第四章
帝国の中枢である帝都。その中枢である皇宮を守るように皇宮周辺に配置された近衛兵営の一角。近衛歩兵第一師団「大帝の剣」隷下近衛歩兵第二連隊第一大隊第一中隊の中隊長執務室。
白羊月も終わりが近づいたある日の昼、小さな資料棚や作業机、心安らぐ香りを出す観葉植物の鉢、応接用のテーブルや椅子、剣架、軍靴の荒々しい足踏みに耐える厚手の絨毯など、最低限のものだけが置かれた軍隊らしい殺風景な部屋では、将校と下士官による実務的な打ち合わせが行なわれていた。議題となったのはミドルトン伯爵領はエートンなる村の近郊にある森への派兵だった。冒険者組合が派遣した冒険者によって、魔術学院の導師達を凌ぐほどの実力を持つ妖術師が森に潜伏しているらしいことが判明したことから、そうした事態を未然に防ぐべき南部総督もミドルトン伯も魔術師協会も当てにならぬと怒り心頭の皇帝が、妖術師捕縛のため、近衛から抽出した部隊を基幹として南部州軍部隊を編合した捕縛部隊の派遣を決定したのである。その指揮官として直々に指名されたのは近衛歩兵第一師団近衛歩兵第二連隊長黄金騎士リヒハインド・フェル・シュインハル無爵近衛歩兵大佐であり、フェル・シュインハルは基幹部隊として、指揮官とする将校の名前から「ジェス・ティグバルト近衛戦隊」と命名した近衛増強一個中隊を選んだ。それだけでも十分すぎるほどに大事なのに、今回はそれに加えて、冒険者組合が「帝国への友誼を示すために」冒険者の一団をエートンに派遣すると申し出、宮廷はそれを受け容れてしまっていた。
複雑な政治的事情の後押しを受けて急遽決定された出動に関係各所は大わらわとなり、上の方ではまだ何かとごたつきを見せているようだが、政治的な事情に直接関わるほどの権限も規模もないジェス・ティグバルト近衛戦隊にはあまり関係のないことであった。彼らの打ち合わせは部隊の編組作業や行軍計画、戦闘計画が主であり、それらはごく事務的に定めることのできるものである。あとは決まったことを決まった通りに実行するだけ、という段階まで彼らが辿り着くのは決して難しくなかった。
打ち合わせを終え、各小隊長や隊付将校、各係の下士官、そして今回の作戦のために配属された各小部隊の将校達が退出した部屋では、第一中隊及びジェス・ティグバルト戦隊の中核となる者達が難しい顔を突き合わせて居残っていた。
室内には黒を基調とする詰襟の制服を着た将校二人と下士官一人の姿がある。それぞれの左肩には逞しい手に掴まれた剣が描かれた師団章が、また右肩には師団番号と連隊番号が併記された部隊章が、それぞれ縫いつけられている。胸元には色取り取りの略綬の他、沈んだ輝きを放つ赤銅磔架章が佩用されている。将校二人の腰には馬上でも使える長剣が佩かれ、下士官の腰には乱戦に強い小剣が吊るされている。
机に向かう第一中隊長兼近衛戦隊長ジェス・ティグバルト無爵近衛歩兵大尉が、精悍な若武者を思わせる顔を苦く顰め、長椅子に腰かけた副中隊長兼近衛戦隊副戦隊長ネイトハード・デラドルク近衛歩兵中尉に嘆息混じりにぼやく。
「なあ、ネイトハード。面倒なことになったと思わないか」
「勅命ですよ」
きっちりと制服を着こなしたデラドルクが、真面目そうな顔に冷徹な表情を浮かべて素っ気無く答えた。
一方、その隣に座る第一中隊先任下士官兼戦隊先任下士官イェゲル近衛歩兵曹長は、いかつい顔に理解の笑みを浮かべて中隊長に同意を示し、次席の上官をなだめる。
「しかしですな、中尉殿、兵隊同士の縄張り意識という奴は馬鹿にならんものです。中隊一つ違うだけで、もうそいつは余所者ですからな。軍自体が違うとなると……」
「先任の言う通りだ。俺達は南部軍の縄張りを踏み荒らすんだ。そりゃあ、責任者は連隊長だが、今回、次席は俺なんだぞ。何かあれば南部軍と現場で直接話すのは俺だし、そうでなくたって、連隊長は総指揮を執るんだから、参加する近衛の指揮は俺の責任になる」
「だらしのない州軍に活を入れてやればよいでしょう」デラドルクはジェス・ティグバルトの弱気をたしなめるように言った。「元々、それが我々の任務のはずです」
「……こういうことを言うのは不敬だとわかってはいるが、陛下のやり方は少しばかり、その、強引に過ぎると言うか、過激じゃないか」
「全ては陛下を軽んじ、職責を果たさぬ不届き者共がいけないのです」
皇帝主義者の近衛中尉は断固たる態度で否定した。彼にとっては「陛下」の御言葉が法であり、それを逸脱することはおろか、異を唱えること自体が許しがたい犯罪なのだった。単なる忠義者に過ぎないジェス・ティグバルトには理解できない、まるで預言者にでもなったような姿勢と態度だった。
「それにしたって、近衛を送りつけて作戦を決着する、というのはやりすぎだ。総督と伯爵、その上南部軍の面目が丸潰れだぞ」
「奴らにはいい薬です」デラドルクが酷薄に吐き捨てた。「人は鞭で殴りつけられてようやく過ちに気づくことができる生き物です。百歩譲っても、鞭を見せねばどうにもなりません。この程度は生ぬるくすらあります」
「だが、無駄に波風を立てる必要もない。今回だって、警告に留めておく手もあっただろう」一個人としての意見を述べた後、軍事の専門家としての意見を付け足す。「それに、ここからイルアニンまでどれだけ距離があると思っているんだ。強行軍でも一ヶ月以上かかる見通しだぞ。集結するまででそれだ。そこからエートンまで行かなきゃならないんだぞ。攻撃開始は何ヶ月後だ。安全を期すなら、南部軍に対処させるのが一番いい」
「中隊長、近衛の栄誉に与りながら、陛下のなさることを批判するのですか」
皇帝主義者の茶色い瞳に険しい光が宿った。
暗に不敬を詰られ、ジェス・ティグバルト大尉は表情を硬くした。
「口が過ぎるぞ、デラドルク近衛中尉」
「お二人とも」四十近いイェゲルが、まだ三十にもなっていない中隊長と、まだ二十代半ばに達しただけの副中隊長の間に入った。「将校殿なんですから、若い兵隊みたいに喧嘩腰になるもんじゃありませんよ」
デラドルクは目に冷たい怒りを宿して先任曹長を睨んだが、殊更に悪罵するような真似はしなかった。中尉如きが先任曹長を粗略に扱うなど狂気の沙汰だと彼もわかっているのだ。先任曹長を顎で使いたければ、最低でも少佐くらいにはなっていないと話にならない。
「ネイトハード」ジェス・ティグバルトは頭を掻き、態度を和らげて呼びかける。「私は陛下を批判しているんじゃないんだ。ただ――畏れ多いことだが――お気の毒に思っているんだ。こんなにも厳しい処置が必要だとお考えになられるほど、州軍や諸侯に絶望しておられるのか、と……」
ジェス・ティグバルト大尉はさりげなく皇帝の戦略批判をごまかし、話を皇帝と地方との関係にすり替えた。
「州軍も諸侯も腐りきっています」デラドルクは一転、沈鬱な表情になって呟いた。「或いは、帝国中央軍でさえも」
「改革できる人がいればいいんだが……ティートバルクの騎士とか。ああいう人が将軍になれば軍も変わるだろうに」
「ムルス・ヴァンロルト少佐殿は無理でしょう」イェゲル先任曹長が陰鬱な空気の中で口を開いた。「あの人はティートバルクでの大活躍で貴族に成り上がりはしましたが、平民出だし、経歴もまずい。何より、あの人ももう歳です」
「問題はそこだな」ジェス・ティグバルトは溜息をついた。「平民からの成り上がり貴族が将軍になった例がないでもないが、あの人は経歴が経歴だし、たとえ見込みがあったって、今の階級じゃ将軍に進級するより現役が終わる方が先だろう。せめて生まれつきの有爵貴族だったら話も変わったんだろうがな」
ジェス・ティグバルトは彼らの連隊長のことを連想していた。黄金騎士リヒハインド・フェル・シュインハルは、無爵貴族でありながら三十代半ばで近衛大佐にまで上り詰めた。ムルス・ヴァンロルトも近衛将校に任じられたほどの能力を持つのだから、有爵貴族でさえあったならば、少なくともフェル・シュインハル近衛大佐に並ぶことくらいはできただろう。つまり、悪くとも退役前に准将か少将にはなれたはずなのだ。
「それに、ムルス・ヴァンロルト少佐は、お世辞にも指揮官として有能とは言えません」デラドルクが残念そうに言葉を継いだ。「大隊より大きな部隊の指揮は手に負えないでしょう。師団や軍団の指揮ともなれば、部隊を崩壊させないでおくだけで精一杯かと」
「そうですな」イェゲルもしみじみと頷いた。「私も会ったことがありますが、あの方は、立派な騎士だし、人としても善い方です。将校殿としても悪かないです。でも、決して良かないんです。ああいう人は教官や憲兵なんかが適任なんですよ。でも、あの人の腕っ節はそんなところに押し込めとくには惜しい。もうちょっと歳を食うまでは、あの人の活躍の場は机の前じゃないんですよ。とかく、世の中というのはままならんものですな」
「別に指揮官としての能力が低くてもいいんだよ。指揮はできる奴に任せればいい。肝心なのは、ああいう堅物に思えるくらいの人が一人くらい上にいることだ。そうすると、周りや下もある程度真面目にやらないわけにいかなくなる」
「なるほど。それは言えますな。頭がしっかりしていると、自然、下の連中も気を引き締めるものです」先任曹長が理解の表情を浮かべた。しかし、そこに納得の色はなかった。「しかしまあ、そのためだけに――こう言っちゃ失礼でしょうが――戦争下手を将軍にするのはどうかと思いますがね」
「私もそう思います、中隊長。軍の本務は戦闘です。無論、より精強な軍を作るための改革は必要です。しかし、そのために今ある軍を弱めるが如きは本末転倒というものです」
二人の反論を聞きながら、ティグバルトは心の中で慨嘆した。この二人は、軍隊はただ強く在ればよいと思っている。何か問題が起これば力でねじ伏せればよいと思っている。決して異常な考えではない。大体の軍人はそう思っているに違いない。そしてそれで十分で、それ以上踏み込むのは、少なくとも大佐でも将軍でも爵位持ちでもない身分では、むしろ僭越なのだ。
アルラート・ジェス・ティグバルト無爵近衛歩兵大尉は、まさに彼のような軽輩がその僭越の挙に出ずにいられない現状に、深刻な危機感を抱いていた。
中尉と先任曹長におざなりな返事をしながら、アルラート・ジェス・ティグバルトは、今回の過剰な懲罰的措置がただの暴挙に終わらず、何らかの救いを帝国にもたらすことを父なる主に祈った。
「広く深い迷宮」という都市がある。
帝国中央部の北側、建国者ラーク大帝と大鷲の逸話にちなんで大鷲山と呼ばれるようになった山の麓に位置するこの都市は、気候が清涼で交通の便もよく、一年を通じて過ごしやすい住み良い場所であるが、住宅地や避暑地や観光地としては致命的な欠点を抱えていた。どれだけ美辞麗句で讃えても結局のところは暴力で世の中を渡るならず者に過ぎない冒険者達がひしめき合っていることもそうだが、それ以上に、この都市の来歴に問題があった。
