第一章
大陸中央以西の大半を支配する帝国の南部州南西部、南部経済界の大物ミドルトン伯爵の領地と管区を接する位置にイルアニンという都市がある。西に伸びて共和国に至る平和街道の支道の恩恵を受けて栄え、人口二十万人を越えるイルアニン市はエイゼンノルト県の県都であり、南部州では屈指、州南西部においては随一の規模を誇る。ただし、将来はわからない。大陸南岸の港湾都市群に至る海の恵み街道の支道と直接繋がるミドルトン伯領のブランベルギエ市が二番手につけており、急速な成長を見せている。三番手は同じくミドルトン伯領のノルザベルギエ市で、こちらも平和街道の支道と繋がっている。商業重視のミドルトン伯の統治が実を結べば、或いは大陸南西部の序列に大きな変動が起こることもあろう。
古代の錬金術師達の発明を基礎に魔術学院が開発した擬石を建材とする堅固な城壁に守られ、その周囲に広大な農地を望むイルアニン市は、白羊月の麗らかな陽射しの下、空気が温かく色づいて見えそうなほどの活気に賑わっていた。何かの祝祭というわけではない。全てが灰色に見える冷たい冬が終わり、世界が優しく色づく春が訪れたおかげで人々が元気を取り戻したわけでもない。これがこの豊かな街の日常である。比較的裕福な住民と沢山の来訪者が都市を活気づかせているのである。
午前六時の目覚めの鐘から午後六時の家路の鐘までの間開放される四方の大門から人通りが絶えることはなく、来訪者を最初に出迎え、最後に見送る広場や都市の中央を貫く大通りから喧噪が消えることもない。広場でも大通りでも、大道芸人や街頭歌手が騒ぎ立てて衆目を集め、怪しげな商人が露店を開き、立ち並ぶ屋台が食欲をそそる匂いを振り撒いている。
北門から入って賑やかな大通りを街の中央広場へと下っていくまでの間にはいくつもの脇道が口を開けている。その内の一つに入り込むと、すぐに大きな煉瓦造りの建物に行き当たる。大通りに店を構える旅籠と同じくらいの大きさの三階建ての壁には「冒険者組合支部」の看板がかかっている。この規模の都市の組合支部としては小さいが、危険に満ちた東部や北部また西部国境付近や沿岸部と違ってこの地域は安全なので、冒険者の供給も需要も控え目なのである。
太陽が上昇から下降に転じて少し経った頃、開け放たれた組合支部の玄関に向かう四つの人影があった。
一人は魔獣の毛皮を仕立てた縞模様のマントを羽織った女剣士。癖のない綺麗な金髪は短く切られ、元は白かった肌はすっかり日に晒されて焼けている。上品な仕立ての厚手の上着と鹿革のズボンを着用している。服の上から窺えるフィオナ・カルミルス或いはリッヒディートの体の線は剣のように無駄がなく、起伏に乏しい。女顔の少年と言っても通用するであろう。上着の下からは鎖帷子の銀灰色の煌めきが覗いている。腰には「立ち向かうもの」の銘を与えられた片手半剣を佩き、足元は金属板が仕込まれた革長靴で固めている。鎖帷子と剣はドワーフの職人達の中でも名工と呼ばれる者達が手ずから真銀鋼を素材に拵えた逸品である。
その隣には、着用者の肌よりも黒く染められた木綿のマントを纏った半闇エルフの女戦士。濡れた鴉の羽のような色合いの黒髪と浅黒い肌が艶めかしい。アルンヘイルは闇エルフの血のおかげで均整が取れ、人間の血のおかげで肉感的に育った奇蹟のような肉体をなめし革で補強された獣毛の上下で包んでいる。決して軟らかくはないはずの布地が胸元で押し上げられて豊かな山脈を隆起させる姿が、混血特有の妖しい美貌と共に人目を引く。靴は革製の長いもので、履き古されてすっかり彼女の足の形に躾けられている。腰には実用本位で飾り気のない小剣と短剣が見える。見る者が見れば、短剣に魔法がかかっていることがわかるであろう。
女達の後ろには男の姿が二つある。
一方は日蔭色のコートを着た魔術師。魔術師にお決まりの長衣は着ていないが、同じ色調の衣服と半長靴は、コートと同じくいずれも錬金魔術の繊維と染料をふんだんに使った高位魔術師向けの一揃いである。首には銀鎖がかかり、その先は銀の地に宝珠が埋め込まれた九芒星徽章に繋がっている。この徽章は彼が魔術学院から真正魔術博士号を授与された魔術師であることを誇示していた。血の気の薄い不健康な肌にくすんだ黒髪、険のある顔立ち、と陰気な風貌をしたスナー・リッヒディートは、牛革の黒手袋を嵌めた右手で己の性格を表わすようなねじ曲がった長杖を右手に掴んでいる。
もう一方は古傷の目立つ筋骨逞しい荒野エルフの戦士。勇者の証である砂色の野獣の毛皮のマントに動きやすい麻の民族衣装、柔軟ななめし革の長靴、という出で立ちであり、そこから覗く小麦色の肌の各所には部族紋様の刺青が施されている。左手首にはドワーフ細工と一目でわかる見事な装飾の真銀の腕輪が絶えず鈍く煌めいている。腰帯にはいかにも荒野エルフ風の無骨な鋼の両手剣が差してある。精悍な美貌と鍛え抜かれた巨躯が周囲の目を引くが、ラシュタルは全く意に介さず、退屈そうな顔をしている。
フィオナが先頭に立って建物に乗り込んだ。仲間達も続く。
入ってすぐの場所は一般的な酒場の倍ほどの広間となっており、窓口やら待合席やら掲示板やらが設けられている。内部には冒険者と組合職員、そして仕事の依頼者の姿があった。砂糖菓子に蟻が群がるような様相を呈する組合本部のそれと違い、お世辞にも賑わっているとは言いがたい。
四人は真っ直ぐ掲示板に向かった。コルク板には画鋲で仕事の概要が書かれた紙が貼りつけてある。気に入ったものがあったら紙を剥がして窓口に持っていくのである。
掲示板の傍には大陸中に少なからず存在する――最も教育制度が充実した帝都でさえ街を歩けば日に何人かは確実に見かける――文盲かそれに近い者を相手に小遣い稼ぎをする代書屋の老人が待機していたが、純エルフと半エルフに物珍しげな視線を向けた後、いかにも知識人風のスナーを見て残念そうに視線を外した。
掲示板を一瞥してラシュタルが吐き捨てる。
「つまらぬものばかりだ」
荷物の配達や回収、雑用、護衛を兼ねた荷物持ち、害獣駆除、商店や工房の臨時雇い、街道巡視隊の臨時要員、孤独な老人の話し相手など、駆け出しが引き受けるようなものばかりだった。しかし、これは予想されて然るべき結果であった。誰でも自由に見ることのできる掲示板に貼り出される仕事は、最低限の能力と真面目さ以外に要求されるもののない簡単なものが大半で、それ以外だと、今となっては大陸のどこを逃げているかもわからない取り分け悪質な冒険者や警察隊から回された犯罪者の指名手配書といったところが精々である。報酬と手応えを期待するのであれば、人を見て仕事を振り分ける窓口に求めるのが一番の近道となる。
スナーは天を仰ぐようにして大柄な荒野エルフの顔を見上げ、呆れの眼差しを向けた。
「期待する方が悪い。最初から素直に窓口に行けばいいんだ」
「この辺じゃ窓口でもどうかわからないけどね」
アルンヘイルが魔術師の嘆息に軽口をよこし、迷わず奥へと歩き出す。
そこには正組合員用の窓口がある。正組合員が必ずそちらを利用しなければならない決まりはないが、斡旋される仕事の質を考えれば、正組合員が敢えて一般窓口を利用する利点はない。稼ぎの良い仕事にしろやりがいのある仕事にしろ、およそ冒険者を名乗って世を渡ろうとする者が望むような仕事の大半はそちらにある。
不満そうな顔でラシュタルが後を追った。フィオナが歩き出しながら傍らのスナーの顔を見上げ、南部を訪れてから何回目になるかもわからない愚痴をこぼす。
「こちらは快適なところですが、やりがいのある仕事がないのは困りものですね」
もっとも、口ぶりとは裏腹に、フィオナの表情に深刻な翳りはない。彼らは決して経済的に困窮しているわけではなかった。彼女の態度は、腕を振るい、名を上げる機会のない戦士の贅沢な不満の表明に過ぎない。
「平和だからな。流れ者の何でも屋に頼るほど困っている奴がいないんだ。もっとも、ここまで需要がないというのは予想外だったが」
「ええ、本当に。いろいろと聞いてはいましたが、話半分に受け取っていました」寂しさと喜びの混じった複雑な顔で嘆息する。「こちらでは戦士など不要なのですね」
「少なくとも、北や東とは違って、常に必要とされてはいないようだな」
この近辺で見かける旅行者や冒険者の出で立ちからもそれは窺えた。流石に丸腰の者はいなかったが、誰も彼も軽装で、金属製の防具を身につけている者は皆無に近く、アルンヘイルのように革鎧を着ている者すら稀だった。この土地が平和であることのこの上ない証だ。
「ティートバルクの近くを通った時には亜人の偵察隊を見つけたりもしましたが……それに、バルショウでは野盗討伐にも参加しましたね」
フィオナは南部州東端地域の大都市や東部州に程近い南部州北東部の都市を引き合いに出し、思い出を振り返るような態度で懐かしそうに目を閉じた。
「あの辺りは東方や東部州と接しているからな。完全に人類の勢力圏になったこっちとは違う。こっちはティートバルクが陥ちた影響で起こった亜人狩り運動ですっかり駆逐できてしまったが、あっちじゃどれだけ駆逐してもすぐ東から増援が来て穴を埋めてしまう。おかげで治安も乱れて、野盗に身を落とす者も、野盗が跋扈する余地も出てくる。西や南にしても、もう少し西側に行けば、共和国の間者だの活動家だの国境を跨ぐ大盗賊団だのもうろついているだろうがね」
「豊かで安全……剣を取らずとも誰にも殺されず、理不尽に家や畑を奪われることもない。分け合ってもなお余るほどに物がある。奪い合う必要などない……よいことです。幸せなことです」夢見るような態度で詩を吟じるように言った後、不意に現実に引き戻されたように首を振る。「でも、戦士である身からすると、倒すべき敵がいないというのは少し寂しくもありますね」
スナーはわざとらしく笑った。
「なら、この休暇もそろそろ終わりにして、また東や北に行って戦うか」
「それもよいかもしれません」言って、フィオナはくすりと笑った。「アルンヘイルはもう少し羽を伸ばしたがるかもしれませんが」
スナーとフィオナが話している間にアルンヘイルは窓口に到着していた。
「おじさん、何かいい話ない? 一月かからずに終わりそうで、報酬は最低でも銀貨二枚以上の奴がいいわ。戦いになりそうな奴だとなおよしね」
カウンターの向こう側に座る職員ににこやかに声をかけ、正組合員の証である金属札と、組合経由で昨年度分の人頭税を納付した証である厚紙の証明書を卓上に置いた。
制服姿の中年の職員は好色さの混じった無遠慮な視線でアルンヘイルを値踏みした。見たところ、職員はどうも引退した冒険者のようだった。荒事の臭いを纏い、シャツの袖をまくって太い腕をこれ見よがしに覗かせている。その強面は善良な市民を威圧するには十分すぎたが、歴戦の半闇エルフの微笑を翳らせるにはまるで足りなかった。彼女はもっと恐ろしいものを数えきれないほど見てきた。
