第五章
巨蟹月上旬の昼過ぎ、フィオナ・カルミルス一行は再び南西部の華イルアニンを訪れていた。一月以上にも及んだ待機期間を利用して羽を伸ばして英気を養った彼らは、帝国北部寄りの「広く深い迷宮」から南西部のイルアニン市に至る、さながら帝国を縦断するかのような長い旅路を僅か三日で踏破した。それもこれも、彼らを彼方から此方へと一瞬で運ぶスナーの魔術の賜物だった。
季節は既に夏に入っており、内陸部ならではのさっぱりとした熱風が吹いていた。
当然、一行も暑さ対策を済ませていた。魔術的見地から衣装を替えたくないスナーは、陽射し対策に陰鬱な鍔広帽子を被り、暑気対策には効力を弱めた冷却の魔術を用いている。フィオナとアルンヘイルは服装を薄手のものに替え、旅行用の帽子を被り、マントも普段使っているものは畳んで背嚢にしまって薄いものに取り替えている。アルンヘイルの場合はその上、長い黒髪を頭の後ろで纏めてもいる。その中にあって、温暖な土地で生まれた民族衣装を纏うラシュタルだけは、いつもと変わらぬ姿を保っている。
照りつける太陽から光熱が降り注ぎ、暖まった大地から熱気が立ち上る中、彼らは以前の快い思い出の再現を期待して大門を潜った。
しかし、宿泊所として指定された旅籠「旅の止まり木」亭を目指して大通りを歩く内、スナーは街の様子に違和感を持ち始めた。前回の通過からのたった数ヶ月ばかりで、街の雰囲気が大分変わったように感じられた。あの時はもっと活気があって猥雑だった。それなのに今はどこか沈んだ様子で華というものが感じられなかった。
ようやく昼食が終わったくらいの時間帯であるのに、深夜か早朝のように静かだ。街頭には大道芸人や街頭歌手の演技の音や観客の喝采が絶えず、街路には屋台が並んで店主が愛想良く客に声をかけ、少し大通りを外れれば大陸中から集められた花々が咲き誇る娼館が見えてくる。イルアニン市とはそういう街だった。それなのにこれでは、まるで同名の別の都市を歩いているようだった。
「この街はもっと賑やかだった気がするぞ」
「私もそう思っていたところです」
「うんうん、私も思ってた。前は芸人の一人や二人くらいどこでだって見かけたのに、今日は歌手もいやしない。ここ、大通りなのよ」
「確かに以前とは印象が異なる。市民の顔つきも暗いな」
スナーが違和感を率直に口に出してみると、フィオナ達も、同じことを気にしていたのだと口を揃えて答えた。
「暑さに参って家に引きこもってるってこともないだろうし……」アルンヘイルが頬を掻いた。「聖堂騎士団と生と死の女神の戦士団のせいよね、やっぱり」
宮廷からの追加布告と週刊新聞の報道、そして情報収集のために通過した町村の住民や旅人から、彼らは今回の「演習」にいくつかの教団の戦士団が参加することを知っていた。旅人達の噂話と新聞社の報道によれば、現在、イルアニンには御子教会の聖堂騎士団、それも苛烈なことで知られる異端審問官グルツ司教と聖堂騎士隊長クベイン司祭に率いられた精鋭達がおり、彼らの到着から少しして、まるでそれに呼び寄せられるように生と死の女神教団の護教戦士団の一隊が訪れ、寺院の戦士団と合流していた。勇敢と言うより無謀な新聞社が、相性の悪い両者の対立が民衆の笑顔を曇らせていると大胆に指摘していたが、それが掛け値なしの事実であることは現地を見れば明らかであった。
彼らはこの異様な静けさの理由を確かめるべく、適当に通行人を捕まえて実際に訊ねてみた。
答えは風聞と推測を裏付けるものであった。
神の名の下に身を慎んで誠実に生きることを至上とする御子教会と、楽しく生きて笑って死ぬことを至上とする生と死の女神教団は、警察兵と犯罪者よりも相性が悪いことで知られている。イルアニン市民は、容赦のない聖堂騎士団と護教の決意を固めた生と死の女神の戦士団が街中で衝突することになりはしないかと戦々恐々とすると共に、イルアニン流の華やかな生活に厳格な聖堂騎士達が向ける怒りを恐れ、彼らが一刻も早く去ってくれることを祈りながら、身を慎んで暮らしているのであった。何しろ、公認教団は信徒に対する無制限の裁判権に加え、帝国法の違反者をそれぞれの教義に照らし合わせて裁く独自裁判権――当事者に他教団の入信者が含まれておらず、当事者の少なくとも一方が入信後一定期間を経た者である場合に限る、当事者に貴族や公職従事者または政治的、社会的に重要な人物が含まれる場合は本人の明示的同意か当局の許可を必要とする、などの条件付きではあるが――を有しているのだから、誰もが取り立てて意識することもなく日常的に行なっているような無害な犯罪を逆手に取って厳罰を科されかねない。
そして事実、もう犠牲者が何人も出ている。
手始めは賭博場や娼館に出入りしていた僧侶達だった。彼らは教会内の綱紀粛正も任務とする異端審問官グルツ司教の厳格な告発を受け、何年何十年と刻苦した末に得た地位を剥奪されて顔面に破門聖職者の刺青を施された上、背中の皮膚が残らず剥がれ落ちるまでの無慈悲な鞭打ちの後、手当てもされないまま街路に放り出された。二十人を超える哀れな元聖職者達の内、半数近くは手当ても受けられず或いは受けた甲斐もなく命を落とし、残りの大多数は癒えきらぬ傷を抱えたまま、破門の刺青のせいで雇い口も見つけられずに乞食紛いの生活をしている。監督者である教区大司教ポーロンや年長の司祭達も激しい叱責を受け、沈黙や不眠などの勤行を課された。
イルアニン市民は同情や嘲笑を以て聖職者達の苦難を眺めていたが、彼らが他人事として気楽に構えていられたのは最初の内だけだった。教会を瞬く間に浄化したグルツ司教は勢いを減じることなく市民達にその煮え滾る眼差しを向けた。裸のまま窓から身を乗り出して客を見送った娼婦は「信徒を含んだ社会全体に対する」風紀紊乱罪で逮捕され、全身の毛を剃られた後、「罪」の源となった女陰と乳房を焼き鏝で「浄化」された上で全裸のまま広場で晒し者にされた。見送りを受けた客と雇い主である娼館主はその風紀紊乱行為の片棒を担いだとして素裸での晒し刑を科せられた上、御子教徒である客は資産二分の一の罰金と鞭打ちの上教会に対する半年間の奉仕活動、娼館主に至っては「穢れた富」の全て――全財産――を罰金として徴収された挙句娼館廃業を命じられ、お抱えの娼婦が他の業者に身を寄せて去っていく中路頭に迷う破目となった。ある賭博場帰りの客は立ち小便をしているところを見つけられて「信徒が日々を過ごす街に対する」都市汚損罪で逮捕され、資産二分の一の罰金の上、鞭打ち刑に処された。ごく普通の市民生活を送っていた者達が、何人も聖堂騎士達の魔手に落ち、その人生を破壊されたのだった。しかも罪人とされた者達は捕縛される際、抵抗を制圧するという名目で屈強な聖堂騎士達から、程度の差はあれ殴る蹴るの暴行を受けてもいた。
当然、太守や市長、市の商工組合も、自分達の目前で為された暴挙を認めはしなかった。他の教団も同様だ。ミヘール二世が定めた聖俗分離勅令は、そのいかにも決定的な印象を漂わせる名称とは裏腹に、宗教団体の多大な特権の一部に制限を加えたものに過ぎず、グルツ司教の乱行にその条文からの逸脱は一歩もない。しかし、法的に問題がなければ何をしてもよいということにはならない。グルツ司教がしたことは、ミヘール二世が望み、臣民の大部分が支持し、各教団が渋々受け容れ、数十年をかけて少しずつ構築されつつある不文律と新秩序への挑戦に他ならなかった。
各勢力の代表者達は正式な窓口を通じ、聖ガント大聖堂に座する教区大司教ポーロンとグルツ司教に連名で抗議文書を送付したのだが、大聖堂からは善処するとの曖昧な回答が、グルツ司教からは自分達は法的に認められた権限を行使しているのみであるとの取りつく島もない回答が、それぞれよこされただけだった。大聖堂は既に異端審問官グルツ司教と聖堂騎士隊長クベイン司祭の支配下にあった。
このため市長は、引き続きポーロン大司教とグルツ司教に抗議を行なうと共に、犠牲者の社会復帰を支援し、警察兵の巡回を強化して「犯罪者」を教会より先に「逮捕」する措置を取った。太守は、聖堂騎士団の姿勢に目立った変化が見られないようであればポーロン大司教の頭越しに州都オルバルクの管区大司教に直接対処を要請することを臭わせ、大聖堂に圧力をかけている。生と死の女神教団は市と大聖堂に対し、信徒に対する迫害が続くようであれば実力行使に出る用意があることを臭わして方々に圧力をかけながら、他教団と合同で市内を巡回し、聖堂騎士達の蛮行阻止と犠牲者救済に乗り出した。
そうして、街の状況を教えてくれた青年は、憂鬱な顔でこう話を締め括った。宮廷の布告と週刊新聞の報道から、軍が演習のためにもうじきイルアニンに訪れることはわかっている。彼らさえ到着すれば多少は状況がましになるかもしれない。しかし、今いない者を当てにしても仕方がない。頼もしい近衛兵達が来てくれるまでは、聖堂騎士団の顔色を窺って静かにしているしかない。
親切な青年に小銅貨を何枚か握らせて解放した後、アルンヘイルが感心とも呆れともつかない態度で言った。
「それにしても、グルツとクベインってのは大したものよね。生と死の女神の戦士団がいるのに、娼婦や博奕打ちまで縮こまらせちゃうんだから」
多分に快楽主義の傾向のある生と死の女神信者には、娼婦や賭博師、芸人など、人の楽しみを日々の糧に換えて生活する者が少なくない。そして、生と死の女神の護教戦士団は、命に代えても信徒を守るとまで言われている。
しかし逗留中の教団戦士団も、然るべき名分さえ得られれば誰が相手であろうとすぐさま戦端を開くであろうグルツ司教を向こうに回す一触即発の状況下では、まるで有効な手を打てずにいるようだった。そのため信徒達は十分な庇護を期待できないと感じて嵐の渦中ですっかり畏縮し、ただ全てが終わるのをじっと待とうとしている。
