――男ってそういう生き物だからね――最低限、隠す努力くらいしてほしいわ。堂々と目の前でやるのは馬鹿にしすぎよ」
アルンヘイルは物憂く言って肩を竦めた。光溢れる世界で生まれた貴族の娘と違い、彼女は日陰で生まれて日陰で生きてきた。他者のどうにもならない現実に何も感じないほど無情ではないようだが、一々囚われるほど純真ではいられなかった。
「女はアール以外要らぬ」
ラシュタルがぶっきらぼうに言った。エルフは同族――及び仲間と見做した相手――に対して強い仲間意識を持つ反面、異種族に対してはひたすらに冷淡な生き物である。自分と直接関わらないのであれば欠片の関心も示さないし、関わってくるとしても必要最低限のことしか気にしない。
表わし方は三者三様だったが、一同の主張するところは要するに同じであった。
「つまり、追い返せ、と言うんだな。俺は二人を部屋に入れようと思うんだが」
スナーは敢えて仲間達の考えに叛いた。
「何を言っているのですか!」
真っ先に噛みついたのはフィオナだった。
「まあ、落ち着きなさいよ」アルンヘイルが余裕のある態度で制す。「どうせろくでもないこと考えてるんだろうから、話くらい聞いてあげなさい」
フィオナの蒼瞳には疑念が満ちていた。
「……どのような考えがあると言うのです」
「依頼を断る口実を思いついた」
アルンヘイルが興味を引かれたように黒曜石のように瞳を煌かせた。視線で先を催促する。
「お前が気を利かせたつもりでよこした娼婦のせいで、我々の人間関係が滅茶苦茶になった。こんな状態では仕事にかかれない。こんなところでどうだろう。夕食のせいで体調を崩した、などよりは余程無理がないと思うが」
「あら、いいじゃない」アルンヘイルが手を叩いた。「相手の落ち度ってところが最高ね」
「それに、村長にはこちらを見縊ってもらう方がいい。こいつは女に弱い、と思ってくれればしめたものだ」
「ですが、その、招き入れるということは、彼女達と……あの……そのようなことはないと思ってはいるのですが……男女の……ですね……その、する、つもりなのですか」
「いや、気に食わない話だが、その辺りは俺もラシュタルと同じだ。俺には君がいる」
フィオナは安堵したように胸を撫でた。
「よかった……」
「お熱いことで」
自分達を棚に上げてアルンヘイルがからかうのを聞こえていないかのように無視し、フィオナがまだ不安の滲む声で問いかける。
「ですが……しない、のであれば、その言い訳は通じないのでは?」
スナーは人の悪い微笑を浮かべた。
「いや、手はある。君とアルンヘイルの力を借りることになるが」
アルンヘイルが警戒心の籠もった眼差しをスナーに向けた。
「……何させる気?」
「君達二人には、救いがたいヒステリー女を演じてもらいたい」
「何よそれ」
「簡潔に言えば……俺が娼婦達を招き入れようとしたところ、激昂した君達二人が俺を詰り、娼婦達を罵って追い返した、という脚本を演じてほしい。できれば、怒鳴り声が家中に響く程度には騒いでほしい。明朝、村長に喚き散らしてくれたらもっとありがたい。信憑性が増す」
フィオナが頭痛を覚えたような顔をした。
「あの、スナー……」
「なんだ」
「もっとやりようがあるでしょう。私が悪く見られるのはまだよいのですが――勿論決して良い気分はしませんが――いきなり理不尽な怒声を浴びせられる娘達がかわいそうです」
「他の案もあるにはあるが、君はきっと反対するはずだ」
「……あなたがそう言うのならきっとそうなのでしょうね。でも、一応聞かせてください」
「娼婦達を魔術で寝かせて夢を見せる。魔術で眠らされて寝息を立てる君とアルンヘイルの横で、俺とラシュタルに代わる代わる責められる、現のような夢を。そして二人が目覚めた後、俺達は口裏を合わせて、夢がまるで現であったかのように錯覚させる。その上で、眠らせたはずの君達がなぜか夜のことに気づいてしまい、揉め事になった、ということにする。そして、村長には割り増しで娼婦の代金を払って解決する」
フィオナは話が始まってすぐ、聞くに堪えないと言いたげな顔になった。しかし彼女は、スナーが説明を終えるまで口を挟む衝動を抑えきった。
