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剣と魔法と怪物の物語  作者: 沼津幸茸
ウェイラー・サルバトン『真正魔術ノ基礎』
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ウェイラー・サルバトン『真正魔術ノ基礎』

序文

 本書は新たに我が真正魔術学舎に属して学士課程に臨むこととなった学徒達の学習の便宜を図るため、真正魔術博士としてまた大博士や導師として筆者が行なってきた講義の経験を基に、真正魔術を志す者が事前に備えておくべき基礎的知識を要約すると共に、基礎課程の履修内容の重要部分を真正魔術師流に解釈し直したものである。本書が真正魔術師を志す学徒の学習の足がかりとなることを切に望む。ただし、本書は概論にして要約であることを諸君は理解しなければならない。本書を読むだけでは肝心なことは何一つとして諸君のものとはならぬ。本書の位置づけはあくまでも講義の補完にして要約である。講義を理解できぬ者が理解の糸口を求めて、講義を理解した者が本質を再確認すべく、繙くための書物である。

 なお、本書が、魔道士カイバー・ベルトン・アベリボイエン無爵前真正魔術導師、魔道士ウストファルト・ウェルグナー大博士の助力と査読を得、魔道士ゴリーク・ミルトホーゼン学長の認可を得ていることを明記しておく。このことは即ち、筆者を含む特定個人の見解であることを特に述べている部分を除き、本書が真正魔術学舎ひいては魔術学院の公式見解に準じるものであることを意味する。

 最後に注意を述べておく。本書の内容はあくまでも執筆時点でのものである。版を重ねる都度、内容を適宜修正する予定ではあるが、性質上、どうしても最新の情報を網羅することは不可能である。もし諸君が本書と矛盾する情報に触れた場合は、その出典が魔術学院の公認する講義或いは人物乃至著作物であればそちらを優先し、それ以外のものは導師や大博士乃至博士号保有者の判断を仰ぐようにせよ。


署名

魔道士ウェイラー・サルバトン真正魔術導師

魔道士ゴリーク・ミルトホーゼン学長

魔道士カイバー・ベルトン・アベリボイエン無爵真正魔術大博士

魔道士ウストファルト・ウェルグナー真正魔術大博士


帝国暦五二二年天蝎月十三日 記



一、魔術師の資質と姿勢

 魔術師に求められる資質と姿勢をまず述べよう。これは入学直後或いは基礎課程において語られたものとはやや内容を異にするため、真正魔術師を志すのであれば、よく肝に銘じよ。

 魔術師に求められる資質は何か。そう問われた者の多くは、星幽光に関連する能力を挙げる。その中で最も挙げられやすいものは操作力である。感応力や保有量を挙げる者もいる。奇を衒ってか、抵抗力を挙げる者もいる。次に挙げられやすいものは、魔法の知識や知性の明敏さである。しかし、ここまでに挙げた全ては、決して蔑ろにしてよいものではないにしろ、魔術師の資質として最重要のものでは有り得ない。それらは訓練と教育と研鑽によって修得成長の可能なものであり、またそうした練磨を経なければ満足な働きを示さぬものである。我々が最も重要視する資質は、いかなる訓練や教育を以てしても、またいかなる研鑽を行なったとしても、容易には涵養不能な資質である。それは主として人格に属する。要約すれば適切な性格、強靭な意志、強烈な動機である。適切な性格とは魔法に対する愛着や執着、親和性の他、残り二つの資質を強める性質のものを指す。強靭な意志は、目的を成すために必要なことをやり抜く力や目的を妨げるものに抵抗する力、要するに自制や自律や勇気に関するものである。強烈な動機は是が非でも魔術を修得したいと当人に願わせる原動力に当たる。相互に関連し合う分かちがたいこれら三つの精神的資質こそが、魔術師にとって最重要のものである。完璧な魔術師とはこれらを極限まで高め上げた人物を指すのであり、仮にそうした魔術師が満足に星幽光を操る力を持たなかったとしても、それは容易に取り返しのつく些細な欠点である。これらの資質は磨こうと思って磨くことのできるものではないが、しかし、常に磨こうと思い、そのために足掻かねばならぬものである。

 魔術師に求められる姿勢は、常に学習し、思考し、実践し、反省することである。これらはどれ一つとして疎かにされてよいものではない。一つでも欠ければその者は魔術師として失格である。また、この無限の循環には禁忌や聖域があってはならない。魔術上達のために必要とあらばいかなることも避けてはならぬ。しかし、その聖域を侵し、禁忌を破ることが諸君の魔術師としての在り方そのものを確実に損なうであろうと考えられる場合はこの限りではない。魔術上達に恋人の死が必要であったとしても、ある人物の魔術を修行する動機が恋人であるとするならば、その修行は無意味である。他の手立てを求めねばならぬ。従って、最終的に要不要を決める者は他ならぬ諸君であり、諸君の指導者ではないことも忘れてはならない。諸君の指導者は諸君ではない。たとえ筆者や他の大博士といった権威ある指導者が必要と主張したとしても、諸君個々人がそう考えぬのであれば、諸君はそれを決然として拒まなければならないのである。逆に、指導者が必要でないと主張したとしても、諸君が必要を感じたのであれば断行せねばならぬ。ただしかくの如き反抗は、指導者から赦しがたい不服従と見做され、懲罰を科されることを覚悟した上で行なわねばならない。諸君は筆者の勧告に理不尽を感じたことであろう。しかしながら、魔術師とは、否、人とはそういう存在である。全てに責任を持ち、決定し、障碍を排除し、自己の目的を成就する存在である。ゆえに本質的な意味において魔術師に味方はいない。その人生に存在するものは、顕在的或いは潜在的な敵、一時的な協力者、そして局外者のみである。



二、魔法の基礎的知識

 続いて魔法の基礎的知識の説明に入る。基礎課程を終えた諸君には退屈なものとなることであろうが、先述した如く、基礎を等閑にする者は奥義に至ることはできぬ。大魔術師として知られる者の凋落は基礎を侮蔑した時に始まる。星幽光の流れに消えた偉大な先人達、そして手酷い失敗をしでかした諸君の先輩達は、皆、基礎的事項を疎かにしたことによって、価を取り立てられることとなったのである。ただし、筆者は諸君が基礎課程の内容を理解しているものと期待しているため、この退屈な講義はあくまでも概観に留める。


二‐一、基本的質料

 根源光、星幽光、精気光。まずはこれらの基本的質料を概観する。


二‐一‐一、根源光

 根源光とは、未だ観測されざる仮想質料である。全くの「無」であった宇宙に現れた最初の「有」であり、最も可塑的で、濃密で、精妙で、中性であったが、非常に不安定であったため、発生と同時に崩壊して星幽光へと変化或いは凝固した、とされる。筆者の見解を付記すれば、それが真に万物の根源であるかはともあれ、この質料は実在するもしくはしたものと思われる。錬金魔術の手法を用いて星幽光を精錬していく実験を行なったところ、物質が精気光を経て星幽光に融解し得るように、星幽光もまた最低でももう一段階、気体星幽光から更に変成し得ると推定するに足る成果が得られたためである。

