第七章(前)
黄金騎士リヒハインド・フェル・シュインハル無爵近衛歩兵大佐が総指揮を執る「作戦演習兵団」の総兵力は、近衛戦隊一個と輜重等を合わせた四百余名、主任宮廷魔術師である魔道士トゥーラル・クライムス・クラートン無爵真正魔術博士が率いる宮廷魔術師団の分遣隊十五名、歩兵連隊一個及びケンマーゼン戦団とその輜重およそ八千八百名、ベリン戦士長が率いる戦神の戦士団二十名、異端審問官グルツ司教率いる聖堂騎士団クベイン隊とその雑用係、異端審問官助手らを合わせたおよそ八十名、生と死の女神戦士団のリライア隊およそ四十名、ミドルトン軍およそ四十名、そして冒険者達およそ三十名、合計して九千名以上にも上った。
歩兵、猟兵がほとんどである一方、軽及び重騎兵は若干名で突撃に用いるにはあまりにも衝撃力貧弱であり、魔法兵も質こそ高いものの数が不足し、砲兵に至っては一兵もいない。こうした寄せ集め部隊特有の戦力的偏りが欠点として存在するものの、単純な規模で言えば、この兵力は小型の旅団に匹敵する。
大佐ともなればいつでも旅団や師団を引き継ぎ、兵団の指揮を引き受ける用意が出来ているものだが、准将に進級することなしにそういった機会に恵まれる大佐は多くない。フェル・シュインハルにしても、これまでに指揮した最大規模の部隊は歩兵一個連隊を基幹とする戦団に過ぎず、未だ旅団規模以上の部隊を指揮したことはなかった。帝都から連れてきた者達を除けばお世辞にも頼もしいとは言いがたい部下達ではあるが、その兵数を思うとなんとも誇らしい気分になった。
だが、人類の中でも人間は取り分け欲深く、足るということを知らない。フェル・シュインハルは手許に集結した戦力に快い軍人的昂りを覚えつつも、これによって外線作戦を企画できていたならば、と無念に感じてしまった。まったく別々の駐屯地から出撃した三部隊が同時に目的地に到着して包囲を完成させる様はきっと芸術的で、それが自らの指揮によって成されたとしたら筆舌に尽くしがたい感動を味わえたに違いなかった。
つくづく南部州軍が憎らしかった。これが近衛軍であったならば、せめて皇帝軍や北部州や東部州の戦い慣れした精鋭や南部州軍の緊張感に満ちた第一線部隊であれば、と嘆かずにいられなかった。そうであったならば、わざわざイルアニン市に全部隊を集結させる必要はなかった。フェル・シュインハル近衛大佐は南部州軍の二線部隊の力量をまるで信じておらず、高度な連携を求められる外線作戦を行なう能力が彼らにあると思っていなかった。だからこそ、全てを自分の直接指揮下で行なうべく、ボルクム市に駐屯するクランゼ・メルマンツィム伯爵大佐の南部第七十八連隊からすれば遠回りになることも厭わず、帝都―エートン間の経路上にあるイルアニンに一旦南部州軍を集結させることにしたのである。
彼は帝都を出発するまで、そしてイルアニンへの行軍の途中も、この方針が果たして正しいのか何度も悩んだ。自分は他者から笑い者にされるような拙劣極まる用兵をしているのではないか、と恐ろしく思いもした。多少は南部州軍部隊を信じてやってよいのではないか、と迷いもした。しかし、帝都からの早馬が届いた時、その思いは反転した。結果論的に言えば自分は大正解を選んだのだ、と考えるようになった。何しろ、頼みもしないのに新しい味方が出来てしまったのである。その味方は非常に強力ではあるが、揃いも揃って勝手な思惑を抱えていて、意思の統一など望むべくもなく、一時たりとも目を離すわけにいかなかった。しかしながら――その事実を認めるのは情けなさに拳が震える思いではあったが――フェル・シュインハルと一個戦隊だけで抑えきれる相手ではなかった。烏合の南部州部隊とはいえ、厄介な協力者達が変な気を起こすのを抑制するだけの戦力が一ヶ所に集中したことは僥倖と言えた。また、これも結果論ではあるが、すぐ近くの都市に予定通り移動する程度のこともできない部隊と分進合撃を行なう危険を冒さずに済んだことも幸いであった。
しかしながら、フェル・シュインハルは各勢力の代表が集められた軍議の席上で、自分の見通しが甘かったことを悟らされ、逆説的な形で己の正しさを再確認することとなった。クベイン司祭と共に軍議に出席したグルツ司教が別行動を提案したのである。聖堂騎士団が先行してエートン村を制圧し、現地の監視任務に就く、とグルツ司教は言った。
フェル・シュインハルにとってその提案は考慮に値するものであった。
と言っても、監視の強化それ自体に魅力はなかった。既に近衛魔法兵連隊の偵察兵が一個分隊先遣されているのだから、それ以上の増員に意味はない。フェル・シュインハルが注目したのは、監視の強化ではなく、森を監視する戦力の増強であった。演習名目とはいえこれだけの部隊がこのような辺境で動いているのだから、もしかすると森に潜む妖術師が何か感づき、行動を起こすかもしれない。その時、その場にいて食い止めてくれる誰かがいたならば非常に心強い。フェル・シュインハルの心は揺れ動いた。
しかし、提案者が聖堂騎士団であることを思うと、心の揺れもあっさりと鎮まった。フェル・シュインハルには、グルツ司教の提案が作戦をより堅実なものとしようと願うがゆえのものとは思えなかったのである。
確かに、重騎兵を主力として編成された聖堂騎士団ならば、敢えて兵種に当て嵌めれば徒歩兵が大部分となる他の集団とは比べ物にならない機動力を発揮して、瞬く間にエートンに到達するだろう。ひょっとすると、街道を辿らず道なき道を進み、まともな軍隊では考えられない速度でエートン進出を果たすかもしれない。より速度を上げるため、徒歩の従者や動きの遅い輜重を置いていくことも考えられる。非常識を以て大陸中に知られる聖堂騎士団ならば有り得ない話ではないし、現に彼らはそうして神の勝利を手にしてきた。熱狂的な信仰心と使命感に衝き動かされる彼らは、権威と実力を兼備した指揮官の下、不眠不休の行軍は勿論のこと、荒野や山岳を街道のように軽快に進むことさえ平然とこなす。信仰心に支えられて生きる彼らは、数週間程度であればパンも水も――睡眠すらも――必要としない。馬鎧を着せられた馬匹でさえも彼らの信仰心に中てられて飲まず食わずで生き続ける。そして神と指揮官を心の底から信頼し、苦痛を厭わず、疲労を忘れ、神の名の下に全ての障害を克服排除して遮二無二に前進してエートン進出を果たした彼らは、グルツ司教が神に請願する奇蹟によって妖術師の邪悪な探知能力からも巧みに身を隠し、気づかれることなく森を睨み続けるのだ。
だがフェル・シュインハルは、非の打ちどころのない表面上の事実に惑わされることなく、聖堂騎士団が根本的に抱える問題を的確に見抜いていた。教皇に直属する聖堂騎士団は教会に属する聖磔架騎士団と違ってあくまでも戦い方を知る聖職者の群れであって軍人――帝国軍人――の集まりではない。教皇の騎士であって皇帝の兵士ではないのである。彼らは天上の理屈で動くものであり、地上の理屈で動くものではない。フェル・シュインハルの目の届かない所に移動した途端、彼らは他部隊の到着を待たずに聖戦を敢行することであろう。彼らの聖典に軍事的合理性という言葉は記されておらず、神の法は人の法に優越する。神の下に人は平等であり、神が下した使命に邁進する彼らを制止する資格のある人はいない。事実、軍を始め、冒険者、魔術師、傭兵、各教団の戦士達といった戦う力を持つ者達を帝国中から結集して絶えず継続されている国境防衛戦には御子教会も軍勢を提供しているが、その大部分を構成する聖磔架騎士団とは違い、教皇が座す聖パテロス大聖堂を根拠地として侍祭級以上の奇蹟の願い手で編制された精鋭である聖堂騎士団は、呼吸するように軍の作戦を無視して戦果と被害を拡大している。今回が例外である保証などはどこにもなかった。おそらく、エートン村の住民は「無慈悲は慈悲、慈悲は無慈悲」を合言葉に虐殺の陣頭指揮を執ってきたグルツ司教の手で異端宣告を受けて少なからぬ者が火刑に処され、森は野蛮な火計と突撃によって目を覚まして抗戦か逃亡を開始する結果となるであろう。
とても野放しにできるものではないとフェル・シュインハルは考えたが、流石に聖堂騎士団の暴走を懼れているとの本音をそのまま口に出すわけにいかなかった。誰もがわかっていても誰もが口に出さない。口に出したら終わってしまう。それが政治というものであった。
そこで彼は、作戦総指揮官の地位と軍事専門家の権威を前面に押し出し、協調の重要性と主導権が帝国にあることをひたすら強調することで聖堂騎士団の意見を封殺し、戦力の集中と統制を守り通すことにした。事実上発言権のない二人の州軍大佐は蚊帳の外で、帝国寄りである生と死の女神教団と冒険者組合はフェル・シュインハルに与した。戦神教団は完全なる中立で、聖堂騎士団の抜け駆けを懼れる点ではフェル・シュインハルと変わらないミドルトン伯の懐刀クレイド・ボーゲン少佐も敢えて帝国と対立しようとはしなかった。
流石の異端審問官と聖堂騎士団も、それぞれの利害が妥協の余地なく真っ向から対立していた最初の会議の時とは違い、自分達以外の全員が団結して敵に回っている場で主張を通せると考えるほど傲慢でも無謀でもなく、教義上の特筆すべき矛盾のない問題に固執するほど我儘でもないようで、おとなしく引き下がった。しかし、機会と見れば、また抜け駆けを図ろうとすることは疑いなかった。油断はできない。その背中には常に切っ先を突きつけておく必要があった。
こうした背景の下決定された行軍隊形は、保守的で堅実な作戦を好むフェル・シュインハルにとって決して愉快なものではなかった。前衛を先発する南部州軍二部隊が務め、側衛と輜重隊の護衛にケンマーゼン戦団の兵を部署予定である点はよかった。至って正統派と言えた。
