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剣と魔法と怪物の物語  作者: 沼津幸茸
仮借なき探究
13/17

第六章(中)

 衝撃的な事実がもたらした熱が未だ引かず、迫る決戦の気配に自然と空気の湧き立つ昼。歴戦の冒険者であるフィオナ・カルミルス一行は精神的熱気に包まれた中でも平静を保っていた。彼らは英気を養うために飲食に励む冒険者達に混じって、吹き抜けの酒場でテーブルを囲んでいた。

 桶に盛られて湯気を立てる皮つきの丸芋を鷲掴みにしたラシュタルが、いかにも満足した様子で膨れた腹を撫でるスナーを眺めた。

「呪い師よ、明日からはしばらくまともなものを食えぬのだ。もっと食っておけ」

「そうだぞ、魔法使い。全くこの耳長の言う通りよ」ドルグフが骨ごと噛み潰した鶏肉を飲み下してから同意を示した。「お主のような軟弱者はまともなものを食える時に食えるだけ食っておくのがよいのだ」

「生憎、俺は君達と違って牛馬の胃袋は持っていない。これ以上食べたら腹を壊してしまう」

 スナーが応じた時、店に新たな来訪者があった。扉を開けて現れたのは、小綺麗な法衣を着た若い女祭司だった。戦神の祭司だ。法衣に輝く剣の意匠があり、腰には戦神の武器を模した厚刃幅広の剣を帯びているのでそれとわかる。

「あれは……戦神の祭司様でしょうか」フィオナは新しい登場人物に興味を引かれたようだった。「随分とお若いですね。私と同じくらいでしょうか。それに女性のようです。珍しい」

 戦神に祝福された若い女剣士は物珍しそうに言った。

 祭司の年齢は二十代半ばほどに見えるが、実年齢はその遥かに上と思われた。女祭司からはフィオナが受けたものと同じ、戦神からの祝福の気配が感じられるからだ。おそらく、若くとも三十歳は下らない。下手をするとスナーより年長である可能性もある。顔立ちは端整だがたおやかさとは無縁の力強い造りをしており、右頬を覆うように戦神の象徴である剣の刺青が施されている。体つきはフィオナをある程度女性的にしてから巨大化させたような筋骨隆々たるもので、男性的な美と女性的な美が程好く融合した印象がある。勇猛な戦神に仕える者にふさわしい、歴戦の戦士のそれと言える。戦神に祝福された星幽体には活力が漲っているが、決して荒々しいものではなく、霊山の如く静かで深みがあり、その内面を推し量るのはスナー・リッヒディート博士の目を以てしても難しい。

「いや、あれは君よりも年上、下手をすれば俺と同年代以上だな。君と同じで戦神の祝福を受けているようだ」スナーは相鎚を打ち、苦虫を噛み潰したような顔で続ける。「しかも、体つきを見れば君でもわかるだろうが、あれは君みたいな祝福だけの奴じゃない。戦神の侵蝕も進んでいる」

 星幽光に干渉する者は星幽光に干渉される。学理によって星幽光を操る者であろうと、天賦の才能を頼りに星幽光を弄ぶ者であろうと、神に見立てた星幽的存在から奇蹟を引き出す者であろうと、魔法を行使する全ての者はこの原理の下にある。

 女祭司の肉体に彼女が崇める神の影響が強く現れ出ていることは、火を見るよりも明らかだった。魔法の反動は行使した魔法の性質に沿う形で星幽体に襲いかかり、その影響はまず精神に、次いで肉体に現れる。その症状進行の基本順序を踏まえれば、彼女は単に祝福されただけでなく、既に取り返しのつかないところまで戦神に冒されてしまっていると結論せざるを得ない。

 強すぎる信仰心が彼女を神の奴隷に仕立て上げたのだ、とスナーは嫌悪感に表情を歪めた。信仰心。それが厄介なのだ。

 星幽光の性質を理解している魔術師の多くは、神経質な態度で絶えず自身の星幽体の状態を気にし、瞑想などの形で頻繁に変調を修正しようと試みる。よしんば、魔術的作業の必要上から自らの星幽体をより適した形に変成させる魔術師がいたとしても、その状態を恒久的なものにしようと考える者はまずいない。自分が自分でないものに変わってしまうことが恐ろしくて堪らないからだ。

 ところが、神の下僕を自称する者達は違う。奇蹟を求めることは神に染められていくことであると知りながら、彼らは人間の尊厳の破壊としてそれを忌避するどころか、むしろ神による過ちの矯正と捉えて熱心に求め、至上の喜びとする。魔術師の価値観からすれば麻薬に溺れるようなものだ。そしてなおたちの悪いことにこの麻薬中毒者達は、健康な者に麻薬を勧めて自分達と同じ存在となるよう仕向け、薬学に基づいて薬物を適切に取り扱う者を蔑む。同じ薬を用い、しかも自分達は濫用していながら、あやつらは毒薬を弄んでいると責めるのだ。