「……見ない顔だな」職員は美貌の半闇エルフの迫り出した胸部に熱い視線を注いだ。「ここで仕事するのは初めてか」
露骨な視線に気づいたアルンヘイルは、胸の下で腕を組んで膨らみをさりげなく強調した。彼女はその長い人生経験から、女の武器の過不足ない使い方を心得ていた。
「そう、ここは初めて」
「そうかい」職員の鼻の下がだらしなく伸び、表情が緩んだ。「まあ、そうだろ。これだけの美人を見忘れるはずがないものな」それからようやく胸から金属札と証明書へと視線を下ろした。「税金は払ってるな」と頷いてから感嘆の声を漏らす。「ほう、星付きか。大したもんだな」
「でしょう」
アルンヘイルは自信がこぼれ出るような微笑みを浮かべ、臆面もなく讃辞を受け容れた。
正当な所有者が触れると薄く発光する宝珠が埋め込まれた彼女の正組合員証には、組合に金貨二十枚以上の仲介手数料を納めたことを示す星型の刻印がある。報酬額が金貨十枚未満の依頼は報酬額の二割、報酬額が金貨十枚以上の依頼は一律で金貨二枚が仲介手数料として組合に徴収されるため、現実的な尺度で言えば星付きは高額依頼を数十か一般的な仕事を何百もこなしたことを意味する。その信頼度は六年以上の軍務や公務の経験、然るべき身分の人物からの推薦などによって加入を認められた者達のそれとは比較にならない。星を持つ彼ら彼女らは、ごまかしの利かない方法で、地道に実績を積み上げたのだから。
「あんた一人かい」
「仲間がいるわ」親指でフィオナ達を示す。「呼ぶ?」
「いや、いいよ。星付きが一人なら、取り敢えずの確認は十分だ。詳しい話をする時に担当の奴に言ってくれりゃあいい」思い出したように卓上に視線を落とす。「ああ、もう札はしまっていいぜ」
アルンヘイルは提示したものを懐に戻した。
職員は抽斗から紙束を引っ張り出した。条件に合うものを探して一部ずつめくっていく。
「ただ生憎だったなあ、お姉ちゃん。もうわかったと思うが、ここらは平和だからよ、ろくなのがないんだわ。ちょっと前なら野盗の奴があったんだが……」何枚目かで手を止めた。「こんなのはどうだ」
アルンヘイルは四型書類用紙を受け取って目を通した。依頼達成前に雲隠れしてしまった冒険者の捜索依頼書だった。組合からの依頼である。ある市民の依頼を請け、エイゼンノルト県の西から南西にかけて接するミドルトン伯爵領の村に向かった二人組が期限を過ぎても戻らないので、行方と状況を突き止め、可能ならば身柄か死体を引き渡してほしいとある。報酬は、有力情報のみが銀貨一枚、死体を引き渡すと銀貨二枚、連れ帰った場合は銀貨三枚、無傷――冒険者基準――で連れ帰れば銀貨五枚が支払われる。
「運がよかったな、姉ちゃん。来週か再来週頃にでも貼ることになってるんだ」
「そうね……」
要望書に視線を落として考え込む。アルンヘイル個人としては引き受けるに吝かでなかった。
基本的に、失踪冒険者の捜索は実入りの良い仕事である。組合の面子が懸かっているだけあって報酬も高い上、説明責任がついて回りはするものの、相手が正当な理由なく同行を拒否した時には叩きのめして――生け捕りなどの特別な指示が出ていなければ殺しても構わない――財産を没収する権利まで生じる。成功報酬の上経費自己負担であることを除けばなかなかに旨味がある。もっとも、支払基準を見る限り穏便に連れ帰るべきと組合が見做す善良な冒険者が捜索対象である以上、今回その旨味にありつく機会はなさそうだが。潔癖なフィオナはこの種の権利の悪用を絶対に認めない。
しかし、請けておいて損になるものでもない。この種の依頼は捜索の義務を与えるものではなく、あくまでも一定期間捜索の優先権を与えるものでしかなく、未発見のまま期間が終了しても権利喪失以外の罰則はない。簡単に拾える小銭は取り敢えず拾っておく主義の半闇エルフの古兵に、見なかったことにしておく手はなかった。
「ちょっと待っててもらえる? 仲間と相談したいから」
「構わんよ。でもあんまり長くは困るぞ」
「わかってるって」言って振り返ったアルンヘイルが仲間達に依頼書を見せた。「これなんかどう? 近い内に公開する奴だってさ」
スナーは依頼書を一瞥し、アルンヘイルの顔に視線を上げた。彼女が乗り気であることは、提案すると言うよりは同意を求めるような表情と声音から明らかだった。
仲間達が粗方目を通した頃を見計らって、アルンヘイルが説得の言葉を紡ぐ。
「行き先があのミドルトン伯の領地ってところがちょっと不安だけど。業突く張りで、何するにも金取るって評判だし……まあ、赤字になるようならさっさと手を引けばいいのよ。期日を過ぎたって、優先権がなくなるだけで罰則なんかないんだから」
「少しは歯応えのある相手だとよいが」
ラシュタルがいかにも荒野エルフ戦士らしい言葉と共に鼻を鳴らした。
恋人の反応にアルンヘイルが苦笑する。
「あんたは本当にそればっかりなんだから」
「悪人と決めつけるのはよくありません。何か事故があったのかもしれませんよ」
フィオナが荒野エルフの勇者をたしなめた。
アルンヘイルが懐疑的な態度を崩さず反駁する。
「でも、仕事中に連絡のつかなくなるような連中よ。届け物だっていうし、逃げたのかもよ。こんな土地柄で盗賊に襲われるとも思えないし」
「そやつらが反抗的であることを祈る」ラシュタルの口元が獰猛な笑みを形作った。「刃向かう者は斬ってよいのだろう」
じっとやりとりを眺めていたスナーが沈黙を破った。
「取り敢えず話を訊いてみたらどうだ。決めるのはそれからでもいいだろう」
「じゃあ、そういうことでいいのね」スナーの言葉を受け、アルンヘイルが窓口に振り向いた。「おじさん、まず話だけ聞かせてもらえる?」
職員は値踏みするようにもう一度一行を眺めてから頷いた。
「ちょっと待ってな」後ろを振り返って呼びかける。「おい、ヘイジス、グレスト、ちょっと来い」
奥の方で書類を整理している若者達が振り向いた。
「なんです、アウドンさん」
「手配書の件で志願者が来たって、レリッヒとソーンバルク先生に連絡してこい、ヘイジス。グレストはこいつらを第一応接室に通せ」
年長のアウドンが横柄な態度で命じると、年若いヘイジスとグレストがのろのろと動き出す。ヘイジスが奥の階段に消え、グレストがカウンターの扉を開けて出てきた。
「こっちです。ついてきてください」
一行はグレストの案内に従って階段を上り、二階の第一応接室とやらに通された。若い職員は「しばらく待っててください」とだけ言って出ていった。
応接室は、木材に布を張っただけで肘掛けもついていない、三台の硬い長椅子が一脚の長方形テーブルを囲んだだけの簡素な部屋だった。壁紙は歳月の汚れで黄ばみ、床も床紙が貼りつけてあるだけで絨毯や敷布の類はない。調度品もこれと言って見当たらない。
四人掛けの長椅子は体格に恵まれた冒険者が使用することを考慮してか一人当たりの空間が広く取られていたため、平均的な体格の成人男性の少なくとも五割増しの面積を占有するラシュタルを含む四人でも、問題なく座ることができた。フィオナとアルンヘイルが中央を占め、それぞれの相方に隣り合う形でスナーとラシュタルが端を占めた。スナーがフィオナの隣、ラシュタルがアルンヘイルの隣だ。
スナーは銀灰色に輝く懐中時計を懐から出した。ドワーフの熟練工が真銀を素材に製作した時計の文字盤は、一時二十五分三十二秒を示していた。
沈黙が苦痛になる間柄ではないので、誰も口を開かない。フィオナは背もたれにゆったりと寄りかかり、アルンヘイルは壁の染みを数え、ラシュタルは瞑想するように目を閉じ、スナーは時計の針の動きを眺め、黙って組合の動きを待った。
時計の長針がきっかり五回動いた時、スナーの星幽的感覚が部屋に近づく気配を捉えた。常人と魔法使いが一人ずつだ。彼は首から下げた徽章の位置を周りから見えやすいように直した。
扉が叩かれた。スナーが時計をしまい、フィオナが返事をした。
扉が開いた。
フィオナが真っ先に立ち上がった。一行の中に無駄に波風を立てようと考える者はいないため、残りの三人も――ラシュタルは面倒臭く感じていることを隠そうともしなかったが――起立し、来訪者を出迎えた。
三十路ほどの男が二人入ってきた。片方は制服姿の事務員だ。アウドンと違い、荒っぽい雰囲気がない。事務員一筋のような雰囲気だ。もう片方は紫色の長衣を着て、抽象化された人面が刻まれた鉄製の徽章を首から下げている。徽章には宝珠が二つ嵌め込まれている。精神魔術修士だ。
精神魔術師はスナーの徽章に気づくと姿勢を正して一礼した。事務員も浅く一礼し、冒険者一行もそれぞれなりに礼儀を守って挨拶を返した。挨拶が済むと事務員は冒険者達に座るように促し、自分も腰を下ろした。
全員が席に着いた。事務員が口を開く。
「この件の担当のレリッヒ・シュタンマンです。具体的な話は私がします。こちらはヘルヴィル・ソーンバルク修士です。魔法関係の顧問を務めていただいています」
ソーンバルクは冒険者達にと言うよりはスナーに対してへりくだった態度でもう一度会釈した。
「ヘルヴィル・ソーンバルクです。魔術師協会イルアニン支部から出向して参りました」
「私は頭のフィオナ・カルミルス或いはリッヒディートです。彼らは端から順番に、ラシュタル、アルンヘイル……」
シュタンマンは一行が卓上にそれぞれの組合員証と納税証明書を並べると感心したように眉を上げたが、一行の名前そのものには何の心当たりもなさそうだった。無理もない。北部や東部でそれなりに名を知られた一行も、帝国全域に伝わるほどの業績はここ数年というもの挙げていないのだ。ほとんど足を運んだことのない南西部での知名度など、数年前はともあれ、今となっては無に等しい。
「……夫のスナー・リッヒディート博士です」
「……なるほど」
シュタンマンは、帝国全体で千人もいないとされる魔術博士ともあろう者が冒険者稼業などに身をやつした事情に興味を覚えた様子でスナーをちらりと見たが、流石に組合職員としての節度をわきまえているらしく、口には何も出さなかった。
ソーンバルクも初めの内はシュタンマンと同様の態度で紹介を聞いていたが、スナーの名前を聞いた途端、驚きに大きく身動ぎした。緊張に強張った顔でスナーをまじまじと眺める。
フィオナが訝しむ。
「どうしたのです、ソーンバルク修士」
「私のことを知っているんだろう。生憎とこっちは彼を知らないが。会った憶えがない」答えたのはスナーだった。彼は修士にわざとらしい視線を向けた。「そうじゃないか、修士」
「そうなのですか、修士」
