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剣と魔法と怪物の物語  作者: 沼津幸茸
仮借なき探究
14/17

第六章(後)

 戦神の祭司達の訪問の後、スナー達は食事を早々に終えて部屋に引き返した。スナーはとにかく精神的に参っていたし、ドルグフを除く他の面々も酒場でやることなどなかった。

 スナー・リッヒディートは早々と四つあるベッドの一つに入って不貞寝し、ラシュタルも剣を抱いたままベッドに入った。フィオナとアルンヘイルはカード遊びに興じた。ドルグフ・ゲムリ・ゲルレンドは元々別個に部屋を取っていたため、そちらでパイプを吹かしたり、階下で酒を飲んだりして過ごした。

 しばらくして、ブーロウと共にフェル・シュインハル兵団長の許に出向いていたミゼーリカルダンが戻ったとの知らせがあった。報告を聞くため、スナーは一人酒場に下りた。

 女修士が持ち帰った話は決して満足のいくものではなかった。生と死の女神教団のリライア尼僧正は秘儀に関わることを除けば全ての質問に快く答えてくれたが、宮廷魔術師団は情報公開範囲を兵団長と協議した上で答えるとして回答を留保したというのである。

 夜までの時間を結界の分析に充てるつもりでいたスナーは、当てが外れた気分で聞き取ってきた内容を纏めた星幽光感応紙を受け取り、また部屋に引っ込んだ。一枚きりの簡素な報告書に目を通すのにさしたる時間がかかるわけもなく、彼はまたすぐに手持無沙汰となり、ベッドに転がることとなった。

 女達が遊戯に耽り、男達が惰眠を貪る部屋の扉が叩かれた。

 フィオナが誰何する。

「どなたですか」

「俺だよ。エスノールだ」

 フォールモンの声が答えた。

 フィオナの声と表情が険しくなる。

「このような時刻に何の用ですか、フォールモン」牽制するように付け加える。「スナー達もいますが、彼らに用事でも?」

「警戒するなよ。夜這いに来たわけじゃないんだ。そのリッヒディートの旦那にお客さんが来たから知らせに来てやったんだよ」

 フィオナはフォールモンに少し待つように告げ、アルンヘイルに目配せした。察したアルンヘイルは席を立ってスナーの頬を軽くはたいた。

「起きなさいよ。あんたに客だってよ」

 中途半端に自我が残った屍霊生物のような呻きを上げてスナーが目を開けた。

「……俺に……客?」

「フォールモンの馬鹿が知らせに来てるから、詳しいことはあいつに訊いて」

「わかった……」

 スナーは寝ぼけ眼を擦りながら扉に向かった。

「フォールモン? 俺に客だそうだが」

「ああ。物凄いのが来たぜ。宮廷魔術師のクラートンだと。例の結界の情報を持ってきたついでに、あんたに会いたいってさ。下で待ってる」

「クラートン? 宮廷魔術師のトゥーラル・クライムス・クラートンか」

「そうだよ。約束はないけど会えばわかるって言ってたぞ」耐えかねたように続ける。「なあ、さっさとあいつどうにかしてくれよ。古い知り合いなんだろ。一緒にいる女は美人だからいいんだが、あいつがいると気分が悪くなって困るんだよ」

「少し待ってくれ」

 フィオナに小声でこれから視覚投射を行なう旨を告げ、スナーは階下に視覚を投じた。

 吹き抜けの酒場が見えてきた。ランプの明かりで照らされた店内には人が大勢いたが、驚くほど活気がない。俯き、囁き合い、何かを盗み見るように視線を落ち着きなく動かしている。

 原因はすぐにそれと知れた。

 歴戦の冒険者達が遠巻きに眺める酒場の中心には、大鷲の紋章を背負う宮廷魔術師団の長衣を着た二つの人影があった。どちらの長衣も真正魔術師であることを表す黒で、首からは九芒星の徽章を下げている。男女二人の内、男の徽章は銀製で宝珠が一つ嵌め込まれ、女のそれは鉄製で宝珠が一つきりだ。それぞれ、博士と学士を示している。更に男の方の胸元には、翼を広げた大鷲と斜めに交差した二本の杖が一体化した意匠の魔道士徽章が真銀色に渋く煌めき、特級赤銅磔架章が沈んだ輝きを放っている。

 女学士の方は、金髪に雪のような肌、ほっそりした体、と森エルフの特徴を受け継いだ半森エルフの美女で、博士の方は――こちらが問題だった――一言で表すと醜い姿だ。まず目に入るのが産毛一つ生えていないひしゃげた頭部で、顔面は歪んだ鏡に映った像のように崩れている。典型的な魔法変異者の容貌だ。星幽体も水溜りの中で踏み潰されたパンのような惨状であり、最高級の魔法治療者でも完全な整復は難しいだろう。その手にある長杖も非実用的なまでに歪んでおり、その形は纏わりつく業火に苦悶するミミズを思わせる。

 スナーはその二人組に見覚えがあった。女の方は、名前を忘れてしまったが、姓をレイと言った。サルバトン門下の一員で、魔術学院時代、彼の弟弟子で一つ年少のトゥーラルが指導していた記憶がある。そして、もう一方は――信じがたいことではあるが――ハウシェンゼン子爵の三男坊トゥーラル・クライムス・クラートンその人に違いなかった。多くの女と浮名を流した美男子の面影は欠片もなかったが、惨憺たる星幽体には確かに彼の名残が窺えた。

 トゥーラルの前には屍霊魔術修士ガリエンダナ・ミゼーリカルダンの姿があった。何かを話している。宮廷魔術師団の技術の一端を明かしてくれたことへの感謝か、単なる先輩への挨拶か、宮廷魔術師団入りを求めての猟官運動か、それとも何か個人的な交際かはわからない。

 トゥーラルが不意に顔を上げた。「目」が合った。怪物めいた風貌に小さな笑みめいたものを浮かべ、微かな会釈をよこした。トゥーラルは見られていることに気づいたようだ。

「おい、リッヒディートの旦那、どうするんだ」

 フォールモンの急かす声が聞こえる。スナーは投射を切り、扉の向こうで騒ぐ没落貴族の子孫に答える。

「こっちに通してくれ」

「あんたが行くんじゃないのか」

「どうしてあいつ如きに俺が出向いてやらなければならないんだ。用事があるならそっちが来い、嫌なら帰れ、と伝えておけ」

「相手は宮廷魔術師様だぜ」

 欠片も敬意の籠もっていない声が聞き返した。

「一部の化け物を除けば魔術師も人には違いない。あいつくらいなら、ご自慢の短銃で頭でも撃てば一発だ。怖がることはない。早撃ちは得意なんだろう」

「他人事だと思いやがって。呼んでくるから待ってろよ」

 フォールモンが扉から遠ざかる気配が感じられた。

 スナーは興味津々に様子を窺うフィオナとアルンヘイルに振り返った。

「手短に言うと、俺の学院時代の後輩が訪ねてきたから、ここに来るように伝えた。仲の悪い相手だったから、もしかすると何か悪意があるのかもしれない。万が一の場合に備えて君達には護衛を頼みたい。ラシュタルも起こした方がいいな」

「……呼んだか。どうした」

 名を呼ばれたのを敏感に聞きつけ、荒野エルフが身を起こした。声の主を探す眼は冴えきっていて、眠気の欠片も残っていない。就眠も覚醒も一瞬で済ませる。一流の戦士の生活習慣と言える。

 ラシュタルの問いかけが聞こえていないかのように、女達が目を丸くして驚きの声を上げる。

「ちょっと待ってよ、宮廷魔術師がどうとか言ってなかった? しかもクラートン?」

「クライムス・クラートン卿と言うと、魔人と呼ばれる、あの?」

 魔人クラートンの名は広く知られている。大規模な動員のたびに戦場に赴き、派手な攻性魔術で敵を吹き飛ばす男として、魔術の使いすぎで魔法変異を起こしてもなお戦いをやめようとしない男として、世の人々にある種の怪物的存在として畏怖されている。

「そのクライムス・クラートンのはずだ。俺の弟弟子で、一門での序列は確か五位だった。もしかすると四位だったかもしれないが……」

「あんたは次席だっけ?」

「歴史の浅い一門だったし、師匠の指導方針も気違いじみていたからな。他の一門も含めて、上を追い抜くのもそう難しい話じゃなかった。気づけば、上には、弟弟子が一人と他の一門の首席がいるだけになっていたよ」

 眼を閉じると、さして好ましくもないが、懐かしいことだけは確かである面々が瞼の裏に浮かんでは消えた。

「首席がバーガルミル・ユークライン。天才だったが、例の事件で死んだ。三位がゼイル・ガウディアス。サルバトンと学院を売った功績で、遂には導師になったそうだ。四位がフェンク・ダール・ガルビッチ。事件の後、ガウディアスの下風に立つのを嫌って学院を出て、実家の伝手を使って西部総督府に潜り込んだ。五位がトゥーラル・クライムス・クラートン。事件の少し前、宮廷魔術師団に入った。高弟連で俺よりも年長だったのはフェンク兄弟子だけだった」

「そして次席がスナー・リッヒディート。ただの冒険者」

 アルンヘイルが、妙に上手いのが苛立ちを誘うスナーの声真似をして付け足し、くすくすと笑う。

「こうして聞いてみると、あなたは私などと一緒に冒険をしていることが信じられない人ですね。住む世界がまるで違います」懐かしそうに目元を緩める。「あの酒場で相席しなかったなら、私達の運命が交わることは決してなかったでしょうね」

 スナーも帝都の酒場、かつて師匠と共に帝都に上った時に逗留した思い出の旅籠の一階での出会いを思い起こし、懐かしさに頬が緩んだ。

「あの事件さえなければ、俺があの酒場で昼間から酒を呷ることもなかっただろう。ずっと学院に籠もったままで、今頃は大博士くらいにはなっていたかもしれない。サルバトンもウェルグナーも、いつも仕事を押しつける相手を探していたからな。きっと俺かゼイルを推薦してくれただろう。だが、後悔はない。今じゃ、この状況を気に入っているんだ。これがなければ俺は、君にも、君達にも会えなかった。それに、そういう話をするなら君だってそうだ。違うかな、伯爵の次女殿」

「おい、呪い師。私に用事があったのではないのか」

 唸るように言ったラシュタルの眉は苛立ちを示すように吊り上がっていた。

「敵になるかもしれない奴が来るから気をつけろ、と言ったんだ。相手は俺ほどじゃないが強力な魔術師だ。油断はするなよ」

 スナーの説明が終わるか終わらないかというところで、もう一度扉が叩かれた。

「クライムス・クラートン博士をご案内してきましたよ」

 柄にもなく丁寧なフォールモンの声が聞こえた。扉を透視すると、宮廷魔術師の長衣を着た人影を背後に連れたフォールモンの姿が見えた。

「俺が出よう。君達はいつでも動けるようにしてくれ。いざとなったら殺して逃げよう」

 スナーは出ようとするフィオナを制して進み出た。不意打ちを警戒して攻性魔術の発動を準備し、静かに扉を開ける。化け物と美女と色男がいたが、既に心の準備を済ませていたのでおぞましい姿に驚かずに済んだ。

「リッヒディートの旦那、確かにお連れしましたよ。それじゃ、私はこれで」

 フォールモンがそそくさと立ち去る。

 スナーよりも少し長身な化け物の壊れかけた星幽体には、強い警戒心と対抗心の色が満ちていたが、意外にもそこに敵意や悪意は感じられなかった。トゥーラル・クライムス・クラートンのスナーに対する認識は、彼を明確に敵と見做していた当時からやや変化を遂げたようだった。だが、それが良い変化であるとは限らなかった。敬愛する人物に敵意を燃やす者がまずいないように、不快な害虫に一々真剣な敵意を向ける者もまずいないのだ。スナーは決して警戒を解こうとはしなかった。

 歯並びの狂った口が開き、ややくぐもった聞き取りづらい声が押し出された。

「お久しぶりですな、スナー兄弟子。いよいよ出陣という段になってようやく暇が取れたので、所用を済ませがてら、挨拶に伺いました」

 スナーは相手に地位を持ち出すつもりがないことを察し、対応を切り替えた。

「そうだな、トゥーラル。それと……レイ、あまり話したことはなかったと思うが、どことなく見覚えはある」

「そうですな。あなたは後進の指導に関心をお持ちでなかった。それはそうと、兄弟子」化け物の顔に微笑のつもりらしき不快な歪みが生まれた。「例の報告書を読ませていただきました。あなたがウェイラー先生の討伐任務に就かれてもう何年にもなりますが、その環境でも錆びつくことなく、ますますご見識に磨きをかけておられるようで何よりです。もっとも、以前と変わらず多少衒学的な傾向のあるのが珠に瑕というものでしたが。どうもあなたの書くものは実際的でなくていけません」