 実験の詳細は筆者の実験記録「根源光の存在を検証するための星幽光気化実験」を参照せよ。現時点で記録は六部作成され、保管されている。共同実験者である筆者、ベルトン・アベリボイエン師、ウェルグナー大博士が一部ずつ保有し、一部が学舎の図書室に保管され、二部が学院に提出されている。学院に提出した内、一部は学院図書館にて公開されており、学院に所属する誰もが閲覧可能である。


二‐一‐二、星幽光

 星幽光は我々が現状確認されている中で最も根源的な質料であり、意志の影響を受けて変性する特質を持つ。現在の観察によれば、万物はこの質料を素材とする様々な加工物に過ぎない。この根源的質料は様々な名で呼ばれる。かつては第一質料と呼んだ者もいる。聖職者や俗人は、神力、魔力、精霊力などとそれぞれの都合によって呼び習わす。しかし、我々はあくまでも星幽光の名称を用いるものである。たとえ、星々の煌めきをこの質料と同一のものと取り違えた先人の過ちがつけた名であろうとも。

 星幽光は一般に、固体と液体と気体の三態、精妙と粗雑、濃密と稀薄、中性と偏性、活性と不活性の五軸を以てその性質を分析することができる。この根源的質料は凝固するにつれ構造が固定されて物質に近づき、精気光を経て物質と化す。逆に融解するほどに固有の構造を失って可塑性が高まり、気化に至ると統一を失って渾沌と化す。精妙になるほどに強く、粗雑になるほど弱くなる。強ければ効力は高まり、また強固かつ高等な物質に変成可能である。弱ければ効力が低まり、また軟弱かつ下等な物質にしか変成できない。なお、気体に近づくほど星幽光はより星幽的となり、即ちより高次の星幽界に属するようになる。気体と化したものは分解の手間が省けるため、魔法の発動がその分だけ容易となる。また、精妙なものはそれだけ強い作用を持つため、魔法の効力を増加するために精錬を行なう必要が少ない。純粋に発動と制御そのものに注力せねばならない高度な魔法を行使する際には、可塑性の高い星幽光を求めて高次星幽界に意志を及ぼし、精妙な星幽光を求めて魔法発動場所を選ぶ必要も或いは出てくるであろう。さて、星幽光が濃密となれば存在感と影響力が高まり、魔法を行使する労力を和らげると共にその効力を高めるが、魔法を不安定化させる要因ともなる。稀薄となれば存在感と影響力が低下し、魔法の発動に有する労力を増す一方で効力を減衰させるが、それに伴って魔法が暴走する危険性を和らげる。その性質が中性であれば、特定の魔法の行使に親和性を示すことこそないものの、様々な魔法に安定した作用を発揮させることができる。中性星幽光はそれに触れる者の固有性質を星幽的に稀釈する危険かつ有用な働きを持つが、本質を歪め、偏らせ、魔法変異をもたらすことはない。偏性であれば、その性質に応じてある魔法の効力を増進し、ある魔法の効力を減退させることとなる。またこの偏性星幽光は、それに触れる者に強い影響力を及ぼし、その心身を侵蝕し、偏性の結果として魔法変異をもたらす。この影響力は、星幽的稀釈と偏性の双方を含むものである。活性であれば正常な作用を発揮し、不活性であれば一切の作用を発揮することなくただそこに存在するのみである。ただし、活性と不活性については原則考慮する必要はない。なぜならば、星幽光は自然状態において常に活性状態にあり、不活性状態は必要な操作が施された時にのみ起こるからである。

 星幽光の変成は、外部的作用の働きがない限り、常に一定の法則の下起こる。まず、その基本状態は液体であり、外圧なくしては決して凝固しない。気化はするが、気体星幽光は絶えず液化するため、結果として星幽光は気化と液化を繰り返す。濃密と稀薄は平衡を求めて混ざり合い、精妙は崩れて粗雑となり、偏性は正されて中性に整えられる。


二‐一‐三、精気光

 精気光は星幽光が凝固して物質化する過程で現れる一時的状態であり、星幽光と同様、意志の影響を受ける。

 物質と星幽光の中間に位置する媒介であり、物質と星幽光の双方に干渉する性質を持つが、理論上の根源光と同様極めて不安定な質料であるため、維持するために何らかの作用が働かない限り、すぐに星幽光に還元される。ゆえに一部の例外を除き、精気光が恒常的に存在し続けることはない。一部の例外としては、肉体と精神を有する生命の構成物として存在する場合が代表的である。生命体においては、精気光は物質体と星幽体を結びつけて重ね合わせ、双方を維持する役目を果たすため、生命体としての機能が絶えず星幽光を精気光に変成する。星幽光に融解して失われる側から不足分が補充されるのである。このように生命体に内包されるものに限って生命力と呼ばれることもある。

 星幽生物が物質界に干渉する際にも精気光が用いられる。物質に干渉可能ないわゆる悪魔や幽霊の類は、星幽光で構成された体の一部または全部を恒常的或いは一時的に精気光に変成する。星幽生物が精気体となって顕現する場合、彼らは本来の実力の半分も発揮できない上、往々にしてその活動も決して長時間のものとはならない。不安定な精気体を維持するために多くの力を割かねばならない以上は長続きするはずもなく、綱を渡るようにして維持される精気体は些細なきっかけで均衡が崩れて霧散してしまうのである。そういう意味において、彼らを退けることは比較的容易い。星幽界に足を踏み入れた我々が水に放り込まれた獣であるとすれば、物質界に現れた星幽生物は陸に上がった魚である。魚が余程巨大で凶暴でない限り、どう料理するも諸君の思うがままである。しかしながら、彼らは何らかの手段から肉体を持つこともある。その際、精気体を肉体と化すまでに凝固させる者は少なく、多くの場合、既にある肉体に憑依して乗っ取る形で行なわれる。一般に悪魔憑きと呼ばれる現象はこうした肉体奪取の一例である。この場合は注意が必要である。安定した肉の体は彼らを物質界に定着させ、顕現の維持に労力を割く必要をなくすため、彼らはその全力を活動に振り向けることができるからである。肉体を得た星幽生物は憑代の素養に応じて物質界に影響力を発揮することとなる。ただし、強力な星幽生物の器たり得る肉体は少ない。多くの場合、器となった肉体は長持ちしない。虚弱な肉体が強力な星幽生物を受け容れたならば、酒を注がれた紙杯のように、注ぎ込まれたものに耐えきれずに溶け崩れてしまうことであろう。


