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剣と魔法と怪物の物語  作者: 沼津幸茸
仮借なき探究
16/17

第七章(中)

 長大な隊列が夕陽を浴びて街道上に伸びている。昼食を兼ねた大休止以来、彼らは一時間行程(リーグ)ごとの小休止以外に一切の休憩なしに行軍を続けてきた。行軍初日よりも急な速度である。初日の速度と兵達の疲労、そして落伍兵の比率を観察した結果、冷酷な兵団長フェル・シュインハル近衛大佐は行軍を多少苛酷なものとしても問題はないと判断したのであった。

 旅の砂塵など寄せつけない神々しい甲冑姿が馬上で夕陽を紅く跳ね返す。その上げた眉庇からは謹厳実直な表情を浮かべたままの聖堂騎士達の顔が覗いている。彼らはつらそうな顔一つ、退屈そうな顔一つせず、堂々と前を見据えている。精強な近衛兵や戦神の戦士団はまだ余力を残した様子で悠然と一歩一歩を踏み出していく。生と死の女神の戦士団も信仰心と日頃の鍛錬の為せる業か、和やかな態度で談笑を交えて歩を進めている。ミドルトン伯の派遣部隊も、選抜された精鋭と見えて、近衛兵同様、黙々と街道を踏み締めていく。

 しかし、誰もが彼らのように指揮官の期待を上回る結果を示せるものではない。

 南部州軍諸隊の兵士達の顔には疲労の色が濃い。ともすれば背筋は丸まりそうで、水や空気を求めて喘ぐ口からは指揮官に対する無言の呪詛が流れ出すかのようであった。退屈で苛酷な行軍の歩みを止める理由になるのならば、彼らはきっと敵襲さえも歓迎するに違いなかった。

 懲罰の恐怖に脅かされ、野営の希望に励まされて兵士達が歯を食い縛る遥かな後方にも、彼らの精神的同類達がいた。冒険者達である。焔のような色の夕焼けの中、懲罰を恐れる必要のない冒険者達の中には、それでも隊列を崩そうとしない兵士達と違い、堂々と速度を落としたり、隊列や姿勢を乱したりする者もいた。

 そうした者達は小休止に入ると、乾燥した土の上に腰を下ろし、ここぞとばかりに不平不満を言い立て始める。

「てめえらは歩き慣れてるからって、俺達まで同じように歩かせやがって。まったく、軍人連中ってのは世間知らずだから駄目だ。そう思うだろ、アン」

 没落貴族の子孫エスノール・フォールモンなどはその代表格であった。彼はたまたま近くに腰を下ろした自然の女神(アテラ)の巫女アンナルシを捕まえ、馴れ馴れしく愛称で呼び、しつこく話しかけている。

 自然の衣装を着て自然の匂いを放つ野性味溢れる巫女は軽薄な伊達男を一瞥すらしない。静かに体力回復に努めている。

「むっつり黙ったままじゃ退屈だろ。俺とお喋りでもしようぜ」

 それでもめげずにフォールモンが話しかけ続ける。

 仲間達と一緒に二人の近くで休むフィオナは、フォールモンの見苦しい振る舞いに苛立ちを募らせていた。しつこく自分を口説いていた男がその目と鼻の先で他の女に声をかけていることが不愉快なのではない。彼女は不真面目な人物が嫌いなのである。自分が道化を演じることで周囲を楽しませるような人物は例外だが、フォールモンはどう考えても例外には当て嵌まらない。

 アンナルシには仲間がおらず、単独の参加であるため、助けに入る者はいない。長々と続く軽薄なお喋りに苛立ちを募らせ、体目当ての軽薄な男に纏わりつかれるアンナルシに女としての同情を誘われ、フィオナの忍耐も限界を超えつつあった。割って入ることで、嫉妬しているのか、などとフォールモンにからかわれることを危惧して二の足を踏んでいたが、最早彼女個人のつまらない意地に拘るべきではなかった。

「若き戦士よ、少し度が過ぎるのではないか」

 義憤に燃える女剣士が立ち上がって口を開こうとした時、岩が揺れるように重く静かな声が発された。森エルフの精霊祭司ヘイレルンのものだった。フィオナは、信仰対象の近しさからか、二人が比較的良好な関係を築いていたことを思い出した。自分の出る幕はなさそうだと思い、安堵する。

 筋骨隆々の美男子に見下ろされ、フォールモンが鬱陶しそうな声音で返す。

「ほっといてくれ。あんたの女ってわけじゃないだろ」

「そなた自身が正しさを認めていない反駁はよすがよい。己を納得させられぬ言葉は他者を納得させる力を持たぬ」

「余計なお世話だ」

「他者に指摘されることを望まぬならば、自ら正しい振る舞いを選ぶことだ」

「俺に任せるってんなら、俺がどうしようと口出ししないでくれよ」

「そなたが本当に納得のいく道を選んだのであればそうしよう」

「アンを口説くのが俺の正義さ。ほら、正しい道を選んだんだからすっ込んでくれ」

「そなたはそう装っているよりも遙かに善良な男だ。悪漢を装ってはいるが、心は悪を拒み、善を求めている」

 背後から聞こえるヘイレルンの声に、フィオナは聖職者としての深みを感じ取った。

「あんたに、俺の何がわかる」

 フォールモンは噛みつくように言ったが、それ以上何も言わず、黙りこくった。

 穏やかな説諭によって軽薄な伊達男を黙らせた手並みは、恫喝と暴力と詐術で相手を屈服させる仲間達のそれとはかけ離れており、より好ましいものであるようにフィオナは感じた。スナーのような魔術師達の言い分もわからないではないが、やはり聖職者の存在と神々の教えは、人々の心を光に導く尊いものであるのだと彼女は改めて教えられた気分だった。


 輜重隊から受け取った大テントの設置を終え、野営準備が一段落した頃には、すっかり日も沈みきっていた。

 作業を終えたフィオナは作業用の手袋を取り、額の汗を手拭いで拭き取った。それから水筒に口をつけ、失った水分を取り戻す。

 作業を監督していたアルンヘイルがきびきびとした声を響かせる。

「テントはこれでよし。みんなご苦労様。解散していいわよ!」

「お疲れ様でした、アルンヘイル」

 フィオナはアルンヘイルに近づき、労いの言葉と微笑を投げかけた。半闇エルフは夕闇に溶け込むような微笑を浮かべて首を振った。

「疲れたのはあんた達の方でしょ。私は偉そうに指図してただけだもの」

「何かと気苦労があったでしょう」

「それは慣れてるから平気よ」

「お主の指揮はなかなかのものだ。お主がドワーフの男でないのが残念だ。そうであれば、グロームヴァルで百人隊長が務まったのに」

 甲冑姿で作業に加わっていたドルグフが、銀と鉄の美しい部分だけを合わせたような金属板に付着した土を払い落しつつ、嘆くように言った。おそらく彼にとっては最大限の称讃なのだろう。

「それは光栄ね」気のない返事の後、輜重兵の荷車のある辺りを指さした。「あんた達は先にあっちで待ってて。私はこれがちゃんとなってるかもう一度点検してから行くから」

「私はアールを手伝う」

 昨日と同様、ラシュタルも恋人と共に残ることを選んだ。彼はそうする理由を一言も語らないが、察するのは容易く、口に出すのも問いかけるのも野暮な話だった。

 アルンヘイルが甘く微笑む。

「ありがと、ラーシュ」

「わかりました。では、私達は先に行きます」

「いや、俺もたった今野暮用が出来た。すまんが、先に行ってくれ」

 ドルグフは嫌っているはずの婉曲表現で急用を告げ、短い脚をせかせかと動かして三人の前から離れていった。彼の向かう先には完成間際の仮設便所が見える。

 苦笑し、フィオナは設置されたばかりの大テントを後にした。彼女が向かう先では輜重兵が、冒険者の補助を受けて水や食糧の入った樽と箱を荷車から下ろしながら、配給を差配するアルンヘイルの到着を待っているのが見えた。

