第二章(分割前半)
帝国領南西部には共和国に連絡する平和街道が伸びている。平和街道の共和国寄りの部分には、暗黒大陸との貿易拠点である港湾都市群に続く海の恵み街道への分岐点も存在する。平和街道と海の恵み街道、この二本の大街道は帝国南部の大動脈とも評され、様々なものを西へ東へ北へ南へとひっきりなしに流し、流通と交易を支えている。
活発な道はそれ自体が富を生み出す。道のあるところに富があり、富のあるところに道がある。人や物、金、情報などの血液が、帝国――即ち大陸西部――という途方もない大生物を活気付かせる熱がこの長大な道を流れ、この大血管とその周囲にあるものは押し並べてその恩恵に与る。
だが、帝国も大陸も巨体に付き物の低血圧に悩まされる生き物と見えて、大血管から少しでも離れると、世界は一気に寒々しくなってしまう。大街道にほんの数日行程近いか遠いかが、その土地の命運を分けるのである。
雲一つない青空から陽射しが穏やかに降り注ぐ中、フィオナ・カルミルス或いはリッヒディートが率いる一行は、毛細血管のように頼りない、寂寥感漂う荒れた街道を進んでいた。行く手からは爽やかに乾いた春の西風が吹き寄せている。清々しい春の昼時である。
風が吹きつけてくる遠い空に、薄らとではあるが不穏な黒雲が見えることに、スナー・リッヒディートは気づいた。このまま風が吹き続けるか雲が育つかしたら、明日の天気は良くて曇り、下手をすれば雨となる。雨は農民には恵みとなろうが、旅をする者には災いでしかない。人生の過半を都市で過ごしてきたスナーにとって、雨の日は屋内で過ごすものだ。彼は明日の好天を願わずにいられなかった。
イルアニンを出発した一行は、モルクとハイドランの経路を辿り、四日ほどを費やして帝国南部に君臨する大貴族ミドルトン伯爵の領地の北西部に到達していた。
イルアニン市管区との境界付近とは違い、穴だらけで草だらけ、と街道は全く整備されておらず、実に酷い有り様であった。この一帯は人など滅多に訪れないので伯からはぞんざいに扱われているのである。そのくせに、この一帯にも他の場所と同じく関所がいくつも設けられ、小金を惜しんで通行鑑札を買わなかった者から街道利用料を何度もふんだくって苛立たせる。無論そうして徴収された使用料が本来の名目である街道整備費に充てられることはない。幾分か伯の兵士や村長などに掠め取られてから伯の懐に入り、そのまま別のことに使われる。領主に見捨てられた土地を旅することは、多くの場合、領主に気前良く小遣いをくれてやることを意味する。
フィオナは魔獣の毛皮を仕立てたマントを羽織り、厚手の上着の下に鎖帷子を着込み、腰に片手半剣を佩いている。背には旅の荷物が入った背嚢を負っている。
鴉の濡羽のような黒髪と浅黒い肌の艶かしいアルンヘイルがその隣に並んでいる。こちらはマントに厚手の衣服に革の防具、腰には小剣、背中に背嚢、といつも通りのいでたちである。
短い金髪の女剣士と長い黒髪の女傭兵は、日焼けした顔と浅黒い顔に笑みを湛え、長い行程の疲れも見せず、和気藹々と言葉を交わしている。陽射しに彩られた華やかな空間の少し後ろには、対照的に、むさ苦しく憂鬱な空間があった。
血の気の薄い肌に陰気な風貌の魔術師スナー・リッヒディートと古傷の目立つ筋骨逞しい小麦色の肉体に部族紋様の刺青を入れた精悍な美貌の荒野エルフの勇者ラシュタルが、むっつりと左右の足を交互に前に出している。彼らのいでたちもアルンヘイルと同様、普段の旅姿とさして違いはない。砂色の髪の荒野エルフ戦士も黒髪の魔術師も、特別な戦装束など持ち合わせてはいない。魔術師は日蔭色の衣装を纏って比較的小さな背嚢を背負い、荒野エルフの勇者は野獣の毛皮のマントに麻の民族衣装の典型的な荒野エルフの部族戦士姿をして、仲間達のための様々な旅の荷物の詰まった大きな背嚢を背負っている。
二人の間に言葉はない。
スナーも途中まではラシュタルに求められるまま、アウルターク大王の友であった古エルフのシールレ、剣聖と呼ばれた偉大なるカルミルスなど古の英雄の事績を語って聞かせるなどしていたが、徐々に口数も少なくなり、今は口を利くのも億劫になっていた。体を預ける長杖が頼もしい反面その重みと大きさが疎ましくもあり、移送の魔術で必要品を適宜取り寄せるという前提上仲間のそれよりも幾分か軽い背嚢が信じられないほどに重たい。
悪路の旅路を経て、彼は酷く疲れていた。師の不祥事に連座する形で魔術学院から実質的追放処分を受けてすぐにフィオナに出会ってからというもの、大陸中を旅して回ったため、学問の殿堂で過ごしていた頃に比べて足腰がすっかり鍛えられたことは確かだ。しかし、重い鎧を着て走り回り、重い剣を力一杯に振り回すことに人生を費やす連中の「普通」に付き合わされては堪ったものではなかった。彼は戦う人ではなく学ぶ人なのだ。それにもう若くない。実年齢は農民の基準では老境に達しつつある四十路近くにも達し、肉体年齢の方も、修行と魔法薬で老化を抑えているとはいえ、三十路より下ではない。実年齢はともかく肉体年齢が二十歳そこそこの「若者」達と同じ活力を要求されるのはつらいものがあった。まともな地域を旅していた頃の、宿場と駅馬車が恋しかった。
「もう少しだ。しっかりしろ」活力に満ち満ちたラシュタルがスナーを叱咤する。「村が向こうに見えるだろう。すぐそこだ」
「あの情景模型のような奴がエートンか……」
目的地が見えてきたことは、スナーにとって何の希望にもならなかった。むしろ、終着地が具体的となり、まだこれだけの距離が残っているのか、と憂鬱さが込み上げてきた。
「地平線より手前だ。もう一時間行程にも満たぬ」
「道と呼ぶのも腹立たしいこんな腐れ道がまだ一時間行程近くもあるのか……」
スナーは低い声でぼやいた。状態の悪い道を何時間も歩き続ける連日の苦行が足腰――特に足首の辺り――を散々に痛めつけていた。久々に、筋肉の萎縮と退化の危険を冒してでも健脚の魔術に縋りたい気分になった。
「スナー、ラシュタル、どうしたのですか。足が止まっていますよ」
フィオナが立ち止まって振り返った。
「か弱い文明人がまた音を上げたのだ」
ラシュタルが馬鹿にしたように答えた。
「スナー、つらいでしょうが、もう少しです。頑張ってください」
「頑張っている時に頑張れと言われるのは腹立たしいな」
「存分に腹を立てろ。その怒りがお前の足を前に進ませる」
「他人事だと思いやがって……」
真面目腐って言うラシュタルにスナーは呪いの言葉を吐いた。疲れと苛立ちが、洗練された文化に正された言葉遣いから鍍金を剥ぎ取っていた。
「物を考え、悪態をつく元気がある内は、疲れた内に入らぬ。本当に疲れきった者は最早倒れること以外の何もしようとはせぬ」
ラシュタルが元気づけるようにスナーの痩せた背中を叩く。スナーはつんのめったが、杖の助けもあって、何とか転倒を避けた。咳き込みつつラシュタルを睨む。
「体力馬鹿め。少しは自分の力をわきまえろ」
「そら見たことか、まだまだ元気が有り余っている」
部族の年少者達が一人前の戦士に育つ手助けをしてきた勇者は、小麦色の美貌を薄い笑みで彩り、ひ弱な魔術師を傲然と見下ろした。
エートン村は、帝国でも王国でも共和国でも見られる、近くの都市との小さな取引で命を繋ぐありふれた寒村だった。貧弱な畑に囲まれて十数戸の建物が寄り集まり、ひ弱なスナーでも蹴破れそうな粗末な柵に守られている。家屋は補修が限界に達したような有様で、村内には人気も活気もなく、畑の作物には元気がない。子供の姿もない。死を待つ老人のようだ。あと半世紀もしない内に、地図から消えてしまいそうだ。
村の門に入ってすぐの所にはミドルトン軍兵士の詰め所があるが、門前に立つ二人の番兵は退屈しのぎに立ち話をするばかりでろくに周りを見ていない。彼らの有り様はいかにこの村が領主に軽んじられているかを象徴していた。