 スナーは唐突なおべっかと高慢な批評に眉を顰めた後、あることに気づき、唇を不満の形に曲げた。

「俺が書いたものに最初に手を入れたのは君だな」

「ええ。魔術と軍事の両方を理解できる者の内、手透きが私しかいなかったもので。しかし、兄弟子、あれはいけませんな。こう言っては何ですが、あれは本当に、誰かに読ませるつもりで書いたのですか」

「随分とわかりやすく書いてやったはずだぞ」

「きちんと考えれば読み解くことができる、という意味においてはね。それにしたところで、高等学校卒業程度の教養が前提ですが」

「十分じゃないか。目を通すのは最高の教育を受けてきた連中だ。将校にしろ官僚にしろ、全員士官学校か大学を出ているはずだ」

「考えないとわからない、という時点で報告書としては落第なのですよ、兄弟子。一目で誤解の余地なく理解できるものでなくてはなりません。あなたが私の部下なら、書類の書き方というものを一から指導するところです」

「軍も官庁も、もっと職員の学術教育に力を入れるべきだな。あの程度は考えるまでもなく理解できるようにならなきゃ使い物にならない。そうは思わないか」

「専門技能の育成の方が大事です。学問ばかりが達者で実務がお粗末では話にならないでしょう。それくらいならば逆の方がましというものです」

「学問も実務もお粗末な現状よりはましだろう」馬鹿にするように片頬の筋肉を歪めると、鋭い眼差しでトゥーラル・クライムス・クラートンの醜貌を睨みつける。「ところで、今日の昼頃、戦神教団の教導祭司がここに押しかけてきた。このことは知っているか、クライムス・クラートン主任魔術師」

「ええ、シュレ教導祭司殿がこちらを訪問したとか。ブーロウ評議員も了承の上とのことですが、それが何か」

 トゥーラルは空惚けるように明後日の方向に視線を向けた。

「随分と迷惑をかけられた」

「それはご災難でしたな」

「同盟者だと言うのなら坊主共の手綱をしっかり取っておけ、役立たず共。何が専門技能の育成だ。肝心のご専門でも出し抜かれているじゃないか」

「出し抜かれたのはブーロウ殿でしょう」

「連中にあんなことをする余地を残しておいた君達にも問題がある。宗教屋なんぞは神殿に閉じ込めて外に出すな」

「スナー・リッヒディート博士ともあろうお方が何とも不見識なことを仰る」宮廷魔術師の異貌に奇怪な微笑が現れた。「まさか、我が国が国法に基づいて宗教活動を尊重していることを知らぬとは言いますまいな」

 スナーは今や帝国の要人となった弟弟子に向かって棘のある笑みを返した。

「知っている。だが、あっちの邪魔をしないだけじゃ、聖俗分離の原則は成り立たない。『神の法は人の国に及ばず、人の法は神の国に及ばず』だ。君達は教団が俗世に影響力を及ぼそうとするのを止めるべき立場だろうが」

「現実は厳しいもので。それに線引きも難しいのです。教義上の問題と言われてしまえば、こちらも強くは言えません。ただ、まあ、私は宮廷魔術師として政治から距離を取っていますので、私に言われても困りますな。どうしてもというのであれば、フェル・シュインハル近衛大佐に兄弟子のご要望をお伝えしますよ」

「都合に応じて魔術師になったり官僚になったりと忙しいらしいな、宮廷魔術師とかいう連中は。蝙蝠共め」

 スナーは鼻を鳴らし、教導祭司の話題を打ち切った。トゥーラルや軍の責任を正式に追及する手立てはいくつもあるが、敢えて彼らに喧嘩を売るつもりもなかった。

「まあ、この話はもういい」扉を押さえたまま一歩脇に退き、弟弟子と遠い妹弟子とを手招きする。「ここで話していても仕方がない。入れ」

「失礼します」

 二人を部屋に引き入れた時、アルンヘイルが息を呑む音が静かな部屋に響いた。嫌悪と驚愕を顔に出したラシュタルは剣を片手に腰を浮かせ、フィオナでさえも驚きに顔を強張らせていた。

「君達、曲がりなりにも宮廷魔術師殿だぞ。その反応は流石に失礼だ」

「構いませんよ、兄弟子。家族さえもが忌避する顔は、初対面ではきついでしょう」

「その、クライムス・クラートン卿、失礼を――」

「構わない、と言った」非礼に気づいたフィオナが頭を下げようとするのをトゥーラルは制した。「既に承知のご様子だが、改めて名乗ろう。私は帝国宮廷魔術師団主任魔術師、魔道士トゥーラル・クライムス・クラートン無爵真正魔術博士。できれば、卿ではなく博士と呼んでほしい。スナー兄弟子からお聞きではないかな、我々が、生まれながらの爵位や他に手にしたいかなる称号よりも、自ら手にした学位で呼ばれることを好むことを。こちらは私の弟子で部下のシェリル・レイ真正魔術学士だ。あなたがフィオナ・カルミルス殿だな。どこかの戦場でお見かけした憶えはあるが、記憶違いでなければ、こうしてお目にかかって言葉を交わすのはこれが初めてだったと思う」

「はい、博士。我々はこれが初対面です。スナー・リッヒディートの妻、フィオナ・カルミルス或いはリッヒディートと申します。お見知り置きを、クライムス・クラートン博士」一礼した。「後ろにいるのは仲間達で、アルンヘイルとラシュタルです」

 紹介に与ったアルンヘイルとラシュタルは、関わり合いになりたくない、と態度で示すように部屋の奥に下がった。

「それにしても、妻、ね。兄弟子が結婚するとは思いませんでしたよ」トゥーラルはわざとらしく驚いてみせた。「女などくだらない、結婚生活など人生の浪費だ、とまで言っていたあなたがね。結婚したのも意外ですが、これだけの女傑の心を掴んだというのはそれ以上の驚きだ。魅了の魔術でも使ったのですか。あなたは精神魔術もかなり深く修めていたから、婦人を虜にするのは容易いでしょう」

 敬意の欠片もない態度にフィオナが噛みつこうとするのを制し、スナーは嘲りの笑みを浮かべた。

「俺も驚いているよ。その顔でよくそんな美人を捕まえられたものだ。弱味を握ったのか、でなければ、権力か財力でも使ったか。どうだ、当たりだろう」

 人と人の関係は星幽的に捉えられるものであり、魔法使いはそれを鎖や縄のようなものとして見る。星幽界という書物の文法に精通した者の一瞥を以てすれば、敢えて関係性が星幽的に隠蔽されてでもいない限り、肉体関係の有無程度は一瞥するだけでそれとわかる。そして、二人の間に見られるそうした星幽的連関は、心身の深い結びつきを示していた。

 スナーの言葉にトゥーラルは動じる気配も見せなかったが、連れのシェリル・レイが目を剥いた。美しい半エルフは何かを言い返そうとしたが、おぞましい怪物が先に口を開き、さりげなく遮った。

「妻は毒を仰いで死にましたが、どういうわけか、これは私を純粋に慕ってくれましてね」

「君を慕うその理由の詮索は野暮というものだな。誰も幸せになるまい。言わぬが花という言葉もある。それは本当に君への愛ゆえか、などという品性を欠いた質問はすべきでないな。世の中には地位や金で何もかもを売り払ってしまえる人種が実在するんだからな。答え次第では目も当てられないことになる」悪意たっぷりにせせら笑い、スナーは床に座った。「生憎と椅子が足りない。学生時代に、いつか、どこかの平原でしたように済ませよう。さあ、立っているのが嫌なら、君達も座れ」

「では失礼して」宮廷魔術師は女弟子に促すと、嫌な顔一つせず床に座り、相槌を打つ。「本当に、どうしてこの顔で彼女を捕まえられたことか。妻は私の相手をするのが嫌で星幽界の泡沫と化したというのに」

「奥さん――お義理で招いてもらった結婚式で見かけたあの少女でよかったかな――が死んだ顛末は知っているが、その顔じゃ仕方がない。数時間一緒に過ごすだけの娼婦でさえ嫌がるだろうに、その娼婦も嫌がるような仕事に加えて、同じ家で暮らして、行事に付き添って、君の子を産み育てる義務が一生ついて回るんだ。どこかに逃げたくも――」

「スナー、やめなさい」フィオナが鋭い声で咎めた。「人として下劣です」

 トゥーラルが目を丸くしてリッヒディート夫妻を見る。

「リッヒディート博士、クライムス・クラートン博士を侮辱するのはおやめください」

 怒りに肩を震わせていたレイがすかさず続き、軽蔑の籠もった冷たい眼差しをスナーに向けた。

 スナーはレイの凍土の顔に微笑を返した。

「あの少女が随分と生意気になったものだ。確かに我らが一門では、学位を絶対とする学院の在り方を無視して、縦横の自由な議論を奨励していた。しかし、無作法で知られた我らが一門であっても、学士如きが博士同士の個人的な会話に割り込むのは無作法の誹りを免れ得ない。それを禁じる規則はないが、目下が遠慮するのが世の習いだ。更に言えば、今回、先制はそちらでもある」わざとらしく兄弟子の立場を前面に出し、尊大な態度で弟弟子に告げる。「トゥーラル、君の弟子は躾がなっていないな。師としての適性を疑うよ。君はまだ弟子を取るには少し早いのではないかな」

「これは失礼しました、スナー兄弟子。レイ学士、慎みなさい」

「しかし」と反駁しかけ、レイは悔しそうに口を噤んだ。渋々といった態度でスナーに頭を下げる。「失礼を申し上げました、リッヒディート博士」

 スナーは殊更真面目腐って頷いた。

「以後気をつけるように」

「レイ学士が気分を害するようなことを言ったあなたも悪いでしょう。あなたの言葉の度が過ぎていたことは事実です」堪りかねたようにフィオナが非難し、宮廷魔術師二人に頭を下げる。「私が代わりに非礼をお詫びします」

「申し訳ないが、奥方」トゥーラルがゆっくりと首を横に振った。「あなたでは代わりにならない」微笑を湛えて付け足す。「それにしても、面白いものを見せてもらった。スナー兄弟子が叱りつけられて黙るさまなど、そう見られるものではない」

 不遜な弟弟子から揶揄するような視線を向けられた兄弟子は顔を顰めた。

「そもそも、こっちが頭を下げる理由がないんだ。その男の容貌が破滅的であることは間違いないし、互いが納得している会話に訳知り顔で割り込む方が無礼というものだ。違うか、トゥーラル」

「全くその通りですよ、兄弟子。だから奥方が気にする必要はない。我々は元々こういう間柄なのだ」小さく笑うと唇が不気味にめくれ上がった。「それにしても、スナー兄弟子の尻拭いは大変だろう、この通りの方だから。ご苦労、お察しする」

「そんな、尻拭いなど……」フィオナが照れたように笑う。「普段は私の方が助けられているのですよ、クライムス・クラートン博士」

「生憎と、糞尿愛好の趣味はない。恥ずかしがらせるのは好きだが」

 スナーの冗談めかした言葉にフィオナの笑みが引き攣り、頬が赤らんだ。

 トゥーラルはわざとらしく嘆息した。

「ご婦人方の前でする話ではありませんよ。あなたはいつもそうだ。折角の知性の全てを下品な発言のために費やしているかのようだ。育ちのほどが窺えますな」

「生まれや育ちを――」

 表情を硬くしたフィオナの言葉に被せるようにスナーが応じる。

「他人の生まれ育ちを論じるほどお上品なご家庭でお育ちあそばされたハウシェンゼン子爵の三男坊様からすれば、平民など皆育ちが悪く見えて仕方がないだろうな。もっとも俺は、比喩ではなく、本当に育ちの悪い方だが」