 配膳を終えた給仕が慌てた風な足取りで女祭司に近寄る。

「ブーロウ殿の許可を得ている」

 女祭司はそう言って手紙を差し出した。体格相応に太い一方で、女性的に透き通った不思議な声だった。

 給仕は手紙をざっと眺めると、脇に退いて女祭司を店内に通した。

「あれは教導祭司殿ではあるまいか」

 ドルグフが食器をテーブルに置き、敬意の籠もった眼差しを祭司に向けた。

「そうだろうな」スナーはその推測を肯定した。「見ろ、頬に剣の刺青がある。教導祭司の証だ」

 女祭司の顔に施された剣の刺青は、戦神に祝福された者だけが就くことのできる教導祭司の地位を示すものだ。

「おお、まさに」ドルグフが信仰心に輝く顔で頷いた。「教導祭司殿を間近で目にする機会に恵まれるとは有り難いことだ」

 俗世をさまよう英雄やその卵の導き手となるために世界を旅する使命を負った教導祭司は、未来の英雄を探すかのように店内を見回している。

 アルンヘイルが曖昧な目つきをした。

「まだ若いのに、凄いって言えばいいのかかわいそうって言えばいいのかわからないわね」

 教導祭司は、戦神教団でも特に優れた者、即ち、武勇に秀で、教義を過たず修め、何より戦士の模範たるべく戦神の祝福を受けた者のみが、大戦士長から課される厳正な試練の末に任命される位階である。その地位に就くために彼女がいかほど苛酷な修練を経てきたかは想像もつかない。

「いすれにせよ、関わり合いにならずに済ませたいものだな」

 しかし、スナーの率直な願いは叶わなかった。女祭司は彼らが座る辺りに目をやった瞬間、雷に打たれたようにかっと目を剥いて固まった。驚愕の面持ちでじっと一行を見た後、足早に近寄ってきた。その熱い眼差しは真っ直ぐ、フィオナにだけ注がれていた。

「私は戦神の教導祭司のシュレという」他の仲間達には目もくれず、シュレ祭司はフィオナの前に跪き、深い敬意と感動の眼差しで彼女を見上げた。「あなたはフィオナ・カルミルス殿ではないか」

「待て――」

「そうですが、私に何かご用ですか」

 フィオナはスナーが制止する暇もなくシュレ祭司の問いに頷いてしまった。

「やはりあなたが……」祭司は感動に震える声で問いを重ねる。「あなたは我が神の祝福を受けておいでではないか」

 酒場の酔客達が興味津々の面持ちで彼らの様子に注目を寄せた。

 スナーは舌打ちして顔を手で覆った。戦神の祭司がフィオナが受けた祝福に気づいて声をかけてくるのはそう珍しいことではない。だが、これほどの大物は初めてだった。今までは上手いこと切り抜けてきたが、今度は少し苦労することになるかもしれない。

 フィオナは答えようとして口を噤み、窺うような視線をスナーによこした。

 スナーは不快感を隠そうともしない声音で教えてやる。

「教導祭司殿は質問しているんじゃない。確認しているんだ」

「……確かにその通りです、祭司様」

 フィオナは静かに肯定した。

「おお、やはり! あなたの名を名簿に見つけたことは我が人生最大の幸運だった」シュレは無邪気な笑顔になった。「我が神よ、お導きに感謝致します」神への感謝の後、フィオナの顔をじっと見上げる。「あなたは導き手を必要としておられるのではないか。どうか、我々の許に戻られよ、我が神の愛娘、我が姉妹よ。私があなたの傍に仕え、標となることをお許し願いたい」

「申し訳ありませんが、そのお申し出をお受けすることはできません、祭司様」

「しかし、あなたは我が神の祝福を受けておられる。ならば、我が神の御心に沿う道を歩むのが道理というものだ」

「私は歩む道をもう決めております、祭司様。そしてそれは戦神の教えの下にはありません」

 物静かだがはっきりとした拒絶を受けても、シュレ祭司は引き下がる気配を見せなかった。なおも食い下がる。

「今からでも正道に立ち返ることはできる。どうか、闇の中をさまようのをやめ、光の下に戻られよ」

 フィオナは困惑も露わに、助けを求める視線をスナーに向けた。スナーは鬱陶しそうにシュレを眺め、口を開いた。

「祭司殿、よろしいかな」

 シュレが立ち上がり、突然口を挟んだ魔術師に不快そうな視線を向けた。

「あなたは?」

「あなたが必死に口説いている女の夫だよ」

「ご亭主か。口説くなどとはとんでもないことだ。そうは見えないかもしれないが、私とて女なのだ。誰かを愛するならば男を愛する」

 スナーは片眉を上げた。シュレがフィオナと彼とで露骨に態度を変えたことが癇に障った。しかし、穏やかな態度は崩さない。

「要するに行ないとは、あなたがどう思うかではなく、私がどう捉えるかではないかと考える次第だが、いかがかな」

「誤解を与えてしまったのであれば詫びよう。非は私にある。しかし、今は重要な話をしているのだ。どうか、ご理解をいただきたい」

 スナーはわざとらしい笑い声を立てた。シュレ祭司が眉を顰める。

「急にどうされたのだ」

「いや、何、教導祭司殿の冗談があまりにも面白かったもので、つい不調法な真似をしてしまった」

「冗談など言った覚えはないのだが……」

 教導祭司は困惑しているようだった。

「妻の一大事は夫の一大事も同然。夫には口を差し挟む権利と義務があるはずだ。それを真っ向から否定するなど、冗談としか思えない。それとも――まさかとは思うが――戦神は夫婦のそうした結びつきを認めておられないのだろうか」