他の教団戦士団をも尻込みさせるグルツとクベインの勇名――悪名――と狂気には凄まじいものがあると言えた。
「笑い事ではありません……」黙ってじっと話に耳を傾けていたフィオナが悲しそうに力なく呟く。「何という惨いことを……慈悲と寛容の教えはどうなったのですか。末端の信徒ならばまだしも、司教様や司祭様がそのような振る舞いを指示するなど……」
敬虔と評しては言いすぎとしても平均よりは確実に真面目な御子教徒であるフィオナを眺め、スナーは片方の眉を上げた。
「連中に何を期待しているんだ。奴らは権力と武力を持った気違いに過ぎない。関わり合いにならないに限る」悪意に満ちた評の後、スナーは今まで敢えて口に出さずにおいた、頭痛がしてくるような可能性と向き合った。「ところで、君達は、帝国があの連中をご招待遊ばされたと思うか」
アルンヘイルがつまらなそうに鼻で笑った。
「思うわけないでしょ。あいつらもどこかで情報を仕入れて嗅ぎつけたに決まってるわ」
「悩ましい話だな。坊主共は神殿から出てこなければいいんだ」
スナーの呟きをフィオナが聞き咎めた。
「何を言っているのですか。聖堂騎士の勇猛さや生と死の女神教徒の屍霊生物への対応能力は本物です。彼らが共闘してくれるのであれば心強いではありませんか」気落ちした様子で嘆息する。「……聖堂騎士達は確かに乱暴が過ぎますが」
「頼もしい。それは結構。その点には同意する。だが、あいつらは文化や学術というものを理解しない野蛮人だ。あいつらの手にかかったら、貴重な資料が纏めて焚書されてしまう」
それではわざわざこの捕縛作戦に参加した意味がない。彼は支払われる報酬や与えられる名誉に惹かれてこの依頼を請けることを支持したのではない。彼の目的は戦利品だ。
聖職者達に煮え湯を飲まされた過去の経験をいくつも反芻し、毒づく。
「だから坊主共は厄介なんだ。グルツとクベインなど、その最たるものだ。奴らの目には、神の国と教義しか映っていない」
スナーはグルツ司教の狂信者ぶりを思い返し、吐き気のする思いだった。中でも最たる思い出はサルバトン事件直後のもので、教会による学院批判の急先鋒だったグルツはクベインと共に学院に乗り込み、教会の全信徒を動員した全ての魔術師に対する聖戦すらも口の端に上らせて学長を恫喝したのだ。
フィオナが呆れたように息を吐いた。
「まだそのようなことを言っているのですか。妖術師の捕縛が最優先でしょうに」
「研究そのものに罪はない。折角得られた成果なんだから、誰かが活用しなくちゃ何もかもが無駄になる。どんなに罪深い研究だろうと、その成果の破壊は文明と資源に対する大罪だ」
「あなたの言うこともわかります。だから、余裕があれば戦利品を回収してもよいと言ったのです。ですが、それにかまけて戦いが疎かになってしまっては本末転倒です。まず勝つことです。それ以外のことはその次に考えなさい、スナー」
スナーは返答に窮した。正論を言っているのはフィオナで、彼が言っているのは我儘だ。これ以上続けても屁理屈以上のものを返せないことを彼は理解していた。
「……ならば、精々、余裕が出来ることを祈るとしよう」
スナーは負けを認めて論争を打ち切った。
聖堂騎士団に出くわさないよう注意を払いながら一行は大通りを進み、何度か小道を通り抜け、懐かしき旅の止まり木亭に辿り着いた。厄介事に巻き込まれずに済んだことにスナーは胸を撫で下ろした。他の三人はともかく、魔術師である彼が民衆の浄化に励む聖堂騎士達に遭遇して穏便に方がつくはずがないのだ。
入口には貸切の札がかかっていた。スナーとフィオナは思わず顔を見合わせたが、その「貸し切り客」が自分達であることを思い出し、思いきって店内に踏み込んだ。
日当たりと採光の良い内部は以前と変わらず明るく、開け放たれた窓からは心地良い風の流れが生まれていた。吹き抜けになった酒場では、見るからに精鋭とわかる冒険者達が十数人、テーブルについて昼間から酒を呷っていた。
酔客の中にはエルフやミゼットの姿もあったが、なお珍しいことに、テーブルを囲む中には魔法使いと思しき者が四人もいた。スナーの知らない連中ばかりだが、ここにいるということは、単に有能な魔法使いというだけでなく、冒険者としても確かな実力の持ち主のはずだ。
自分の顔ほどもある空ジョッキを片手に虚ろな視線をさまよわせるミゼット。教養や信仰の欠片も感じられない顔つきは、正規の教育を受けた魔術師でも敬虔な聖職者でもないことを示していた。星幽体の歪みを見ればわかるが、その虚ろな眼差しも酒の酔いがもたらしたものではない。明らかに彼は、素人魔法使いには付き物の、向こう見ずな星幽光の操作が招く精神の歪みに冒されていた。
精霊への信仰を示す古代風の伝統衣装を着た森エルフの精霊祭司。その体毛は所々が青く染まり、或いは赤く染まり、或いは鉄のように固まり、或いは透き通っていて、瞳は時折色を変え、肌には岩のような部分や樹皮のような部分が見られた。革と骨と植物のみを纏った自然の女神の巫女。その体からは土と獣と草の匂いが漂っている。どちらも信仰対象の影響が星幽体に留まらず肉体的特徴にまで表われるほど信仰を深めた高位聖職者、魔術師であるスナーに言わせれば、信者達の共同幻想が築き上げた巨大な星幽光の偶像の影響力に蝕まれた奴隷達だ。
長杖を持った女魔術師の姿もあった。まだ年若い。二十代の半ば、フィオナと同年代といったところだろう。髪は明るい栗色、瞳は淡い蒼で、顔立ちそのものは悪くないが、陰気な顔つきが全ての魅力を損なっている。強い執念を窺わせる星幽体には体系的な訓練の色が顕れている。胸元には屍霊魔術師であることを示す髑髏の徽章が下がり、その肌の不健康な青白さの理由を物語る。驚いたことに、鉄製の髑髏の額には宝珠が二つ嵌まり、彼女が修士号の持ち主であることを示していた。学院での研究に行き詰まった退学或いは休学者か、博士号取得のために遍歴修士の道を選んだ者か、はたまた魔術学院の手先か。いずれにせよ、不愉快な存在であることは確かだ。スナーは苦々しい気持ちに顔を微かに歪めた。彼の見たところ、女魔術師の実力は修士にふさわしいものではない。彼が導師であれば、学士号は認めても修士号は絶対に認めない。スナー・リッヒディート真正魔術博士は、このような未熟者に学位を認めるまでになった古巣の凋落を情けなく思った。
魔法使いを名乗るのもおこがましく見える連中はさて措き、まがりなりにも専門家として使い物になると言える域――実力のみが評価された時代の魔術学院で言う学士級の実力――に達した魔法使いは、単純な人口比率で言えば数千人に一人だ。そうした諸々を考えると、魔法絡みの施設でもない場所でその場の人数の四分の一以上を使い物になる魔法使いが占めるというのはなかなかのものだ。冒険者ならではの光景と言える。
「本日は貸し切りとなっていますので……」
微かに見覚えのある給仕がスナー達を遮った。彼ら――魔術師とエルフ二人を含んだ極めて特徴的な四人組――を思い出したらしく、多少気まずそうな顔になる。
フィオナは手振りで従業員を制し、ボルダン秘書に指示された通り、組合からの手紙を差し出した。手紙を受け取った従業員は素早く目を通すと、「失礼しました」と頭を下げ、店内に入るよう促した。
「部屋の鍵貰ってくるから、適当に座っといて」
アルンヘイルが受付係の所に向かった。スナーはフィオナとラシュタルと共に大テーブルの空いた部分に移動した。テーブルに杖を立てかけ、背嚢を床に置いて長椅子に腰かけ、帽子を取ると、急に疲れが出てきた。気が緩んだせいだろう。
「よう、フィオナとそのお仲間」
スナーが何か飲み物を頼もうと思った矢先、横から声をかけてくる者がいた。顔を向けると、貴族趣味の洒落た衣装に帝国への武力による貢献の証である赤銅磔架章を二つばかり飾り、魔法がかかった頑丈そうな騎兵刀を帯び、凝った装飾の燧石式短銃をベルトに差した気障な顔立ちの青年が、麦酒の入った陶製ジョッキを片手に立っていた。
「フォールモンか」スナーが発した声には温度というものがなかった。「まだ生きていたのか」
「失せろ」
ラシュタルはこれ以上ないほど簡潔に嫌悪感を表明した。荒野エルフは戦士の種族であり、優れた戦士を尊敬する文化を持つ。しかし、戦士としての技倆自体は決して好意に直結するものではないし、遺恨を帳消しにするものでもない。少年時代のフォールモンが帝都の大闘技場で優れた闘士として名を馳せていた事実も、荒野エルフの勇者の敵意を和らげるものでは決してなかった。
フィオナが嫌悪感も露わに冷たい眼差しを向けた。
「私達はあなたに用事などありませんよ、フォールモン」
「揃いも揃って酷い態度だな。嫌われたもんだ」
共和革命に賛同したことが原因で貴族籍を剥奪された挙句、共和国内で台頭した過激派の領袖クシアン・ロピエールによって断頭台に送られた少なからぬ王国貴族の一人ヤーン・ブリアント・フォールモンの子孫は、おどけた態度で肩を竦めると、馴れ馴れしくフィオナの隣に座ろうとした。しかし、スナーが冷たく一瞥し、フィオナの肩に腕を回して抱き寄せると、あっさり身を翻した。
フォールモンはリッヒディート夫妻を見下ろし、口笛を吹いた。
「いいぞ、ちゃんとフィオナを大事にしてるな。でなけりゃ、身を引いてやった甲斐がない」
少女のように頬を染めてされるがままになっていたフィオナが、その言葉を聞いて、嫌悪感も露わに気障な没落貴族を睨んだ。
「身を引くも何も、元々あなたの入り込む余地などありませんでしたよ、フォールモン。人の妻となった女を誘惑するなど、人の道に外れた行ないです」