二‐二、星幽界と物質界

 星幽界と物質界についても述べておく。これは星幽的感覚を使いこなせる者にしか厳密には理解し得ない説明であるが、星幽界と物質界は単一の世界の異なる側面である。両者は決して別々の場所に境を隔てて存在するものではなく、同一の場所に存在している。言うなれば、ある物体における見かけであるか匂いであるかの違いである。或いは星幽界と物質界とは賽の異なる目であるとも言える。こうした各側面を捉え、見分ける星幽的感覚とは、五感に続く第六以降の感覚の総合である。この感覚を霊感と呼ぶ向きもある。ゆえに、生来の盲者が真の意味で物の外観を知ることができないように、星幽的感覚を持たない者はこの二重存在の原理を理解することができぬ。しかし、精神を持つ全ての存在は、星幽光の凝固物である肉体と星幽光の塊である星幽体を精気光を介して癒着させ、連動させている。このため、理論上、仮に星幽的感覚を目覚めさせていない者がいたとしても、訓練によって感覚を開発すること自体は可能である。よって、もし今理解が及ばないとしても悲観する必要はない。今は虚心に理論を学べばよい。もっとも、基礎課程を終えた諸君にとって、これは最早力量の不足を補い勇気づけるための知識ではない。いずれ任される後進指導における前提知識である。


二‐二‐一、星幽界

 星幽界とは先述した世界の側面の内、我々が「物質界の空間上の星幽光」としてではなく、はっきりと「星幽界」として認識する領域である。ただし、厳密には、物質界との区別の曖昧な前者を「低次星幽界」、純粋に星幽光の領域として区別し得る後者を「高次星幽界」と呼ぶ。

 精神の領域とも呼ばれるこの側面は三態の星幽光――凝固しかけの流動星幽光、液体星幽光、気体星幽光――から成り、複雑に絡み合っている。大気と大地と大海が攪拌されて渾然一体を成したさまを想像すればよい。渾沌に満ちたこの側面では、星幽光の気化や液化、意志ある星幽光――生物の意識や星幽生物――の活動、物質界の状態が連動し合い、荒れに荒れた大時化の海の如く狂乱した潮流が起こっている。星幽光の自然な物質化はこうした混乱の圧力を受けて星幽光が凝固することで起こる。

 この荒波は、星幽界を介して行使される遠隔魔法を困難なものとする最大の要因でもある。星幽界において距離は、彼方と此方、彼と我を区別する便宜上のものである。物質界における距離とは異なり、その接触の難易度や労力を決定づけるものではない。しかしこのことは、全てのものが限りなく近いことを意味するだけでなく、全てのものが限りなく遠いことをも意味する。手許にあるものは実は世界の果てにあり、世界の果てにあるものは手許にあるのである。無限の広さを持つ大時化の大海で目的とするものを手探りで求める困難を想像してみるがよい。更にその荒海においては、そこにそれがあるとの確信なしには何一つ掴めはしないのである。これこそが遠隔魔法の困難さである。海の比喩を引けば魚に当たる星幽生物でさえも、目印や手引きなしには何も見出せない。星幽生物が易々とこなせないこの難業を人の身で行なおうとするのであれば、魚からすれば無様な犬掻きに過ぎない程度の動きを身につけるだけでも、人生を捧げるほどの修練が求められる。


二‐二‐二、物質界

 物質界とは星幽界を認識する以前の諸君が「世界」と認識していた側面である。星幽界の精神の領域との異称に合わせて、肉の領域と呼ばれることもある。魔術的観点から物質界を説明する。物質界は完全に凝固した星幽光から成る。物質界と星幽界を別個のものとする誤解は、星幽光の凝固物が凝固していない星幽光に干渉し得ず、凝固していない星幽光も凝固物に干渉し得ないことから生じるものと思われる。この側面の事柄に関しては、魔術よりもむしろ、上述の誤解の産物とも言える物質科学が詳しいため、説明はそちらの学問に譲る。


二‐三、魔法と魔術

 魔法と魔術。次はこのよく似ており、混同されることも少なくない二つの用語の違いを述べたい。


二‐三‐一、魔法

 魔法とは即ち意志に基づいて行なう星幽的操作全般である。これは大王国の首席宮廷魔術師ゼノー・オルギアスが提唱した三系統に分類できる。素人魔法、信仰魔法、そして学理魔法である。詳しくは後述するが、魔術とはこの内の学理魔法の一種に過ぎない。

 これらの使い手は決して人類のみに限られるものではない。星幽的操作でありさえすれば、いかなる種族が為したものであろうとも、それは魔法である。なお、星幽界を海とし、星幽生物を魚とする場合、人の営みは水泳に当たる。通常の営みは波の向くままに大洋を漂うようなものだが、魔法の行使は派手な飛び込みや意欲的な水泳に当たる。初歩の魔法はともかくとしても、高度な魔法を行使する場合は、それが招く水柱や波紋は酷く目立ち、魚達に己の存在を喧伝する結果となる。低次星幽界において大量の星幽光を動かす際は勿論、高次星幽界に意志の力を及ぼす際は、取り分け注意が必要である。小魚は怯えて逃げ去るであろうが、鮫や鯱は却って獲物を求めて寄ってくることとなろう。然るべき準備なく高度な魔法を行使するのは慎むのが賢明である。


二‐三‐二、魔法の基礎的作動原理

 三つの系統を論じるに先立ち、魔法の基礎的作動原理について述べておく。

 魔法とは意志によって星幽光が動かされることで発生する現象である。従って、星幽的操作とは星幽光に意志によって働きかける行為を指す。効率や精度、安全を左右する種々の技法――これは各系統や魔術体系を分けるものでもある――を考慮の外に置くとすれば、この操作は窮極的には単にかくあれかしと願うだけで完遂される。

 星幽光に意志を伝達することは精神を有する者であれば誰であっても可能な行為である。なぜならば、精神はそのための機能を具えているからである。逆を言えば、その機能を持たぬ限り、それは精神ではない。意識や思考、記憶といった諸機能と密接に関係するその機能を我々は「意志」と呼ぶ。

 意志を伝えるものが意志であるとは一体いかなることか、と諸君は疑問に思ったことであろう。回答は明快である。意志は強まると自ずと他への干渉力を発する性質を持っているのである。弱い意志は当人の内部でわだかまるのみだが、強まった意志は当人を衝き動かし、激しく燃え上がった意志ともなれば星幽光を直接衝き動かすに至る。即ち、星幽光に意志を伝達するとは、意志を極限まで強めることに他ならない。