 シュレも負けてはいなかった。威圧するような眼差しをスナーに向ける。

「勿論、我が神もお認めになっておられる。しかしながら、我が神の祝福に与って生まれたとあらば、我が神の子も同然。親と子の問題ならば、そこに夫とはいえ他人が口を挟む余地はあるまい」

「私は彼女の父を知っているが、到底、神には見えなかった。勇敢な騎士ではあったがね」

「では父が二人いるのだと考えられよ」

「我が姑殿が不貞の大罪を犯したと? なんという放埓(ケイオリーダム)かつ淫猥(シャルダーナラスト)悪意(マティアリ)に満ちた侮辱か! 撤回していただこう!」

 最大の否定的強調表現となる魔王の名を意味する上代語を三つも重ねて使い、スナーは吐き捨ててみせた。

 一般に発音も記述も避けられる邪悪な名前をいくつも耳にした聴衆の中には、ぎょっとして目を見開く者や非難の眼差しをスナーに向ける者もいた。

「そうではない」シュレ祭司は苛立った様子で声を尖らせた。「私が述べているのはそういうことではないのだ」

「無論、承知している。ともあれ、一度嫁げば女は夫の家に入るもの。そうでなくとも、妻が抱える問題ならば、それがなんであろうと夫婦は共に挑む義務がある」

「しかしながら、あなたの言葉を借りれば妻の実家からの使いである私に対する態度としては、いささか無礼の度が過ぎる」シュレは噛みつくように言い、肩まで袖をまくった。筋肉の束が浮き上がった丸太のような二の腕が露わになった。瑞々しい肌には剣の形をした大きな痣が見える。「それに何より、これこの通り、私もまた我が神に祝福を賜っている。言うなれば、私はフィオナ殿とは姉妹も同然。姉と妹の話には、いくら夫といえども、遠慮するのが道理ではないか」

 スナーはもう一度笑い声を上げた。束縛処置にしくじった未熟な魔法使いを見下ろす大悪魔のような声だった。

「これを無礼と言われるか。では、あなたの崇める神は、随分と器が小さく、道理を解さぬお方のようだ」

 フィオナとアルンヘイル、そしてドルグフが非難の声を上げた。ほぼ同時に上がった声は混じり合って空気を震わせ、判然としないざわめきとなった。

 ドルグフの非難は純粋に不敬を咎めたものだろう。だが、フィオナとアルンヘイルは違う。スナーをよく知る二人の女は、翻意することの有り得ない信仰心篤き聖職者を止めるには殺害しかないと彼が確信していることと、彼が相手を心底から怒らせることを厭わないのは往々にして相手を後腐れなく始末可能と判断――或いは勘違い――した時であることを理解している。

 そして事実、スナーはシュレ教導祭司とやらを葬り去る気でいた。戦神教団には「剣の審判」と呼ばれる特有の審判儀式が存在する。伝統的な決闘裁判の体裁を取るそれは、主張や行為の是非を巡って行なわれる。彼は激昂したシュレ教導祭司がこの形式での決着を求めてくるのを待っていた。それが眼前の高位聖職者を退ける最も効率的な方法であると考えただけでなく、そこに一定の利益を見出してもいたのだ。

 正当な戦いによるものであれば教団は戦神祭司の殺害を問題とせず、剣の審判によって一度得られた正当性は宗教的権威を以て社会的に承認され、より上位の祭司が提訴する剣の審判によってしか再度争われることがない。しかしながら、格式で言えば戦士長と同格である教導祭司の明確な上位者は最高位階に君臨する大戦士長以外におらず、大戦士長が教導祭司ほどの高位祭司が下した審判を覆そうと試みた例は各代に一度あるかないかの例外事態でしかない。無視してよい可能性だ。従ってここでシュレとの剣の審判に勝利することは、事実上、教団に対する完全な正当性の獲得を意味する。

 そして帝国もこの審判儀式を公認している。たとえ部外者と入信者の間であったとしても、双方の合意さえあれば問題はない。この際に行なわれる殺傷及び破壊行為は当事者以外に被害を出さない限り、帝国法においても例外として処理される。この戦いの勝利がスナーに法的不利をもたらすことはない。

 こうしたことからスナーは、教導祭司に対する暴言の正当性の問題を戦神の祝福を受けたフィオナ・カルミルスが戦神教団と距離を置く正当性とすり替えた上で教導祭司との戦いに勝利し、予想される後難を摘み取っておくのも一つの手であると考えていた。

 勝算は無論ある。彼は何度も聖職者との戦いに勝利してきた。その中で培った経験が、勝てると彼に伝えていた。相手が戦神の祝福を受けていることも問題ではない。魔術師は天敵の存在を許しておくほど甘い生き物ではない。魔術学院の長い歴史はそうした規格外の存在を下す方策を編み出していた。危険な賭けになるが、決して分が悪いものではない。挑むに値した。

 戦神の女祭司の表情は激変していた。目は血走り、唇は痙攣するように釣り上がり、歯は砕けそうなほどに噛み締められ、全身が紅潮して筋肉が膨れ、血管が浮き上がっていた。まるで発狂したオーガが目の前に現れたかのようだった。