問題は本隊と後衛であった。冒険者隊と戦神の戦士団はよいとしても、聖堂騎士団と生と死の女神の戦士団の配置が悩ましかった。まず、両者を近づけるのは論外であった。対立は必至であるし、もし衝突が起こるようなことがあれば、フェル・シュインハルに責任が飛び火しかねなかった。
ミドルトン伯の意向で動くボーゲン隊の配置も問題と言えば問題であった。聖職者達ほど過激な連中ではないにしても、彼らは政治的意図に基づいて派遣されている。彼らの口から真相を秘匿されている下士官兵に情報が洩れる虞があるだけでなく、伯の南部での権勢を利用して二人の州軍大佐に何かおかしな働きかけをする危険もあった。
厳格な御子教徒達と奔放な生と死の女神教徒を紀律の乱れきった南部州軍に近づけるのも好ましくなかった。聖堂騎士団が堕落した兵隊を快く思うはずがないし、生と死の女神の戦士団には放埓な美女が少なくないから、不埒な真似をする兵士も出かねなかった。更に生と死の女神教徒達の場合は、近衛の若い将兵に風紀の紊乱をもたらす懼れもあった。皆が寝静まった真夜中、ひっそりと生と死の女神教団の尼僧達が彼らのテントに忍び込む。或いは兵達が三々五々テントを抜け出し、尼僧達に夜這いをかける。どちらにせよ、頭の痛くなる想像――そしてほぼ外れることのない予想――であった。また、粗暴なごろつき紛いの連中とはいえ仮にも高位聖職者であるグルツ司教とクベイン司祭の権威に、部隊に多数存在する御子教徒が取り込まれることも考えられた。いずれにせよ、聖職者達の軍隊は一の利と引き換えに百の害をもたらす悩ましい存在であった。
さりとて、聖堂騎士団を近衛戦隊の後ろにつけ、その後に冒険者隊を置き、最後に生と死の女神の戦士団を配置することで離隔するというのも難しかった。小隊規模の冒険者隊やボーゲン隊では仕切りとして存在しないも同然である。必然的に近衛戦隊が仕切りの役目を果たさざるを得ない。それに、火花を散らす集団を目の届きづらい背後に置くのも落ち着かない。どうしても、いずれか一方を近衛戦隊と南部州軍の間に置く必要があった。
こうした悩ましい状況の解決を図るべく、フェル・シュインハルは南部州軍の指揮官二人に諮った。ケンマーゼンとクランゼ・メルマンツィム両大佐は聖堂騎士団に背中を晒すことを嫌がり、背中につけるのであれば生と死の女神の戦士団がよく、もし聖堂騎士団を置くのであればせめて冒険者隊とボーゲン隊を間に置いてほしいと主張したが、フェル・シュインハルはどれも許さなかった。
本質的にろくでなしである冒険者や奔放な聖職者と不品行な兵隊を近づけておくとろくでもないことになりかねず、ミドルトン伯の側近であるボーゲン少佐率いる部隊は南部州軍におかしな働きかけをしかねない、またそもそもそれらの集団との接触を許すと今回の「演習」の真実が下士官兵に過早に発覚しかねない。それがフェル・シュインハルの指摘であった。州軍大佐達は反論できず、渋々といった態度で引き下がった。こうして結論が出て、聖堂騎士団を南部州軍とボーゲン隊の間に置き、その後に近衛戦隊と戦神の戦士団、次いで冒険者隊、最後尾に生と死の女神の戦士団を置くこととなった。生と死の女神教徒達の甘い誘惑を冒険者達がどれだけ堰き止めてくれるか不安ではあったが、別行動を除けばこれが最もましな選択のはずであった。
しかし州軍大佐達も黙って近衛大佐の要求に屈したわけではなかった。近衛戦隊がしっかりと聖堂騎士団の背中を見張るように要求することを彼らは忘れなかった。部隊統制上と人間関係上、双方の配慮もあり、フェル・シュインハルもその要求を無下にすることはなかった。聖堂騎士団とボーゲン隊の行軍序列を近衛戦隊寄りとし、また戦神戦士団と同じように彼らを近衛戦隊の野営地に囲い込むと提案することで応えた。
払暁には出発の準備が始められ、目覚めの鐘が鳴り響いて人々が起き出し、朝の軽食を摂って職場に出かける頃、エートンへの進軍が開始された。
行軍計画は、まず南部州軍部隊から順番に戦闘部隊が進発し、ある程度の距離が開いたところで輜重部隊も市を出て本隊に追及することと定められていた。
ケンマーゼン、クランゼ・メルマンツィム両大佐指揮下の各部隊が、市内に構えられた各駐屯地から縦隊を組んで市街に溢れ出した。窓から興味深そうに外を除く市民に見下ろされる中、職場に向かう人々を押しのけるようにして部隊は進み、川の流れが纏まるようにして大通りで合流し、南の大門を目指す。その間も州軍の伝令騎兵が、朝の静寂の中に馬蹄の音を響かせて街路を駆け回り、各部隊に行軍の進捗状況を知らせて回る。
州軍部隊最後尾が基準地点を通過した旨が知らされると、その後に続くべき聖堂騎士団が聖ガント大聖堂を出発し、行軍の列に就いた。青枠を血の色で満たした蒼紅聖磔架を背負った白い外衣の下から甲冑を朝陽に輝かせ、人馬が堂々たる足取りで街路を前進する。聖堂騎士達が姿を現すと、南部州軍の行進を眺めていた物見高い市民達もそそくさと建物や路地裏に引っ込み、街路は街全体が眠りに就いたかのように静まり返った。
恐怖に満ちた都市の沈黙を意に介する風もなく、聖堂騎士団は南部州軍の最後尾に貼りつくようにして進み、やがて所定の地点を通過した。近衛の伝令騎兵が走り、近衛戦隊や輜重隊と共に駐屯地に留まっていた作戦演習兵団司令部にその旨を報告した。これを受けて兵団司令部も近衛戦隊を従えて行動を開始し、聖堂騎士団の後を追うように市街地を行進した。
フェル・シュインハルは、腰に業物の長剣を佩き、金属で補強した革鎧を着込み、更に将校用の房飾り付き兜や胸甲、肩鎧や腰鎧、肘当てや脛当て、籠手などで要所を守り、皇帝の家紋である大鷲を意匠化した紋章の入ったマントを羽織った歩兵将校姿で馬に跨り、イルアニンの南門近くの広場でしかつめらしい表情を保って待機していた。先発した部隊との間に十分な間隔が開くのを待っているのである。市街地での活動はなるべく速やかに済ませてほしいとの市長の要望もあって市内では各部隊の間隔を詰めて動いたが、本来、そうした措置は純粋に民生上の都合に基づくものであり、兵力展開や管理の都合に反するものである。市外に出た後も続けるわけにはいかなかった。
傍らには副兵団長に任じられたデルズ近衛歩兵少佐や作戦、兵站等の幕僚達、連隊本部から連れてきて兵団先任下士官に任じたホープフ近衛歩兵曹長、「ジェス・ティグバルト近衛戦隊」と呼称されることとなった近衛増強歩兵中隊の指揮官ジェス・ティグバルト無爵近衛大尉、兵団副官ケイナル・ツェルヴァイス無爵近衛大尉、魔法通信将校ダーリアン学士近衛大尉、司令部護衛小隊長ホルム近衛歩兵中尉ら主要将校と魔法通信隊、司令部護衛小隊、技倆抜群の軽騎兵から選抜された伝令騎兵達などがおり、背後には精強な近衛兵達が行軍開始を待って粛々と整列していた。非人間的なまでに心身を鍛え抜いた大陸最高の兵士達は、軽装の猟兵はもとより歩兵でさえも、ただの一人の例外もなく酷暑もものかわ完全武装の制式軍装を取っていた。重量軽減のため各人の判断で減らすことが許されている携行品も、一人の例外もなく標準の量を身につけている。
フェル・シュインハル達の前では整然と並んだ聖堂騎士団とボーゲン隊が同じく出発の時を待って停止しており、彼らの前方ではクランゼ・メルマンツィムとケンマーゼンの部隊が街道上に縦隊を伸ばしている。
フェル・シュインハル近衛大佐は、大門から真っ直ぐ伸びる街道を進む軍勢を険しい目で眺めていた。南部州軍の歩みは極めて遅い。一時間行程を正確に一時間で歩ききるよう訓練する近衛軍と比べるまでもない。軍の標準速度よりも遅い。
しかし、指揮者たる近衛大佐の視線を厳しいものとしているのは、その遅さではない。これは彼が命じたものだ。帝国式行軍に習熟しているとは言いがたい冒険者や聖職者達、更にはドワーフやミゼットのように人間と歩幅が大きく異なる異種族に配慮して、意図的に全体の行軍速度を落とすことにしたのである。
フェル・シュインハルを苛立たせるのは、南部州兵が見せる行軍そのものだった。前衛二部隊はそれぞれ二列縦隊を作って街道上を並行し、軽騎兵を尖兵として放って街道の安全と交通路を確保しつつ、だらしのない歩き方で前進している。だらだらと歩き、私語をする者も見られ、神聖な連隊旗などは頼りなく右に左に揺れている。金属鎧を外した夏季軍装はいかにも軟弱で、歩兵部隊に随行する猟兵と見紛うばかりだ。猟兵達が長銃を担いでいなければ遠目に区別できないだろう。行軍と行進と服装を見れば軍隊の練度が概ねわかるとはよく言われることだ。その観点からフェル・シュインハルは、南部州軍二部隊は野盗一歩手前であると辛辣な評価を下した。彼らは古参兵が上官の目こぼしを受けてさりげなく行なう「効率的な歩き方」をしているわけではないのだ。
州軍部隊が十分に進んだと判断したらしく、陽射しを受けて燦然と輝く金属を纏った聖堂騎士の一人が片手を上げるが見えた。聖堂騎士隊長クベイン司祭だろう。クベインが手を振り下ろすと、一糸乱れぬ動きで人馬が整然と進み出す。少し遅れて、各端を燃え上がらせた黒い聖磔架の標章を掲げた異端審問官用の漆黒の馬車も、聖堂騎士達に取り巻かれたまま動き出した。
前衛部隊とは比べ物にならないほど統制されたその動作には、さしものフェル・シュインハルも唸らずにいられなかった。或いは彼が率いる近衛歩兵第二連隊以上に紀律正しい部隊かもしれなかった。風を受けて雄々しくはためきつつも練達の旗手の技倆で小揺るぎもせず掲げられる、蒼紅聖磔架を中央に戴いた団旗を近衛大佐は羨望混じりに眺めた。
