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剣と魔法と怪物の物語  作者: 沼津幸茸
見出された少年
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見出された少年

 スナー・リッヒディートは帝国歴五一二年の冬、人馬月に、帝国北部州のマークランデ県ノーラ村の自作農の長男として生を受けた。

 体格がよく体力に秀でた父や弟と異なり、スナー少年は身体虚弱であった。深刻な病気も何度か経験し、そのたびに父母は教会に走り、司祭の奇蹟を頼った。

 しかし、彼にとっては、体の虚弱さなどどうでもよかった。彼にはそれを補って余りある長所があったからである。彼は三歳の時点で大人と日常会話をこなし、何歳も年長の子供達に混じって村の教会の安息日学校で読み書きや算術を習うなど、幼くしてその優れた知性を既に示していた。彼を神童と呼んだ者もあった。ノーラ村において、末は博士か官僚か、という言葉はスナー少年のためにあった。スナーの父エイゼフは、息子は辺境の農民で終わるべき人間ではないと、また農作業に耐える体力を持たないとも感じ、息子が五歳の誕生日を無事迎えた後、村付の御子教司祭に息子を神学校に推薦してくれるよう頼み込んだ。今も昔も、聖職者と軍人は成り上がりと生活保障の王道である。どれほど出自が卑しくとも努力次第で相応の地位に上れるし、真面目に暮らせばまず食いっぱぐれることはない。

 しかし、村付司祭のホインは困惑顔で言った。

「スナーは優れた知性を持っているし、神力への感受性も豊かだ。しかし、神の国に入るために最も大切なものを持っていない」

 エイゼフは驚いて聞き返した。

「大切なもの?」

「信仰心だ」司祭は物憂げな吐息を洩らした。「スナーは信仰心を持っていない。私が父なる主と救い主たる御子の話をすると、無邪気に主の偉大さを讃える他の子供達と違い、主の力の限界や仕組みを知りたがったり、教義がなぜ正しいのかを訊きたがったりするんだ。『問うな、疑うな、信じよ』との御子の御言葉を引いて諭しても聞く耳を持たない。だから、あの子を神学校に入れてやることはできない」

 エイゼフは打ちのめされた気分で帰宅し、自棄酒を呷って泣いた。神学校にやれないのならば、スナーの頭脳など宝の持ち腐れであることをよくわかっていたのである。

 父からその話を聞かされたスナー少年は、しかし父の期待に反して司祭に非難された態度を改めようとはせず、その後も懲りずに学問に精を出し続けた。その成長には目覚ましいものがあり、更に三年もした頃には、教会に置いてある本を読み尽くし、聖典を諳んじるまでになっていた。だが、その姿勢は、単に学問に貪欲であると言うよりも、学問に没頭することで、閉ざされた将来がもたらす絶望から逃れようとするものであった。全力を学びに費やしている時だけ、彼は余計なことを考えずにいられた。それほどまでに彼の展望は暗く、それを正確に見通してしまえるほどに彼の頭脳は鋭かった。不幸な知性の持ち主は、おそらくは類稀なる頭脳の明敏さに恵まれた自分が、村人と徴税官以外の誰もが名前どころか存在さえ知らないであろう寒村でひっそりと埋もれ、ほとんど顔を見た記憶もない祖父母と同様四十歳そこそこで天に召されるかと思うと、なぜこんな救いがたい場所に自分を授けたのか、と父なる主に呪いの声を吐きたくて仕方がなかった。

 スナーが八歳になり、そろそろ農作業を本格的に手伝わせる頃合かと父が考え始めた頃、ノーラ村に一人の老魔術師が訪れた。八代前の村長の息子で、百年近くも昔に魔術師になるために村を出たヘルバー・グライフェン真正魔術博士であった。帝都の魔術師協会本部に長く勤めた彼は迫りくる死の気配に気づき、一世紀を超える人生の大半を過ごした帝都を後にした。彼は故郷で静かに暮らし、その人生の終わりを過ごすつもりでいた。