 意志を強める手段は様々にある。代表例が呪文や儀式、そして触媒であるが、魔法に無知な者達が考えるのとは異なり、触媒を除くこれらの大半は――無意識と呼ばれる精神の根源的な部分に働きかけるための――単なる自己暗示の道具であり、それ自体が何らかの有効な星幽的効力を有するわけではない。本当にそれ自体が星幽的効力を持つもののみを選り抜こうと試みたならば、手元には一握りが残るのみである。こうした気休めに過ぎぬ小道具の数々に興味のある向きは、ルベルヒルト・ボズワー純粋魔術博士の『迷信大全』の最新版を参照せよ。ただし、筆者はこうした小道具の使用を決して否定しない。こうしたものに何か神秘的な力があるのではないかと信じ、使用することによって十分に昂ることのできる無邪気な精神がこれらの助けを求めることを筆者は大いに奨励する。何であれ、魔法の効力を高めてくれるのであれば歓迎すべきである。ただし、いつまでもこうした事物に囚われたままの者は素人魔法使いか聖職者にはなれても魔術師を名乗るに値しないことも述べておく。魔術師は修行を進めるほどに小道具の無意味さを悟り、さながら幼児が歩き回るのに支えを必要としなくなり、大人がむしろ支えを邪魔に感じるように、その補助を必要としなくなるものである。一方、触媒となると事情が変わる。こちらも単なる自己暗示のための代物が多いが、それと同じほどに星幽的効力を有するものも多い。代表と言えるものが、諸君が学士号を得るに際して作成する専用の長杖である。魔術師各人によって星幽的に磁化され、当人のために最適化された長杖――学院は認可していないが理論上、指環や剣、短杖であっても問題ない――は単に魔術師の身体の延長であるばかりか、使い手が魔法を行使する際にその心身を星幽的に活性化させ、力づける働きを持つ万能の触媒である。長杖は魔術師にとって一生の従者となる。その製作と管理には全霊を傾けよ。魔法乃至魔法的なものが附与された物品もよい。保護魔法が附与された衣服であれば防性魔法を行使する意志を補助し、武人の凶暴な闘志の染みついた武具であれば攻性魔法を行使する意思を補助する。神像であれば当該宗派の教理に適う意志を後押ししよう。所有者の怨念が取り憑いた遺品であれば呪詛に最適である。自然現象や物質の再現を求めるのであれば、それらの実物がよい。火炎を生み出したければ火を、大気を酸の霧で満たしたければ酸を、手本或いは核とするのである。

 さて、ここまでに述べた通り、魔法の行使は極めて精神に負担を強いる。負担は精神活動の鈍磨即ち倦怠感として表われる。魔法を行使した術者は、意志、感情、知性といった精神的諸機能の鈍磨に見舞われる。これは星幽的能力には無論のこと一個の日常生活の能力をも減衰させる。従って、魔法行使の試みは回数を経るごとに困難化していく。初歩的なものや術者の心身に緩やかに作用するものであればともあれ、魔法の名に値する劇的な作用を持つものともなると、連続的に――即ち十分な休憩を取ることなく――五回ほども行使できれば一人前と言えよう。簡単なものを十回ほど、困難なものを二、三回ほども無休憩で行使できるようであれば一流と呼んで差し支えない。我が学院の基準においては、先述の一人前程度の者を学士級、一流程度の者を修士級、それを幾分か上回る程度の者を博士級、単に博士級と呼ぶには強力な者を導師級と定義している。一例を挙げれば、導師級と見做されている筆者は一般的な魔術――学士や修士が苦労して発動するもの――を難なく行使し、博士が一時に十回も行使し得ない大魔術を数十回行使し得る。導師級以上の定義は未だ設けられていないが、仮に定義するとすれば、それは強大な星幽生物――大悪魔や大天使の如き者――のためのものとなろう。しかしながら、ここで述べた基準はあくまでも星幽的操作能力に対するものである。そのまま対象者が学士や修士と同等の技能や学識を有することまでは意味しない。従って星幽的操作能力に言及するのであれば、たとえば「学士級の星幽的操作能力」といった風に用いなければならない。もし単に学士級と呼ぶとすれば、技能、学識、星幽的操作能力等の全て乃至ほとんどにおいて学士と同等と見做すことを意味する。


二‐四、魔法系統

 続いては魔法の各系統についての説明を行なう。繰り返しになるが、ゼノー・オルギアスが提唱した三つの系統は、素人魔法、信仰魔法、学理魔法によって構成されている。


二‐四‐一、素人魔法

 素人魔法とは星幽的操作能力の高い者が、訓練を受けることも理論を学ぶこともなくその才能と欲求のままに行なう星幽的操作を指す。中立的に天賦魔法と呼ぶ者もいるが、正式な改訂がなされない限り、我々は伝統に従って素人魔法と呼ぶものとする。

 一定の方式や正確な理解を伴わずに弄ばれるこの系統は、混乱と危険に満ち、常に使い手を狂気と破滅に晒す、最も劣った魔法系統である。最も自由度の高い系統でもあるが、その自由は使い手のためのものではなく魔法のためのものである。これは目を瞑ったまま釘に振り下ろされる金鎚であり、患部を考えなしに斬り落とす斧であり、歌詞と旋律の一定しない酔漢の歌謡であり、直感のみで証明される論理を欠いた数学である。望んだ効果が過不足なく顕れることは稀であり、その心身が星幽光に蝕まれずに済むことは更に稀である。この系統の使い手で、心身に深刻な魔法変異を抱えずに済む者はまずいない。ただし、ここまでに述べた危険性が当て嵌まらない術者も存在する。天才と呼ぶに値する才覚を持つ超人と、星幽界に住まうために独自の進化を遂げた星幽生物である。彼らが行使する魔法を素人魔法と呼ぶことはあまりにも畏れ多い。天賦魔法とは彼らのためにある言葉である。


二‐四‐二、信仰魔法

 信仰魔法とは最も強力かつ確実でありながらも不自由かつ危険な星幽的操作方式であり、これが実際に効力を及ぼす現象は一般的に奇蹟と呼ばれる。人々が「神」、「精霊」、「魔王」、「悪魔」などと呼び習わす星幽界の存在――ここでは一纏めに「神」と表記する――に意志を伝え、その意志が叶うように星幽光を操作させることで奇蹟は起こる。

 実現される操作の効力や正確性は、ひとえに術者が「神」とどれほど緊密に結びつき、どれほど強力かつ明確に意志を訴えられるかによって決定される。つまり、術者はただかくあれかしと望むだけでよく、細々とした制御能力などは一切必要とされない。成否を分けるのは祈りの念の強力さと願いの明確さであり、これらを増幅して過たず伝達する結びつきの強さである。この結びつきの強さとは信仰魔法の使い手によって信仰心という言葉で表わされるものである。しかし、これは抽象と美化が過ぎる。彼らの言う信仰心とは、一に意志の頑強さ、二に術者の精神性と「神」の精神性の相似である。強烈な意志は叫びとなって「神」の耳に強く正しく届き、酷似した精神性は「神」が得意とする願いを生み出し、結果的に奇蹟の実現確率が高まる。