シュタンマンが世間話をするような顔でソーンバルクに水を向けた。彼は単なる学者や魔術師としてはもとより、学院の暗部の関係者としても、また大妖術師ウェイラー・サルバトンの追跡者としても、スナー・リッヒディート真正魔術博士のことを知らないようだ。
スナーは気を悪くはしなかった。無理もないことだった。
彼は多くの大魔術師が喪われた現在、大陸屈指の高位魔術師だが、その研究は極めて専門的なものばかりの上、珍奇な新発見をしたわけでもない。魔術師として一般に知られるような功績もない。彼の功績の多くは、闇に葬られるべきものか、功労者の助手としてのものでしかない。有力貴族や文武の高官、同業者、知識人層かそれらに強い伝手のある者でもなければ、特に彼の名を知る機会もあるまい。
サルバトンの追跡者という立場自体は民衆に広く知られてはいるが、それが誰であるか――それがスナー・リッヒディート博士であること――は公表されていない。魔術学院は妖術師サルバトンを育ててしまったことへの責任追及の声を躱すため、宮廷や宗教勢力との政治的交渉の末、「有力な魔術師数名」を討伐のために旅立たせた形になっているが、実際に旅立ったのはスナー一人だ。学院はその事実を隠蔽するため、表向きは「サルバトンに余計な情報を与えないため」として、派遣人員の規模や詳細の一切を世界に対して伏せている。
全てではないにしろある程度を知っているらしいソーンバルクはシュタンマンの問いを無視し、困惑顔で視線を泳がせ、決まりが悪そうにぼそぼそと答える。
「ええ、その、お噂はかねがね……」
スナーは意地の悪さの滲む厭らしい笑い声を立てた。
「どういう噂を聞いたものやら」
「それは……」
答えに窮したソーンバルクにスナーは穏やかに問いかけた。
「ソーンバルク修士、君は私が憎いかね。恨めしいかね。それとも……恐ろしいかね」
「いえ、そのようなことは……」
「ならば何も問題はない……と私は思うんだが、君はどうだ。我々は仲良くできないかな」
「私もそう思います。失礼を致しました、博士」
魔術学院内の事情に疎い様子のシュタンマンは心細そうに魔術師同士のやりとりを見守っていたが、一段落したと見て取ったらしく、素早く本題に入った。
「皆さんは正組合員のようですね」
彼の視線は卓上の金属札に注がれていた。
「私は準組合員だ」
スナーはすかさず訂正を入れた。既に魔術学院に籍を置くスナーは、組合の規定により、学院を正式に除籍にならない限りどれほどの功績を挙げようとも正組合員には昇格できない。
「ええ。わかっています。ですが、この場合はどうでもいい違いです」
組合職員の中には、運営に参画する権利の有無以外に一般正組合員と差異のない準組合員を、正組合員と一絡げに扱おうとする者が少なくない。シュタンマンもそうした実際的な人間のようだ。
「それにしても、素晴らしいですね」感心した風にシュタンマンが表情を緩めた。「よく見ればどれも星付きじゃないですか」
アルンヘイルがからかうように微笑む。
「私達はお眼鏡に適ったかしら」
「勿論ですよ」シュタンマンは苦笑した。「皆さん、既に手配書は見ましたね?」
「見ました。期限を過ぎても達成報告に現れない二人組を見つければよいのでしょう」
一行を代表したフィオナの答えにシュタンマンは頷いた。
「失踪冒険者捜索の経験はありますか」
「幾度かは」とフィオナが頷き返す。
「ではその説明は要りませんね。ただ、確かめておきたいのですが、なんでもあなた方はこの辺りに来たばかりだとか……土地鑑もなしに大丈夫なんですか」
「ご心配には及びません」フィオナは自信満々に応じる。「地図と噂だけを頼りに旅をしたことは一度や二度ではありません」
「そうですか……まあ、いいでしょう」シュタンマンは少し思案する素振りを見せてから頷いた。何事もなかったかのように話を進める。「今引き受ければ猶予期間と同じだけの優先権がつきますが、どうしますか」
「決める前に訊きたいことがいくつかある。構わないかな」
沈黙していたスナーが口を挟んだ。
「それは当然ですね。勿論構いませんよ。なんでしょう」
「そうだな、まずは……二人の居場所はもうわかっているのか」
冒険者組合は仕事を果たさないまま冒険者が失踪するのを防ぐため、魔術師協会の協力の下、必要が出ればいつでも星幽的に居場所を探知できるようにしている。イルアニン支部は失踪した二人組の大まかな居所を既に掴んでいるはずだった。
「見ていただいた方が早いかもしれませんが、星幽的鎖が断ち切られていて、星幽的捜索は不可能です、博士」
シュタンマンではなくソーンバルクが答えた。さきほどと違い、声は落ち着いている。
スナーは眉を顰めた。
「断ち切られている? 切れたのではなく切られた、ということか」
「そう考えて間違いないかと」
「とすると少し厄介だな。実物を見せてもらっても?」
「こちらです」
ソーンバルクが机上に二枚の紙を置いた。星幽光感応紙を使った登録書類には、行方不明になったゲオル・モルクとゴルト・ハイドランの似顔絵が念写されている他、出身、生年月日などが記されていた。モルクは小剣を二振り使う、ハイドランは右肩に天使の刺青を入れている、などの特徴もあった。末尾には顔の持ち主の署名があり、そのすぐ横に糊で毛髪が数本貼りつけてある。
この中で最も重要なものは毛髪である。切り離された肉体の一部は泣き別れとなった本体としつこく星幽的な繋がりを持ち続ける。
スナーは星幽的感覚を働かせて毛髪を注視し、身体の一部や体液が持つその主との星幽的繋がりを探った。だが、ソーンバルクが語った通り、不可視の鎖は切れていてその先に何もなかった。
「……確かに切られているな」
星幽界上を当てもなく漂う鎖の切れ端は、明らかに意図的に断ち切られたような断面をしていた。星幽界の環境変化や媒体の劣化によって自然と星幽的連関が破壊されることはあり得ないことではないが、この件はそういったものとは明らかに違った。
「保護も役に立たなかったようです」
ソーンバルクの顔には悔しそうな表情があった。保護を施したのは彼のようだ。
スナーは改めて事務員と修士を眺めた。
「この連中に魔法使いとの付き合いはあったかな」
星幽的鎖を切断すること自体は決して難しくない。魔術学院で学士に認定される程度の実力があれば可能である。修士級の魔術師による保護があったとしても、隠蔽することを望むのでなければ、つまり単に破壊するだけであれば学士級でも不可能ではない。
シュタンマンは頭を振った。
「いえ、こちらが把握している限りでは……」
「鎖を切った相手の実力は君から見てどうだ」
ソーンバルクは記憶を探るように虚空を睨んでから、慎重な態度で答えた。
「高く見積もっても私よりやや上が精々かと。博士級や――可能性を考えるだけでも恐ろしいですが――導師級ではないでしょう。それならば私に気づかれないように保護を破壊したでしょうから」
「そう思い込ませるための偽装という線はないか」
「それは……」
ソーンバルクは言い淀んだ。
「ないとは言いきれまい」
「……できれば考えたくありませんな。そのような魔法使いの存在を見落としていたなど、大問題ですよ」
スナーからすれば対岸の火事だが、火の粉のかかる位置に立つソーンバルクには頭痛の種だろう。スナーの追及に顔を顰めるソーンバルクの頭の中では、魔術師協会イルアニン支部――或いはそれ以上――が責任問題で荒れる模様が展開されているのだと思われた。
「少々よろしいでしょうか」フィオナが割り込んだ。「二人が行方知れずになったのはいつの話ですか」
シュタンマンが答えた。
「報告の期日は一週間前です」
「その間、捜索に何か進展はなかったのですか」
「捜索はまだしていません」
「まだしていない」フィオナの双眸に鋭い光が瞬いた。それは非難の光だった。「どうして一週間も放っておいたのですか。それに、聞いた話では、掲示板に貼り出すのは最低でも来週とのことではありませんか。魔法で捜せなくなったとあれば事件でしょう。なぜすぐに動かないのですか」
「慣例上、公開依頼する場合、少なくとも七日間は公開猶予期間を設けることになっているので……依頼に少々の遅れは付き物ですから……」
シュタンマンの顔には気まずさが滲んでいた。顔全体で、これ以上は訊かないでほしい、と声なき声を発している。
だが、堅物のフィオナはなあなあを許さない。
「そうだとしても、魔法で捜せないとわかった以上、慣例などと言っている場合ではないでしょう。妖術師に襲われたのかもしれないのですよ。その危険を承知で慣例などというものに拘っているのですか」
「違うのですよ、カルミルス殿」ソーンバルクがばつの悪い顔で同僚に助け船を出す。「我々も今日初めて星幽的鎖が切られていたことに気づいたのです」
フィオナが絶句した。アルンヘイルも唖然とした。スナーは軽く嘆息し、ラシュタルは眼差しの温度を下げた。
目を瞬かせてから、気を取り直した風にフィオナが問い質す。
「つまり、本当に、今日までずっと放置していたというのですか」
「フィオナ、もうよせ」言い募るフィオナをスナーは手を差し出して制した。「責めたところで君の感情が満たされるだけだ。過去はどうにもならない。失敗者が悔悛の涙を流せば過去の失敗が全て取り返されるというんなら、話は別だがね。それなら、大いに泣き喚いてもらおう」
組合の二人がスナーの援護に感謝の眼差しを向けた。
「……失礼しました」
フィオナは不満を表情に出しつつも引き下がった。
「取り敢えず、そいつら二人がどんな奴なのか教えてもらえる? 働きぶりとか人柄……あと、付き合いなんかもお願いね。ろくでもないのとつるんだりはしてない?」
空気の切り替えを図るようにアルンヘイルが言った。
シュタンマンが真っ先に呼応する。
「二人ともこの街の出身で幼馴染です。南部州軍に志願して二任期務めた後、組合に加入しました。評判は上々で、二人とも真面目な仕事ぶりで知られています。悪い仲間と付き合っているという話も聞きません。良い連中ですよ」
フィオナの表情の深刻さが増した。
「二任期を満了した元兵士と言うのなら――輜重兵なら話は別ですが――決して武芸の素人ということもないはず。真面目と評判ならば仕事を断りもなく放棄することなどあり得ません。そのような人物が二人も揃っていなくなるなど、やはり、何かの事件に巻き込まれたのでしょう。野盗か、魔物か、亜人か、恐ろしい妖術師か……」
ラシュタルが無邪気な子供のように破顔する。
「事件か。面白くなってきたではないか。亜人の戦士団程度は出てくるとよいが。悪魔の軍勢を従えた妖術師でもよい」
「ラシュタル、遊びではないのですよ」ラシュタルに向けた咎めるような視線をそのままシュタンマンに戻す。「おそらく何かが起こっているのです。組合としても動くべきです。二人がミドルトン伯の領地に向かったのであれば、伯とも連携して――」