 配給場所に向かう途中、フィオナはふと、魔法の灯りに目を留めた。地面に突き立てられた簡素な棒切れの頭に蛍火のような光が点り、風に吹かれる焚火のように瞬き揺らめいている。惹きつけられるものを感じ、フィオナは急拵えの街灯にしばし視線を注いだ。

「カルミルス殿、灯りに何か不手際がありましたか」

 背後からかけられた声にフィオナが振り向くと、群青色の長衣を着て長杖を持った若い女が立っていた。ガリエンダナ・ミゼーリカルダンとかいう貴族か何かのように仰々しい名前の女魔術師だ。瞬く灯りを受けて、死人のように青白い肌が不気味な陰影を伴って夕闇の中に浮かび上がっている。

 フィオナはクライムス・クラートンがミゼーリカルダンに気をつけるよう警告していたことを思い出し、表情を硬くした。クライムス・クラートンは目の前の女魔術師を「軽率」と評し、警戒を促した。何らかの策略を仕掛けてくるかもわからない。

 顔の強張りをごまかし、ほぐすかのように、フィオナは大きく首を振った。

「そういったわけではありません」

「リッヒディート博士と比較して、拙さに失望していたのでは?」

 粘着質に追及するミゼーリカルダンの表情は至って平静で、何か隠された企図があるとしても、フィオナにそれを見抜くことはできそうもなかった。スナーかアルンヘイルがいればこっそり耳打ちの一つもして助言をくれただろうに、と心の中でぼやいた。やはり、自分は彼らと一緒にいないと駄目なのだ、と嬉しさと情けなさの綯い交ぜになった感情が浮かんだ。

 フィオナは呼吸一つ分の間を置いて答えた。

「そのようなことは……綺麗だから見ていただけですよ」

「ごまかしとしては陳腐ですね」

 フィオナはミゼーリカルダンの青白い蝋人形めいた顔を鋭く見据えた。女屍霊魔術師は幽霊のように儚げな長身の持ち主なので、女剣士の眼差しは心持ち相手を見上げる形になった。

「そういった物言いは不快です。挑発されているように感じますし、誰かが己を貶める言葉は聞くに堪えません」

「失礼しました」と謝罪する顔に悪びれた風は一切見受けられなかった。「そういう意図はありませんでした」

「ならばよろしいのですが……きつい言い方をしてしまってすみませんでした。ですが、自分を卑下するのは感心できませんよ」

 両手を腰に当てて胸を張り、たしなめるように言った。

 ミゼーリカルダン修士は憂鬱な態度で嘆息した。

「私は落ちこぼれなのです。本来、修士と呼ばれるに値しない女です。それがわかっているからこそ、リッヒディート博士やクライムス・クラートン博士は私に冷ややかな目を向けたのでしょう」

 フィオナは旅籠の部屋を訪ねてきたクライムス・クラートンとスナーの会話を思い出した。二人はミゼーリカルダンに対してかなり否定的で、しかも侮蔑を隠そうともしていなかった。決して快いとは言えない会話だったのでよく憶えている。内容の真偽はどうあれ、誰かを貶める会話というものは決して聞いていて気持ちの良いものではない。

 どう答えたものか思案するフィオナを見て、ミゼーリカルダンが微笑んだ。

「あなたは隠し事ができない人のようですね」

「いえ、その……」

「ごまかしも慰めも結構です。私自身に自覚がありますから」

 ミゼーリカルダンの顔を見て、フィオナは眉を顰めた。目の前の女魔術師が見せる目つきには憶えがあった。王国本土で過ごした少女時代、彼女と武芸の稽古に励んだ者達の中に、そういう目をした者達がいた。稽古についていけなくなって伸び悩み、それでも諦めのつかない者達、現実を認めず足掻く者達の目だ。

 フィオナはそういう者達が己を卑下するような態度を取ることが苛立たしかった。思うところがあれば口にすればよいのだし、不満があるのならば態度に出せばよいのだ、と彼女は今でも思っている。何であれ、よくないものを押し殺して溜め込むくらいならば、健全な形で吐き出し、前へと進む力にすればよいのだ。

 もっとも、こうした考えが普遍的真理でないことも、彼女はきちんとわきまえている。事実、彼女の仲間達はこのことについて、それぞれ異なった見解を持っている。ラシュタルはそもそも他人の在り様などに関心を持たず、好きにすればよいと言った。アルンヘイルは羞恥心と矜持の微妙な問題や処世術の有効性を説いた。まさに足掻き続けた努力の人であるスナーは、中途半端に表に出して周りに甘えるくらいならば、いっそ全てを表に曝け出してすっきりするか、心の底に秘めて死ぬまで隠し通すべきだ、と不愉快そうに述べた。

 彼らには彼らの、そして自分には自分の、それぞれ考えがある。絶対的に正しいものはないが、絶対的に間違ったものもない。いずれも一面の真理を突いている。だからフィオナは己の考えに従って行動する。

「自分を落ちこぼれなどと言うのはおやめなさい、ミゼーリカルダン修士」

 決して大きくこそないが斬撃のように鋭いフィオナの声を耳にし、近くを通りがかった冒険者が驚いたように立ち止まった。しかし、誰と誰が話しているかを見ると、触らぬ神に祟りなしとばかりに立ち去った。

 感情を静かに昂らせた女剣士は切々と卑屈な女魔術師に訴えかける。

「あなたがまだ高みに昇ることを諦めていないのならば、あなた自身を貶めるような言葉を吐いてはなりません」

 ミゼーリカルダンは穏やかながらもどこか強かな雰囲気のある微笑を返した。

「組織の中では、出る杭は打たれるのです。撥ね退けるだけの力も目をかけてくれる有力者もない身では、自己主張などしない方がいいのですよ」

 そこには実感が籠もっていた。女の身で社会を渡り歩く困難をよく知るフィオナは、ミゼーリカルダンの憂鬱な言葉の意味をよく理解できた。

 それだからこそ、彼女は打ちひしがれた女魔術師を勇気づけたく思った。

「ですが、今、そうする必要はないはずです」

「ところがそうでもないのです。ご存知かもしれませんが、実は私は――」

「あら、あんたまだこんなとこうろついてたの」

 横合いからかけられた声にミゼーリカルダンがさっと口を噤み、声のした方を見た。フィオナも釣られて視線を向ける。

 声の主はアルンヘイルだった。彼女はラシュタルを伴って二人の許に向かってきていた。

 フィオナは手を振って呼びかけた。

「アルンヘイル!」

「いやあ、支柱のネジが一本、磨り減ってぐらついちゃっててね……」

 アルンヘイルは遅れた理由を説明しながらゆっくりと歩み寄り、まじまじと二人を眺めた。一緒にやってきたラシュタルはどうでもよさそうに女三人を一瞥し、遠くの空に視線をやった。