「俺に言わせれば、綺麗な女を見つけて声もかけずにほっとく方が、よっぽど人でなしだよ」軽薄に笑うと綺麗な歯並びが覗いた。「それに、俺は無理強いしたことなんか一度もない」
「綺麗な女に声をかけないのは人でなし、ね」部屋の鍵を掌で弄びながらアルンヘイルが戻ってきた。「なら、ちゃんと私にも声をかけるんでしょうね」
「あんたは例外だ。あんたの恋人は冗談がわからないからな」
フォールモンは身を竦めて怖々とラシュタルの様子を窺い、かつての痛みが蘇りでもしたかのように鼻を撫でた。
以前、フォールモンがアルンヘイルを口説こうとした時のことをスナーは思い出した。あの時、ラシュタルは眼前で堂々と為された暴挙に対し、紳士的に対応した。男を惹きつけて止まない半闇エルフの美女が彼の女であることを説いたのだ。しかし、フォールモンは構わず口説き続けた。色好みの没落貴族が更なる口説き文句を吐き出したその直後には、ラシュタルの鍛え抜かれた太い腕が振り抜かれ、硬い拳が伊達男の顔面を打ち抜いていた。哀れな青年は潰れた鼻から血を噴き出しながら宙を舞い、後ろに一回転して腹から床に落ちた。荒野エルフの文化において、相手の存在を知った上でその恋人や配偶者を口説くことが殺害による雪辱さえも許され得る重大な侮辱行為であるとされていることをスナーが思い出したのは、倒れ伏したまま動かないフォールモンの頭に大きな足を踏み下ろそうとするラシュタルに向かって、精気光の網を投じた時だった。彼の魔術が僅かでも遅れていたならば、雪辱を求める荒野エルフの勇者は気絶した男の頭部を踏み砕いていたに違いない。
「臆病者」アルンヘイルがくすくすと笑った。「まあ、どのみち口説かれたくもないんだけど。綺麗な女はあんたみたいのにほっといてほしいと思うものよ」
「こう見えて、結構もてるんだぜ」
「尻の軽い女にでしょ」
アルンヘイルは小馬鹿にしたように笑って伊達男の横を通り抜け、ラシュタルの隣に座を占めた。
「俺にはそれで十分なのさ。どうせ俺は気持ちいいことがしたいだけだ」
「なるほどね。あんたは私やフィオナのことを尻軽女だと思ってるわけか」
「俺に口説き落とされたら、つまりはそうだったってことになるな。試合の帰りにちょっと声をかけたら簡単に連れ込み宿までついてくる人妻連中みたいにな」フォールモンは悪びれた風もなくしゃあしゃあと言った。「だから正直、あんたらみたいな女には靡かないでほしいね。いい女だと思ってるからな。ころっと落ちてきたらがっかりなんてものじゃ済まない」にやりとする。「落ちてきたら、おいしくいただくがな」
フィオナが不快感の滲む鋭い視線を向けた。
「ならば口説こうとしなければよいではありませんか。それで皆が幸せでいられるでしょう」
「あんたみたいのを裸にしてみたい、肌に触ってたい、ってのも本音なんだよ、フィオナ」フォールモンは微笑んだ。「この女はどんな体をしてるんだろう、どんな声で喘ぐんだろう、ってね」
「で、あんたはくだらない女としか楽しめない、と」アルンヘイルの顔には侮蔑の籠もった冷ややかな笑みが浮かんでいる。「惨めね。女の価値を落として回ることしかできないんだから。もうお子様じゃないんだから、いい加減、女の価値を上げるような男になったら?」
鼻で笑うことでアルンヘイルに応え、フォールモンが男性陣に視線を移す。
「ご婦人方にはわかってもらえないみたいだが、あんたらはわかるだろう、紳士諸君」
ラシュタルは一顧だにせず、店員に声をかけて料理と酒を注文し始めた。スナーも黒板に白墨で書かれた献立表を眺め、少し遅めの昼食を頼むことにした。フィオナとアルンヘイルがそれに続き、店員に注文を告げる。
「じゃあ、俺は――」
「この人は別のテーブルです」フォールモンがさりげなく注文を言おうとするのをフィオナが冷ややかに遮った。「あなたと食卓を囲みたくはありません」
注文を終えたスナーは苦笑いを浮かべるフォールモンを見やった。
「食事時にする話じゃないが……わかるかわからないかで言えばわかる」
フォールモンは最初何のことだかわからなかったようだが、少しして理解の色を示し、満足そうに笑った。
「旦那はそう言ってくれると思ってたよ」
「スナー!」フィオナが非難の声を上げる。「あなたは何を言っているのですか」
潔癖ならざる夫は潔癖な妻に静かな視線を向けた。
「普通の生き物には性欲があるものだ。魅力的な女を抱きたいと思うのは男として当たり前だし、そういう女を見れば頭の中で犯してしまうことがないとは言えない。機会と見れば口説こうともする。男にはそういうところがある」
「あなたもそうだと?」
フィオナの海色の瞳の温度が下がり出した。
スナーはフォールモンに視線を移して続けた。
「だが、それしかないようじゃ獣にも劣る。そういう本能に操られる生きた機械としての生き方は虫のものだ」
フォールモンが苦笑した。
「俺が虫けらだって言うのかい」
「そういう自覚があるのかな」薄く笑い、フィオナに視線を戻す。「俺が言いたいのは、俺がまさしく人間で、少なくとも獣や虫よりは上等な生き物だということだ。思いはしても動きはしないし、そもそもただの性的好奇心だけで女を抱こうとも思わない。時間と体力の無駄だ。快楽だけなら自分の手で事足りる。そう思うと、もう女を見ても、性的欲求など生まれない。いい女も出来のいい絵画と変わらんよ」
「そいつは何百人と女を抱いた男の台詞だぜ。どれだけ楽しんできたんだ」
フィオナの目がますます険しくなった。
「学院時代、懐と立場に余裕が出てきた頃、ちょっと娼館で遊んだだけだ」
「具体的にはどのくらい?」
粘着質に絡むフォールモンは楽しそうだった。スナーは顔を顰めて低く唸った。フィオナは注目している。答えないわけにいかない雰囲気だった。
「そうだな、昔のことだから正確には憶えていないが……両手の指で足りるくらいだったな」
「フィオナに会うまで独り身だった割に少ないね。素人さんとは遊ばなかったのか」
フォールモンはしつこかった。
「単なる性欲処理なら金で済ませるのが手っ取り早くていい。後腐れもない」
「あんたも大概酷い男だな」
せせら笑うフォールモンには軽く眉を動かす以上の反応を示さず、スナーは話を戻す。
「ともあれ、その頃には、愛のない営みがいかに馬鹿馬鹿しいか理解できていた。愛してもいない相手に腰を振ったところで滑稽なだけだ。そう気づいて以来、女を抱く意欲がなくなった。不能というんじゃないし、魅力を感じなくなったわけでもない。ただ、性交というものに執着がなくなっただけだ。誰かに腰を振るくらいなら手で処理する方が楽でいい、というのが俺の中での性交の地位だった」
「その割にはお盛んみたいだがね。まさか、それだけべったりしといて、違うベッドで寝てるなんてことはないだろう」
「ベッドは今でも一緒だ。愛情のある営みは実にいい。頭の奥の奥までが痺れるようだ。だらしない顔で猿のように腰を振る自分の滑稽さなど考える余裕もないほど溺れてしまう。何度してもし足りないね」鼻で笑う。「君はそういう交歓の経験がないんじゃないか」
さりげなく視線を走らせ、フィオナの様子を窺った。婚前交渉はおろか唇さえ許さなかった潔癖な女剣士は、緩みそうな頬を精一杯しかつめらしく保とうと努めるような、不自然な表情をしていた。ひとまず危機は脱せたようだ。
「そいつは羨ましいお話で」フォールモンの端整な顔が下卑た笑みで歪んだ。「俺なんぞは、俺如きに靡くような女が雌豚にしか見えないもので、愛情なんてとてもとても」
スナーはもっともらしく頷いた。
「確かに君は控え目に言ってクズだからな」
「人なんて一皮剥けばみんなクズだ。違いは自覚があるかないかだけだ」
「厭世主義者め」スナーは面白そうに相槌を打つ。「だが、皆がクズだと言うのなら、それこそ遠慮も失望も要らないだろう」
「もしかしたら、と思ったことはないか、旦那。俺はいつも思ってるんだ。もしかしたら、こいつはクズじゃないんじゃないかって。だから、クズじゃないってことを証明してほしくなる」
「そして自分で相手をクズにしてしまうんだろう。マインドスの逸話を思い出す、と言ってはマインドスに失礼かな」
「マインドスだって、探し続ければ触っても腐らない食い物を見つけられたかもしれないぜ」
「腐肉の山を方々に築いた果てにな。傍迷惑な理想探しだ。誰が後始末をすると思っている。誰にも迷惑をかけない場所で勝手にやってほしいものだな」
「何かを踏みつけないと羽ばたけない。理想に限らず、世の中ってのはそういうものさ」フォールモンは肩を竦めて話題を替える。「それはさて措き、今回は何やらされるんだろうな。何も言わずに、ただイルアニンに行け、だもんな。困ったもんだよ」
「それはどういうことですか」
「何も言わずに?」
スナーは眉を顰めたが、直後、ああ、と納得した。
「何を一人で納得しているのですか。私にも説明してください」
「考える努力を放棄するのはやめろといつも言っているだろう。頭を使わないと馬鹿になるぞ」
「おいおい、冷たい奴だな。なあ、フィオナ、こっちに来いよ。慰めてやるから」
「結構です。つらくなったらスナーに慰めてもらいます」
「お熱いねえ。あんたら何か知ってるみたいだが、組合が言わないってことは知らなくていいんだろう。わざわざこんな田舎に来ようって近衛軍が怪しいと踏んでるんだが……まあ、何も訊かないでおく。さて、火傷しない内に退散しとこうかね」
からかいの笑いを残してフォールモンは奥の方に戻った。
「それで、どういうことなのですか」
「あくまでも推測だが……組合は俺達以外には何も知らせていなかったようだ」
「それは私でもわかります。私が訊いているのはその理由です」