 禿頭と険しい顔つきとで禿げ鷹のように見えるグライフェンを知る者は死に絶えて久しく、彼はほとんど余所者であった。村人の誰もが彼を畏れた。老博士はそのまま故郷で客死する運命にあるかと思われた。しかし、寂しい生活は唐突に打ち破られた。スナーは神力への感受性が豊かであるとのホイン司祭の言葉を憶えていたエイゼフが恐る恐る家を訪ね、どうか息子を弟子にして、できれば魔術学院に入れてやって欲しいと頼み込んだのである。

「その子供とやらを見せてくれねば弟子に取るも取らぬもない」

 真っ直ぐに伸びた長杖を持つグライフェンはそう答えた。そしてスナーに引き合わされた彼はその場で少年を弟子に取った。

 子供の相手をすれば寂しさも紛れるだろう、とグライフェンが考えたのかどうかは定かでない。わかっているのは、会ってすぐスナーの才能を見抜いて弟子に取ったこと、スナーにとって優しい師匠であったこと、そして彼がいなければスナー・リッヒディート真正魔術博士は誕生しなかったであろうことだけである。

 運命を分けた出会いからの四年間、スナーはグライフェンの指導を受けた。ホイン司祭は少年が魔術師――彼ら御子教徒の言葉で言えば「放埓(ケイオリーダム)な妖術使い共」――の教えを受けることに良い顔をせず、スナーに翻意する気のないことを悟ると彼を安息日学校から追放した。だが、スナーにとってそんなものはまるで痛手とならなかった。流石は魔術学院の博士というだけあり、その指導内容は安息日学校のそれがままごとに思えるほど高度かつ繊細なものであった。そして明敏な少年は砂漠が水を吸うようにその高度な教えを余さず学び取っていった。十二歳になる頃には帝都大学の一年生に並ぶほどの教養と、学士課程在籍者と並ぶだけのごく基礎的な星幽光操作技術を持つまでになっていた。

 十二歳の誕生日を迎えたその日、スナーはいつものように朝から指導を受けていた。夕刻になり、彼が帰宅しようとした時、老齢のグライフェンは大事な話があると言ってスナーを引き留めた。

「師匠、お話とはなんでしょうか」

 スナーはグライフェンに矯正されたおかげで、辺境の農民の小倅でありながら、まるで貴族の子弟か都会の大学生のように洗練された話し方をするようになっていた。

「お前は十分に学んだ。既に学院の基礎課程の大半を終えたも同然だ。お前が望むのであれば、学院にお前を推薦してもよい。勿論、その気があるのならば帝都まで連れて行ってもやろう。だが、スナー、それはあくまでも私の意見だ。お前はどうしたい。入学を望むか。私はお前の意見を尊重するぞ」

 スナーは一も二もなくその魅力的な提案に頷いた。彼は魔術学院の入学審査料は合否に関わらず銀貨一枚、入学金は金貨にして十枚にもなることを知っていた。帝都までの旅費も含めればどれだけ節約しても銀貨数枚分が確実に上乗せされる。リッヒディート家のどこを探してもそんな大金が出てくるはずのないことはわかりきっていた。審査料と入学金が免除される博士号保有者からの推薦を受ける以外に、寒村の自作農の子供が魔術学院に入学する現実的な手立てはなかった。入学後に返済する奨学金制度の利用は、審査基準が取り分け厳しいようなので、彼がその方法で合格するためにはあと十年ばかり修行が必要に違いなかった。

 真剣な顔でグライフェンは問いを重ねた。

「恐ろしい魔術師がお前を弟子に求めるかもしれないぞ。悪魔のような心を持った邪悪な男がだ。あの学府にはそういう連中が大勢いるのだ」

「それでも……僕は魔術師になりたいのです」

 スナーは茶色の瞳に全身全霊の意志を宿して真っ向から師匠の視線を受け止め、食い下がった。たとえ悪魔に仕えることになるとしても、虚弱な体を抱えた無能な農民になるよりはずっとましだった。