この都市の起源は百五十年ほど前、実に共和革命戦争期にまで遡ることができる。その最初期の姿は、この一帯に広がる超級の地下迷宮の探索拠点であった。一帯の地面のどこを掘っても新しい入口を掘り当ててしまうほどの巨大さから、その迷宮は「広く深い迷宮」と呼ばれ始め、名誉と財宝と危険を求める冒険者達を大陸中から引き寄せることとなった。こうした人々が豪胆にも怪物がひしめく大迷宮の上に宿営地兼迷宮発掘現場を建設し出した時、この街は静かな産声を上げた。共和主義者との戦いに追われる帝国の関知しないところで街は成長していき、戦争が一段落して余裕を取り戻しつつあった帝国が気づいた頃には、おいそれと手出しのできない存在と化していた。理由は二つあった。一つは疲弊した帝国には集結した冒険者達の支配や排除が困難であったこと。もう一つが、無計画な発掘によってあちらこちらで迷宮が口を開け、一帯が放置不能な危険地帯と化していたこと。そしてこの二つの理由を背景として、冒険者側が自主統制組織としての組合結成や迷宮の管理と調査を申し出たことにより、「広く深い迷宮」は、怪物を隣人とし、地獄の上に家を築く、大陸に類例のない自治都市として大陸にその名を知らしめ、ますます成長を続けることとなった。
そして、初めて冒険者が足を踏み入れてから百五十年余りが経った今、土と木と石で出来た「広く深い迷宮」の地上部分の街並みは、新しい迷宮入口の発見に次ぐ発見、それに伴う防壁や監視所の増設に次ぐ増設、市街地の拡張に次ぐ拡張、移住してくる冒険者の住居の無秩序な建設などにより、地下に負けず劣らずの迷路と化していた。「広く深い迷宮」を根城とする冒険者達は、迷宮に出かけ、迷路に帰るのである。
その地上の大迷路の外れ、新開発地区と呼ばれる一角に、フィオナ・カルミルス或いはリッヒディートが率いる一行の拠点はある。煉瓦と石と木で出来た二階建てで、大きさは小さな旅籠ほど。庭はあるが大したものではない。外壁と道路や隣家の間に幅二メートル程度の隙間を作るだけの、ほんの申し訳程度のものである。
フィオナ一行の拠点の二階西側に、狭くも広くもない、つまり過不足のない大きさの部屋がある。煉瓦造りの壁は壁紙で覆われ、床には分厚い絨毯が敷かれている。家具は貴族風の洒落た化粧台と寝心地の良さそうな二人用ベッド、小さめの書き物机と椅子、衣装棚、銀灰色に輝く片手半剣と不気味にねじくれた長杖が仲良く並ぶ剣架があるくらいである。南側には窓があり、カーテンの隙間からは麗らかな陽光が射し込み、室内をじわりじわりと暖めている。
ベッドには揃いの寝間着を着た男女の姿があった。寝苦しそうな顔のスナー・リッヒディートと、スナーの長身に抱きついて安眠しているフィオナ・リッヒディートである。スナーは時折呻き声を上げて身を捩り、フィオナは幸せそうな顔をしてそのスナーを捕まえ、筋肉に覆われた手足を痩せた体に絡みつける。
ここはリッヒディート夫妻の寝室である。
白羊月最後の日、スナー・リッヒディートは絶体絶命の窮地に立たされていた。
かつてない強敵が目の前にいる。それなのに、学士号を得るための試験課題で製作して以来、ずっと苦楽を共にしてきた長杖は、肝心な時に手許を離れてどこかにいってしまっていた。こんな時のための予備の棒杖もなぜかなかった。最後の切り札であるはずの銀の指環もだ。移送の魔術でいずれかを引き寄せるのは間に合いそうもない。真銀色の見事な毛皮に覆われた虎は茫洋とした表情で彼の顔を眺めているが、その姿勢は表情とは裏腹に剣呑なもので、今まさに飛びかかろうと身を低くしている。初手で決めなければやられるのは彼だ。
危機を脱するため、スナーは久方ぶりに杖も触媒を用いずに攻性魔術を放つことにした。学徒時代、練習用の杖を使って何時間も魔術の発動演習をしていた時分は、杖を使わずに魔術を発動することに憧れ、一時は杖など使わない魔術師を目指してやろうとも思ったものだった。しかし今は、あの忌々しい練習用の杖でもよいから、手許に魔術用の杖が欲しかった。万能の基本触媒である杖があれば、魔術は本来の何倍もの力を発揮する。
こういう時に使うべき魔術は決まっている。純粋魔術か元素魔術だ。この二体系の攻性魔術は手軽かつ手早く発動でき、しかも威力もそれなりのものを期待できる。
速さと強さの兼ね合いを念頭に置いての一瞬の思案の後、スナーは決断を下した。指先を虎に向け、気合一声、電流の魔術を放つ。指先から迸り、精気光で生成された導体を辿って電光が空気を引き裂くように伸び、虎を捕らえた。
しかし、人を容易く黒焦げにするだけの電流にも、虎はまるで堪えた様子がなかった。額を軽くはたかれただけであるかのように、きょとんとした顔で目を瞬かせただけだった。
元素魔術は効き目が薄いらしいと判断し、スナーは間髪入れずに純粋魔術に切り替える。第二撃として星幽打撃を放とうとしたが、虎の動きの方が速かった。大きく伸びるようにして跳んだかと思うと、真銀色の猛獣は次の瞬間にはスナーに組みついていた。痩せた魔術師は野生の猛獣の勢いと重さに耐えきれずに倒され、地面に組み敷かれてしまった。
獣はまず獲物の喉を狙うと聞いたことを思い出し、彼は咄嗟に首元を腕で守った。腕を喰い千切られることになっても、死ぬよりはましだし、再生の手段がないこともない。
だが、虎は彼の首を狙おうとはしなかった。押し潰そうとするかのように重たい体でのしかかり、弄ぶように前肢や後肢を押しつけ、顔を擦りつけてきた。
息苦しさと暑苦しさにスナーは堪らず呻き声を上げた。
荒い息をついて目を開けると、見慣れた天井があった。体の下には落ち着く匂いのする軟らかいベッドがある。体には硬く引き締まった弾力のあるものが絡みつき、温かいものが全身に押しつけられている。
スナーは一瞬で状況を把握した。隣に視線を走らせると、あどけなさが残る寝顔が胸に押しつけられていた。入浴して体を磨いたフィオナは、実用本位の無骨な剣を思わせる旅中の雰囲気とは一転、宝石と貴金属で飾り立てられた優美な宝剣にも似た光り輝くような美しさを露わにしていた。
身動ぎすると、胸元に冷たさを感じた。視線を下ろして確かめたところ、フィオナの半開きの唇から涎が寝間着にこぼれ落ちていた。滲み込んだ涎からは温もりが急速に去り、生地諸共に冷えていく。重たい片手半剣を軽々と振り回す腕はしっかりと彼の腰に回され、がっちりと捕まえている。体中の筋肉が凝り、痛みと気だるさが全身に纏わりついていた。相当長い間拘束されていたらしいことをスナーは悟った。
夢の中の虎とはつまりフィオナのことであったのだ、と彼は理解した。なぜ彼女――最愛の女――による抱擁が虎という猛獣の襲撃となって表われたのか不思議に思い、学院仕込みの夢判断を試みようとした時、腿の辺りの違和感に気づいた。彼の左腿はフィオナの硬い両脚に挟み込まれている。そのようにして彼の左脚をしっかりと捕まえてしまったフィオナの下半身が不自然に揺れていた。緩んだ頬は上気し、ん、ん、と切なげな吐息が漏れている。
スナーはフィオナが何をしているのか一目で理解し、おもむろにそのかわいらしい鼻を摘まんだ。こいつのせいで酷い夢を見たのだから、これくらいの意趣返しは甘んじて受けるべきだ、と彼は単にフィオナにちょっかいをかけたいだけの自分を正当化した。
フィオナは豚が鳴くような呼吸音の後、身動ぎして目を開けた。スナーは悪戯に気づかれる前に手を離した。
「スナー、まだ日も高いのに、今日は大胆なのですね」フィオナは焦点の合わない眼でスナーを見つめると微笑み、何を勘違いしたのか、彼の寝間着のボタンに手を伸ばしてきた。甘えた声を出す。「そのように焦らしては嫌です」
スナーは無言でフィオナの頬を抓った。冷水をかけられた猫のような悲鳴が上がった。
「起きました! 目が覚めましたから!」
もがいて抵抗するフィオナの左右の瞳には、理性の光が甦っていた。
人を容易く殴り殺せる鍛え抜かれた拳の一撃を喰らう前にさっと手を離して上体を起こし、スナーは微笑んだ。
「おはよう、フィオナ。人の脚を勝手に使う行儀の悪い娘には仕置きが必要かな」
「お仕置きというのは、淫らなことでしょうか。まだ明るいのですよ」
非難するような口ぶりだが、蒼瞳の上には期待と不安が覗いていた。
スナーは悪魔のように笑みを深めた。
「古典語の格言の書き取りでもしてもらおうか。そうだな、長いのを十個ほど何も見ずに書き出せるようにしてやろう。黒板と白墨を持ってこい。覚えるまで赦さないからな」
「そのような苛酷な罰に値するどのような罪を私が犯したというのですか」
「確か、教会の教えじゃ自慰行為は禁忌だったはずだ。違反者の性器に鞭打ちを加える厳しい修道院もあるそうだな。もっとも、その罰則は修道士や修道女或いはその志願者達に限っての話で、一般信徒は懺悔だけでいいらしいが」
「じ、自慰など……」フィオナの顔が紅潮した。「濡れ衣です! 私はしていません!」
スナーは優しげに微笑んだ。
「じゃあ、俺の脚に股間を擦りつけて何をしていたんだ」
「あれは、その、夢の中でですね……」フィオナがもごもごと呟くような声で答える。「あなたに、かわいがってもらっていて……」
「夢の中での性的行為は全て淫魔との淫行であると教会は教えている」スナーはわざとらしく顔を顰める。「まさかとは思うが……」
「ち、違います」狼狽した様子のフィオナは、涙目になり、縋るようにスナーの服を掴んだ。「私は悪魔になど取り憑かれていません。淫魔などと寝ていません。誓って、私は不貞など働いていません!」
「知っている」スナーはフィオナの癖毛を殊更に優しく撫でた。「教会はいかがわしいものは何でも悪魔の責任にしてしまう。そう、健全な衝動でさえも、いかがわしいと思えば悪魔の誘惑だ」
「スナー……」
安堵の声を洩らすフィオナの顔には、人里に続く道を見出した遭難者のような表情が浮かんでいた。服を掴んでいた手が背中に回され、体が押しつけられた。
スナーは背筋にぞくりと何かが走るのを感じて続ける。
「つまり、君は誘惑以前の問題で、そもそもが好き者なんだ」
スナーの胸元に頬を寄せていたフィオナが弾かれたように顔を上げる。スナーは顔を見下ろして続ける。
「ここ数日、毎晩、赦して赦してと半泣きになって鼻水と涎を垂らし、息も絶え絶えになっておきながら、翌朝にはもう男が欲しくなっている。これは少し欲張りが過ぎないかね」
「スナー……」フィオナが恨めしげに見上げる。「なぜ、そのように私をいじめるのですか」
「楽しいからだ」スナーは躊躇いなく答えた。「君の反応があまりにもかわいいから、ついからかいたくなる……甘えたくなる、と言ってもいいかもしれない。怒ったかね」
「怒りました。物凄く怒りました」
フィオナが胸元に顔を押しつけ、抱き締める腕に力を籠めた。スナーは息が詰まり、軽く咳き込んだ。押しつけられた頭を撫でながら、夢の中の真銀色の虎を思い出す。
「どうすれば機嫌を直してくれる」
「抱き締めてください。私がよいと言うまで離してはいけませんよ」
寝間着の薄い生地を通して熱い吐息が胸に沁みた。背中と頭に腕を回し、魔術師の細腕なりに力一杯抱き締めた。筋肉の詰まった体の手応えは硬く、まるで綿を巻いた丸太を抱き締めているかのようだった。