「そうもいかないんですよ」シュタンマンは耐えかねたように遮った。「本当に何かが起こっているならいい。しかし、何もなかったら問題になります」
「確かに、領地に妖術師が潜んでいるかもしれないと言っておきながら何も出てこなければ、言いがかりをつけたと非難されかねないでしょう。ですが、それを恐れて災いが育つのを見過ごしてしまうよりは――」
これ見よがしに溜息をついた後、スナーは再び割って入った。
「だから、よせと言っているだろう。そうできるくらいならしているはずだ」
時折真面目の過ぎるところがある女剣士を諭す魔術師は、シュタンマンの煮えきらない態度の背後に隠れた「事情」をおおよそ察していた。慣習と見栄と事なかれ主義、多くの個人や集団を破滅させてきた遅効性の劇毒である。傍目には果てしなく馬鹿馬鹿しいものと映るこの恐るべき毒は、呷った者には致死のものとなる。見えない毒はそれが通用してしまう環境の中でゆっくりと醸成され、ある日突然牙を剥き、飲んでしまった者の心臓を鉄糸蜘蛛の巣のように捕らえ、破滅へと追い立てる。毒が回って倒れ伏した相手に動けと促したところで、相手が不機嫌になる以上のことは望めない。そこで必要になるのは、生活習慣や体質の長期的改善計画ではなく、即効性の解毒薬である。
アルンヘイルが執り成すように割って入る。
「まあ、それはひとまず措いといて、仕事の話に戻ろうよ。今請ければ優先権が貰えるのよね。具体的にはどのくらい?」
「今からであれば最低一週間です」
「まだそのようなことを……」フィオナが呆れ顔で非難の声を上げる。「動きが遅れれば遅れるほど事態は深刻になるかもしれないのですよ」
「落ち着きなさい。もし何かやばいのがいるんなら、このままの方が不意打ちしやすくていい。何もないんなら、競争相手がいなくて楽ができる。そう考えるのよ。悪いことがないとは言わないけど、いいことも一杯あるわ」
「そういう見方もできるかもしれませんが……」
アルンヘイルに向けられた蒼海を思わせる瞳には不満げな光が宿ったままだった。
「そういう見方をする方が人生楽しいわよ」半闇エルフは笑った。事実、彼女は数百年の内の途中からをそうして生きてきたのだろう。彼女はシュタンマンに視線を戻した。「で、一応訊いときたいんだけど、こいつらを公開依頼する理由は何? 普通はそこまでしないわよね。指名手配じゃないってことは悪い奴らじゃないってことなんだろうけど……」白々しく思案する素振りを見せる。「そうね、放り出した仕事がよっぽどやばかったのかしら。でなきゃ、何かとんでもないものを持ち逃げでもした?」
「いえ、行方知れずになった場所が場所なので……」
表情を苦いものにするシュタンマンにアルンヘイルは意地の悪い微笑を返した。
「面子の話ってわけね」
微笑みを無視するように視線を反らしてシュタンマンが頷く。
「話が早くて助かります。貴族に遠慮したと見られかねないことはできないんですよ」
「でも、あんまり強気にも出られない?」
シュタンマンは難しげな顔のまま無言でまた頷いた。
「つまりあんた達は事なかれ主義ってことね。良い方にも悪い方にも」
身も蓋もない指摘にシュタンマンの顔が引き攣った。辛うじて苦笑らしきものを浮かべる。
「有り体に言えば、まあ……」
「だったら、猶予期間はできるだけ伸ばしたいんじゃない? 伯爵と揉めるのも嫌なんでしょ」アルンヘイルの黒曜石の瞳が狡猾に煌めいた。「自分の領地に人相の悪い冒険者が小銭目当てに大勢押しかけてあちこち嗅ぎ回り始めたら、さぞかし気分が悪いでしょうね。あの伯爵って冒険者嫌いで有名みたいだし」
「好き好んでミドルトン伯領に出かける連中が大勢いるとは思えませんが……似たような意見は確かに出ています。あまり早く捜索依頼を公開すると侮辱や嫌がらせと受け取られかねないとか、大っぴらに領内を冒険者に探らせるようなことをすると伯爵の不興を買いかねないとか……要するに伯爵領の治安にケチをつける形になりますから」シュタンマンは躊躇いがちに認めた。「ただ、誤解しないでください。我々が決めかねているのはあくまでもいつ踏みきるかです。踏みきるかどうかじゃありません。そこは勘違いしないようにお願いします。私達は互いの面子を潰さずに事を収めたいだけなんです」
「一応訊くけど、伯爵との交渉なんかは?」
「できるわけがないでしょう」愚問だと言わんばかりに首を振った。「こっちが勝手に遠慮するのと相手にお伺いを立てるんじゃ意味が違います。特に、相手がミドルトン伯ならね。そんなことをしたら、組合が貴族に譲歩した前例が残ってしまいます。支部の一存でそんなことをするわけにいきません」
「政治だの組織だのってのはこれだからめんどくさいわ」鬱陶しそうに嘆息し、本題に繋げる。「どの程度なら引き延ばせそうなの? あれって担当者の胸一つなんでしょ」
「限度はありますが……彼らは真面目だったので、情状酌量の余地有りということで、二週間まではねじ込むつもりでした」
「もう一声いけない?」
「努力しますが、それ以上伸ばせるかはちょっと……上には貴族に配慮するのを嫌がる者もいるので……」
「あら、それは残念。でも、まあ、二週間確保できただけでも儲け物か」
アルンヘイルは納得の微笑をシュタンマンに向けた。彼女は見事に優先期間の延長を勝ち取った。
「話がまるで進んでおらぬではないか」ラシュタルが痺れを切らした様子で不機嫌な声を発した。「一体いつまでこの迂遠なやりとりを続けるのだ」
「そうだな。そろそろ結論に入ってもいい頃だ」
スナーも同意を示した。この場で決められることと決めておくべきことはもうほとんど残っていない。あとは正式に契約を交わすだけだ。
男二人の言葉を受けたシュタンマンが、フィオナを窺う。
「相談するのであれば私達は席を外しますが」
「いえ、結構です」フィオナは丁寧な態度で断り、答えを出した。「引き受けます」
「では早速契約書を――」
「ただ、一つ申し上げておきたいことがあります」革製の書類入れの口を開けたシュタンマンを制し、フィオナが告げる。「引き受けはしますが、我々に任せきりにはしないでもらいたいのです」
事務員は書類を指先で引っ張り出そうとしたまま手を止め、困惑の微笑を浮かべて首を傾げる。
「あの、カルミルスさん、失礼ですが、言っていることの意味がよく……」
「組合の方でも動いてほしい、ということです」
シュタンマンはうんざりしたように表情を微かに歪ませた。
「ですから、それは難しいんですよ」
「せめて、我々が何かを掴んだ時、すぐに動けるように態勢を整えておくことはできませんか」
「それくらいなら、まあ……私の一存だと、あくまでも心の準備をしておくという程度のことしか言えませんが……」
はっきりとした形で動くことはできない。シュタンマンはそう言っている。
婉曲的なやりとりを苦手とするフィオナでも流石にそのくらいのことは理解できる。歯切れの悪い返事にフィオナは眉を顰めた。
スナーはフィオナが食い下がろうとするのを押し留めるように言った。
「本当に何もしないよりは遥かにましだ。それに、それ以上のことは難しいだろう。そのくらいで納得しておけ」
「……わかりました」
フィオナは端整な顔を悩ましげに顰めたが、不承不承といった態度で矛を収めた。
堅物の正論に付き合うのが嫌になったのだろう。シュタンマンはすかさず書類を二枚取り出して空欄にフェルトペンで必要事項を書き入れ、ペンと一緒に書類を冒険者達に差し出した。
「末尾に皆さんの署名をお願いします」
「その前に内容を見せてもらおう」
文書の扱いは一行の中で最も学術的方面に明るいスナーの仕事である。彼は古びて若干の変色が見られる書類を受け取って目を通す。用紙の最上段には古典語と共通語で「本文書ハ冒険者組合ノ公式文書デアリ、光輝溢ルル皇帝陛下ノ御名ノ下、帝国内ニ於イテ法的拘束力ヲ有ス」の決まり文句が印字されている。その下に内容が続き、失踪冒険者の捜索優先権を与える旨が現代語で手書きされていた。
彼は不備や不都合や相違がないことを手早く確かめた。問題がないことを告げて皆に頷いてみせ、フィオナに手渡す。受け取ったフィオナはそれぞれに自身の名を記した。スナー達も倣い、自分の名を頭の下に書き連ねた。
シュタンマンは契約書を取り上げて署名を確かめ、一行の署名から少し離れた場所に自分の名を記した。
「これで契約は成立しました」と言って彼は一枚を机上に残し、もう一枚を別の書類入れに戻す。「そちらは控えとして持っていてください」
スナーが机の書類を受け取り、折り畳んで紙入れにしまい、懐に入れた。彼は一行の文書保管係でもある。
シュタンマンが別の書類を取り出す素振りを見せながら問いかける。
「もし皆さんが今後もイルアニンで仕事をするつもりなら、この場で登録も済ませてしまいませんか」
「いえ、我々は旅の途中で、一ヶ所に留まるつもりはありません」
「そうですか。それは残念です」
フィオナのきっぱりとした答えにも特に気を悪くする風もなく、シュタンマンは書類入れから手を離した。
「用件は済んだな」
ラシュタルが視線で仲間達を促した。
フィオナが頷いて組合の二人に言う。
「では、早速捜索にかかります」
「よろしくお願いします……ああ、言い忘れていたことがあります。報酬額を見ればわかるでしょうが、穏便に事が収まるならそれに越したことはない、と我々は考えています。彼らは評判も良く、将来性もあるので……」
少しの間を置き、フィオナが謹厳な顔で頷いた。
「誠意を以て対応することをお約束します。私も無駄な流血は好みませんから」
「ありがとうございます」
やりとりを横で聞いていたアルンヘイルが微かに唇を歪めた。彼女はフィオナほど潔癖でもなければ寛容でもない。シュタンマンのさりげない要望は、組合が失踪した冒険者を信頼できる者達であると認識しており、もし彼らが生還しなかった場合は報告者に対して相応の取り調べが行なわれるであろうことを暗に示していた。自分達が卑劣な盗賊紛いの集団と見られている事実は、善良ではないが少なくとも悪人ではない半闇エルフにとって愉快であるはずがなかった。
「お前達は私達を血腥い殺戮者だと見ているのだな」
ラシュタルが脅しつけるような低い声を出した。彼もアルンヘイルと同様のことをシュタンマンの言動から読み取っていた。荒野エルフは名誉を重んじる。それを損なうような言葉を捨て置けるわけがなかった。
砥ぎ立ての刃のような視線の圧力にシュタンマンが息を呑んだ。
「そういったつもりは……」
「よせ」