説明を聞き終えたフィオナは、気を鎮めるようにゆっくりと瞬きした。
「論外です」と一蹴した。「それは心を魔法で弄るようなものではありませんか。その娘達が売っているのは体だけです。頭の中は……心はその人だけの大切なものです。第一、魔術など……娘達の頭がおかしくなってしまったらどうするのですか」
スナーは相手を娼婦と割り切っているし、事実上の敵の尖兵と捉えている。自分で選んだ者はともかく、実質的に他の選択肢を与えられずにそうなった者に哀れみを覚えないほど、彼は無情な男ではない。だが、そうなってしまった者はもうそういう生き物になってしまったのだ。そういう生き物にしか見えず、どれほど慈悲深く接するにせよ、そういう生き物としてしか扱えないし、扱うつもりもない。少なくとも、個人的付き合いのない相手に関しては。
しかし、フィオナはそうではない。娼婦であろうと貴族であろうと、あらゆる者に尊厳を認め、敬意を払おうとする。そういう女だから、犯し、奪い、殺すことで他者の尊厳を踏み躙る者には欠片の慈悲も見せない一方で、そうでない者、分けても戦う力を持たない者を傷つけることを酷く嫌う。旅を続ける内に避けられないとなれば躊躇わないだけの強かさを身につけた一方、良識を以て知られた一家の令嬢であった頃の甘さが抜けていない。二十代も半ばに達してこれなのだから、最早、矯正は不可能だ。
彼女の在り方にスナーは全く共感し得ない。だが、彼女が自分を尊重しようとしてくれている以上、可能な限り尊重してやりたいとは思っている。
「そう言うと思った。だから言わなかった」専門家としての矜持と義務感から言葉を継ぐ。「一つ言っておくが、発狂の心配はない。夢を見せるのはごく初歩的な精神魔術だ。失敗しようと思わない限り、失敗など有り得ない。このことは前にも話したと思うが」
「……それより、もっと穏やかなやり方はないのですか」
フィオナの声は相変わらず非難の響きを帯びていた。スナーは微かに眉を顰めた。
「彼女らを口実にするんなら、穏やかな解決は有り得ない」スナーは正直に答えてから駄目押しに続ける。「誰かが悪役になる。あの少女達か、俺達かが。君が彼女らを守りたいと思うなら、俺達が悪役になるしかない。彼女らの立場はある意味――村長との関係性で言えば――村長夫人と大体同じだ」
理解できなかったようでフィオナは少し考え込む様子を見せたが、すぐに表情に理解の色が表れた。同時にやるせない怒りと悲しみの色も。
「なるほど、そういうことですか」
「そうだ。前提を思い起こしてみろ。あの村娘達は、曲がりなりにも村長からの贈り物だ。この意味を考えるんだ。突き返せば角が立つ。向こうの顔を潰す形になる。田舎者や権力者はそういうことにうるさいものだが、あの村長は取り分け粗暴で無神経だ。好意を突き返されて笑っているだけの度量はあるまい。彼女らに八つ当たりするかもしれないぞ。他の道理をわきまえた連中とは違う」
「……彼女達を口実にするのをやめませんか。子供じみた我儘だということは承知です」
「それにしたところで、追い返すのなら同じことだ。ならば、有効活用する方が、俺達にとっても彼女らにとっても有益というものじゃないか」
フィオナは、誰も傷つけない方法はないのかとは言わなかった。だが、沈黙するその顔には苦悩の色が窺えた。
戦いの神が授けた豊かな才能を不断の努力で磨き抜いた女剣士と、強靭な意志と弛まぬ努力で才能の不足を乗り越えた魔法使いとの間で交わされる議論を心持ち長い耳で聞きながら、アルンヘイルはそのくだらなさにうんざりしていた。この二人はどうしてこのようなくだらない話し合いを続けているのか、と彼女は思わずにいられなかった。
特に不可解に思えるのはスナーだった。フィオナ・カルミルスの視野の狭さは昔の自分を見ているようでいっそ微笑ましいほどだったが、スナー・リッヒディートほどの知性の持ち主がこの程度の問題に囚われて先に進めずにいることは、意外でならなかった。フィオナのような気性の持ち主であれば、潔癖な極論にしか辿り着けずとも不思議ではない。だが、スナーのような男が固定観念に囚われ、一つの意見に拘り、足元に転がっているはずの無数の正答に気づけずにいる様は、ただ奇妙であるばかりでなく、もどかしくもあった。