その後に続く歩兵で編成されたボーゲン隊も見事だった。フェル・シュインハルは元々ミドルトン軍をどうにか治安維持をこなせる程度のお飾り部隊と見做していたが、こちらに来てからその認識は日に日に覆された。少なくとも彼が目にしたミドルトン兵は――単に精鋭を抽出しただけかもしれないが――決して軟弱ではなさそうだった。ミドルトン伯は申告によれば現役十万人、予備役三万人の兵力――知られざる兵力が更に一万人程度隠匿されているかもしれない――を有している。もし伯が帝国に叛旗を翻したとしたら、南部州軍だけでは容易に鎮圧できないだろう。州軍は総動員すれば二百万に迫る大兵力を有すると言っても、戦略上の問題に留まらず民生上の問題もあり、その全てを任意に部署することはとてもではないが不可能だ。もし他の諸侯が――最悪を想定すれば更に王国や共和国、イスパン公国、暗黒大陸諸国、北や南の蛮人諸部族に亜人諸族などが――呼応することでもあれば、帝国は全周包囲された前代未聞の多正面戦争を強いられることにもなりかねない。無論、帝国はその全てを敵に回しても勝利し得る。しかし、無傷で切り抜けられるほど強くはない。皇帝が南部総督やミドルトン伯の「不手際」に過剰なまでの反応を示した理由の一端が、ここに至ってようやく実感を伴って理解できたようにフェル・シュインハルは思った。そうであるからこそ、厳しく統制し、主従関係を明確化しておく必要があるのだ。ミドルトン伯の妙に強気な態度と、彼が示したそれとは裏腹な譲歩もまた、これで納得がいった。伯は帝国と自身の力関係をよく洞察し、実に厭らしい手を打ってきている。
聖堂騎士団の最後尾との間に十分な距離が開いたのを見て、フェル・シュインハルは前進開始の頃合と捉え、片手を上げた。森林戦であることを考慮して斧槍のような長物の数を抑え、小剣や戦斧を中心に武装した歩兵達と、革鎧を着て長銃を担ぐ猟兵達、小剣で武装して革鎧を着用した数十名の魔法兵達、騎兵銃と騎兵刀を装備して馬に跨った軽騎兵達などが背中に寄せる注目が強まったのが、振り返るまでもなくわかった。精強な兵士達の視線には力があるのだ。
手を振り下ろし、直属する部下達に鋭く命じる。
「兵団司令部、前進!」
フェル・シュインハル兵団長は愛馬を促し、静かに前へと進み出した。副官や幕僚、伝令騎兵隊、護衛の歩兵小隊を始めとする司令部要員が後続する。
少しの間を置き、背後でジェス・ティグバルト近衛大尉の太い声が響く。
「近衛戦隊、前進だ!」
近衛戦隊がジェス・ティグバルト戦隊長の命令を受けて動き出す。各級指揮官が指揮官の命令を部下達に向けて繰り返す声が聞こえたすぐ後、多くの足が一斉に地面を叩く音が響き始めた。整然と揃って後続する足音は、聖堂騎士団の整然たる統率に劣等感を抱かされたフェル・シュインハルの心を大いに慰めた。
作戦演習兵団は左右に広々とした農耕地と若草の原を望む街道を進み、まずミドルトン領に向かった。車上の者は不快な揺れに耐え、馬上の者は馬の制御に気を配り、徒歩の者は石畳を無心に踏み締め、先へ先へと進んでいく。
街道を往来するのは彼らだけではない。向かいからも後ろからも人馬や車がやってくる。街道脇には近隣の開拓地や都市から人や週刊新聞の記者が集まり、大部隊の行軍を物珍しげに眺めている。
向かいからくる馬車や歩行者は先行する軽騎兵達によって部隊の行軍を知らされると面倒臭そうに端に寄って進路を譲り、後ろからくる者達は、ある者は目をつけられては敵わないとばかりに大きく距離を取り、ある者は何かあれば軍が助けてくれると決めてかかったように隊列の近辺に位置を占めようとする。見物人達は街道筋に並んであれこれと勝手な論評をし合う。軽騎兵は騎兵刀を振り回しながら蜜蜂のように忙しく隊列の周りを動き回り、近づきすぎた者に駆け寄っては追い払う。大規模行軍に付き物の日常風景であった。
やがて空の明るさが仄かに翳りを見せ、体から水気を奪う熱を和らげ始めた。
街道上に伸びる冒険者達の乱雑な縦隊の先頭近くを仲間達と共に往くスナー・リッヒディートは、長年の相棒である長杖を引きずるようにして一歩一歩を踏み締めていた。行軍に参加するのはこれが初めてではなく、また最後でもないのだろうが、旅の荷物を背負ったまま何時間も歩き続けるのはやはりつらかった。行軍に慣れていない冒険者や脚の短いドワーフやミゼットに配慮して、兵団長のフェル・シュインハル近衛大佐が速度を落とすように命じてくれていたことがとてもありがたかった。もし軍標準速度や一時間行程を正確に一時間で歩ききる近衛の標準速度で歩かされていたら、もう少しきついことになっていただろう。それは彼のような知識人に求めてよい範疇をいささか逸脱している。
スナーは前後を歩く仲間達を見た。彼らが平然として見えるのが信じられなかった。やはりスナーと彼らは体の造りからして違うようだった。
一行は二列縦隊の左列に就き、フィオナ、スナー、アルンヘイル、ラシュタル、ドルグフの並びで行軍していた。体力のないスナーと歩幅の問題から速足にならざるを得ないドルグフ以外は、至って涼しげな顔で歩いている。
ふと視線を感じてスナーが振り返ると、歴戦の兵士でもあるアルンヘイルが新兵の疲れ具合を探る古参兵のような一瞥をよこした。スナーは病人のような顔で小さく首を振ってみせた。まだ大丈夫と言いたいのか、もう駄目だと言いたいのか。それは本人にもわからなかった。アルンヘイルは前者と取ったようで、力づけるように頷き返した。
スナーは不機嫌に唸って前を向いた。杖の標章が掲げられた魔術師用の馬車列の背が見えた。帝国軍は従軍する魔術師や記者のために馬車を用意する。どれほど取るに足らない、それこそ学位取得基準が甘くなった今の学院でようやく学士になれた程度の者や大衆を煽動するしか能のない三流新聞の記者であっても、正式な従軍魔術師や従軍記者乃至それに準ずる者として軍の承認を受けていればあれに乗ることができるのだ。弟弟子と女修士があの中のどれかでくつろいでいるだろうことを想像し、狭量な魔術博士は羨ましさのあまり歯軋りした。
黙々と進んでいくと、時折、街道脇に落伍兵がへたり込んでいるのを目にした。小走りで原隊を追及する兵士の姿も見える。急病や疲労で動けなくなった者や急な便意に襲われてそのまま垂れ流すのではなく草陰で楽になることを選んだ者のその後の姿だ。動ける者は原隊復帰後に怖い下士官に叱りつけられ、動けない者は症状の程度に応じて、本隊に追及する輜重に回収されて大休止や野営の際に原隊に送り届けられるか、街道沿いの宿場に放り込まれるか、イルアニン市まで後送されるかする。彼らを目にするたび、スナーは落伍の誘惑に駆られ、未来からの借金によってとはいえ楽になったのであろう者達に、微かな嫉妬と羨望を覚えた。
足首が痛み、喉が渇き、体が火照り、汗が流れ出す。冷却の魔術をかけてあるはずの衣服の下は蒸し風呂のようになっている。酷暑の中、もうかなりの距離を歩いていた。既にイルアニンは地平線の遥か彼方に置き去りとなっている。この辺りにはまだ本格的な入植計画が持ち上がっていないのか、丈の低い草の密生地を切り拓いて伸びる街道沿いには、さきほど宿場町を通り過ぎてからというもの、人里と言えるほどの集落は見当たらない。経験上、そろそろ野営の準備に入る頃だとわかっていたので、それを励みにして足を前に出し続ける。これだけ歩いてもまだ全行程の一割も踏破していないことは考えないよう努めた。
空の暗さが幾分か深まった頃、行軍停止のラッパが吹き鳴らされるのが遠くに聞こえ、間もなく近衛の伝令騎兵が停止と野営開始の命令を縦隊に伝えて回った。騎兵達の怒鳴り声を受けて順次隊列が停止する。
行軍停止に気づいた途端、スナーは安堵の吐息を漏らした。本当に長い行軍だった。兵隊が夏の行軍を嫌うのも無理はない、と彼はしみじみ思った。夏は苛酷な環境下で体力を消耗する上、日が長い分、行軍時間もそれだけ伸びる。どうしても行軍しなければならないのなら、秋か春に限るというものだ。
縦隊が停止したので、スナーはこれ幸いと地面に座り込み、腰の水筒から水を口に含んだ。口を潤す液体は天上の露の味がした。野営が始まれば水の配給も行なわれる。神経質に残りを気にする必要はない。二口、三口とのどを鳴らす。
草のざわめきが遠くに聞こえたかと思うと、波打つ緑の海を越えて風が縦隊の中を通り過ぎ、纏わりつく汗の熱を心地良く冷ましてくれた。日蔭色のコートが土に触れて汚れているが、そのようなことは気にならなかった。長い苦痛から解き放たれたことを思えば些事でしかなかった。
少し離れた前方では、近衛兵が街道脇に散らばり、早速野営の準備を始めているのが見えた。冒険者達も各集団ごとに固まって荷物を地面に放り出し、休息を取り始めた。早速野営地設営準備のために動き出す者もいた。フィオナやアルンヘイルもそうした勤勉で奉仕精神に富んだ者の仲間だった。
頭脳労働者であるスナーが鍔広帽子を団扇代わりに首元を扇ぎながら他人事のようにそれを眺めていると、すぐ隣に佇むドルグフが蒸気のような息を鼻から勢い良く噴き出した。顔以外の全身を真鉄鋼の甲冑で隈なく覆うその姿は、夏の陽射しに温められた甲冑から仄かな熱が放射されていることも相俟って、昔グロームヴァルの工房で目にした大型の蒸気機械をスナーに思い出させた。
酒樽めいた体に沢山の脂肪と筋肉を詰め込んだ屈強な小男は、大きな荷物を背負った上、肩に戦斧を担ぎ、頭から足先までを甲冑と鎖帷子、更には真鉄鋼で補強済みの分厚い革鎧で守った重装備だ。兜の正面から覗く顔以外、生身が露出している部分がない。さながら真鉄鋼の歩く塊だ。その装甲度は完全武装の帝国歩兵を遥かにしのぎ、王国が誇る重装歩兵にも匹敵する。これだけしっかりと守りを固めた者はこの行軍隊形のどこを探しても他に見つからない。装備の管理や運搬に然程気を遣う必要のない聖堂騎士でさえ、甲冑の軽量化のために防護力を犠牲にしている。体力が有り余っているフィオナにしても、普段から装備する防具は真銀鋼の鎖帷子くらいのものであり、自慢の真銀鋼の軽装鎧一式は戦う直前まで身につけない。基本的に金属鎧などは戦闘に臨む軍隊の装備であって旅人や冒険者が日頃から身につけるべき装備ではないのである。それを普通の旅装としているのだから、ドワーフという種族の体力は本当に非常識極まるものであると言えた。売れば一生を遊んで過ごしてなお余りあるだけの価値を持つ貴金属を隠そうともせず堂々と身につけるその豪胆さと無謀さも――もっともドワーフから貴金属を奪おうとする者はそれ以上に豪胆で無謀だが――人間の理解の範疇を超えている。