 この方式は、より強力な存在に魔法の行使を委任する点において効力と確実さを増すが、それに付随して致命的な問題を抱えている。魔法の実務を処理する者が術者でなく「神」である点である。とどのつまり、これこそが先述した不自由と危険をもたらす原因である。前提として、奇蹟は術者が願った通りにではなく「神」が願いを解釈した通りに起こる。「神」に実現不能なことは実現せず、「神」が拒否する奇蹟は実行されない。「神」の解釈と能力と嗜好が信仰魔法の使い手を制約する。戦の神に対して単に「成功」を望めばそれは軍事的勝利の形でもたらされよう。戦の神は恋人を欲情させる奇蹟を行使しないし、またその能力も有さない。更には戦の神はそうした請願を侮辱と受け取り、従僕を罰しようともするであろう。

 こうした危険を避けるためにも、またより高度な、より強力な奇蹟を求めるのであれば、即ち信仰心を高めることを望むのであれば、必然的に「神」の気に入るような生き方を心がける必要が出てくる。そのための指針が教義であり、教義に縛られれば縛られるほどに、願い得る奇蹟は強くなり、願う事柄は狭まる。愛欲の神は愛欲に溺れる者を愛し、目をかける。だからこそ信徒は愛欲に溺れて「神」の目を引こうとし、愛欲に関わらないことで「神」を煩わせぬよう気をつける。

 そうした信仰の行きつく先は神による魔法変異である。信仰魔法の使い手達は、「神」との接触によって受ける影響――我々が絶えず排除と修正を行なって星幽体と肉体を正常に保つことが望ましいと考えるあの魔法変異――をむしろ望ましいもの、「神」により近づいた証、「神」からの恩寵と捉え、歓迎する。信仰魔法の使い手はそのほとんどが「神」による魔法変異を喜び、求め、ますますその「神」との親密さを増して魔法の効力を高める一方で、人としての独立性と個性を手放し、「神」の星幽的奴隷と化していく。芸術の神の従僕は人としての生き方を捨て去り、芸術に関わることを人生の全てとしてしまう。最も敬虔な聖職者――狂信者――を待ち受けるものは、「神」の化身或いは断片の地位である。これこそが信仰魔法最大の危険である。これは聖職者達、特に御子教会が口を極めて非難する「悪魔との契約」と本質的に同一のものである。御子教司祭は説く。悪魔と結ぶ者は下僕となるか破滅するかである、と。彼らの言葉で語るならば、「神」と結ぶ者もまた尊厳を奪われて「下僕」となるか「破滅」するかなのである。

 ここで、諸君は一つの疑問を覚えたことと思われる。「神」とは何か。その問いについても論じておくこととする。「神」とは世人が認識する超越的上位者ではない。「神」が世界を創造したなどとは的外れもよいところである。むしろ、世界が――我々が――「神」を作ったと言っても過言ではない。「神」に限らず星幽界の生物は、全て素材となる星幽光に他の思念が反映された結果誕生するものである。知性と呼べるほどの知性もない原始的生命や意識が発する思念が星幽界に投影され、星幽光が形を成し、他の生命や意識に干渉し、或いは思念を星幽界に投影する。この相乗の繰り返しによって、物質界と星幽界の双方が進化と発展を遂げた。「神」も「魔王」も「悪魔」も「精霊」も例外ではなく、これらもまた生物と意識の認識が形を取って独り歩きを始めたものである。

 更に論を加え、「神」の本質を眺めるとすれば、そこに浮かび上がるのは、原始生物とは比べ物にならぬほどの知性を獲得した知的生物達が統一的な思念を長期間に亘って集団的に投影し続けることによって形作られ、常に磨かれ、補整される星幽界の巨大な偶像である。全ての「神」は偶像である。違いは、形を作り、膨らませるための核とされた哀れな星幽生物がいるか、全く無垢な星幽光が思念の力で捏ね上げられたか、という程度しか存在しない。

 なお、人々が特定の神格を意識せずに、抽象的かつ概念的な意味での神的存在への祈りを捧げた場合にそれが向かう先については諸説ある。御子教徒は普遍的な「父なる主と救い主たる御子と清らかなる聖霊」がその信仰を受け取ると誇らしげに主張する。それどころか彼らは、ありとある神々は全て御子教の聖なる三位一体の側面か部分或いはその使い走りに過ぎないとすら述べる。当然ながら、他の宗教者達はこの見解を認めていない。名もない知られざる根源的な「神」が信仰を受け取るとする者もいる。この説の支持者には、全ての神々がこの根源神に従属すると説く者も、全ての「神」はこの「神」の側面であると、まるで御子教徒のような説を唱える者もいる。他にも、行き場の指定されていない信仰はいずれの神格のものともならず、神格――に限らず星幽生物――の能力と彼らが物質界に寄せる関心を向上させるとする者もいる。個別の存在ではなく星幽界という側面そのものの拡大に繋がると説く者もいる。筆者の立場は最後に紹介した二つに近い。しかしながら、星幽界は想念の世界である。そこでは全てが実現され得る。人々の認識次第で如何様にもその色は変わる。無二の正解はなく、完全なる誤謬もない。いずれも正しく、いずれも誤りである。

 ところで、諸君の中には、神秘のヴェールを剥ぎ取られて裸体を晒した「神」を前に、新たな疑問を感じた者もいることであろう。「神」を作ることは可能か。「神」となることは可能か。理論上はどちらも是である。熱狂的な信仰を持つ祭司と敬虔ではないにしろ信心を抱く大衆、そして長き――少なくとも世紀単位――に亘る信仰。この三者を揃えれば、星幽界上に新たな「神」を作ることも、人が生きながらにして「神」となることも可能である。しかしながら、注意せねばならぬことがある。新たな「神」は類例のない新奇なものでなければならぬ。そうでなければ、似通ったもの同士が引かれ合って一つ所に集う星幽光の性質により、新たな「神」は生まれる前かその直後に既存の「神」に取り込まれ、良くてその従者、悪ければ一部となり、存在の独立を失う。宗教史における神格の習合や忘却を一層生々しくした現象が星幽界において起こるのである。


二‐四‐三、学理魔法

 さて、最後の系統として学理魔法を論じる。

 学理魔法とは我々が扱う魔術のより学術的な呼び名である、と一般に理解されている。しかしながら、魔術だけがそうであると考えることは傲慢以外の何物でもない。学理魔法とはその名の通り、体系化された理論に基づき、自らの意志と責任において魔法を行使する系統である。上述の条件さえ満たしていれば、それは学理魔法の範疇に属し得る、と筆者は考える。本章において魔術を学理魔法と同一の意味で用い、中心に据えて論を進めるのは、ひとえに諸君に真正魔術を説く目的に従ってのことに他ならぬことを諸君は頭の片隅に置いておかなくてはならない。