兵士達は雑談に随分と熱が入っていたようで、訪問者が目の前に現れるまで気づく風もなかった。フィオナとアルンヘイルを先頭に彼らが近づくと、無精髭を生やした兵士達は好色な表情で口笛を吹いた。この一瞬で、世間一般の美女像からかけ離れたところのあるフィオナはさて措き、蠱惑的なアルンヘイルが好色な兵士達の頭の中で素裸にされたことは想像に難くない。しかし、魔術師然としたスナーと筋骨隆々たるラシュタルが進み出ると、緩んだ頬が引き締まった。やや年長のいかにも兵隊暮らしの長そうな兵士が横柄に四人を眺めた。
「お前ら……冒険者か。村に入りたいのか」
フィオナが答える。
「そうです。通していただけますか」
「こんな所を通るなんざ、物好きな連中だな」革手袋を外して手を差し出す。「ほれ、入るんなら鑑札か通行料出しな」
「しかし、黒にしろ白にしろ、エルフなんて見たの何年ぶりだろうな……いや、耳がちょっと短いし、半分か?」もう一人の兵士が、じろじろとアルンヘイルの肢体を眺めて言う。「どうだ、エルフの姉ちゃん、もし鑑札がないんなら、体で払わねえか。口だけなら一回ずつで一人分、下の口も使ってくれるんなら全員分――」
「これでよろしいですか」
フィオナはミドルトン伯の紋章が焼きつけられた木片を差し出して冷ややかに兵士を見た。仲間達も無言で倣う。
卑猥なからかいを口にした兵士はたじろいだように一歩下がった。
「そんな怖い顔するなよ」
スナーは心の中で、よくやったとフィオナを褒めた。もしあのまま兵士を喋らせていたら、自分と自分の女を侮辱された――と感じた――ラシュタルが、どんな真似をしでかすかもわからなかった。スナーは帝国にも帝国貴族にも敬意など一欠片も抱いていないが、貴族が体制の象徴であることは認めている。帝国そのものに挑戦したいとは微塵も思わなかった。
年長の兵士が鑑札を確かめ、執り成すように言う。
「鑑札は確認した。手間を取らせたな。通っていいぞ」
フィオナは無言で会釈し、村に入った。スナーとラシュタルは無言で続き、アルンヘイルが通り過ぎざま兵士達に小さく手を振って場を取り繕った。
兵士達から十分離れたところでアルンヘイルが憤慨した様子で口を開いた。
「こんな所にまで関所だけは用意するんだから、ミドルトン伯ってのはがめつくてやんなるわね。金を取ることしか考えてないんじゃないの? まるで暗黒時代の領主ね。まあ、それくらいじゃなきゃ、南部の経済に食い込むなんて無理なんだろうけど」
「暗黒時代の領主に失礼だぞ」スナーも嘲りの形に唇を歪めた。「あの時代はそれが普通で、しかも精一杯だった。子供並みの失敗をする大人と、精一杯のことをする子供を、結果だけ見て同列に扱うのは感心しない」
やりとりを聞くフィオナは平静を装っていたが、複雑な感情の翳りが微かに顔色に出ていた。彼女の故郷である王国には封建制が極めて強い形で残っており、その父は伯爵として五つの村と一つの都市を統治している。グレイラン伯爵はスナーが実際に見たところでは慈悲深く良心的な領地経営をしていたが、封建制を廃止した共和国や封建制を漸減しつつある帝国の制度に比べれば、効率も悪く民衆にも厳しい制度下の権力者であることに変わりはない。その不公正と不合理の恩恵を受けて健やかに育って今日を迎えたことを自覚するフィオナには、封建領主への批判はどこか耳の痛いものがあるのだろう。
一行は村を貫いて続く街道をそのまま進んでいく。街道は耕地に隣接しており、収穫の時期が迫る貧弱な麦畑で、悲しげな顔をした農夫達が冬小麦の状態を調べたり雑草を毟り取ったりと実り少ない畑仕事に喘ぐ姿が見えた。スナーは彼らの苦闘が空しいものであることを知っていた。試みに星幽的に眺めてみたところ、この一帯の土を構成する星幽光は極めて粗悪で、植物の生育に資するところが乏しいのであった。魔法的な解決法を求めない限り、どうにもなるまいと思われた。
家畜と肥料と土が織り成す農村独特の臭いが風に乗って一行を撫でる。スナーは幼い頃に嗅ぎ慣れた臭いに懐かしさと忌々しさを覚えた。
さして長くもない距離を更に進んで、居住区域に当たる中心部に到着した。村の中心部は外から眺めた以上の暗鬱に彩られていた。風景が色褪せ、灰色に見えてくる錯覚すらあった。人影はあまり見られない。大半が畑に出るか、屋内で作業しているのだろう。井戸端には実年齢より老けて見える疲れきった主婦達と、いずれ疲れた主婦になるのであろう村娘が何人か集まり、暗い顔で面白くもなさそうに立ち話をしている。擦り切れて色褪せた衣服はつぎはぎだらけで、帝都の貧民窟の住民を思い起こさせる。
スナーはこういった人々の心の中に渦巻くものをよく知っている。星幽体を見るまでもなくわかる。死にゆく村に嫌気が差し、新天地を目指したいと思っているが、他所の土地で生計を立てる望みもないため叶わず、その場所で一生を終えねばならない現実を恨んでいるのだ。彼らのような生活をする人間の心の大部分は不満と怨嗟と嫉妬と恐怖で占められている。
主婦の一人が冒険者達に気づいた。女達がスナー達に不安と興味の入り混じった目を向ける。若く、逞しく、美しい、と世の女達を惹きつけるに十分すぎる半神めいた姿に小麦色の肌という異文化の彩りを加えた荒野エルフ戦士のラシュタルや、気品に満ちた中性的な美少年剣士のようにも見えるフィオナに熱い視線を送る娘もいた。魔術の影響を長年受け続けたことが見て取れるスナーの杖に目を留めて磔架印を切る悪い意味で信心深そうな老婆や、闇エルフに纏わる恐ろしい迷信に囚われているのかアルンヘイルに恐れの視線を向けて赤ん坊を守るように抱き締める若い母親もいる。こういう人々は、御子教会の聖典にある「呪いをする者は災いをもたらす者である」という文句を無邪気に信じ、闇エルフは嗜虐的な性質を持っていてしばしば子供を攫って虐待するという伝説を信じているのだ。或いは、無知無学な田舎者の分際で生意気にも、魔術師が本格的に魔術を行使する際にいかなるおぞましい触媒を用い、魔術の失敗が招く星幽光の混乱が如何に恐ろしい災いをもたらし、人間の街に姿を現すことの少ない闇エルフが捕らえた敵を如何様に処するかを知っていて、恐れているのかもしれない。教会が長年かけて流布した魔術師が魔術の実験台を求めて子供を攫うとの噂――これは半分ほど真実を示しているが――を信じ込んでいる者もひょっとするといるだろう。
フィオナは周囲を見回したが、宿の看板らしきものを発見できなかったようで、女達に声をかけた。
「失礼、ご婦人方」
明らかに女のそれとわかるアルトをフィオナが発した時、彼女に熱い目を向けていた女達は、落胆の溜息をつく者と、憧れの眼差しを向ける者とに分かれた。
「なんか用かね、旅人さん」
老婆が猜疑心と警戒心の滲んだ顔で答えた。南部訛りの大陸共通語だった。フィオナの共通語も帝国人には耳慣れない王国訛りが入ったものだが、改めて聞き比べてみると、老婆との育ちの差のせいか、はたまた国家の歴史の差のせいか、フィオナの言葉は耳慣れた帝国系共通語よりも却って格調高くスナーには感じられた。
「旅籠の看板が見当たらないのですが、どこに行けば宿泊できますか」
「村長さんに訊きな。村長さんはあっちの立派な家に住んでるから。でなきゃ教会の司祭様に聞くこった」
老婆が指し示した先には、大きさだけは一人前の、村内で唯一二階がある石造りのボロ家が寂しげに建っていた。
老婆に丁寧に礼を言い、フィオナはスナー達の許に戻った。フィオナは仲間達に老婆から聞き出したことを伝えた。
「こういう時は、村長の館か、旅人用の宿、そうでなければ教会に通されるものだが、こんなろくに旅人も通らないような村の宿など、想像するのも嫌だ」
スナーは渋面で言った。彼は今までの酷い宿の数々を思い出していた。辺境の寒村に良い宿があった験しがなかった。そういう所は旅人の来訪など想定していないことがほとんどだから、そもそも人が中で過ごすための環境が維持されていないもしばしばだった。物置として使われているのはまだよい方で、酷いと家畜小屋になっていたり、鼠や害虫を主とする廃屋のようになっていたりすることもあった。何気なく手をついた所に家畜の糞があった時など、火炎の魔術で村ごとなかったことにしてやりたくなったものだった。