「何を見ておる」
ドルグフは顰め面でスナーを見た。人間の感覚からするとかなり大きなその声は、日が落ちつつある平原の薄闇に広く響き渡った。周囲の冒険者が注意を向けるが、声の主を見ると納得の表情になって視線を外す。
「流石の君も疲れたのかと思ってね」
誇り高いドワーフ戦士は魔術師の言葉に気分を害したようだった。鼻を鳴らし、髭を震わす。
「馬鹿を言え。小腹が空いただけよ。お主と一緒にするな」
「これは失礼した」
ドルグフは前に身を乗り出すようにして後方を眺めた。彼らが辿ってきた道筋では、成熟した美しさを振り撒くリライア尼僧正に率いられた生と死の女神の戦士団が休憩を始めていた。その遥か彼方には、戦闘部隊に追及してくる南部州軍と近衛兵の輜重隊の姿が、豆粒のように小さく見える。
「携行食は節約せねばならんし……ええい、早く荷車が来ないものか。まったく、お主らの車ときたら遅くていかん」
「輜重とはそういうものだから仕方がないだろう。そうだな、あと一時間程度は見た方がいい」
「俺達の六脚蜥蜴ならばその半分もかからんというのに」
ドルグフが苛立った様子で鼻を鳴らした。決して誇張した表現ではない。六脚蜥蜴は非常に優秀な家畜だ。牛馬にできる作業はその何倍も優秀にこなすし、牛馬にできない作業も沢山こなせる。惜しむらくは、本質的に人間に馴れず、人間を外敵か食餌としか認識しない点だ。
スナーは笑った。
「自動車なら、その更に四半よりも短くて済む。俺が学院にいた頃でも、無理をすれば一時間に八時間行程は進めたからな」
「八時間行程……お主らの基準のそれは……」ぶつぶつと呟いてから、ドルグフが目を剥いた。「三十六マイルもか!」
「計算が――」
おかしい、と訂正しようとしてスナーはやめた。ドルグフの口から出た単位が、マイルはマイルでも、帝国キロメートルより百メートルばかり長いだけの、即ちおよそ十五分の十一王国マイルに相当するドワーフ・マイルであることに気づいたのである。
「驚いたぞ。お主らは蒸気自動車の開発をそこまで進めておったのか。俺達でさえ、まだ時速十八マイル程度がやっとだというのに。お主らもなかなかどうして馬鹿にできんものよ」
ドルグフの顔には自分を打ち破った好敵手を見るような笑顔があった。
「蒸気の力じゃない。魔法の力だ」
「驚いて損をしたわ!」スナーの短い答えを聞いた途端、ドワーフの笑顔が消え、その目つきは白けたように冷ややかなものとなった。「それにしても、お主らも無意味なことをするものよ。魔法で動く車になど、お主ら以外の誰が乗りたがる」
「……そう、問題はそこだ」スナーは不満に満ちた口ぶりでぼやいた。「もう発注があれば量産できるところまで開発が進んでいたんだが、肝心の発注がまるで来なかった。きっと今も来ていないだろう。まったく、どいつもこいつも迷信深くて困ったものだ。魔法が附与された道具や薬は珍重するくせに、自動車だの飛空船だのは魔王の乗り物だと言って毛嫌いするんだからな」
「飛空船? なんだそれは」
「知らないのか。空を飛ぶ船だ。円盤状の大きな箱にいくつかの魔術を附与して、空を自在に動き回れるようにするんだ」
「なんとおぞましい話だ!」ドルグフは悪夢に怯えるように小さく首を振った。神妙な面持ちで、向こう見ずな子供を諭すように言う。「いいか、魔法使い、よく憶えておけ。車は原動機か人畜の力で動くもので、船は空ではなく水の上を走るものだ。そうでないものは全部悪魔の乗り物だ。神罰が恐ろしくないのか」
スナーは気の利いた冗談を聞いたように忍び笑いを漏らした。胸元に下がった徽章の鎖をつまみ、見せつけるように揺らす。
「こいつがその質問の答えだ」
「罰当たりめ。いつか痛い目を見るぞ!」
腹立たしげに吐き捨て、ドルグフは背中の荷を下ろし、勢い良く地面に尻を置いた。重たい真鉄鋼の塊のような矮躯が地面に着いた瞬間、スナーは微かな地響きを感じたような気がした。重たい尻が大地にめり込み、土を軟泥か何かのように押しのけていた。
ドルグフは腰のポーチから金属瓶を取り出した。鈍い銀色に輝く表面にドルグフの名が刻まれた以外に装飾らしい装飾のない質素なものだ。蓋も金属製で、内側にドワーフの精巧な技術で螺旋溝が刻まれている。中身は酒に違いない。ドワーフにとって酒は水のようなものだ。
籠手をつけたまま器用に親指でネジ式の蓋を回そうとしたドルグフは、ふと手を止めてスナーを見た。今度はスナーが視線の意味を訊ねる番だった。
「何だ」
「お主達の魔法にも水を酒に変えるものがあるそうだな。お主は使えるのか」
「水を毒薬に変える方が得意だがな」
「持って回った言い方をしおって! できるならば素直にそうと言わんか」
「善処はしよう。それで、できるとしたらどうだと言うんだ」
「少し興味があっただけだ」
「酒を作れと言われるのかと思ったよ」
「何を言うかと思えば」とドルグフは馬鹿馬鹿しそうに笑い声を立てた。「神々と精霊の御業以外に頼ろうとは思わん。それ以外の魔法は破滅に至る道だ。お主も、死よりも苛酷な運命に見舞われたくなければ、ほどほどにしておくがいいぞ」
「魔術博士に魔法の講釈か」気の利いた冗談を耳にしたかのようにスナーは笑った。「ところで、ドワーフにも素人魔法の使い手はいるようだが」
「修行せずとも突然魔法に目覚めてしまう者はおる。だが、そういう者はすぐに神殿に招かれて修行を積む。招かれずとも自ら進んで神殿の門を開く。なぜならば、魔法とは神々からの賜り物だからだ。神々の意に適うように使わねばならん」
魔法は神から与えられたもの。実利的な面から魔法を肯定せざるを得ない宗教家達は、散々頭を捻った挙句、こうした珍妙な理屈をでっち上げた。大昔の祭司達が苦し紛れに捻り出した言葉を神託か何かのように有り難がるドルグフの態度に、スナーはくすくすと失笑した。
「その割には素人魔法を使うドワーフを沢山見かける。それも神々の意思かね」
ドルグフは不愉快そうに眉を寄せた。
「中にはそういう変わり者もおる。お主らの中に変わり者がおるようにな。そしてそういう連中は最後に破滅するのだ。神々からの賜り物を私欲の赴くままに用いた報いを受けてな」
「しかし、それほど魔術が怖いなら、なんでまたあんなことを訊いたんだ」
「少し興味が湧いただけだ。深い意味はない。そう言っとるだろう。それよりも、お主はどうやって水を酒に変えるのだ」
「水を酒に変える方法はいくつかある。錬金魔術で水の成分を酒に変換するもの、幻影魔術で水を酒のように感じさせるもの、精神魔術で水を酒だと思い込ませるもの、附与魔術で星幽的な酩酊作用を持たせるもの、といった具合だな。勿論、真正魔術の技法でこれらを併用してもいい」
ドルグフは苛立たしげに唸った。
「一遍に言われてもわからん。要するにどれがいいのだ。優劣はあるのだろう」
「お薦めは精神魔術を主軸にする方法だ。勝手に飲む者が美味いと思う味になる。何しろ、水を美酒と思い込んで飲むんだから」
「偽の酒ではないか」
「酔えれば酒だ。少なくとも、当人にとっては。それにこの方法が一番手っ取り早い。他のやり方は味や香りに始まって色や強さに至るまでの全てを術者が調整しなくてはならないから面倒だ。飲んで美味いと思える酒を作り出すのも難しい。錬金魔術の手法で既存の酒を再現しようとすれば多少ましになるが、良い酒を作るなら水だけじゃ厳しい。相応の素材や触媒を用意すべきだ。錬金魔術は世人が思うような万能性とは程遠い」
「水が美酒に変わるなどという美味い話はそうそうないということか」
「所詮は個人のちっぽけな力だ。限界がある。君が比較対象にしているのであろう酒神のようにはいかない。実際、以前グロームヴァルでご馳走になった『酒神の血』は大変美味かった。俺には少し強すぎたがね。実に優れた――奇蹟だ」
優れた魔法だ、と何気なく称讃の言葉を口にしかけたものの、スナーは咄嗟に言葉を呑み込むことに成功した。彼は神々を敬う心を持たないが、神々を敬う人々を敬うよう心掛けている。
「見え透いたおべっかを使いおって」
不愉快そうな顔をしたものの、ドルグフはそれ以上魔術師を非難しようとはしなかった。世人が思っているほど、ドワーフは人の感情の機微に疎いわけではない。
戦いの中で血と泥にまみれるために造られたとは思えぬ精巧な細工の籠手に包まれた手でドルグフが瓶の蓋を開けた。嗅いだだけで酔ってしまいそうな濃厚かつ芳醇な香りが風に乗ってスナーの鼻をくすぐった。「酒神の血」の奇蹟で生み出された酒に違いなかった。
酒好きのドワーフは酒神に感謝の祈りを小声で唱えると、相好を崩して芳醇な香りを嗅ぎ、すぐに蓋を閉めた。
「飲まないのか」
「飲んだら減ってしまうだろう」子供の無知をたしなめるような口ぶりでドルグフが言った。「これは故郷と酒神を想って香りを楽しむものだ」
「大した自制心だな」
酒好きのドワーフが香りを嗅ぐだけで満足するなど大事件だった。酒を見れば匂いを嗅ぎたくなり、匂いを嗅げば飲みたくなり、飲めばもっと飲みたくなる。ドワーフとはそういう生き物だ。
「グロームヴァルに戻って飲み干す日のことを思えばなんと言うこともない」ドルグフは自信に満ちた微笑みを浮かべた。その後、急に疑問を思い出したように首を傾げた。「時に魔法使いよ、訊ねたいことがある」
スナーは視線で先を促した。
「お主は錬金魔術と言ったが、錬金術とは違うのか」
向学心旺盛なドワーフに、スナーは魔術史の講義をする博士のような態度で答えた。