 スナーは自分の生まれを振り返った。彼は北部州辺境の寒村――エートン村よりはましだったが――の農民の長男だ。最期を故郷で迎えようと村に戻ってきた老魔術師に見出されなければ、無駄に学のある虚弱な農民として村の中で過ごし、何事も成さぬままに死んでいたはずだ。第二十五次北方防衛戦、竜口湾の北岸から西へと弧を描くように迫り出したヴィールキン半島に住むヴィールキン人と大陸東部全域を活動範囲とするルーヤ人、そして大陸西部以外のどこにでも棲息するオークやオーガを始めとする亜人が北洋艦隊や北部州及び東部州軍の防衛線を突破して同時に帝国北東部に侵入したことで勃発した、あの大防衛戦の中でヴィールキン人に蹂躙された故郷、マークランデ県のノーラ村と運命を共にして。

「それにしても」とわざとらしく痛ましげに表情を歪める。「その顔はどうにかならなかったのか。元通りは無理でも多少はましにできるだろう。なんなら、俺が弄ってやっても構わないぞ。今よりはましな顔にしてやろう。もっとも、報酬はもらうが」

 トゥーラルは首を振った。

「元通りならば考えもしますが、そうでなければ不要です。意味がない。それに、美醜で判断しないでくれる者が私の周囲にはもういる。それで十分ですよ」おぞましく微笑んだ。「それでなくとも、この外見ははったりが利いてなかなか便利なのです。意気地のない宮廷雀が寄りつきませんし、兵隊達にも一目置かれます。それに、蛮族共――特に野蛮な秩序と渾沌の神(サムカス=ソーアーク)を奉ずる輩など――は、私を渾沌神(ソーアーク)の祝福を受けた神の使いと思い込んで畏れます」

 トゥーラルは典型的な魔術師の態度で、本来ならば軽々に口に出すべからざる神々の名を何の躊躇いもなく発した。

 フィオナが不快そうに眉根を寄せた。学院において――もしかすると宮廷魔術師団においても――神々や魔王の名は無味乾燥としたただの学術用語として用いられる。しかし、それらは、学外では畏敬すべき大いなる言葉だ。放埓の魔王(ケイオリーダム)暴虐の魔王(ウオーヴラア)享楽の魔王(シャルダーナラスト)汚穢の魔王(グーリュー)圧政の魔王(デルマコスター)停滞の魔王(ストゥルペンド)、そして悪意の魔王(マティアリ)の七魔王が習合されて生まれたという東方の野蛮な神であったとしても、例外ではない。

 スナーはトゥーラルが示した軽率な態度を意外に感じたが、その意外感は口にも態度にも出さなかった。雑談中の何気ない一言として看過し、淀みなく相槌を打つ。

「前向きで結構なことだが、一体何をすればそんなことになるんだ」

「興味がおありですか」

「是非聞いて参考にしたいね」唇の片端を吊り上げて笑う。「轍を踏まないために」

「そういう意味でのご参考にはならないと思いますが、話せと言われるのならば話しましょう。三年ほど前、陛下の東方親征でのことです。陛下は押し寄せる蛮族と亜人の軍勢を指して、『宮廷魔術師達よ、誰か彼奴らを蹴散らす魔法を知らぬか。余はザロン・タールキンがかつて見せてくれたような業を見たい』と仰せられました。陛下に顔と名を憶えていただくまたとない機会と思って志願し、『渦巻く炎の嵐』を行使することにしました」

「そこは星屑の一つも落としてみせるところだろう。確か君は召喚魔術が得意だったはずだ」

「あなたやウェイラー師ではないのですから……無理を承知で仰るのだからお人が悪い。それに、あれは簡単に発動を妨害されてしまいますから、まるで実戦的ではありません」苦笑してから付け足す。「ああ、酸っぱい葡萄の話をしているのではありませんよ。もうそろそろ手が届く見込みがあるのですからね」

「それは凄いな。大したものだ。俺だって星屑はまだ手が届かないし、そもそも目指す意思さえないと言うのに」

「なるほど」トゥーラルは悪戯を手伝う子供のような目つきをした。「私の手が届きかけるくらいですから、あなたの実力ならば既に星屑を修得していても不思議ではないと思っていたのですが……」蛙が喉を鳴らすような不快な笑い声を立てる。「まあ、そういうことにしておきましょう。星屑のような強力極まる魔術の修得など、吹聴するものではありませんからな」

「そうだ。兄弟子の言うことに素直に頷いておけばいいんだ」

 したり顔で言いながら、スナーは何気なく口に出した星屑の魔術のことを思い出していた。

 星屑の魔術は星幽跳躍など問題にならない召喚魔術の大秘奥の一つであり、公に知られる修得者は大陸広しといえども両手の指に満たない。そしてその半数以上が帝国人である。その威力はまさに秘されるに値するものであり、一度発動すればただの一撃で城砦を打ち崩し、軍勢を吹き飛ばす。破壊力に限れば、軍人達が魔法に代わる可能性として注目する大砲など目ではない。第二十五次北方防衛戦の折、修士時代のスナーは、志願して魔道士ウェイラー・サルバトン導師と白銀騎士にして魔道士ウストファルト・ウェルグナー大博士――攻性魔術の研究と実践に殊の外熱心だった二人の真正魔術師――の随身として従軍した。彼はその決勝会戦場となったベルサラ平原で、サルバトンとウェルグナー、そして首席宮廷魔術師である魔道士ザロン・タールキン・ダルフルマン伯爵真正魔術博士――それぞれが奥義を窮め学院と宮廷の中枢に君臨する同門出身の大魔術師達――が、蛮族と亜人の混成軍目掛けて安全と確実を期して協同発動した星屑の魔術が、数キロメートル四方にも亘る地表の一切を消し飛ばし、大地に円形の大窪地を穿つところを目撃した。その圧倒的破壊の光景は、十年以上が過ぎた現在でも、彼のみならず大陸中の記憶に焼きついている。

 発動までに少しでも何らかの形で妨害が入ればまず成功せず、発動開始の秘匿もほぼ不可能な――即ち発動が試みられた瞬間、一定以上の敏感さを持つ者全てがそれを察知し得る――欠陥魔術ではあるが、純粋な火力に限れば並ぶものを挙げることが難しいほどに凄まじいことは事実である。在野の個人がそれだけの力を保有することが政治や軍事に携わる者達のどのような反応を招くかは想像に難くない。星屑を落としてみせたサルバトン達がどれほど大陸諸国に警戒されているかが全てを物語る。

「星屑のことはもういいから、続きを話せ」

 スナーは面白くもなさそうに鼻を鳴らし、トゥーラルに促した。

「どこまで話しましたか……そうそう、『炎の嵐』を使うというところまででしたね。私はそうして持てる限りの、精一杯の力を籠め、『炎の嵐』を発動しました」もったいぶるように間を置く。「……そして、制御を失った精気光の炎は穢れた斑色の嵐となって確かに敵軍を焼き払いましたが、同時に逆流もして、私の星幽体と肉体を徹底的に歪めました。この通り、体毛は残らず抜け落ち、肌は炎で炙られたチーズのように溶け爛れ、骨格は熱せられた硝子のように歪みました。杖もほら、この通り、ぐにゃぐにゃになってしまいましたよ」

「つまらない功名心に駆られて馬鹿なことをしたものだ。向こう見ずな素人魔法使いを笑えないぞ」

 言ってから、スナーは己の発言の迂闊さに気づいた。それは藪蛇になりかねなかった。

「ですが、あなたの魔法変異の理由よりは余程ましではありませんか」

 醜い顔に愉快そうな表情が浮かぶ。トゥーラルはスナーの迂闊さを見逃してはくれなかった。

 スナーは小さく舌打ちした。久しく会っていなかったのですっかり忘れていたが、長い付き合いになるこの弟弟子はあのことを知っているのだ。

 スナーの背後で驚きの声が上がった。

「スナー、あんた、変異してたの!」

 底意地の悪い弟弟子がわざとらしく驚いてみせる。

「おや、お仲間に話しておられなかったのですか」

「スナー……」フィオナが案じるような眼差しを注ぐ。「体は大丈夫なのですか。今まで無理をしていたのではありませんか」

「心配要らないとも、夫人。魔術師にとって変異は友のようなもの。決して珍しいものではない。それに彼の変異は――」

「トゥーラル・クラートン、黙れ」遮ったスナーは敢えて貴族姓を抜かす無礼な呼びかけをすることで不快感の表明とした。「俺が話す。失敗談というものは、他人に語られるよりも自分で語ってしまう方が、心穏やかでいられるものだ」

「ではご存分に」

 トゥーラルが喉から不快な笑い声を漏らした。この醜い男がかつての兄弟子をからかう楽しみを堪能していることは明らかだった。

 スナーは苛立ちを押し隠して仲間達に向き直った。万事に関心の薄いラシュタルはどうでもよさそうな顔をしていたが、フィオナとアルンヘイルの顔には興味と不安の綯い交ぜになった表情が浮かんでいた。

「簡潔に言おう。俺は眼と左脚の変異を経験した」

「兄弟子の瞳が元々茶色だったことはご存知かな」

「黙っていろと言ったぞ」

 トゥーラルの醜い顔を鋭く睨む。

「失礼」

 叱りつけられた弟弟子はわざとらしく口を閉ざした。

 スナーは物憂く嘆息した。自分の恥部を仲間達に晒すのは酷く気の重い話だった。だが、もう引き返せない。

「この馬鹿が言ってしまったから――時系列が狂ってしまうが――まず眼の話をしよう。魔術師が遺した隠れ家を探索していた時、俺は隠れ家の守護者に追い回された。仲間は散り散りになり、俺は取り分け暗い場所に追い込まれた。そこで暗視の魔術を使おうとしたんだが、発動の途中で守護者が現れ、その驚きで制御をしくじってしまった」

 フィオナが労わるようにスナーの双眸を覗き込む。

「スナー、眼に異状はないのですか。瞳の色が変わってしまうなど、余程のことでしょう」

「夜目が利くようになった。体質だと言ったのは半分嘘だ」

 フィオナが拍子抜けしたような顔をした。

「それだけ……なのですか。私達に心配をかけまいと、何かを隠しているのではありませんか」

「俺は運がよかったんだ。変異には役に立つものもあって、たまたまそれを引き当てた。要するに、君が戦神から受けた祝福と同じようなものだ」

 世人が戦神の祝福だと持て囃し、有り難がるものは、魔術師に言わせれば単なる先天的魔法変異でしかない。

 先天的に高い身体能力を持つ。肉体は若く逞しいまま長く保たれ、精神は魔法に対して頑強になる。そして接触発動と戦神の力を除くあらゆる魔法の影響を撥ね退ける。戦神の祝福とはその程度のものだ。素養のある素体と多大な労力が必要となるが、理論上、真正魔術ならば再現できる。魔術師からすれば、人が再現できる程度のものを神の祝福などと称するのはおこがましい限りであった。

「それなら、脚の変異とやらはどうなの?」

 アルンヘイルが調子を取り戻した様子で問いかけた。

「脚はろくでもない方だった」

「そ、そう……ごめんね」

 気まずそうに目を逸らす。

「気にしなくていい。それで、脚の方だが、こちらは更に情けない理由でね。硬質化の魔術を使った時、まだ学士になったばかりの頃だ。その頃の俺は思い上がっていて、硬質化など居眠りしながらでもできるとさえ思っていた。それで――まったく愚かなことだが――真面目にやらなかったせいで魔術の制御に失敗し、硬質化の効力が俺に襲いかかってきた。歪んだ星幽光の流れが左脚を取り巻き、皮膚を革鎧のように変質させてしまった。そう、丁度、アルンヘイルが着ているような奴だ」

 スナーは壁際に置かれた古びた革鎧を指した。

 一転、神妙な態度をどこかに追いやり、アルンヘイルが嫌そうに顔を顰めた。

「やめてよ、鎧着るたびに思い出しちゃうじゃない」

「俺が恥ずかしい話をしているんだ。君達にも少しくらい嫌な気分を味わってもらわないと割に合わない」

「あんた達が勝手に話し始めただけじゃないの」

 アルンヘイルの至極妥当な反駁を無視し、スナーは続けた。

「そうして俺の左脚は固まり、動かせなくなってしまった。すぐに処置をしないと不具になってしまうから、急いで学院に助けを求めた」

「あの時は実に見物でしたな。やり遂げたあなたもある意味立派ではありましたが」

 口を挟むトゥーラルに語気を強めて言う。

「子供の粘土細工みたいな顔の分際で、黙っていろと何度言わせる気だ」

「多少の合いの手があった方が話も楽しく進むでしょう」

 トゥーラルは悪びれる様子もなかった。

「俺は楽しくない」吐き捨てた。「治療には俺の師匠であるサルバトンが当たったが、いつも話している通り、こいつが酷い気違いだった。不真面目な態度で星幽光を操作した者がどうなるかを学ばせると言って暇な門下生を呼び集めて、そいつらに俺の治療を見物させたんだ」その時のことを思い出し、彼は我知らず身震いした。左脚にあの時を思い出させる幻痛が走り、無意識の内にそこを撫でさする。「その上、あいつは、愚か者には躾の鞭が必要だとほざいて、一切の麻酔的処置を取らずに脚を切り開き、皮を剥ぎ取った。皮は標本にされた。多分、まだ学院の標本室に飾ってあるはずだ」