 右手を剣の柄にかけ、呪い殺すような凄まじい目つきで座ったままの魔術師を睨みつけた。その星幽体は触れる者を欠片も残さず焼き尽くす憤怒の熱を立ち昇らせていた。地獄の底から絞り出すような低い声が口から洩れ出す。

「撤回されよ、魔術師殿。さもなくば、あなたの侮辱に対して、我が神の審判を仰がねばならなくなる」

 スナーは、ラシュタルとまともに打ち合い得るであろう戦士の怒気を浴びた恐怖に、全身が緊張し、萎縮しそうになるのを感じた。背中に冷たい汗が噴き出す。今すぐにでもひれふして赦しを乞う衝動に駆られる。彼は一切の弱気を魔術師お得意の自己制御技術を駆使して必死に撥ね退けようと努めた。

 酒場の喧噪が水を打ったかのように静まっていた。あまりと言えばあまりの、あからさまに過ぎて却って理解に時間を要する冒涜的な言辞と、それに対する教導祭司の激烈な反応に、人々は恐れ慄いた。聖磔架印を切り、或いは手を組み合わせて祈り出す者、神罰のとばっちりを避けるべく席を外そうとする者の姿もあった。

 ドルグフが立ち上がって進み出た。そびえる崖を眺めるように身を反らし、太陽を眺めるように眩しげに目を細め、長身な女の顔を見上げる。

「教導祭司殿、我が友に代わって非礼をお詫び致す。どうか、愚かな友にご容赦を……」

 シュレは物憂い顔で首を振る。

「戦士殿、咎は当人のものなのだ。他の者が肩代わりすることなどできない」

「存分に戦え、スナー・リッヒディート」酒杯を片手に、ラシュタルが叱咤するような厳しい目つきでスナーを見据えた。「お前が譲る必要はない。誰であれ――たとえ神であろうと――お前の女に手を出す者を赦しておくな。それができなければ死ね。そのような男に生きる価値はない。後のことは気にするな。お前が敗れたならば、私が命に代えても仇を引き受ける」

「ラシュタル!」アルンヘイルは恋人を愛称でなく名前で呼んだ。「あんたは煽るんじゃないの! スナー、あんたも、馬鹿なこと言ってないで謝っちゃいなさい」

 そう言うアルンヘイルの顔には焦りの色が滲んでいた。

「そうです。非礼をお詫びしましょう。私も一緒にお詫びしますから」

 仲間達が口々に言い立てた言葉が、彼らの意図通りの形でスナーに届くことはなかった。彼にとってそれらは丁度良い時間稼ぎでしかなかった。

 彼は仲間達が作ってくれた時間を利用し、ゆっくりと息を吐いた。じっとシュレ祭司を見据え、静かに流血なき戦闘を再開する。テーブルに立てかけておいた長杖をさりげなく手に取り、極力平然とした風を装って言い返す。

「なるほど、あなたの神は卑怯者の守護者のようだ」

 これ以上冷えるまいとすら思われた場の空気が更なる寒気を帯びた。巻き添えを懼れて席を立つ者も出始めた。「ブーロウさん呼んでこい」と仲間に囁く者もいた。

「スナー、いけません!」

 フィオナが悲鳴にも似た声で制止した。心から嘆願するような響きがそこにあった。アルンヘイルは凍りついたように目と口を丸くし、ラシュタルはじっと成り行きを見守っている。

「馬鹿者が!」ドルグフが怒鳴り、跪いて神に詫び始める。「誇り高き戦神よ、猛く優しき戦神よ、我が友の愚行をお赦しくだされ。我が友は己が何をしておるかもわからぬ愚か者なのです。哀れな狂人なのです……」友情と信仰に篤いドワーフは、ただ友のために真心から祈っていた。「もし我が友をお赦しになられぬとあれば、どうか――戦神(テュウォルス)よ、後生です!――ゲムリ家の戦士ドルグフをも共に滅ぼしたまえ!」

 ドワーフの祈りを無視して教導祭司が激昂する。

「我が神をこれ以上貶めることは許さんぞ!」

「では、言い直そう。神ではなくあなたが卑怯者なのだ」

「もうよい、もう言葉を交わす時間は終わりだ。不信心な魔術師の言うことと大目に見ていたが、こうなってはもう赦すことはできない。剣の審判によって事を決しようではないか」拳を震わせ、シュレはカウンターの向こうで戦々恐々としている旅籠の亭主を呼ばわった。「亭主、亭主はどこにおられる」

「へ、へい、なんでしょう、祭司様」腰を低くした亭主が卑屈な調子で教導祭司の顔色を窺う。「あのう、できれば、揉め事は……」

「あなたには審判の立会人を務めていただきたい」シュレは聞く耳を持たなかった。「何も難しいことはない。当節は昔と違い、法的手続にも気を配らねばならない。私が今から我が神に捧げる訴状を書き上げるから、そこに立会人として署名をして、事が済んだならば勝者と共に神殿に赴いてくれるだけでよいのだ」