ラシュタルが馬鹿にするようにスナーを見た。
「壁と屋根があれば十分だ」
「そうね」歴戦の傭兵らしくアルンヘイルが同意を示してから、「でも」と付け加える。「私は清潔で過ごしやすい方がいいわ。村長の家に泊まれないか、訊いてみようかな。流石に村長の家が豚小屋ってことはないだろうし」
スナーは大真面目な顔で何度も頷いた。
「是非そうしてくれ。せめて人里にいる間は人間的な生活をしたい」
ラシュタルが鼻を鳴らした。
「お前は軟弱すぎる。それに贅沢だ」
「不毛の荒地で快適に暮らせる種族とは、やはり話が合わないな。近くて遠い隣人とはよく言ったものだ」
「三人とも、お喋りはそのくらいにして、村長殿の家に行きますよ」
フィオナが軽く手を叩き、村長宅に向かう。スナー達は言い合いを中断して彼女の後を追った。
村長宅を訪ね、フィオナが風雨と歳月で変色した木扉を叩くと、四十路ほどかと思われる表情の暗い痩せた女が恐る恐ると言った体で顔を出した。粗末な服を着ているが、井戸端の女達とは違い、つぎはぎはない。この村では立派な身形と言える。
「どなた?」と訊いた直後、女はフィオナが腰に佩いた見事な剣を見て驚き、アルンヘイルの浅黒い美貌を見て驚き、ラシュタルの巨躯を見て驚き、スナーの杖と徽章を見て驚いた。顔を落ち着きなく動かし、一行を見つめている。
「我々は冒険者です。私は頭のフィオナ・カルミルス或いはリッヒディート」
フィオナが穏やかに名乗り、冒険者組合の正組合員証を見せた。冒険者組合の正組合員の身分は、帝国内では皇帝軍の下士官程度の信用度を以て通用する。
女は冒険者組合の正組合員証を見たことがないのか、鏡のように磨き抜かれた金属札を物珍しげに眺めた。フィオナは女が視線を上げるのを待ってから証をしまい、仲間達を紹介する。
「後ろにいるのは順番に、夫で魔術師のスナー、仲間のラシュタルとアルンヘイル。我々は宿を探しています。村のご婦人に訊ねたところ、村長に訊ねればよいと教えてもらいました。村長に取り次いでもらえませんか」
女は信じられないものを見たような顔をしていた。ただしそれは、フィオナとその仲間達の名前を知っていて驚いたのではなさそうだった。どちらかと言えば、冒険者という野蛮人とは思えない丁重な態度に驚いたようだった。
「……ご婦人?」
「今、夫を呼んできますから、少し待っていてください」
「ありがとうございます」
村長夫人が奥に引っ込んだ。
少しして扉が開き、五十歳ほどの頭の禿げ上がった男が出てきた。肌は帝国人にしては浅黒く、顔立ちも無骨だ。もっと南、たとえば暗黒大陸と直接の交流のある湾岸都市地帯やイスパン公国辺りの血が入っているのかもしれない。暗黒大陸の黒人達の血が直接入っているわけではなさそうだ。こちらは村長夫人とは違い、帝都の大通りを歩いても警察兵に追い払われずに済む程度には身綺麗だ。この村に限って言えば、貴族の格好と言える。この男が村長なのだろう、というスナーの予想は男の言葉によって裏付けられた。
「俺が村長のモイロ・スメイスだ。あんたらは宿を探しているらしいな」
村長は横柄な態度でつっけんどんに言った。スナー達の来訪を知って驚いた様子はない。この村長も彼らのことを知らないようだった。村長は物珍しそうに無遠慮な視線をラシュタルとアルンヘイルに注いでいる。
「はい。代価は支払います。宿をお借りできませんか」
顎鬚をつまんで応じた村長は、値踏みするように一行をねめつけた後、畏れるような視線をスナーに向けた。
「そいつは魔法使いなんだろう。魔法使いを泊めるのはな……」
「神罰が下る、か」スナーが殊更馬鹿馬鹿しそうに笑い飛ばす。「迷信だとも、そんなものは。もし神々にそんな意思があれば、魔術学院など、古のバラブイル塔のように打ち砕かれているはずだ。旅籠も残らず廃業だろう。してみると、少なくとも学院出身の魔術師の存在は神々の承認を受けていると見ていい。そうじゃないか、村長殿。皇帝陛下も我ら魔術師を召し抱えておられるんだぞ。神々に祝福された至尊なる皇帝陛下がだ」
「……もっともでは、ある」そこで言葉を切り、勿体ぶる風に考え込んだ。ややあって口を開く。「いいだろう。大銅貨五枚でうちに泊めてやる。夕食も出してやるが、魔法使いと一緒に食事をするのは御免だ。部屋で食ってくれ。旅人小屋なら、食事付きで大銅貨二だ」
こんな寒村の、しかも旅籠でもない場所の宿泊代金としてはやや割高と言えたが、ぼったくりだと騒ぎ立てるほどでもない。要するに需要と供給の問題だ。買い手の立場からすると、悪い意味で絶妙の価格設定と言える。スナーはさりげなくアルンヘイルの顔を窺った。気づいたアルンヘイルは肩を竦めた。会計係は、好きにしろ、と言っているのだ。
スナーはフィオナより先に口を開いた。
「それぞれどんな部屋かな、村長」
「うちのはベッドが一つある部屋で雑魚寝、小屋は床で雑魚寝だ。嫌なら教会にでも行くんだな。村の中で野宿するのは許さん。そんなことをしたら、兵隊に言って、追い払わせるからな」
村長がやや怯えたように、だがその怯えを隠そうと虚勢を張るように、尊大な態度でスナーに説明した。魔法使いが畏れられるのは、無知と無学が蔓延る辺境の地ではよくあることだ。
「小屋はよく使うのか」
スナーは質問を続けた。
「年に一度使うかどうかだ」
「なるほど。あなたの家を見せてもらっても?」
「先に金だ」
「部屋を見て納得がいかなかったら返金してもらえるんだろうな」
「……なら、二枚だけ先払いだ」
アルンヘイルが拒否と交渉継続の目配せをしたがスナーは無視した。
「よろしい。見せてもらうとしよう」
村長は無言で毛深い手を差し出した。
スナーはフィオナに促した。フィオナは苦笑し、腰の小銭入れから大銅貨を出して村長に手渡した。
「……確かに」村長は両替商のように念の入った手つきで銅貨を確かめ、ポケットにしまって、顎をしゃくった「入りな」
「ありがとうございます」
フィオナは村長の勧めに応じて玄関を潜った。スナー達もその後に続いた。
「部屋を見せる前に少し話がある」
村長が横柄に言った。
「話とは?」
「少し長くなるから座って話そう」
フィオナの問いに村長はそう答えるだけだった。
そうして一行は客間に通された。大きなテーブルの前の椅子に腰を下ろした村長は、スナーを除く冒険者達にもテーブルを囲むよう言った。魔術師であるスナーには椅子だけを示し、テーブルから少し離れた場所に座らせた。
村長はコートを脱がず手袋を外そうともしないスナーに不快そうな視線を向けたが、スナーが魔術上の理由があると先んじて断るとこの件を持ち出そうとはしなくなった。
「おい、何をしとるんだ。早く飲み物を持ってこい」
荷物を床に置いてスナー達がそれぞれの席に着くと、村長は居丈高に妻に命じた。妻は忠実な召し使いのように台所へ向かった。目の前でその様子を見せられたフィオナが露骨に、アルンヘイルが微かに、顔を顰めた。ラシュタルは相変わらず無関心が窺える無表情のままだ。
「それで、村長、我々に話があるとのことだが、いかなる用向きか」
仲間達の様子を見て、自分が窓口となった方がよさそうだと判断し、スナーは会話の口火を切った。仲間達もそれを察して――ラシュタルは最初から会話に加わる気もなさそうだった――彼に主導権を一時委ねた。
「少し長い話になる」村長はぶっきらぼうに答えた。「酒が来てからにしよう。ところで、あんたらはどこから来たんだね」
「『広く深い迷宮』からだ」
「『広く深い迷宮』と言うと、あの地下迷宮の上に造られたとかいう街のことか」村長は酷く興味をそそられた様子で、卓上に心持ち身を乗り出した。「街中のあっちこっちに迷宮の入口が開いているっていう話は本当かね」
「本当だ。今のところ、百と少しだったかな。目を瞑って歩いても、どこかしらの入口に着くほどだ。しかも、時々、新しいのが見つかる。迷宮の中で更に別の迷宮の入口が見つかることもある」