 フィオナとアルンヘイルは顔色を失っていた。フィオナは目を丸くし、アルンヘイルは呆けたように口を開けっ放しにしている。

「魔法使いってやっぱり頭おかしいわ」

 アルンヘイルがようやくぽつりと呟いた。

 フィオナが恐る恐るといった風に口を開く。

「では、あなたの左脚の色が少し違うのは……」

「脚全体が古傷のようなものだからな……本当は治そうと思えば色も治せるんだが、自戒を籠めて残してある」

「酷い火傷をしたと言っていたのは……」

「若い頃の過ちの報い、と言えば火傷でも通じるだろう。自分から吹聴するようなことじゃないから、ごまかさせてもらった」

 フィオナが不機嫌な顔で非難の眼差しを向けた。

「夫婦の間で隠し事をするのはよくありません」

「わかっている。自覚する限り、機密を除けば隠し事はこれだけだ」

 頭が悪いようで妙に鋭いところもある女剣士が、狡猾な魔術師の曖昧な表現が持つ含みに気づいたかどうかはわからない。フィオナはただ一言だけで答えた。

「その言葉、信じますよ」

「是非信じてくれ」

「しかし、あの時は大したものでしたな」リッヒディート夫妻の雰囲気が気に入らない様子でトゥーラルが声を高めた。「失神するどころか悲鳴一つ上げず、あなたは最後まで耐え抜いた」

「悲鳴を上げたり気絶したりするようなことがあれば一門から放り出すと言われたからな。あいつは本当にやる奴だから、そう言われては革切れを噛んで耐えるしかなかった」

「それでも見事なものです。それに、おかげで学院中から一目置かれるようになった上、学院の歴史にも名を残したではありませんか」

 スナーは心底からの不快感を籠めて唇を曲げた。

「いくつもある馬鹿の見本の一つとしてな。あれ以来、魔術を甘く見た馬鹿者はこういう目に遭うぞ、と入学者を脅しつける時に俺の皮も使うようになったじゃないか。まあ、百年以上も骨格標本を見世物にされているヴィンデルに比べればましかもしれないが……」心底うんざりした気分で問いかける。「まさかとは思うが……あれはまだやっているのか」

「ええ、ゼイル兄弟子が毎年、嬉々として、愚か者スナー・リッヒディートの失敗を新入学者に語り聞かせています。導師にまでなっておいて何をやっているのやら、という話ではありますが」

「俺を追い抜けなかったことがそんなに恨めしいか」舌打ちした。「厭らしい奴め」

「立場が立場ですから、鬱憤も溜まるのでしょうな。ゼイル兄弟子も、平民の身で貴族に伍し、若輩の身で先達に伍すため、相当な辛苦を味わっているのでしょう」

「あなたは実に物知りだな、クライムス・クラートン博士」スナーは薄っぺらい穏やかさの滲んだ声で答えた。「つらい思いをしていれば他者に八つ当たりをしてもいいだなんて、知らなかったよ。少なくとも、父と母は教えてくれなかったし、グライフェン師匠にも、学院でも教わったことがない。いいことを教えてくれた。俺もいろいろとつらい思いをしているんだが、この際だから君達に八つ当たりして心を慰めてみるのもいいかもしれないな。どう思う」

 敵意に満ちた顔でレイが杖を掴んで腰を浮かせ、フィオナ達がその動きに反応して武器に手をかける。冗談の通じない若者の頭の固さに不満の表情を作り、スナーは静かに魔術の発動に備えた。

「レイ学士、一々この人の言葉を真に受けるのはやめなさい。人生の無駄遣いだ」

 殺気立った一同を見てトゥーラルが苦笑し、レイを座らせた。それを見てフィオナ達も矛を収めた。しかし、どちらの陣営も、警戒心を剥き出しにして互いを監視し合っている。スナーはからかいの視線を歪んだ顔に向けた。

「失言でした」トゥーラルは率直に認めて小さく頭を下げ、話を戻した。「ともあれ、私が功名心からの止むを得ざる措置だったのに対し、あなたは恐怖心と慢心による失敗だったわけです。同じ失敗でも、どちらがより愚かですかな。意を決して賭けに出た私と、無思慮と無分別の報いを得たあなたと、一体どちらが?」

「……サルバトンなら、君を褒めるだろう。あの男は果断な挑戦を好む。挑まず長らえる生に価値はない、挑んで死ね、と常々言っていた。俺だって君を褒めざるを得ない。目的のために賭けに出る勇気には羨望すら感じる。もっとも、俺からすれば皇帝の知遇などどうでもいいし、俺やサルバトンなら、皇帝に取り入るにしても別のやり方を取ったに違いないがね」

「ほう」トゥーラルは意表を突かれたように小刻みに頷いた。「ほうほう……随分と殊勝な態度ですな。何か良くないものでも食べたのですか」

 勝利を確信して笑う弟弟子を兄弟子は冷ややかに眺めた。

「失敗そのものの比較で言えば、君に軍配が上がる。それは認める。だが、それとはまた違った観点で、俺は君の方が馬鹿だと思ったよ」

「……違う観点?」トゥーラルは自信たっぷりに胸を反らした。「よろしい、伺いましょう」

「科学的考察を行なう上でのごく基礎的な原則だが、君は比較を行なう際の原則をご存じないのかな」

「それがなんだと言うのです」

「君は相変わらず詰めが甘い。迂闊さで言えば俺も似たようなものかもしれないが、挽回能力は確実に俺の方が上だ。つい三年前の君と、二十年ほども前の俺を比較して君は言ったな、君と俺のどちらが愚かか、と」スナーは悪魔のように微笑した。「まだわからないか。君は事もあろうに、採取時期が全く別の試料を比較して、我々の優劣を求めようとしたんだぞ」

 おぞましい宮廷魔術師の歪んだ顔が更に歪んだ。しまった、という心の舌打ちが聞こえてきそうな表情だった。

「ようやくわかったようだな」

 トゥーラルは苦々しげに頷いた。

「そうですな。そもそも比較の対象としては不適切でした」

「子供は大人に比べて愚かな間違いをしがちだが、だからと言って、大人と子供を同列に評価して優劣を比べることが公正であるとは言えまい」

「全くその通りですな」

「その一方で、今の俺と君を比較するのは適切だ。誤りを犯して気づかない君と、それに逸早く気づいて指摘した俺は、どちらが愚かかな」

「……私ですな」クラートンは悔しそうに答えた。「今度は勝ったと思ったのですが……」

「だから君は詰めが甘いというのだ」ぴしゃりと斬り捨てた。「破綻した論理を持ち出すべきじゃなかったし、持ち出してしまったなら相手より先に気づいた上で、相手が気づく前にとにかく負けを認めさせてしまうべきだった。そうすれば、今度は相手が破綻した論理で丸め込まれた馬鹿に成り下がる」

 悔しげな顔で聞いていたトゥーラルは、はっと何かに気づいたような顔になった。

「兄弟子、一つよろしいですか」

「許可する」

「私は別に、人の優劣を訊ねたわけではありません。そう聞こえてしまったかもしれませんが、私は単に、失敗そのものの優劣を持ち出しただけです……いえ、そもそも、あなたが話をすり替えたのでしょう」

「なるほど、君が言うんならそうかもしれない。可能性はある」スナーは唇を微笑の形に歪めた。「だが、君は既に認めてしまった。もう遅い」

「……例の、相手が気づく前に、という奴ですか」

「さて、どうだろう」肩を竦めて話を打ち切り、ふと思いついた疑問を口にする。「ところで、ゼイルと言えば、今回、学院は絡んでいないのか。協会が完全に排除されたことは知っているが……」

「おや、ご存じないのですか。学院と連絡を取っておられないので?」

「面倒だから、緊急時や必要時以外は一切の連絡を断っている」

「今回は必要時ではなかったのですか」

「必要ではあるだろうが、藪蛇になっても面倒だからな、わざと確認せず曖昧にしておいた。『何も言われなかったので問題ないものと判断した』という奴だ」

「まさにあなたがお嫌いな官僚的論法ではありますが、賢明な判断ではありますね。誰も触れなければ気づかぬふりもできましょうが、誰かが触れてしまえばもう素知らぬふりはできません。もっとも、今回に限れば、特に何もないはずですが」

「それに、学院の連中だ。あいつら、普段は俺のことを死んだ者のように扱っているくせに、こっちから顔を出せば厄介事を押しつけてくる。今回だって、確認の連絡を取れば、また何か無理難題を言いつけられただろうな」

「まあまあ、そう怒らずに」なだめるように手を振る。「ウェイラー先生、ウェルグナー先生、ゼイル兄弟子、そしてあなた。学院が誇る優秀な火消し役ではありませんか。学院はあなた方の功績を忘れていないのですよ」

「火消し役ね」スナーは冷笑した。「下水道管理人の方が適当だろう。俺達がどれだけ汚れ仕事をしたと思っている」

 苦々しい思いで過去を振り返る。学院から与えられた任務は彼の成長を大いに助けたが、その一方で、多くの煩わしいものももたらした。彼が関わる秘密を探って学院に対抗しようとする者や彼が果たした仕事の報復を求める者の存在である。彼が学院を出た直後などは特に酷かった。彼が学院の庇護を失ったものと解釈した連中が、自陣に取り込もうと接触してきたり、復讐を果たそうと襲撃してきたりした。その都度学院に報告して合同で対処する内、学院との繋がりが失われていないことを理解したのかそうした鬱陶しい連中の蠢動も治まったが、何かあればそういった勢力が動き出すかと思うと、スナーとしては全く悩ましい限りだった。

「言葉を選んだつもりですが、却って気分を害されたようですな。これは失礼」

「出来もしない配慮はいいから、本題に戻ってくれ。学院はどうしたんだ」

「協力の申し出がありましたが、宮廷魔術師団が却下しました。と言っても、完全に排除すると勝手なことをしでかすかもしれませんから、非公式の参加を許すということで手打ちとなりましたが。ミゼーリカルダンという修士が冒険者として参加しています。もうご存知かと思いますが」

 スナーは頷いた。

「あの未熟者だな」

 濁った眼が探るようにスナーをねめつけた。

「調整役に選ばれたと言っていましたが、本当なのですか。どうも信じられないのですが」

「だが、事実だ」

「私はあなたが出てくるものと覚悟していたので、彼女が訪ねてきた時にはびっくりしましたよ」

「宮廷魔術師団の権力を笠に着る君と互角に交渉する自信がなかったんでな。どうせ言いなりになるだけなら、俺である必要はない。適当な生贄を差し出すことにした」

「つい今し方私をやり込めた人の言葉とも思えませんな」

「単なる言葉遊びだから、言葉のやりとりでの敗北をすんなりと受け容れたんだろう。これが利害の絡む交渉ともなれば、言葉で勝ち目がないと見れば、他の方面からも攻めてきたはずだ。違うか」

 トゥーラルは不気味に微笑んだ。

「戦いには、何を措いても負けるわけにいかないものと、できれば勝った方がよいものと、決して勝ってはならないものがあります」

「それにしても、ミゼーリカルダンか」スナーは物憂く天井を眺めた。「あの程度じゃいてもいなくても一緒だ。学院はやる気がないのか。相手は導師級の屍霊魔術師で、競争相手は手練揃いだぞ。学院は俺や君が参加することを知らないんじゃないだろうな。シャーレイン・ラインツ学長は――ゼイルの奴もだ――あんな奴が俺達を出し抜けると本気で思っているのか」

 トゥーラルの笑顔が汚穢の魔王(グーリュー)に穢されたように醜悪さを増した。

「人員はこちらで審査したのですよ。最初、ゼイル兄弟子とトルカン屍霊魔術大博士の派遣を打診されましたが、却下したのです」

 かつて宮廷魔術師団は、魔術師協会と同様、魔術学院が政治に介入するための出先機関に等しかった。しかし、今は逆に、政治が学院に介入するための統制機関と化している。古巣の哀れな没落にスナーは堪らず嘆息した。