 スナーの意志の固さを見て取り、グライフェン老博士は嘆息した。

「では父母と相談してきなさい。彼らの許しを得られたならば、私がお前を学院に連れていってやろう」

 スナーは息を切らせて家へと駆け、跪かんばかりの勢いで父母に学院入学の許しを願った。母は虚弱な息子が遠方で上手くやっていけるか危ぶみ、難色を示したが、父は難しい顔をした後、「お前のことだから、きっとよく考えて決めたんだろうな」と諦めたように頷いた。スナー少年は両親の気が変わらぬ内に、と師匠の家に戻り、上首尾を伝えた。

 かくしてスナーはグライフェン博士と帝都に旅立つことが決まったが、出発はその日から一月後、新年の祝いを終えてからのことだった。

 グライフェンは真正魔術博士だから、当然、星幽跳躍の魔術も修得していた。しかし、二人の旅は専ら徒歩と馬車で為された。グライフェンは狭い村しか知らなかった少年に世界を見せてやろうと考えたのかもしれない。何か別の事情があったのかもしれない。だが、それをスナーが知ることは遂になかった。老師匠は誰にも心中を明かすことのないまま、真相を冷たい土の下に持っていってしまった。

 帝都への旅は幼いスナーの価値観を根底から覆すものであった。沢山の人、長大な道、広大な都市。いずれも北部の寒村とは全く別世界のように彼には思えた。少年は老魔術師との最初で最後の旅路を大いに楽しんだ。

 そしてゆっくり三ヶ月もの行程を経て、冬から春へと季節が移り変わる様を楽しみながら、師弟は大陸の華たる帝都に至った。金牛月の初め頃のことだった。

 船が行き交う雄大なレヘイン川を西に望み、四方を巨人族が建てたかのように高く厚い城壁が覆い、その周囲にも家屋が建ち並ぶ、この世界球全てがここに凝縮したかのような大都。五百年もの長きに亘って拡張され続け、今後も際限なく膨らんでいくに違いない永遠の都。戸籍を持つ市民だけでも二百万に迫る人々を養う豊饒の都。それだけで田舎者には何代も語り継ぐに足る土産話となるほどの絶景を大帝街道から目にしたスナーは、瞬きする間すら惜しんで巨大都市を見つめ続けた。帝都は何もかもが違う。彼は子供心にそう感じた。彼は内側に地平線があるほど広大な帝都の壮麗と活気にすっかり魅了されていた。

 しかし、グライフェンは暢気に都見物をすることを許さなかった。宿を取るなり九芒星の刺繍の入った黒い長衣に着替えると、学長に到着の報告をすると言って、スナーを連れて魔術学院を訪ねた。

 帝国よりも古くから存在し、現在も半ば自治国家のように帝国から遇されている広大な魔術学院は、かつて魔術師の都市国家であった名残りを今に伝えるような継ぎ目一つない高い黒壁に覆われ、都市の中の都市としての存在感を放って君臨していた。その独特の威容にスナーは呆然と見入るばかりであった。自分がこれからこの場所に属するという話から、急速に現実感が薄れていくのを感じた。

 頭髪の薄くなった小柄な老人と痩せっぽちの子供の見慣れぬ二人連れを見た門衛は、二人を大門前で制止して身分証明を求めた。しかし、グライフェンが首にかけた銀製の九芒星徽章を見せて真正魔術博士の学位を示して名乗ると、門衛は態度を一変させ、広大な敷地内へと丁重に二人を通し、同僚を奥へと走らせた。

 グライフェン博士の来訪を知らされて現れた壮年の門衛長は、スナーが後に聞かされたところによれば、グライフェンとは旧知の仲であった。当時の門衛長は真正魔術師を志す学徒であり、グライフェンは勤務の暇を見ては、真正魔術の先輩としてたびたび助言をしてやっていた。言わば、スナーの兄弟子のようなものである。

 門衛長は元素魔術学士の証である宝珠が一つ埋め込まれた鉄製の五芒星徽章を恥ずかしげに茶色の長衣の内側に隠すと、自ら二人を敷地内に招き入れ、学長が詰める中央学舎へと案内した。スナーは自分の師匠が重要人物であるらしいことを知り、鼻高々な気分になった。事務的でどこか横柄にも感じられた門衛達の態度が哀れなほどへりくだったものに変わったことも愉快だった。