 哀れな亭主は宗教の権威を背負った大女を泣きそうな顔で見上げた。

「待たれよ」

 スナーが発した制止の声にシュレが振り返る。

「最早撤回は利かない。詫びるのであればもっと早くにしておくべきだった。さあ、あなたも訴状に名を記す準備をしておくがよい」

「弱者を力で従えるのがあなた方の流儀か」

「何が言いたい」

「客観的に考えてもらいたい。私とあなたが正々堂々戦ったとして、どちらに分がある」

 シュレは鋭い眼差しでスナーを見据えたままではあったが、その深い茶の瞳からは若干の困惑が窺えた。

「明らかにあなただ」スナーは人々を惑わす悪意の魔王(マティアリ)の化身のように堂々と雄弁を振るう。「あなたほどの従者にもなれば、魔法などろくに効力を及ぼすまい。もしあなたに魔法をかけたいと思えば、一部の例外を除き、直接触れるしかない。然るに、私に武芸の心得などない。あなたと触れ合える距離にまで近づけば、一呼吸の間に私の首が宙を舞うだろう。あなたは魔法使いの天敵だ。正々堂々の近接戦闘であれば、大陸最強の大妖術師ウェイラー・サルバトンさえ、或いはあなたに手も足も出ないはずだ。つまりあなたは、ほぼ確実に自分が勝つ勝負を強要し、私を脅しているのだ。平民風の言い回しをすれば……」溜めを作ってから言い放つ。「『俺が絶対に勝てる分野で勝負しろ。お前に勝ち目のある勝負には応じない』と言うのに等しい。戦う意思を持たず、ただ自らの権利を主張し、あなたの非を鳴らしただけのこの私に。それが公平か。それが正義(ユスダイス)か。気に食わない相手を神の名の下に殺そうというだけではないか。死にたくなければ口を閉じろと、まるで圧制者(デルマコスター)の如き態度ではないか。それが戦士のすることか。それを卑劣と言わなければ何が卑劣だと言うのだ。確か戦神は、求婚の名を借りた娘への狼藉を制止した農夫に撤回か決闘かを迫り、娘を守らんと農具しか知らぬ手で剣を取った農夫を正々堂々と斬り殺したクラレストを罰したと言うではないか。あなたがしようとしていることは、クラレストのそれとどう違うのだ、背教者殿。戦神は勝った者を正しいとするのではない。正しい者が勝った時に勝利を祝福するのだ。そうではないか。ただ勝った者を讃えるのは戦神ではなく暴虐の魔王だ。してみると、あなたが本当に崇めているのは、戦神の悪しき兄弟とも言われる暴虐の魔王ではないのか」

「詭弁だ! 侮辱は神聖なる剣によって贖われねばならない!」

 剣の柄に手をかけたまま語気鋭く答えるその声は、内心に満ち満ちた憤怒によって僅かに震えていた。

「真実を述べることが侮辱になるとすれば、それはある意味、悪意を以て辱められるよりも救いがたいことではないかな」

「まだ言うか!」

 全身を打ち据えるような怒号にも耐え、スナーは己の生命を繋ぐ雄弁を振るい続ける。

「そもそも私は無礼者を相手にするにふさわしい態度を取っただけだ。夫の目の前で妻を連れ去ろうとし、夫が制止すれば神の権威を持ち出して退けようとする。どうだ、先に私を侮辱したのはあなたではないか。戦神に詫びるべき者がいるとすれば、それは徒に神の権威を振りかざしたあなただ。あなたは戦神の権威を笠に着て私を軽んじた。おわかりかな、もし私が誰かを侮辱しているとしたら、それは戦神ではなくあなたなのだ、背教者よ! 戦神の信任を受けてその地位に就きながら、その権威を悪用するとは何事か。戦神の名誉を損なったのは他ならぬあなたではないか!」

 シュレは無言で俯いた。小刻みに肩が震えるのが見えた。スナーは女教導祭司が怒りに我を忘れつつあると見て取り、戦神の祝福を受けた者を無力化するのに適した魔術から適切なものを選び取ろうと思案し始めた。向こうが先に斬りかかってくるのであれば遠慮する必要もない。

 しかし、幅広い選択肢の内から選び取った魔術が役に立つことはなかった。

 興奮した猛牛のように大きく肩を上下させて深呼吸をした後、シュレが顔を上げた。そこには晴れやかな表情が浮かんでいた。

 それを目にし、スナー・リッヒディート博士ともあろう者が思わず困惑した。星幽体からは怒りの気配が去っており、そこには純然たる好意と敬意が宿っていた。

「無礼を赦されよ、魔術師殿」

 相手の驚きを気に留めた風もなく、シュレがスナーに向かって頭を深々と下げた。

 観衆から驚きの声が上がった。フィオナやアルンヘイル、ドルグフはもとより、ラシュタルさえも呆気に取られた表情を浮かべている。

「一体どういう風の吹き回しだ」

 スナーは疑念の眼差しを向け、油断なく席を立った。

 顔を上げ、女祭司が答える。

「僭越ながら、あなたを試させていただいた。あなたが我が神の愛娘と共に歩む資格を持つ者なのかどうか」

「どういうことだ。何を言っている」

 試すとは傲慢な話だ、と反射的に吐き捨てそうになるのを咄嗟に堪え、スナーは問い返した。

「私はかねてよりフィオナ・カルミルス殿のことを聞き及んでいた。戦神の祝福を受けた女剣士のことを。フィオナ殿がこの街におられることを知った時、私は見極めねばならぬと思った。戦神の愛娘は正しく育ったか。ふさわしい導き手を得たか。唾棄すべき輩に取り巻かれていないか」