「形だけの参加しか許す気がない、と言うんだな。協会に至ってはあらゆる形での介入を勅命で禁じられたようだから、それよりましと言えばましかもしれないが」

「学院が本腰を入れて人を出してきたら、流石に戦利品の優先権がどう転がるかわかりませんからね」

「たとえばウェルグナー辺りが出張るようなら、出し抜かれるのは俺達だろうな。下手をすれば殺されかねない。あいつはそういう奴だ」

 妖術師よりも妖術師らしい大魔術師を引き合いに出したスナーは、それと共にかの偉大な魔術師に対する複雑な感情を惹起した。かの偉大にして邪悪なる老魔術師は、まず彼の魔術師としての成長を大いに助けてくれた恩人の一人である。しかし、その一方で、地位から言えば当然甘受して然るべき責任を回避して下の者に押しつけた唾棄すべき人物でもある。ウェルグナーはある意味スナーを売ったのだ。敬う心もあれば恨む心もある。それはサルバトンに対する想いにも似ていた。

 浮かんだ物思いを振り払うように話題を替える。

「……そういえば、あの人はそれで納得したのか。導師級の屍霊魔術師となれば、勅命で禁じてもどうにかして手を出そうとするだろうに、君達如きがどうやって黙らせたんだ。取引材料は? いや、そもそも、どうして最初に示された派遣人員にあの人が含まれていなかったんだ。席次から言っても、ゼイルよりあの人の方が適任だろう」

「幸いにもあの方は二月ほど前から実験のために東方に出かけておられます」

 相変わらずだ、とスナーは旧知の魔術師の近況に呆れにも似た感情を味わった。あの老人は彼が学院で安楽に暮らしていた頃と全く変わっていない。

 世界に叛旗を翻した大陸最高の魔術師ウェイラー・サルバトンに独力で抗し得る魔術師は、第二位の魔術師たるウストファルト・ウェルグナー大博士と彼らの兄弟弟子であり第三位の魔術師たるザロン・タールキン・ダルフルマン伯爵首席宮廷魔術師、そしてかつて魔術学院学長を務めたこともある第四位の魔術師たるジラオン・ブルレー・ルークス男爵純粋魔術導師しかいない。順位に諸説あって定まらない第五位以下では自分の身を守ることさえ危ういだろう。

 老魔術師の我儘が学院と宮廷に受け容れられる理由は、現在においては何よりもまず、サルバトン事件以前よりも一層増したその軍事的及び政治的重要性からくる。ゆえに順当に考えればウェルグナーは、可能な限り帝都即ち魔術学院に詰めて軽々しく動かず、それが無理であったとしても有事に備えて極力宮廷と学院の統制下に在るよう配慮する必要がある。しかしながら利己主義に凝り固まった大魔術師は、体制側の譲歩が本末転倒の体を成すその瀬戸際まで、与えられた特権を濫用して自由に過ごしているのだった。何物にも縛られず、その一方で様々な援助だけはちゃっかりと受け取る。ある意味において、サルバトンよりもたちの悪い存在と言えた。少なくとも、サルバトンは味方面などしていない。ウェルグナーを「帝国の癌」の一つとして挙げる論者の言葉は決して単なる誹謗中傷では片付けられない。スナーもまた、ウェルグナーは成し得る限り速やかに除かれるべきであると思っている。あれは一利と引き換えに千害をもたらす存在なのだ。

「そうか。あの妖怪爺は留守か……誰か連絡しなかったのか。知らせが届けば、星幽跳躍でもなんでもして蜻蛉返りしそうなものだが」

「先生は星幽交信を駆使して交渉に参加しました。ある程度揉めはしましたが、畏れ多くも皇帝陛下の仲立ちを賜り、こちらとあちらで合意に至りました。差し当たりウェルグナー先生は介入せず、接収した資料の扱いは後日、団と学院で協議して決定する、と」

「それは運が良かったな。帰ってからが怖そうだが。問題の先送りに過ぎないぞ、それは」スナーは呆れを隠さなかった。「楽観的に過ぎる。あの化け物爺が遠慮などするものか。めぼしいものを根こそぎ持っていかれても知らないぞ」

「私に言われても困りますな」主任宮廷魔術師は肩を竦めた。「生憎と私が決めた方針ではないので。首席閣下はどうにか切り抜ける自信がおありの様子ですよ」

 スナーは嘲りの形に唇と頬を歪めた。

「ウェルグナーと首席殿はベルトン・アベリボイエン門下の同期だったはずだが、まさかそれを当て込んでいるんじゃあるまいな。あの老人が本気になった時、その程度の繋がりが何の意味を持つものか。あれは家族だって構わず切り捨てる男だぞ」

「さて、どうでしょうね」

 トゥーラルの謎めいた微笑から、宮廷魔術師団が何らかの計画を持っていることと、それを自分などに明かす気が欠片もないことをスナーは察した。

「ところで、ウェルグナーは何の実験をするんだ。何か聞いていないか」

「聞いたところでは、何でも、屍霊魔術と精神魔術の実験だそうで。材料を現地調達して、あれこれと手広くやってみるつもりとのことですよ。まあ、あと数ヶ月は戻らないでしょう」

「現地調達と言うと、亜人とルーヤ人か」

「或いは不運な落伍兵をも。流石に入植地には手を出さないと思いますが……いや、所詮は囚人と債務者が大半。それに少しばかり手をつけたところで、ウェルグナー先生ほどのお方が処罰されることなどありえませんな。亜人か蛮人の仕業として片付けられることでしょう」

「……何にせよ、またどこかの集落がいくつか消えるんだろうな。流石に連中に同情したくなる。死ねば皆同じとはいえ、死に方にもいろいろとあることは確かだ」

「代わりに死者の集落が出来上がるかもしれませんよ。私は屍霊魔術に然程魅力を感じていないのでわかりませんが、あなた方にとって死者の街というのはなかなか興味深い研究主題なのでしょう」

「否定はしない。生前の行動を反復する都市の動き、自我を持つ死者達の現実受容、死者の集落と外部との関係性……いろいろと考えられる。しかし、西でも東でも屍霊魔術か。流行っているのかな」スナーは小さく笑い、師の陰口を叩く不謹慎な学生の態度で続けた。「片や妖術師、片や大魔術師。だが、どちらも本質的な違いはなさそうだ。ああいう連中を妖術師と言うんだとは思わないか」

「全くその通りですな。事実、御子教会もあの方には目をつけています。我々もある意味ではそうですがね」

「殺しても三日もすれば平然と生き返りそうなあの男をどう殺すつもりか見物だな。グルツとウェルグナー。化け物爺同士の世紀の対決だ。共倒れしてくれるとありがたいが、どうもあの連中がどうにかなる姿を想像できないな」

「まったくです。きっと我々が老いさらばえて死んだ後も、彼らは元気に争っているのでしょうな。一方は魔術の力で、もう一方は神の力で生き永らえてね」

 あまりの会話内容に嫌悪を催した風に表情を硬くするフィオナ達とは対照的に、兄弟弟子二人は実に愉快そうな顔で、冗談を言い合う友人のような態度で語らっていた。

 スナーはその流れから当然生じた疑問をトゥーラルに投げかけた。

「時にトゥーラル、こうして語り合っていて、一つ気になったことがあるんだが」

「なんでしょうか」

「最後に会った君は、もっと俺に対して険悪な態度を示していたような気がする。それどころか、こうして再会してからも、時間が経つにつれて感情が和らいできたように感じられる。星幽光を喰らいすぎて人格もやられたのか」

 トゥーラルの星幽体を彩っていた警戒心や対抗意識は、今やすっかり色褪せていた。或いは油断させるために隠しているのかもしれなかったが、スナーの勘はそうではないと告げていた。

「ご期待に沿えなくて申し訳ありませんが、頭の中身だけはなんとか守りきりましたよ」

「となると、純粋な心境の変化ということか。意外だな」

「私自身も意外な気持ちですよ、兄弟子」歪んだ口から流れ出たのは、うそ寒さを感じるほど穏やかな声だった。「私はあなたを嫌っていた……いや、憎んですらいた」

 フィオナとアルンヘイルがぎょっとし、向かい合う二人の高位魔術師を見た。レイも何事かに備えるように表情に鋭いものを滲ませた。

「知っていた」スナーは動じなかった。「だから、今日も君を警戒して『死の愛撫』を準備していた」

「それは気づかなかった」トゥーラルは冷や汗を拭うような仕草をした。「あなたが何かの発動に備えているのはわかっていましたが、そこまで過激なことを考えていたとは……あなたはまったく油断のならない人だ」

「油断などしていなかった奴がよく言う」

「できるものですか。あなたがしっかり杖を握っているのですよ」

「同じ言葉を返そう。君が杖を持っているのに、一人だけ素手になどなれるものか」

 兄弟子はくすくすと笑った。弟弟子も不敵に唇を歪めた。

 驚きから立ち直った様子のレイが怒りの表情でスナーを睨む。

「博士を殺すつもりだったのですか」

 非難は正鵠を射ていた。スナーは、弟弟子が不審な動きを見せたなら、魔術学院が博士以上の立ち会いなしで修士以下が実践することを禁じている屍霊魔術の高等技法を弟弟子に対して容赦なく用いるつもりでいた。相手が宮廷魔術師であり、それを手にかけることが帝国に叛旗を翻すに等しい行ないであることも、この際気にしてはいられなかった。彼やトゥーラルほどの高位魔術師ならば、瞬きする間に致命的な惨事を引き起こし得る。五体満足でいたければ、怪しいと思った瞬間に無力化するしかない。たとえ後にどれだけの禍根を残すことになろうとも、今が駄目になれば後も先もないのだ。

「控えなさい、レイ」

「俺達が傷つかないためならば、君達の命くらい安いものだ。俺の平穏のために死ね、トゥーラル・クライムス・クラートン、シェリル・レイ」

 トゥーラルが忠実な愛人を叱責し、スナーは冷たく答えた。

「スナー、いくら親しい仲とはいえ――」

「はいはい、ちょっと黙ってなさいね。この程度のことで一々目くじら立ててたらきりがないわよ」フィオナがスナーに詰め寄ろうとするのをアルンヘイルが押さえて止めた。「ごめんなさいね、博士様。うちの若い子が口を挟んで失礼したわ」

「ですが――」

「気にしなくていい」トゥーラルは軽く手を振ってフィオナとアルンヘイルを制すと、笑顔にも顰め面にも見える複雑な表情を浮かべて兄弟子に視線を戻した。「それにしても、相変わらず物事の優先順位がきっちりしていますな。人の情の有無を疑いたくなるほどです。とどのつまり、バーガルミルやゼイル兄弟子と同じで、あなたもウェイラー先生やウェルグナー先生と同種の人間ということですな。情はあれども、それは通常の人々のそれと大きく在り方を異にしている」

「よせよ。あんな連中と一緒にするな。あんな気違い共と」

「狂人の群れに混じったまま正気を保ち続けるというのは、それはそれで異常なことだとは思いませんか。或いは、共に狂気に染まるよりも恐ろしいことかもしれませんよ」

「君ともあろう者がつまらない言葉遊びをするものだ。正気は正気、狂気は狂気だ。俺のどこがおかしい。俺は正気だ。何が大事かを見極めておかないことには、咄嗟の判断というものは成り立たない。それだけのことだ。多かれ少なかれ、みんなそうだろう」

「普通はあなた達ほど極端ではないのですよ。あなた達は、大事なものとそうでないものへの対応の落差が大きすぎる。大事なもの以外に無慈悲であることは、結局のところ、その人の本質が冷酷非情であることを意味するのではないでしょうか」

「それでも、あいつらよりは人間味があるつもりだ」スナーは不快そうに手を振って話を打ち切った。「さて、それよりも、さっさと最後まで聞かせてくれ。俺が嫌いだったとか言っていたな」

 述懐するような調子で、トゥーラルがゆっくりと言葉を吐き出す。

「……私はあなたが憎かった」

「それも聞いた」

「私があなたに優っていたとはっきり言えるものは、容姿や才能、家柄、財産といった、持って生まれたものばかりでした。自ら手にする以外に得る方法のないものは、残らずあなたに負けていた」

 フィオナとアルンヘイル、それにレイも、固唾を呑んで異貌の宮廷魔術師の告白を見守っている。平然としているのは直接の聞き手と語り手、そして万事に無関心なラシュタルだけだった。