スナーはラシュタルを制した。彼もラシュタルやアルンヘイルと同じことを読み取っていたが、彼らのような不快感はなかった。魔術師である彼も闇エルフの血を引く女と同様、世人から恐れられる存在ではある。しかし、アルンヘイルと違い、彼は世間に対して最早何の期待もしていないし、忌み嫌われても仕方がないとの自覚もある。独特の矜持も持つが、それは出会う者のあらゆる言動に一々注目せずにはいられない敏感なものではない。彼はシュタンマンが暗に示したものを不快に思う代わりに、親切なことだ、とだけ思った。わざわざ釘を刺す辺り、組合――或いはシュタンマン――はできる限り冒険者達を生還させようとしていると見て間違いなかった。スナーの星幽視力が捉えたシュタンマンの星幽体には誰かの身を案じる色があった。
ラシュタルはシュタンマンを怒りの視線から解放し、スナーを不機嫌そうに一睨みした。スナーは無言で片眉を上げた。
「仲間が失礼をしました」フィオナが小さく頭を下げた。「それでは、我々は早速捜索を始めます」
「よろしく頼みますよ」
シュタンマンに見送られ、一行は応接室を出た。
組合を出た一行はすぐに情報収集に取りかかることとし、日没を集合時刻と決めて二手に分かれた。学識あるスナーは市立図書館に、世間ずれしたアルンヘイルは街に向かった。純粋な情報収集という意味では精々用心棒が務まる程度の二人の戦士は、それぞれの連れ合いについていった。
一口に図書館と言っても、個人の書庫程度のものから知識の殿堂と呼べるほどのものまで、いろいろな規模のものがある。イルアニン市の図書館は、流石南西部随一の都市だけあり、伯爵級の領主貴族が住まう城館程度の大きさを誇っていた。石造りの建物の壁には公共施設であることを示すため、帝国の紋章である大鷲が大きく描かれてある。
イルアニンほどの大都市ともなれば知識人や読書の習慣のある市民も大勢おり、周辺と内部は人で賑わっていた。学者風の帽子と長衣を着た人物もいれば、いずれかの州都や帝都の大学から遥々やってきたのか学生風の出で立ちの若者もいる。長杖を持ち、旅の汚れの目立つ古びた長衣を着た魔術師もいる。詩人風の繊細かつ瀟洒な外見の青年、一目で貴族とわかる上品な身形の老人、ふくよかな体つきの商家の大旦那風の男、楚々とした所作と質の良い衣装が調和した貴婦人、筆記用具を抱えた貧しい身形の青年、剣を腰に吊るした旅人など、身分階級を問わず様々な人物がそこに集っていた。
スナーはフィオナを引き連れて図書館の玄関扉を押し開けた。入ってすぐの所は小さな広間になっており、入口から目につく位置に寄付金受付の机があった。鍵付きの大きな木箱が置かれた机の向こうには図書館員の制服を着た人物が二人おり、その左右では棍棒を持った守衛が箱を守るように睨みを利かしている。机には入館希望者が列を作っている。スナー達はその最後尾についた。
図書館は皇帝から帝国臣民への賜り物であるため、その利用に料金を支払う必要はない、ということになっているが、それはあくまでも建前である。どのようなものであれ、人間社会に存在する以上、その維持には金銭が必要となる。それを賄うため、入館の際は中銅貨数枚程度を運営支援の名目で寄付することが求められる。あくまでも「利用者の好意」に基づくものなので法的拘束力はないが、当たり前のように続いてきたこれは、神殿や教会に宿を求める者が幾許かの喜捨をすることが当然視されるのと同じように、最早社会的慣習と化していた。これを拒んだ時に周囲が見せる反応を知るスナーに、無視して通り過ぎる選択肢は最初から用意されていなかった。
しばらく待つとスナー達の番が回ってきた。スナーは図書館員に「二人分だ」と告げた。それからコートのポケットにしまってある小銭入れから中銅貨を五枚出し、学術の徒と言うよりは徴税官のような顔をした図書館員が数えられるようにゆっくりと見せてから木箱に投じた。図書館員が事務的によこした「ご支援ありがとうございます」という呟くような答えの声を背に聞きながら、魔術師と女剣士は奥へと進んだ。
数えきれないほどの本棚が立ち並んだ大広間には数えきれないほどの机と利用者の姿があったが、足音とページを繰る音、息遣いや咳払い、そして囁き声が聞こえるだけの至って静かな空間が形成されていた。隅の方には二階に続く階段が見え、広間に入って少し右手に行った所にはカウンターがある。
カウンターの内側には眼鏡をかけた老齢の司書がいた。彼は椅子に腰かけて大判の古書をじっくりと読んでいる。
「失礼、司書殿」
「何かご用ですかな」老司書は不愉快そうな顔で書物から来客に視線を上げた。読書の邪魔をされたことが不満なのだろう。スナーが首から下げた徽章にちらりと目をやり、さりげなく付け加えた。「魔術博士殿」
「この辺りの風土記や新聞、経済関係の蔵書目録を見せていただきたい」
「少しお待ちを……どうぞ」
老司書は机の下からやや厚めの大判の書物を引っ張り出して卓上に置いた。続けてその隣に、小冊子と言うよりは紐で簡単に綴じられただけの紙束と呼ぶべきものが置かれる。
「それと、こちらが新規追加分の記録です」
「ありがとう」
スナーはその場で目録と冊子を開き、大冊にびっしりと印刷された細かな字と手稿に書き込まれたやや癖のある字とを目で追った。ページを繰って、ミドルトン伯領の状況や歴史、伝承、伯の人となりなどを調べるために役立ちそうな文献の名前を頭脳に刻み込み、本を閉じた。
「助かりました。ありがとう」
スナーはフィオナを連れて机の一角に座を占めた。フィオナがごく自然な態度で隣に座る。
横に腰を下ろした人物が魔術師であることを知った閲覧者がそそくさと席を立った。魔法使いと同じ卓を囲む者は神罰に打たれるとの迷信を気にしたものと思われる。
「フィオナ、今から言う本を持ってきてくれ。そうだな、差し当たり、ここ三ヶ月分の新聞――この地域を中心に扱っていそうな奴がいい――と、ティーエル・ミストラーの『ミドルトン伯爵領の調査報告』、ヴェルバール・ハイナス・メヘンレンバルクの『南部政治経済における諸侯の位置づけに関する考察』にしよう」
「わかりました……ええと、新聞と、『ミドルトン領調査報告』、それから……『南部政治経済における諸侯の……』ですね」
「『ミドルトン伯爵領の調査報告』だ」スナーは手厳しく訂正した。「『ミドルトン領調査報告』というのも目録にあったが、あれの著者は信用ならない奴だから、そっちを持ってこられても困る」
「わかりました。気をつけます」
フィオナは忘れないように何度も復唱しながら本棚の列の中に入り込み、見えなくなった。
戦神の祝福を受けた女剣士は調べ物の戦力にこそならないが、力仕事ではスナーより余程役に立つ。彼女は夫に指図されるまま、うっかり落としたら床の石畳が割れてしまうのではないかとさえ思われる重たい大判の書物を何冊も見つけ出し、忠犬のようにそれらを夫の許に運んだ。
運ぶべき資料がなくなればもう彼女にできることはなく、机の上に広げられた何冊もの大冊を覗き込むスナーの横で無聊をかこつばかりとなった。
居眠りをするなり娯楽本を読むなりして退屈を慰めればよいものを、フィオナは律儀にスナーの指示を待っていた。自分だけが楽な思いをするのは懸命になって資料に当たるスナーに申し訳ないと考えているのだ。
スナーは妻のそうした律儀な性格をよく理解していたため、しばらく放置するという形でちょっとした意地悪をしてから――精一杯働く横で遊ばれるのは決して愉快なことではない――声をかけた。
「フィオナ、退屈だろう。君も何か探して読んだらどうだ」
「よいのですか」
「図書館で本を読んじゃいけない法はないだろう」
「では、少し席を外しますよ」
フィオナは鎖から解き放たれた飼い犬のように喜び勇んで席を離れ、しばらくしてから王国の童話全集の一冊を持って戻ってきた。
笑顔になって戦利品を夫に見せた。
「これを見つけました」懐かしそうに目を細め、立派な革装幀の大部を撫でる。「子供の頃によく母様に読んでいただいたものです」
何か知りたいことがあるのなら、知っていそうな人物に訊けばよい。そういう人物がいそうな場所に行き、陽気かつ紳士的な態度で話しかけ、時に色気を振り撒き、時に小銭を握らせてやれば、情報などはすぐに得られる。アルンヘイルは長い人生を通じてそのような理解に達していた。
彼女はイルアニン市のことなどさして知らない。何しろ訪れたのはこれが初めてである。だが、求める情報を持っていそうな人々が集まるであろう場所の見当はついていた。都市とはつまるところ人の集まりで、人の集まりというものの根本的な性質はどれだけ時間が経っても変わらない。いくつかの類型がそこにはあり、大抵はそこから大きく離れることはない。長い時をかけ、多くの都市を見てきた半闇エルフの経験を以てすれば、ちょっと街路を歩いただけでその都市の類型を察し、大まかな様相を推し量ることは造作もない。
アルンヘイルは用心棒の如く無言で付き従うラシュタルを連れてまず大通りに出て、自分達が逗留している旅籠に戻った。
一行が部屋を取ったのは「旅の止まり木」亭という、三階建ての一般的な大きさの旅籠である。貴族の趣味を満足させるような至れり尽くせりの高級宿ではないが、宿泊中に大きな不自由を感じさせない程度には接客や設備がしっかりしている。
開け放たれた表口から入ってすぐが食堂と酒場を兼ねた吹き抜けの広間となっており、頭上には通路の転落防止用の欄干越しに、各部屋の扉が見える。日当たりのよい場所にあるため、窓からの採光も良く、中は十分に明るい。その真昼の光が射し込む中、いくつかあるテーブルには十人ほどの客がついて酒を呷り、塩漬け肉や朝の残りのパンを齧っていた。客層は幅広く、見るからに冒険者か傭兵といった者だけでなく、街の若者といった雰囲気の者もいた。
残り物を肴に昼間から飲んだくれている連中の幾人かが美しい闖入者を見て口笛を吹いたが、遅れて入ってきた剣呑な男に気づくと、そっぽを向いたり、酒を呷ったり、仲間と話したりして、慌てて己の行動をごまかし始めた。荒野エルフの「嫉妬深さ」――人類諸種族の交流が比較的進んでいる帝国でさえ、世人の多くは彼らの名誉を重んじる態度を単なる嫉妬心としてしか理解していない――はそれほどまでに有名なのであった。
アルンヘイルは真っ直ぐにカウンターに向かい、陶杯を磨く亭主に声をかけた。
「一杯貰える? 私は麦酒。彼には――」
ラシュタルが遮って注文を告げた。
「トロネア火酒はあるか」
「置いてあるが、ドワーフ以外でそんなのを頼む客なんて久しぶりだよ」亭主は驚きに目を丸くし、磨いたばかりの杯に注文の酒を注いだ。「ほらよ」と二人の前になみなみと酒が注がれた陶杯を置き、ラシュタルに愛想笑いを向ける。「こんなの飲む奴滅多にいないから、ぶっ倒れない程度に二杯三杯と飲んでってくれよ」