「連中に知らせなかったのは秘密を知る者を少しでも減らすためだろう」
アルンヘイルが口を挟み、スナーの言葉を引き取る。
「で、私達に隠さなかったのは隠したって無駄だからよ、きっと。だって、私達が見つけて報告したんだもの。隠されたってピンとくるわ」
「まず味方から欺けとは兵法でも言いますが、欺かれる側からすれば愉快ではありませんね」フィオナは釈然としない様子だった。「ところで、組合はいつ彼らに情報を伝えるつもりなのでしょう。知らないままでは戦いに差し支えるでしょうし」
「俺に訊かれても困る。それこそ連中の胸三寸だ。だがまあ、俺達が勝手に喋らない方がいいのは確かだ」
「そうよ、フィオナ。お偉いさんっていうのはいつだって下に黙って虫のいいことを考えてる。でも、だからって、下が無闇にそれをぶち壊そうとすると、大抵はもっと酷いことになっちゃうのよ。下手に関わらないのが一番」
それから少しして、給仕女が注文の品を運んできた。大食らいのラシュタルが大量に注文したおかげで、彼らが占める四人には少し大きいはずのテーブルは料理で一杯になってしまった。
二階から誰かが下りてくる音がした。一歩一歩を力一杯踏みつけるような重く荒々しい足音だ。スナーがちらりと窺うと、革の上着の下から真鉄鋼の鎖帷子を堂々と煌めかせる小柄な人影が見えた。背中には鈍く輝く諸刃の戦斧を背負っている。フィオナよりもゆうに頭一つ分は背が低いが、横幅はスナーより広く、ラシュタルより狭い。酒樽を思わせる矮躯から伸びる腕はオーガのそれのように太く、太さが頭の幅と変わらない首の上にはいかにも頑固者といった顔が載っている。黒々とした髭は長く伸ばされ涎かけのように胸元までを覆い隠し、装飾の施された金属環でいくつかの房に纏められ、その先端は丁寧に編まれている。
階段から降り立ったドワーフ戦士はその突き出た腹を撫でて首を回し、店員の姿を探す素振りを見せたが、その顔がスナー達の方を向いた時、動きが止まった。
「おおい」ドワーフの口からドワーフ訛りの入った聞き取りづらい大陸共通語が溢れ出る。「お主ら、久しぶりだな。どうした、俺を忘れたのか。誉れ高きグロームヴァルの勇者にして戦士、金属細工師でもあるゲルレンド氏族のゲムリ家のドルグフだぞ」
酒場の外にまで響き渡るような胴間声を上げ、ドルグフ・ゲムリ・ゲルレンドが満面の笑みと共にテーブルに近づいてきた。他の客達が何事かとドワーフとスナー達を注視する。
「お主らも飯時だったか。丁度良い。俺も一緒させてもらうぞ」
ドルグフは勝手に席に座ったが、フォールモンの時とは違い、誰も咎めようとはしなかった。彼らはそれぞれなりに歓迎の表情を見せた。スナーも珍しく頬を緩めた。迷信深いこのドワーフ戦士は魔術師と食卓を共にすることが招く不幸を信じていながら、席に着いたのだ。
ドワーフの勇者はスナー達を見回して大きな声で喋り続けた。
「勇者フィオナ、それに勇者ラシュタルと黒い耳長、ひょろひょろ魔法使い、我らが友よ! まさかこんな所で再会できるとはな。まさに神々の粋なお計らいよ。お主らが我がグロームヴァルを訪れた時以来だから、ざっと四、五年ぶりといったところか」
フィオナが懐かしそうに目を細めた。
「ドルグフ、お久しぶりです。あなたも皆も息災でしたか」
「おうともよ。俺達はお主らと違って頑丈だ。病気も怪我もせん。お主らこそ、変わりはないか。特に魔法使い、魔法は破滅の道だからな、お主は取り分け心配でならんわ」
「余計なお世話だ。俺は博士だぞ」
ドルグフはくしゃみと見紛うほど盛大に鼻を鳴らした。
「博士だか何だか知らんが、魔法を使う者はいずれ破滅すると決まっておるのだ」不意にラシュタルの左手首に目を留め、満足そうに頬を緩める。「おう、腕輪もちゃんと失くさず持っておるな。お主らもきちんと着けておるだろうな」
ドワーフの問いに、他の三人も僅かに服の袖をめくって見せた。布地から覗いた銀灰色の輝きにドルグフは破顔した。
「よしよし。それを贈ったグロームヴァルの者として嬉しく思うぞ。ところで、話は変わるが、お主らも組合に言われてきたのか」
「ここにいる以上はそういうことになるな」
スナーは持って回った言い方で肯定した。
ドワーフは不愉快そうに魔術師を睨んだ。
「回りくどい言い方をしおって! ならば俺達は同じ目的を持つわけだ。どうだ、お主ら、俺をこの件が片付くまで仲間に入れんか」
「あなたが手を貸してくれれば心強い。でも、よろしいのですか。あなたも何か予定があるのでは?」
「我らの武器は名誉と友と生活のために振るわれる。お主らの助けになれるのであれば、喜んでこの斧を振るうぞ」
「折角の申し出だ。ありがたく受け取っておこうじゃないか」
「魔法使いの言う通りだ。友人の贈り物は笑顔で受け取るものだぞ」
「そういうことでしたら……では、ここの支払いは我々が持ちましょう」
「気を遣わんでよいのだぞ」
「久しぶりに出会えた友が贈り物をくれたのです。こちらも何か贈りたいと思うのは自然なことでしょう。それとも、私達からの贈り物は入り用ではありませんか」
「そこまで言われて断るのは無礼に当たろう。馳走になろうではないか。だが、食うと決まれば遠慮はせんぞ。後悔するなよ」
「存分に食べてください」
フィオナは微笑した。信義を重んじる者を相手に交渉する時、彼女は強い。そういう気質の者同士で話が通じやすいのだろう。
ドルグフはスナーの前に並んだ料理を見た。
「腸詰の茹でたのか。美味そうだな」フィオナやアルンヘイルの料理に視線を転じる。「鶏腿の炙り焼きもよいな」
ラシュタルが無言で陶製の杯を取り上げ、中身を一息に呷った。ドルグフは急に喋るのをやめ、漂う濃い酒精臭に鼻をひくつかせた。
「おい、荒れ地の耳長よ、良い酒を飲んでおるな。そいつは東方火酒ではないか」
酒好きなドワーフは、大暗君と呼ばれたギルジオ・ボルシュ・トロネアのたった五年にも満たない雷光のような治世下で隆盛と滅亡を味わったルーヤ人の王国から製法が伝わった蒸留酒の俗称を挙げた。
ラシュタルは酒臭い息を吐いて頷く。
「そうだ」
「一つ、そいつで飲み比べといかんか、耳長」
「受けて立つ」
「そう来なくてはな」楽しそうに歯を見せて笑い、スナーを見る。「お主はどうする、魔法使い」
琥珀色の蒸留果実酒の杯を揺らしてスナーは笑った。
「酔い止めの魔術を使っていいのなら参加しよう」
ドルグフが目を剥いた。
「寝言は寝てほざけ。やる気がないのならば素直にそう言え。これだから魔法使いだの学者だのという連中は……」
ぶつぶつと口の中で文句を呟いてから大きく鼻を鳴らし、喋る酒樽は大きな声で給仕を呼んだ。
巨蟹月も半ばに達しようという日の午後、近衛歩兵第二連隊長にして作戦演習兵団長黄金騎士リヒハインド・フェル・シュインハル無爵近衛歩兵大佐はイルアニン太守官邸の一室の円卓の前に座し、頭痛がいくつも頭の中で脈打っているかのような気分で歯を噛み締めていた。
今回の任務は不愉快なことばかりだった。軍人として、分けても誉れある近衛として、与えられた任務に不満を持つなど言語道断と言えたが、今回ばかりはその理想に沿うことは難しかった。
ケチは最初からついていた。近衛軍総司令部を通じて計画を知らされた時から、フェル・シュインハルは今回の派兵に反対だった。エートン村は帝都から距離がありすぎる。帝都から出るのは軽快な移動が可能な戦隊規模の小部隊であるとはいえ、近衛の現地到着を待っていては月単位の時間がかかってしまう。その間に状況に不都合な変化が起こらないとも限らない。理想を言えば近隣部隊に、練度が低くて頼りにならないようならばせめて冒険者にでも、処理させるのが正解だ。しかし、反対の声を上げる近衛大佐を謁見の間に召喚した皇帝により、諫言は直々に退けられてしまった。
そうして再度命じられれば、最早誉れ高き忠誠な近衛将校に勅命を拒むことなどできようもなかった。四十にも満たない無爵貴族の若造を近衛大佐にまで引き立ててくれた大恩ある主君、二度に亘って騎士磔架章を手ずから親しく胸につけて抱擁してくれた敬愛すべき主君の信頼を裏切ることなど、この実直な騎士には考えられないことだった。黄金騎士リヒハインド・フェル・シュインハル無爵近衛歩兵大佐は慎んで任務を引き受け、皇帝と帝国に忠節を尽くす軍事専門家としての誇りを以てふざけた任務に真面目に取り組んだ。
実際に仕事にかかってみると、今回の軍事行動もあながち無意味なものではないように感じられた。
真実は当初、宮廷上層部と作戦に参加する近衛兵全員及び南部州軍将兵の内、関わりのある軍曹以上の者にのみ知らされ、それ以外の者には別の形で周知される。欺瞞情報として流布される出動名目は「大機動作戦演習」、状況は「少なくとも軍集団規模に達すると見られる有力な共和国軍部隊が西部国境を突破して平和街道に進出、迎撃に出た西部州及び南部州軍迎撃部隊と衝突して膠着状態に陥っている」、想定は「皇帝陛下の名の下に戦線の膠着状態を打破して士気高揚と侵攻軍撃滅を果たすべく、近衛軍を基幹に南部州軍諸隊を編合した戦略級部隊を増派し、南下した後北西方向に旋回して平和街道に展開中の敵有力部隊を迂回、その後方連絡線を南翼側から脅威或いは可能であれば遮断する機動作戦」、実施要領は「大規模兵団を使用した本格的演習に先立ち、今回は試験として規模を縮小する。即ち、近衛軍からは増強中隊規模の戦隊、南部州軍からは数個連隊を目途に兵力を抽出して一個兵団を編合し、集結の関係から部隊移動には帝都―エイゼンノルト県イルアニン市―ミドルトン伯領ノルザベルギエ市―平和街道の経路を利用する」というものだ。作戦の真実は、兵士達に対しては決戦直前に、民衆に対しては全てが終わってから明かされる。なお、戦費は後日、ミドルトン伯が「帝国への変わらぬ忠誠を表して」全て負担する。