 トゥーラルは静かに言葉を継ぐ。

「それでも、あなたが貴族であれば、そうでなくとも名家の出であれば……いえ、そのように感じさせてくれるだけの品位と礼節に満ちた振る舞いを見せ、私を貴族として扱ってくれていたなら、諦めがついた。これだけの人物ならば自分の上に立つのもむべなるかな、と納得がいった。そう、ゼイル兄弟子のように振る舞ってくれていたなら。あの人は『氏素性以外は全く貴族のようだ』と言われるほど、貴族的に振る舞っています。きっと、大半の貴族よりも貴族らしいでしょう。ですが、あなたはどこまで行っても平民だったし、貴族である私を魔術師としてしか見ていなかった。だからこそ、私はあなたを好きになれなかったのです」

「それも察しがついていた」

 臆面もなくスナーは言った。

「それなのに態度を変えなかったということは、もしかして、あなたも私を嫌っていたのですか」

 スナーは首を振った。

「鬱陶しいとは思っていたが、嫌ってはいなかった。ただ、そこまでするほどの価値を君に認めていなかっただけだ。まあ、俺も若かったということだ。もし今の経験を保ったまま過去に戻ったなら、また違った接し方をするだろうな」

「……いやはや、あなたには敵いませんな」トゥーラルは苦笑した。「ともあれ、私はあなたが嫌いだった。憎かった。疎ましかった」

「過去形ばかりだな。今は違うとでも言いたげだ」

「不思議なことにそうなのですよ。と言っても、理由は大体わかっていますが。今の立場ですよ」

「宮廷魔術師の地位に立ってみたら、地べたを這いずる俺など、もう虫けらにしか見えなくなったか」

「そういうものが根底にあるのかもしれませんが、私は違うと思っています。あなたにこうして再び会うことで気づきましたが、確かに私は――私自身が何も持っていないがゆえに――あなたを妬んでいました。ですが、今は違う。私は実力と決断で今の地位を勝ち取りました。もう空っぽの男ではない。中身のある男として、私はあなたの前に立っている」トゥーラルは感慨深そうに続けた。「……きっと私は、あなたの前に、何恥じることなく対等の存在として立っていたかったのでしょうな」

「くだらない願いだ」スナーは冷ややかに切って捨てた。「元々、君は俺の前に立っていた」

「私はそう思っていませんでした」

「それで、願いは叶ったのか」

「ええ、そのようです」

 トゥーラルは立ち上がった。レイが続く。

 スナーは立ち上がった後輩をじっと見上げた。

「帰るのか」

「そのつもりです。私も出世したもので、魔術師達の指揮を執らねばならないので、これでなかなか忙しいのですよ。今も近衛大佐や部下達に無理を言って出てきたのです」

「ああ、待て。一つ訊きたいことがある」

「お答えできることにはお答えしますが、私は忙しいのです。手短にお願いしますよ」

 トゥーラルは面倒臭そうにスナーを見下ろした。

「例の森を囲む星幽結界のことだ。あれはどの程度こっちに仕様を明かしてくれるんだ」

「ミゼーリカルダンに渡した文書に書いておきました。ここで伝えるのでは二度手間です。どうぞ、ご自分でお確かめください。その上で不足があるようならば、改めてお訪ねください。そこでご質問に応じましょう」

「ケチ臭いことを言うものだな。あらましくらい教えてくれてもいいだろう」

「それを言うのであれば、あらましくらい、教えなくてもいいでしょう」

「芸のない返しだが、まあいいだろう。ここは引いてやる」矛先を転じる。「しかしだ、最初に伝えてこなかったのはどういう了見だ。明かせるものなら始めから明かしていれば手間はかからなかった。ついでに言わせてもらえば、どうしてこんなに時間がかかった」

「二つの問いの答えは一つ。近衛大佐の判断ですよ」

「どういうことだ」

 その一言でスナーは事情をおおよそ察したが、敢えて詳細を求めた。彼は経緯と責任を明確なものとして、他ならぬ宮廷魔術師の分遣隊の責任者の口から聞いておきたかった。

「まず述べておきますが、作戦の主導権はあくまで兵団にあり、宮廷魔術師団はそれを補佐すべく部隊に配属された司令部の一部署に過ぎません。ですから、我々が他組織と直接連絡を取ることは基本的にありません」

「全ては兵団司令部の責任です、私は悪くありません、ということか」

「要するにそういうことです」とトゥーラルは笑い混じりに頷いた。

「まず責任逃れから入るのか。官僚主義に大分毒されたようだな。それで、近衛大佐はどういう事情で俺達に情報を伏せようとしたんだ」

 トゥーラルがスナーの厭味を無視して答える。

「近衛大佐は口の軽い冒険者達に宮廷魔術師の技術を明かすのを最後まで躊躇っていました。ひょっとすると、今でも後悔しているかもしれません」

 事もなげによこされた返答に、直接の聞き手ではないフィオナ達が不愉快そうに表情を険しくした。それを横目にスナーは渋面を作る。

「気持ちはわかるが、特に俺みたいな魔術師はそれじゃ困る。何と言っても、魔法使いを封じ込める結界の中に飛び込むんだからな」

「私も魔術師ですから、そのお気持ちはよくわかりますよ」

 トゥーラルの声音には持つ者の余裕が漂っていた。スナーは反感を覚え、何か言い返してやろうかとも思ったが、そろそろ言葉遊びにも飽きがきていた。口に出しかけた言葉を呑み込んだ。

「まあいい……とにかくだ、近衛大佐の仕打ちは憶えておくが、構わないな」

「ご随意に。もっとも、私もフェル・シュインハル近衛大佐とはそれなりの付き合いをしておりますので、叶うことならば、近衛大佐が苦難に見舞われるところは見たくないものです」

 遠回しな警告にスナーは鼻を鳴らした。

「君は俺を何だと思っているんだ。この程度のことで軍に喧嘩を売るわけがないだろう」

「無論、そうでしょうとも」いかにも恐縮した風に、トゥーラルは毛のない頭部に手を添えた。「ですが、認識を語っておくのは決して損にはなりますまい。どうか、ご記憶いただきたく」

「君と言い、ゼイルと言い、もう少し直截な喋り方ができないものかね。君達と話すのは疲れる」

「こればかりは性分ですから」トゥーラルは小さく笑い、首を傾げる。「さて、質問はもうよろしいですか」

「そうだな……まあ、いいだろう。手間を取らせたな」

「いえいえ。有意義な時間でした。では、私はこれにて」

「扉まで見送ろう」スナーも立ち上がった。「外までは勘弁してくれ。君とあまり親しいと見られると厄介なことになりそうだ……というのは、君に対してはわざわざ説明するまでもなかったか」

 トゥーラルが笑って頷く。

「権力者に近づきたがる者は、まず権力者に近い者に近づこうとするものです。もっとも、こうして私があなたを訪ねた時点で手遅れかもしれませんが」

「それでも、仲がいいと見せつけて回ることもない。精々、不機嫌な顔で出ていってくれ」

「慎重ですな。その割に無謀な行ないも目立ちますが。どちらがあなたの本質なのでしょうな」歯並びに対応するように歪んだ顎に手を添えてくすくす笑った後、僅かの躊躇いを挟んで言葉を継ぐ。「……最後にお願いがあるのですが、聞いていただけますか、スナー兄弟子」

「内容による」

「私と握手をしてほしいのです」

「『死の愛撫』の意趣返しでもするつもりか」

「ご心配なく。最早、あなたへの憎しみは消え去りました」

「心の奥に引っ込んだだけかもしれないぞ」

「いずれにせよ、今、あなたと事を構えるつもりはありません。何に誓ってもよろしい」

「誓いというものは、どんなものであれ、破られる時には破られるものだ。嘘だと思うなら、適当に歴史書でも開いてみろ」鼻で笑い、手を差し出す。「だが、そこまで言うんだ、握手くらいはしてやろう」

「ありがとうございます」

 トゥーラルは右手の手袋を取った。仲間達が息を呑む音がした。スナーも面喰らい、思わずまじまじとその手を眺める。

 露わになった右手は光沢のある鱗に覆われていた。まるで蜥蜴人の手を切り取って繋いだかのようだった。スナーは学院の地下実験場に繋がれていた継ぎ接ぎ人の歪な姿を思い出し、小さく眉を顰めた。生体移植や異種合成、異種交配実験の産物のおぞましさは、高位魔術師と呼ばれる身であっても、意味もなく掘り出したい記憶ではない。

 スナーの反応に満足した様子で異形の魔術師が笑った。

「驚きましたか」

「率直に言って物凄くな。これも魔術の反動か」

「そうです」醜い顔が挑戦的に歪む。「この手を握るのはお嫌ですか」

「確かめておきたいことがある」

「なんでしょう」

「その鱗に触ると肌が削られたりはしないか。毒液を分泌していたり、呪詛を含んでいたりといったことは?」

「ありませんよ。乙女の柔肌に傷一つつけない手です」

 トゥーラルは意味深な視線をシェリル・レイに向けた。

「それを聞いて安心した」スナーは異形の手を取った。その手触りは意外と悪くなく、日蔭で冷えた石のように爽やかで涼やかだった。「思ったよりも悪くない手触りだな」

 鱗の主は驚いたように繋がれた手を見下ろしたが、気を取り直したように握り返してきた。

「お褒めに与り光栄の至り」それから手を離す。「では、我々はこれで。御武運をお祈りします」

「何にだ」

 スナーは笑い混じりに訊いた。

「無論、何かに。祈るべき神も救ってくれる神もこの宇宙にはおりませんので」

 トゥーラルは微笑を浮かべて答え、踵を返した。扉へと歩くその途中で不意に立ち止まる。

「何か忘れ物か」

 醜い魔術師が肩越しに振り返った。

「ええ、言い忘れたことが二つほど。内、一つはたった今気づいたことです」

「さっさと言え」

「まず、言いそびれていたことから話します。ミゼーリカルダンのことです」

「あの修士がどうしたんだ」

「私の見た限り、彼女は交渉人としても魔術師としても二流三流もいいところですが、油断しない方がいい。振る舞いはどちらかと言えば軽率で短慮ですが、彼女の場合、それが却って脅威ともなり得る。あの星幽体の質に見覚えはありませんか。そう、我々のよく知る人物の中に、あなたは見たことがあるはずです」

「……ゼイル」

 ミゼーリカルダンの星幽体には、向上心とも上昇志向ともつかない強烈な欲望が渦巻いていた。その有り様は、地位を高め、発言力と影響力を強めることを強迫的に熱望する秀才魔術師のそれに酷似していた。

「だが、ゼイルはゼイルでも、あれは無能なゼイルだ。奴本人が相手なら尻の毛まで毟られかねないが、あいつ程度なら、やり込められても取られて困るものだけは守れるだろう。最悪の場合にはそれなりの手段を取ればいい。違うか」

 トゥーラルが冷めた眼差しを返す。

「……食い下がる愚者のまぐれ当たりにはくれぐれもご注意を。案外、思わぬ一撃を喰らうかもしれませんよ。どういうわけかあの手の人物は、個人の能力を超えた大きな偶然、言うなれば運命のようなものを味方につけるものです。それに、あれは指し手ではないかもしれません」

「何が言いたい」

「いっそこう言いましょう、あれは指し手を装った駒であると。駒を侮ると危険ですよ。何しろ、最弱の歩兵でも指し手次第で元帥や導師――ひいては皇帝――を獲り得るのですから」

 その声は確信に満ちていた。

「なら、指し手は誰だ。ゼイルか、トルカンか。ウェルグナーでもない限り、怖くはないぞ」

「ゼイル兄弟子かトルカン大博士――おそらく前者――だと思いますが、なぜそう言いきれるのです」

「まともな神経の持ち主は、俺に多少の――つまり捨て置いて問題のない程度の――嫌がらせはしても、喧嘩を売るような真似はしない」

「ゼイル兄弟子はその条件に当て嵌まらないのでは? あなた達は決して良好な関係ではなかったはず。いえ、仮にそうだったとしても、例の一件で台無しになったはずですよ」

 スナーは忍び笑いを漏らした。

「兄弟子?」

「まだまだわかっていないな、奴の……いや、俺達のことを」

 サルバトン事件以後も接触する機会はあっただろうに、トゥーラルはゼイル・ガウディアスという男のことを今一つ理解していないようだった。

「兄弟子達のことを、ですか。それはまた、どういった意味です」

「あいつが指し手なら、尚更警戒は要らない」

「その心は?」

「まず、あいつが俺を潰す気なら、もう足掻いても無駄だ。この段階でもう包囲は終わっている。あとはいつ首を狩るかだ」

 スナーの返答にトゥーラルが目を丸くした。フィオナ達も彼らしくもない弱気な発言に驚きを露わにしている。

「俺じゃ、一矢報いるのが限界で、結局はやられる。戦略的敗北は政治的勝利で覆し得るが、政治的敗北を戦略的勝利で覆すことはできない」

「卓見です。士官学校の兵学教官が務まるでしょう。少なくとも、今の教官連より余程適任です。最近の将校は戦術に対する戦略の優越は理解しているようなのですが、どうにも、軍事に対する政治の優越を理解していなくていけません。そんな将校が軍の中枢を占めるようになれば、帝国も長くないでしょう」物憂い言葉の後、面白そうな視線をよこす。「それにしても、随分と弱気なご発言ですな」