「これでいいかな」
「もっとしっかりと体を押しつけてください。力が弱いですよ」
スナーは密かに嘆息し、妻の要望に応えようとした。
「これならばどうだ」
「あなたはもう少し体を鍛えるべきです」と手厳しい返答の後、表情を緩めて体重を預けてきた。「でも、無理を言っても仕方がありませんから、これで我慢してあげます」
預けられた体重が次第に増していくような感じを受け、スナーが疑問に思った時には遅かった。どういう手品か、スナーの上体はあっさりと倒され、ベッドの上に戻されていた。フィオナは動きを止めず、流れるような所作で自分よりも随分と背の高い男にのしかかり、体を密着させた。ただ上に乗られているだけに過ぎないようなのに、スナーは完全に組み伏せられていて、もがくことすらできなかった。
フィオナが悪戯っぽい笑顔でスナーの顔をじっと見る。
「今日は私の気が済むまでこうしていてもらいますよ」
「仕方がないな、お付き合いしよう。この分じゃ、どうせ組合の方針もまだ決まらないだろうしな。もう一週間も経っている」
渋面を作って見せつつ、スナーはこの状況にどこか既視感めいたものを覚えていた。その正体はすぐに知れた。我知らず呟く。
「虎……」
「何か言いましたか」
フィオナには答えず、スナーは黙考する。まるで予知夢を見たような気分だった。彼は最初の師匠に教わったことを思い出した。純粋魔術における未来予知とは未来を確定する作業であって未来を見通す作業ではなく、予知された未来は予知されたことによって惹起される、と師は言っていた。
フィオナとの一連のやりとりが、自分の意志に基づいたものではなく、あの夢に引きずられてのものだったとでも言うかのような考えが浮かび、彼は苛立ちを覚えた。彼の意志も行動も彼のものであって、決して世界を織り成す運命の道具などではないのだ。
しかし、仮に予知夢であったとしたなら、これはこれで悪くない成就だった。あの夢が何者かに自由を奪われたり襲撃されたりすることを暗示するものであったならば、こういう無難な形で片付いたのは幸いと言うべきだ。
「スナー……」フィオナがか細い声で彼の名を呼んだ。その顔は不安に翳っていた。「怒ってしまいましたか。ごめんなさい、調子に乗ってしまいましたね」
申し訳なさそうな顔でスナーの上からどこうとする。スナーは背中に回した腕に力を籠め、筋肉のおかげで見かけ以上に重い体を引き戻した。
フィオナが困惑したように目を瞬かせた。その顔を見て、二十代も半ばに達しようというのに、外見と一緒で中身は十代の少女と変わらないのではないか、とスナーは苦笑した。
「少し考え事をしていただけだ。別に怒っているわけじゃない」
「ですが、不快そうな顔をしていましたよ」
「浮かんだ考えが不愉快だっただけだ。つまらないことを気にするな。俺がいいと言っているんだ」
フィオナはスナーの顔を眺めたが、やがて力を抜き、夫の薄い胸板に頬を乗せた。
「このまま日が暮れるまで――」
フィオナが笑顔を取り戻して言いかけたその時、邸宅中の呼び鈴が一斉に鳴った。彼らが拠点として使っている邸宅には、スナーによって魔術の呼び鈴が設置されている。玄関にある親機から星幽光の伝達に適した銀線が伸び、その線は邸内各所の子機に繋がり、親機が鳴らされるとその音が伝達され、住人に来客の存在を知らせる仕組みである。
この音はラシュタルとアルンヘイル達の部屋にも届いているはずだが、あの二人はまず出ない。スナー達に押しつけようとするだろう。
無視しても差し支えない相手ではないか、と淡い期待を籠め、スナーは玄関に視覚を投射した。だが、落ち着かない様子で玄関先に佇む、仕立ての良い服を着た事務員風の姿を認め、居留守を諦めた。
「組合の奴だ。出てくる」
「……はい」
フィオナが無念そうにスナーの上からどいた。スナーは念のために棒杖を腰に差し、フィオナを寝室に残して寝間着姿のまま玄関先に向かった。
寝室に面した廊下を邸宅中央に向かっていくと、途中で共有空間である居間に降りる階段に差しかかる。居間は玄関の他、食堂や浴室、台所、応接室、地下室、食料庫などの共有空間に連絡する動線の交差点だが、一年の多くを冒険に費やし、入浴や食事も外で済ませることの多い彼らにとっては宝の持ち腐れであった。
殊更にゆっくりと歩いて玄関に続く廊下を歩き、もったいぶった態度で誰何する。
「誰かね」
「組合長の第三秘書のタビテーグスです。フィオナ・カルミルスとその仲間に組合長からの出頭要請を届けに参りました」
スナーが玄関を開けると、彼の姿を認めたタビテーグス第三秘書はぎょっとした様子で固まった。
「おやすみ中でしたか」
「こんな時間まで惰眠を貪っていた私達が悪いんだから、気にしなくて結構だ」
「これは失礼を……」頭に手を当ててぺこぺこと頭を下げてから、タビテーグスは鞄から革製の書類封筒を出した。そこから書類を取り出した。「こちらが要請書です」
タビテーグスは書類を差し出した。
スナーは受け取って目を通した。古典語と共通語でのお決まりの文句が冒頭に書かれた手書きの書類は、単なる呼出状以外の何物でもなかった。午後三時までに出頭せよとある。エートン近郊の森の件に動きが生じたのだろう。
「失礼、今の時刻は?」
「午後一時十分頃です」
タビテーグスはスナーのそれに比べると大分安っぽい――だが価格としては当然高価な――懐中時計を出して答えた。
「ありがとう」
時間的には大分余裕がある。ゆっくり出かけても間に合うだろう、とスナーは判断した。
「では、私はこれで」
タビテーグスはいそいそと去っていった。
スナーは背中を見送ることすらせずに戸を閉め、仲間達に組合が遂に動き出したことを知らせに向かった。
要請書の受領からおよそ半時間後、外出の支度を整えたスナー達は「広く深い迷宮」の街路に繰り出した。街中ではあるが、地面や迷宮の口から突然怪物が飛び出してくる可能性が絶えず付き纏う場所柄、彼らは旅中と同程度の武装を解いていない。
迷路のように入り組んだ街並みは人で溢れていたが、その大半は善良な一般市民にはまるで見えない冒険者達であった。半数以上が冒険者で、残りの半数は冒険者の家族と、冒険者相手に商売をしている連中である。仲間と連れ立って迷宮の入口に向かう者達がいれば、明らかに意識のない仲間を担いで寺院や教会、治療院に走る者達もいる。迷宮帰りで気の昂った冒険者達に狙いを定める娼館の客引き、商品の補充をする商人、食堂に昼食を摂りに向かう職人の一団、組合に仕事を依頼しに訪れた余所者、冒険者達が羽目を外しすぎないように街を見回る組合の自警団などの姿もある。単純な人通りの多寡で言えば帝都に軍配が上がるが、賑やかさや騒がしさにおいては引けを取らない。この街は、自分がその中の一員であることが信じられないほどに、騒がしく、賑やかであった。
一行はその賑やかな街の中心部――最初の冒険者が宿営地とした場所――冒険者組合の本部がある場所を目指した。壁を隔てて前方二十メートル先に見える建物に行くために交錯した街路を数キロメートルも歩かなければならないような酔っ払いの悪夢めいた街を右へ左へひたすら進むことおよそ一時間、彼らはようやく目的地に辿り着いた。
冒険者組合の本部は石造りの建築物で、大都市の市庁舎ほどの大きさがある。元々は普通の旅籠と同じくらいの大きさの事務所だったらしいが、都市の拡大と業務の複雑化に合わせて増改築を繰り返した末に、今の威容が生まれたのだという。この増改築は現在も続けられており、今は丁度、資料保管庫を増築しているらしい。
人波を掻き分けて正面玄関から乗り込むと、各種窓口や通路の開いた広間がある。イルアニン支部のそれとは比較にならないだだっ広い広間の様子はいつもと相変わらずで、冒険者や依頼人がたむろしている。彼らは窓口に列を作って自分の順番を待ち、机に向かって書類を書き、依頼書が留められた掲示板を囲み、親しい相手を見つけては歓談している。文盲者のためか、或いは書類を作る手間や組合に支払う手数料を惜しんでか、声を張り上げて冒険者を求める者もいる。ここも街路に負けず劣らずの喧噪に満たされていた。
普段であればスナー達もこの喧噪に仲間入りするのだが、今日は別の場所に用事があった。彼らは人々の中を縫うようにして奥へと進んでいき、出頭要請書に記載されていた通り、第六応接室へと向かおうとした。応接室のある事務棟に進もうとすると職員に止められたが、フィオナが出頭要請書を見せると、問題なく通ることができた。
「行き当たりばったり」と評される無計画とすら思えるほどの増改築のせいで、組合本部は街と同様迷宮の如く複雑な構造になっている。少し奥に入ると素人にはもう、目の前に広がる通路の行き先はおろか、自分が辿ってきた帰り道すらも見当がつかなくなってしまう。迷宮探索や秘境探検を専門とする者でさえ、気を抜けば道を失ってしまうのだ。
しかし、今日はその心配をする必要はなかった。自分達が呼びつけたからか、勝手に中をうろつかれると困るからか、事務棟に入ってすぐ、組合の職員が案内についた。
先に立って案内した職員は、蟻人の巣穴の如く錯綜した通路の全てを熟知しているかのような態度で進んだ。職員は道順を思い出そうと努力する気配すらなく、組合の新入りの十人の内三人くらいは職場で迷子になって行方知れずになり、何ヶ月か後に哀れな屍となって発見されるのだ、などと冗談を飛ばす余裕さえあった。
「広く深い迷宮」の地下以上に複雑かもしれない迷路を先導されていくと、ようやく第六応接室の表札のかかった扉に辿り着いた。散々に連れ回されたせいで、スナーは帰路のことを思って早くも憂鬱になっていたが、フィオナとアルンヘイルは眩暈がしそうな道程を踏破できたことを素直に喜んでいた。ラシュタルは邸宅を出てから今に至るまで、ずっと仏頂面のままで表情に変化がない。
扉を開けて入ると、革張りの椅子とテーブルには誰もついておらず、中に人の姿はなかった。フィオナがそのことを訊ねると、職員はしばらく待っているようにと答えて去っていった。
スナー達は椅子に腰を下ろして一息ついた。
「結局、どういう話になったんだろうね」
アルンヘイルが誰にともなく言った。
スナーは少し考えてから答える。
「こっちで引き受けたか、あっちに協力するかじゃないか」
「あちら、と言うと宮廷ですか」
フィオナが興味深げな様子で話に混ざった。
「そうだ。いずれにせよ、関わらないという手は組合にはないだろう。今の評議会は組合の発言力を高めようと躍起になっている。存在感を示す機会を逃しはしない」
スナーは壁掛け時計を見た。あと少しで午後三時になる。念のために自分の懐中時計も確かめたが、組合の時計はしっかりと手入れをしてあるようで、時間にほとんど狂いはなかった。
「組合って金持ちよね。あっちこっちに置くほど時計を持ってて、しかもちゃんと全部お手入れしてるんだもの。この時計だけで銀貨何十枚分なんだろう」スナーが時計を見ていることに気づき、アルンヘイルが言った。「こんなに余裕があるなら、もうちょっと私達に甘い顔見せてくれたっていいのにね」