 大扉を開けて中央学舎に入ると、宝珠が一つ埋め込まれた銀製の九芒星徽章を首から下げ、九芒星の刺繍が入った黒の長衣を着た人物が応対に出た。門衛長は壮年の博士に頭を下げ、持ち場に戻った。

 博士は学長の秘書と名乗り、グライフェンに恭しく一礼すると、丁重な態度で先導を始めた。

 秘書が先導する廊下をグライフェンは悠然と歩いた。それはまるで、こんなものは見飽きたと言うかのようなすげない態度だった。それに引き換え、スナーは華美ではないが上品な内装に目を奪われっ放しとなった。ランプや蝋燭など比べ物にならないほど眩く輝く魔法の照明器具に唖然とし、あちらこちらを落ち着きなく眺め、立派な身形の魔術師達が交差路や曲がり角から出てきてはぎょっとしたような顔をし、恭しくグライフェンに頭を垂れるさまに一々驚きの眼差しを向けた。スナーが大人二人に遅れがちであったのは、決して彼らの歩幅の差だけの問題ではなかった。

 やがて古代の賢人達の饗宴風景に取材した立派な彫刻が施された学長室の扉の前に辿り着くと、秘書は扉越しに客人の到着を学長に伝えた。入室の許可が出ると丁寧に扉を開けて二人を通し、一緒に中に入った。

 スナーは堂々たるグライフェンに手を引かれ、おっかなびっくり学長室――その後の人生で幾度も訪れることとなる部屋――に最初の一歩を踏み入れた。

 飾り気のない広い室内に並ぶ人々を眺めた時、スナーはその圧倒的威圧感を受け、思わず逃げ出しそうになった。

 正面には村の教会の祭壇よりも立派な机があり、その向こうに白い髭で顔の下半分を覆った思慮深そうな老人が腰掛けていた。グライフェンと同じ黒の長衣を着ていたが、その両肩から上腕にかけては金糸で複雑な模様の刺繍が施されていた。首からは銀灰色の輝きを放つ九芒星徽章が下がり、徽章には宝珠が四つ飾られていた。大陸に一人しか存在しない、魔術学院学長の証である。更に胸元には、皇帝の紋章である大鷲と交差した二本の杖が組み合わされた真銀製の魔道士徽章が飾られていた。机には節くれ立った太い長杖が立てかけられていた。

 その横には黒い長衣姿の三人が並んでいた。

 白髭の魔術師の一番近くにいたのは、寝癖だらけの焦げ茶髪に無精髭を生やした長身痩躯の魔術師だ。年齢は三十代半ば以上であるようには見えなかった。彼の長衣の両肩にも銀糸の刺繍が入っていた。白髭の魔術師と同じく銀灰色をした九芒星徽章を首にかけていた。宝珠が三つのこちらは真正魔術導師の徽章である。胸元には学長同様、魔道士徽章が輝いている。手の中には病死した家畜の臓物を練り固めたような長杖がある。まるで御伽噺の妖術師のような格好だった。

 その隣には白金色の筋の混ざった洒落た口髭を生やした紳士風の老魔術師が、何かの儀式に臨む軍人のように謹厳な表情で姿勢良く立っていた。彼も白髭や焦げ茶髪と同じく黒の長衣を纏っていたが、こちらは刺繍が入っていなかった。首からは九芒星徽章を下げており、そこには銀灰色の地に宝珠が二つ埋め込んであった。それは彼が導師を務めた経験のある大博士であることを示していた。彼もまた胸元に魔道士徽章を輝かせている。その手には、どうやら木製であるようなのに金属的な輝きを放つ、不思議な杖が握られている。

 一番外れには短い顎鬚を生やした黒髪の魔術師が考えの読めない表情で佇んでいた。この魔術師は、寝癖の導師と同じくらいに長身で、肩幅はやや広く、学者にしては逞しい印象があった。年齢は三十路を過ぎるも四十路に及ばずといった年頃に見えた。出で立ちは口髭の大博士と然程変わらなかったが、その銀灰色の九芒星には宝珠が一つきりであった。彼もまた真正魔術の大博士ではあるが、他の二名と違って未だ導師を務めたことはない。だが、他の者達と同様、胸元では魔道士徽章が煌めきを放って存在を誇示している。手にした長杖は苦悶する毒蛇のようにねじくれていた。