彼女がこういう思いをさせられるのはこれが初めてではない。複雑な計算を軽々と解く者。難解な文章を自在に読み書きする者。敵の計略を一目で見破る者。盤上遊戯で負けを知らない者。彼女には到底不可能な頭脳労働をなんでもないことのようにこなす人々を見てきたが、彼らの中には、彼女やその仲間のような無学な連中でも気づくようなことに気づけない者が少なからずいた。賢い人々のそういう失態を目にするたび、アルンヘイルは苛立ちと、知性なるものへの疑問を感じずにいられなかった。
嘆息するアルンヘイルの前で、スナーはフィオナと――親子であってもおかしくないほどの年齢差のある女と――不毛な話し合いを続けていた。アルンヘイルの苛立ちはそうしている間にも少しずつ高まっていく。外で罪もない村娘が不安に慄きながら待たされ続けているかと思うと、尚更苛立ちが募った。
そして彼女は、いつまで経っても終わる様子を見せず、似たり寄ったりの言葉で堂々巡りを続ける話し合いに痺れを切らした。
「ちょっと、あんた達、聞きなさい」
アルンヘイルが突然割って入ってきたため、スナーは開きかけた口を閉ざした。顔を向け、もう一度口を開く。
「今はつまらない冗談に付き合う暇はないぞ」
フィオナも疑わしげな視線を向けた。
「今は真面目な話をしています。そのことはわかっていますよね」
アルンヘイルは唇の端をひくつかせた。
「あんた達が私をどう思ってるか、よくわかったわ。ご期待に添えなくて申し訳ないけど、私も割と真面目な意見を言わせてもらうわ」
「では拝聴しよう」
スナーの言葉に、フィオナも頷いて同意を示した。二人でアルンヘイルの言葉を待つ。
「まずさ、あんた達、頭が固すぎるわ。フィオナはあの娘らをなるべく傷つけたくない。スナーは何かもっともらしい口実が欲しい。基本はこれでしょ」
「ですから、今、それを話し合って――」
「最後まで聞く!」反駁しかけたフィオナをぴしゃりと叱りつけ、スナーを睨むように見据える。「で、あんたは別に波風立てるのが狙いってわけじゃないんでしょう。あの娘らを追い返さなくていい方法があるなら、そっちを採る気はあるのよね?」
「そこに拘りはない。不自然に過ぎない口実が欲しいだけだ」
「あんたの考えはわかったわ」次いでフィオナに視線を転じる。「あんたは、あの娘らをなるべく傷つけたくない、でも魔法は嫌、スナーがあの娘らと寝るのも嫌……ってことね」
「すみません」ねめつけるような視線を受けて、フィオナが自分の要求の法外さに気づいて恥じ入るかのように頬を赤くした。「我儘なことを言っているとは思うのですが……」
「ああ、それはいいのよ、別に。謝らなくていいわ。だって普通の考えだもの」アルンヘイルは興味もなさそうに手をぞんざいに振った。「大事なのはここから。そういう話なのに、あんた達は、どうやって追い返すかの話に摩り替えちゃってる。これ、おかしいよね」
鋭い黒瞳を向けられ、スナーは軽く顔を顰めて頷いた。
「だったら、追い返さずに済ませる方法も考えてみなよ」
「ですから、私は魔法で心を弄ぶのは嫌だと――」
「それだけがやり方じゃないのよ」アルンヘイルは意味深に微笑して二人を見た。「あんた達、本当にわかんないの?」
彼女を見返す二人は困惑顔だった。
「フィオナはともかく……スナー、あんた、本当にわかんないの? 別に、部屋に入れるのと抱くのは一緒じゃないでしょ」
「……どういうことでしょう」
フィオナがますます困惑を深めた。
一方、スナーはアルンヘイルの言わんとするところに気づいた。納得の表情で頷く。
「盲点だった」
「選択肢は二つじゃなくて三つでしょ。追い返す、夢を見せる、他に何かさせる、とかね」
「他に何か、ですか」
フィオナはまだ呑み込めていないようで、不思議そうな顔をしている。
アルンヘイルが苦笑して説明する。
「知り合いの娘が言ってたんだけど、高い金出して一晩買っといて愚痴聞かせるだけで満足するおっさんとか、結構いるらしいのよ」スナーをわざとらしく見る。「あんた、そういうの結構知ってるんじゃない?」