「弱音を吐いた舌の根も乾かぬ内にそれを言うか」鼻で笑って答える。「あいつは魔術師としての腕前は俺に及ばないが、政治家としては一流だ。誰も気づいていないかもしれないが、あいつは魔術師じゃない。魔術を使う政治家だ」

「高く買っているのか、はたまた低く見ているのか……どうにも解釈に苦しむお答えではありませんか。ゼイル兄弟子はどう思われるでしょうな」

「高くも低くもない。ただ正当に評価しているだけだ。あいつの感想などどうでもいい」

「しかし、あなたがあのゼイル兄弟子をそこまで評価するのも意外なら、あの方が関わっている可能性を踏まえてなおここにいるのも意外ですね。兄弟子には仲間を道連れにしての自殺願望でもおありで?」

 スナーは鼻を鳴らし、半眼で弟弟子の顔を眺めた。

「失礼なことを言ってくれるものだ」

「では、実は逆転の秘策が?」

 トゥーラルの顔に好奇心が滲んだ。

「可能性と蓋然性の話だ。ゼイルが俺を陥れる可能性はあるが、蓋然性は無に近い」

「ほう、言いきりましたな」

「あいつは、俺を計画に巻き込む時は、手を組むか利用するかに限ると承知している……と言うより、俺とあいつが揃えばどんなことでもできて、逆に俺が関わる話から俺を除け者にするとろくでもないことになることを理解している。サルバトンの一件で、痛みと共に覚えたはずだ」

「これはまた大きく出たものだ。ですが、あながち間違いとも思えないのですから恐ろしい」

「事実、いがみ合っていた俺達だが、二人で取り組んだことは残らず成功させてきた」スナーは過ぎ去った日々に思いを馳せ、懐かしむように目を細めて小刻みに頷いた。「そして、別々に動いた時、その報いを受けた」

「今の学院の凋落ですか」

「それもある。だが、もっと卑近な話だ。俺達はサルバトンを取り逃がし、俺は安楽な立場を失い、奴は最高の協力者を失った。宮廷は競争相手になりそうな俺を排除してあいつに道を開いてやったつもりかもしれないが、実際は翼を奪って苦労を強いただけだ。俺に政治的野心はないし、ゼイルもそれを承知していたんだからな。あいつが研究の便宜を図ってくれるなら俺は喜んであいつを支えてやったし、あいつもきっとそうしただろうさ。望みがまるで重ならないがゆえの理想的協力関係だ」馬鹿にするように口の端を歪める。「……いや、そもそも、孤立させて囲い込むつもりだったのかな」

「首席閣下ならご存知だと思いますよ」肩を竦め、笑う。「しかし、そうだとすれば、ゼイル兄弟子にしては珍しい大失態ですな。まあ、振り返ってみればわからぬでもありません。学舎の抵抗から退去までの経緯のお粗末さは、ある意味では、あなた達の連携不足が招いたことですから。なるほど、少なくともそういう意味では確かに、ゼイル兄弟子はあなたを味方につけておくべきだった。しかし、あの兄弟子がその危険に気づかないはずがない。どうしてまた、ゼイル兄弟子はあなたに話を通しておかなかったのでしょうね」

「欲が出た。そう言っていた。あいつは俺と一組で見られるのを気にしていた。スナー・リッヒディートと一緒に力を発揮するゼイル・ガウディアスではなく、有能なゼイル・ガウディアスとして、一個の人間として評価される機会が来たと思うと、その誘惑に勝てなかった、と奴は言ったよ。魔が差したそうだ」

「わからないでもありません。それに、あの方らしいと言えばあの方らしい。自分らしさというものに、つまり自分自身に足を引っ張られるというのは、実力で高みに上り続けたあの人には何とも皮肉な結果だとは思いますが」

「あいつだけに言えることじゃない」スナーは腹立たしげに首を振った。「俺もだよ。俺は、あいつが何か企んでいたことにも、盛んに宮廷に出入りしていたことにも気づいていた。それをいつものことと思って放置した結果があれだ。今となっては詮無いことだが、俺が一声かけていたら、もっと違った形になっていただろうな。俺も人間関係への無関心さでしくじった」

「歴史に『もしも』は禁物ですが、その問題にはいささか興味をそそられますよ。兄弟子は、もしお二人のどちらかがその通りにしていたなら、どうなっていたと思いますか」

「そうだな……」少し考えてから答える。「もっと良くなっていたか、悪くなっていたかだな」

 トゥーラルが鼻を鳴らす。

「答えになっていないではありませんか」

「君達が迎えたのとは違った結果になる、と答えたんだ」

「私はその具体的な結果に関心があるのですがね。ところで、もしお二人が協力できていたなら、どういった対処をしていたでしょうか」

「サルバトンの暗殺。それが唯一にして最良の対処だ」

 率直な回答にトゥーラルは低く呻いた。正気を疑うような目を兄弟子に向ける。

「ウェイラー先生を殺す? 首席閣下と近衛の精鋭でも成し遂げられなかったのですよ」

「君達はやり方がまずかったんだ。状況もな。強い奴を確実に殺したければ、こちらに気を許しているところを不意打ちすべきだ。そこに気づけなかったところが、首席殿とゼイルの限界だな。対処する暇を与えて堂々と正面から突撃するなど、馬鹿のすることだ」

「それはあまりにも卑劣です。そもそも、曲がりなりにもあなたの恩師なのでしょう」

 フィオナが眉を顰めて口を挟んだ。ラシュタルは蔑むような眼差しを注いでいる。アルンヘイルだけがスナーへの賛同と二人の武人への呆れを示すように肩を竦めてみせた。

「絶対に勝たなきゃならない戦いで堂々も卑怯もない。恩師も宿敵もだ」すかさずぴしゃりと言い返し、トゥーラルに視線を戻して話を再開する。「不意打ちしていれば、あの時点でならば、俺とゼイルでサルバトンを殺せた。これは誇張や願望を抜きにした単なる事実だ。バーガルミルの死に様は知っているだろう。どんな魔術師だろうと、ある程度の質を伴った数や奇襲の前には無力だ」溜息の後を追わせるように言葉を吐き出す。「そして、ゼイルはそうするべきだった。あいつに欠点があるとしたら、単純な力押しで片づけられる問題は、小細工などせず素直にそうするべきだと理解していないところだ。単純なことを複雑に考えるから失敗するんだ、あの馬鹿は」

「粗暴な考え方ですな。しかし、道理には叶う」と頷き、話題を転じる。「それにしても、随分とゼイル兄弟子のことにお詳しいようですが、あちらもご同様なのでしょうかね。でなければ片想いということになりますが」

「俺があいつのことをあれこれ言える程度には、あいつも俺のことをああだこうだと言えるだろうな。君の言葉を借りれば両想いだ。気持ちの悪いことにな」

「なんとも複雑な間柄ですな。もっとも、強い信頼で結ばれていることだけは確かのようですが」

 信頼。トゥーラルのような男の口から出るにはあまりにも不似合いな言葉をスナーは鼻先で笑い飛ばした。

「手の内と利用価値を知り尽くしていて、相手を効率的に使い潰してやろうと企むことを信頼と言うのなら、俺達ほど強く信頼し合っている二人もそういないだろうな」

「まさしく好敵手といったところですか。しかし、気になることが一つ」

 スナーは視線で先を促した。

「なぜこうも親切にあれこれのことを教えてくれるのです。こうも詳しく語る必要はないはずですが」

「あいつへの嫌がらせだ」迷いなく即答する。「これで君達があいつを警戒すればそれでよし、あいつが進む道も多少険しくなるだろう」

「我々があなたの言葉を鵜呑みにするとお考えですか」

「しないのか」スナーはいかにも不思議そうに聞き返した。「多分、サルバトンを除けばこの世で一番か二番くらいにあいつのことを理解している人間の言葉だぞ」

 トゥーラルは口の端を吊り上げたが、ゼイル・ガウディアスの件についてはそれ以上論及しなかった。

「ともあれ」と話題を引き戻す。「ミゼーリカルダンには気をつけることをお勧めしますよ、兄弟子。人は駒ではありません。自らの意志を持ちます。戦棋とは違い、時には指し手の意図に背くこともありましょう」

 スナーは「ふむ」と顎を撫でた。

「奴自身の意志でかかってくるなら、それこそ退けるのは簡単だと思うが……一応、気には留めておこう。みんなも聞いたな。ミゼーリカルダンには気をつけておけ」仲間達に念押ししてからトゥーラルに視線を戻した。「忠告をありがとう、トゥーラル。これで一つ片付いたようなら、もう一つのことも聞こうか」

「それでは……大分話が変わりますが……あなたはさきほど言いましたね、スナー兄弟子。宮廷魔術師の地位が誇らしいのか、と。私は答えました。そうかもしれない、と」

「それで?」

「どうも、それも多分にあるようです。この晴れやかな、なんのわだかまりもなくあなたに接している今の心は、我々の住む世界が違うからこそかもしれません。あなたは最早、私の競争相手とはならない。そう思うから、こうして余裕のある態度で接することができるのかもしれません」宮廷魔術師は静かに言い、博士号それ自体に付随するものを除く一切の公的権力を事実上永遠に失った兄弟子を見据えて挑発的に笑った。「だから、兄弟子、もしあなたが私の住む世界に上がってきたとしたら、その時はわかりません」

 返事を待たずにトゥーラルは歩を再開し、今度は足を停めなかった。

「俺を脅す気か」スナーはごろつきが相手を威圧するのと同じような動きで軽く首を傾げ、どこか骨格の歪みを感じさせる背中をねめつけた。「粘土細工の分際で、戦場暮らしで度胸がついたようだな」

 振り向きもせずに軽く肩を竦める動作が返事だった。

 トゥーラルが把手を掴んだところで呼び止める。

「ちょっと待て。俺も言い忘れていたことがあった」

 振り返ったトゥーラルが口の端を吊り上げた。

「話が終わった、と相手が気を抜いたところに本題を持ちかける。古典的な手ですな」

「まあ、そう言うな。戦利品の扱いについて話をしたい」

「……それは冒険者の代表としてのお話ですかな、リッヒディート博士」

 トゥーラルの眼差しが鋭さを帯び、声が真剣な緊張を宿した。

「いや、俺個人として宮廷魔術師団と交渉したい」

 話し合う魔術師達の背後で、フィオナが疑問の声を上げそうになった。アルンヘイルが首を振ってそれをそっと制す。

 異貌の魔術師はもったいぶった調子で応じる。

「私の責任で裁量できる範囲で応じましょう」

「それで構わない」

 スナーは固まりそうになる表情を意識的に緩め、努めて平静を装おうとした。

「お伺いしましょう」

「まず訊くが、君達は何が欲しいんだ」

「欲しいと言えばあらゆるものが欲しいのですが、外せないものは研究記録と資料です」

「奇遇だな。俺もそれが欲しいんだ」

「残念ですが、お力になれそうもありませんな」

 トゥーラルが踵を返そうとする。それが相手の反応を誘うためのはったりに過ぎないことは、動きが極端にゆっくりであることから明らかだった。

「待て待て。そう結論を急ぐな。そういうことなら、一つ提案がある」

「手短に願いますよ」

「俺は原典に拘らない。手に入ったものの内、複製可能なものは残らず提供するから、そっちも複製可能なものを俺にくれ。どうだ、決して損にはならないだろう」

 トゥーラルの笑顔が不気味に広がった。

「兄弟子、あちらこちらの利害を調整する遊戯の指し手として、あなたもなかなかどうしてやるものですな」

「心にもないことを。くだらないお世辞はいい。どうせ君やゼイルには及ばないんだ」

「ご謙遜を」トゥーラルの醜い顔面に貼りついた笑みは揺らがない。「ウェルグナー先生への義理を果たしつつ、我々にも利益を与えて顔を立てる。それでいて、面倒事は全部ウェルグナー先生と私達に丸投げで、あなたは労せずして成果を手にする」