 スナーは顔を顰めた。考えてみれば、仮にも教導祭司に任じられるほどの祭司が、あそこまで教義に矛盾した行動に出るはずがなかったのだ。他の祭司であれば単なる未熟から教義の悪用または恣意的解釈まで、様々な可能性を考え得るが、最高指導者である大戦士長を始めとする教団幹部全員の承認なくしては就任し得ない教導祭司に限って、それはない。そのあり得ないことが起こるのを目の当たりにしたのであれば、まずその事情に思いを巡らすべきだった。彼としては認めるのが癪な事実だったが、どうやら彼はシュレ教導祭司の怒気に半ば呑まれ、威圧された弱者が脇目も振らず全力で防戦に努めるように、眼前の「敵らしきもの」に闇雲に殴りかかっていたらしかった。まるで風車に突撃したという伝説の狂騎士だったが、かの騎士が民衆を脅威から守らんとして挑んだのに対し、こちらは純然たる利己主義から民衆に尊敬される人物を害そうともくろんでいた分、却って悪質で滑稽だった。

 どうもこのところ失態が続く、とスナーは低く唸った。学院時代にサルバトンやウェルグナーのような上位者達に散々指摘されたように、やはり自分には強者に対する余裕と弱者に対する謙虚さが欠けているのだ、と嘆息する。

 シュレが真剣な顔で滔々と語り出す。

「あなたは死を賭して私に立ち向かおうとした。然り、我々は剣によらない勝負をしていたのだろう。あなたはおそらく、互いの得手不得手を見極め、刃による勝負を避け、得意とする弁論によって私を退けようと策略を尽くしていたのだ。我が神の好まれる在り方ではないが、私は広い意味ではそれもまた死力を尽くす戦士の姿勢であると思う。あなたは戦士ではないが、事あらば戦士に成り得る。そしてその振る舞いには奥方への愛が満ちている」

 スナーは面映ゆさを感じて頬を指先で掻いた。

 歯の浮くようなおべんちゃらか、夢見がちな恋愛小説や英雄物語の台詞にしか聞こえない言辞を大真面目な表情を保ったまま弄する女祭司は、至極当たり前のことを述べているような態度で舌を回し続けている。

「そうした人物であれば、我が神の愛娘を決して悪いようにはすまい。私はひとまずあなたが我が神の愛娘を託すに足る人物であると認める。もしフィオナ殿を我が神の道に導こうとする者が現れたならば、この教導祭司シュレがあなたを認めたことを話されよ。今、そのことを証立てる一筆をしたためよう」

 そうしてシュレは、亭主に上等の五型書類用紙と封筒を持ってくるように言いつけた。亭主が飛ぶように店の奥に引っ込んでいった。

「……包み隠さず正直なところを言えば、私はあなたの態度の変化に困惑している」

 黙考の末、スナーはようやくそれだけ言葉を絞り出した。真正魔術博士ともあろう者が、ろくに言葉も出せなかった。

「魔術師殿」シュレが微苦笑した。「あなたは英雄の導き手たり得ないかもしれないが、フィオナ殿の道連れとしてはこの上ない適任だということだ」

「……と言うことは、私の暴言も水に流していただけるのかな」スナーは慎重に念押しした。「何分、あれは戦神教徒に殺されても不思議のない発言だった。赦すと確言してもらいたい」

「確かに」しみじみとシュレ祭司は頷いた。「あれは痛烈だった。たとえ、こちらが演技をしているのであろうとも、あの指摘を受けては、我々のような者は相手を殺すか己を殺すかのいずれかしか道がない」

「あなたが望むかどうかはわからないが、暴言をお詫びさせていただきたい」

 スナーはとにかく下手に出た。その秘めた意図が何であれ、シュレが発した怒気は本物だった。グルツ司教のような真性の狂人を知る彼は、真の意味で高位聖職者の位階に値する人々の怒りの厄介さを身に沁みて理解している。人々の前で大っぴらに涜神の言を吐くことの恐ろしさもだ。それは、単に魔術師だからという理由で彼を攻撃する対処のしようのない者だけでなく、立ち回り一つで敵対せずに済むはずの不特定多数をも敵に回すことを意味する。つまるところ魔術師は、神に不敬であってもよいが、人に無礼であってはならない。

 今にしてみれば、この場でシュレを始末するのが上策であると確信したとはいえ、危険な策であったことは認めざるを得ない。シュレを倒せば全てが無条件で放免されるとはいえ、そもそも戦いにならない可能性を――それがどれほど蓋然性に乏しく思えたとしても――考慮しておくべきだった。おそらく、そうしていれば、もう少し違う結果になったはずだ。冷静さこそが最高の剣にして盾である、と誰かが述べていたことを彼は思い出した。