「確かに、な」スナーは懐かしそうな顔をした。学院にいた頃、娼婦から寝物語にそういう話を聞いたことがあった。「人の温もりに餓えた小金持ちや老人がそういう楽しみ方をするらしい」
「……いつ誰に聞いたのですか」
フィオナが冷たい声を出すのを聞き、スナーは失敗を悟った。フィオナは彼の過去の女性関係に寛容ではあるが、その思い出話を喜んで聞くほど好意的ではない。
「学生時代の友達だ」スナーは慌てて、しかし、表面上はなんの同様も示さずに取り繕う。「講義室や研究室にいない時はどこかで誰かと寝ている、と言われた男だった」
「そう……なのですか」
フィオナはまだ疑念の残る目でスナーを見たが、それ以上の追及はしなかった。
アルンヘイルが、早くも話を脇道に引き摺り込んだ二人に少しきつい調子で言う。
「で、話を戻すけど、部屋に入れて何かをさせるって手もあるけど、どう?」
「私は賛成です」
「しかし、筋書きはどうする」
スナーはアルンヘイルの意見を求めた。彼は何もない状態から計画を打ち立てるのは得意だ。しかし、一つ計画を固めてすっかりその気になった後で、別のものを考えたり、大きく変更したりするのはあまり得意ではない。魔術学院でも、柔軟性に欠ける――彼が師事した一門の基準においてだが――と評されていたほどだ。
「そうね……」
思案する素振りを見せてすぐ、アルンヘイルが悪戯を思いつきでもしたような顔になった。
「……何か思いついたようだな」
スナーは嫌な予感を覚えた。
「あんた達二人が道化になるのよ」
「私達が、ですか」
「スナーがあの娘達に何かさせるのよ。理由なんか、たまには女房以外の女と遊びたかったとかでいいのよ」アルンヘイルの口の端が男と言う生き物を馬鹿にするように吊り上がった。「で、終わった後、一旦納得したはずのフィオナがやっぱり納得できなくて嫉妬で大騒ぎして、夫婦喧嘩の始まりってわけ。私はフィオナの味方、ラーシュは誰の味方もしないからスナーは一人きり、と人間関係はばらばら。とてもじゃないけどまともな調査なんてできっこない。どう?」
「台本として有りか無しかで言えば有りだが……」スナーは情けない顔をした。「俺達があまりにも愚かすぎないか」
「そうですよ」フィオナが納得できないという顔で同意する。「よりにもよって、そんな……」
「だから、あんた達に道化になってもらうって言ったんじゃない」片眉を上げてじろりとスナーを見る。「大体、あんたが最初に言い出した筋書きだって十分馬鹿らしいじゃない」
「いや、非現実的な馬鹿の役を作らないだけ、俺の案はまだましだ」
「うるさい」アルンヘイルは手厳しく抗議の声を撥ねつけた。「馬鹿だっていいのよ、相手はあの村長なんだし。人なんてね、自分より程度が上の相手のことなんか理解できないもんなんだから、あの村長並みの人間だって思わせて、確かにそういうことってあるよなあって納得させちゃえばいいの」
「それは一理あるが……」
「じゃあ決定ね」
「アルンヘイル、ちょっと待ってください」
「外にはもっと待ってる娘がいるでしょ」
アルンヘイルに抗議を却下され、フィオナは思い出したように扉の方を見た。
「……そうでした。もう長い間、不安な思いをさせてしまっていますね」スナーを見る。「スナー、私は我慢します。だから、あなたも堪えてくれませんか」
スナーは額を押さえて悩ましげに瞑目した。
「……頭の決定には従おう」
「じゃ、そういうわけだから、さっさとその娘らを入れてあげなさい」アルンヘイルがスナーに言った。「そうね……歩き通しで疲れてるんでしょ。折角だし、マッサージでもしてもらえば? フィオナもそれくらいならいいでしょ」
不承不承の顔でフィオナが頷いた。
「……まあ、マッサージくらいでしたら」
スナーはもう一度嘆息してから立ち上がり、遮音の魔術を解いて扉に向かった。この後に待ち構える茶番を思うと憂鬱だった。彼は魔術師になったのであって役者になったのではないのだ。
すぐ近くの鶏小屋で、鶏達が繰り返し鳴いた。甲高い声が朝の冷たい空気の中を響き渡る。