フェル・シュインハルは政治的な事柄に通暁しているわけでは決してないが、その決して浩瀚とは言いがたい政治的見識から、これはまず問題のない欺騙であるばかりか、諸侯に対する皇帝の優越を改めて強調して綱紀粛正を図ると共に、このところ帝国に対して挑発的な態度が目立つ不遜なる共和国統領政府の姿勢にも釘を刺す、二重三重の効果を発揮する素晴らしい意思表示であると判断した。また、純軍事的に眺めても、有事における最後の予備として留保されるべき中央の戦力の使用を局限している点は評価に値した。小戦力で大戦果を挙げることこそ兵術の極致である。自分が確かに帝国の益となる作戦に従事しているのだとの実感に満たされ、近衛大佐は充実感すら覚えて作業を進めていった。
しかし、すぐに躓きに見舞われた。名称を「作戦演習兵団」とする派遣部隊の編合作業の傍ら、彼は森内部の詳細な事前調査の実施を近衛軍総司令部に要求した。彼の中では、真っ当な軍事専門家としての習性が、敵状を常に把握しておくことの重要性を喚き立てていた。だが、冒険者組合から回されてきた報告の真偽確認に同行して現地を隠密裡に視察してきた宮廷魔術師の魔道士クライムス・クラートン無爵博士が、敵は彼のかつての師である叛逆者ウェイラー・サルバトンに匹敵する――本人である可能性はないとのこと――強力な妖術師なので下手なことをすると気取られる懼れがある、と警告を発したことで断念させられた。
それならば宮廷魔術師を、無理ならば魔術師協会か魔術学院から熟練の魔術師を派遣すればよい、とフェル・シュインハルは食い下がったが、冒険者達がしたのと同様の手法で偵察要員を森に潜入させた屍霊生物の存在を確認したクライムス・クラートンは、自身の観察結果を持ち出した上で要求を拒んだ。クライムス・クラートンは、宮廷魔術師の派遣については導師級の高位魔術師を相手にする力量と本格的な野外活動の能力を兼ね備えた者がいないと言い、協会や学院に人員を求めることに関しては、今回の一件は協会が魔法使いの統制組織としての役割を疎かにしたことに対する懲罰の意味合いがあるため、また学院は研究資料の回収に拘って足並みを乱す虞があるため、既に協力の申し出を拒否したと語った。
クライムス・クラートンの醜怪な顔から判別できた複雑な表情から、それが彼の見解ではなく宮廷魔術師団上層部の意向なのであろうことをフェル・シュインハルは察した。宮廷魔術師達は、自分達の失敗を懼れる一方で、衰退しつつある魔術学院の影響力を更に排除しようと躍起になっているのだ。
フェル・シュインハルは強い不快感を抱かずにはいられなかった。上に立つ者にあるまじき無責任な怯懦と魔術師の本分を甚だしく逸脱した官僚的な勢力争いが、近衛大佐の豊かな軍歴に裏打ちされた常識的な要望を却下したのだ。愉快な気持ちになれるはずがなかった。しかし、しつこく食い下がったおかげか、はたまた宮廷魔術師達にも最低限の職務上の義務感が残っていたのか、監視の必要性自体は認められ、結局、元素魔術修士エナンドルフ近衛魔法兵大佐の近衛魔法兵第一連隊から熟練の魔法偵察兵一個分隊を派遣して周辺監視を行なうことで落ち着いた。先行する偵察隊は白銀騎士ドズ・マッケルス伯爵近衛飛竜兵少将の近衛飛竜兵団「帝国の翼」によってイルアニン手前まで快速空輸された。
だが、決して満足のいく結果とは言えなかった。フェル・シュインハルは、冒険者組合がよこした中途半端な報告とそれを追認するだけの宮廷魔術師による魔法偵察の結果、そして上っ面だけを眺める偵察兵が定期的によこす情報だけを頼りに、全く未知の敵を相手にすることを余儀なくされていた。もっとも、敵地の十分な情報が得られないのは戦の常だ。彼が白銀騎士磔架章の受賞によって騎士称号を得ることとなった懐かしき五三八年の第二十五次北方防衛戦においては、散発的に繰り返されるヴィールキン人の奇襲で一人また一人と倒れていく部下達を叱咤してヴィールキン半島に至る道なき道を踏破したものだった。黄金騎士磔架章をもたらしてくれたまだ記憶に新しい五四七年の第十九次東方遠征時には、正確な地図もなしにルーヤの蛮地を進軍し、トロールの集落を探し出して焼き払ったこともあった。敵地の正確な位置がわかっている分、過去の状況に比べれば現状は遥かにましと言えた。だから、残念に思いはしても、深刻な失望には繋がらなかった。
しかしながら、近衛大佐が戦争の常であると苦笑いで済ませることができたのも最初の内だけだった。
フェル・シュインハル近衛大佐の指揮下に入って共に任務に当たる南部州軍部隊は、当然のことながら国境線や南東部の状況を監視する一線級部隊ではなく、後方で街道警備などを担任する二線級部隊だった。東や北の兵隊ならばそれでも問題はなかった。東部と北部は蛮族と亜人、更には連中と結託した魔王崇拝結社の脅威に絶えず晒され、前線は勿論のこと、敵は防衛線を掻い潜って後方にも浸透している。そのため、あちらに駐屯する兵隊は後方であっても前線勤務の心構えを以て気を抜かずに訓練し、常に臨戦態勢にある。常に命を懸けている彼らは、凶暴なところがあるのが珠に瑕だが、近衛の厳しい目で見ても頼もしい、背中を任せるに足る勇敢な兵隊達だ。しかし、国境以外に然程注意を向ける必要のない西と南は、そもそも兵隊と呼ぶこと自体が間違っている。こちらの後方部隊などは、箔をつけたい貴族と前線で通用しないと見做された将校が兵隊以外に食っていく能のないごろつきを指揮する集団だ。その上、諸侯の領地と管区を接する部隊などは、諸侯への遠慮から殊更に惰弱な将兵で編成される上、多くの場合は一定数を予備役兵で充足することで平時の戦闘力を弱体化させてすらいる。フェル・シュインハルが与えられることになった戦力は、まさにそうした部隊であるエイゼンノルト県駐屯の南部第十一軍に属するものだ。集結までの間に多少の特別訓練を行ないはするだろうが、所詮は付け焼刃だ。そのような連中が部下では、洗練された軍事作戦など望むべくもない、と彼は歯噛みした。
南部州軍からの部隊抽出にも一悶着あった。書簡による迂遠なやりとりを嫌ったフェル・シュインハルはクライムス・クラートンの魔術でイルアニン市に飛び、エイゼンノルト軍管区の防衛を担任する南部第十一軍司令部を直接訪問して軍司令官ゲイロン・グラルド子爵南部州軍中将に面会した。中央の高級将校による司令部訪問というあまり例のない事態に際して州軍中将は、事前に書状なり何なりで通知して時間を与えてくれていれば十分な出迎えができたのに、と暗にフェル・シュインハルの非礼と性急な横紙破りを非難したが、近衛大佐は一顧だにせず、本題を切り出した。彼は中将に対し、生活を共にして気心の知れた部隊間の連携を期待し、また駐屯地を別にする部隊の移動集合に想定される混乱を回避するため、戦力は全て部隊集結予定地であるイルアニン駐屯の南部歩兵第三十一師団から抽出するよう望んだ。ゲイロン・グラルド中将は、しかし、どこまでも軍事的合理性を追求すべき軍人でありながら、戦略上当然の要求を拒んだ。南部第三十一師団に属する歩兵及び猟兵連隊計六個の内、実に四個連隊が現役予備役混成で平時は戦力半減していることを理由に中将は、第三十一師団からは最大でも軽騎兵、猟兵、魔法兵各一個中隊と衛生隊を歩兵一個連隊に配属した戦団しか差し出せないと回答し、それで不足のようであればボルクム市に駐屯する南部軽騎兵第四十二師団から歩兵一個連隊を抽出することで埋め合わせとするよう提案してきた。中将は駐屯兵力補充のために予備役兵を招集することを渋っていた。予備役兵の主要供給源は職工と農民であり、繁忙期や収穫期の迫るこの時期に予定外の予備役招集を行なうと民衆の生活ひいては生産に負担をかけることになるので避けたい、とゲイロン・グラルド中将は言った。フェル・シュインハルには予備役招集の手間を惜しむ怠慢な司令官の戯言としか聞こえなかった。第三十一師団が担任するイルアニン師団管区だけでも二十五万――エイゼンノルト軍管区全体ならば百七十万――に迫る民が暮らしているのだ。そこからたかだか数千人を数ヶ月引き抜いたくらいで問題が起こるとは思えなかった。精々、一部の工房や畑から一人か二人ずついなくなる程度のはずである。肩を並べる仲間が唐突にいなくなっても活動に支障をきたさないよう構築された組織の幹部には、それの一体何が問題であるのかさっぱりわからなかった。全員が少しずつ負担を分かち合えばよいだけではないか。近衛大佐がそうした旨を冷厳に告げて要求受諾を重ねて迫ると、州軍中将は近衛大佐が民生に無理解であることを声高に非難して拒絶した。憤激した近衛大佐は司令部を辞し、その足で南部総督に面会を求めに向かった。彼はハイナス・メヘンレンバルク総督にゲイロン・グラルド中将を翻意させるよう求めたが、総督もまた、フェル・シュインハルの無理解をたしなめた。ハイナス・メヘンレンバルクは「軍のために民がいるのではない」と彼を諭した。中将だけでなく総督からの説明を受けてもなお、フェル・シュインハルには彼らが言うほど深刻な問題であるとは思えなかったが、仮にも政略にある程度参与する将軍と地方統治の最高責任者が口を揃えて主張する以上、無下にできなかった。こうして近衛大佐は戦略的な都合を政治的配慮の前に曲げることを余儀なくされた。軍事技術上の美しい合理性が政治上のつまらない不条理によって損なわれた不愉快な瞬間だった。