「他に金を注ぎ込まなければならないものがあるんだろう。組織とはそういうものだ」
スナーは少なからず彼も関わった学院の組織運営のことを思い出していた。組織というものは、経営の外側にいる者が想像もしないような種類の出費を強いられるものだ。
懐かしそうにフィオナが頷く。
「確かに、駆け出しの頃はいろいろと世話になったものです」
それは丁度、スナーがフィオナに出会った頃の話でもあった。彼も懐かしい気分で当時のことを思い出した。
午後三時を少し過ぎた頃、応接室の扉が叩かれた。代表してフィオナが入室の許しを与えた。
扉を開けて姿を現した人々を見て、俗世に無関心なラシュタルを除く三人は、それぞれなりに驚きを示した。フィオナは目を瞬かせ、アルンヘイルは軽く仰け反り、スナーは僅かに目を見開いた。それから、三人は急いで起立し、来訪者を迎えた。礼儀上の配慮から、ラシュタルもゆっくりと立ち上がった。
現れたのは、大店の隠居といった雰囲気が漂う白髪頭の老人と、生え際が哀れなほどに後退した体格の良い初老の男だ。老人は官僚風の壮年の男を連れ、初老の男は色っぽい雰囲気の若い女を連れている。組合長のマーソンと評議員の白銀騎士ブーロウ、そして二人の秘書だ。
スナーは、ラシュタルがブーロウに興味深げな視線を注いでいるのに気づいた。理由はすぐにわかった。胸元に飾り気のない白銀騎士磔架章を佩用したブーロウは竜殺しの称号を持っているのだ。
四人の視線を浴びながら、組合幹部二人が、空いている椅子に腰を下ろした。秘書達はそれぞれの上司の傍らに立った。
「楽にしていい」
組合長が着席を促した。スナー達は元の通りに座り、組合長の言葉を待った。
男の方の秘書が組合長に書類を渡した。組合長は書類を受け取ると、スナー達に語りかけた。
「諸君、組合長のマーソンだ。彼は竜殺しの勇者として知られるブーロウ評議員」
ラシュタルはじっとブーロウを見ている。竜殺しの偉業を認められて白銀騎士磔架章を授けられた戦士の技倆を推し量ろうとしているのだろう。フィオナの眼差しにも敬意が籠もっている。
「おいおい、よせよ」ブーロウが深みを感じさせる笑みをラシュタルに向けた。「こんな引退した爺なんて相手にならんさ」
「鍛錬は欠かしておらぬようだが」
「いくら鍛えたって元が駄目なら駄目だ。人間はすぐ老いぼれちまう。力なら若い奴にも負けんが、戦いになったら、そこらのひよっこにもついていけんだろう。せめて十年前に来てくれたらよかったんだ。そうしたらぶちのめしてやったのに」
ブーロウは笑った。
スナーの視界に映るブーロウの星幽体は英雄らしい輝きに満ちている。だが肉体の方は最早、本人の言う通り、その星幽体にふさわしいだけの力を持っていないようだった。
ラシュタルは表情を曇らせた。
「残念だ」
組合長が咳払いをした。
「よろしいかね」
ブーロウが無言で一礼した。
竜殺しの評議員に続いて、ラシュタルも「失礼した」と詫びの言葉を口にした。
「さて」と組合長が話し出す。「諸君は今日の呼び出しが何を目的としたものか、概ね見当がついているものと思う」喋るべきことを確かめるかのように書類に視線を走らせ、不自然な間を置いて続ける。「結論から先に言うと、近々帝国軍が行なう妖術師捕縛に力を貸してもらいたい。組合として協力することになったのでな」
長たらしく、しかも面白くない、原稿を読み上げているだけのような説明が続いた。生真面目なフィオナは一々頷いてみせるなどして律儀に聞いたが、スナーとアルンヘイルは真面目な顔を保つ以上のことはせず、ラシュタルに至っては横目で壁の絵を眺めていた。退屈しているのはスナー達だけではないようで、説明の最中、ブーロウは欠伸を何度も噛み殺していた。
秘書に操られ、評議員達の結論を外部に報告するだけの人物に見えることから置き物と揶揄される組合長が語ったところによれば、失踪冒険者を捜索していたフィオナ・カルミルス一行が組合イルアニン支部に、ミドルトン伯爵領エートン村近郊の森が強力な妖術師の手によって屍霊生物の巣窟に変えられているのを発見した、との報告を上げたことが始まりであった。事態の深刻さを持て余した支部は真偽確認すらせず、フィオナ一行に対し、直ちに本部と魔術師協会に報告するよう指示した。報告を受けた本部はエートン近郊に魔法関連施設設置や魔法使いの居住の届出が魔術師協会になされていないことを確かめると、スナー・リッヒディートの魔術の助けを借り、同じくスナーから報告を受けた魔術師協会と合同で調査員を現地に派遣し、森が強力な結界で密かに覆われた上で人寄せの魔術を施されていることを確認した。このことから組合本部と協会本部は報告を限りなく真実に近いと認め、報告者が軍隊の投入も検討すべきであると事態を極めて深刻に受け止めていたことから、共同で直ちに宮廷に報告を回した。すると、事態を重く見た皇帝は、南部総督や魔術師協会、そしてミドルトン伯には各自の義務を果たす意思も能力もないと判断し、綱紀粛正を兼ねて近衛軍の投入による解決を決定した。組合は共に報告を上げた組織が皇帝から蒙った断固たる仕打ちから、傍観は宮廷の不興を買うことに繋がりかねないと判断し、戦力を提供することで組合が帝国の忠実な友であることを訴えるため、有力な冒険者を一定数、秘密裡に招集することとした。
「報告者である君達ならよくわかるだろうが、危険な任務だ。その分の報酬は約束する」頭の中の原稿が終わりに近づいたのか、組合長は話を纏めに入ろうとしていた。「具体的な話を聞くつもりがないようなら、ここで帰ってもらう」
「組合長」とスナーは口を開いた。「お聞きしたいことがあるのですが、よろしいですか」
「何かね、リッヒディート博士」
「話を聞いた段階で依頼を請けたことになるのですか」
「いや、その段階でもどうするかは君達の自由だよ。ただし、断るなら、秘密を守るために何日かこちらに逗留してもらうことになる」
ブーロウが冗談めかして補足を入れる。
「勿論、宿代なんぞ請求せんから安心しろ。ほんの小遣いくらいで悪いが、迷惑料だってくれてやる」
スナーは礼を言って引き下がった。
フィオナがマーソン組合長に視線を向ける。
「少し相談させていただけませんか」
「十分もあれば十分かね」
フィオナは頷いた。
「では、儂らは席を外そう」
組合長がブーロウ達に呼びかけて席を立った。他の者も続く。
「十分後にまた答えを聞こう。よい返事を期待しているよ」
「盗み聞きが怖いなら、音を遮る魔法を使っても構わんぞ、スナー」
組合幹部達は秘書二人を連れて一旦部屋を出た。
スナーはブーロウの挑発的な許可を活用することとし、遮音の魔術で部屋を覆った。
フィオナが姿勢を正して仲間達を見る。
「改めまして……皆はどうでしょうか。私は話くらいは伺いたいのですが」
「異存はない」
ラシュタルが真っ先に、短く、しかし力強く答えた。
アルンヘイルは渋い顔をしていた。頭痛でも起こしたように額を押さえる。
「正直、こんな事件になるってわかってたら、もっと真面目にあんた達を止めてたわ。こんな事件に首を突っ込むなんて馬鹿のすることよ。皇帝と諸侯の政争に巻き込まれるなんてぞっとしない。命がいくつあっても足りやしないわ」
「アルンヘイル……」
困ったような顔をするフィオナにアルンヘイルが諦めたように嘆息する。
「でも、あんたはむしろ、そういうのが好きなんでしょ。あんたは英雄になりたがってるわけだし。英雄になる一番の近道は危険に飛び込むことだもんね」皮肉っぽくフィオナを見てから、肩を竦める。「まあ、あんたの好きにしなさいよ。私はあんたが好きだから、どうしてもって言うなら、手を貸してあげるわ」
フィオナがアルンヘイルの手を取る。
「ありがとうございます、アルンヘイル」
半闇エルフの手を握るフィオナにスナーが静かに告げる。
「俺も構わない」
彼はもとよりそのつもりだった。優れた屍霊魔術師の拠点ともなれば、まともな社会生活を送りながらでは到底できないような、或いは自分ではとてもやる気にならないような、或いは魔術学院においてさえ法や倫理が足を引っ張って許されないような、忌まわしい実験の記録がいくつも眠っているはずだ。それを誰の非難も受けずに堂々と研究資料を強奪できる機会を逃すつもりなど毛頭なかった。
表立って動くことで、彼らの行動をきっかけとして面子を潰される結果となった南部総督やミドルトン伯、そして魔術師協会とその背後にある魔術学院の注意を引いてしまいかねないことも、彼の行動を掣肘するほどの脅威ではなかった。彼はそれらから深刻な報復を受けることがないことを理解していた。
彼は形式上、魔術学院から命ぜられた妖術師ウェイラー・サルバトン討伐の旅中、冒険者組合から失踪冒険者捜索の依頼を受け、その過程で発見した諸々を、仕事を請け負った冒険者組合員としての義務と魔術師としての良識に基づいて然るべき組織に通報したのに過ぎない。学院や協会からすれば模範的な行動以外の何物でもなく、この正当な行ないによって彼を処罰するようなことがあれば、却って組織としての正当性を問われる事態になる。かと言って、秘密裡に処理することは、彼の利用価値や危険性を計算に入れるのであれば悪手でしかない。ゆえに、学院や協会にできる報復など、今回の「功績」を無視したり、元々不確かな彼の魔術師としての将来を一層不確かにしたりするくらいのものだ。
もしこのことを理由として――と思われるやり方で――南部総督やミドルトン伯が学院と組合で構成員として一定の地位を占めるスナーに何らかの報復や圧力を加えることがあれば、それは三つの大組織――魔術学院、魔術師協会、冒険者組合――の権限と責任に対する挑戦となる。他の理由をでっち上げたとしても、それが余程重大なものでない限り、各組織の体面上、構成員を見捨てることはできない。いずれにせよ、各組織は各自の利害に基づき、スナー達に対する深刻な報復を決して認めはしない。苛酷な政治の世界を生き抜いてきた者達がそういった事柄を理解していないはずがないから、彼らが本格的に協会と学院そして組合と対決する覚悟を固めない限り、報復が行なわれるとしても嫌がらせの域を出ないと思われる。
「そうですか。皆に礼を言います」全員の賛成が得られたことでフィオナが安堵の笑みを浮かべる。「では、組合長にそう答えて構いませんね」
全員が頷いた。
「ところでさ、スナー」
アルンヘイルが声を潜めて話しかけた。スナーは遮音の魔術を信用していないかのような振る舞いを少し不愉快に感じた。しかし、それは傭兵として生きてきた経験が彼女の中に育てた用心深さなのだ、と好意的に解釈して自分を納得させ、何事もなかったように聞き返した。
「なんだ」
「さっきの組合長の話、どう思う」
「どう、とは?」
「皇帝が総督や諸侯を脅しつけようっていうのはその通りだろうけど、組合の方よ。皇帝に嫌われたくないってのが嘘だとは思わないけど、それだけじゃないでしょ」