「錬金術は錬金魔術の源流だ。錬金術は古代から中世にかけて栄え、やがて物質科学と錬金魔術に分化した。平たく言えば、物質科学はその名の通り物質に注目し、錬金魔術は星幽光に注目する」
「小難しい話は好かん」
「では、それぞれが金を見た場合の話をしよう。物質科学は――化学でいいな――化学的に金を見れば、並大抵の酸じゃ侵すことのできない安定性を持つ半面、硬度において他の金属に大きく劣る。また、合金を作りやすい、熱や電気をよく伝える、という性質もある。一方、錬金魔術的に見れば、金は極めて精妙で独特な性質を持つ星幽光が凝固したものだ。何物も取って代わることができず、何物にも身をやつすことができない。星幽光をよく伝導するが、それ自体への干渉は拒絶する」魔術師としての矜持から付け足す。「つまるところ、化学者はこの世に現れた星幽光を観察し、魔術師はより根源的な星幽光を探究するんだ」
人類種族の中では最も信心深い傾向にあるドワーフは、面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「神々の領域を泥靴で踏み荒らす輩が何を偉そうに。人は人の領域で慎ましく生きればよい。分というものをわきまえろ」
「人が辿り着ける場所は全て人の領域だ。そんな領域を神の名前で囲うなど、それこそ神に対する冒涜というものじゃないかね。いやしくも神の領域と名付けるのであれば、それは人が決して手を伸ばし得ない高みであるべきだ」
「減らず口を叩きおって……もうよい、どうせ俺はお主に口では勝てん、詭弁家め」不機嫌に唸って話を打ち切った。「しかしだ、金など作れるものなのか。金とは大地から掘り出すものだ。違うか」
スナーは難しい顔で頭を振った。
「無論、理論上の見込みがあるからここまで長続きした面はある。だが、今のところ、確かな成功例が確認されていないことも事実だ。ひょっとすると、隠されているだけかもしれないが。錬金術……錬金魔術が金の変成や生成を達成したと言える事例は、精々が古代の大魔術師ゼノー・オルギアスが作製に成功したとされる哲人の石だけで、これは勿論発見されていない。つまりは伝説の域を出ない。そしてこれが実在したところで、鉛を金に変える夢みたいな力は持たない。金を増やせるだけだ。錬金魔術の主要目標である星幽光の精妙化にも物質の変成にも程遠い。様々な意味で、不完全な代物だ」
「それ、それよ。名前ばかりをよく聞くが、その哲人の石とはつまるところ何なのだ、魔法使い。なんでも、貴金属を増やすとかいう話ではないか」
鉱物の取り扱いに取り分け長けた種族らしく、ドルグフは魔術嫌いにも関わらず、哲人の石に甚く興味をそそられた様子だった。
「間違ってはいない。だが正しくもない。金属に限らないのさ。あれは要するに液体を増やすものだ。液中に放り込むと、星幽的に変質してその液体と瞬く間に同化し、体積を増す。熔けた金に放り込めばその分金が増え、水に放り込めばその分水が増える。そういう物質だ」
「それはまた都合の良い代物だな」
「もっとも、現物が確認されていないから、本当にあらゆる物質に――つまり金や真銀にも――通じるかはわからない。所詮、伝説だ。現実的には、たとえば最近の例では俺の師匠だったサルバトン、サルバトンの師匠のベルトン・アベリボイエン師、サルバトンの弟弟子だったウェルグナー、それに俺の弟弟子だったバーガルミルの奴が作ったような、銀までの金属にようやく通用する紛い物の石が公式に確認された最大の成果だ。こちらも流通はしていないがな。要するに俺達はまだ金に辿り着いてすらいないんだ」
ドルグフがしかつめらしい顔で頷く。
「金は無理とはいえ、流通すればとんでもないことになるだろうな。俺達からすれば嬉しい限りだが、お主達はさぞ困るだろう」
「その点はわからない。現在確立されている手法を採るなら、採算が取れるのは金やその先に控える白金や真銀を増やす場合だけだ。なぜなら、哲人の石の材料の半分近くは金だ。しかも金以外の材料も、白金だの月光花だの、価格と稀少性が金に劣らず高い。常温で固体の物質の場合は固まらないように反応が終わるまで熱し続ける必要もある。つまり、手間がかかるくせに、体積の合計分より多くはならないんだ。初めに金を作るための金を用意せよ、とはよく言ったものだよ。その上、石の作製作業は――銀までの石でしかなくとも――博士級以上の錬金魔術師が何十日もつきっきりでやる必要がある。銀の変成じゃ費用の数割も回収できれば儲けものだ。作製期間を別の作業に割り振った方が余程利益が上がる。金にしたところで利益は数割程度だし、大っぴらにやればすぐに相場が下がって儲けにならなくなるから、細々と隠れてやるしかない。そしてそれにしたところで長続きはしないだろう。金以外の材料がすぐに底を突いて、手に入らなくなるか、金以上の価格にまで高騰するからだ。こんな効率の悪い商売があるものか。要するに、結果だけを見れば、掘れば掘るほど赤字になる鉱脈を掘るのと変わらない。国家規模の資金を投じて採算度外視で金属相場の混乱を起こそうという始末の悪い連中やその作業のためだけに何百年もかける狂人が出て来ない限り、破滅的相場変動は起こるまい」
「だがお主らは、一人一人はそう愚かではないのに、群れを成すと冗談のように愚かになる。紛い物とはいえ石が出来たと広まれば、銀の価値が石ころ同然になるのではないか。誰も彼もがお主ほど石のことをよく知っておるわけでもあるまいし」
スナーは首を振った。
「魔術師協会か宮廷の許可なく石を作るのはご法度だ。最低でも斬首刑だし、協会に捕まればもっと恐ろしい末路が待っている。協会があらゆる魔法使いと全ての魔法犯罪に対する裁判権を持っているのは知っているか。協会の裁判――裁判じゃなくて査問会と呼ぶんだが――は恐ろしいぞ」純真な子供を脅かすように無意味な身ぶり手ぶりを交える。「逮捕の根拠法は帝国法だが、査問の根拠法は会則だ。要するに、神殿裁判や軍法会議と同じで、普通の裁判の常識が通じない。手続も判決もな。犯罪魔法使いや魔法犯罪者の中には、自ら警察隊に出頭して、どうか帝国法で裁いてくれと懇願する奴もいる、と言えば実情が想像できるかな。まあ、大抵は協会に引き渡されるんだが。だから、俺は作ったぞと吹聴するような馬鹿はあまりいなかったし、その一握りもすぐに捕縛されて詐欺師か妖術師として裁かれ、すぐに忘れられた。今後もきっとそうだ。だが、絶対じゃない。もし協会や帝国を出し抜いて上手く情報操作をやってのける奴が出たなら、一時は君の言うようにもなるだろう。異端者狩りや亜人狩りの前科があるから予想はつく。どちらも流言と無知のせいで無駄に火勢が強まった。エスカトルの『妖術師の正体』を読んだことは? あれによれば、村に妖術師がいると噂が流れてすぐ、恋焦がれる相手を物陰から盗み見ていただけの少女が、魅了の呪いを行なったとされて私刑に遭ったそうだ。邪視について聞き齧った田舎者でもいたんだろう。無知蒙昧な村人達は、泣いて無実を訴える少女を押さえつけ、まず『邪悪な妖術』を封じるために両眼を――」
ドルグフが片手を上げて口上を遮る。
「胸糞の悪い話は好かん」
「おっと、これはすまない。どうにも俺は趣味が俗っぽくてね」
「お主らはどうしてそうも野蛮なのか。同胞同士で殺し合い、疑い合うなどと……」
ドルグフは嘆かわしげに天を仰いだ。顔を覆う豊かな黒髭の下からは憐れみと戸惑いが覗いていた。
「人間だからさ」スナーは冷笑的な態度を見せた。「しかし、仮に流言飛語に踊らされて銀相場が暴落したとしても、全体の破滅には至らない。それに、長続きもしない。流言飛語が起こす混乱など所詮は一過性のものだ。事実、嵐が過ぎれば生活は元通りになるし、嵐の間も生活は続く」
ドルグフは疑わしげな目つきをした。
「未だかつて起こってもいないことをさも見てきたかのように語りおって、ペテン師め。知っておるか、嵐で人が死ぬのは風が暴れるその間だ。風が止んでからではないぞ。その僅かの間でさえ、強欲なお主らは平静でいられまい。銀が石ころになればみっともなく泣き叫ぶだろう。なんと言ってもお主らは、銀が美しいから愛するのではなく、高く売れるから愛するのだろうからな」
「銀という資源をやりとりして食っている連中やそいつらと取引のある連中の中には、生きるの死ぬのと大騒ぎする奴もいるかもしれない。だが、そいつらがどうにかなっても全体は死なない。単に銀貨を貯め込んでいるだけの大多数は、直接大きな被害を受けることもないだろうさ。まあ、王国だけは経済的に破綻しかねないがね。何しろ王国は、前近代的体制の下、時代遅れな金貨本位制を未だに続けているからな」スナーは小馬鹿にするように笑った。「然るに、共和国は兌換紙幣を用いた地金本位制で、帝国も金貨本位制と兌換紙幣による地金本位制の中間にある」
「よくわからんぞ。おかしな学者言葉を使うな」
豪放磊落なドワーフ戦士らしく小難しい話を嫌うドルグフは、殊更に学術用語を使った語り口に素直な反発を示した。
「わかったわかった。説明してやる」スナーはなだめるように手を振って続ける。「どれもこれも経済学の用語で、金本位制を前提としているんだが、まあ、順番にいこう。経済学の初歩を教えてやる」
ドルグフは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「どうした、お勉強はお嫌いかね」
「小難しい理屈を聞かされて煙に巻かれるのは沢山だ」
鼻を鳴らしたドワーフ戦士に魔術師は笑って答える。
「多少難しいかもしれないが、教養として身になる話だ。真銀時計を賜った博士様の授業なんだから、ひとまずありがたく聞いておけ」
「そこまで言うのであれば聞いてやろうではないか」鋭い眼差しで顔を見上げる。「だが、そこまで言っておいて面白くなかったらどうしてくれる」