「それにしても、あんた達、いつの間に仲良くなったの?」

 アルンヘイルの問いにミゼーリカルダンが小さく首を振った。

「いえ、灯りについての話をしていただけです」

 アルンヘイルはわざとらしくフィオナを見やった。

「あんたが魔法に興味があったなんて初耳ね」フィオナが答えるよりも先にミゼーリカルダンが口を開いた。「でも、それならスナーに訊けばいいのに。その方が手っ取り早いでしょ」

「カルミルス殿は私に魔術の教えを請うていたのではありませんよ。私が点した灯りが綺麗だと言ってくれたのです。リッヒディート博士の灯りにはきっと及ばない、と私は思うのですが……」

「綺麗、ねえ」アルンヘイルは手近な魔法の灯に目をやった。「確かに綺麗って言えば綺麗ね。ゆらゆら揺れて、焚火みたい。あいつのぴくりともしない味気ない奴より、よっぽど風情があるってものね」

 ミゼーリカルダンが苦笑する。

「博士が模範で、私が悪い例なのですが……本当は一定の光量を安定させて点さないといけないのです」

「どうでもいいわ、そんなこと。綺麗は綺麗よ。正しいか正しくないかじゃない……って言っても、ちゃんと役に立ってくれなきゃ困るけどね」

「やはり、リッヒディート博士のお仲間の眼鏡には適いませんか」

「厭味ったらしい子ね。まるで四十過ぎの婆だわ。そんなんじゃ嫁の貰い手どころか友達もいなくなるわよ」

 何気なく発された毒舌にミゼーリカルダンがぎょっとして目を剥く。その様子を楽しむように口の端を上げ、アルンヘイルは続けた。

「スナーと比べてどうこう言うつもりなんてないから安心しなさいな。あんたのも十分よ。立派に周りを照らしてるもの。大体、最初に確認した時、文句なんか言わなかったでしょ。こういうのはちゃんと周りが見えればそれでいいんだって言ったじゃない。お貴族様の宴の飾りだっていうんなら別だけどね」

「……そうですか。それを聞いて安心しました」複雑な顔で安堵の吐息を漏らしてみせたのも束の間、間髪入れずに言う。「ところで、早く糧食の配給を済ませた方がよろしいのでは」

 アルンヘイルはちらりと女屍霊魔術師と女剣士の間で視線を往復させてから、小さく頷いた。

「そうね。食べ物の恨みは怖いからね。三人とも、早く行きましょ」

「そうですね。もう日がすっかり落ちてしまいましたし」

 夕陽の余韻も既に失せ、周囲はすっかり闇の中に沈んでいた。天空の星と月、そして地上に点された魔法の灯りだけが頼りだった。

「私は他にすることがありますので、失礼します。私の分は仲間が受け取ってくれることになっていますので……」

 ミゼーリカルダンは三人に一礼し、自分達のテントに戻っていった。

「……行きましょ」

 アルンヘイルが歩き出した。ラシュタルがすかさず並び、フィオナが少し遅れて追いかける。

 追いついて隣に並んだフィオナをアルンヘイルがじろりと睨む。

「で、あんた、あいつに何吹き込まれたの?」

「吹き込まれたなど……少し雑談をしただけですよ」

「それだったら、あんな風に逃げなくてもいいじゃない。あいつ、私が来た途端、いきなり逃げに入ったわよ」

「逃げ、ですか」

「あいつ、私と話しながら逃げる機会窺ってたわ。で、ちょっと隙を見せてやったらあっさり喰いついてきた。クラートンがあいつのこと軽率って言ってたけど、割と間違ってなさそうね。演技じゃなけりゃ、かなりわかりやすいわよ、あいつ」

「流石に考えすぎなのでは……」

 フィオナにはアルンヘイルが気を回しすぎているように思えた。彼女の十倍以上もの歳月を生き抜いてきた女には、なまじ経験が豊かなせいで、却って目が曇ってしまっている部分がある。しばしば警戒心が度を越し、救いのない猜疑心と化すのだ。

 だが、アルンヘイルは難しげな表情を崩さない。冷徹な態度で問いかける。

「先に話しかけたのはどっち?」

「あちらです」世故長けた半闇エルフが何を考えているかを察し、フィオナは咄嗟に声を尖らせた。「その程度のことで人を無闇に疑うものではありませんよ」

「無闇じゃない。『その程度』でもない。クラートンの話を聞いたら疑って当然よ。あんたの方こそ無闇に他人を信じるもんじゃないわ。気をつけろって言われたでしょ」

「それでも、共に戦う仲間です」

 フィオナのきっぱりとした答えに、アルンヘイルは呆れたように両掌を上に向けた。

「あんたも懲りない子ね。疑う材料があったらきちんと疑っときなさい。いい、こんな寄せ集め部隊はね、ただ一緒にいるだけって言うのよ。仲間とは違うの。仲間っていうのは普段から一緒にいる奴だけ。こんな集まりなら、戦ってる最中に後ろからばっさりやられないなら上等ってものよ」

「誰でも最初は寄せ集めですよ。ティートバルクでの私達もそうだったではありませんか」

 信義に篤い女剣士の反駁を現実主義者の女傭兵は鼻で笑い飛ばした。

「だから、あの時はあんたらのことも信用しなかったじゃない」

「ですが、今は信用してくれていますよね」

「今はね」アルンヘイルの端麗な顔に浮かぶ笑みに嘲りの色が混じった。「でも、あの時は信用してなかったわ」


 スナーは水の配給が済むとさっさと自分達のテントに引っ込み、仲間達が食事を持って戻ってくるのを待っていた。長年苦楽を共にした仲間――内一人は何年も連れ添った妻――が額に汗して労働に勤しむ間、彼はそのことに対する良心の呵責を一切感じることなく己の作業に励んでいた。彼は記録宝珠に行動記録や瑣末な覚書を書き込んでいるところだった。

 錬金魔術の技法で練り上げられた特別な硝子球は、星幽光を内部に溜めてそのままに保つ性質を持つ。この性質を利用して様々な記録を残すことは、学院で学んだ魔術師にとってはごく初歩的な作業であり、基礎的な星幽光操作訓練である。駆け出し白長衣を着ていた頃は子供の筆跡を思わせる稚拙な文字を書き込むだけで手書きの何倍もの時間を要したものだが、銀の徽章を授与されて博士と呼ばれる身になって久しい今は、すっかり熟練し、一分とかけずに四型書類用紙を埋め尽くさんばかりの情報量を記入できるまでになった。

 記録作業を終えて宝珠を懐に戻したスナーは、仲間達の帰りが妙に遅いことに気づいた。時計を見ると、昨日の作業時間から算出された完了予定時刻をやや過ぎていた。それらしい騒ぎの音は聞こえなかったが、もしかすると何らかの問題が発生して作業に遅れが出たのかもしれなかった。

 スナーが様子を見にいこうかと考え始めてすぐ、テント出入口の垂れ布がまくられた。フィオナが顔を覗かせた。

「遅れてしまってすみません。食事ですよ」

「わかった。今行く」

 スナーは立ち上がり、テントを出た。出てすぐの場所では既に仲間達が車座になり、食事を始めていた。古くなった平たい乾燥パン、その上に載った酢漬け魚と干し玉葱。付け合わせに干した果物と塩の小塊。一度食べれば二度と食べる気がしない献立であり、出征中の兵士達がその日を生き延びるために毎日食べる代物だ。