「そうだな。やはり、存在感を主張して、組合の発言力を高めようという魂胆が主だろう。政敵のミドルトン伯をこの機に叩いておきたいというのもあるだろう」
「だよね」
「それにしても、ここまでの大事になるとは想定外だった。精々、イルアニン師団から一個大隊と地元の魔術師協会から博士と修士を何人か、残りは冒険者で賄う、という程度の話だとばかり……」
「読みが甘かったね――って普段なら言うところだけど、今回ばっかりはね」アルンヘイルが苦笑した。「まさかたかが地方の事件に皇帝が首を突っ込むなんて誰が予想できるって言うんだか」
スナーとアルンヘイルが生臭い政治の話を始め、帝国や組合の思惑、南部総督やミドルトン伯がどういう反応を示すか、といったことを論じ合っている間に、十分間が過ぎた。
また扉が叩かれた。フィオナが入室を許可し、幹部達が戻ってきた。
「答えを聞かせてもらうよ、諸君」
腰を下ろした組合長に促され、フィオナは話を聞くと回答した。
「そう来なくちゃいかん」
笑うブーロウを無視して、組合長が秘書に目配せした。目で応じ、秘書が一歩進み出る。
「組合長第一秘書、ボルダンです。具体的な指示はこれから私がお知らせします」
ろくでもない姓だと、名も姓もありふれたスナー・リッヒディートは思った。暗黒時代の異端者狩りを主導し、少数の魔王崇拝者達と共に多くの才能と知識を葬った男もまた、姓をボルダンと言った。
ボルダン秘書がゆっくりと説明を始める。
「我が冒険者組合は、あなた達も含めれば三十名程度の冒険者を戦力として帝国に提供します」
アルンヘイルが目を見張った。
「へえ、三十人も」
スナーも頷いて同意を示す。
「多いな」
戦場という単位ではあまりにも頼りない人数だが、一般的な冒険者の一隊が五人前後であり、一時的に手を組むとしても大抵は二十人に満たないことを考えると、なかなかの大所帯だ。
ブーロウが我がことのように誇らしげに胸を張った。
「いつの時代でも、危険や名誉に惹かれる腕利きはそこら中に転がっているものさ」
「説明を続けます」ボルダンが冷静に仕事を果たす。「取り決めでは、あなた達は軍とは別行動の独立部隊として森に突入することになっています。突入地点や時期、前進や後退などはあちらの指示に従う必要がありますが、具体的な戦闘方法はあなた達の自由です。兵士に混じって戦う必要もありません。もし強制されるようなことがあれば、組合の名前を出して反抗して構いません」
組合長とブーロウが動じる気配はない。ボルダンの発言は勝手なものではなく、組合の見解のようだ。
スナーは微かに眉を寄せた。冒険者組合は思い上がっている。そう感じた。地方総督や諸侯の面目を蟻のように踏み潰そうとする苛烈な皇帝が、いくら相手が力を持っているからと言って、勅命で近衛まで投入した作戦に泥をつけるような行為を笑って赦すと本気で思っているのか。
「どうかなさいましたか、リッヒディート博士」
ボルダンは冒険よりも政治に向いた性格の持ち主らしく、リッヒディートの微かな表情の変化を見咎めた。表情は完璧に取り繕っているが、老練な政治家達と違って内心を完璧に押し隠すことまではできないようで、星幽体が不機嫌そうに揺らめいているのが丸見えだった。
「特にどうもしていないよ。続けてくれ、ボルダン秘書」
ボルダンは微かに目元を歪めたが、それ以上の反応は示さず、説明を再開した。
「こちら側の代表者としてはブーロウ評議員が現地に先行され、帝国との交渉に当たられます」
ブーロウが楽しそうに片目を瞑ってみせた。
「連中がお前達の邪魔をしないよう、精々頑張るさ」
ボルダンは横目でブーロウを眺め、咳払いした。
「集合地点はミドルトン伯爵領に近いイルアニン市です。この都市で、南部州軍と近衛軍、そして冒険者が合流し次第、エートン近郊の森への進軍が開始されます。軍の出動は名目上、大規模な作戦演習となるので、一応憶えておいてください。なお、イルアニンへの出発は各集団や個人ごとに別個で行ない、指定の時期に現地入りをしてもらいます。これは名のある冒険者が一斉に動くことで世間の目を引かないようにするための処置です」
作戦の概要を語ったボルダンは、一礼して一歩下がった。置物のように黙っていた――そしてじっとスナー達を観察していた――組合長が静かに口を開いた。
「さて、諸君。返答を聞きたいのだが、また考える時間が必要かね」
形式上、大陸中の冒険者の頂点に君臨する老人の言葉を受け、フィオナが問いかけるように仲間達の顔を順繰りに見た。
組合の姿勢に多少の危うさを感じはするが、欲しいものを手に入れ、望みを叶えるためならば、時には危険を承知で踏み出すことも必要だ。スナーは黙って頷き返した。アルンヘイルも渋々といった態度で、ラシュタルも戦の匂いを嗅ぎつけでもした様子で嬉々として、それぞれ頷いた。
「結構。ボルダン、条件を詰めてくれ」
組合長が再び沈黙し、後を任されたボルダンは、より細々とした事項の説明に入った。そして、経費、報酬、現地での宿泊先、組合が派遣した冒険者の政治的立場、現地の組合支部での合図といった話を終え、なるべく有利かつ安全に事を運び、ついでになるべく多くの利益も得たいスナーとアルンヘイルが浴びせる質問を残らず捌き、彼は説明を終えた。
続いてブーロウとその秘書が移動計画の策定を始め、いくらかの悶着と議論を挟んだ末、現地までの移動計画を練り上げた。
全体の説明が終わると、組合長は早々と立ち上がった。
「儂らもこれでなかなか多忙なものでな。話も纏まったことだから、これで失礼する。朗報を期待しているよ」
組合の幹部達は静かに扉に向かった。
ブーロウの女秘書が扉の把手に手をかけたところで組合長がわざとらしく「あっ」と声を上げた。
「そうだ、ボルダン、君は何か彼らに話したいことがあったのではなかったかな」
「ああ、うっかりしていました。ご指摘いただけなければ忘れてしまうところでした」
スナーは三文文士が書いた脚本を三流役者が演じるのを眺めているような気分になった。
「思い出せてよかったな。私達は先に行くから、君は用事を済ませておきたまえ」
「お気遣いありがとうございます、組合長」
組合長らが退出した後、ボルダンはゆっくりと一同を見回した。
真面目腐った態度で口を開く。
「皆さんに個人的にお話ししたいことがあるのです」
「個人的、ね」アルンヘイルが眉根を吊り上げた。「まあ、そういうことにしといてあげてもいいわ」
「ありがとうございます」
ボルダンは小さく頭を下げた。
スナーは小さく眉を顰めてやりとりを聞いていた。ボルダンの個人的な話とやらが組合の厄介事に関わるものであろうことは明白だった。彼個人の話という建前は、いざと言う時に組合本体の責任を少しでも軽減するためだろう。ボルダンの勝手な行動ということで片づけ、何らかの陰謀の咎ではなく、単なる構成員の監督不行き届きという形に矮小化するつもりなのだ。組織というものの常套手段である。
「手短に願いたい」
スナーは冷淡に言った。
「勿論です。お時間は取らせません。今回の一件についての個人的な願望を聞いていただければ、と思っているのです。単刀直入に言えば私は、この一件で、ミドルトン伯にとって不利な証拠が見つかるといい、と思っています。たとえば、伯が妖術師と接触していた証拠などよろしいですね」
王家が有名無実化して事実上諸侯の連合体と化した王国や政党とその支持者の勢力争いで公然と国を割る共和国ほど酷い有り様ではないものの、帝国も決して一枚岩ではない。広大な国土と膨大な人口の中で利害関係や対立関係が複雑に展開し、更に別の対立が他の対立を内包したりされたりして錯綜し、細かなひび割れを縦横無尽に走らせている。宮廷、諸侯、冒険者組合の三つ巴の争いもその一例である。それぞれが他の二者の発展を快く思っておらず、互いに足を引っ張り合って身動きが取れなくなっている。言うなれば今は、その足を引っ張り合う三者の内の二者が手を結び得る状況である。即ち、冒険者組合の利権を奪い取ったミドルトン伯から「賠償」を取り立て得る絶好の機会と言える。宮廷の尻馬に乗り、そのおこぼれに与るのだ。
「それは伯を吊るし上げるための根拠をでっち上げろということかね、ボルダン殿」
あからさまな裏事情を見透かし、スナーは嘲弄と紙一重の声音で水を向けた。ボルダンはむっとした様子で眉を顰めた。
「そうは言っていません。ただ、そういったものが見つかればいい、と『私』が勝手に期待しているだけです」
ボルダンは一人称を強調して発音した。
「ボルダン殿、申し訳ありませんが、そういったお話を引き受けるわけには参りません」
官僚的な秘書の顔をしっかりと見据え、フィオナは柔らかな言葉で、しかしきっぱりと拒否した。
「だそうだ」スナーが穏やかな調子で言葉を継ぎ足す。「我々はそういった謀略に加担しない。もっとも、私個人としては、それらしい証拠を発見した時には隠すことなく組合に報告を上げるつもりでいるがね」
含みを持たせた返答にボルダンは満足そうな顔をした。
「ありがとうございます。期待させていただきます。お時間を割いていただいたことにも感謝します。では、私はこれにて」
ボルダンは一礼し、上司達の後を追った。
「スナー」フィオナが咎めるような眼差しをスナーに向ける。「まさか、伯を陥れる片棒を担ぐ気ですか」
「ちょっと待ってくれ」スナーは四人だけを包む小さな遮音空間を作った。それから答える。「俺はただ、証拠を見つけたら報告すると言っただけだ」
「本当に言葉通りの意味なのですか」
フィオナは疑わしげな視線を向けたままでいる。
スナーは苦笑した。
「俺も馬鹿じゃない。本気になった貴族や組織の政争に加担できる器量が自分にないことを理解できる程度にはな。人間は正直が一番だ。余計なことを考えないことも大事だ。嘘や謀略なんてものは、関わらずに済むならその方がいい」
アルンヘイルがおかしそうに笑う。
「確かにその通りだけど、正直が一番なんて言葉があんたの口から出てくるとどうもね」
冒険者達が新たな冒険に身を投じることとなった頃、その決定が為された席上から南西に千キロメートル以上も下ったところにある大きなベッドの上では、醜悪の度が過ぎるあまり滑稽にまで至った凄絶な肉の交合が繰り広げられていた。
雪のように白い肌をした、まだ少女と言ってもよさそうな年頃に見える半森エルフの女が、放埓の魔王が泥酔したまま人間を捏ね回して形を整え直したかのように醜悪な――と評してもなお甘い評価に感じられる――男に組み敷かれている。
体毛が産毛一筋生えていない男の全身は炎で焙られた蝋人形のように爛れており、その顔は比喩ではなく歪んだ鏡に映った像のようで、頭部は乾く前に地面に叩きつけられた粘土細工のようにひしゃげている。口から覗く歯は百年も荒野に放置された櫛のように不揃いの上、一本一本の大きさも形もばらばらである。先が四つに分かれた舌には小さな腫瘍がいくつもある。右手は蛇のような鱗に覆われ、左腕の肘と手首の間には関節が一つ余分にある。醜悪なゴブリンが嫌悪で吐き気を催しかねない、怪物よりも怪物的な醜貌である。