不幸はまだまだ続いた。とにもかくにも部隊編成や関係先への通達、口の堅い従軍記者の選定などの事前準備が粗方終わり、イルアニンに移動できる段階に入ったと思った矢先、死を冒涜する者を赦しておけぬと生と死の女神教団が、帝国の戦の正義を証明するとして戦神教団が、それぞれ参戦することが急遽決定された。生と死の女神教団戦士団はイルアニンに先行し、戦神教団戦士団は近衛部隊と同道する形となった。ここに至るまでには大陸最大宗派である御子教との勢力均衡といった政治的事情に基づく交渉と判断があったこととフェル・シュインハルは推測したが、軍人である彼は知るべき立場にないため、正確な事情は知らされなかった。彼にとっては決して重要なことでもなかった。彼にとって大事だったのは、知る者が――それも外部に――増えたことで情報統制の困難が増したことだった。ともあれ無爵近衛歩兵大佐は、これ以上悪いことが起こらぬようにと、かつて正式に信仰し、今でも神々の中では最も敬意を抱く戦神に祈り、暗い気持ちを胸に抱えて帝都を発つこととなった。
しかし戦神は、決して敬虔とは言えないまでも平均よりはその御心に適う半生を歩んできたはずの近衛大佐の祈りを聞き届けてはくれなかった。戦士の神はむしろかつての下僕に対してより一層苛酷な戦いを課そうとしているかのようだった。
苦い気持ちを胸に秘めての行軍中、純粋魔術学士号を持つ魔法通信将校ダーリアン近衛魔法兵大尉が帝都からの魔法通信を受け取った。その内容は近衛大佐の心を更に悩ませるものだった。ミドルトン伯が名誉挽回のために兵を作戦に参加させたいと南部総督経由で泣きついてくるので了承した、とのことだった。純軍事的に考えれば論外だった。現時点でも――頭数だけは――十分すぎる戦力が用意できているのだから、これ以上の戦力は不要の上、外部の軍を混ぜると統率上の問題が今以上に出てくる。だが、相手は南部有数の大貴族だ。判断は政治的視点から下す外なかった。各方面の面子など路傍の石ほどにも気にかける様子のない苛烈な処置とは裏腹に、皇帝はミドルトン伯に対して、それなりに遠慮する部分があるようだった。流石に南部経済を左右する大物といったところかもしれない。とはいえ、軍務一筋に生きてきた男からすると、市井の商人のような欲深い生き方は、決して尊敬や羨望に値するものではなかったが。
ともあれ、この連絡によってまずミドルトン軍が作戦に参加することが決まった。これだけでも、軍事的苦悩の増加と政治的責任の増大に頭と胃が痛くなる思いだというのに、神は彼に更なる試練を課した。またも帝都から魔法通信があり、御子教会が南部総督経由で屍霊魔術を使う妖術師の捕縛に協力したいと申し出てきたため、これを受け容れたと伝えられた。これも軍事的には論外だったが、多分に政治的領域に関わる事柄であるため、やはり帝都の判断を尊重せざるを得なかった。
実際、少し考えてみれば、仕方のない措置ではあるとわかった。宗教に膝を屈さずにいられるのは無神論を公言して憚らない罰当たりな魔術師達くらいだ。大抵の者は神々と聖職者を畏れ、何らかの神に帰依するか、少なくとも神々全体を崇拝している。そしてその内、大陸で最大勢力を誇るのが御子教会だ。信仰の真面目さの度合はともあれ、通りに石を投げれば三分の一程度の確率で御子教徒に当たる。王国では国教であり、帝国においても事実上の国教に近い。フェル・シュインハル自身は近衛入隊に際して棄教宣誓をするまでは戦神のあまり熱心でない信者であったが、特定教団の入信者としては彼の信仰は少数派であり、帝国政府や軍における信者数は御子教が最も多い。享楽的な教義から大衆に人気のある生と死の女神や、軍人や武人を始めとする勇猛な戦士達に信仰される戦神と同様――或いはそれ以上に――決して無下にできる相手ではない。下手なことをすると国家が揺らいでしまう。政治的に考えれば、この場合は特定の一宗教のみに便宜を図る結果に終わらなかったことでよしとしておくべきかもしれなかった。
しかし、いかなる事情があれ、決して愉快な結果ではない。練り上げていた作戦計画の草案の根本的修正を余儀なくされた近衛大佐は、それもこれも南部総督の弱腰のせいだ、とハイナス・メヘンレンバルク侯爵を心の中で罵った。皇帝の不徹底な態度にも不満を覚えたが、骨の髄まで近衛である彼の精神は、意識の表層に浮かぶ前にその不満を抑圧して無意識の底に封印してしまった。
フェル・シュインハルは今回の一件への皇帝の苛烈な処置はいきすぎではないかと思っていたが、こうもいろいろな不手際が積み重なると、考えを改めざるを得なかった。むしろ、今となっては手ぬるい処置に感じられた。ミドルトン伯はなんらかの処罰を受け、南部総督の首はすげ替えられるべきだとまで思うに至った。
そして、どうにか部隊集結地点であるイルアニンに辿り着いたかと思えば、また不愉快なことが、細々としたものは数えきれないほど、大きなものは三つもあった。
一つは市民達の畏縮だ。アルラート・ジェス・ティグバルト無爵近衛大尉と共に部隊の先頭に立ってイルアニンの大門から入城すると、大通りの左右に並んだ市民達は、異様な熱狂を以て彼らを出迎えた。当初は近衛兵への憧れゆえかと気を良くして普段よりも大きく手を振ってやったのだが、舎営の手配や集積物資の確認等を副兵団長デルズ近衛歩兵少佐と先遣しておいた兵站幕僚のアッケンドル近衛歩兵少佐に任せて、クライムス・クラートンと共に太守官邸に挨拶に出向いた時、それが勘違いに過ぎなかったことを知った。太守は、市内に集結した聖堂騎士団と生と死の女神戦士団の衝突や聖堂騎士団による「綱紀粛正」を懼れて市民が怯えているので近衛の力で状況を打開してほしいと語った。つまり、市民達は頼もしい抑止力としての役割を期待して、近衛兵の来着に歓呼の叫びを以て答えたのだった。フェル・シュインハルは激怒した。しかし、それが何に向けられた怒りかは、彼自身にも判然としなかった。神の教えを説き、民の心を安んじるべき聖職者達が政治や統治に首を突っ込み、民を怯えさせていることに対してか。率先して動き、必要ならば駐屯部隊を動員してでも事態収拾に動くべきエイゼンノルト県太守やイルアニン市長の他力本願に対してか。イルアニン市に司令部を構えておきながら目前の騒乱の気配を傍観するのみの南部第十一軍司令官ゲイロン・グラルド中将の怠慢に対してか。それとも、憤慨しつつも、教会側の代表である異端審問官グルツ司教と生と死の女神教団側の代表であるリライア尼僧正とに面会し、くれぐれも軽率な真似をしないよう自重を求めるのが精一杯である自分に対してか。彼は幾重にも苦々しい思いを味わう破目になった。
二つ目が、南部州軍が出す部隊二個の片割れの不手際であった。イルアニン駐屯師団である南部歩兵第三十一師団隷下、五十歳近いケンマーゼン南部州軍歩兵大佐率いる南部歩兵第八十五連隊を基幹とするケンマーゼン戦団とは違い、三十路にも達していない若いクランゼ・メルマンツィム伯爵南部州軍歩兵大佐指揮下の歩兵第七十八連隊はボルクム市に駐屯する南部軽騎兵第四十二師団隷下である。彼らは遥かなボルクムからイルアニンに移動することとなっていたが、期日通りに到着しなかった。彼らの指揮官クランゼ・メルマンツィム大佐が部下を率いて大門を潜ったのは、期日を二日も過ぎてからのことだった。途中で伝令騎兵を通じて知らせてきた通り、豪雨による天候悪化が原因とのことだった。雨天行軍による兵の消耗を避けるために都市で宿営していたのだとクランゼ・メルマンツィムは弁解したが、フェル・シュインハルには若い伯爵を始めとする青年貴族将校達――更には兵達までもが――が雨に濡れるのを嫌がったのだとしか思えなかった。冬季ならばいざ知らず、この昼夜問わず温暖な時季では通用しない言い訳である。近衛大佐はつい州軍大佐を手厳しく叱責してしまった。味方が使い物にならないのではないか、との元々から抱いていた危惧が的中してしまったことへの憤慨と無念だけが理由ではなかった。軍人としてあまりにも軟弱に過ぎる態度、皇帝の名の下に行なわれる作戦に参加する指揮官とは思えない怠慢と非常識、そして何よりも、素直に非を認めて詫びようとせず、半ば不貞腐れたような態度で消耗を避けるためとの言い訳を繰り返す姿勢が、厳格な近衛大佐を激怒させる大きな要因となった。彼は元々、見せしめとして南部州軍に負担を強い、細々とした不手際も見逃さず叱責を加えるよう勅命を受けていたが、気づけばそうしたこととは無関係に怒りをぶちまけてしまっていた。フェル・シュインハルの目にクランゼ・メルマンツィムは甘やかされて育った言語道断な貴族の典型と映った。二線級の部隊に回された挙句、フェル・シュインハルにその力量を低く見積もられ、鎖で繋がれた駄犬のように扱われ、子供のように叱責されたことでクランゼ・メルマンツィムが鬱屈したのであろうことは近衛大佐にもわかっていた。しかし、不満を抱えて鬱屈しているのはフェル・シュインハルも同じだった。生意気なクランゼ・メルマンツィムの態度は、それまでの出来事でささくれ立っていた近衛大佐の心を無視しがたいほど強く引っ掻いてしまったのである。
そして三つ目は、現に今、フェル・シュインハル近衛大佐が置かれている状況であった。参加部隊が揃い、太守官邸の会議室でようやく開かれることとなった代表者会議の空気は、包囲されて落城を待つ城砦の内部のように重苦しく、刺々しかった。
こんなことになるはずではなかったのだ。本来であれば、軍の格式の問題から州軍に対して本来の二階級上の権限を発動できるフェル・シュインハルが事実上の少将として編合部隊を有無を言わさず掌握し、思い通りに事を運ぶはずだった。それなのに、彼を待っていたのは予定とまるでかけ離れた現実だった。
フェル・シュインハルの豊かな軍歴を以てしても予想できなかった展開だ。今回の任務は彼にとって、誤算から始まり、誤算が続き、誤算が積み重なって形を成したものだった。