アルンヘイルは礼を言って中銅貨を三枚卓上に置き、酒杯を取った。「確かに」と言って亭主が無造作に銅貨を前掛けの腹ポケットに落とした。
一息に半分ほど飲み干し、「おいしいわ」とアルンヘイルは煽情的な吐息を酒精と共に漏らした。
「ところで亭主さん、モルクとハイドランって二人組のこと知らない? 冒険者なんだけど」
「知らん仲じゃないが……」亭主が探るようにアルンヘイルの顔を眺める。「なんだってそんなことを訊くんだね。あんたら、あいつらとどういう間柄なんだ」
「手紙をね、届けてほしいって頼まれたのよ」アルンヘイルの口から呼吸するように偽りが吐き出される。「頼んだ奴が言うには、それなりに知られてるはずだから、この辺で訊けばすぐ見つかるらしいんだけど……」
「手紙ね……それなら生憎だったな。あいつらなら、ちょっと前に仕事で出かけちまったよ」
「どこに行ったかわかる?」
「おっとっと。そいつは流石に、な」亭主は意味深に苦笑した。「わかるだろう」
「そうね。ごめんなさい」
「ただまあ、大雑把な行き先くらいなら……」
亭主は勿体ぶってそう続け、アルンヘイルの表情を窺った。
男の欲望を向けられることに慣れている半闇エルフの美女は、目の前の中年男が僅かでも彼女の関心を引きたいと考えていることを手に取るように理解していた。彼女はその望みをある程度叶えてやることにした。艶やかな微笑を浮かべると手袋を外し、仄かに湿ったなめらかな掌を卓上に置かれた亭主の手の甲に重ねる。
「それでも十分すぎるわ」
「そうかい。ならよかった」亭主は鼻の下を伸ばして笑ったが、その視線は落ち着きなくラシュタルの様子を窺っていた。「あいつらは、そう、ミドルトン伯の領地に行くって言ってたな」
手を離して更に問いかける。
「帰りはいつ頃になるか聞いた? 私達もこの街に住みつこうってわけじゃないから、あんまり先だと困るのよね」
「そうさな、聞いた通りなら、もうそろそろってところだな」カウンターに身を乗り出して顔をアルンヘイルに近づけ、他の客に聞こえないよう声を潜めて続ける。「あんたらが泊まってる間に戻ってくると思う」
「そう。よかった。ところで、そいつらってどんな連中なの? 私達に手紙持たせた奴はいい奴らだって言ってたんだけど、人ってあっさり変わっちゃうものだから……やばい仕事の片棒担いだりとかしてないでしょうね」
「変な心配は要らんさ」亭主は気の利いた冗談を聞いたかのような笑い声を立てた。「あいつらはいい奴らだよ。戦場で長生きできん人種だ……と、女にはわかりにくい喩えだったかね」亭主の笑みが苦笑に変わった。「すまんね、店開く金を貯めるために東で兵隊やってたこともあるんでな」
「ううん、私も傭兵だったから凄くよくわかったわ」憂いを帯びたほろ苦い微笑を返す。「そう……本当に、いい奴から死んでくのよね」
「何かつらいこと思い出させちまったかな」亭主は表情を軽く顰め、しかつめらしく続けた。「よし、詫び代わりだ、その一杯は奢りにしといてやる」
そう言って前掛けから中銅貨一枚を返してよこした。
「あら、いいの?」アルンヘイルは抜け目なく銅貨を小銭入れにしまい、駄目押しとばかりに大抵の男の心の錠前を緩める笑顔を向けた。「ありがとう」
「何、いいってことさ」
亭主はだらしない笑みを浮かべた。
「亭主さんよ、あんまりスケベ心出すとぶん殴られちまうぜ」
焼いた太い腸詰を齧っていた北方系の毛深い男が亭主にからかいの声を投げかけた。
「余計なお世話だ」亭主は北方人を睨んだ。「こちとらはお前らと違って限度ってものをわきまえてるんだ」
それから、自らの潔白を訴えかけるようにラシュタルを見た。「嫉妬深い荒野エルフ」は何の関心もない様子で窺うような視線を受け止めた。
「ねえ、おじさん」とアルンヘイルは親しげに呼びかけた。「ついでに訊きたいことがあるんだけど……」
「ああ、なんだい」
「私達、手紙を渡したら、ミドルトン領に行こうかと思ってるのよ。あそこってどんなところなの?」
「ミドルトンねえ……」亭主は唇を曲げて考えを纏め始めた。やや間を置いてから口を開く。「まあ、悪くはない。良くもないがな。通り道にするなら近道になっていいが、それ以外ならやめといた方がいいね、あんた達みたいな冒険者は。儲け話なんぞ期待できんぜ。あそこの領主は冒険者が嫌いだから、冒険者が領地で仕事を請けられないようにしてる。冒険者組合を追い出して便利屋組合なんて代物をでっち上げてるのさ」
「便利屋ねえ。まあ、仕事探してるわけじゃないから、私には関係ないわ。それより、通行料とか安全の方が心配よ」
「通行料は確かに馬鹿にならんわな。ただの旅人でも街道の通行料を搾り取られる」
「どれくらい?」
「通るたびに一人頭大銅貨一枚取られる関所が何百もあるって話だ」
「信じられない。馬鹿じゃないの」アルンヘイルは事前に耳にしていた噂以上の酷さに思わず悪態をついた。「入る時に高い金ふんだくるだけじゃ足りないっていうの?」
「安心しなよ。入る時にたっぷり払えばその後は出るまで何も取られないさ。いくらだったかは忘れたが、とにかく、領地に入る時、関所で鑑札を買えるんだよ」
「大銅貨二十だ」
密かに聞き耳を立てていたらしい酔っ払い客の一人がすかさず言った。ずっと美女の気を引く機会を窺っていたのかもしれない。
「おう、そうだったそうだった。助かった」
「そう思うんなら一杯奢れよ」
「調子に乗るな」
亭主と客のやりとりを余所に、アルンヘイルは美しい眉間に皺を寄せた。
「二十も取られるの?」
「でも、あっちこっちの関所で少しずつ毟られるよりは安上がりだろ。そういうやり口なのさ」
極端に高いものとほどほどに高いものを並べ、奇妙な妥協の果てにほどほどに高いものを選ばせるやり方がこの世に存在することはアルンヘイルもよく知っている。それは大昔から存在する手口で、彼女もたびたび世話になったものだった。
「流石、金儲けが上手いわ」呆れと称讃の綯い交ぜになった苦笑を洩らす。「人としては随分いやらしいけど」
「それくらいじゃなきゃ金儲けなんてできんさ」亭主は楽しそうな笑い声を上げた。「見なよ、俺なんか、人が好いからあんなごろつき共相手に小銭稼ぎする人生だぜ」
「お人好しならもうちょっと値段下げろよ」
「そうだぞ、ぼったくり野郎」
亭主は酔っ払い達の野次を無視した。
「まあ、そういうわけだ、急ぎの旅だとか、特に用事があるとかじゃないなら、迂回するのも手だよ」
「なるほどね……通行料のことはわかったわ。じゃあ、治安はどう? まさか、それくらいぼったくってて盗賊だらけってことはないでしょうね」
「その点は心配要らんさ。伯爵は治安には随分気を遣ってるみたいでな、そっち方面の不満は全然聞かない」冗談めかして付け加える。「……ぼったくりや美人局、スリやかっぱらいに遭った、なんていう奴はたまにいるがね」
「そう、私も気をつけないとね」
「いや、あんたなら大丈夫さ。立派な騎士様がついてる」
「まあ、頼りになるのはその通りね」アルンヘイルはくすくすと笑って酒の残りを飲み干し、席を立った。「参考になったわ。ありがとう」
「おう。また後でな」
亭主の見送りを背に受け、アルンヘイルはラシュタルと旅の止まり木亭を出た。
スナーとフィオナは夕刻まで館内で過ごし、いくらかの収穫を得た。
スナーが調べたところによればミドルトン伯領は、大昔に亜人が定住していたのを開拓団が駆逐したが、暗黒大陸の黒人軍が侵攻してきたことで勃発したカンムーサ戦争の主戦域となって一時期荒廃し、そのカンムーサ戦争で大功を立てた将軍が戦後に領地として下賜された、といった南部の土地としてはごくありきたりの歴史を三世紀ほど歩んだ後、半世紀ほどの時をかけてありきたりからの脱却を果たし、領地改革の模範の一つとして領主達の密かな注目を浴びる土地であった。今でこそ商業と交易の地として知られるこの土地は、元々は商業とは何のゆかりもなく、農業をその産業の主体としていたのである。現在のような商業重視の方針が始まったのは、およそ半世紀前、帝都大学文学部で経済学を専攻した現伯爵コール・ミンハルト・ブランボルクの父アイフェンツ・ミンハルトの代からのことで、南部経済界を左右する今の繁栄は僅か親子二代の間に成し遂げられた。しかし、光あるところには常に影がある。経済学に魅せられた伯爵父子は商業上の要地の急速な整備に力を注ぐ一方、商業的に無価値乃至低価値と見做した地域を軽んじるようになった。失踪したモルクとハイドランが向かったジゲリントン村に至るまでの経路も、そうして半ば打ち棄てられた土地であった。だが、そういう地域の治安が悪いかと言うと、実はそういうこともない。伯爵は利用価値の低い街道の整備などを放棄しただけで、徴税や巡視の手を緩めることはしていないのである。ブランボルク親子は治安の悪化が商人と富を遠ざけることをよく理解していたらしく、ミドルトン伯領は南部でもかなり治安の良い部類に入る土地であるとのことであった。伯爵や商人と闇社会との暗い繋がりの噂もあるにはあるが、それは商業の隆盛地に自然と見られる範疇を逸脱するものではなかった。皇帝の膝下である帝都においてですら、犯罪組織が根を張り、地下経済を牛耳っているくらいなのだから。
そして、その豊かな領地を支配する当代伯爵のコール・ミンハルト・ブランボルクの人柄はと言えば、富と美食と美女を好む典型的な田舎貴族そのものだが、その才覚にはまさに諸侯と呼ばれるに値するものがあった。彼は領地そのものの価値とそこから生まれる富とを存分に活用していた。その財力を駆使して南部経済界で活躍するばかりに留まらず、帝国貴族の全国的結社「青血会」や南部の領主貴族の結社「銀月社」の他、商工組合や魔術師協会イルアニン支部を始めとする様々な団体、更にサルバトン事件以降は宮廷の差し金によって宮廷派にそっぽを向かれることとなった魔術学院にも多額の寄付をすることで、領地近辺のみならず帝国そのものの権力構造に深く食い込んでもいた。現在、その勢威には皇帝さえも一目置かざるを得ないとのことであった。また、各団体と積極的に交流を持つ一方で、冒険者組合とは対立している。組合の強大化を危険視する貴族の一派に属しており、同志達と示し合わせて組合支部の領内設置を認めず、便利屋組合なる独自団体を設立して冒険者の代替としているという。
調べ物を終えた二人は閉館時刻が迫る中、図書館を出た。玄関を出てすぐ目に入った空は、透き通るような群青色と鮮紅色とで二分されていた。既に優勢を勝ち取った群青が鮮紅を地平線へと追い立てていく。だが、さきほど時計塔が五時の鐘を鳴らしたばかりだ。日の入りまでは大分間がある。旅の止まり木亭に着いても太陽はまだ地平線から顔を出したままだろう。
スナーとフィオナは沈みゆく夕陽が投げかける物悲しい紅陽が投げかける陰影に彩られた街並みを歩き、宿へと戻っていった。