村長から宛がわれた部屋の床で長杖を抱くようにして眠っていたスナーは、哀れを誘う鶏の掠れた声に起こされた。
欠伸をして周りを見る。閉めきられた暗い室内で、仲間達はまだ眠っていた。女達にベッドを譲って床に移ったラシュタルも、ベッドの上で姉妹のように身を寄せ合うフィオナとアルンヘイルも、この劣悪な環境下で心地良さそうな寝息を立てている。床の硬さや部屋の臭いや汚れなどを一々気にしてなかなか寝つけない贅沢者は、いつものようにスナーだけだった。もう八年も冒険者をしているのに、いつまで経っても根っこの部分は都市生活者だ。
自慢の真銀時計を懐から取り出し、時刻を確かめる。鏡のような蓋を開け、ドワーフの無骨な手が生み出した芸術的な文字盤を見る。暗い中で、三本の針が五時三十四分二十五秒を指しているのが見えた。
時計を懐に戻してから、音を立てないよう気をつけ、ゆっくりと身を起こした。体のあちらこちらの筋肉の強張りに気づき、顔を顰める。寝床の質のせいか、ろくに眠った気がせず、却って筋肉が疲れたような気さえした。
軽く首を動かすと、凝った筋肉が収縮して心地良かった。スナーは昨晩のマッサージを思い出した。魔法使いに怯える年端もいかない素人娼婦二人がかりでのおっかなびっくりのマッサージも、二人を帰した後に再開された独占欲を感じさせるフィオナのマッサージも、それぞれなりに違いがあって気持ち良かった。ただし、どちらがよかったかと言えば、そこは好みを心得ているフィオナだった。力強い手のおかげで、魔術的処置でほぐすまでもなく体中の筋肉が柔らかくされた。もっとも、あの時の軽やかな気分など、今ではすっかり霧散してしまっていたが。
スナーは学徒時代からの習慣に従い、魔術師の流儀に従った身体整復を行なうことにした。もっとも、単なる魔術師流の健康法ではない。己もまた広い意味では魔法的存在であることを自覚し、己の心身が、ひいては人というものがいかに構成されるものかを理解し、最も身近な質料である自身を制御することで星幽光の操作技能を磨く、魔術師にとって欠かすべからざる基礎修行である。これを真面目にやる魔術師は伸び、怠る魔術師は腐っていく。スナーは可能な時はいつでもこの修行を行なってきた。
彼は姿勢良く座って瞑想に入った。自分の体もまた万物の根源を成す星幽光の賜物であることを強く意識し、生命活動が様々に形を変えた星幽光の絶え間ない循環運動であることを想起する。次いで、自分の体を客観的に眺め、その循環が乱れている部分を探す。それこそが体調不良の表象だ。
不調は首や肩、脚などに集中して見つかった。旅の疲れと寝床の酷さが響いているようだった。意志の力で星幽体と肉体双方の星幽光に干渉し、全体の均衡を崩すことのないよう少しずつ丁寧に流れを正してやる。均衡を崩すとスナー・リッヒディートという星幽光の塊が歪んでしまうので、殊更に意識を研ぎ澄ませ、注意深く作業を進める。ゆっくりと流れが正されていくにつれ、体の違和感や不快感が、氷が湯で溶かされるように消えていき、血の巡りが良くなるように全身が温まっていく。
全身が快いむず痒さに覆われ、体が軽やかに感じられるようになった頃、スナーは集中を解いて目を開けた。そして僅かな驚きを感じた。いつの間に起き出したのか、目の前にフィオナが座っていた。何が楽しいのかにこにことスナーのことを見ている。
「おはようございます、スナー」
「おはよう。楽しそうだな。何かいいことでもあったか」
「あなたの顔を見ていました」フィオナの笑みが深まった。「愛しい人の顔を見ているだけで、女というものは幸せな気持ちになれるのです」
スナーは顔を顰めた。流石にそういうことを言われて無邪気に喜べるような歳ではない。
「恋愛小説に出てくる頭の足りない女みたいなことを言うな」
アルンヘイルとラシュタルの様子をさりげなく窺う。もし二人が起きているようなら、然るべく対応する必要がある。
アルンヘイルは小剣を抱いたままベッドで丸くなり、ラシュタルは剣を抱えて壁に背を預け、二人とも安らかな息遣いで体を休めていた。スナーはそれを見て、フィオナにもわからないほど微かに頷いた。