「あんた達はそんな所で暮らしているのか。中には化け物共がうようよしているんだろう。ごろつきや妖術師なんかも入り込んでいるって聞くぞ。よく平気だな」
「迷宮の口から連中が出てくるんじゃないか、という話かな」
「そうだ。ろくでもないのが出て来ないのか」
「時々そういうこともあるが、発見された入口の周りには監視所が作られるし、組合の警備兵が守りに就くから、基本的には大丈夫だ。ほとんどはそこで撃退できる」
「でも、地面の下は化け物の巣なんだろう」
「地面を掘ると地下迷宮がよく口を開ける」
「それじゃあ、寝ている間に床下から出てきた化け物に喰われちまわないか」
村長は恐ろしそうに言った。
「土地は慎重に選ぶから、まずそういったことにはならない。もっとも、貧乏人や変わり者は止むを得ぬ事情や好みからそういう場所を選ぶものだが。通りも、そこまで配慮されていない部分もあるから、運が悪いと道を歩いているだけで迷宮に真っ逆様ということもあり得る」
スナーは脅かすように語った。田舎者をからかうのが楽しくてならなかった。
村長は化け物を見るような目をした。
「信じられん連中だ」
「お酒をお持ちしましたよ」
木製のトレイに陶杯を載せて村長夫人が戻ってきた。
「遅いぞ。さっさと並べろ。何をしとる」
村長が苛立った様子で妻を叱責した。村長夫人は文句一つ言わずテーブルに杯を並べてから、恐る恐るスナーにも手渡した。杯から癖のある香りが立ち上り、鼻をついた。水で薄めた蒸留酒に消毒効果のある香草を漬け込んで作る香草酒の匂いだ。水の質が悪い地域では、水分は大抵これか麦酒で補う。
スナーは口をつける前に全員の分をよく観察した。辺境である上、敵地に等しい場所に乗り込むとあって、彼らは警備兵に接触する前に毒除けの魔術を使用していたが、念には念を入れておくべきだった。古来、英雄は毒か油断で命を落とすものと相場が決まっている。英雄ならざる身ならば、尚更警戒を要する。
星幽的に眺めても、毒物の類はこれと言って検出されなかった。世の中には錬金魔術や附与魔術で偽装された星幽的に感知困難な毒物もあるが、そういったものは農民が簡単に用意できるものではない。懸念されるのは妖術師が一枚噛んでいることだが、スナーは仮にも――他に有力候補がいなければ――大博士に選任され得る実力者である。そうそう欺かれることはない。ひとまず、安全と判断して良さそうだった。
毒見役の責任として、彼は最初に口をつけた。縁のざらついた感触が唇を苛み、口の中に薬臭い苦味が広がった。あまり質の良い酒ではない。同じ香草酒でも、質の良いものには薬臭さがないのだ。
スナーが口をつけるのを見て仲間達もめいめい杯を取った。ラシュタルとフィオナが一息に飲み干し、アルンヘイルが猫のように少しずつ啜る。
杯を掌で弄びつつ、スナーは村長を見据えた。
「さて、話を聞かせてもらおう」
村長はおどおどと視線を逸らし、土壇場になって躊躇いを見せた。魔術師の星幽的感覚は、村長の星幽体の様子から彼が何かを隠そうとしているらしいことを読み取った。
村長が考え込んでいると、それまで黙って給仕に徹していた村長夫人が、溜まりかねたように口を挟む。
「あなた、あのことを冒険者さん達に頼むんじゃないんですか」
「お前は黙っとれ。話をするもしないも俺が決めることだ。口を挟むな」
村長は夫人を怒鳴りつけ、盛大に舌打ちした。それを見て、フィオナとアルンヘイルが不快そうに表情を小さく歪める。
「でもあなた、この人達、とっても強そうですよ。今までの人達みたいには――」
「黙っとれと言っとるのがわからんのか、馬鹿者め! また殴られたいか!」
とうとう我慢の限界に達したようで、癇癪を起こした村長をなだめると言うよりは一方的に虐げられる夫人を庇うように、フィオナが割って入った。
「村長、あまり奥方に厳しく接するものではありませんよ。夫婦とは――妻は夫に仕えるものとは言いますが――愛し合い、支え合うものであると御子も仰っているではありませんか」
「いいえ、お嬢さん、私のことは気にしないで……この人、ちょっと虫の居所が悪いだけだから……」
「ですが――」
『フィオナ、やめておけ』とスナーはフィオナの肩に手を置き、思念交信技法を用いて彼女の意識に声なき声を送った。『下手に庇っても夫人の扱いが余計に酷くなるだけだ』
食い下がろうとしたフィオナは半眼になり、刺すような眼差しでスナーへの反発を示したが、スナーが重ねて首を振ると、悔しそうに唇を引き結んで引き下がった。
会話に不自然な沈黙が生まれた。
隠し事を暴く絶好の機会と見て取ったスナーは、これこそが今回の依頼を果たす鍵ではないかと睨み、新たな会話の口火を切った。
「ところで、村長夫人。あのこととは?」
「……今話そうと思っとったところだ」
村長が渋面を作って長々と語り出した。
曰く、冒険者や旅人が近郊の森を調査しに向かった後、行方不明になる事件が半年ほど前から何度か起こっている。最近は村人にも被害が出始め、三日前に度胸試しをすると言って森に出かけた三人の少年がまだ戻ってきていない。森には怪物の伝承などはなく、領内の亜人達は件の亜人狩り運動の折に怪物達と一緒に絶滅している。原因は見当もつかない。もしかすると、森の生き物が魔法変異を起こしたのかもしれない。
「なるほど。森に野盗や魔物の類が潜んでいるかもしれないのですね」と頷き、フィオナはじろりと村長を睨んだ。「しかし村長、その割には領主が動いた様子がありません。それはなぜですか。通報しなかったのですか」
フィオナの態度は村長の怠慢を責めるものだった。スナーはそれを横目に、フィオナが余計なことを口走らないよう神ならぬ何者かに祈った。村長とつまらない諍いを起こすと面倒だし、何より、彼らが冒険者組合支部から請け負った仕事を知られるわけにはいかない。一行の頭脳であるスナーとアルンヘイルは、経路として考えられる全ての村と都市に容疑を認めている。どこかの共同体が彼らを害したのかもしれない。調査のほんの手始めに過ぎないこの村にも嫌疑はかかっているのだ。
「それはその、だな……伯爵様にご報告するほどのこともないと……」
「駐屯兵は何も言わなかったのですか」
「連中と相談して決めたんだ」
つまり兵士達も村長とグルだったのだ。村の子供の失踪を報告したとしたら、明らかな異常があったにも関わらず森を放置していた責任を問われることになると見て、村長と兵士達は揃って事態の隠蔽を図ったのだろう。或いは、いずれ報告する気はあるが、まずは言い訳を考えるつもりでいるのかもしれない。
つまるところ、村長が示した躊躇いの原因は事の露見を恐れてのものだったようだ。だが、それにしては解せないことがあった。一つは、以前にも冒険者を派遣したくせに、なぜか今はそれを渋る様子を見せていること。そしてもう一つは、スナーの見るところ、村長がまだ何かを隠しているらしいこと。スメイス村長はまだ全てを語っていない。彼の頭の中にはスナー達への悪意があり、何らかの計略が鎌首をもたげていた。それと共に、いくつもの対象に対する大小の恐怖が混乱気味に精神に纏わりついてもいて、その対象には明らかに彼らが含まれていた。
その隠し事は普通のやり方では決して明かされまい。しかしながら、普通でないやり方を用いるのは難しかった。フィオナの手前、拷問などは論外であり、自制心抑制の魔術や「秘密の告白」などを用いた魔術的尋問も背後に魔術師が潜んでいる可能性がある以上、避けた方が無難だった。
フィオナがむっとした様子で村長を睨む。
「どうしてそのような勝手な判断をするのですか。あなたがきちんと領主に報告していれば、被害が拡大することもなかったかもしれませんよ」
ともあれ、今は考えを巡らすよりも、フィオナを止めることが先決だった。これ以上村長を刺激するのもまずい。
「フィオナ、政治は難しいんだ。管理する側には管理される側にはわからない苦しみがある」こういう物言いが村長の気に入るだろうとの考えから、敢えて更に続ける。「女にはわからないかもしれないが」