スナーは肩を竦めた。
「知識を正しく伝えるのは俺の責任だが、楽しむかどうかは君の責任だ」
「減らず口を!」
不快そうに唸ると、顎をしゃくると言うよりは顔を振るようにして、ドルグフは話の再開を促した。
「よろしい。ではしばしお付き合いいただこう。まず今出てきた金本位制だが、乱暴に纏めてしまえば、これは全ての品や労働の価値を金に換算する制度だ」ドルグフが背負う見事な両手斧を指す。「たとえば、その斧が金何グラムと同じ価値を持つか、という具合だ」
ドワーフは不快そうに鼻を鳴らした。
「名高きゲムリ家の家宝だぞ。たとえ千トンの金塊であろうと釣り合いはせぬわ!」
「わかっている。喩えだよ、喩え」スナーは苦笑し、価値判断基準が根底から異なる異種族をなだめた。「さて、これで金本位制の考え方はわかってもらえたと思う。次は金貨本位制の話をしよう。これは金貨を本位貨幣として用いる前近代的制度だ。本位貨幣というのは、まあ、この場合は金属の価値と額面の価値が同額である貨幣のことだと単純に考えてくれればいい。たとえば、金三十グラムを使って鋳造した金貨の価値は三十グラムの金地金と同じだ。美術品としての価値が付加される場合もあるが、差し当たりそれは考えなくていい」
納得の顔でドルグフは頷いた。
「金貨ならば、貨幣の形をした金塊というわけか」
「その通り。本位貨幣とは、携帯しやすいように成形された地金に他ならない。ただまあ、金地金なんてものは、日常の取引に使うには価値が高すぎるし、広く流通させるのも難しい。だから、普通は、より少額の補助貨幣を用意して日常の用途に充てることになる。王国の場合も銀貨と銅貨がそうなんだが、貴族なら誰でも貨幣鋳造を好き勝手にやれるようになっているせいで、この補助貨幣も結局は使用する金属の品位と量目で価値が計られる秤量貨幣めいた代物になってしまっている。だから王国に限っては、銀が石ころになると貯め込んだ銀貨も一緒に石ころに変わってしまい、とんでもないことになるわけだ」
「哲人の石で王国が大変なことになるのはわかった。では兌換紙幣だの何だのはどうなのだ。そもそもこれは何のことなのだ」
「今から説明する。兌換紙幣は言わば証文だな。国家はこの紙切れと引き換えに三十グラムの金を引き渡す、と保証された紙切れだ。ああ、兌換というのは経済学用語で、その種の交換を意味する……そうだな、たとえば帝国や王国でも、金融商会の預金証文のやりとりで支払いを済ますことがあるだろう。それと一緒だ」
「証文か……なるほど」見事な髭を扱き、思慮深そうに頷く。「そういえば、共和国では紙切れが金の代わりをしておると聞いたことがあるな」
「そうだ。共和国には帝国で言う造幣局と金融局を一つに纏めたような国立金融商会――国金と縮めて呼ばれる――というのがあって、そこが共和国紙幣の発行を担当している。そしてその地下には厳重に守られた大金庫があって、共和国が備蓄する金の二分の一程度が保管されているらしい。兌換に充てるためのものだな」
「もう半分はどこにあるのだ。お主は知らんのか」
「危機管理のため国中に分散してあるそうだが、詳しいことは流石に知らない。さて、話を戻すが、こうやって、金地金を直接やりとりするのではなく金地金と引き換えられるものをやりとりする方式を地金本位制と言う。ここまで大丈夫か」
「……一応、理解はしておる。一応はな」答えは明朗快活な酒樽種族にしては珍しい歯切れの悪い口調で返ってきた。弱気な態度で言葉を継ぐ「だが、できれば、これ以上小難しいことを言わんでくれるとありがたい。根っこの部分で、俺のような者には、お主のような者の言葉はわからん」
「何、あと一息だ。もうちょっとだけ頑張ってくれ」気楽な調子で応じ、当人としては十分に噛み砕いているつもりの解説に戻る。「さて、王国の前近代的金貨本位制と共和国の先進的地金本位制の話はもう済ませたな。次はいよいよ我らが帝国だ。帝国貨幣は二つの制度の中間段階にある。本位貨幣同様貴金属で出来ているが、兌換紙幣同様額面価値はその金属価値を超える。成熟した本位貨幣であり、未熟な兌換貨幣であるというわけだ。金貨で説明しよう。帝国金貨は貨幣法によって同じ重さの金塊と兌換できると定められているが、その金含有率は五割弱だ。つまり、帝国金貨合金とでも呼ぶべき金属の価値は、金の半分程度しかない。それなのに、倍の価値を持つはずの、同じ重量の金塊と引き換えにできる。つまり帝国金貨は、金属としては金の半分の価値しか持たないのに、貨幣としては金と同等の価値を持つ。こうすることで帝国は、実際に放出する金の倍の価値を作り出しているわけだ。放出する金を節約していると考えてもいいが。一方で民衆は、貨幣価値が国家の信用で水増しされたことで、実物以上の富を持つことができ、かつ、貴金属の実物をも手許に持つことができる。ちなみに金貨を除く各貨幣の価値は、金属の市場相場とは無関係に、貨幣法に基づいて金貨と対応する形で定められている。だから、銀貨の価値は差し当たり変わらない。たとえ、銀が石ころになろうともな。ところで、この銀と銀貨の間に存在する価値の差がまた重要なんだ。今のところ帝国の銀貨や銅貨は、常に地金の何倍も価値を持っていて、それはつまり、貨幣を造れば造るほど市場に流通する富の総量は増加するということを――」滔々と語り始めてすぐ、スナーは言葉を呑み込んだ。「いや、流石に本筋から離れすぎだな。この辺りでやめておこう」一息つき、ドルグフの顔を眺めて片眉を吊り上げる。「それで、帝国貨幣の理屈――なぜ銀が石ころになっても大丈夫なのか――は理解できたか」
「わかった……とは思う」興味深そうに聞いていたドルグフは難しげな顔で、躊躇いがちに頷いた。「それにしても、そういう仕組みになっていたとはな。子供の頃からの疑問が解けたわ。貨幣のくせに随分と混ぜ物が多いものだと、ずっと不思議だったのだ。もしかすると、この国は物の値段が物凄く安いのではないか、などと考えもしたわ」
ドワーフは子供時代を懐かしむように笑った。
「不勉強だったな。『帝国大法典』やハイナス・メヘンレンバルクの『貨幣価値の理論』辺りを参照していれば、そんな疑問は一晩で氷解していたんだ……と言いたいところだが、こんなことは知っている方が特別だから気を落とさなくていい。このことをきちんと意識しているのは普通、専門の学者を除けば、法務士や商人、でなければ為政者と官僚くらいだ。大学生だって、理科系の連中は、或いは聞いたことすらないだろうな」
宮廷や商人が貨幣制度の違いを意識的無意識的とに関わらず利用し、衰えゆく王国から少しずつ金銀の実物を毟り取ろうとしていることを一例として挙げようとしたが、話が本筋から逸れてしまうことを今更ながらに懸念し、スナーは舌の回転をひとまず止めた。
「俺が言うのも何だが、自分の国の金の仕組みも知らんようでは困るのではないか」
笑い混じりにスナーが聞き返す。
「君は困ったかね」
ドルグフの顔に意表を突かれたような表情が浮かび、次いでそれは納得の苦笑に変わった。
「確かにな」小さく声を立てて笑いながら頷く。「お主らの国を旅してそう日が経ったわけでもないが、今までに困ったことなど一度たりとてなかったわ」
「だろう。貨幣の仕組みなど、普通に暮らす分には知らなくても困りはしないんだ。ともあれ、そういう仕組みになっているから、銀や銅がいきなり石ころになったとしても――混乱は起こるだろうが――大破局には至らないはずだ」
「よく出来た詐欺のような話で今一つピンと来んが、それならば、金が無事である限りはお主らも然程困らんというわけだな」
「その通りだ。逆に言えば、金の聖域が侵されたか、すぐにそうなりそうだと世間が見做した時に人類社会の崩壊が始まるということでもあるが……まあ、単なる流言飛語で打ち崩せるほど脆い制度じゃない。当分心配は要らない」
金は真銀や白金と同様、錬金魔術がその生成や模造を未だ果たしていない金属の一部である。魔法使いによって安易に複製されない保証があるからこそ、金本位の貨幣制度は成り立つ。もし簡単な金の生成法や変成法が確立されたならば――或いは相応の効力を持つ哲人の石の安価な量産体制が確立されたならば――貨幣制度は根本から崩壊してしまいかねない。だが、それだけに金への信頼は強い。その信仰にも似た信頼は、実物なしの口先だけでは崩れない。
「量を気にせず金銀を使えるようになれば、俺達としては大助かりなのだがな。そうなれば俺のような若輩でも自由に綺麗な金属を使わせてもらえる」
集落を防衛する勇猛な戦士であるだけでなく、繊細な指先を持つ熟練した金属細工師でもあるドルグフは、材料不足に悩む職人の顔で言った。彼はようやく百五十歳を超えたばかりの「若造」だ。熟練職人達がよしと言わねば金など触れることさえも許されない。スナーはグロームヴァルで、ドルグフが金細工の意匠について論じ合う親方達に羨望の眼差しを向けていたことをよく憶えていた。
根本的に価値観の異なるドワーフの楽しげな相槌に、帝国文化に染まった魔術師は唇を歪めた。
「そして俺達は、物々交換と略奪で経済を賄う野蛮人に逆戻りというわけだ。愉快な想像じゃないか、ドルグフ。金銀を自由にするために、俺達はヴィールキン人やルーヤ人の仲間入りをするんだ。野蛮な暗黒大陸よりも野蛮な世界の誕生だ」
「だが、お主とて錬金魔術とやらを使うのだろう。お主は金を作ろうと思わんのか」
「研究はしていた。だが俺は銅までの石しか作れず終いだった」難しい顔で低く唸る。「まさか、銅から銀に進むだけのことがこんなにも難しいとは思っていなかった。ユークラインの奴――弟弟子だ――があっさりやってのけたから、もっと簡単だと思っていたよ」
ドルグフは驚きを表現するように軽く眉を上げた。
「お主ほど諦めの悪い男の言葉とは思えんな。情けないことだ。それとも、老いたのか。人間はすぐに老け込むからな。お主、実はもう五十くらいではないのか」