「だって、私は愚かですもの。あなたに恋をしているのですから」
「……リーズ・レブラン・パーニシャンだったか、『髪の紅薔薇』の」
「よく知っていましたね」フィオナが驚きの声を上げた。「わからないだろうと思ったのですが。あなたも読んだのですか」
「君の本棚で見つけてね。だが、意外だな。あの作品は君の好みから外れていると思うんだが」
「ええ、確かに、悲恋は好きではありません。幸せに終わる方が好きです。でも」と熱く語り出す。「リーズとレーダンが周囲に隠れて愛し合う前半は素晴らしいですよ。レーダンが紅薔薇の髪飾りを贈って想いを告げる場面は読んでいて温かい気持ちになりました。それに、リーズの婚約者のユスタブと無理矢理結婚させられるところは、まるで我がことのように思えて、悲しくて、腹立たしくて……最後の最後、革命軍に囚われたリーズが断頭台に上った時、処刑人に、首を斬り落とした後、髪飾りをそのままにしておいてくれるよう頼むところは、凄絶なほどの美を感じました」
情熱的な語り口にスナーはやや気圧され、我知らずの内に、逃れるように上体を僅かに反らしていた。
フィオナが同好の士を見つけたような期待に輝く顔を向けた。
「スナー、あなたはあの作品をどう思いましたか」
「俺は……なんと言うか、煮えきらない作品だと思ったよ。好みじゃない」
「煮えきらない……ですか」
フィオナは戸惑い顔だった。
「前半は確かに面白いが、後半の展開がどうにもな。物語に逃げの姿勢が感じられた。ユスタブとの結婚が決まった時、主役二人は運命を受け容れることを選んだ。ここまでは、まあ、いいだろう。だが、その後がいけない。ユスタブがリーズの心が自分に向くまで待つと言って白い結婚を続ける内に革命が起こって、ユスタブは殺され、リーズは捕らえられ……という流れになる。俺はこの流れに作者の逃げを感じる」
「何がいけないのですか」フィオナが刺々しく噛みつく。「激動の共和革命に翻弄される悲運の男女、という主題が見事に活きているではありませんか」
「歴史物としてはそれでいいだろう。共和革命物としては、だ。だが、恋愛物としては物足りないな。三角関係をもう少し掘り下げるべきだった。邪推かもしれないが、作者はリーズが手を汚すのを避けようとした可能性がある。そのまま何事も起こらなければ、リーズは最終的に次のいずれかを自らの責任において選択しなくてはならなくなるからだ。一、ユスタブに乗り換える。二、レーダンの許に戻る。三、両方の間を往ったり来たり風見鶏のように揺れ続ける。四、自殺するなり修道女になるなり逃げるなりして姿を消す。どの選択肢も批判の対象になり得る。一は論外、二はそれならば最初からレーダンを選べばよかった、三は最早ただの尻軽で、四は自己陶酔と自己満足の臭いがする。作者はその後、自立した強い女を主役にして物語を書いているようだから、きっと、女性的な弱さが嫌いだったんだろう。だから、きっとその典型のような振る舞いをリーズにさせたくなくて、選択を迫られる以前に物語を収束に向かわせ、ああいう決然とした最期に物語を誘導したんだ」
フィオナは苦虫を噛み潰したような顔でスナーの文芸評論を聞いていた。
「確かに、そういう風に解釈できないこともありませんが……」悩ましげな溜息を挟んで続ける。「悪いところばかり見て、悪いようにばかり考えるのでは、面白くないでしょう。どうして素直に物語を楽しめないのですか」
「それは読者だけの罪じゃない。悪いところばかり目につかせ、悪いようにばかり考えさせる作品にも罪がある。つまり、素直に楽しむためには、作品がそれだけの完成度を持っている必要がある」
「それでも、良いところだけを見て、良いように考えることはできます。要は読む者の姿勢です。完成度なんて関係ありません。そうでしょう」
「好みの作品ならな。恋は盲目、痘痕も笑窪。好みの作品が面白くないわけがない。好むと好まざるとに関わらず人を惹きつけるために完成度が大事だと言っているんだ。ハーノ・ゴエザの『アウストス』を好みではないと言う奴はいても、駄作と切り捨てる奴はそういまい」