狙い通り、畏怖すべき魔法使いの助け船は、村長の男尊女卑的傾向と虚栄心を満足させたようだ。村長が我が意を得たりといった顔になった。
「……出すぎたことを申しました」と不服そうな顔で呟き、フィオナは話題を替える。「村長、事態は急を要するのではありませんか。その森とやらはどこにあるのです」
「……南西に三キロメートルばかり行ったところだ。村の端に立てば薄ら見える」
「三キロメートルと言うと……ええと……」
大陸とは白泡海で隔てられた王国本土で生まれ育ったせいか、もう何年も帝国で過ごしながらメートル法に今一つ慣れることができず、またどうやら慣れる気自体も乏しいらしく、ついつい王国度量衡で考えてしまいがちな王国貴族の令嬢は、自身が親しむ度量衡への換算に苦心しているようだった。研究の必要上から各国の度量衡を自在に使いこなすスナーは、頭を捻るフィオナに助け船を出してやる。
「一キロメートルはおよそ八分の五王国マイル、ラーク大帝公園の南北の長さだ。三キロメートルは、大雑把に言えば、二マイル弱だな」
「ありがとう、スナー、助かりました。南西に二マイル……わかりました。大した距離ではありません。すぐに出発するとしましょう」
「い、今からか。それは……」
「何か不都合でもあるのですか」
「まあまあまあ、待て待て待て、フィオナ・カルミルス」
ふと思うところがあり、スナーは二人の会話に割り込んだ。
「むう」と唸り、フィオナが視線で先を促してきた。
いかにも面倒臭がっている風な態度でスナーは続ける。
「こう言ってはなんだが、所詮行きがけの事件で、しかも私達はようやく一息ついたばかりだ。そこまで真剣になることもないだろう。それにまだ報酬の話もしていない。とにかく、君はいろいろな意味でせっかちだ。報酬の話をして、一休みしてからでもいいだろう」続いて村長を見る。「そういうわけだ、村長、差し当たり、報酬の話をしよう。我々の会計係と話をしてくれ」
「お金の話は私とね、村長さん」
アルンヘイルを不愉快そうに眺め、村長が鼻を鳴らす。
「言っとくが、あまり出せんぞ」
「いくらなら出せる?」
「そうさな……大銅貨三十枚以上は出せん。勿論後払いだぞ。先払いして持ち逃げでもされたら堪ったものじゃないからな」
大銅貨三十枚以上出せない。スナーにはそれが偽りであることがわかったが、アルンヘイルにそれを知らせる必要は感じなかった。
「そう。なら銀貨半枚とここの宿代タダで手を打つわ」
フィオナが咎めるような眼差しを向けたが、アルンヘイルは意に介さなかった。
「どうかしら」
村長は怒りを通り越した戸惑い顔で強かな半闇エルフを見た。
「おい、俺の話を聞いてなかったのか。俺は三十枚以上出せんと言ったんだぞ。その長い耳は飾りなのか、ええ?」
「大抵の奴は自分が言った額の倍くらいは払えるものよ。大銅貨五十と少しくらい出るでしょ」
村長は言葉にならない呻きを上げて黙った。
ラシュタルは無関心を貫いて茶を啜り、フィオナと村長夫人は不安そうに二人のやりとりを眺め、スナーは冷ややかに村長を観察している。
アルンヘイルが容赦なく畳みかける。
「言っとくけど、私達は正義の騎士様じゃないんだからね。見合った報酬がなかったら何もしないわよ。勝手に困って勝手に死になさい」
「それにしたって、銀貨半枚で……しかも宿までタダにしろだなんて、足元を見すぎだ」
「同じ言葉そっくり返すわ。冒険者が何人か消えてる森に行かせるのに、報酬が四人で大銅貨三十ぽっきり? 冗談じゃないわ。ふざけてるの? 四人じゃ一月の食費にもならないじゃない。本当ならその倍は欲しいとこよ」
アルンヘイルは言葉を切り、村長の顔をじっと見た。村長は忌々しげにその視線を受け止めた。
「でも」とアルンヘイルは続ける。「確かに、この程度の仕事で、半銀貨で宿代なしは流石に吹っかけすぎよね。報酬は宿代込みの大銅貨四十、前払い分として宿代、でどうかしら。その辺が落としどころってものじゃない、お互いに。口止め料みたいなものが入ってると思えば、少しは安心できるでしょ」
「……まあいいだろう。ただし、それで決まりだからな。何があってもそれ以上出さんからな」
「こっちこそ、何があってもそれ以上負けないからね」
村長のこめかみがひくつき、唇と頬が震えた。
「はい、決まりね」アルンヘイルは涼しい顔で村長に掌を出した。「まずは先に渡した宿代返して。大銅貨二枚よ」
「何をへらへらしとるんだ!」
村長はただ座っていただけの妻を理不尽に怒鳴りつけると、ポケットからさきほど受け取った銅貨を引っ張り出し、乱暴に卓上に放り出した。
村長の無礼で粗暴な態度にフィオナが眉を顰めるが、半闇エルフは深みのある微笑みを浮かべたまま、わざとらしく一枚一枚数え上げて銅貨を取り、フィオナに渡した。フィオナは共有の財布に銅貨を戻した。
「話も纏まったことだ。茶会はこれでお開きとしてはどうかな」
頃合と見てスナーは一同に言った。
「む、そうだな……これ以上話すこともない」
「では村長、部屋を見せてもらえるか」
村長が席を立った。
「ついてこい」
一行が案内された部屋は一階の空き部屋であった。四人用の大きな藁ベッドと小さなテーブルが一台ずつ、それに椅子が二脚あるだけで、他には何もない殺風景なものである。だが、少なくとも掃除はある程度為されていたようで、閉めきられていて空気が淀んでいることと多少埃っぽいことを除けば、快適に過ごせそうだった。害虫の気配もしなかった。神経質な魔術師は壁の染みやひび割れ、床板の軋みなどが気になったが、これ以上を望んでも仕方がないことも承知だったので何も言わなかった。
絨毯を踏み締めたラシュタルの足元で一際高く床板が軋むのを聞いて顔を顰めた村長は、あまり動き回らないようにと荒野エルフの偉丈夫に釘を刺し、居間に戻っていった。
村長が去り、彼を警戒する必要が消えると、戦、名誉、女、飲食、武具、英雄譚くらいにしか興味のないラシュタルを除く二人が、スナーにそれぞれ別の思いの籠もった眼差しを向けた。フィオナの蒼海の瞳には疑念の色があり、アルンヘイルの黒曜石の瞳には期待の色があった。
フィオナが先陣を切った。
「スナー、どういうつもりなのです。さきほどは合図があったので引き下がりましたが……きちんと説明してもらいますよ」
彼らの間には秘密の合図がある。「二つの言葉を三回ずつ繰り返し、氏名で呼びかける」というものである。この合図を出された場合は、状況を問わず、出された者が相手に従う取り決めになっている。
「ちょっと待て。秘密を確保してからだ」
普段から張り巡らせている星幽的障壁は何の反応も示さないが、スナーは念のために星幽的監視の有無を確かめた。特に感知されなかった。続いて遮音の魔術を発動し、範囲空間内外の音のやりとりを遮断した。
「ラシュタル、いつものように見張りを頼む」
ラシュタルが魔術による音の遮断幕の境目に立った。
「これでようやく話ができるな」さりげなく椅子を確保し、フィオナを見る。「で、なんだったか」
「まず私の質問に答えてください。いくつかありますが……」
「質問は一つずつ順番にな」
「ではまず、どうしてあのようなこと、そう、森の調査の延期など言い出したのです」
「怪しいからだ。有り体に言えば、この村こそが失踪事件に関与しているんじゃないかと疑っている」
「ああ、やっぱりあんたもそう思ったんだ」いつの間にかベッドの端に腰を下ろしていたアルンヘイルが表情を明るくした。「怪しすぎるもんね。よかった、気づいたの私だけじゃなくて。これなら説明はあんたに任せてもいいよね」
「……あの、話がよくわからないのですが」
座って寛ぐアルンヘイルとは対照的に、フィオナは立ち尽くしたまま戸惑った様子を見せた。海の色をした蒼瞳では疑問符が舞踏会を開いていた。
「そうか、一から説明しないと駄目か。そういえば、君は頭脳労働が苦手だったな」
「私が愚かだと言いたいのですか」
「邪推だ。物を考えるのが苦手なんだな、と言っているだけだ」