「その分、そっちの利益は多くなるんだ。おこぼれに与るくらいは大目に見てくれ。それよりも、返答を聞こう」

「私の一存でお渡しできるものについてはそれで構いません。それ以上については、兄弟子がこちらに何を提供してくださるかによりますな」

 宮廷魔術師トゥーラル・クライムス・クラートンは、やはり手強い相手だった。彼にそれ以上譲る気がないことははっきりしていた。

「兄弟弟子の誼みでどうにかならないか」

「釣り合った天秤を傾ける程度はしましょう。ですが、それ以上のことを期待されても困ります」

 スナーはトゥーラルの返答に一応の満足を得た。返答は、状況さえ許せばスナーに便宜を図る意思が彼にあること、即ち彼がスナーに対して取引上の悪意を抱いていないことを表明するものだった。

「俺が差し出したものは保証してくれるんだろうな」

「私に保証できる範囲において、でよろしければ。ものによっては私の一存ではどうにもならないのでね。流石に上の考えを無視することはできません。とにかく、まずは見せていただかないと」

 言ってトゥーラルは、七色蜥蜴の眼球の動きにも似た気色の悪い目配せをよこした。要件を直接語ることなく迂遠な表現を用いて婉曲的に意図を伝える政治外交的やりとりを仕掛けてきていることは明らかだった。

 スナーはそうしたやりとりを嫌っているが、便宜を図ってくれるという弟弟子の好意に応える意味を籠め、今回に限って言葉遊びに付き合ってやることにした。トゥーラルの言葉の裏に秘められた意味を察し、確認のための相槌を打つ。

「なるほど、見ないことには判断がつかないか」

「ええ。重要なことは我々にとっての価値の有無ですから、そちらで勝手に価値のあるなしを決めつけてしまうようなことは控えていただけるとありがたい。そうでないと、我々にとって価値のあるものが無価値なものとして処分される、不幸な行き違いが起こりかねません」

 スナーはすぐには答えられなかった。彼はトゥーラルの言葉の意味を計りかねていた。価値ある品の隠匿を勧めているのか、その逆で言葉通りの意味なのか、その点が曖昧だった。明確にすべく、水を向ける。

「もし不幸な手違いがあったら、君は困るか。困るだろうな」

「そうですな、価値のある品を手に入れ損ねるようなことがあれば、上からの評価に響くかもしれません」

 この言葉でスナーは弟弟子の考えを概ね察した。トゥーラルは、多少の横取りは大目に見るが、一定の線を超えることを許す気はないと言っている。

 これ以上の譲歩は見込めそうもない。トゥーラルが自発的に譲るはずがないし、強制的に譲らせる力はスナーにない。ここが落とし所だとスナーは納得した。

「俺としても、弟弟子の出世の邪魔をするのは本意じゃない」

「お心遣いに感謝します」

「なら、この不毛なお遊びももうお開きでいいな」

「お付き合いいただき、ありがとうございました」

「楽しめたか」

「正直に答えても?」

「……答えなくていい」

 歪んだ顔に浮かんだ悪魔的微笑が既に答えとなっていた。

「では、こうした遊びはやはりゼイル兄弟子のような方とする方が楽しめる、とだけお答えしておきましょう」

「答えなくていいと言ったぞ」不満に喉を唸らせる。「……まあ、君の見解はわかった。ひとまずはそれで十分だ。それを念頭に置いて振る舞うとしよう」

「お互いのために、是非そうしていただきたい。お話は終わりですか」

「ああ。助かったよ」

「しかし」と不意に首を傾げ、トゥーラルが流れを振り返るような態度で疑問を表明する。「要求がこの程度のものなら、素直に調整役に志願していればよかったと思うのですがね。事実上、こちらが失うものなどないのですから、すんなりと成立していたはずですよ」

「俺は未だに君に嫌われていると思っていた。だから、この程度の要求さえ通るまいと判断した。それどころか、接触することで、却って嫌がらせをされるんじゃないかと危惧もした。だから会うこと自体を避けた」

「私がミゼーリカルダンを通じて仕掛けるとは考えなかったのですかな」

「そうだとしても、その時俺の前にいるのは君じゃない。ミゼーリカルダンだ。奴を退けて反応を見るのもそう悪い手じゃないだろう。少なくとも、最初から危険に飛び込むよりはましのはずだ」

「確かに悪くない手でした。しかし、結果を見れば決して良い手ではありませんでした」トゥーラルが勝ち誇った顔で応じる。「いずれにせよ、試しもせずに諦めたのは愚かというものでしたな。おかげでこんな回り道をすることになった」

「まったくだな。一門の流儀はなんのかんのと言っても結局真理を含んでいた」

「たまには初心に帰るべきですな。そのたび、最初に教わったことの正しさを思い出せる。さて、それでは今度こそ失礼します」と告げてから、少し躊躇う素振りを見せ、それからゆっくりと口を開いた。「……と言いたいところですが、状況が少し変わりました」

「変わったと言うと?」

 スナーは少しでも裏を読もうと、トゥーラルの判別しがたい表情を観察した。醜い顔に悪意や敵意の色はなかった。

「そう警戒しないでください」苦笑して肩を竦めた。「元々はちょっと話をするだけのつもりだったのですが、予定外にあれこれの約束が決まったので、そうするわけにもいかなくなったのです」

 スナーは黙って説明の続きを待った。

「これを」とトゥーラルが懐から小石ほどの記録宝珠を差し出した。

「何だ、これは」

 受け取った宝珠をつまみ上げ、目を眇めて下から覗き込む。薄く青みがかった球体の中に、不活性状態の星幽光が眠りに就いているのが見えた。

「交信領域の座標を記録してあります。私的なものの一つで、あなた以外には教えておりませんから、外部に交信内容が洩れる虞はありません。何かあれば、そちらにご連絡を。私も多忙の身なので、おそらくは会話ではなく星幽書簡を残していただく形になるでしょうが。とはいえ、交信はなかなかに疲れるもの。連絡は軍の規則に準じる形、つまり、緊急または不可欠のものに限っていただきます。それ以外は書簡か面会か伝令で、ということですな」

「それはいいんだが、こいつは封印してあるんじゃないか」

 スナーは掌の上で宝珠を転がした。彼は長年の習慣から半ば無意識的に中身を読み取ろうとしていたが、情報として保存された星幽光を活性化させることができなかった。封印技法により、活性化させるための意志の火花が阻まれていた。

「防諜のためです。いよいよとなれば領域を破棄してしまえば済むことですが、それは強盗に襲われたら財布を渡せば済む、勝てない敵には降れば済む、と語るのと同じこと。最後の選択です。そうならないために、事前に打てる手は打つのが道理というもの。ですから、兄弟子も管理には重々お気をつけください」

「それはわかる。俺が訊きたいのは、どうして解いてから渡さないのかだ。嫌がらせか」

「ちょっとした試験と思ってください。その程度の解析もできないような方に、こういったものを託すわけにいかないのでね」

「トゥーラル・クラートンの分際で俺を試そうというのか」スナーは渋面を作ってトゥーラルの顔を見据えたが、やがてふっと肩と顔から力を抜いた。「……まあいい。暇潰しには丁度いいさ」

 トゥーラルは殊更に満足げな微笑で応じた。

「ご理解いただけたようで何よりです。ところで、兄弟子の交信領域座標を伺ってもよろしいでしょうか。我々もようやく関係修復……いえ、まともな関係構築が始まったのですから、今後も何かと連絡を取り合うこともあるかもしれません」

「ない」

「は?」

 トゥーラルが目を丸くして聞き返した。

「ない、と言ったんだ。俺は元々、その手の付き合いが鬱陶しくて嫌いだった。交信領域の維持にも手間がかかるからな。そういうわけで、学院を出る時に、学院からの緊急連絡を受け取るためのものだけを残して他は消した」

「思いきったことをしたものですね。しかし、そんなことをしていただなんて知りませんでした」

「つまりは、それが噂にもならないほど、俺の交際範囲が狭かったということだ。人脈を作るために人脈を作っていたようなゼイルと違って、俺は非社交的でね」

 トゥーラルは苦笑らしき笑い声を立てた。

「まあ、それも一つの生き方ではあるでしょう。さて、そういうことであれば、もうお話しすべきこともありません。お暇させていただきますよ」

 スナーが頷くと、トゥーラルは一同に会釈し、レイを従えて部屋を出た。

 レイが扉を閉め、室内に静けさが戻った。

 スナーは仲間達の方を振り返った。ラシュタルは既にベッドに戻っていた。フィオナとアルンヘイルは安堵した様子で佇んでいる。

「すまないな、長々と二人で話し込んでしまって。退屈だっただろう」

 アルンヘイルが深く息を吐いた。

「退屈の方が万倍ましよ。あんた達、もうちょっと仲良くお喋りできないの? いつ喧嘩が始まるか、気が気じゃなかったわよ」

「そうですよ」フィオナも一緒になって責めるような表情を向けた。「二人はそれで納得しているのでしょうが、傍で聞いている身としては、一体どうなることかと心配でなりませんでした」

「心配をかけたことは謝るが、実際、俺達はああいう風にしか話せないんだから仕方がない」

「開き直ってるんじゃないわよ」

「……今度からはなるべく穏やかに話すように努めてくださいね」

「努力はしよう」

 スナーは肩を竦め、トゥーラルの記録宝珠の封印に挑み始めた。


 旅の止まり木亭を出て、敬愛するトゥーラル・クライムス・クラートンと共に夜の街路を歩きながら、シェリル・レイは釈然としない気持ちを抱えていた。

 彼女には、スナー・リッヒディートの態度が赦せなかった。そのような態度を許しているトゥーラルの考えも理解できなかった。

 当時、リッヒディート博士がトゥーラルよりも魔術師として優れていたのであろうことはわかる。今でも純粋な魔術師としての力量は――口惜しいことに――リッヒディートが勝っているらしいこともなんとなくわかる。トゥーラルがそのことを気にしていることもわかる。リッヒディートが彼女を含む一門と学院を救った恩人であることもわきまえている。

 しかし、一体いつまで引きずるつもりなのか、とも彼女は思う。優れていることは認める。恩人であることもその通りだ。だがあの男はそれを笠に着て、魔道士の称号を持つ宮廷魔術師を相手に、対等に振る舞うだけならばまだしも、ああも尊大に接していた。シェリルにはそれが信じがたく、また赦しがたかった。

 しかし、甚だしい侮辱を受けたはずのトゥーラルは、憤慨するどころか、却って満足そうな顔をしている。まるでそうした態度で接されることを望んでいたかのようだ。

 シェリルには全く理解不能な態度だったが、本人が喜んでいるらしい以上、彼女が騒ぎ立ててはそこに水を差すことになる。彼女は不本意ながらも、年上の恋人が何らかの満足を得たことを喜んでおくことにした。

 向かいから、酒場帰りと思しき青年の一団が歩いてくるのが見えた。シェリルの脳裡に嫌な予感が閃いた。

 その正しさは直後証明された。トゥーラルの姿を認めた途端、青年達は酔いが醒めたように蒼褪め、化け物に出会ったかのような悲鳴を上げて、こけつまろびつ逃げ出したのだ。彼らのような俗人は、根本的に魔術師を危険人物と見做しており、変異を遂げた魔術師に至っては亜人か悪魔と同じように見ているのである。

 帝国の功労者にして偉大な魔術師である男への非礼に我慢ならず、シェリルは思わず彼らを呼び止めて叱責しようとしたが、トゥーラルがその華奢な肩を掴んだ。

「よせ」

「でも……」

「必要ない。怖いと言う者には恐れさせておけばいい。私の周りには恐れずに接してくれる者達がいるのだから、それで十分だ」

「……わかったわ、トゥーラル」

「外ではクライムス・クラートン博士と呼べ」

 優しく言ってトゥーラルは微笑み、また歩みを再開した。

 少し遅れて続きながら、シェリル・レイは、街灯に照らされて夜闇に浮き上がる白い顔を暗く翳らせて思った。

 恐れない者達には、あのスナー・リッヒディートも入っているのだろうか、と。

次回、少し間が空くかもしれません。

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