「ああ、もう、我慢できない」寝転がっていたアルンヘイルが苛立ちの籠もった声を上げた。「……甘い言葉でも囁くかと思ったら、あんた達はまあ、朝っぱらから文学談義なんて……少しは観客を楽しませなさいよ」
「アルンヘイル、起きていたのですか」
うろたえるフィオナの顔には赤味が差していた。それを微笑ましく思いながら、スナーは面白くもなさそうに言葉を返す。
「観客がいるからああいうやりとりになった、とは思わないのか」
「やっぱり、寝たふりしてたのわかってた?」
「俺に狸寝入りが通じると思うな」魔術師に狸寝入りは通じない。星幽体を一目見れば、相手に意識があるかどうかなどすぐにわかる。「だから君もさっさと起きろ、ラシュタル」
冬眠明けの熊が目覚めるような動作でラシュタルが身動ぎした。筋肉を解すように体をゆっくりと動かしている。
村の小さな教会で目覚めの鐘が鳴るのが聞こえた。朝の六時になったのだ。
「そろそろ村長も起きてるんじゃない?」
アルンヘイルが伸びをしながら言った。
「農民は早起きだからな」スナーは物憂い気分で頷いた。村長を丸め込むのは彼の役目だ。あの粗野な田舎者にへつらわなければならないと思うと苛立ちが募った。「早速行くとしよう。君達は出発の支度を済ませておけ。その後は話し合った通りに動くぞ」
廊下に出ると、丁度、着替えを済ませた村長夫人が階上の寝室から下りてくるところに出くわした。
薄暗い廊下に沈み込むようにして現れたスナーに気づいた夫人が怯えたように後ずさった。
「おはようございます、魔法使い様」
「おはよう、村長夫人。実は村長に重要な話があるのだが、どちらにおられるかな」
「主人はまだ寝室ですが……」
「手数をかけるが、村長に取り次いでもらいたい。それと、もしこれから朝食の支度をするのであれば、我々の分は不要だ」
「はあ」と困惑顔で返事をし、村長夫人は階上に戻っていった。
少しして癇癪を起こしたような怒鳴り声がスナーの耳に届いた。彼は村長の息子達が騒ぎを聞きつけて起き出してくるのではないかと思ったが、彼らが起き出す気配はなかった。怒鳴り声はこの家では日常の一部なのかもしれない。
階段に荒々しい足音が響いた。近づいてくる音の主を確かめようと見上げると、肩を怒らせた村長が不機嫌さを見せつけるような顔で下りてきていた。怒りと恐れの綯い交ぜになった眼が、スナーの顔とあらぬ方とを落ち着きなく往復していた。
「こんな朝っぱらからなんの用だ」
「実は依頼について話がある。できれば座って話したい」
「……客間で話そう」
客間に移動し、二人は椅子に腰かけた。先日とは違い、スナーもテーブルにつくことを許された。教義や迷信が「神」の意思ではなく「人」の実生活上の都合に応じて作られるものであることを示すかのように、魔術師との単なる同席は神罰の対象とはならないとされている。
村長が口火を切る。
「それで、なんの用だ」
「結論から言おう。依頼の遂行が不可能になった」
「つまり……何が言いたいんだ。仕事を取り止めるってことか」
スナーは注意深く村長の様子を観察しながら答える。
「有り体に言えばそういうことだ。ご納得いただけるだろうか」
「なんでまた急にそんなことを言い出すんだ。とにかく、まずは理由を言え、理由を」
村長は怒らなかった。動揺を示し、怪しみ、不安がるような目つきで、探るように目の前の魔術師をねめつける。
「愚かな妻のくだらない嫉妬心が原因だ。昨晩、女をよこしてくれただろう」
村長の粗野な顔が品のない笑みの形に歪んだ。
「ああ、男なら、嫌いじゃないだろうと思ってな。女房だけじゃ飽きちまうだろう」
村長に応えるように、スナーは意識的に下品な微笑を作った。
「同意するよ。特に若い娘がいい。たまには若い娘の肌に触れないと、生きている気がしないね」
「もっとも、あんたらは女房なんぞに気を遣ってか、折角の上玉にちょっと仕事させただけで返しちまったようだがな」
「あの娘達から聞いたのか」
或いは――と言うよりもやはり――村娘達は無自覚な間者だったのかもしれない。
村長は発言の意味に気づいたのか、ばつの悪い顔をした。