「それはつまり……」少し考え、気づき、憤慨する。「そういうことなのではありませんか!」
「まあ、それはそれとして、座ったらどうだ」
フィオナが顰め面で椅子に腰かけた。
「よろしい。疑問にお答えしよう。簡単な地理のお話からだ。村長の話によれば、森へは三キロメートル、一時間行程ほどの距離もない。街道を使うことを考えても、二時間行程はない。かなり近い」
「……ああ、なるほど、わかりましたよ」フィオナがようやく納得した様子で瞳を輝かせた。「スナー、あなたはこう言いたいわけですね。それほど近くに脅威が存在しているのに村長が領主に頼らないのはおかしい、と」
「そうだ。人など滅多に来ない辺境だ。頼るとしたらまず領主だろう」
「でも、相手を刺激したくない、という考えは成り立ちませんか。そうでなければ、問題を隠して責任逃れをしたい、とか……」
「事なかれ主義なら最初っから冒険者なんて送らないわよ。なるべく動こうとしなかった――いい方にも悪い方にもね――イルアニンの組合見たばっかりだからわかるでしょ。逆に責任逃れなら、さっさと何とかしてほしいからってもっと積極的に頼るでしょうよ。まあ、これ以上ちょっかいを出すと容赦しない、なんて脅されてるってことがないとは言わないけど、そうなったらもう連中の一味も同然よ。どっちみち信用できない」
アルンヘイルの顔には、馬鹿なことを言うな、と大書されていた。
「……そう言われればそうですね」フィオナは思いつきをあっさりと否定されて憮然としたが、また何か思いついた様子で口を開いた。「では、村が領主や軍を信用していない、というのはどうでしょうか」
スナーは片眉を吊り上げてみせ、先を促した。
「ですから、言ったところでどうせ動かない、動いたところで本腰を入れてはくれず、脅威である何者かを刺激して悪い結果を招くだけに終わってしまう……そう考えているのではないでしょうか。それならば、冒険者には頼る、ということの説明がつきますよ」
「もっともな話ではある。確かに帝国は……特に南部と西部は平和すぎてそこかしこから腐臭がするから、信用できないのも無理からぬことだ。それに、余程気をつけていない限り、どうしても組織という巨大な生き物の動きは、鈍く、目立つものになりがちだ。この活力のない村の住民が、無気力な諦観に囚われていたとしても不思議はない」
「とすると、もし我々だけで対処ができないようであれば、軍か領主を動かすに足るだけの証拠を組合に持ち込まなければなりませんね」
「証拠を組合に持ち込むことに関しては同意するが、村民が領主を信用していないから、という点は支持しかねるな」
「え、ですが、あなたはさきほど、もっともな話だ、と……」
スナーの言葉が余程意外だったのか、フィオナは目を瞬かせた。
「前提条件を無視して単に理屈として見るならば筋は通っている、という意味で言ったんだ。前提をきちんと見直せば、単なる諦観の蓋然性は低い」
「前提とは?」
「繰り返しになるが、なぜ村長は俺達に依頼するのを渋ったんだ。夫人が口を挟まなければ、村長は結局言い出さなかったかもしれないぞ」
「それは……」少し考えてからフィオナが答える。「経済的な事情ではありませんか。この村は豊かには見えません。冒険者を雇うお金も馬鹿にならないでしょう」
「それはないって」アルンヘイルがスナーに代わって答える。「あんた、あいつの服見なかったの? あんな服着てる奴が貧乏なわけないでしょうが。それに報酬は後払いよ。無駄金遣わされる破目にはならないから、その辺の心配も要らない」
「付け加えれば」とスナーが言葉を継ぐ。「俺達の実力を疑ったというのも考えにくい。夫人は俺達をとても強そうだと言った。夫人がそう思ったんなら、村長もそう思ったはずだ。解決を望むなら、躊躇うことなく後払いで俺達を送り出そうとしただろう。あれはそういう人間だ」
難しげな顔をするフィオナにアルンヘイルが笑いかける。
「話を整理するとね、この村――と言うか村長――には、森のことをほっとく理由はないはずなのよ、普通なら。だって、どう考えても危ないでしょ」
再びスナーが解説役の座を取り返す。
「だから俺は、村長には森を刺激したくない理由があるのだと、そしてそれは村が失踪事件に関与しているからに他ならないのだと見ている。もっとも、村長の関与はほぼ確実としても、村全体で意思が統一されているか、つまり村全体が関与しているかどうかには疑問が残る。領主との関係も気になるな」
「それはどういう理由でですか」
「村人が特におかしな素振りを見せなかったことが一つ。村長夫妻が俺達の前で揉めていたことが二つ。そして村人にも被害が出ているらしいことが三つ。村全体や夫婦で猿芝居をしていたんだとしたら大したものだが、ここが農村に偽装した何かの秘密施設でもない限り、それはないだろう。中央の目の届かない辺境、統率しやすい小人数、と条件は整っているから、絶対にないとは言いきれないが。いずれにせよ、考えを拡げていけば、伯爵も容疑者だ。流石に、ミドルトン伯ほどの大貴族が不特定――敢えてそう言わせてもらおう――の冒険者をどうこうするというのは穏やかじゃないが。だからここで考えられる可能性の内、現実的なものは、村の一部の者が関与しているか、村の一部の者が関与している上に方針が分裂しているか、もっと上が絡んでいるか、の三つだ。この内、最も蓋然性が高いのは一番目だが、常に最悪を想定するのが基本だ。ここは村全体が団結して関与している上に大物が黒幕として控えている前提でいこう」
「そうですね。変に油断するよりはその方がよい。疑わしきは敵と見做さざるを得ない、というのは悲しいことですが。とは言え、そもそも、この村が失踪に関与していると決めつけるのは早計ではありませんか。この村に何か後ろ暗いものがあるのだとしても、失踪と無関係の可能性は否定できないのでは? 森に消えたという冒険者はあの二人とは別口なのではありませんか。戻らない冒険者とやらは、単に仕事を放棄して立ち去ったのかもしれませんよ」
そういった疑問もスナーは既に検討済みだった。
「次はその点について答える。この街道の経路に冒険者が失踪するような要因など本来ならばない。それが俺達の前提だ。だから、ここに何かあるんなら、俺達の求める原因である確率が高い。そして、ここに何かあるなら、それは村と関連していると見るべきだ。いくつか例を挙げて考えてみよう。まず森に盗賊なり傭兵なりが潜んでいると仮定する。こんな辺鄙な所で追い剥ぎだけで食っていけるはずがないから、当然、この村にも手を出してくる。それなのに村に異常が見られないということは、村が盗賊に支配されているか、両者がなんらかの形で協力関係にあるか、この村がそもそも盗賊の拠点であるか、のいずれかと考えるのが妥当だ。次に森に怪物や亜人の類が棲みついていると仮定する。森の奥から出てこないおとなしい種類なら問題ないが、村人が失踪しているという以上、少なくともおとなしさは期待できまい。戦闘能力という点から潜在的脅威でもある。しかし、そうだとするなら、やはり村に何の異常も見られないのはおかしい。その場合に考えられるのは、怪物が村に飼い馴らされているか、村となんらかの取引をしているか、村が支配されているか、といったところだろう。いずれにせよ、この村は失踪事件に関与している可能性がある。ゆえに俺はエートン村を明確な敵地と認識して行動すべきだと考えるが、頭殿のお考えはどうかね」
「同じ人間を疑うのは心苦しいのですが……それが最も堅実であることは確かです。それは私も認めざるを得ません。ですが、そうと確定するまで村人に攻撃することまでは認めませんよ」と苦しげに答えた後、冒険者の顔で訊く。「でも、そうだとすると、ますますあの森を見に行かないわけにいきませんね。その点については当然考えてあるのでしょう」
「勿論」とスナーは頷いた。「俺がこれから魔法で確かめる。その結果次第じゃ、明日、依頼を放棄して組合に戻る。理由は適当にでっち上げる。夕食のせいで腹を壊した、とでもな。まあ、怪しまれても困るから、もっともらしい理由を考えておこう」