そのおぞましい生き物が、妖精のような美貌と均整の取れた清楚な肢体の持ち主にのしかかり、鼻息を荒くして腰を振っている。
男でありさえすれば浮浪者であろうと皇帝であろうと構わず褥を共にするような淫蕩な女であっても、これと交わるくらいならば修道女になることを選ぶであろう、と思われるほどの化け物に組み敷かれた少女が全身を火照らせて上げる声は、しかし、紛れもない悦びの声であった。その顔は快楽と愛情に蕩け、唇は甘く接吻をねだり、手足は相手の存在を確かめて捕まえるように男の醜い体に絡みついていた。
やがて男の動きが激しくなり、少女の声も高まっていった。そして少女が男の体に絡みつけた手足に一際力が籠もり、その全身が痙攣するように震えたかと思うと、男もくぐもった声を洩らして体を少女の体に強く押しつけた。男は腰を深く落とし込み、何度も尻の筋肉を震わせた。
それから男は全身の力を抜き、少女の上に覆い被さった。少女は細やかな体で男の体重を受け止め、優しい手つきで男の歪んだ頭を撫でた。
愛弟子にして愛人であるシェリル・レイの、華奢な外見に反して意外な豊満さを持つ肉体に体重を預けるトゥーラルは、愛情深い手で頭を撫でられながら、深い満足感に溺れていた。
帝国宮廷魔術師団の主任魔術師、皇帝にその功績と実力を認められ、魔道士の称号を賜ったトゥーラル・クライムス・クラートン無爵真正魔術博士は、この一時が何よりも好きであった。自分を愛してくれる女の中で果て、その気だるい心地良さの誘惑に逆らわずに力を抜いて女の上に突っ伏し、全てを受け容れてもらうのは、人生の中で無上の幸福と言えた。これに比べれば、真銀時計の栄誉も導師の地位も魔道士の称号も、砂粒ほどの価値もない。
しかし、今はいつもとは異なり、この幸福に耽溺し、無邪気な喜びに浸っていられる心境ではなかった。
明後日に迫った出陣が恐ろしいわけではない。彼は宮廷魔術師だが、その恐るべき技を振るう場所は宮廷ではなく戦場である。トゥーラル・クライムスにとって戦場は恐ろしい場所ではない。手柄をもたらし、地位を保証してくれる素晴らしい場所である。そこに出かけるたび、彼の立場は強まった。嬉々として出かける理由はあっても、恐れて躊躇う理由はない。
トゥーラルの心に巣食って幸福の居場所を奪っているのは、一人の男の存在であった。その男の名はスナー・リッヒディート。魔術学院時代の兄弟子に当たり、常にトゥーラルの目の上のたんこぶであり続けた男である。真正魔術博士号を得た翌年に学院を出て宮廷魔術師団に加わったトゥーラルは、その更に翌年に彼らの師であったウェイラー・サルバトンの前代未聞の不祥事が発覚し、あの優秀な努力家が連座する形で学院を事実上追放され、魔術界での将来を実質的に断たれたと知った時、快哉を叫んで秘蔵の酒を開けたものだった。
その失墜した男が十年近い時を経て這い上がり、再び彼の前に現れようとしていた。
今回の件について参考資料として冒険者組合から提出された、エートン近郊の森の異状を発見した冒険者の報告書の写しに目を通した時、トゥーラルは驚きのあまり書類の束を取り落としそうになった。そこには報告者としてフィオナ・カルミルス或いはリッヒディート――驚くべきことに兄弟子は妻を娶ったらしい――の名が、執筆者としてスナー・リッヒディート真正魔術博士の名が付記されていた。
報告書の内容は筆者の高度な魔術知識と緻密な分析能力を示していた。冷徹で飾り気のない筆致の文章はかつて学内で回覧された論文を彷彿とさせ、報告内容は簡潔にして的確であり、添付された参考資料――ゼノー・オルギアスの戦術解説や森を保護する結界の簡易分析報告――は魔術知識のない者にはわかりづらいやや専門的なものではあったが、専門的部分を易しく改めれば軍の参考資料として取り入れるに足るだけの出来だった。スナーがあの事件以後も腐らず真面目に研鑽を重ねてきたことが窺えた。
エートンの件についての報告書を宮廷にもたらした冒険者組合と魔術師協会からの使者達と接触したトゥーラルは、その冒険者一行の動向を訊ねてみたが、大した情報は得られなかった。現地に派遣する冒険者の選定はまだ始まったばかりのため、誰が参加することになるかはまだわからない、と冒険者組合の使者は回答した。
しかし、あの男がこれからどう動くかは、判断に困る問題ではなかった。彼には確信に近いほどの予想がついていた。ゼノー・オルギアスに学ぶような高度な屍霊魔術の使い手が、捕らえるべき敵として現れたのだ。その研究成果を奪うため、スナー・リッヒディートは嬉々として捕縛作戦に参加するだろう。冒険者組合が派遣する冒険者集団の中に入り込んでくることは確実だ。
同じ戦場の別の場所で戦ったことは一度や二度でない。スナーとその仲間達の功績を耳にしたことも同様だ。彼らは何度も擦れ違ってきた。ゆえに、いずれその道が交差することもあるだろうという予感はあった。
そして今、予感は現実のものとなろうとしていた。あの男が遂に、彼と同じ戦場で、同じ作戦に、同じ場所で参加するのだ。学院時代に最も疎んじていた相手との再会の予感にトゥーラルは打ち震えた。それがかつて恐れた男と再会することへの不安なのか、かつて恐れた男の落ちぶれた姿を嘲る機会への期待なのか、彼には判然としなかった。
「トゥーラル」とシェリルがトゥーラル・クライムス・クラートンの爛れた頬に触れた。「どうしたの。気持ち良くなかった?」
「いや……すまない。つい、例の作戦のことを考えてしまったのだ」少し躊躇ってから、結局切り出す。「……お前も一度か二度くらいは言葉を交わしたことがあるだろう。スナー兄弟子が、作戦に参加するかもしれないのだ」
「……あの性格の悪そうな恐ろしい人? みんなの代わりに、サルバトンを倒すために旅立ったっていう……」
シェリルの感想にトゥーラルは失笑しかけた。だが、無理もない話だと思い直した。スナーがウェイラー・サルバトンの一件で学院を去る破目となったのは、もう八年も前のことだ。仮にその頃までシェリルがスナーと接触を保っていたとしても、その頃、彼女は十三、四の小娘だし、後進の指導に消極的だったあの男と深い付き合いがあったとも思えない。ほんの皮相的な記憶と感想しかなくても不思議ではない。
もっとも、シェリルの無知をおかしく思うトゥーラルにしても、当時既に一門を離れていた上、所用で帝都からも離れていたから、当事者並みに事情を知っているわけではない。彼は騒動の大半を記録を通してしか知らない。
白銀騎士にして魔道士ウェイラー・サルバトン真正魔術導師が史上最大の大罪人イブラムーン・リュナティクと通じていたことにゼイル・ガウディアス博士が気づいた時、後にウェイラー・サルバトン事件と呼ばれることになる騒動は密かに幕を開けた。
ガウディアスの動きは迅速で、しかも果断であった。彼は立場や利害の関係上速やかには動き得ず、それどころか口封じに彼を始末する可能性さえあった学院上層部にではなく、魔術学院の対立勢力でありまだ即座に反応する見込みのある帝国の内務庁にサルバトンを密告し、当時の真正魔術学舎の大博士――カイバー・ベルトン・アベリボイエンとウストファルト・ウェルグナー――が二人とも不在となった折を狙い、全くの独断で近衛兵と宮廷魔術師団を魔術学院に引き入れた。黄金騎士にして魔道士である首席宮廷魔術師ザロン・タールキン・ダルフルマンに率いられた一隊は、制止しようとする魔術師や警備兵を荒々しく押しのけて敷地内に突入すると、各学舎とその他施設を封鎖し、真正魔術学舎の制圧に取りかかった。彼らはガウディアスの思惑に反し、真正魔術学舎と魔術学院そのものを叛逆者の一味かその候補者と見做していた。
攻撃の手は当然サルバトンの居室兼研究室にも届いたが、そこに突入したタールキン・ダルフルマン率いる一隊は首席宮廷魔術師を除いて皆殺しにされ、肝心の大逆者は星幽跳躍の魔術で悠然と真正魔術学舎を脱出した。この時、学舎は宮廷魔術師の別働隊によって星幽的に封鎖されていたが、タールキン・ダルフルマンの報告によれば、サルバトンは持ち物の中に封印してあった高位悪魔を解き放って体当たりさせることで星幽障壁に穴を開け、それが塞がるまでの一瞬を利用して星幽跳躍を行なったらしい。
衝突は学舎の各所で起こり、学院、帝国双方に死傷者が出た。「ウェイラー・サルバトンの血の繋がらない息子」とからかい混じりに言われていた一門首席のバーガルミル・ユークライン博士が二十八年の短い生涯を閉じたのはこの時である。ユークラインは強力な魔術で近衛兵と宮廷魔術師を何人も殺したが、最後には宮廷魔術師や魔法兵に魔術の発動を妨害されたところを兵士達の剣に斬り刻まれたと報告されている。
近衛兵と宮廷魔術師を手引きしたガウディアスは、帝国側の逸脱した行動に憤慨しつつも、彼が事前に内務庁と司法庁を通じて宰相と取り交わした密約――抵抗する者とサルバトン以外の罪を問わない――の存在を真正魔術師達に伝えて降伏を呼びかけた。しかし、真正魔術学舎の魔術師の大半が信じず、或いは既に抵抗してしまった後だったため、抵抗鎮圧にはほとんど貢献できなかった。結局、彼らをおとなしくさせたのは、近衛兵でも宮廷魔術師でもガウディアスでもなく、ガウディアスの予想通り突然のことに方針が分裂して動けずにいた学院首脳部でもなく、サルバトン一門次席である――それは即ち真正魔術学舎において導師と大博士を除けばサルバトン一門首席のユークラインとカイバー・ベルトン・アベリボイエン一門首席のライヴィス・シャーレイン・ラインツ無爵博士に次ぐ三番目の地位にあることを意味した――スナー・リッヒディート博士であった。拘束しようと挑んできた近衛兵と宮廷魔術師によって事態を知ったリッヒディートは、彼らを撃破した後同輩達と合流し、学舎に立て籠もったまま抵抗か降伏かを議論する仲間達に待機を命じて内務庁に単身交渉に赴いた。そして彼は――他の導師連の陰ながらの助力もあってのことだが――内務長官及び司法長官並びに宰相の仲立ちにより、この一件の法的責任は自分を含む学院ではなく逃げたサルバトンにある、との言質を皇帝ハイルム三世から文書によって取りつけることに成功し、学院を法の首切り斧から救った。この交渉結果により、真正魔術師達は彼らの聖域である学び舎を帝国に明け渡すことを承諾し、帝国と学院による前代未聞の武力衝突は終息を見た。この衝突で帝国側は多くの死者を出し、その中には五名の上席魔術師も含まれていた。この事実は大陸中に魔術学院が有する戦力の強大さを改めて印象付けた。
容貌が無惨な崩壊を遂げる前の在りし日の宮廷魔術師トゥーラル・クライムス・クラートン無爵博士が出先で身柄を拘束されたのもこの頃のことであった。門下出身ということで彼を大逆人の関係者と見做す向きが存在し、サルバトンの逃亡から数時間後、拘束されたのである。これは彼のみが見舞われた運命ではなく、既に巣立った他の同門者も各地で同様の憂き目に遭った。しかし、父であるハウシェンゼン子爵アールス・クライムスの熱心な働きかけと、痛手を受けた魔術師団の更なる弱体化を危惧する宮廷の意向とがあり、彼は数日中に解放された。他の同門者の多くと違い、その後、所属先での出処進退に響くようなことにもならなかった。