「そりゃ、金を払ったんだ。ちゃんとあんたらを満足させたかどうか確かめる義務ってものがある」
「……まあ、そのことは措くとして、依頼の件に戻ろう」
「そうだ」急に思い出したように、村長が声と顔を険しくした。「説明してもらおうじゃないか。なんだってまた、そんなふざけたことを言い出したのかな」
「あなたが送ってくれた娘達が原因だ。あなたは我々の中に、不和の女神のように、黄金の林檎を投げ込んだわけだ。私はあなたの好意を無にするべきではないと主張したのだが、妻が納得しなくてな。アルンヘイルは妻に同調する始末で、ラシュタルは我関せずだった。それでも、私はあなたに失礼だから、ひとまず娘達を受け容れるべきだと主張し続け、彼女らを部屋に招き入れた。それが妻の癇に障ったようで、娘達を帰すまでは猫を被ってにこにこしていたが、帰った後は烈火の如く怒り出して、今もそのままだ。起きてすぐに怒鳴りつけられるとは思わなかった」
村長は疑わしげにじっとスナーを見た。
「そういう女には見えなかったがね」
「村長、あなただって結婚してから、こんな女だとは思わなかった、と感じたことが一度もないわけじゃないだろう」
「確かに」村長は納得した様子で唸った。「女は嘘をつくのが上手い。年がら年中化粧ばっかりして男を騙しているだけあってな」
「そういうわけで、今、私達夫婦は、大袈裟に言えば離縁の危機にある。とても冒険どころではないのだ」
「たかが淫売のことで離縁とは、どこのお嬢様だ、あんたの馬鹿女房は」
村長は驚愕に声を上擦らせた。スナーはフィオナへの侮辱に不快感を覚えたが、それを面に出さないよう努め、否定しないことで同意してみせる。
「さてね、どこから来たのかもわからない、気位ばかり高い女だよ。ともあれ、事情はわかってもらえただろうか」
村長は黙ったまま答えない。何事かを考え込んでいる。星幽体の状態を把握することのできるスナーには、村長がどこか安堵したような気配を漂わせながら逡巡しているのがわかった。どういった理由があるかはわからないが、やはり村長はスナー達をこの件に関わらせたくないのだ。
「勿論、どんな事情があるにせよ、引き受けた仕事を投げ出すことに変わりはない。それは重大な逸脱であるばかりか、不名誉でもある」スナーは厳かに言って懐の財布に手を突っ込んだ。「些少ではあるが、娼婦の代金とあなたへの詫びとして、これをお納めいただきたい」
スナーは卓上に大銅貨を二十枚並べた。村長の目に強欲なぎらつきが生まれたのを見て内心で嗤ったが、すぐに、自分も海千山千の商人達や為政者達からすればこのように他愛もない存在なのだろうことに思い至り、目元を若干険しくした。浮浪者を馬鹿にして自尊心を守る貧民のような真似をしてしまったことが恥ずかしかった。
「随分と多いな」
そう言いつつも、既に村長の毛深い手は銅貨を残らず自分の許に引き寄せていた。自分のものだと主張するように腕で銅貨を囲い込んでいる。
「今回の件はいろいろな意味で不名誉なのでね。それで全てなかったことにしてもらいたい」
スナーは座ったまま、頭を垂れた。じっと村長の胸元を留めるボタンを見つめながら、スナーは眼前の粗野な田舎者が優越感と困惑を味わっているのを感じた。「畏るべき魔法使い」が自分に頭を下げているという事実が、虚栄心と自尊心に快い刺激をもたらしているのだろう。
「ああ、わかった。わかったよ、あんたらには何も頼まなかった。それでいいんだな」
顔を上げたスナーに、殊更に大物ぶった態度で村長が告げた。スナーは頷き、席を立った。
急に立ち上がった魔術師を村長は不安の面持ちで見上げた。
「どうしたんだ」
「長居するほど恥知らずではないつもりだ。このまま出立させてもらう」
村長がほっとした様子で小さく頷く。
「うむ、そうか。ところで、これからどこに行くんだ」
「ノルザベルギエを経由して共和国に行くつもりだ」
スナーはエートン村から北西にある都市の名前を挙げた。ミドルトン伯が帝国政府に提出した申告書類によれば伯爵領第二位の都市であり、平和街道の支道とも繋がっている。
「ならさっさと行けばいい」
村長に会釈し、スナーは仲間達の許に戻った。