 この系統を低劣極まる素人魔法とは比較すること自体が冒涜的であるが、信仰魔法との比較は有意義なものとなろう。信仰魔法は単純な効力と確実性で言えば、一般的に三系統中最高である。甚だ無念なことであるが、我々の魔術もこの点にかけては信仰魔法に敵わない。自身の才覚のみで星幽的操作を行なう以上、その限界点は巨大な「神」に及ぶべくもなく、人の身で操作を行なうからにはしくじりは付き物であり、その失敗は術者に対して鋭い牙を剥く。しかしながら、我々の系統は、汎用性と自由度の面においては他の追随を許さない。素人魔法の使い手を博奕打ち、信仰魔法の使い手を大金融商会の商会員とするならば、我々は自身の資産を運用する自由商人である。常に博奕を強いられるわけでなく、組織に縛られるでもなく、自身の責任と権限で資金を動かし、才覚に応じた栄達を望み得る。魔術を用いんとする諸君に対し、筆者は、失敗を恐れず挑む勇気を期待する。成功を勝ち取った時、それに満ち足りてしまうことなく、破滅するその瞬間でさえ先に進み続ける探究心と向上心を期待する。失敗に見舞われた時、その結果を潔く受け止める覚悟か、気に入らない結果を拒んで抗い抜く気概を期待する。挑まず生きる者に災いあれ。敗れて死ぬ者に救いあれ。耐え抜く者と抗い抜く者に幸いあれ。諸君が最も必要とすべきは才能に非ず、鋼鉄の如き意志である。魔術師の資質を論じる部分で既に述べたため詳しくは繰り返さぬが、適切な性格、強靭な意志、強烈な動機を持つことが魔術上達の近道である。魂を整え、鍛え、猛らせよ。



三、魔術体系

 それでは我らが学院の定める十の魔術体系へと歩を進めるとしよう。魔術体系には、純粋魔術、元素魔術、錬金魔術、附与魔術、召喚魔術、精神魔術、幻影魔術、屍霊魔術、生命魔術、真正魔術がある。全ての魔法の原理はこの十体系の理論によって説明可能である。素人魔法も信仰魔法も魔法であることに変わりはなく、従ってそこに秘められた作用原理自体は、根本的には共通のものなのである。


三‐一、純粋魔術

 この体系は全ての魔術の基本であり、星幽的操作そのものを取り扱う。諸君はこの体系を学ばないことには他の何一つとして満足に学ぶことができない。この体系のことを一つ理解して、ようやく他の体系のことを一つ理解する下地が出来上がるのである。高みにある魔術師は例外なく優れた純粋魔術師である。それゆえに、本来の資格者が何らかの事情により就任できない場合、魔術学院学長の席は純粋魔術師に委ねられるのである。高みを目指す意思が諸君にあるのであれば、基礎課程である程度学ぶこともあってか何かと軽んじられがちなこの体系をしっかりと究めねばならぬ。

 この体系を象徴するものは灰色と円環である。何も知らない真っ白な諸君は黒き真正魔術へと向かう第一歩として基本を注入されて灰色となり、円環の始点と終点は同一である。

 この体系を極めた者は星幽光を自在に操る資格を与えられよう。


三‐二、元素魔術

 この体系は主に精気光を取り扱う。精気光を利用することで物理的現象を引き起こすのである。火球を飛ばし、竜巻を起こし、電撃を放つ。かくの如き、世人が想像する典型的な魔法を扱う体系である。ただし、そうして精気光を擬似的な火炎や疾風に変成させることがこの体系の真髄であるわけではない。諸君が目指すべきは、精気光の凝固をより一層推し進め、本物――物質界に属するものという意味での――を発生させることである。これは錬金魔術における物質生成に匹敵する難事であるが、これこそが諸君が目指すべき秘奥である。この体系を学ぶ者は星幽光の操作を繰り返し鍛錬するだけでは不十分であり、より効果的に魔術を扱うべく、自然の仕組みをも学ばなければならない。

 この体系を象徴するのは茶色と五芒星である。茶色は全ての元素を支える大地を示し、五芒星は自然を構成する五つの元素を象徴する。

 この体系を極めたならば、その者は自然を思いのままにする資格を得られよう。


三‐三、錬金魔術

 既に概要を述べた星幽光を素材として取り扱う体系である。古代に隆盛した錬金術から物質科学の要素を取り払ってより魔法的要素を強めたもの、と一般には解されている。この体系を学ぶ魔術師は、星幽光の万物の根源的構成要素としての側面を重視し、物質の変成や生成や分解を行なう。しかしながら、決してそればかりに終始するものではない。古典的な薬剤調合や金属研究など、かつて錬金術に育まれ、今では純然たる物質科学の領分とされている諸分野を星幽的観点から再検討することも、この体系の研究主題である。従ってこの体系を究めんとする者は、物質科学、なかんずく金属や薬物と関わり深い分野を深く学ばねばならない。そうして学んでいく内、諸君は自分達が究めようとしているものが、少なくともその研究姿勢において古代の錬金術そのものであることに気づくであろう。錬金魔術は錬金術に通じ、しかし錬金術を凌ぐものである。また、詳細は後述するが、ある意味において兄弟のような間柄にある附与魔術にも目を向ける必要がある。

 この体系は赤色と大釜によって象徴される。赤は錬金術師の竈で燃え盛る焔の色であり、彼らが求めて止まなかった哲人の石の色でもある。大釜の中では万物の変成が行なわれる。

 この体系を極めた者は生成と破壊の秘密を解き明かす資格を得よう。


三‐四、附与魔術

 既に形を有する凝固した星幽光に新たな性質を与える技術を究める体系である。錬金魔術との類似がたびたび指摘されるが、両者間には大きな違いが存在する。錬金魔術は対象となる星幽光それ自体を変質させるが、附与魔術は対象を損なうことなく優しく覆いを被せるのである。仮に物質を硬質化させることを考えれば、錬金魔術は物質を星幽的に融解させて硬い物質に変成し、附与魔術は物質の星幽的構造を強化する。結果だけを見るのであれば錬金魔術に一歩譲ることになるが、体系の優劣はそのように単純に決定づけられるものではない。決して砕けぬ宝石を求める者に鉄塊を与えたところで意味はない。この体系を学ぶ者は対抗するためでなく不足を補うために、錬金魔術の学習も心がけるべきである。

 この体系を象徴するのは緑色と羽根ペンである。緑は植物の色であり、植物は密やかに根を張って大地を固く引き締める。羽根ペンは対象を損なうことなく望む事柄を巧みに書き込む手際である。

 この体系を極めることを果たした者は、星幽光の与奪を欲しいままにする資格を得られよう。


三‐五、召喚魔術

 この体系においては、空間を歪め、他者を支配し、思うがままに呼び寄せ、働かせる技術が追究される。星幽光の流れを歪めることで空間を歪め、星幽光を介して意志を伝達することで他者の精神を隷属させる。物質を星幽光へと融解させることで星幽界を移動させる。代表的な技術ばかりを取り上げても、純粋魔術は無論のこと、精神魔術や錬金魔術といった複数の系統の知識が求められる極めて難解な体系である。そればかりではない。いかに空間を歪められようと、いかに他者を支配できようと、肝心の他者が存在しなければ物の役に立たない。召喚し支配することを望む対象を深く理解しない限り、真の意味でこの体系を学んだとは言えないのである。