「ところで、今日は少し作業が遅れたみたいだが、何か問題でも起こったのか」

「ええ、アルンヘイルが言っていました。テントの支柱のネジが一つ駄目になっていたとかで……」

「ほう、それは危なかったな。蟻の一穴とも言う。夜中に風が吹いて戦力半壊なんてこともあり得たな」

「ああ、そうそう」とフィオナが急に思い出したような声を出した。「テントの設置が終わった後のことなのですが、ミゼーリカルダン修士と少し話をしました」

「何、ミゼーリカルダンと?」

 酢酸臭と腐敗臭が入り混じったような刺激臭のする魚を齧るのをやめ、スナーは眉を顰めた。

 アルンヘイルが説明を補う。

「この子、あいつに丸め込まれそうになってたわよ。狙いは多分あんたよ、スナー」

「だろうな。フィオナだけを釣ったところで奴には何の得もないはずだ。足がかりにするつもりだな」

「で、それがわかった上であんたはどうするの?」

「そうだな……」スナーは年老いた悪魔のように微笑んだ。「この手の調略に乗り出す奴のよくある勘違い――主体的な意思を持つのが自分だけだという思い上がり――を正してやるとしようか」

「あんたも気をつけなさいね」

 半闇エルフの古兵の反応は冷ややかだった。


 ミゼーリカルダンがフィオナに接触してきた日の深夜、スナーは静かにテントから抜け出した。

 現在の見張り担当のアルンヘイルがそれに気づいて振り返った。小声で話しかける。

「どこ行くの?」

「ちょっと決着をつけてくる」

「その日の内にってわけ」アルンヘイルは目を瞬かせた。「もうちょっと泳がすかと思ってた」

「それもいいが、簡単にできることをわざわざ難しくやることもないだろう」

「普段の喋り方でもそうしてくれたら助かるんだけどね」

 ミゼーリカルダンが点して回った灯りの瞬きを受け、アルンヘイルの顔に複雑な陰影が浮かぶ。

「それは趣味みたいなものだから如何ともしがたいな」表情を引き締める。「行ってくる。何もないとは思うが、何かあったら頼む」

「任せといて」

 アルンヘイルは拳を掲げて請け合った。

 スナーは静かにテントを離れ、もう一つの小さなテントに向かった。そこではミゼーリカルダンとその仲間が寝起きしている。

 ミゼーリカルダンのテントはスナー達のそれとは違い、どこなりと旅行用品店に出向けばすぐに手に入る普通品だった。垂れ布で隠された出入口の横には短槍を手にした男が見張りに立っていた。筋骨逞しく、目つきは鋭い。なかなかの手練であるようにスナーには感じられた。

 見張りがスナーを見咎めた。

「スナーとか言ったな。何か用か」

「ミゼーリカルダン修士に用事がある。リッヒディート博士が来たと伝えてくれ」

「あいつは今寝てるんだ。後にしてやってくれ」

 見張りの男は深夜に訪問する非常識を咎めるような目を向けた。

「博士が修士をわざわざ訪ねた。この意味をよく考えることだ」

「だが、女を夜中に訪ねるってのは――」

「埒が明かないな」わざとらしく舌打ちし、一歩踏み出す。「俺は許可を求めているんじゃないんだ。もういい、自分で蹴り起こす。脇腹に爪先を二、三度入れてやれば飛び起きるだろう」

 スナーは一歩も引く姿勢を見せなかった。無礼は承知の上だった。これが彼の最も得意とするやり口なのである。スナー・リッヒディートは輝かしき学院時代、一門次席の座を巡って競い合ったゼイル・ガウディアスと共にサルバトンの両腕と目されていた。彼らは様々な荒事や交渉事に携わり、どちらも優秀な成果を上げたが、その過程で浮き彫りとなった二人の性向には、決定的な違いがあった。ゼイルはいくつもの取引と交渉を経る婉曲複雑なやり方を好みかつ得意とし、スナーは相手に奇襲と打撃――精神的と肉体的とを問わず――を加えて屈服させる直接的なやり方を好みかつ得意としていた。言わばゼイルは調整の名人であり、スナーは制圧の名人である。ゼイルが政治家気質であり、スナーが軍人気質であると言い換えることもできる。状況が許す今、スナーは最も効果的で最も好みに合う手法を選んだのであった。

 学者然とした男が見せた粗暴な態度に動転した様子で、見張りがスナーの行く手を遮った。

「おい、何するんだ」

「邪魔をするくらいなら、君が彼女を起こしてきてくれ」

「……わかった。待っててくれ」

 苦渋の末、見張りの男はテントの中に姿を消した。問答する声と人が身動ぎする音がしばらく聞こえ、収まったかと思うと、長衣姿の女が眠そうな顔で現れた。不用心なことに長杖を持っていない。

「ミゼーリカルダン。修士の分際で博士を待たせるとはどういうつもりだ。その程度の礼儀も知らないのか」

 スナーは開口一番、挨拶ではなく痛烈な罵倒を放った。

 寝起きの頭脳が想定外の事態を呑み込んでいないのか、女修士は空しく口を開閉させてから、ようやく言った。

「結界に不備でもありましたか、博士」

 悪辣な真正魔術博士は、困惑の面持ちの屍霊魔術修士の問いを無視した。

「こっちに来い。内密の話がある」

 呆気に取られた女修士の横を返事も待たず擦り抜け、テントの裏に移動する。ミゼーリカルダンは戸惑いを強めながらその後に続いた。

「盗み聞きや覗き見をされたくない。話を始める前に、少し対策をする」

 一方的な宣言の後、周囲を星幽的に隔離し、遮音と違和感解消の魔術を施した。

「博士、これは……」

 ミゼーリカルダンが不安そうに周りを見た後、杖がないことをようやく思い出したかのように視線を手元に向けた。

「言っただろう、内密の用件だと。学院時代は、よくこうしてサルバトンやウェルグナーと内緒話をしたものだ」とさりげなく獅子の威光をかざしてミゼーリカルダンを威圧してから、単刀直入に告げる。「さて、本題に入ろう。君はフィオナに接触したようだが、目的は何かね」

「目的など……ただの雑談ですよ」

 ミゼーリカルダンの声には露骨な動揺の震えがあった。

「話を早く進めるために言っておくが、俺は君が学院の回し者だと知っている。トゥーラル・クライムスから聞いたんだ。わかるか、君は捕獲された間者のようなものだ。そして俺は尋問官だ。わかったなら、訊かれたことに正直に答えろ。ごまかしも嘘も隠し事も許さない。くだらない交渉技術を披露していただく気もない。立場をわきまえろ、自分が交渉できる立場かどうか。わかったようなら、這い蹲って慈悲を乞え」

 スナーは叩きつけるように命じた。ミゼーリカルダンの青白い顔に汗が滲むのが夜の暗闇の中ではっきりと見えた。

 死人のような顔の女魔術師は、答えを探すように顔を悩ましげに歪め、視線を彷徨わせている。

「耳が聞こえないのか」鞭打つような声を出す。「回答に時間がかかるのはごまかしを考えている証拠だ。正直に吐くだけなら時間などかからない。さっさと言え。なぜ言わない。俺を馬鹿にしているのか」

「滅相もありません!」

 慌てて否定するミゼーリカルダンに向かってわざとらしく屈み込み、顔を覗き込む。

「……聞こえない耳や回らない舌など邪魔なだけだとは思わないかね」

 スナーはこれ見よがしに左手を差し出した。その手が澱んだ魔術の輝きを宿し、ミゼーリカルダンの血色の悪い顔を照らす。

「な、何を……」

 ミゼーリカルダンが震える声を発して一歩後ずさる。

「これは生体腐敗の魔術……別名を『汚穢の魔王(グーリュー)の一撫で』と言って、触れた生き物の肉体を腐らせる魔術だ。見たことはあるかな。俺が学院にいた頃は修士以下の単独学習が禁じられていたが……」