旅の止まり木亭を出た後も、アルンヘイルはラシュタルを従えて更に情報収集を続けた。彼女は他の旅籠や酒場にも足を運び、人々の話を聞いて回った。やはり、冒険者やその関係者の視点だけでは見えないものもある。旅人や行商人、同業者である傭兵などが集まる場所にも顔を出し、多角的な情報を得る必要があることを彼女はよくわきまえていた。
徹底した情報収集の末に得られた情報は、結果だけを見れば大したものではなかった。大半は旅の止まり木亭で聞いたものと変わらず、それ以外の情報と言えば、ミドルトン伯が貴金属や宝石の取引に関心を深めたらしく関連商人と頻繁に接触するようになったので、関連相場に気をつけないといけない、などのあまりアルンヘイル達には関係のないものばかりであった。
しかし、似たり寄ったりの話ばかりでつまらなそうな顔をしていたラシュタルと違い、彼女は無駄足を踏んだとは思わなかった。確かに新しい情報を得ることはできなかったものの、既に得ていた情報の裏を取ることには成功した。たった数時間の調査であることを思えばまずまずの成果と言えた。
アルンヘイルとラシュタルが最後と定めた酒場を出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。仕事を終えた人々が街路に溢れ、酒場や家へと急ぎ、街灯管理人達が街灯に火を点して回っている。
「ちょっと遅くなりすぎたかしらね」
アルンヘイルは西側の家屋の陰から僅かに覗く赤光に目を細める。
ラシュタルはゆっくりと首を振った。
「日没まで四半刻はある」
「だったら、ちょっとゆっくり歩かない?」
「構わぬ。いっそのこと、日が沈むその時に奴らの前に着くようにしてはどうだ」
ラシュタルの顔には悪戯を企む子供にも似た無邪気な表情があった。アルンヘイルもくすくすと笑った。
「いいわね。スナーの奴がどんな顔するか楽しみだわ」
「不味い酒を飲んだような顔だろう」
普段は寡黙なラシュタルが、今日は珍しく饒舌だった。じっとアルンヘイルの聞き込みについて回る間に大分鬱憤が溜まっていたらしい。半闇エルフの麗人は恋人のわかりやすさに、思わず小さな笑い声を漏らした。
市の中央に位置する大時計塔が、家路の鐘を鳴り響かせ始めた。それに釣られるようにして、職人の守護聖人の名を冠する御子教の聖ガント大聖堂の鐘が鳴り出す。御子教に次いで市内に信徒の多い生と死の女神や商業神を始めとする各教団の神殿や弱小教団の合祀神殿の鐘も、夕方六時を市内に知らせ始める。人々に帰宅を促す甲高くも本質的には重々しい鐘の音が、聞く者の耳の奥に深く染み入るかのように、重なり合い、反響しながら大気を揺らし、街中を駆け抜ける。次の目覚めの鐘まで鳴らされることのない鐘が、休息を前に一際長く音を響かせる。鴉が唱和し、犬が対抗の遠吠えを上げる。
夕陽は城壁の向こう側に沈んでおり、イルアニン市内は世界よりも一足早く日没を迎えていた。
朝陽が地平線から顔を出した後、時計塔が目覚めの鐘を鳴らした時、人々の一日は幕を開ける。学者達が提唱する「身体の目覚め」説に従い、人々は自宅や酒場でパンを一齧りし、茶か麦酒を一杯飲んで軽い食事を摂って体を目覚めさせてから仕事や勉学に出かける。太陽が高く昇れば仕事の手を休め、しっかりとした食事を摂って一日を乗りきる活力を得る。
そして夕陽が地平線の向こうに帰る頃、人々の一日は幕引きへと向かう。疲れを癒し、労い、気分良く一日を終えるため、盛んに飲み食いをする。朝食が体を目覚めさせるための、昼食が夕方まで倒れずにいるための、それぞれ必要のための食事であるのに対し、夕食は半ば快楽のために摂られる。このため、街が暗闇に満たされた時、酒場は最も賑やかになる。
旅の止まり木亭の酒場も例外ではなかった。広くはないにせよ狭くもない広間はほぼ満員で、壁際や卓上に設えられたランタンの炎が淡く周囲を照らし出す中、人々が楽しげに飲み食いに励んでいる。カウンターもテーブルも老若男女――と言っても旅人を除けば堅気の女はいないが――で埋め尽くされ、中には立ち食い客の姿もあった。小さな舞台には楽師が上ってリュートを掻き鳴らし、酒場の喧噪を快活に引き立たせ、口と財布の紐を緩める軽快な音色を奏でている。
その中の灯りがやや届きにくい一角に、空席の目立つ丸テーブルがあった。そこには微かに揺らめく灯を受け、時に光の中に浮かび上がり、時に闇の中に沈み込む人影が二つ、隣り合って座っていた。日蔭色のコートを着て長杖を持った魔術師スナー・リッヒディートと、真銀鋼の片手半剣を腰に吊るした剣士フィオナ・カルミルスである。彼らの前に料理は出ていない。酒の入った杯が二つあるだけである。
立ち食いの者までいる中、彼ら二人しかついていないその卓の空席に近づく者は皆無だった。理由は明らかであった。頬杖をついて眉間に苛立ちの皺を作り、もう一方の手の指先でテーブルを叩くスナーの存在である。同じ卓を囲むと神罰に巻き込まれるとまで言われる魔術師という生き物が、それに加えて不機嫌そうな顔までしているのである。好んで相席したがる者はまずいない。
スナーは待ち人の遅さに苛立っていた。魔術を使って二人の居所を探る衝動にさえ駆られていた。
外では時計塔の鐘が鳴っていた。酒場の喧噪と楽の音の隙間に入り込むように響くその音は、秒針が二十動く間新たに生まれては重なり、寂しげな余韻を残して途絶えた。
鐘が残した余韻が他の音に呑み込まれ、世界が一瞬、寂しい静けさに支配された時、スナーの視界に待ち人達の姿が現れた。屈強な荒野エルフの男と美しい半闇エルフの女は、急ぐ気配もなく悠然とスナー達に近づいてくる。
アルンヘイルが気安い態度で片手を上げた。
「二人とも、随分早いのね」
「君達はもう少し早く戻れなかったのか」
スナーは嫌味っぽく言った。
「真面目に話を聞いて回ったもんだから、時間がかかっちゃってね」
平然とした態度でアルンヘイルとラシュタルがスナー達の向かいに腰を下ろした。
「それはお疲れ様でした、アルンヘイル、ラシュタル」
フィオナが労いの言葉をかけた。
「腹が減った」ラシュタルが無愛想に言った。「話は夕餉を済ませてからでよかろう」
アルンヘイルが賛成の態度を示して頷いた。
「詳しい話は部屋でゆっくりと、ね」
「では注文を済ませましょう。二人は何を食べますか」
「アルンヘイルは酒を控えめにしておけよ。酔い覚ましをかけるのは面倒臭い」
フィオナが問い、スナーが警告した。
半エルフと純エルフは少し考え込んでから、それぞれの希望を口にした。傍若無人なラシュタルも、酒を我慢して不機嫌な恋人の前で堂々と酒豪ぶりを発揮するのは流石に憚られたようで、アルンヘイルが頼む以上の酒を頼もうとはしなかった。
フィオナが手近な給仕女を呼び止め、一行の注文を伝えた。
夕食の内容は酒好きのアルンヘイルとラシュタルには物足りないものとなったが、その分を取り戻そうとでもしていたのか、彼らはとにかくよく食べた。ラシュタルは体格相応に、アルンヘイルは体格以上に、次から次へとパンや肉を口に運び、腹に詰め込んだ。その様はフィオナを苦笑させ、スナーの顔を顰めさせ、周囲の客達の目を丸くさせた。料理を運ぶ給仕達や彼らを差配する亭主は思いもよらぬ上客を目にして喜ばしげだった。
夕食の後、一行はすぐ個室に戻った。
彼らはまずしっかりと施錠した上で、遮音の魔術をかけ、範囲空間内外の音のやりとりを遮断して盗み聞きに備えた。事の軽重に関わらない、仕事の話をする上での彼らの習慣であった。
遮音の魔術の欠点は、外部の者に内部の音が伝わらない一方で、内部の者にも外部の音が伝わらないことであるが、それは内外の境目に誰かが立って左右の耳で音を聞き分けることで解決する。その役目は例によってラシュタルが担った。本来とは全く異なる聞こえ方になるので相当な負担となるが、心身を鍛え抜いた荒野エルフの勇者にとっては、さして問題にならない。
備えを終えた後、彼らはそれぞれの組が集めてきた情報を報告し合った。喋るのは専らスナーとアルンヘイルである。最初から考えることを放棄しているラシュタルは論外で、フィオナにしても、付き合う意思はあれ、二人ほど細かく物事を考え抜く力も習慣も持ち合わせていないため、単なる傍聴者でしかなかった。
どちらの情報も似通っており、互いに互いを補完するものであった。スナー達が持ち帰った情報は記録と学問に基づく高みから、アルンヘイル達が持ち帰った情報は実体験と実生活の中で地に足をつけ、それぞれミドルトン伯爵領を語った。
話を終えたアルンヘイルが思慮深い表情で簡潔な感想を述べる。
「やっぱりきな臭いわ、この仕事。調べれば調べるほどおかしいってのがわかる」
「ええ」フィオナが同意を示した。「集めた情報が確かなら、二人が消息を絶つような理由がありません」
スナーが言葉を引き取る。
「だが、現に失踪している。つまりは何かがあったということだ」
「やはり、組合に動いてもらうべきでは? 何かが潜んでいるかもしれないということでしょう」
「無駄よ。あいつらがこの程度のこと知らないわけないでしょ。知ってて様子見してるのよ」
「それで、どうする」スナーが熱のない目でフィオナを見る。「やっぱりやめるか」
「まさか」フィオナが論外だと言わんばかりに頭を振った。「見過ごすわけにいきません」
ラシュタルが険しい声と眼差しをスナーに向けた。
「呪い師、この期に及んでつまらぬことを言うな。お前は臆病風に吹かれてばかりだな」
嘲りにも似た叱責に、スナーは不本意そうに片眉を吊り上げて応じた。
「冒険が嫌いだとは言わないが、するなら、なるべく単純明快な方がいい。何も考えずに誰かを殺せばそれでいい、というような。君だってそうだろう。余計なことに気を遣うのは面倒だ」
「それは否定せぬ」
アルンヘイルも真顔で頷いた。
「私もそっちの方が気楽でいいわ。今回の件は……なんて言うのかしらね、めんどくさいことになりそうで気に食わない」
「確かに。何か見つかれば、ミドルトン伯は大いに面目を潰すことになる。恨まれるかもしれないな」
「だからと言って見過ごしてはおけません。貴族の面目のために民衆が傷つくなどあってはなりません。民衆のために血を流してこその貴族でしょう。そうでなければ、何によって貴族は民の上に立つのです」
フィオナがきっぱりとした口調で二人に訴えかけた。
「そう言うだろうと思っていたさ。それを曲げる気がないこともな」スナーは諦めの苦笑を返した。「だから俺は君の決めたことに反対しない。不平や文句は言うし、意見もするがね」
「私も同じく」アルンヘイルが肩を竦めた。「あんたに付き合ってあげるわ」