トゥーラル・クライムス・クラートンにとって、事件はこの段階でほぼ他人事と化していた。
しかし、むしろここからが本番となった者達もいた。面目を失った魔術学院である。引っ掻き回すだけ引っ掻き回し、壊すばかりで何も得るところなく帝国側が引き揚げてすぐ、今度は蚊帳の外に置かれていた彼らが動き出した。学院はすぐさま魔術師協会に指示してサルバトンを正式に妖術師と認定する声明を出させ、大陸の魔術師の頂点に立つ学長と魔術体系を統括する九人――本来ならば十人――の導師、そして導師と同等の実力を持つと見做されその補佐と代行を任務とする二十一人の大博士を中央学舎に招集した。彼らは学長の指揮下、大儀式の間に集い、制裁として大規模な調伏儀式によるサルバトンの呪殺を試みた。だが学院の威信を懸けた儀式は失敗し、魔道士ゴリーク・ミルトホーゼン学長を始め、サルバトンの師であり、サルバトンが妖術師となったことで空いた真正魔術導師の席を埋めるため、規則に基づいて導師代行を務めた魔道士カイバー・ベルトン・アベリボイエン大博士を含む導師七人、大博士十九人――即ち大陸最高峰の魔術師実に二十七人――が命を落とす惨事に終わった。この未曽有の大惨敗によって、本を糺せば大魔術師ゼノー・オルギアスにまで行き着く、即ち古王国からの伝統を誇る魔術学院の権威は失墜し、帝国の魔法技術力と魔法戦力は激減した。
学院の独立自治を常々快く思っていなかった宮廷はこれを絶好の機会と捉え、指導者の喪失と権威の失墜による傷の止血さえもままならない学院に更なる攻勢をかけた。世論を誘導し、普段は俗権と神権の優劣を巡って対立している教会とすらも結託し、内外から学院に対する批判と責任追及の声を上げさせ、帝国よりも――それどころか王国よりも――古い学府を追い詰めていった。
学長代行がジラオン・ブルレー・ルークス男爵純粋魔術導師であるばかりか、それを助ける導師達の多くが単なる博士――即ち大博士の代行――が務める代行であるという急ごしらえの指導部を戴いた学院は内外からぶつけられる「責任を取る生者」を求める叫びに抗いきれず、最終的には宮廷への譲歩を余儀なくされた。事実上の降伏交渉の席での取り決めにより、学院は生贄としてサルバトン一門次席のスナー・リッヒディート博士を差し出し、空席となった各系統の導師席の多くに親帝国派の魔術師を就けることとなった。学院は生贄として切り得る札の中から最も痛みの少ないものを選び、宮廷は彼らの走狗として実質的保護下に置いたガウディアスの競争相手となるであろう人物を排除することでひとまず溜飲を下げたのである。ただし、サルバトンの弟弟子でその精神的兄弟とまで言われた黄金騎士にして魔道士ウストファルト・ウェルグナー大博士の強力な働きかけもあって、リッヒディートの処分は、実質的な追放ではあったものの、書類上はサルバトン討伐任務を請けて旅立つ形に収まった。
こうして事件は一応の決着を見たが、学院に深い爪痕を残した。学長を始めとする中心的な魔術師の大半が喪われたことで、学院の組織機能はもとより魔術師集団としての優秀性も大きく損なわれた。また、指導者を失ったいくつもの一門の多くが、解体されるか、親帝国の姿勢を示した後任者に引き継がれるか、親帝国派の一門に吸収されるかし、学院全体が帝国の魔術師養成機関への道を進み出すこととなった。その処遇が注目されたサルバトン一門は、主にウェルグナーの宮廷と学院と教会を相手取った恫喝じみた交渉によって、スナー以外の誰一人責任を問われることなくそのまま残され、導師を補佐する責任を負う大博士の身でありながら処分を免れたウェルグナーに一時引き継がれた。そしてその後しばらくして、ウェルグナーと宮廷の後押しを受けて大博士に就任したガウディアスが正式に受け継いだ。真正魔術導師の席は、サルバトン、ウェルグナー両名の弟弟子に当たるライヴィス・シャーレイン・ラインツ無爵博士がウェルグナーの推挙を受けて形式的に大博士に就任したその直後に受け継ぎ、そしてシャーレイン・ラインツが代行から正式に学長に就任したブルレー・ルークスから地位を譲られた際、そのままゼイル・ガウディアスに下げ渡された。
魔術学院が独立自治権を骨抜きにされて宮廷の膝下に身を投げ出し、各方面への影響力を急落させるきっかけとなったウェイラー・サルバトン事件の顛末についてトゥーラルが知っているのはこれくらいであり、しかも肝心のサルバトンが関わった時期そのものは伝聞でしかない。その時既に彼は学院の部外者であったし、その場にもいなかった。彼が帝都に在って間近で動向を見守り、いくらか関与もしたのは、事件の後処理の段階に入ってからだった。
帝国を震撼させたあの大事件の渦中に在って見事な立ち回りを見せ、大きな役割を果たした男が、重大な政治性を帯びた今回の事件に介入してくる。その想像は単に苦手意識を持つ兄弟子との再会の予感がもたらす以上の危機感をトゥーラル・クライムス・クラートンにもたらした。
スナーが純粋な交渉技術で挑んでくるのであれば恐れるに足りない。幼年期を辺境の農村で過ごしたことがもたらした限界か、あの男の交渉能力自体は大したものではないからだ。あの男は劣勢な相手を料理することはできても、対等以上の相手に要求を通すだけの技術を持たない。有り体に言えば交渉において凡庸の域を出ない。その上、時折、信じがたい間抜けぶりを晒すこともある。全力を挙げてたった一つの要求を守り通すのが関の山だ。しかし、だからこそ、あの男はまともな交渉をしてこないはずだ。ウェルグナーから暴力的交渉のやり方を学んだスナーは、可能な限りそれを用いて要求を通そうとするだろう。そうなった時、辺境の寒村で生まれ育った粗暴な兄弟子を一切の被害を出すことなくあしらう自信がトゥーラルにはなかった。
高じた危機感が歪んだ顔面を引き攣るように強張らせる。
シェリルが気遣わしげにトゥーラルの硬い頬を撫でた。
「トゥーラルもあの人が怖いの?」
「そうだ」トゥーラルは素直に認めた。口に出して認めてしまったことで、少し気が楽になったように感じられた。続く言葉は泉の水が湧くように出てきた。「私は彼に会うのが恐ろしい。私が知るスナー兄弟子は、常に私を上回る存在だった。才能以外の全てを持っているのではないかとすら思えた。再会して、自分の無力を思い知らされるのが怖い。彼が政治的野心を持っていはしないかと不安でもある」
もしスナー・リッヒディートが宮廷魔術師団入りをもくろんでいるとしたら、どうなるか。
確かに経歴には大いに問題がある。彼はサルバトン事件に対する学院の責任を象徴するような存在だ。名目上の任務であるサルバトン討伐を未だ果たせずにいる状態で宮廷魔術師団に招くことは、宮廷が学院の責任追及を放棄すると表明することと同義となる。
だが、実力は申し分ない。人員喪失と人材流出によって大きく弱体化した魔術学院において、彼はおそらく五指――黄金騎士にして魔道士ウストファルト・ウェルグナー大博士、魔道士ジラオン・ブルレー・ルークス男爵純粋魔術導師の次元違い二名と魔道士ライヴィス・シャーレイン・ラインツ学長に次ぎ、魔道士ゼイル・ガウディアス真正魔術導師と並ぶ位置――に入る魔術師だ。その力量は各体系の導師達に対し、専門分野においてこそ一歩も二歩も譲るだろう。だが、魔術全般の力量という意味では凌ぎ得る。
それだけの実力者を取り込めるとあらば、首席宮廷魔術師にしろ皇帝にしろ、真剣に検討してみるに値する提案であろう。スナー・リッヒディートの宮廷魔術師就任は決して荒唐無稽な発想ではない。
そうなれば団内の序列はどうなるか。トゥーラルの見たところ、単純な魔術の力量で言えば、次席魔術師と比べても遜色がない。宮廷内での人脈や振る舞い方に難があるとはいえ、しばらくの研修期間が明ければ最低でも主任、上手くすれば上席魔術師に相当する地位を与えられるであろうことは間違いない。つまり、あの男は再びトゥーラルの上に君臨するかもしれないのだ。
トゥーラル・クライムス・クラートンは何よりもその可能性に怯えていた。一門上位への夢をかつて断たれ、今度は団内上位への夢をも断たれる。想像するだけで悪寒がした。温かさを求め、組み敷いたままの柔らかい肉体を強く抱き締める。
「トゥーラル、そんな思いまでしてあの人に会わなければならないの?」シェリルの透き通るような翡翠色の眼が気遣わしげにトゥーラルの顔を見つめる。「怖いのなら、逃げてしまえばいいわ。あなたなら、会おうとしなければ会わずに済むでしょう」
「……確かにその通りだな。逃げ出し、投げ出すことも選択肢の内だ」トゥーラルはひしゃげた唇を歪めた。「だが、選べない。それでは駄目だ。逃げることは戦わずして負けることだ。戦って負ける以上に惨めだ。だから私は彼と戦わねばならないのだ」
そう言った直後、トゥーラルの心の中にある決意が生まれた。彼は自分の中にそのような決意が生まれる余地があったことに驚きつつも、神聖な言葉を唱えるような慎重さでそれを口に出した。
「私はあの男に立ち向かう……だから、その時は、私の隣に立っていてくれるか」面映ゆさを堪えてシェリルの美しい顔を見つめる。「……君がいてくれると、それだけで勇気が出るんだ」
「勿論」とシェリルが微笑み、体の上にのしかかったままのトゥーラルを優しく抱き締める。
帝国南部総督府は南部随一の大都市オルバルク市に置かれている。総督官邸は総督公邸に隣接して市の中央広場を見下ろし、その威容を誇る。
金牛月の五日、午後三時過ぎ頃。然るべき身分の者以外は門を潜ることさえも許されない俗世の聖域の内部では、その聖域の支配権を与えられている男が、地獄の釜のように怒りの炎を燃やしていた。
公において総督を補佐する首席秘書官ヘルムリヒ・ジャクセン・シール男爵の前で、帝国南部総督ヴェルバール・ハイナス・メヘンレンバルク侯爵が顔を苛立ちで醜く歪めて、既に辞去した御子教会の異端審問官グルツ司教に出したコーヒーカップを応接室の壁に投げつけた。二人きりの室内に耳障りな破壊音が響き、破片が飛び散った。遠くアル=ヴィアから海賊と怪物がひしめく海路を通り抜けて届いたコーヒー豆を砕いて淹れた汁の残りが絨毯と壁を茶色く汚した。
「閣下、落ち着いてください」
ジャクセン・シール男爵は、うんざりした思いを押し殺して、総督をなだめようとした。
「うるさい、うるさい、うるさい! 儂はもう、我慢ならんのだ!」
実年齢より十は若く見える矍鑠たる老侯爵は顔を真っ赤にして子供のように喚き散らした。
止めればこうして怒るし、止めなければもっと怒る。実に面倒臭い上司だった。これは最早七十歳児だ、とジャクセン・シールは内心で密かにぼやいた。その子供じみた振る舞いにジャクセン・シールは、ともすれば目の前にいる老人が帝国屈指の大権力者であることを忘れそうになる。