「そ、そのようなものを私に使ってただで済むと――」

 強力な魔術の維持による消耗を押し殺し、わざとらしく首を傾げた。霞のかかり始める思考に口を動かすことで活を入れる。

「何を言うんだ、ミゼーリカルダン修士。俺はただ、博士として後進に魔術を実演してやっているだけだぞ」無造作に手を女修士の蝋燭めいた顔に近づける。「ほら、これが『グーリューの一撫で』だ。後学のためだ、顔を近づけてよく見ておくといい。屍霊魔術師なら、生命魔術もしっかりと学んでおかないといけないだろう。屍霊魔術と生命魔術は対となる体系だからな」

 魔王の名を冠する凶悪な魔術の気配に怯え、ミゼーリカルダンが更に後ろに下がる。

 邪悪な高等技法を気軽に発動してみせた博士は、女修士が下がった分だけ踏み込み、酷薄な印象を振り撒く微笑を作った。

「まあ、軽々しく危険な魔術を披露するのは軽率の誹りを免れ得ないかもしれないし、こういったことをしている内に、もしかすると事故が起こってしまうかもしれないことも確かだ。そうすると、確かに問題になりかねないな。だが、それで君は何を得る。俺は何かの罪に問われるかもしれない。君は確実に容貌を破壊される。肝心なのは、君にとって割に合うか否かでは?」

 ミゼーリカルダンは観念したようだった。

「……カルミルス殿に博士との仲介の労を取っていただこうと考えていました」

 スナーは左手から星幽光の輝きを消した。魔術の維持に労力を費やす必要がなくなり、ぐっと心身が楽になった。思わず吐息を漏らしそうになるのを堪えて尋問を続ける。

「……口添えさせるつもりだったんだな」

 敗北をすっかり受け容れた女魔術師は無言で頷いた。

「警戒心というものがないから簡単に籠絡できそうだと思ったんだろう」

 回答はなかった。

 声の圧力を高める。

「どうなんだ」

 躊躇いがちな回答はまたも無言の首肯だった。

「その判断は正しい。だが、俺達も同じようにあいつを見ていると思わなかったのなら、考えが足りない」スナーは嘲笑し、更に問いを重ねた。「君の目的は何だ。俺に何を要求するつもりだった」

 言うべきか言わざるべきか迷う素振りを見せたが、結局、ミゼーリカルダンは口を開いた。

「……現地で発見したものの処理についてお願いしたいことがあったのです」

「言ってみろ」

「貴重な品を入手した際は学院に引き渡していただきたいのです」慌てた風に付け加える。「勿論、対価は支払います。つまりですね、宮廷ではなく我々を優先的な交渉相手にしていただきたいのです」

「それだけか」

「いえ、それと、戦利品の分配について、宮廷魔術師団に口添えをしていただければ、と……博士はクライムス・クラートン博士と何らかの交渉がおできになるのでしょう」

 スナーを宮廷魔術師団に接近するための踏み台と見る者が早速現れた。まるで未来を直接見てきたかのようにトゥーラルの警告が一々的中していることをおかしく思いつつも、面には出さず相槌を打つ。

「優先取引と口添え。これが君の要求か。他には? 一つ忠告しておくが、俺は隠し事をされるのが嫌いだ」

「ほ、本当に、それだけです」恐怖と不安に引き攣った声でミゼーリカルダンが訴えかける。「嘘ではありません」

「そうか、それだけか……」

 彼女の要求は予想の範疇を一歩も出ないどころか、むしろ大幅に下回るものでさえあった。スナーはもっと図々しい要求を予想していたし、それに対応する準備もしていた。肩透かしを喰らった気分になったが、長続きはせず、悩ましい疑問が思考に浮かび上がった。

 トゥーラルが警告したようにミゼーリカルダンが指し手でなく駒であるというのであれば、その背後にはゼイル・ガウディアスなりエヴィン・トルカンなりがいるはずだ。しかし、ミゼーリカルダンの姿勢は、決して無欲では有り得ない彼らの指図があるにしては、あまりにも消極的に過ぎた。トルカンはどうかわからないが、ゼイルはスナーにどの程度まで吹っかけることができるかを確実に知っているというのに。

 スナーは指し手達の消極性が不気味でならなかった。本当の狙いがどこかにあり、このやりとりの中に落とし穴が隠されているのではないかと勘繰らずにいられなかった。指し手の性格上、その罠が深刻なものである確率は低いが、その脅威度に関わらず、罠とは不快なものだ。

 スナーは唐突に話題を転じて直截に探りを入れた。

「君は誰の指示で動いている」

「誰も何も……私は学院の――」

 顔中に疑問符を貼りつけたミゼーリカルダンの言葉に被せるように、静かに、だがごまかしを許さない冷厳な態度でスナーは追及を重ねる。

「わかりづらかったかな。では質問をより具体的にしよう。君に指示を出しているのは誰だ」

 ミゼーリカルダンは口を半端に開閉させるだけで、すぐには答えなかった。言おうか言うまいか躊躇っているかのようだった。酸欠の魚のような仕草だ。

 スナーは感じた苛立ちを隠すどころか、むしろ、表情を険しくしながら小首を傾げることで強調してみせた。

「耳が聞こえないのか、ガリエンダナ・ミゼーリカルダン。学院にいる上司と目の前にいる俺、どっちが怖いんだ」

 ミゼーリカルダンは威圧に屈した。血を吐くような顔で、絞り出すように言葉を発する。

「……ゼイル・ガウディアス閣下と、エヴィン・トルカン閣下です」

「トルカンは飾りで、ガウディアスが責任者ということか」

「それは……」

「答えなくていい。ガウディアスが少しでも関わっていれば――いや、関わっていなくても――何もかもあいつの思う通りに運ぶことはわかっている。犬がうるさいのも雨が降るのも全部あいつの陰謀だ。この宇宙の喜びは全部あいつの手柄で、苦しみは全部あいつの責任だ」

 冗談とも本気ともつかない――スナー自身特に区別する気もない――言葉を量りかねたらしく、ミゼーリカルダンの淡い蒼瞳が戸惑うように泳ぐ。

 スナーは頓着せず尋問を続行した。

「君はどんな指示を受けた。俺に接近しろと言われたか。それとも、クラートンの機嫌を取れと言われたか。でなければ、冒険者に不和の種を播けか」

「そ、そのようなことはありません!」

 勝手に身の危険を感じ取りでもしたのか、ミゼーリカルダンは審判官に慈悲を求める罪人のような声を上げた。

「では何を指示された」見返す瞳は慈悲など欠片も持たない氷の刃のような光を宿していた。「答えろ。言わなければ、君を俺達の敵と見做す。サルバトン一門が敵をどう扱うか、その肉体と精神に教えてやる」