 神妙な態度を装い、スナーはシュレ――と聴衆――に訴えかける。

「私は決して戦神を侮辱したのではない。ただ、妻を連れ去られるのではないかと懼れるあまり、気が昂って、他ならぬあなたに対し、つい感情的な言葉をぶつけてしまったのだ。そう、あなたが装った無慈悲な態度、その信仰の在り方こそがあなたの神への冒涜であると思い、それを指摘することで思い直してもらいたかったのだ」

 神の否定を信仰姿勢の否定にさりげなくすり替えてしまうことも忘れなかった。直接的な侮辱の際に神を決してテュウォルスとも戦神とも呼ばず、ただ「あなたの神」とだけ呼んだことは、こうした状況――まずあるまいと切り捨てていた有り得べからざる状況――に対する保険だった。

「詫びて赦されることではないが、詫びを口にすることだけは許していただきたい」

 そして頭を下げる。

 妻を取られることを懼れて錯乱した男。情けない評価だが、戦神教徒に涜神者として付け狙われることに比べれば、物笑いの種にされる方が遥かにましだった。

 頭を垂れたまま弁解の言葉を述べる。

「何分、ご賢察の通り、私は決して聖職者にも神々にも良い印象を持っていない。おそらく聖職者や神々からも良い印象を持たれていまい。それゆえに、聖職者と相対すると、どうしても構えてしまう部分があるのだ」

 彼は自分が「罰当たりな魔術師」であることさえも免罪符として利用しようと試みた。

「あなたの言い分はわかる」シュレがゆっくりと手を振って弁明を止めた。「頭を上げられよ」

 正面に向き直ったスナーの表情は緊張に硬くなっていた。ここでの反応次第で採るべき手が変わってくる。一言一句聞き逃すまい、指の曲げ伸ばしさえ見逃すまいと、彼は反応をじっと見守る。

「私も相応の態度を取ったのだし、あなたが不安を感じるのも無理はない。己や近しい人を守るために戦うことは我が神の教えに適った行為でもある。だから、もうそのことはよい。教導祭司の名において正当な行ないと認めよう。このことで非難されることがあればそのように答えるがよい」そこでシュレは微笑ましげに目元を緩めた。「それにしても、あなたほどの魔術師がああも取り乱すとは、余程奥方を大事にしているようだ」

 スナーは渋面を作った。

「そういう女でなければ、妻とはすまい」

 しかし内心では安堵していた。シュレが暴言を単なる狼狽によるものと受け取り、それ以上深く考えることがないようならばそれに越したことはなかった。

 教理問答で論破して信仰心の柱を揺さぶり、へし折り、信仰魔法の使い手としての能力を減退させた上で――できれば冷静さも奪い――戦闘に持ち込んで決着する。御子教会の伝承にある悪魔のやり口に取材したこの比較的ありふれた手法をスナーが用いようとしたことにシュレが気づかないか少なくとも気づかないふりをしてくれるというのであれば、敢えて真実を告げる必要もない。

「確かに」くすりと笑い、シュレは酒場中を見回す。「方々、お騒がせして申し訳ない。どうか、私のことは気にせず食事に戻られよ」それからフィオナに視線を向ける。「フィオナ殿。我々はあなたにお味方するものだ。お困りのことがあれば、気兼ねなく我々の神殿をお訪ねなさい」

「ありがたいお言葉です」

 フィオナが起立して首を垂れる。

 シュレは頷き、仲間達を見た。

「お三方も一廉の戦士であるご様子。我々は戦士の友であり導き手である。助けや導きを必要とする時は是非我々を頼られよ。悪いようにはしない」

 会話が一段落したものと見たようで、旅籠の亭主が言いつけられた品を怖々とシュレに手渡した。シュレは慣れた調子で文章をしたため、印章指環に己の血をつけて教導祭司の印を捺すと、封筒と一緒にスナーに差し出した。そこには、スナーの言葉が信仰上の重大な誤りを指摘したものであることと、フィオナ・カルミルスが信頼すべき道連れを既に得ていることとが記されていた。

「確かに」と頷き、スナーは文書を畳んで封筒に入れた。

 シュレは酒場の全員に向かって一礼し、堂々たる足取りで旅の止まり木亭を去った。

 残された冒険者達はしばらく呆然としていた。

「魔術師の旦那、嫁さんが心配なのはわかるがよ、あんまり冷や冷やさせんでくれよ」

「そうだ。喧嘩売るなら相手くらい選べよ」

 冒険者の一人が呆れた風に言うと賛同する声がいくつか上がり、それがきっかけとなって少しずつ酒場の喧噪が戻り始めた。

 表面上、自分の冒涜的発言が有耶無耶になったらしいことを察し、スナーは安堵の吐息を漏らした。フィオナとアルンヘイルも胸を撫で下ろしていた。

「もう!」とフィオナが子供を叱る母親のような顔でスナーを睨む。「シュレ殿が話のわかる方だったからよかったものの、そうでなければ大変なことになっていましたよ!」

「わかっている」苦い顔で答えた。「今回はいろいろと読み違えた自覚がある」

 喧噪の復活に呼び寄せられたかのように、扉が破られそうなほどの勢いで開かれた。

 躍り込んできたのは血相を変えたブーロウだった。

「おい、教導祭司とスナーが揉めてるってどういうことだ!」

 禿頭の組合本部評議員はオークの陣地に飛び込みでもしたかのように落ち着きなく酒場の中を見回している。太守官邸での会合に出席していたはずだが、気を利かせた誰かに急を知らされ、大急ぎで戻ってきたようだ。