しかし、誤算が重なったからと言って任務を放棄できるものではないし、今後も誤算が続くとは限らない。フェル・シュインハルは前髪が後方に戦略的転進を始めつつあるせいで広くなってきた額を撫で、平静を保つように努めて室内を見渡した。
大きな円卓があり、それなりの間隔を置いて、周囲に代表者とその補佐者が着席している。フェル・シュインハルもその一人で、すぐ右隣には将来有望な副官ケイナル・ツェルヴァイス無爵近衛大尉がおり、左隣には目を背けたくなる風貌の主任宮廷魔術師クライムス・クラートン無爵博士がいる。
少し間隔を置いた右隣にはエイゼンノルト太守グラーシュエン・スレーダンス伯とその秘書官、それとイルアニン市長ナイハト・マイアルフ男爵及びその秘書官が、その向こうにはミドルトン伯の信任厚い秘書の一人でありこのたびミドルトン軍に現役復帰したクレイド・ボーゲン少佐とその補佐役がいる。その更に向こうには、生と死の女神教団のリライア尼僧正とその補佐役と目される男性僧侶、次いでまるで緩衝国のように冒険者組合の白銀騎士ブーロウ評議員とその女性秘書、その隣には戦神教団の戦士団を率いる髭面のベリン戦士長と一時的に同行することになった女教導祭司のシュレ、そしてその隣――即ちフェル・シュインハルの隣でもある――に御子教会の異端審問官グルツ司教と護衛も兼ねる聖堂騎士隊長クベイン司祭がいる。
室内は錯綜した対立に満ちていた。ブーロウ評議員は参加する冒険者達の権利を守ること以外に関心を示さないため、戦神教団は戦闘に参加できればよいため、帝国の利益を代表するフェル・シュインハルにとって何の害にもならない。だが、その分の反動なのか、他の者達がとにかく酷く、まるで話にならなかった。剃刀のような風貌のボーゲンは、お情けで参加を許された身であることを忘れたかのように妖術師をその場で殺すべしとのミドルトン伯の意向を譲らず、捕縛命令を受けているフェル・シュインハルを困惑させていた。妖艶なリライア尼僧正は不浄な研究の一切を発見次第破壊するよう主張し、研究内容を可能な限り回収するよう宮廷魔術師団から命じられたクライムス・クラートンと平行線の議論を続けていた。赤紫の略式司教服を着た猛禽のような顔のグルツ司教と頑固そうな角張った顔のクベイン司祭などは、妖術師の尋問及び処刑と研究成果の破壊を主張しつつその優先権や手法を巡ってボーゲン少佐やリライア尼僧正と争い、神と魔術に関する聖職者と魔術師の伝統的な見解の相違からクライムス・クラートンの存在に強い不快感を示してその意見を否定し、全く手のつけられない有り様だった。それなのに、名目上とはいえ主催者であり、仲裁に入る責任を持つはずの太守グラーシュエン・スレーダンス伯は、優柔不断な態度で事態を傍観しているだけで介入する気配すら見せない。
「諸君、言い争っている場合ではなかろう!」
耐えかねて、フェル・シュインハルは声を荒げた。言い争う声が静まり、一同の視線が近衛大佐に集中する。
用意しておいた調整案を残らず否定され、フェル・シュインハルは万策尽きていた。それでも思わず声を上げてしまった以上、沈黙は許されない。ひとまず、現状認識を語ることで時間を稼ごうとする。
「おそらく、この場でいくら話し合ったところで、それぞれに譲る気がない――譲れぬ事情がある――のだから、決着がつくはずもない」
「近衛大佐のお言葉は実にもっともだ」グルツ司教が残忍さと苛烈さを湛えた瞳でフェル・シュインハルを見据えた。異教徒を眺める眼差しには寒々しい鋭さと灼熱の嫌悪が宿っている。「しかし、ではどうせよと言われるのだ。力づくで我々を従わせるおつもりか」
百年以上もの長きに亘って異端審問に携わり、異端者達に制裁を科し、邪悪な――と見做された――者を何千人も処刑してきた化け物のような老人の鋭い眼光には、数多の戦場を駆け抜けたフェル・シュインハルでさえ、たじろがずにいられなかった。戦場で果敢に挑んでくる敵を斬り伏せる苛烈さと、慈悲を求め或いは無実を訴える罪人を火刑台に追い立てる苛烈さとは、似て非なるものだ。
「それは、猊下……」
フェル・シュインハルの声は尻窄みになって空気に溶け去った。反駁しかけたはよいが、上手い答えが喉から出てこなかった。
あまりにも大きくなりすぎた教会には、二種類の聖職者がいる。篤い信仰心を胸に秘めた本物と、組織経営上の必要から叙階される事務屋である。
教会の実権を握るのは後者であり、彼らは宗教的権威を政治的権力の一形態としか捉えていない。その胸の中に信仰心が欠片程度も転がっていれば上等と言える者達である。そういう者達は生臭い話が通じる。経済や政治を共通の論理として会話ができる。
しかし、今、近衛大佐の目の前にいる老司教は違う。これは本物だ。
殉教することも処刑されることもなく、また聖者ヴァンターや聖女ティーナのように生きながら列聖されることもなく、一世紀以上を生き長らえてきた事実は、グルツ司教が世俗の論理をある程度尊重してきたことを示す。平民であろうと王侯であろうと聖職者であろうと、長生きするためには、それぞれが身を置く世界での振る舞いに注意を払わないわけにいかないのだから。
だが、そうであるのだとしても、この恐るべき異端審問官の根っこの部分は、あくまでも人の論理ではなく神の論理の下にある。その行動と努力は一分の洩れもなく美と善に溢れた神の国を地上にもたらすために捧げられる。
「それは、何だ、フェル・シュインハル近衛大佐」一欠片の好意も含まれていない声と視線が近衛大佐を打ち据える。「まさか、我らの手に全てを委ねようと言うのではあるまい。そうでないのであれば――徒に言葉を飾るのはやめられよ――つまるところ、我々の言い分を退けるということであろう。然るに、我々は政治的取引になど応じぬ。我らを沈黙させるものは、御言葉か剣に他ならず、そしてあなた達は預言者ではない。あなたは剣の煌めきを以て我らに沈黙と譲歩を強いるつもりでおられるのではないか」
「それはだな、猊下……そう……」
普段接する事務方の名ばかり聖職者達とは明らかに一線を画す本物の司教を前に、近衛大佐はすっかり気圧されてしまっていた。
「もし、そうと言うのであれば……」猛禽のような顔をした老人は追及の手を緩めない。獲物を狙う鷲のように獰猛な表情になる。「我らも黙って意のままにされるわけにはいかぬ」
「我らと刃を交えると言われるのか」
フェル・シュインハルは表情を険しくした。
場の緊張が増した。空気が重くなり、会議の出席者達は表情を引き締めてやりとりを見守っている。
「あなた達と刃を交えるのではない。それは結果に過ぎぬ。我らは信仰を守るのだ。そして、そのためならば、いかなる犠牲も支払う覚悟がある。主に帰依した全ての者は、主のために血と命を捧げることを厭わぬ」
老司教の眼は静かな決意を窺わせ、口にした言葉が冗談でも脅迫でもなく、純然たる警告であることを物語っていた。その傍らではクベイン司祭が大仰に頷き、同意を示していた。
「同じことではないか!」
フェル・シュインハルは悲鳴にも似た声を上げた。十分に警戒と対策を済ませたつもりで、その実、まだまだグルツ司教という老人を侮っていたことを彼は悟った。フェル・シュインハルは元々、いくら大宗教の組織と権威を背負っているとはいえ、たかだか一司教に過ぎないグルツが南部総督を威圧しえたのは、総督が弱腰であったためであると考えていた。だが、それが間違いであると今し方理解した。これは最早、姿勢が強硬であるか軟弱であるかの問題ではない。同程度の狂気を以て対抗できるか否かなのだ。そしてフェル・シュインハルは、そのような決断を下す地位になく、そのような暴挙に出るには理性的に過ぎた。
略式の司教服を纏った狂信者が静かに続ける。
「兎にも角にも、不道徳で、穢れに満ちており、存在自体が悪である妖術師を見逃すことは許されぬ。彼奴らは主の御名の下、火によって清められねばならぬのだ」
公の場では余程のことがない限り用いられることのない強烈極まる表現に、フェル・シュインハルは目を瞬かせた。不気味な響きを伴う三つの言葉は、発音はおろか表記さえ慎まれるべき、魔王の名を意味する忌まわしい上代語だった。魔王の名が形容詞や修飾語や比喩表現として用いられる場合、それは最大級の否定的表現となる。
被告人を尋問する検察官のように鋭利な眼差しで、異端審問官が近衛大佐を見据える。
「さあ、近衛大佐。お答え願おう。我々にどうせよと言われるのだ」
「猊下、そのように喧嘩腰で来られては困る……」答えあぐねる内、一つの案が閃いた。半ば自棄になって水を向けてみる。「そうだ、いっそ、競争で決めるというのはいかがか」
「競争ですか」
その美貌がなぜか本能的な不安を掻き立てるリライア尼僧正が、袈裟の下のゆったりした法衣に覆われてなお存在感を放つ肉感的な体を蠱惑的に傾け、潤んだような瞳でフェル・シュインハルを見つめた。
クライムス・クラートンが不気味な顔を訝しげに向けた。
「近衛大佐?」
フェル・シュインハルはおぞましさに低く呻いた。肌が粟立った。三年前の遠征を境に変わり果ててしまったその慄然たる有様に、彼は一向に慣れ親しむことができずにいた。彼は変わり果てる前のクライムス・クラートンを知っているのだ。
全員の視線が近衛大佐に集まった。フェル・シュインハルは咳払いして無言の問いに答える。
「最初に確保した者が優先権を持つこととするのだ」