 浴びせられた恫喝にミゼーリカルダンは唇を震わせて怯え、慌てて求められた答えを口にした。

「わ、私はあなた達に対する指示など、何も受けてはいません! 私はただ、なるべく多くの成果を持ち帰ることと、他勢力と敵対しないことを命じられただけで……」

「戦利品確保の訓令を受けただけだと言うのか」

「訓令……?」

 ミゼーリカルダンは首を傾げ、不安の面持ちでスナーの顔を見上げている。

「何だ、知らないのか」

 口頭試験で回答に窮した学生のような態度でミゼーリカルダンが身を縮める。

「不勉強で申し訳ありません……」

「この場合、命令と訓令は兵学用語だ。命令は目標と手段を厳密に規定し、訓令は目標だけを規定する。つまり君は、与えられた任務を達成するに当たり、ガウディアスからかなりの自由裁量権を持たされているわけだ」尊大な印象を与える形に唇を歪める。「確かに魔術師は魔術が本分だが、魔術しか知らないようじゃ、魔術師である資格がない。そうは思わないか。魔術師とはつまり、最高の知識人、文明の最前線を担う者であるはずだ。全てに精通していなければならないとまでは言わないが、あらゆる分野の基礎的知識を教養として修めておかねば格好がつくまい」

「それはごもっともですが……」

 したり顔で説教して時間を稼ぎながら、スナーはゼイル・ガウディアスの意図に考えを巡らせていた。

 ゼイルが主導的立場にある以上、状況は既にあの脚本家の掌の上と言っても過言ではない。全てが彼の望む方向――可能なものの内から選択した過不足のない目標――へと動いているはずなのだ。そして彼の目標――少なくともこの捕縛作戦それ自体における小目標――は、他勢力との衝突さえなければミゼーリカルダン如きでも独力で達成可能なものであると思われる。或いは、そもそもゼイルは捕縛作戦における戦線を半ば放棄し、宮廷との直接交渉のみを見据えているのかもしれない。

 いずれであるにせよ、たったそれだけを指示しておくだけで、ミゼーリカルダンが学院の目的を台無しにするような行動に出ることはなくなる、とゼイル達が考えている――それは即ちスナー達が深刻な不利益を被らずに済むであろうことを意味する――ことは間違いなかった。特に接触して指示を出さずとも、スナーが計画の妨げにならないと彼らが考えているのであろうこともそうだ。

 そしてゼイルがそのように考えているのであれば、それは実際にそうなのだ。精神魔術を最も得意とし、人の思考と行動を捉え、見抜き、導くことに長けた魔道士ゼイル・ガウディアス真正魔術博士は、人の心の動きに左右される事象に対して抜群の理解力と支配力を有している。冷静な判断力を維持している限り、彼がこの種の事柄を読み違えることはあり得ない。ミゼーリカルダンも、スナーも、また他の関係者も、数学的かつ文学的に構築されたゼイル・ガウディアスの掌で踊っているのに過ぎないのだ。

 スナーがゼイルに関して読むことができるのはここまでだった。ここから先のこと、たとえば目標――ゼイルのそれだけでなくミゼーリカルダンが与えられたそれも――が何であるかなどは、推理の限界を超えていた。関心が湧かないでもなかったが、このことにこれ以上考えを巡らしても、単なる知的遊戯以上のものとはなり得ない。ゼイル・ガウディアスという男の策略の企図は、渦中に在る者には全貌が掴めず、傍観する者には内奥が暗すぎ、見抜くのは非常に困難なのである。

 しかしながらスナーとしては、まず自分達が被害を受けずに済むことが最も大事であり、その確証さえ得られればひとまずそれでよかった。根本的な部分においては、ゼイルの目的が何であろうと構わない。自分達の迷惑にならないのであれば、謀叛だろうと金儲けだろうと好きにすればよいのだ。あらゆる意味においてミゼーリカルダンが自分達に深刻な攻撃を仕掛ける蓋然性が薄いと再確認できたことでひとまず満足し、思考を打ち切った。

「優先取引と口添えだったな」

「えっ……」

 ミゼーリカルダンからすれば唐突としか思えないであろう形で、話を本筋に引き戻す。

「君の要望だ。全てとは言わないが、聞いてやってもいい」

「全てではない、と言いますと……」

 ミゼーリカルダンの蒼い瞳が警戒するように瞬く。

「優先取引には応じない。俺が取引する相手はその都度俺が決める。学院を例外にはしない」

「し、しかし、あなたは学院の、それも博士号を――」

「それがどうした」女修士の言葉が終わる前に被せ、瀑布のような勢いで畳みかける。「もう一度言う。それがどうした。俺はサルバトン討伐の任務を負っている。遂行には力が必要で、今回の戦利品の取り扱いはその力を増すのに都合がいい。ゆえに、俺は任務を果たすために戦利品を独自に活用する。文句があるなら、俺の任務の責任者である学長の正式な命令を文書にして持ってこい。そうすれば話くらいは聞いてやる」

「無理を仰らないでください……」

 ミゼーリカルダンが困り果てた顔で言った。それは、彼女の立場からは論外であろうばかりでなく、遥かに多くの権限と選択肢を持つより上位の立場においても政治的に不可能な選択であった。サルバトン討伐は、建前上、学院が万難を排して達成すべき最重要任務である。その担当者が戦力充実を図るのを妨げるが如きは、もし不満を晴らそうとスナーが外部に洩らしでもすれば、底意地の悪い対立者が、サルバトン討伐の意思の欠如を示す不誠実な振る舞いであると学院を攻撃する格好の材料となってしまう。

「だが、あまり悲観することもない」与える効果を計算し、慈悲深い笑みを作る。「俺だってウェルグナーは怖い。ある程度の配慮はせざるを得ない」

「それは、つまり……」

 ミゼーリカルダンの顔の血色が僅かによくなる。それを見ながら、慈悲深い表情を性根のねじ曲がった悪魔めいたものに変える。

「既にトゥーラル・クライムス・クラートンと話をつけてある。おそらく、俺が手に入れた品の大半は宮廷を通じて学院に渡る」

「ですが、それでは……」

 ミゼーリカルダンが呑み込んだ言葉を想像することは容易かった。手柄にならない、というようなことを言いかけたのだろう。スナー・リッヒディート―トゥーラル・クライムス・クラートン―宮廷魔術師団―ゼイル・ガウディアス―魔術学院の経路が出来上がるだけで、そこに彼女が入り込む余地はない。功績と利権の道筋から彼女だけが締め出される。

 めまぐるしく変わる女屍霊魔術師の不健康な顔色を眺めながら、スナーは自分がウェルグナーの影響を強く受けていることを再確認させられていた。相手の弱味に付け入って無理難題を強要し或いは翻弄する手法は、まさにかの老魔術師のそれに他ならない。

 そのようなことを考えながら、一転、優しげな声音で告げる。

「だが――安心しろ――宮廷魔術師への口添えはしてやる。君にある程度便宜を図るよう、クラートンの奴に伝える。学院に、ではなく、君に、だ。この意味はわかるな」

 少し考えるような顔をしてから、ミゼーリカルダンは表情を輝かせて小刻みに頷いた。

「はい、はい、勿論です。勿論です、博士」

「奴が俺の言葉をどこまで受け容れるかは保証しないが、そこは君の腕前次第だ。上手く取り入ることだ。それで多少は面子も立つだろう」ここで語調を何の前触れもなく威圧的なものに変える。「もしこれで満足できないようなら、交渉は決裂だ。以後はサルバトンの流儀とウェルグナーの手法でお相手する。何、君如きをどうこうしたところで誰も騒ぎ立てはしないんだから、楽な勝負だ。ゼイルもトルカンも、きっと君を見捨てるだろう」獰悪に唇を歪め、スナーは返答を迫る。「さあ、どうする」