 白髭の学長と口髭の大博士は、気難しそうな印象があるものの、人間としては比較的立派で善良そうな雰囲気を纏っていた。だが、残りの二人、寝癖の導師と顎鬚の大博士は、野獣よりも獰猛で悪魔よりも残忍な、ぞっとするような人間性を肌から滲み出させていた。どんなに立派な服を着て、どんなに礼儀を繕っても、決して秘め隠すことのできない暗さが彼らの中には宿っていた。人に化けた悪魔という言葉すら生ぬるかった。悪魔が平伏すほどの邪悪。それが彼らを表わすにふさわしい言葉であった。

 グライフェンは室内の人々を眺めて表情を険しくした。

 室内には錚々たる面々が居並んでいた。

 第十八代学長、魔道士ゴリーク・ミルトホーゼン真正魔術博士。

 第二十五代真正魔術導師、魔道士ウェイラー・サルバトン真正魔術博士。

 第二十四代真正魔術導師、魔道士カイバー・ベルトン・アベリボイエン無爵真正魔術大博士。

 魔道士ウストファルト・ウェルグナー真正魔術大博士。

 いずれも大陸中に名を轟かせる大魔術師達であった。皇帝から魔道士の名誉称号を親授された魔術師達が、九芒星の刺繍入りの黒い長衣を着込んで並ぶ姿は、その名も功績も知らぬスナー少年を畏れ入らせるほどの星幽的威厳を湛えていた。

「ヘルバー・グライフェン博士とその弟子スナー・リッヒディート殿をお連れしました」

「ご苦労。少し休んでいてくれ」

 白い髭で顔の下半分を覆ったミルトホーゼン学長は穏やかに労いの言葉をかけ、秘書を別室に控えさせた。それから、親しげな声を上げて立ち上がり、グライフェン博士に歩み寄ってその手を取った。

「久しぶりだな。息災であったか」

「兄弟子もお変わりないようで何よりです」

 スナーはこの時初めて、彼の師匠が魔術学院の最高責任者の弟弟子であることを知った。グライフェンが丁重な扱いを受けていた理由の一部もこれでわかった。

 再会の握手が済むと、白金色の口髭を生やしたベルトン・アベリボイエンが軽く手を上げ、寝癖だらけの焦げ茶の髪に無精髭を生やしたサルバトンと、短い顎鬚を生やした黒髪のウェルグナーが揃って頭を下げた。あのいかにも恐ろしげな魔術師二人に礼を尽くさせるとは自分の師匠は一体何者なのか、とスナーは戦慄した。

 グライフェンは一層深く頭を垂れて答礼した。それから緊張で固まるスナーを前に押し出し、来着の目的を告げた。

「学長、これが先達て書状にてお知らせした我が弟子、スナー・リッヒディートです」

 一瞥して、ふむ、と頷き、学長は傍らの導師に話を振った。

「サルバトン導師、どう思う」

「そうですな……」

 ゆっくりと近づいてくる浮浪者じみたサルバトンの姿にスナーは怯え、後ずさり、師匠の後ろに隠れようとした。

「グライフェン博士、俺は彼の顔を見たいのだ。どいていただけるかな」

 グライフェンはスナーを庇うように立ちはだかった。

「あまり弟子を怖がらせないでいただけませんか、導師閣下」

「俺が怖い」長身なサルバトンは軽蔑の微笑を浮かべ、尊大な眼差しでスナーを見下ろした。「そんなことで審査を突破できるものか。面接もあるんだぞ。もし本番でそんな態度を取ったら、誰が何と言おうと故郷に追い返してやるからな。脅しじゃないぞ。導師が一人でも認めなければ、そいつの入学は認められんのだ」