「ただ、具体的な計画は俺達の意見をできるだけ受け容れてほしい。実際、君は戦い以外の取り柄がないからな」
スナーの辛辣な評価にもフィオナは怒らなかった。感謝の表情で頷いた。
「わかっています。でも、節度はわきまえてくださいね」
「私はもう案を考えてあるわ」
承諾が得られるや否や、アルンヘイルが早速切り出し、スナーとフィオナに窺うような視線を向けた。
「元からこのつもりでいたからな」
スナーは遠回しに腹案の存在を認めた。
「そう。でも、まずは私から言わせてもらうわ」アルンヘイルが案を打ち明け始める。「まず、この件は不自然ね。さっきも話に出たけど、私達が調べた限りじゃ、あの辺に人が消える要因なんてないから。でも現に冒険者が消えてる。何か私達が見つけられなかった原因があるってことよ。ここまではいい?」
状況の整理から始めたアルンヘイルの問いかけは主語を欠いていたが、眼差しの行き先が省略された主語を明らかにしていた。
フィオナが頷く。
「大丈夫です。続けてください」
「問題はその原因が何かってことなんだけど……ここでああだこうだ言ってたってわかるわけないから、ひとまず措いときましょう。取り敢えず、用心するに越したことはないってだけね、確かなのは」黒曜石のような瞳を悪戯っぽく煌めかせてフィオナを見た。「ねえ、どこに敵がいるかも、誰が敵だかもわからない時、どうすればいいんだっけ?」
「どこかも、誰かも、ですか」フィオナは虚を突かれたように半闇エルフの顔を見つめた。少し考えてから答える。「周りをずっと警戒すればよいのでしょうか」
「正解」アルンヘイルが快活な笑顔を向けた。「そういう風にいきましょう。私達以外はみんな敵。どこに敵が潜んでるかわからない。ひょっとしたら領民も領主も敵かもしれない。それくらいの気持ちでいくの」からかうように言う。「ひょっとしたら、あの二人組が通った村が妖術師の隠れ処になってるかもしれないわよ。村ぐるみ、街ぐるみってこともあり得るわね」
「領民達を疑えと言うのですか」フィオナは悲しげに眼を伏せ、深い吐息を漏らした。「あなたの言うことが正しいのはわかりますが、あまり気持ちの良い話ではありませんね」
「気持ちが良かろうと悪かろうとやることは同じだ。やる限りはな」
スナーの瞳に皮肉っぽい光が宿った。フィオナは不満そうに唇を尖らせ、尖った目つきでスナーを眺めた。
「やると言ったからにはやります。途中で投げ出す気はありません」
「まあ、そういうことだから」とアルンヘイルが口を挟む。「私達はただ領地を通りたいだけの冒険者。それだけよ。情報集めはそこが安全だとわかってから。わかった?」
「気をつけます」
「よろしい」
アルンヘイルは微笑んでフィオナの短い金髪を撫でた。
「出発はいつにするのだ」
ラシュタルが静かに言った。
「私は明日でいいと思う。早い方がいいわ」
アルンヘイルの答えにスナーが同意を示す。
「完璧を求めればきりがない。ある程度で見切りをつけるべきだな」
フィオナも二人の顔を見て頷いた。
「私もそう思います。兵は拙速を尊ぶものです。謎が全て解けても、手遅れになってからでは意味がありません」
それを受け、スナーはまだ意見を言っていないラシュタルに視線を向けた。
「私も明日で構わぬ」
「決まりね」
「そうですね」
女性陣が頷き交わした。
翌日、スナー達はミドルトン伯爵領へと発った。イルアニン市とミドルトン伯領を繋ぐ街道は最短距離を結ぶものではなく、まず南西に向かってから緩やかに北西方向に旋回する風に伸びている。やや遠回りの格好である。
道が迂回した部分には農地が広がり、網の目のような農道が走っている。この道路は小人数の旅行者の近道としてよく利用されていたが、現在、一般の旅人の通行は禁じられている。最近、旅人によるものと思しき畑荒らしの被害が増加したことから取られた措置である。
若草の生い茂る草原を左右に切り拓いて伸びる街道の幅は二十メートル程度で、帝国の土木技術を誇示するように石畳でしっかりと舗装されている。イルアニン市の城壁の周囲は農地になっていて、麦の穂や袋黍の葉が風に吹かれて豊かにざわめく様が見える。
そこから更に離れて行くと、今度は草原に新たな農地や居住地を建設しようと試みる人々の集落が目に入る。順調に計画が進めば、十数年後には新しい村か町が地図に載り、農地が繋がり、一大穀倉地帯が出来上がることだろう。こうして帝国の広大すぎる領土は少しずつ間隙を埋め、更なる拡大の土台を築いていくのである。
旅人達に混じって徒歩で二日ほど街道を辿っていくと、十数人の武装兵が屯する関所が街道上に見えてきた。幅二十メートルほどの街道の中央に門があり、その両脇を柵がそびえている。街道脇には石造りの小さな砦のような建物もある。武装兵はミドルトン伯の配下で、砦もどきは彼らの詰め所である。
通行者達は兵士達の前で、徒歩の者と車輛付の者とに分かれて歪な縦列をいくつか作っている。ざっと百人前後が並んでいて、一人抜けると新たに一人後ろにつくといった調子で、列全体の人数は一向に減る気配がない。
彼らの内、徒歩の者は兵隊との二、三のやりとりの後、街道利用税を支払って通り抜けていく。馬車や荷車を通過させようとする者は荷物を検められ、街道利用税の他、然るべき関税を取り立てられている。
スナーの精確な時計が半時間と八分十八秒が経過したことを示した時、ようやく彼らの順番が回ってきた。
下士官らしい中年兵士が横柄な一瞥を一行によこした。筋骨逞しく、いかにも強そうだった。領地の顔とも言える場所だけに、それなりの人員を配してあるらしい。
「お前達は何者だ」
下士官の態度は威圧的だったが、話し方からはまともな躾と教育を受けて育ったことが窺えた。
「我々は冒険者です」
頭であるフィオナが答えた。
「来訪の目的は?」
「平和街道に出るために御領地を通り抜けさせていただきたいのです」
「そうか。では、街道利用税を納付するか、領内自由通行鑑札の発行を申請するかを選べ」
どうするかは事前に取り決めてあったので、フィオナは迷わず即答した。
「鑑札の発行を申請します」
「手数料は一人頭大銅貨二十枚だ。四人分だな?」
フィオナは頷いた。
「手数料を払え」
「銀貨一枚で釣り銭をいただけますか」
「支払いはここじゃない。あっちだ。多分釣りはあるだろう。とにかく係に訊いてくれ」
下士官が顎をしゃくった先には、貨幣を収める鍵付きの箱とその横に控える神経質そうな官吏風の男、その周囲を取り巻く兵士達の姿があった。
フィオナが代表して支払い所に向かい、役人に鑑札発行を頼んだ。彼女は請求された通りに銀貨一枚を差し出し、釣り銭の大銅貨二十枚と一緒に、伯爵の家紋と古典語の文章が焼きつけられた四枚の木札を受け取った。
戻ったフィオナは鑑札を仲間それぞれに分配した。彼らは一人ずつ兵士達に提示して関所を通り抜けた。
関所の向こう側の風景も、イルアニン市管区のそれと大した違いはない。道の左右には草原があり、時折森が見え、霞むほどの彼方に山脈が薄らとそびえていることは変わらない。明確に違いと言えるのは、敷設と管理の責任者がイルアニン市ひいてはエイゼンノルト県や南部総督府ではなくミドルトン伯個人であるため、街道の舗装の様式が若干異なっていることくらいであった。
関所から少し進んだ所でフィオナが憂いに満ちた顔で口を開く。
「あのような調子では危険人物が入り込み放題です。お金さえ支払えば誰でも通れてしまうではありませんか」
「あれと言うと、関所のことか」聞き返し、スナーが溜息混じりに答える。「君はいつもそういうことを気にするな。そんなのはあの関所に限らない。平時の関所なんてどこに行ってもあんなものだ。一日に何百何千も相手にするんだぞ。一々厳重にやっていたらとんでもないことになる」
やりとりを聞きつけてアルンヘイルが笑う。
「フィオナ、世の中に完璧なものなんかないのよ。中途半端に手間をかけるくらいなら、他のところにその分を回した方が結局はみんなのためになるの」
「それは道理です。ですが、言い訳です。より良くしようとすることを投げ出す理由にはなりません」
黙々と歩くだけというのもつまらないと思い、スナーは二人の会話に乗ることにした。口を噤むのは疲れてからで十分だった。
「現実主義者と理想主義者の不毛な言い合いだ」この世に存在する数多の不毛な思想的対立に苦悩する哲学者のような表情を作って、わざとらしく深い溜息を漏らす。「どっちも正しいことを言っているからたちが悪い」
「敵が現れれば殺せばよい」ラシュタルが事もなげに言った。「殺し続ければいつか現れなくなる。それだけのことだ」
「何よ、ラーシュ。私の前でフィオナの肩を持つの?」
しかしながら、アルンヘイルの声には棘も険もなかった。あるのはからかいの響きだけだった。
「私は世の中はそういうものだと思っているだけだ」
「殲滅すればいなくなる、か。いい言葉だ。殺せば死ぬ、に匹敵する」
スナーは苛烈な戦士の言葉に乗り、唇を笑みの形に歪めた。
「人が罪を犯すのではなく、環境が人に罪を犯させるのです。無論罪人を放免する理由にはなりませんが、それを無視しては、どれだけ罪人を斬ろうと何も変わりません」
「『皆の首を斬ってしまえ。人がいなければ罪もない』。イヨゼフ苛烈王の言葉だそうだ」暗黒時代に王国を統治していた君主の言葉を引き、スナーがからかうように言った。「そして実際、イヨゼフ二世は街を一つ地図から消したと伝えられている。妖術の都と呼ばれたランケストをな」
「あれは我が国の汚点です!」祖国の偉大な精神と文化に誇りを持つフィオナが不愉快そうに吐き捨てた。「何が苛烈ですか。野蛮の間違いでしょう。それに、私が言いたいのはそういうことではありません」
「わかってるって」どうでもよさそうにアルンヘイルが相槌を打つ。「罪を犯すように周りが育てるし、罪を犯せるような状況を周りが作るっていうんでしょ。でも、人なんてそんなもの。あんた達が神様や天使様みたいに思ってるエルフにだって悪い奴は一杯いるわ。掟や掟破りの罰なんてものがわざわざ決められてるんだからわかるでしょ。どいつもこいつも、いつでもどこでも、罪を犯す理由を見つけるのだけは上手なのよ」
「それでも善く生きる人々、そう在ろうとする人々はいますよ」フィオナはきっぱりと言った。「善く在るための尊い努力は怠るべきでない、と私は思います」
傍聴するスナーが荒野エルフの大男の隣に並び、深い嘲りを宿す微笑を浮かべた。
「見ろ、ラシュタル。無知無学の徒が哲学上の大問題をあんなにも簡単な言葉で論じ合っているぞ。まったく、こんなにも簡単に本質を表わせるものに、大学まで出た学界の至宝たる哲学者共は一体何万の術語を費やせば気が済むんだかね」
ラシュタルは冷ややかな一瞥をくれた。
「鏡に映った奴にでも訊くがよい」