 ミゼーリカルダンは打開策を模索するような苦しげな顔をしたが、諦めたように首を縦に小さく何度か振った。

「わかりました、リッヒディート博士。クライムス・クラートン博士に口添えをお願いします」

「結構」と真面目腐って頷いてから警告を加える。「ただし、俺が約束を守るのも、君達が俺の機嫌を損ねない限りにおいてだ。君達が何か不愉快なことをしたら、この話は反故だ。逆のことをしてやる。クラートンには君に一切便宜を図るなと言っておく。俺の言葉にも天秤の釣り合いを崩す程度の重みはあるはずだ。どちらに傾けるにせよ、な」

 スナーは弟弟子の言い回しを剽窃し、冷徹に脅しつけた。

 ミゼーリカルダンが恐る恐るの体で食い下がる。

「その、ただ機嫌を損ねるなと言われましても……」

「具体的な基準が欲しいか」

「はい、できれば……何がよくて何がいけないのかがわからないと、身動きが取れません」

「君達が動けなくなっても俺は困らない。自分で判断して、俺に最大限の配慮をしろ」冷然と言い放ってから、勿体ぶった態度で続ける。「ただ、考えの手がかりをくれてやるとすれば……少なくとも、君が俺達の周りをうろちょろしたり、こそこそ何かを企んだりすると、俺の機嫌が悪くなることは確かだな」

「わかりました。以後はなるべく接触を避けるようにします。工作も控えます」

「……まあ、よろしい」

 スナーは発動した魔術を魔法消去の魔術で解除し、踵を返した。これ以上話すことはないとの端的な意思表示だ。

 背後から安堵の吐息の漏れる音が聞こえた。

 二歩ほど進んで足を止めた。肩越しに振り返り、テントに戻ろうとしているミゼーリカルダンを呼び止める。

「言い忘れていたことがあった」

「……何でしょう」

 ミゼーリカルダンが怯えたようにスナーを見返す。安心したところを衝かれ、酷くうろたえていた。トゥーラルとの役者の違いにスナーは失笑しかけたが、自分が油断しかけていることに気づき、気を引き締め直した。

 すぐには用件を告げず、最大限の効果を狙って時機を図った。沈黙によって煽られた女修士の緊張と不安が十分に高まったのを見て取ってから口を開く。

「機嫌を損ねるまでならいいが、もし俺を裏切る――何が裏切りかは俺がその都度決める――つもりなら、覚悟しておくことだ。俺がウェルグナーやゼイル・ガウディアスと組んでどんなことをしてきたか、噂くらいは聞いたことがあるだろう」

 魔術学院は決して単なる学究団体ではない。単なる巨大組織であるのに留まらず、半ば独立国家的性質を持つこともあり、その活動は政治的領域にも及ぶ。博士ともなれば幹部と言ってよい身分であり、事実、魔術博士号は帝国大学から授与される帝国博士号と同様、無爵貴族に準じる権利を保有者に付与する。必然、学内外における立場は政治的色彩を帯び、魔法の研究と実践以外には全くの無能であることに定評があった畸形的天才バーガルミル・ユークライン博士のような人物でもなければ、学院内部に身を置く限り、学院の政治活動と無縁ではいられない。彼の場合も、かつて導師として君臨した妖術師ウェイラー・サルバトンやウストファルト・ウェルグナー大博士の手先として、時に単独で、時にゼイル・ガウディアスなどと協同して、様々な――得てして血腥い――任務をこなしてきた。

「も、勿論です、博士……」

「グーリューの一撫で」を披露してやったことが効いたらしく、ミゼーリカルダンは静かな恫喝に震え上がった。目を見開き、捕食者を見る草食獣のような表情でスナーを見ている。蒼白な顔が更に蒼白になる様は哀れを通り越しておかしくすらあった。

「誓って、裏切りなどは致しません」

「よろしい。君の配慮と誠意に期待する」

 スナーはわざとらしく笑って魔術を解き、ミゼーリカルダンのテントを後にした。

 自分達のテントへのさして長くもない帰り道、スナーは自らの手際に対する一応の満足を味わっていた。深夜に訪問して判断力の鈍る寝起きを奇襲し、優位に乗じて反論や小細工の暇も与えず一方的に攻め立て、自らの要求を通す。それでいて、要求の内で相手が最も望んでいるものをある程度叶えてやり、反抗心を抑える。そして保険として圧倒的な暴力をちらつかせることで、逆らっても損ばかりで益がないことを思い知らせ、後背の安全を確保する。この場合は相手の殺害という窮極的解決がひとまず論外であることを踏まえれば、稀に見る圧倒的勝利と言えた。

 しかし、アルンヘイルから見張りを引き継いだフィオナの出迎えを受けた時には、快い勝利感に微かな波紋が生じていた。彼は「輝かしい勝利」の陰に潜む事実に気づいてしまっていた。

 フィオナは両手を腰に当てて身を反らし、挑むようにスナーの顔を見上げた。その顔には不満の色が強く表われていた。

「お帰りなさい、スナー。アルンヘイルから聞きましたよ。ミゼーリカルダン修士のところに出向いたそうですね」

「お察しの通り、夕食の時に言ったことをやってきた。多少いじめてきたわけだ」

「なぜそのようなことを……彼女が我々に何かをしようとしていると決まったわけではないのに」

「いや、奴は黒だったよ。ミゼーリカルダンが君に接触したのは作戦の一環だった。奴はそのことを認めた」

「……修士をどうしたのですか」

 フィオナの声が緊張を孕んだ。殺したとは思っていないだろうが、痛めつける程度のことはしたと思っているのかもしれない。仲間内での彼の評価はその程度のものだ。

 スナーは肩を竦めた。

「どうもしちゃいない。これ以上俺達に接触しないことと引き換えに、奴の望みを部分的にだが叶えてやる約束をした」

 フィオナがじっとスナーの顔を見つめた。スナーは眉を顰めた。

「何だ」

「浮かない顔をしていますが、修士と何かあったのですか」

 心の中に差した一抹の影を見透かされたように感じ、スナーは僅かに目を剥いた。

「……少し、考えていることがある」

「私でよければ聞きますよ」

「そうだな……聞いてもらうか」スナーは自分の中にわだかまる思いを慎重に言葉にしていく。「奴との交渉、俺は結局のところ、ゼイルの掌中で踊っただけだろう。あいつの思う通りに動かされたか、あいつが捨てた無価値な勝利を拾っただけかはわからないが」

 ゼイル・ガウディアスの複雑巧緻な策謀に踊らされたこと自体は悔しくも何ともなかった。カードの名人にカードで敗北したところで、戦棋の名人の誇りはいささかも傷つかない。

 問題は彼に土をつけた道具だった。

「だが、ミゼーリカルダン、あいつとの勝負で言えば、勝ったのは俺だ。そう思っていた。だが、本当にそうなんだろうかと、今、少し悩んでいる」

 フィオナは首を傾げた。

「あなたは目的を達したのでしょう。ならばあなたの勝利では?」

「だが、実のところ、得たのはあいつばかりで、俺は何も得ちゃいない。俺があいつの望みを叶えてやる代わりに勝ち取ったのは不干渉だが、結局、それはゼロに戻っただけだ。あいつは何も払わず望みを叶えたに等しい。盗まれたものをわざわざ盗人に金を払って買い戻したようなものだ」