 サルバトンの有無を言わさない態度と孤立無援の状況に、とうとうグライフェンは屈した。眉間に皺を寄せ、サルバトンの前に弟子を押し出した。

 スナーは人の姿をした化け物を強張った顔で見上げた。

「どうした。にっと笑うくらいの余裕を見せてみろ」自身も獣のような笑顔になってサルバトンは言った。「余裕のない奴は魔術師に向かんぞ。一流の魔術師は悪魔に手足やはらわたを齧られながらでも不敵に笑うものだ」

 サルバトンがまくってみせた左腕には、どんな猛獣でもここまで酷い噛みつき方はするまいというほど無惨な古傷があった。

 呆気に取られるスナーに向かってサルバトンが腰を曲げて屈み、顔を覗き込んだ。猛々しい顔は肉食獣を思わせ、スナーは頭から齧られて魂まで喰われてしまうのではないか、と震え上がった。堪りかねて顔を背けようとすると、サルバトンの紫水晶色の瞳が妖しく輝き、少年の体の自由を奪った。

 たっぷり一分ほども眺め続けたかと思うと、サルバトンは顔を上げて学長に振り向いた。

「才能と言うほどの才能はなさそうですな。星幽界に多少の適性があるだけの、少しの努力で覆される程度のものです。他に強いて挙げるとすれば、多少頭が回りそうだというくらいでしょう」

 その冷たい響きに、恐ろしい眼光から解放された安堵に浸るのも束の間、スナーは心臓を鷲掴みにされるような苦しさを覚えた。夢を目の前で踏み潰されたような痛みが胸に走った。意気揚々と後にした農村に帰されるのか、と目の前が暗くなった。

「お前はどう思う、ウスト」

「あなたと同意見ですよ」ウェルグナーも意地悪く唇を歪めて頷いた。「まさに才能など欠片程度にしかない。つまりはないものと思う程度で丁度良い」

 二人の大魔術師は悪辣な微笑を交わした。

 スナーは目の辺りが熱くなり、視界が滲み出すのを感じた。彼は自尊心にひびが入る音を聞いた。自分はもしかすると天才なのかもしれない。大魔術師になれるかもしれない。競争相手のいない村での生活が育てたそうした自信は無慈悲に打ち砕かれた。彼は自分がどうしようもないほどの凡人であることを残酷な形で悟らされた屈辱に唇を噛み締めた。

「お前達、相手は子供だぞ。もう少し言葉に気をつけぬか」

 ベルトン・アベリボイエンが非難の目を向けたが、彼も否定はしなかった。学長も黙って見守っている。

「弟子を褒めていただけるのはありがたいのですが、まだ子供なのです。少し考えていただけませんか」

 スナーは驚きに目を瞬かせ、グライフェンの老いた横顔を見上げた。彼には師匠が何を言っているのか理解できなかった。褒められているようには到底感じられなかった。

「ですが」とそれには構わずサルバトンは愉快そうに続けた。「俺はこの少年を評価しますよ。この少年は才能の欠如にも関わらず、この年齢でこの場に立ちました。グライフェン博士は弟子に必要以上に優しいが、決して甘くはない。この場にいるということは相応の実力をつけたということなんでしょう。まさに努力の賜物と言えましょう。俺は下手な才能よりもその鋼鉄の如き意志を評価したい」

「君がそこまで褒めるということは、そういうことでよいのかね」

 学長の言葉にサルバトンは頷いた。

「彼が俺の許まで辿り着いたなら、彼を無条件で一門に迎え入れましょう。と言うよりも、俺以外に彼を育て上げられる者はおりますまい。他の誰が導こうと――たとえ我ら問題児二人を立派に育て上げたベルトン・アベリボイエン師であっても――長い時間をかけて十人並みの魔術師が出来上がるだけです」ぞっとするような笑みをスナーに向けた。「この少年は俺やウストと同じく苦行に耐える力を持ち、苦行によってしか開花できない一方で、我々と違って自主的に苦行を課す力を持ちません。怠慢を許さず、常に限界の努力を強いる仮借なき指導者が必要なのです」