ドルグフの顔に冗談の色はなかった。
人間もドワーフも同じ人類である。しかし、一括りに「人類」と呼びはしても、そこに生物学的な繋がりは薄い。それは、人間に友好的であれば人、そうでなければ亜人として人型種属を区分する、人間が人間のために作った人間中心の枠組みでしかない。
そして人間とドワーフは、実際のところ、種属としてかなり離れている。だからドルグフには、外見からスナーの年齢を推し量ることができないのだ。彼らは人間には老人と子供しかいないと思っている。スナーは魔術的技法と薬物を駆使して外見年齢をどうにか三十路程度に抑えているが、ドワーフ達の目にその若作りは無意味なのだ。
「俺はまだ三十八だ」
唇を曲げて年齢を告げると、ドルグフはしげしげとスナーの顔を見つめた。
「わからんなあ。お主らの年齢という奴は本当にわからん。お主はもう年寄りに見えるし、フィオナなんぞはほんの童女にしか見えん」
「歳のわかりづらさはお互い様だ。俺達からすれば、君達には老人と中年と子供しかいないように見える」鼻を鳴らして言い返し、話題を錬金魔術に戻す。「錬金魔術は金がかかる。申請すれば研究費を湯水のように出してもらえた学院時代のようにはいかない。しかも学外での作業は厳しく制限されている。実践は無期限凍結中だ」不敵な微笑と共に続ける。「ただし、理論的にはもう銀の段階まで進んだ。学院に戻ればすぐにでも始められる」
「情けないと言ったのは撤回しよう。それでこそお主だ、魔法使い」
ドワーフは愉快そうな笑い声を上げ、銀灰色の籠手を嵌めた手でスナーの薄い肩を叩いた。痩せた魔術師は芯に響く衝撃によろめき、骨に沁みるような苦痛に呻いた。
「ラシュタルと言い、君と言い、どうして加減というものを知らないんだ」
「加減くらいわきまえておる。俺が本気で叩けば、お主など虫けらのように潰れてしまうぞ」
スナーが反駁しようとした時、不意に彼らの上に影が差した。振り仰ぐと、逆光を受けたフィオナが彼を見下ろしていた。話が一段落するのを待っていた様子で話しかけてくる。
「スナー、そろそろ休憩は十分でしょう」
「休憩と言うほどしっかり休んだわけじゃないが」
「でも、もう元気でしょう。テントの設営が終わりました。あとはあなたの仕事ですよ」
「やれやれ、仕方がない」わざとらしく杖に縋って立ち上がる。「ああ、脚が痛い」
「肩でも貸しましょうか」
フィオナのからかいを無視して問う。
「結局どこにしたんだ」
「あちらです」座ったままのドルグフに視線を下ろす。「何をしているのですか。ドルグフも来てください。我々の場所を確保したのですから」
「何、俺もか」一瞬驚いたドルグフだが、思い出したように頷いた。「おお、そうだった。お主らと行動を共にするのだったな。すっかり忘れておった。準備を手伝わずにすまんことをしたな。この魔法使いめと話が弾んでしまって、気づけば随分と無駄な時間を使ってしまったわ」
「俺のせいにするな」
「片づけの時は頼りにしてくれていいぞ」
不満の声が聞こえないかのようにドワーフは笑い、甲冑に包まれた腕を持ち上げ、力瘤を作る仕草をしてみせた。
「その時は是非頼らせてもらいます」
フィオナの後についていきながら、スナーはその先に待つ光景を眺めた。個人が持ち込んで設営を済ませたテント、軍から提供されるテントの到着に先立って準備されつつある設営地点、割り振られた作業を終えたか休んでいるかしている冒険者の一群、そして誰とも行動を共にせず一人佇む者が、一ヶ所に集まっている。スナーはその中にあるはずの自分達のテントを目で捜した。
「俺達のテントはどの辺りだ」
「よい場所が取れました。平らで草があまり生えていない場所です。少し奥の方の……あそこですよ」
示された場所に彼らのテントが立っていた。疎らとはいえ草地のはずだが、邪魔な草は既に毟り取られていた。
テントの前にはラシュタルが見張りに立っていた。
「私はアールの手伝いに行く」
スナー達の姿を認めると、一方的に言い放ってさっさと設営準備作業の方に向かってしまった。その背を一瞥してフィオナが言う。
「私もこれが済んだら行くつもりです。あなた達はどうしますか」
「俺は行かない。ミゼーリカルダンの報告を待つ」
スナーは即答した。自前のテントがある者は大テント設置の手伝いを免除されることになっている。わざわざ余計な苦労を買って出る趣味はなかった。
「なんだ、お主は行かんのか。俺は行くぞ。耳長共が力仕事をしておるところで見物に回っていては、ドワーフの沽券に関わるというものだ」
エルフに対抗意識を燃やすドワーフは力を誇示するように籠手で胸甲を打った。真鉄鋼と真鉄鋼がぶつかり、戦槌で甲冑を殴りつけたような重く鈍い金属音が響く。
「早速行くとしよう」
「待ってください、ドルグフ」
大テントの設営準備をしている場所に向かおうとする気の早いドワーフの肩鎧を掴み、フィオナが引き留める。
「なんだ。まだ何かあるのか」
「まずは私達のテントを確かめてください」
「ふむ」と考え込み、ドルグフは大きく頷いた。「道理だな。体に合うかどうか、早めに見ておくに越したことはない」
ドルグフは踵を返し、甲冑の部品が擦れたりぶつかったりする騒々しい音を引き連れ、スナー達と一緒にテントへの歩みを再開した。彼は戦士の顔で辺りを見回していたが、やがて感心した様子で目を細め、髭を扱いた。
「なかなか巧みな配置だな。戦を念頭に置いた隙のないものだ。汚らしい亜人共に囲まれても易々とは落ちまい」
「軍と行動を共にすることに慣れた者ばかりですし、アルンヘイルが指導していますから」
フィオナは誇らしげに胸を張った。
ブーロウが言ったことは嘘でも間違いでもなく、今回の捕縛作戦に参加する冒険者達は、揃って軍に随伴することに慣れていた。動きもしっかりしており、勝手というものを理解していた。この集団野営も周辺の警戒や行き来のしやすい配置になっている。行動や戦闘の邪魔にならないよう距離を置きながらも、容易く分断されない程度に感覚を詰めてある。その上、要所要所に精気光の灯りが浮かび、各テント間に暗闇が出来ないよう、また野営地間の行き来に不自由しないよう、配慮されている。野営地の周囲にはきちんと生き物除けの魔法円も描かれている。星幽的、物理的監視を妨げるために兵団全体を覆って描かれつつある秘匿の魔法円も今のところ不備はなさそうだ。魔法使いの指揮者兼宮廷魔術師との調整役に選ばれたミゼーリカルダンは、アルンヘイルの戦術上の助言をよく踏まえた上で他の魔法使い達に指示を出したようだ。この分ならば、スナーがあれこれと口を出す必要もないだろう。
もっとも、あくまでも、最低限度の水準は満たしているというだけだった。指摘したい点はいくらもある。たとえば、灯りは完璧なものとは言えなかった。燃料となる星幽光の供給が上手くいっておらず、淡光が風に吹かれる蝋燭のように不安定に揺らめき明滅している。灯りを形作る星幽光には体系的な技術による操作の痕跡があった。灯りを点して回ったのはおそらくミゼーリカルダンであろう。練り上げが不十分であり、丸一日も経つ頃には魔術が崩壊するか何らかの形で変質してしまうだろうと思われた。しかし、この行軍において、丸一日安定して保たれる灯りなど求められてはいない。目的という観点に立てば、これはこれで及第と言える。
それでも不安定な明滅は癇に障ったが、彼は必要なこと以外では関わらないことになっている。このような瑣事に口出しすることの必要性を彼は説明できない。だから、ただ不機嫌な視線を向けるくらいしか、選択肢はなかった。
スナーが不満をかこつ横で、テントを一瞥したドルグフが満足そうに顔を綻ばせた。
「これは見事だ。我らの技でなければこうはいかん」出入り口の垂れ布から中を覗いてもう一度歓声を上げる。「ほう、敷物もしっかりしておるな。俺にはちょっと柔らかすぎるが」
一行のテントは錬金魔術とドワーフ工芸の婚姻が生んだ特注品である。布地は上質な肌着のように薄く軽いが金属糸のように強靭な素材から出来ており、水を通さず、薬品にも強く、通気性がよい一方で保温性にも優れている。組み立て式の支柱は鋼鉄並みの耐久性を持ちながらもその半分ほどの重さもない合金から成り、各部品は十分な遊びを持ちつつも緊密に組み合わさる。敷布は二枚重ねで、地面に直接敷く一枚はテントの生地と同じもの、その上に敷く一枚は小石程度ならば下敷きにしても柔らかく受け止めてしまう分厚い綿織物である。支払いは一式合計で銀貨三十枚にもなったが、その性能は高値に見合うものだった。
「ええ」テント内部に突っ込んでいた頭を戻したドルグフに、フィオナが笑顔で相鎚を打つ。「特に支柱などはドワーフ職人にしか成し得ない素晴らしい仕事です」苦い顔で佇んだままのスナーに視線を転じる。「スナー、何をしているのですか。きちんと仕事をしてください」
「わかっている。印はつけてあるんだろうな」
「ラシュタルが石を置きました。確かめてください」
スナーは視覚を上空に投射し、テントの周囲を俯瞰した。確かにテントの四方に握り拳大の石が置いてあった。丁度、テントを中心として描かれる円を四等分する位置だ。この目印を参考にすればほぼ真円に近い形を描くことができる。生物除けの魔術の効力を強める魔法円を描く準備は整っている。
「害虫の類は先に追い払っておいたか」
生き物除けの魔術は、区画を対象に使用した場合、生き物を寄せつけない壁となると同時に、生き物を逃さない檻ともなる。
「きちんと追い払いましたよ」
「どれ……」とテントの内外を星幽的に軽く確かめる。少なくともテントの内側には何もいなかった。頷く。「いいだろう。作業を始める。ちょっと下がってくれ」