 この体系は黄色と波線の円に象徴される。黄は存在を強く示して他を惹きつけ、波線の円は空間の揺らめきを暗示する。

 この体系を極めたならば、空間と他者を自在に扱う資格を得られよう。


三‐六、精神魔術

 精神の領域を究める体系である。星幽界を対象とする体系と言い換えてもよい。星幽光を介して意志を伝達し、精神を繋げ、他者の精神に望むがままの干渉を行なう。その一方で、自身の精神の奥深くに潜り、真の意味で自らの魂を支配する。取り分け修行困難な体系と言える。この体系を学ぶ者は単に星幽光で意志を伝達する技芸を磨けばよいだけではない。あらゆる精神の構造とあらゆる精神があらゆる状況に示す反応とを理解せねばならないだけでなく、誰よりも深く確かに自分自身を把握し、誰よりも巧みに制御する強固な意志を涵養せねばならない。自他の探究こそがこの体系の本質である。

 紫色と人面がこの体系を象徴する。紫は謎と神秘の色彩であり、精神はもう一つの顔である。

 この体系を極めることができた者は名実共にあらゆる精神の支配者となる資格を得られよう。


三‐七、幻影魔術

 ありとあらゆるまやかしを行なう体系である。星幽光は思念を映す鏡であり、思念を描く画布であり、思念を象る粘土である。思念を星幽光に乗せて広げれば、思い描いた虚しい像が人々の前に現れ出る。しかしながら、所詮幻は幻であり、影は影である。触れることは叶わず、それであるがゆえに気の利いた手品以上のものとは成り得ない。沈着な精神を動揺させることはできない。だが、この体系の真髄は星幽界の絵描きを育て上げることではない。純粋魔術の技法を駆使して精気光を操ることにより、この体系を学ぶ者は真の意味での光を手にする。精気光とは物質と精神の中間質料であり、精神と物質双方に干渉し得る。幻影魔術的価値観においては、即ち、実体のある幻の素材である。まさしく虚実の幻影を駆使することにより、この体系を学ぶ者はこの世界に思いのままに彩ることができるのである。ただし、いかに幻を巧みに描き上げようとも、想像が常に事実に打ち負かされる宿命にあることを忘れてはならない。この体系を学ぶ者は幻影を学ぶためにむしろ現実を学ぶ必要がある。もう一つの現実である精神世界を理解するために精神魔術の助けを借りることも重要である。

 この体系は虹と霧に象徴される。虹は陽光の幻惑的実体であり、霧はまやかしの実体である。

 この体系を極めた者は、虚と実を自在に差配する世界の演出者の座に就く資格を得られよう。


三‐八、屍霊魔術

 死を究める体系であるが、一般には全ての死者を支配し、全ての生者を死者とするものと解される。生命魔術と表裏一体を成すこの体系は、生命魔術と同様、不当な評価を受けている。死者を呼び出し、歩き回らせるこちらの体系は、俗人はおろか時として魔術師からさえ、酷く嫌悪され、恐怖される。生と死の厳粛なる垣根を越える力は生者と死者の双方の心に不快な小波を起こすものである。しかしながら、素晴らしい可能性を持つこの体系は決して邪悪なものではない。ただ学ぶ者が世人から邪悪と見做される者になりやすいだけである。この体系の本質は死即ち静止の理解と支配にある。死を取り除き或いは押しつけ、遅らせ或いは早める。具象化し或いは抽象化する。死せるままに動かし、生けるままに留める。これが真髄である。死者の支配や生者の殺害などは余技に過ぎない。この体系を究めんと望む者は、死について考えを巡らし、生とよく照らし合わせて眺める作業を行なわねばならない。一つ奥義を書き添えておけば、静止とは運動の一形態であり、同時に運動なる概念の成立に不可欠な対置概念である。この作業には死と見つめ合う強靭な精神が不可欠である。また、副次的領域である死者の支配や生者の抹殺に熟達するために、召喚魔術や精神魔術、附与魔術、そして生命魔術の技法は極めて重要な価値を持つ。

 この体系は群青色と髑髏に象徴される。死の静寂に満ちた夜空は群青に染まり、乾ききった空ろな髑髏は死の思索を誘う。

 この体系を極めることを果たした者は、死を自在に操り、生きながらにして死に、死してなお生き、終焉と永遠の上に君臨する資格を得られよう。


三‐九、生命魔術

 生命を究める体系であるが、屍霊魔術と同様、あまりにも皮相的な理解しかされていない。この体系は一般に、全ての生命を操作し、全ての死を退けるものと解される。屍霊魔術のようにこちらも不当な評価を受けている。屍霊魔術が死の暗い面ばかりを取り沙汰されるように、この体系もまた、生命の明るい面ばかりを取り沙汰されがちである。曰く、身体を強健に保つ。曰く、痛ましい傷を跡形もなく癒す。曰く、死者を蘇らせる。曰く、生命を作り出す。無論これもこの体系の一面である。だがこればかりではない。全てのものは逆転し得る。身体を強健に保つ技を心得ている者が身体を衰弱させる技を知らぬ道理はない。傷を癒す術は傷を開く術に通じる。死者を起こすことができるのであれば生者を眠らせることもできる。生命を捻じ曲げて畸形を作り、歪んだ生命を生み出すことも可能である。この体系の左道は屍霊魔術の左道に勝るとも劣らぬ暗さを秘めている。生命即ち運動を理解し、支配することがこの体系の本質であり、それはまさしくあらゆる意味で生命を用いることに他ならない。しかし、生命を理解するためには死を理解することが必須である。何となれば、運動とは無限に重ねられた静止図であり、静止なる概念の成立に不可欠な対置概念である。

 橙色と心臓がこの体系を象徴する。温かい生命は橙の流れとなり、心臓は生命の流れを生み出す。

 この体系を極めた者は、生命を支配し、死を追放し、生命を滾らせ或いは萎えさせ、無限の生命と変化の実りを望むがままに享受する資格を得られよう。


三‐十、真正魔術

 真正魔術。最も偉大にして真正なる魔術体系である。複数の体系を併用する技法やそうして発動された魔法を指すこともある。この名称には主に他の体系から異論が出ている。それではまるで我らの体系が紛い物のようではないか、と。筆者はそれに何度でも、相手が理解するまで大きく頷こう。真正魔術以外の体系は魔術の名に値せぬ。筆者は真正魔術師以外を魔術師とは認めぬ。何となれば、魔術中興の祖リーヴァス・ドッヘル以前に用いられていた魔術こそがこの真正魔術なのである。