 グライフェンは思いきり苦い顔をしたが、何も言おうとはしなかった。

「よかったな、少年」ウェルグナーが顎鬚を撫でながら尊大に見下ろした。「見ての通りサルバトン兄弟子は人間としてはろくでもないが、これで魔術師としては大陸でも一、二を争う。狂気や死を招くかもしれぬが、入門できれば一流への近道が伸びておる」

 ベルトン・アベリボイエンと学長が不愉快そうな顔をしたが、ウェルグナーは気にする風もなかった。

「お前は何を求める」

 不意に発された問いが自分に向けられたものであることを理解するのに、スナーは少し時間を必要とした。

「求める……」とようやく鸚鵡返しに呟いた。

「なぜ学院に入りたい。学院に入ってどうする。お前はなんのために魔術を習おうというんだ。どうせ面接でも訊かれるんだ。今答えたところで構わないだろう」

 それはスナー自身答えのわからない問いだった。学問は楽しかった。魔術の勉強も楽しかった。だが、それ自体が目的となり得るものかどうかを考えると、どうしても是とは言えなかった。

「少し手助けをしてやろう」

 サルバトンの骨張った指先が向けられるのをスナーは見た。その瞬間、彼の意識に奇妙な靄がかかった。

「どうだ、多少は舌の回りもよくなっただろう。さあ、少年、お前はなんのために魔術を学ぶ。お前はどうしたいんだ」

 サルバトンがゆっくりと質問を繰り返した。

「僕は……」スナーの口が勝手に動き出し、鉛のように言葉を吐き出し始めたが、彼はそれをおかしいとは感じなかった。「僕に丁度良いところに行きたい……農村なんかじゃなくて……僕に合ったところに……」

「丁度良い場所? お前に合ったところだと?」サルバトンは考え深げに相槌を打つと、合点がいった様子で頷いた。「なるほど。お前は逃亡者で探求者か。逃げるために探し、探すために逃げる。居場所が欲しいのか。とどのつまり、魔術はその道具だな。いいだろう。俺の許に辿り着いたなら、お前に最高の道具を作る材料をくれてやる。精々努力して真正魔術学舎まで来ることだ」

 人の心を無遠慮に覗く尊大な魔術師が腕を一振りすると、少年の精神にかかった霞が名残すらなく溶け去った。スナーは急に晴れ渡った意識の中、不可思議な朦朧状態を思い返し、困惑の面持ちでサルバトンを見上げた。だが長身な魔術導師は何も答えてはくれなかった。

 空気の切り替えを図るように学長が手を打ち鳴らした。

「グライフェン、今日は懐かしい顔と新しい顔を一遍に見られて楽しかったよ」

「私も皆様の変わらぬお姿を見られて懐かしい思いです。ですが、この老骨に長旅は少々堪えました。子供の身にもつらかろうと考えます。そろそろ下がって休むことをお許し願えませんか」

 それとなく知らされた会話の打ち切りを察し、グライフェンは自ら退出を願い出た。

「ああ、お互いもう年だし、子供に無理は禁物だ。二人ともゆっくり休みたまえ。体を壊さぬようにな」

 グライフェンは一礼し、スナーの手を引いて学長室を辞した。


 翌週、入学志望者審査が魔術学院中央学舎で行なわれた。

 志望者三十二名に対し、合格者は三十名にも上った。学徒として明らかに不適格であると見做された者のみが除かれたのである。入学審査など、所詮は丸きり見込みのないどうしようもなく劣ったものを追い返すためのものに過ぎない。優れた者を選び取り、劣った者を留め置く本当の選別が行なわれるのは、地獄が訪れるのは、これより以後、無知と可能性を象徴する純白の長衣を与えられてからのことである。

 排除すべき理由なしとして拾い上げられた合格者達とは別に、博士による推薦を受け、それに見合うだけの才覚を示し、是非とも魔術を学ばせねばならぬと見做された者が二人だけいた。彼らの名はスナー・リッヒディートとゼイル・ガウディアスと言った。

 片や辺境の農民の子、片や孤児院の出。推薦制度と誠実な博士の存在がなければ、決して見出されることなく、辺境の大地や裏路地の石畳の上で朽ち果てていったに違いない才能達であった。



(了)

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