おもむろに杖の石突きを地面に突き立て、そのまま杖を引きずってゆっくりとテントの周囲を回る。目印をかすめるようにして綺麗な円を描いていく。始点にして終点である地点に戻って曲線と曲線の端同士を繋ぎ合わせ、魔法円を完成させた。
杖を突き立てたまま、意志の力で星幽光に干渉を始める。低次星幽界を形作る星幽光が杖の頭に吸い寄せられて地面に伝わり、魔法円に沿って拡がっていく様を強く想起する。すると、熟達の魔術師の意志に従い、不可視の星幽光が大地に刻まれた溝に満ちるように広がり、一瞬だけ、誰の目にも映るほどの光を放った。
スナーはフィオナ達に振り返った。
「終わったぞ」
生き物除けの結界は完成した。これで彼らのテントに彼ら以外の生き物が近づくことはできなくなった。他の冒険者達にも作用してしまうが、それは必要が出次第調整すればよい。
「お疲れ様です」
労いの言葉を口にするフィオナの後ろに、近づいてくるラシュタルの姿が見えた。
フィオナが気づいて振り返る。
「ラシュタル。どうしました」
「輜重が追いついた」
簡潔に過ぎる嫌いのある知らせにドルグフが表情を緩めた。
「おう、ようやくか。これで腹拵えができるな」
「水の配給と大テントの設置が済んでからだ」
ラシュタルの指摘にドルグフは快活な笑みを返した。
「つまりはもうすぐということだ。俺が加われば百人力よ。テント張りなどすぐに終わる」
「期待しているところに悪いが、糧食などどうせろくなものじゃないぞ」
スナーは、平たく硬い乾燥パンと魚の酢漬けに干し玉葱、干し果物、塩の小粒という定番の献立を思い浮かべ、物憂い顔をした。栄養と保存性と携帯性と価格以外を度外視した軍隊の保存食ほど不味い食べ物はそうそうない。
「知っておるわ。何、空きっ腹には何が入っても美味いものだ」
「君は知らないからそんなことが言える。最高の調味料でも補いきれないものはあるんだぞ」
スナーは呆れの眼差しをドワーフに向けて嘆息した。長い都市暮らしを経て、彼の舌は生まれ育った農村の素朴かつ粗末な味を忘れ去っていた。
行軍初日の夜、冒険者達の野営地の夜闇には、五つのテントが浮き上がっていた。二つは軍から貸与された二十人前後を詰め込める集団用の大テント、一つはミゼットの素人魔法使いハラード達のテント、一つは女屍霊魔術師ガリエンダナ・ミゼーリカルダン達のテント、そして最後の一つはスナー・リッヒディート達のテントである。狂気に陥ったミゼットは仲間以外の誰からも嫌がられたため、屍霊魔術師であるミゼーリカルダンは魔術師ならざる者達から忌避されているため、高位魔術師――聖職者用語で言うところの「神に見放された者」――であるスナーはその上更に聖職者達からも悪魔の如く嫌悪されているため、それぞれ隔離されることとなったのである。
フィオナ・カルミルス一行の幕内には四つの寝姿があった。フィオナ、スナー、アルンヘイル、そしてドルグフ。普段よりも一人余分に寝転がっているが、六人用のテントにはなお余裕があった。見張りを立てずに全員で寝ても問題ない。
アルンヘイルが出入り口の脇で寝息を立てている。中央付近は動線として空けて、片方の隅でドルグフが鎧を着たまま寝転がって大口を開けて鼾を掻き、もう片方の隅でスナーが転がり、そこに寄り添うようにフィオナが丸まっている。距離を開けて寝ても、気づけばフィオナは寝返りを繰り返してスナーの横に収まってしまうのである。姿の見えないラシュタルは出入り口を出てすぐの所で見張り当番に就いている。
フィオナが寝返りを打つ。手の甲がスナーの頬にぶつかった。スナーは不快そうに呻いて手を押しのけ、目を開いた。旅中とあって、彼は不測の事態に備え、不意の刺激に反応して覚醒するよう心身に魔術を施していた。
スナーは顰め面で周囲を見回し、自分が旅中の身であり、テントの中で仲間と雑魚寝をしていることを思い出した。
頬が熱く疼いていた。隣で丸まって穏やかに寝息を立てる妻を見て、彼は何となく事情を察した。唇を曲げて渋面を作ったが、どうにも真剣な不愉快がる気になれなかった。
眠気は魔術で強制的に散らされた。しかし、疲労はまだ消えていない。じきに眠気も復活することは間違いないが、今すぐ眠れる状態でもない。精神制御技法を用いれば半日眠った直後であろうと問題なく意識を眠りに導くことができるが、そこまでする気分ではなかったため、スナーは静かに立ち上がった。行軍で酷使した脚の筋肉に鈍い痛みが走ったが、自然回復に任せられる程度まで魔術的に筋肉を整復してあるので、動作に支障をきたすほどにはならなかった。朝になればすっかり消え、引き換えにほんの僅か強健になった筋肉が残ることだろう。
念のために長杖を手にして忍び足で出入り口に向かう。目指すは近衛兵が掘って回った仮設便所だ。取り立てて便意があるわけではないが、幼い頃からの習慣が彼にそうさせる。床に就く前に便所に行かないと、彼は落ち着いて眠れない。幼い頃、寝小便を防ぐためにそうするようにと母親に言われて始めた習慣は、彼の中で半ば強迫観念や条件反射にも似たものに仕上がっていた。熟練した魔術師は、己の星幽体の在り方を自ら定め、その気があれば性格や習性さえも思いのままに造り変え得る。スナーも例外ではない。しかし彼は、どうしてもこの欠点としか言い様のない習慣を改める気にはなれなかった。
闇の中でアルンヘイルが身動ぎし、問いかけるような視線をよこすのが見えた。起こしてしまったようだ。スナーはかつて彼女に忍び足を酔っ払いの踊りと酷評されたことを思い出した。
スナーが小さく首を振って何でもないことを示すと、アルンヘイルはそれきり関心をなくした様子で姿勢を戻した。夜目の利く者同士は暗闇の中でも身振りで事足りる。
「どうした、呪い師」
見張りに立っていたラシュタルが振り向きもせずに言った。
「便所だ」
「そうか」
「少し早いが、戻ったら交代してやろう」
「便所に落ちないように気をつけろ」
「確かにもう若くないが、そこまで耄碌してもいない」
スナーはラシュタルの横を抜けた。
目障りなちらつきを見せる灯りに照らされた闇夜を歩き、彼は仮設便所の悪臭漂うテントへと静かに歩いた。所々で番をしている冒険者達が胡散臭そうな視線をよこしたが、彼は一切気にしなかった。俗人から怪しまれることに慣れて、ようやく魔術師は一人前だ。
穴の底から立ち上る悪臭が籠もった汚穢の魔王の住処のようなテント内で用を足した帰り道、スナーは野営地を囲む生き物除けの結界に何者かが近づくのを感じ取った。気配は生と死の女神の戦士団の野営場所の方から来ている。
長杖を握る右手に力を籠め、左手に星幽光の塊を作った。スナーの制御が外れた瞬間に弾け飛び、大規模な星幽的震動を起こす、乱暴な警報装置だ。同行者達にいつでも異状を知らせられるよう備えた上で、彼は星幽的感覚を研ぎ澄ませて気配を探った。
気配の主を確かめたスナーは星幽光の塊を散らした。
気配の正体はエスノール・フォールモンだった。旅姿のフォールモンは、洒落た服の上に動きを妨げないよう形が工夫された軟らかい革防具を装着している。服は砂塵と汗で汚れており、元々が宮廷風の意匠を取り込んであるだけに、どことなくみすぼらしく見える。
好色な男の星幽体からは満足感と男女の交わりの生臭い痕が窺えた。生と死の女神の尼僧とでも一勝負してきたのだろう。
そのことを察したスナーは最初唖然としたが、やがて感心にも似た感情を刺激された。
だがそれは、ほぼ初対面の相手をあっさり口説き落とした手並みによってではない。生と死の女神の信者には奔放な者が多いから、余程外面と内面に問題のある者でない限り――そして当然それらが秀でている者であれば尚更――彼ら彼女らを口説き落とすのは花を摘むよりも易しい。そういう連中は、気が合いさえすれば、会ったばかりで名もろくに知らぬ相手と平気で一夜を共にする。
スナーの感心は、これだけ歩かされてなお余計な運動をする余裕があることと、実に不気味な雰囲気を纏う生と死の女神の尼僧を抱く気になったことに向けられていた。
生と死の女神の根本教義は楽しく生きて笑って死ぬことである。だからこそ、信徒は日々を楽しく過ごすことに一生懸命になる。僧侶ともなればそこに常に死を観念することが加わる。死を不可避かつ突発的なものと見做す彼らは、いつでも死ぬ準備が出来ているのである。そうした生への憧憬と死への諦念に満ちた彼らの星幽体は、物事の表面しか見ない輩にとってはただ美しいだけだが、裏や奥を気にかける注意深さの持ち主の目には、そこに秘められたものが否応なく見えてしまう。生と死の女神に帰依した者の在り方とは、嵐が訪れる直前の青空や燃え尽きつつある蝋燭のようなものである。彼らの心身の美は、どこか心に不安を掻き立てるようなものを発し、良くも悪くも人の目を惹きつける。
スナーの見るところ、フォールモンは敢えて物事の上っ面だけを見て済ませようとする刹那的快楽主義者であるだけで、決して注意力散漫な男ではない。リライア尼僧正とやらを始めとする彼女らの、皮や肉の下に流れる凍えるような清冽さに気づかなかったはずがないのだ。
全てを察した上でそのような寒々しい相手と肌を重ねて快楽を共にしようと考える神経の持ち主は、狂人揃いのサルバトン一門にもどれほどいたかわからない。スナーがすぐに思い浮かべられる人物は好色な両刀遣いとして知られた門下第四位のフェンク・ダール・ガルビッチ博士くらいのもので、その彼にしたところで本当にそうであるとは言いきれない。もっとも、気づかずに床を共にしてしまいそうな者には、何人か心当たりがあった。集団には常に落ちこぼれが含まれる。それは「悪魔の名門」も例外ではあり得ず、一門にもフォールモン程度の洞察力すら持たない低能はいたのだ。
スナーは小さく鼻を鳴らしてフォールモンから注意を外し、交代を待つラシュタルの許に戻った。明日の起床は夜明けだ。つまらないことに思いを巡らせて、体力を浪費するわけにはいかない。