「確かに、そういう形ではありますね」

 灯りの陰影に彩られたフィオナの顔には考え深げな表情があった。

「実はあいつの独り勝ちなんじゃないか」スナーは半ば独り言のように続ける。「俺は面倒を避けるために早期決着を図った。そのために譲歩もした。ゼイルの奴がそれを読んでいたのは当然としても、あいつはどうなんだ。あいつも、そこまで読んでいたか、少なくとも期待していたんじゃないか。俺はそれに上手いこと乗せられたんじゃないのか」

 そうだとすればスナーは完全に手玉に取られたことになる。話している最中はそのようなことなどまるで考えもしなかったが、もしかするとミゼーリカルダンは、スナーやトゥーラルの評価とは裏腹にしたたかな交渉者である――そうでなければ必死の一念で勝利に喰らいついた――のかもしれなかった。或いは、スナーが自ずから敗れてしまった可能性もある。当の彼の方こそが、主体的な意思を持つのは自分だけであると決めつけ、或いはミゼーリカルダンを駒と見縊ってその後ろにいるゼイルの影ばかりに主体性を見出し、思い上がっていたのかもしれなかった。それらもまた、ゼイルの予想通りだったのではないか。トゥーラルの警告と、食事時にアルンヘイルが発した冷ややかな言葉が、共に脳裡をよぎった。

 飴と鞭で上手く手懐けた格好になる以上、表面的な結果を見れば、スナーは紛れもない勝者だ。しかし、手懐ける気もなかった獣に飴をやる破目になった時、それは本当に勝利と言えるのか。欲しかった飴を手にした獣が独り甘味にほくそ笑んだだけではないのか。考えるほどに深みに嵌まっていく。いずれにせよ、スナーの勝利に泥がついたことは確かだ。勝利は空しいものだったのだ。

「交渉事はよくわからないのですが」と首を傾げて前置きする。「もしあなたの言う通りだったとして、それの何がいけないのですか」

「何が、だと」

 スナーは真意を推し量るようにフィオナの顔を見返した。

「あなたは目的を達しました。それ以上に何か求めるべきことがあるのですか。あなたの目的とぶつからないのであれば、相手方の目的などどうでもよいでしょう」

「それは……その通りだが……だが、一杯食わされたかもしれないんだぞ。お膳立てしたのはゼイルだとしても、成果を回収したのは立派にミゼーリカルダンの功績だ。あのミゼーリカルダン如きに」

 戦棋で皇帝や皇子を詰められた時、それを成し遂げたのは敵手であって駒ではない。だが、その駒が元帥や導師ならばまだしも、最弱の歩兵であったならば、そこには唇を噛み締める衝動を伴う屈辱感が現れるものだ。戦棋の名手としても知られたウェルグナーに散々に遊ばれ、盤の端に追い込まれた皇子を歩兵で詰められた屈辱の対局の記憶がスナーの脳裡に蘇る。

 フィオナはスナーの顔を見上げたまま、小さく首を振った。

「悔しがるのはわかります。何も感じないようでもいけません。ですが、拘るべきことではありません」真っ直ぐに瞳を見据える。「手落ちを省みることも大事ですが、より大事なことは自分が守りきったものを誇ることです。守りたいものを守れたのならば、何を失おうとも、それは一つの勝利なのですから。それにしても」と心底からの疑念と微量の非難の籠もった声が続く。「私には理解できません。アルンヘイルも倒した敵の所持金が少ないとあなたのような顔をしますが、誰も彼も、どうして単純に勝利を祝うことができないのでしょうか」

「俺に言われても困る。世の中には、何かをしたら、それに見合う何かが得られるべきだと思っている人種がいる、としか答えられない。思うに、君の論理は戦士の論理であって、常人の論理じゃない」スナーは苦笑した。「しかし、君に説教されるとはな。これじゃ立場が逆だ。年長者が聞いて呆れる」

「……気に障りましたか」

「少しな。だが、いつも言っているように、君が年下で女だから、というわけじゃない。説教されて腹の立たない奴はいない。是非や立場以前の問題だ。人という生き物は、自分の考えを否定されればそのこと自体をまず不愉快に思うものだ。実際の是非がどうだろうとな」

「それでも、撤回はしません」

「構わない。俺は君も正しいと思っている。参考にする価値があることは認めるよ」

 フィオナの表情が綺麗な微笑みを形作った。

「それはよかった」

「ただ、まだ気持ちの整理がつかないことも事実だ。奴が無能なら、それに転がされた俺は一体何だ。ちょっと一眠りしてすっきりしてくる」

「おやすみなさい、スナー」

「ああ、おやすみ」背中越しに答え、一言だけ告げる。「明日には立ち直る」

 返事は待たず、スナーはテントに戻った。

 横になる直前、澱んだ溜息をつく。シュレ教導祭司の一件と言い、ミゼーリカルダンの件と言い、どうもこのところ、彼は精彩を欠いていた。四十路を控えて、視野が狭くなり、思考が鈍り、思想が頑なになったように感じられた。学院で過ごした青年時代からは考えられない体たらくだった。

 これが老いるということなのか、と彼は暗鬱な感情に囚われた。そのような悩みはまだまだ先の話であると彼は思っていた。

 何しろ、人生五十年と言われた時代はとうの昔に終わっているのだ。今や、貧困層や辺境の農民でもなければ、普通の平民であっても齢六十を迎えることができる。富裕層や貴族に至っては七十、八十と健やかに齢を重ねる者も珍しくない。無論例外はある。たとえば先帝ミヘール二世は聖俗分離勅令を発布して宗教勢力から政治主導権を奪還したその二年後、僅か五十五歳で崩御した。しかし、その学友にして後に南部総督に就任したヴェルバール・ハイナス・メヘンレンバルク侯爵は、齢七十を数えてなお統治の第一線に在る。師匠の弟弟子に当たるウストファルト・ウェルグナー大博士などは齢八十が迫るにも関わらず、五十過ぎ程度にしか見えない若さを保っている。今は亡きカイバー・ベルトン・アベリボイエン大博士などは百二十歳を超えてなお――その死の直前まで――元帥のように堂々と背筋を伸ばして矍鑠と振る舞っていた。魔術師の宿敵とも言える恐るべき異端審問官グルツ司教などは一世紀以上もの長きに亘って異端審問の最前線に立ち続け、今なお大陸中を飛び回って精力的に活動している。

 そうした偉大な老人達の姿を見るにつけ、スナーは、老いというものは自分にはまだまだ縁遠いものであり、しかも肉体の衰えと引き換えに精神の円熟をもたらすものであると考えるようになっていた。

 しかし、現実は違うようだった。彼を蝕む老いは、肉体のみならず精神をも衰えさせるものであるらしかった。思わず、二度目の溜息を漏らす。

「鬱陶しい」暗闇の中、ラシュタルが小声で無愛想に言った。「寝るならさっさと寝ろ」

 小声で聞き返す。

「……起こしてしまったか」

「何を悩んでいる。どうせくだらぬことだろう」

 スナーは暗闇の中で小麦色の顔をじっと眺めた。真剣な眼差しを注いで短く問う。

「ラシュタル。俺は老けたか」

 回答は無言の首肯だった。

「そうか」

「だが、私は昨日のお前よりも今日のお前が好きだ。そしておそらくは、明日のお前はもっと好きになるだろう」

 スナーは目を瞬かせ、それから小さく笑った。

「荒野エルフというのは、他人の心を読めるのか」

「悩みに気づかぬようでは友とは言えぬ」素っ気無く答え、毛布をかけ直す仕草をした。「私は寝る。お前も寝ろ。明日もまた歩くのだから」

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