 ドッヘルの時代、魔術は原初の素人魔法から著しく洗練され、複雑化していた。このため、一人の魔術師がその全貌を究めることが困難となり、導師や大博士はおろか博士の育成すら満足に行なえぬ有り様で、当時魔術学院学長の座にあったドッヘルは教育内容の改革を迫られていた。導師達に諮った学長は、最終的に、魔術の学習をより簡易なものとする計画を打ち出すことで状況の打開を図った。それが魔術の体系分割である。ドッヘルは便宜的に魔術を純粋、元素、錬金、附与、召喚、精神、幻影、屍霊、生命、そして真正の十体系に整理した。各体系において重複する魔術の存在や他の体系の技法を取り入れねばいかなる体系も完成し得ない事実を見てもわかる通り、あくまでも学習を容易化するための措置である。従って、世界球に目に見える国境線など引かれていないように、本来、魔術に体系分類などは存在しない。全ての線引きは用いる側の都合である。そして、いくら国境線を引いたところで大地は変わらず存在する。真正魔術体系とはそういう存在であり、ドッヘルはこれを九つの断片の完成図として提示したのである。

 ゆえにこの体系を究めんと欲することは、即ち全てを究めんと欲することである。真正魔術師を志す諸君は全てを学ばねばならぬ。真正魔術体系において学士を名乗る者はあらゆる体系で学士を名乗れる者でなければならぬ。修士を名乗る者は修士を、博士を名乗る者は博士を、大博士を名乗る者は大博士を、導師を名乗る者は導師を、他のいかなる体系においても名乗れるだけの力量を持たねばならない。心せよ、諸君こそは真に魔術師を名乗るに値する者達なのである。だからこそ、魔術学院の学長は代々真正魔術師が務めることとなっているのである。

 真正なる魔術は黒色と九芒星に象徴される。黒は全ての色の総合であり、九芒星は九の先端を持つ一の図形である。

 この体系をもし極めることが叶ったならば、その時、世界は真の意味での神の誕生を言祝ぐであろう。



四、補遺――異端魔法について

 ところで、この小著を結ぶ前に補遺として是非とも触れておくべきことがある。蛮族や亜人、星幽生物の魔法の扱いと三系統の境界である。

 星幽生物は無論のこと、蛮族や亜人にも魔法を扱う者がいることは広く知られている。

 では、纏めて異端魔法とも呼ばれる彼らの魔法は我々の系統分類上、いかなる位置を占めるものなのか。第四系統として独立するものか、はたまた各教団の教理や魔術体系のように系統の下位分類となるものか。異端魔法なるものは存在せず、ただ系統上に存在する魔法の内、彼らが用いるもののみを敢えて区別しているのに過ぎないのではないか。

 この問題は既に決着がついている。三番目の見解が正しい。我々は魔法系統から特に彼らの魔法を排除していたのに過ぎなかった。

 だが、一つの問題の解決は新たな問題を呼んだ。異端魔法が系統上から取り除かれたものだとして、では、取り除かれていたものは系統上のどこに戻せばよいのか。

 この問題に関しては長年議論が交わされてきたが、未だに解決を見ていない。筆者の見るところでは、この論争は学問の領域から思想信条の領域に移行しつつある。客観的事実の対立ではなく、その主観的解釈の対立なのである。

 事実、我が学舎の内に限っても、意見の一致は見られない。

 ベルトン・アベリボイエン師は彼ら特有の学理魔法の存在を認めていない。彼らが有するのは素人魔法と信仰魔法のみであるとしている。ただし、師は将来的な可能性までは否定していない。同じく否定派であるライヴィス・シャーレイン・ラインツ無爵真正魔術博士はより辛辣な意見の持ち主である。物質を精神より尊び、武芸を魔法より重んじる傾向にある多くの亜人や蛮族の文化風俗や生活環境、存在自体が魔法に近いがゆえに魔法を学究的に眺めることをしない星幽生物の在り方を根拠に、博士は彼らが学理魔法を手に入れることは将来的にも有り得ないとしている。将来的には魔法が廃れることも考え得るとも述べている。

 一方、実験のために幾度となく東方や北方に足を運び、地獄の勢力にも親しむウェルグナー大博士は、亜人や蛮族や星幽生物が未熟ながらも学理魔法と呼ぶに値する独自の体系を育んでいると報告している。筆者はウェルグナー大博士の見解を支持するものである。筆者も大博士と同様、実地調査を経て結論を出した。公然と使用され、共有される技術が自ずと学術を生み出すことは、他ならぬ我々の学院の存在が証明している。そして現に筆者が体験したことであるが、戦において、星幽生物は勿論のこと、亜人や蛮族もまた要所要所で魔法を戦術的に用いてきた。これは亜人や蛮族が魔法に価値を認め、積極的に運用する意思を持っていることの端的な証と言えよう。であるならば、軍事分野に限定されるかもしれないが、何らかの体系的教育訓練が行なわれている可能性は否めない。そしてこの仮説は大博士の信頼すべき報告によって裏付けを得た。彼は亜人や蛮族の魔法技術の伝承方法を報告している。

 ベルトン・アベリボイエン師、シャーレイン・ラインツ博士は共に筆者とウェルグナー大博士の報告に目を通しており、亜人と蛮族が魔法を使用している事実自体は認識している。それでありながらのこの対立は、やはり見えたものを解釈する主観の相違が招くものであろう。

 ここでこの議論に新たな意見を提出したり、ましてや決着をつけようなどという意図はないため、大まかな意見を紹介するだけに留め、この論点に触れるのは終了する。もし諸君が彼らの魔法を巡る議論の詳細に関心を持つのであれば、ここで紹介した人々の関連論文を参照せよ。発表済みのものは全て学院図書館に所蔵されており、これらの大半は公開されている。ただし、異端魔法を体系的に記述した貴重な資料であるウェルグナー大博士の『異端魔法概観』は学士以下の閲覧が制限されている。注意せよ。

 もう一つの話に入る。系統の境界の件である。理論自体は感情的な反発の問題を除けば既に決着されているため、こちらは至って単純である。作用の原理の考察がなされた上で知識の共有と伝承が行なわれる素人魔法は、素人魔法的な学理魔法である。知識の共有と伝承が行なわれ、体系的な教育訓練体制が確立された信仰魔法は、学理魔法的な信仰魔法である。即ち、何らかの形で体系化がなされた魔法は学理魔法であり、しかし、どれほど体系化がなされようとも魔法の実務を他者に依存する魔法は信仰魔法である。ただし、現実に適用する場合において、異端魔法の件と同様、観察者の主観によって各条件を満たすか否かの判断が分かれる点には留意しておかねばならぬ。


跋文

 真正魔術師を志す諸君が学士課程に進む上で理解しておくべき最低限の事柄は以上である。諸君においては以上をよくよく熟考了解の上で我が学舎の一員となってもらいたい。

 筆者ことウェイラー・サルバトン真正魔術導師は、諸君があらん限りの力を以て前進し、辿り着き得る限りの高みに到達することを切に望むものである。



(了)

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