危険な賭けになることは承知の上だった。フェル・シュインハルは、地方に皇帝の権威を知らしめる任務を負っている。もし他勢力に出し抜かれるようなことがあれば、それは皇帝の権威に傷がつくことを意味し、少なくとも彼の軍人としての将来は喪われる。このところ師団長から仄めかされるようになった准将進級に向けての軍事大学校一般戦略課程への入校、ひいては全将校の憧れたる近衛大将乃至近衛元帥への道が閉ざされるのは勿論のこと、連隊長の地位さえも危うい。近衛に名を連ねていられるかどうかもわからない。第一皇子の「事故死」を防げなかった失態の責めを負わされ、皇太子付にまで上り詰めておきながら一時近衛を追われたフリドー・ムルス・ヴァンロルトの例は記憶に新しい。しかし、他にリライアやグルツを黙らせる方法を彼は考え出せなかった。利害の対立はあれどもボーゲンやブーロウはフェル・シュインハルと同じ世界の住人だから同じ理屈が通じると期待できるが、リライア尼僧正やグルツ司教の心は神の国に住んでいる。俗世の生臭い理屈など通じるはずがない。崇める神の御心に近づいた敬虔な高位聖職者が教義に基づいて何かを言い出した場合、まともな手段でそれを曲げさせることはできない。そして、皇帝の信頼厚きフェル・シュインハル近衛大佐は、自身の裁量でまともでない手段を採る権限を授けられているが、その深い信頼を思えばこそ、その取り扱いに慎重にならざるを得なかった。
無用な戦術的危険を負う破目になることも理解していた。彼は元々、南部州軍諸隊を用いて森を全周包囲した後一斉に圧迫し、反応を待って敵状を見極めた上で、切り札の近衛戦隊を要点に一点投入して決戦する計画を持っていた。かわいい部下達の犠牲が減る上、戦闘も効率的に進み、更には戦闘が早期決着を見れば結果的に未熟な南部州軍の損害も減る。その上、南部州軍の面子も立ててやることができる。一石で何羽もの鳥を撃ち落とし得る堅実にして洗練された作戦だ。「協力者達」が出てきた後も、自分達の邪魔にならない範囲で彼らを作戦に組み込めるよう修正を加えて保持し続けた。しかし、堅実であろうと洗練されていようと、実現不能となれば子供の空想にも劣る。忌々しい協力者達を無理なく従えることができず、また彼らに節度を守ろうとする気配もない以上、ことここに至り、遂に破棄するしかなくなった。皇帝や総督が政治を軍事的合理性に優先するのを目の当たりにして不満を抱いた自分が、今は彼らと同じことをしようとしている。その惨めな事実にフェル・シュインハルは頭が痛くなる思いだった。心の中で、自分の力量不足から無用な死地に追いやってしまうこととなった麾下将兵への、決して声に出してはならぬ詫びの言葉を呟いた。
「そいつは結構ですな」フェル・シュインハルとしては前髪に親近感を覚えずにいられない、禿頭のブーロウがわざとらしく頷いてみせた。「しかし、もし同時に――でなければ協力して――確保した場合はどうします。競争相手を妨害して足を引っ張る者がいたら? こういった点を詰める必要がありますな」
フェル・シュインハルは安堵した。冒険者組合は今のところ帝国側の味方だ。こうして賛同する姿勢を見せた上で、この方針に沿って議論を進めていくことが既に決まったかのような態度で会議を誘導している。
会議が冒険者組合と軍に主導されていることを察したらしく、グルツ司教は不快そうに顔を歪めた。
「……よいご意見だと思う、ブーロウ評議員」
だが、敢えて反駁する気配は見せなかった。狂信者とはいえ、フェル・シュインハルからこれ以上の譲歩を引き出すことが難しいことを理解する程度の冷静さは持ち合わせているのだろう。
フェル・シュインハルは机の陰で腹を撫でつつ、軍人的なぎこちなさの滲む微笑を浮かべた。
「では、そのように話し合いを進めるとしよう」
「フェル・シュインハル近衛大佐、よろしいでしょうか」
リライア尼僧正が手を挙げた。
「何かな、尼僧正猊下」
美貌の尼僧の口からどのような無理難題や奇想天外な意見が飛び出てくるか。折角纏まりかけた話を台無しにされるのではないかとフェル・シュインハルは気を揉んだ。
「そういうことであれば、我々は帝国軍と協力したいと考えます。我々の目的はあくまでも、死の女神の民を救い、死を冒涜する者を滅ぼすことです。叶うならば生と死の女神の従僕である我々の手で為したいとは思いますが、無理を押してそれに拘る必要を感じてはいません」
尼僧正の言葉を当てこすりと取ったか、グルツ司教とクベイン司祭が不快そうに表情を険しくした。
フェル・シュインハルはそれに気づかない風を装い、殊更喜ばしげな調子で提案に相槌を打つ。
「なるほど。猊下はそのようにお考えか。ありがたいことだ」
「はい、我々の望みは、妖術師とその研究が滅びることだけです」
グルツやボーゲンの姿勢を比較対象とすれば、悪くない提案と言えた。しかし、完全に良いとまでは言えない。厳密に言えば、それは帝国の利益に対立するところがある。
「失礼、近衛大佐、尼僧正。発言をお許し願いたい」
案の定、クライムス・クラートンが声を上げた。突然話に混じろうとした醜悪な魔術師に座の視線が集まる。
近衛大佐は更なる面倒を予想したが、立場上、黙れと言うわけにもいかなかった。リライアにその役目を期待できるかと思い、目配せをして窺ってみる。
尼僧正ははっきりと頷いた。
「私は構いませんが、いかがですか、近衛大佐殿」
フェル・シュインハルは諦めた。
「……クライムス・クラートン博士、手短にお願いする」
「では」と一礼し、クライムス・クラートンがリライアの顔を見据える。地獄めいた顔にも怯むことなく、妖しい美貌に微笑を湛えて尼僧正は嫣然と視線を受け止めた。生と死の女神の祭司が死者を弄ぶ魔術師に対して抱いでいるのであろう業火のような憎悪は、そこからは欠片も窺えない。魔術師と異教徒に対する敵意と嫌悪を隠そうともしないグルツ司教とは対照的な態度と言える。人の心の裏を読むことが上手くも好みでもないフェル・シュインハルは、奇妙な不安感を煽られて仕方がなかった。リライア尼僧正には裏しかないかのようだった。
美貌の尼僧正が心の奥底に秘めるおぞましいものに気づいている素振りさえ見せず、全く動揺の感じられない平然たる態度で異貌の魔術師が述べる。
「尼僧正。私が宮廷魔術師団から研究成果の回収を命じられていることは既にお話しした。そうである以上、あなた達の望みが無条件で叶えられることを許すわけにいかない」
「条件付きであれば許していただけるということですか、博士」
「その通りだ」クライムス・クラートンは首肯した。「譲歩できる部分は譲歩する用意がある。立場を明らかにするため、もう一度述べる。団は魔術上の成果以外に関心はない。私が絶対の確保を命じられているものは研究記録と資料類であって、その作品や財産ではない。妖術師の身柄や製作物への関心は無論あるが、それぞれの価値に応じて多少の違いは出るものの、それらについての我々の基本方針は『手に入るものを手に入れる』の域に留まる。この点に関して宮廷魔術師団は各方面との交渉に応じる意思がある」
クライムス・クラートンは単にリライアにのみでなく、グルツやボーゲンに対しても述べていた。
リライアが確かめるように問い返す。
「あなたと交渉すればよろしいのですか」
「いや、私は特に価値のなさそうなものについて、独断で気づかないふりをすることを許可されているだけに過ぎない。やはり、後日、正式な経路から団や宮廷と交渉すべきだ」
クライムス・クラートンの回答は素早く、そして落ち着いていた。おそらく周到な魔術師は、生と死の女神教団や御子教会の介入がわかった時点であれこれと状況と対応を想定していたのだろう。
「では、そのように致します。ありがとうございました、クライムス・クラートン博士」リライアが会釈し、フェル・シュインハルに顔を戻した。「近衛大佐、我が教団はあなた方と力を合わせるに吝かでありません。そちらはどうお考えですか」
すぐには答えず、クライムス・クラートンを横目に窺う。
「私は全体の利益を尊重せよと命じられています」
それが宮廷魔術師団の回答だった。
「力を合わせるということは、あなた達が完全に我々の統制下に入ることと解釈してよろしいか」
近衛大佐の問いに尼僧正は真面目な顔で頷いた。
「教義の許す範囲において、ならば」
「了解した。そういうことであれば協同しよう」一同の顔を順繰りに眺める。「他の方々は競争によって事を決するということでよろしいか」
「組合はそれで結構ですよ、近衛大佐。現実問題、冒険者が軍と足並みを揃えるなんて土台無理な話です。それに、戦利品を後で公平に分配するなんて話に納得しそうにないのにも二、三心当たりがあります」
「ありがとう、ブーロウ殿」頷き、視線を転じる。「ボーゲン少佐。貴官はどう考える」
ボーゲンは苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、諦めたように小さく息を吐いた。軍人らしく背筋を伸ばし、はっきりとした口調で答える。
「我々も異論はありません。かくなる上は正々堂々の競争によって雌雄を決しましょう、近衛大佐殿」
グルツとの頭の痛くなるやりとりをこなし、クライムス・クラートンとリライア尼僧正の迂遠なやりとりを眺めていたせいか、ボーゲン少佐が示した堂々たる潔い態度は、近衛大佐の目に非常に清冽な印象を与えた。心労と緊張で強張っていた顔の筋肉が自然と緩む。
「……私も提案を受け容れる」
グルツ司教も頷いたが、その顔には不平と不満が露骨なまでに表われていた。
だが、それぞれに思惑はあれども、これで全員の意見がひとまず一致を見たことは確かだった。
「ご賛同いただき感謝する。それでは、この方針を基に考えを進めていこう」
フェル・シュインハル近衛大佐は戦に臨む武人の態度で会議を主導していった。いかに宮廷に有利な条件設定を取りつけるか。それが今の彼の戦略目的だった。今や彼は刃を交えない戦争の決勝会戦に臨もうとしていた。