 少し遅れて髭面の戦神祭司が困惑の面持ちで現れた。長年の修練によってその全身には威厳が刻み込まれており、ただその場にいるだけで、猥雑な酒場が厳粛な式典を待つように冷厳な空気を纏った。普段は不真面目と不謹慎を振り撒いて生きているかのような冒険者達の態度にも、ごく自然に謹直なものが注入されていく。高位の祭司、おそらくは今回の作戦に同行するベリン戦士長であると思われた。

「ブーロウ殿、何かの間違いではないのか。ここにシュレ殿の気配はない。既に引き揚げたのであろう。彼女が誰かと衝突したにしては場が綺麗すぎる。もし何事かが起こったにせよ、平和裡に終わったと思われる。そうであろう、方々」

「いかにも。シュレ教導祭司からは一切が戦神の御心に適うものであるとの言葉をいただいた」

 すかさず返されたスナーの回答に祭司が納得の表情になった。

「では何も騒ぎ立てるべきことはないな」

「ベリン戦士長、だが、そういう報告があったことは確かなんだ」必死に訴えかけるブーロウの言葉からは上流階級に求められるべき慎みが抜け落ちていた。そのことを自覚する風もなくスナーに詰め寄る。「おい、説明しろ。何があったんだ。俺は教導祭司がフィオナに会いに行くとしか聞かされてないぞ」

 ベリンが同調するようにゆっくりと首肯する。

「確かに、何が起こったかを検める必要はあるな」酒場を見回す。「方々。私は戦神に仕えるベリン戦士長だ。どなたか、このベリンに経緯をご説明願えまいか」

 スナーが場を代表して簡単に事情を説明すると、ベリン戦士長が平然としている横で、ブーロウが唖然とした。自失から立ち直った時、ブーロウは「俺の胃に穴を開けたいなら、素直に短刀でも持ってこい」と不機嫌に腹を叩いた。

 ベリンは落ち着いた態度でブーロウと冒険者達に、身内の者が迷惑をかけたと改めて詫びた。それから、なおも憤懣冷めやらぬ様子でスナーに向かって唾を飛ばして怒鳴るブーロウに視線を転じる。

「こちらが迷惑をかけたのだ。そのように責めるのは道理に合わない。謝罪が必要であれば私が頭を下げよう」

「まったくです。これ以上とやかく言いはしませんが、これからは気をつけてくださいよ」

 咳払いに続けて答えたブーロウの態度は一見毅然たるものだったが、その目は落ち着かない様子で泳いでおり、注意深く眺めれば動揺が見て取れた。戦神教徒としての立場と冒険者達を前にした組合幹部としての立場の間で板挟みになっているようだ。

「気をつけよう」

 ブーロウに頷き返すと、ベリン戦士長はフィオナに見定めるような眼差しを向けた。何かの納得に至ったらしく、小さく頷いて言う。

「あなたは我らの道の外を歩く決意をされているとのことだが、あなたが我が神の愛娘であることは変わらない。迷われた時は是非我らを頼っていただきたい。我らは戦神の忠実なる従僕である。主の愛娘に助けを求められたならば、何があろうとも全力を尽くすものだ」

「はい、その時には」

 社交辞令とも本心ともつかない態度でフィオナが一礼した。

 そしてもう一度一同に頭を下げると、ベリン戦士長は威風堂々と酒場を出ていった。

「俺ももう戻るが、くれぐれも――くれぐれもだ――これ以上つまらん問題を起こさんでくれよ。これ以上禿げるのは御免だ」

 ブーロウは噛みつくようにスナーに言うと、まだ言い足りなさそうな顔をしながらベリンの後を追いかけて出て行った。

 緊張の糸が切れたスナーは大きく音を立てて椅子に尻を落とした。大きく息をつく。

「どうもよくわからぬが、お前はしてやられたのだな」

 ラシュタルが杯を片手に訊いた。

「ああ」スナーは渋々認めた。「空気に呑まれた。掌の上で踊らされたよ。俺としたことが、宗教屋如きにな」

「それは実に愉快だ」

 ラシュタルは晴れやかに笑い、杯を掲げて乾杯の仕草をした。

「クソ……クソ!」

 スナーはテーブルに肘をつき、およそ博士の学位を持つ者にふさわしからぬ汚い言葉を吐いて頭を抱えた。歯軋りして唸る。何もかもが恥ずかしかった。「背教者め」と得意気な顔で大見得を切ったことを振り返ると顔から火が出そうだった。先んじて相手を制するつもりが、却って己を袋小路に追い詰めるような真似をしてしまった失策には苦々しさで気が狂いそうだった。威圧に耐えられずに暴発してしまった事実には後悔ばかりがあった。誰も彼もが自分を馬鹿にして笑っているようにさえ思えた。酒場の喧噪全てが自分に向けられた嘲笑であるかのように感じられた。

 手で顔を覆った魔術博士は乱暴に髪を掻き回した。奇声を上げて床を転げ回りたい気分だった。

 その様を眺めてラシュタルがくすくすと忍び笑い、トロネア伝来のきつい火酒を呷る。

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