フィオナが表情を曇らせた。
「取り交わした約束を破るのは気が進みません」
「こっちに悪意を持っている相手との約束はいくら破ってもいいんだ」
「それには同意するけど、あの村長、絶対文句言うわよ。どうするの?」
「宿代に違約金を上乗せして払ってやればなんとかなるだろう」
「それは駄目ね」
「なぜだ」スナーは片方の眉を跳ね上げた。「収支の問題か」
「それもあるけど……宿代は口止め料ってことにしたでしょ。返したら駄目。どうせ向こうも私達が黙ってるなんて信じてないだろうけど、わざわざこっちから、秘密を守る気はありません、なんて態度を見せるのは馬鹿のやることよ。まあ、そうね、宿代を半分ってところが丁度いいんじゃない」
「……確かにそうだな」スナーは顎を撫でた。「その辺りの交渉は君に任せていいか」
「任せといて」
「では、森とやらを見てみるとしよう。ああ、雨戸を少し開けてくれ。ほんの指一本分程度でいい」
視覚投射には光の通り道がある方が都合がよい。それがあれば透視の魔術を併用したり、視覚に高次星幽界を経由させたりする必要がなくなる。
「これでよいでしょうか」
フィオナが言われた通りに雨戸を押し開けた。薄暗かった室内に細い光の帯が射し、漂う埃を照らし出す。
「十分だ。ありがとう」と頷き、向かいの壁を指差す。「そこの壁に映像を投影するから見ていてくれ」
静かに目を閉じ、まずは長年の習慣から星幽的監視や干渉の有無を確かめる。やはり問題はない。指定した壁の辺りの星幽光濃度を操作して投影幕を作り、続いて窓に向かって視覚を投射する。閉じた瞼の下で、風景が、まるで見えないもう一つの肉体が歩くように動く。感知されることのないよう気配を偽装した窃視者の視界は、雨戸のか細い隙間を擦り抜け、屋外に出た。全てが灰色の雰囲気を纏う活力のない村内が映る。視界をそのまま上昇させ、鳥達と同じ風景を眺める。地上を見下ろせば、しょぼくれた作物が精一杯に生にしがみつく農作地と、そこで面白くもなさそうに動き回る数十人の老若男女の姿があった。
典型的な死を待つ村の風景には欠片も興味を示さず、スナーは視界を南西に向けた。人の低い視点とは段違いに、地平線が遠くに見えた。貧弱な褐色の土地と、弱々しい植物、荒れたみすぼらしい街道が一望できるその先には草原と森があった。丈の低い草に囲まれて孤立する森は、子供が描いたような歪んだ円形をしていて、半径は精々半キロメートルほどとあまり大きくない。密生した木々による樹冠に遮られ、上空から中を見下ろすことはできない。周囲をぐるりと回ると、森道が二本口を開けている他、獣道のような隙間がいくつか見つかった。侵入するとなればこのいずれかを選ぶことになりそうだ。
森の内側を探るべく視界を接近させたところで、スナーは星幽界に密やかに構築された強力な結界の存在に気づいた。明確な作為の下に形作られた星幽光の膜が、世界に溶け込むようにして薄らと森を囲っていた。それは物理的な出入りに門戸を閉ざすものではなく、物理的な出入りを感知すると共に、星幽的な出入りと監視を妨げる類のものだ。ある程度以上の都市を囲む結界に極めてよく似ているが、あちらとは違い、複雑な精神魔術の技法が盛り込まれている。投射視覚や星幽的探索に対しては違和感解消の魔術、直接視覚に対しては人寄せの魔術にそれぞれ類する作用が与えられており、星幽的な捜索を掻い潜る一方で、直接の訪問者を取り込むようになっている。複数の魔術体系の知識と技法に精通するか、各系統の魔術師が協同するかしなければ、この結界は築き得ない。明らかに真正魔術の産物だ。酷く強力な――最低でもスナーに匹敵する――学識ある魔術師か、複数の高位魔術師が協力し合って仕掛けたものである公算が大きい。
気づかれずに視覚を忍び込ませるのは難しそうだった。それどころか、これ以上視点を近づけるだけでも危ない。おとなしく引き下がることにし、視覚投射を終えた。
スナーがほっと一息ついて目を開けると、フィオナとアルンヘイルの訝る顔と、ラシュタルの不満顔が見えた。
「なぜ森の中を見ぬ」
一同を代表するように、ラシュタルが苛立たしげに言った。他の二人も同様の疑問を顔に浮かべている。古エルフから分かれ、祖先の偉大な星幽的能力の大半を喪失した荒野エルフ。人間と混血して星幽的能力を鈍らせた半闇エルフ。戦神の祝福で武芸に並々ならぬ適性を示し、魔法からの保護も受けているとはいえ、星幽的能力自体は混血のエルフほどにも鋭くない人間。この中に、間接的な視覚を通してスナーと同じだけの情報を読み取れる者はいない。投影方法を工夫すれば彼らでも読み取れるようにできるが、スナーにそこまで手間をかけるつもりはない。
想定通りの反応を受け、スナーは予定通りに説明を始める。
「あの森には強力な魔術師か複数の魔術師が潜んでいるようだ。結界に守られていて、気づかれずに視覚を潜り込ませるのは難しそうだった。辺境に隠れ潜む妖術師、といったところかな。失踪の容疑者にふさわしいだろう。フィオナ、よかったな、君の懸念は当たりかもしれないぞ」
「学院出の魔術師様より上なの?」
からかうようなアルンヘイルの言葉に、スナーは顔面の筋肉を強張らせて歯噛みした。
「口惜しい限りだが、どうもそのようだ。単純な魔術の知識と星幽的操作能力はきっとあちらが上だ。学院で導師の席を要求する資格がある。もっとも、相手が一人で全てをやったなら、だが」顔の筋肉から力を抜き、息を吐く。「何にしても、慎重を期して、村長を魔術で探らなかったのは正解だった。そんなことをしていたら、森の魔術師に気づかれてしまったかもしれない」
「そんなに素直に認めるなんて……」アルンヘイルの顔から笑みが消えた。「こりゃ油断したら死ぬわね。関わり合いになるのやめない?」
「そういうわけにはいきません」フィオナの顔は苦悩に満ちていた。「まだ妖術師であると決まったわけではありませんが、確認はしないといけないでしょう。ですが、スナー以上の魔法使いの住居に無策で乗り込むのは……」
「魔法使いの住処なのだから、当然、強力な護衛がいるのだろうな。楽しめそうだ」
ラシュタルだけが期待に顔を輝かせていた。
「戦闘狂め……」
スナーは呆れたように吐き捨てたが、彼にも魔術師の住居に乗り込むのを楽しみにしている部分があった。強力な魔術師の住処には、きっと素晴らしいものが保管されているに違いないのだ。
「男にとって戦い以上に愉快なものはあるまい」ラシュタルの顔に獰猛な獣じみた笑みが浮かんだ。そのまま、理解しがたい、といった風にスナーの顔を見下ろした。「分けても、強敵に挑む以上に誉れ高き行為などこの世にあるものか。そのために命を落としたとて悔いはあるまい」
「ねえ、みんなちょっと聞いて」アルンヘイルが危機感に満ちた険しい表情で言った。「やっぱり、これは私達だけでやるべきじゃないわ。あんた達がなんて言っても、私は絶対に反対。せめて組合に頼んで応援を呼ばないと……相手はスナーより強いんでしょ。軍に押しつけたっていいくらいよ」
スナーはくすくすと笑った。
「よく馬鹿にしてくれる割に随分と高く買ってくれているようだな」
「そりゃね」アルンヘイルは不承不承の面持ちで認めた。「あんた、私が今まで一緒に戦った魔法使いの中じゃ一番だもん。あんたと戦うくらいなら逃げるわ」
「それが賢明だ」スナーは上機嫌に頷いた。「しかし、それは丁度、今の俺達にも言えることだな。確かに高位魔術師の住処に挑むには心許無い戦力だ。他の連中を巻き込むと取り分が減ってしまうが……止むを得ないか」上機嫌から一転、難しい顔で嘆息する。「組合と、それから協会も巻き込んでしまおう。この手のことは協会への届出が必須だ。もし無届でやっているようなら、何か適当な証拠を掴んで協会に通報すれば、妖術師の疑いありということで強制捜査に動いてくれるかもしれない」