皇帝に直属して帝国南部州の頂点に立って三千万を数える民を支配し、各県の太守達や側近の官僚達を通じて百万人にも上る官吏を束ね、州軍総司令官を通じて現役百万人、予備役八十万人から成る南部州軍の恒常的指揮権を持ち、戦列艦だけでも三百隻弱を擁し現役三十八万人と予備役十五万人から成る南洋艦隊を南洋艦隊司令長官を通じて管理下に置き、有事には南部州に領地を持つ諸侯に命じて南部諸侯軍計四十万人弱の指揮権も発動できる。平時においては皇帝のみに責任を負い、皇帝以外の誰からの掣肘も受けることなく、帝国法の定める範囲で諸侯領を除いた州内のあらゆるものを自由にでき、州内でのみ通じる州法の制定さえも行なえる。また、諸侯領も完全な治外法権ではなく、一定の統制を及ぼせる。そして有事に至っては皇帝以外の何物も――帝国法でさえ――彼を束縛できない。地方総督とは、南部総督とはそういう存在である。
しかしながら、感情のままに喚き散らす年老いた貴族が一国の王にも比すべきそうした権力の持ち主であるなど、そうと言われない限り、到底窺い知れるものではない。
「儂が総督に就任したその年にティートバルクが陥落した!」ハイナス・メヘンレンバルクは唾を飛ばして怒鳴り続ける。「そしてほんの二週間前、ミドルトンの大馬鹿野郎の領地で薄汚い妖術師の隠れ家が見つかったと知らされた時には、もう勅命で近衛が乗り込んでくることが決まっていた。その上、薄汚い冒険者共まで首を突っ込んできた。魔法使い共も何かと小うるさく動いておる。儂は何も知らなかったぞ。何もだ! 何もかもだ! 全部が儂を素通りして帝都に知らされて頭越しに決定された。儂が事態を知ったのは全部が決まった後、宮廷からの知らせによってだったのだ。どいつもこいつも儂を軽んじる! その上、ミドルトンのクソ野郎……陛下からは手出し無用と言われていたくせに、しつこく食い下がってきたかと思えば脅迫紛いの真似までして、結局、不名誉を雪ぐと称して軍を作戦にねじ込んできやがった。お前の不名誉など儂の知ったことか、畜生め! 恥じ入るならば首でも括れ! 呪われろ! 田舎領主如きが儂を虚仮にしおって! 儂を誰だと思っておる、コール・ブランボルク=ミドルトン! 地獄に堕ちて悪意の魔王の拷問を受けろ!」
「閣下……」
ただ自分が無反応な壁ではないことを示すためだけの相槌に、ハイナス・メヘンレンバルクは怒りの炎の点った眼差しを向けた。激昂した様子で机を叩く。
「しかも、しかもだ、今度は教会の連中が妖術師は生かしておけないだのと抜かして強引に首を突っ込むと来た! グルツの目を見れば、奴が心の底からそう信じて協力を押しつけてきたことがわかる。後ろにいる連中と違って、あいつには打算などないのだ。おぞましい。全くの善意と正義感と信仰心から、奴らはこの件に介入しようとしている。畏れ多くもミヘール二世陛下が直々にお定めになられた聖俗分離勅令を知らんのか、クズ共め! 狂信者共、帝国を食い荒らす溝鼠共め、気違い坊主共め、お前らも残らず地獄に堕ちろ! 地獄で魔王と賛美歌でも歌っておれ!」
ハイナス・メヘンレンバルクが喚き散らすミドルトン伯とグルツ司教への慎みに欠けた恨み言は、ジャクセン・シールの耳には老人の責任転嫁としか聞こえなかった。
地方貴族の我儘で中央を煩わせないことも地方総督の仕事の一つである。いくら大貴族が経済的叛乱を臭わせてきたとはいえ、あっさりと屈して中央に取り次いでしまうようでは、総督として不適格と評さざるを得ない。「信心が過ぎるあまり暴走した信徒」による武装蜂起の可能性を示唆されたとはいえ、教会の介入を許してしまったことも大失態と言える。他の教団が帝都の神殿を通じて直接宮廷と交渉したのに対し、御子教会はわざわざ南部総督を通そうとした。教会の狙いは明白だ。本来の要求を通す行き掛けの駄賃に宮廷と南部州の関係にヒビを入れようとしているのだ。
職務の引き継ぎを終えたか終えないかの時点で起きたティートバルクの陥落とは違い、これらは擁護のしようがない。ヴェルバール・ハイナス・メヘンレンバルクは確かに行政官としては優れている。不正を嫌い、部下に誠実で、私心がなく、南部州の発展を我がことのように喜ぶ尊敬に値する人物である。帝都大学では経済学と政治学を研究して文学博士号を取得した学究肌でもあり、高級官僚の手引きとなり得る経済や行政上の優れた論文をいくつも物した功績も無視し得ない。だが、皇帝の代理人として一州を統治し、三百万名もの官吏と軍人の頂点に立つ指導者としては性格に苛烈さと果断さが欠けていた。帝国南部総督ヴェルバール・ハイナス・メヘンレンバルク侯爵は、謀叛人としてミドルトン伯やグルツ司教をその場で処刑し、兵を出して伯の部下や南部州の御子教指導者達を逮捕拘束するほどの苛烈さを示してでも、即ち南部州を諸侯と聖職者を相手取る内戦の渦に投げ込む覚悟を示してでも、帝国貴族として、南部総督として、毅然たる拒絶を示さねばならなかった。然るに優柔不断な総督は、決断を恐れ、皇帝に仲介の労を取ってしまったのだ。首席秘書官ジャクセン・シール男爵や副総督リンハルト・ギーゼルン・オルベスター伯爵を始めとする側近達が、意見の硬軟はあれども揃って反対したのにも関わらず。
ヴェルバール・ハイナス・メヘンレンバルクの第一の不幸は、彼の適性があくまでも一行政官僚以上のものでは有り得なかったことである。第二の不幸は、先代総督の下に集った候補者達の中で、彼の役職と爵位と先任権と経歴が頭抜けていたことである。原則的には能力を重視すべきであるとはいえ、副総督の地位に就き、伯爵や子爵が並ぶ中で唯一侯爵位を有し、先任権第二位の者との間に十年以上の任官年度の差をつけ、更に帝都大学時代は当時第四皇子であった先帝ミヘール二世の学友であったとなれば、本人の辞退以外に円満な形で彼を退けることは難しかった。そして第三の不幸は、その適性欠如を認めて約束された名誉を辞退する勇気を彼が持たなかったことである。
ジャクセン・シールはそうした上司の不幸を正確に把握して多少の憐憫を覚える一方で、新任の南部総督が現れる日が遠くないであろうことも見据えていた。何と言っても、皇帝は総督の存在を無視して直々に南部州の問題に介入してきたのだ。これは、皇帝がハイナス・メヘンレンバルクを名指しして、総督として不適格であると天下に宣言したに等しい。皇帝の真意がいかなるものであれ、この一件が片付いたならば、ハイナス・メヘンレンバルク侯はどれほど傷の少ない結果に収まるにせよ、少なくとも勇退の形で職を辞さざるを得ない。侯がもっと決断力に恵まれた人間ならば――そうならばこのような事態にはそもそもなり得なかったはずだが――この仕打ちを恥辱として自裁を遂げてもおかしくはない。いずれにせよ、彼が今の席に留まり続けることは状況が許さない。
ハイナス・メヘンレンバルク侯爵が地位を退いた後、自分はいかにすべきか。上司への忠誠心が然程篤くない首席秘書官は今や、順当にいけば総督を引き継ぐことになるギーゼルン・オルベスター伯の下でいかにして地位を維持すべきかを考えるようになっていた。首席秘書官の地位は次代の総督や副総督の座を狙い得る重職であったが、ジャクセン・シールにその意思はない。ハイナス・メヘンレンバルクを見てきたおかげで、彼は身の丈に合わぬ地位の恐ろしさをよくわきまえていた。ヘルムリヒ・ジャクセン・シールという宮廷貴族には頂点に立つ器量がない。
「ふざけおって! ふざけおって! ふざけおって! 田舎領主め。気違い坊主め。儂をどこまで虚仮にすれば気が済む。神々は何をしておられるのだ。儂を苦しめて遊んでおるのか。儂がどれだけ教団に寄進してやったと思っておるのだ! どいつもこいつも役立たずか敵ばかりではないか!」
自分の言葉を燃料に怒りの熱を高めていく総督は、涜神的な言葉を口にし、砂糖とクリームを贅沢に使ったケーキを載せてグルツ司教に出した硝子の平皿を掴むと、思いきり壁に投げつけた。コーヒーカップと同様、ドワーフの職人が丹誠籠めて制作した芸術的な硝子細工は、澄んだ音を立てて砕け散った。クリームの残りが絨毯を汚した。飛び散った破片が昼の朗らかな陽射しに煌めく窓ガラスにぶつかり、表面に傷をつけた。ジャクセン・シールはふと、頭の中でさきほどのコーヒーカップと併せて総督がこの数分間でどれだけの銀貨を台無しにしてしまったことか、計算してみる衝動に駆られた。
喚き散らして暴れたことが老体に響いたか、総督は肩で息をしていた。
「なあ、ヘルムリヒ・ジャクセン」
力なくかけられた声により、試みが中断された。ヘルムリヒ・ジャクセン・シールは姿勢を正した。
「なんでしょうか、閣下」
「どうして儂の在任中にばかり不愉快な事件が起こるのだろうな。儂が一体何をしたというのだ」
閣下は何一つなさいませんでした。思わずそう口にしかけたのを慌てて呑み込んだ。南部総督の権力を憚っただけではない。南部州を愛し、職務に励み、幾多の危難にも関わらず破綻させることなく南部州を維持してきた偉大な行政官に対して、あまりにも礼儀を欠いた返事を口にするほど恥知らずにはなれなかった。
「閣下、弱気は禁物ですぞ。閣下は最善を尽くしておられます。自信をお持ちください。今やティートバルクは閣下の下で復興し、以前にも増して栄えております。閣下はたびたび苦難に見舞われましたが、その都度、全てを乗り越えてこられました。きっと閣下は、此度の苦難をも乗り越え、一層南部を富み栄えさせられることでありましょう」
空々しい言葉だが、有益かつ真摯な言葉ではなく耳に快い慰めを求めるハイナス・メヘンレンバルク侯にはそれで十分だった。総督は多少心が晴れた様子で落ち着きを取り戻し、ゆっくりと深呼吸を始めた。
何度か空気の出入りがあった後、総督の口から根深い疲労の滲んだ暗い声に乗って筆頭秘書の名が吐き出される。
「ヘルムリヒ・ジャクセン……」
「はい、閣下」
「久しぶりに怒鳴ったせいかな、大分疲れてしまったよ。儂ももう歳かな」急に実年齢よりも十歳は老け込んだような顔になって力なく苦笑した。「もう部屋で休みたい。あとの細々としたことは、リンハルト・ギーゼルンに任せるから、あやつにそう伝えてお前達で片づけておいてくれるか」
「畏まりました、閣下。ギーゼルン・オルベスター閣下にお伝え致します」恭しく頭を下げる。「おやすみなさいませ」
「うむ」と頷き、総督は応接室を出ていった。
残されたジャクセン・シールは部屋の惨状を見回して嘆息した。女中を呼んで片づけさせなければならないが、その時に女中の顔に浮かぶであろう同情の色を想像すると、惨めでならなかった。
ヘルムリヒ・ジャクセン・シール男爵は歯噛みした。帝国屈指の権力者の首席秘書官という肩書を持って南部統治に参画する宮廷貴族が、なぜ取るに足らない女中如きに憐れまれなければならないのか。それでは理屈が合わないではないか。自分こそが連中を憐れむ側ではないか。