「では、然るべき組織に報告して対処を頼むとして……討伐に値すると認めさせるための証拠はどうするのです。確証もなしにはいかなる組織も動いてはくれませんよ」
「……それはやはり、俺達が用意するしかないだろうな」
「やめとこうよ」アルンヘイルが嫌な顔をして首を振った。「下手につっついたら痛い目見るわよ」
「その点はおそらく大丈夫だ……と思う」歯切れの悪い口調で答える。「強力な結界と言っても、俺と術者の間に絶望的な差があるわけでもなさそうだ。そこを衝く」
「魔法のことはわかんないからさっさと結論を言ってよ」
女戦士の即物的で直截な態度に魔術師は苦笑した。
「魔法に限らない話だ。君の領分に喩えて説明しよう。要するに、君が本腰を入れて立ち向かわないと勝てない戦士が、捨身で不意打ちしてきたらどうなるか、という話だ」
「最低でも怪我くらいするでしょうね……もしかして、全力で姿隠しの魔法みたいなのを使って忍び込もうってわけ?」
「ご名答」スナーは笑みを深くした。彼からするとアルンヘイルは知識が足りないが、その長年の戦場経験と社会経験に裏打ちされた理解力は評価に値した。「違和感解消の魔術で結界をごまかす」
「それでいけるの?」アルンヘイルは慎重な態度を崩さない。「自信はあるみたいだけど……」
「まだわからない」スナーは率直に答えた。「あくまでも推測の段階だ。詳しく結界や動植物の状態を調べてみないと、はっきりしたことは言えない。もしかすると、きちんと解析すれば視覚投射で探ることができるようになるかもしれない」
「じゃあ、そうするかどうかはその結果次第ってことね」
「ああ。それで駄目そうなら、おとなしく組合に帰って、そのまま報告しよう。もし忍び込めそうなら、いつも通り君に行ってもらう」
「やっぱりそう来るか」アルンヘイルは嫌そうに顔を顰めた。「……嫌よ。怖いわ」
「だが君以外じゃどうにもならないぞ」
アルンヘイルは長い黒髪を乱暴に掻き回した。
「……わかったわよ。わかったって言えばいいんでしょ。一応その方向でいいけど、最終的に決めるのはその時になってからよ。私が無理って言ったら諦めなさい」
「まあ、今はそれでいい。今はな」
「……まあ、今はいいわ。今はね。それで、話を戻すけど、いずれにせよ村長の依頼は断らないとね」
「そうだな」頷いてから、スナーは意外な思いでフィオナを見た。「フィオナ?」
「なんですか、スナー」
「なぜ断るのか、訊かないのか」
フィオナは苦笑した。
「私だってそれくらいわかりますよ」
「なら、説明してみなさいよ」
アルンヘイルが面白がって促す。
「ですから、村長と森の魔法使いが仲間同士かもしれないから、でしょう」
他人をからかうのが好きな半闇エルフはわざとらしく目を丸くしてみせた。
「あら、凄いじゃない。よくわかったわね。賢い賢い」
「それくらいわかります。村長から連絡が届いてしまっては、いくらスナーの魔術が功を奏しても意味がない、というのでしょう」
「そういうことだ。とにかく、これで方針は決まったな。差し当たり、明日まで特にすることもない……いや、村内の情報収集くらいはしておいた方がいいかな。どう思う」
スナーはこの分野の第一人者に視線を向け、見解を求めた。
「やめときなさい。変に嗅ぎ回って怪しまれても面倒だわ。明日、森に何があるのか確かめるだけで十分よ。欲張るとろくなことにならないわ」
「なら、やめておこう」
「この後はどうするのですか」
「そうね……」アルンヘイルが唇に人差し指を当てて考え込む。「特にやることもないし……」
「部屋で待機、というところか」
「いいんじゃない、それで。どうせ楽しいものなんてこの村にないだろうし」投げやりに答えた後、思い出したように言った。「そうそう、言っとくことがあったのよ。言いそびれてる内にうっかり忘れかけてたわ」
「言っておくこと?」
スナーは先を催促した。
「そう、言っとくこと。この村での過ごし方のことをね」
「過ごし方ですか」
「今から言うわ」境目で遮断された音の狂おしい響きに耐えるラシュタルに鋭い視線を向ける。「ラーシュ、あんたもちゃんと聞くのよ」
「わかっている」
渋面を作ったまま、ラシュタルは無愛想に言った。
「いい、みんな。この村は敵地よ。そのことを肝に銘じなさい。まず、村人との接触はできるだけ避けること。それと、いつでも逃げ出せるように、貴重品はきちんと持ち歩かなきゃ駄目よ。装備もちゃんと身に着けときなさい。変に勘繰られないように私は鎧脱ぐけど、フィオナ、あんたのは服の下に隠れてるんだから、重いからって脱いじゃ駄目よ。それから、飲み物と食べ物も要注意。混ぜ物がされてると思いなさい。スナーの魔法で毒は大体防げるけど、油断しちゃ駄目よ。夕食以外はなるべく飲み食いしないこと。どうしても喉が渇いたりお腹が空いたりしたら、自前ので済ませなさい。とにかく、私かスナーの許可なしに勝手に飲み食いしないこと。ああ、それと、言わなくてもわかると思うけど、怪しまれないように、なるべく自然体でいるのよ。特にフィオナ、あんたは気をつけなさい、すぐ顔に出ちゃうから」
「少しは私を信じてください」
フィオナは不平の籠もった目をアルンヘイルに向けた。
「だったら、少しは腹芸ってものを覚えなさい。子供の乞食の方がよっぽど演技が上手よ」
フィオナは言葉に詰まったようで、悔しそうに唇を引き結んだ。
「話は終わったか」
細々とした謎解きに興味のない荒野エルフの勇者が面倒臭そうに訊いた。
アルンヘイルは答えようとして口を閉じ、スナーを見た。スナーは頷いた。
「終わりよ、ラーシュ」
「私の役目も終わりだな。寝る。必要があれば起こせ」
ラシュタルは当然のような顔でベッドに上がった。人一倍の巨躯がベッドの中央を占領してのびのびと手足を伸ばしたせいで、他の者が入る余地がほとんどなくなった。
「もう、こいつはこれだから……」アルンヘイルが苦笑し、寝転がる恋人を眺める。恋人は早寝息を立て始めていた。「私は依頼を断る言い訳でも考えとくわ」
「では私は――」
「君は俺と勉強だ」フィオナの言葉をスナーが遮る。「記録宝珠に今日のことを記録し終えたら、夕食まで数学と度量衡を教えてやろう。農民の夕食は日没前だろうから、大して時間がなくて申し訳ないが」
「勉強ですか……」
「ご不満かな、フィオナ嬢」
「私はあまり学問が好きではないので……そうだ、沢山歩いて疲れているでしょう。マッサージなどはいかがです」
「そうだな、夕食後にでもお願いしよう。魔術でも筋肉はほぐれるが、人の手でほぐす方がいい」提案には取り合わず、わざとらしい目つきで窺うように見る。「ところで、魔術学院の真銀時計組の授業を無料で受けられるなど、学資や時間の問題で学問を断念した連中からすれば、羨ましい限りだと思うんだが……君もよく知っているだろうが、皇帝から記念の時計を親しく賜ったほどの学識者の個人授業など、そうそう望めることじゃないぞ。何しろ、前年度に博士号を得た者の中から、各大学の各学部につき一人ずつしか選ばれないんだからな」
「わかりました」フィオナは沈鬱な顔で、力なく呟いた。「ありがたくご指導をお受けします、先生」
「よろしい。準備をするから少し待っていろ。俺の手が空くまでは字母表の書き取りでもしているといい。帝国式共通語と古典語、両方ともだぞ」
スナーは荷物から小さな黒板と白墨を取り出した。一式をテーブルに置きながら、彼はふと奇妙な気分になった。元々は作戦会議に役立つとのアルンヘイルの勧めで持ち歩くようになったものだが、実際はこうして仲間達への授業にばかり使っているような気がしたのだ。
始まる前から辟易した様子のフィオナに思わず失笑しかけた時、自分が魔術師として極めて危うい失敗をしていたことに気づいた。まるで魔術を覚えて少し時間が経ち、特に失敗もなく過ごしたがために当初の謙虚さを失った中堅の魔術師のような失態だった。彼は遮音の解除を忘れていた。
軽く手を振って魔術を解き、学院出の魔術師は自身の気の緩みを反省した。サルバトンに師事していた頃なら、懲罰を受けていたところだ。