清玉鳥女
かなり出筆が遅れましたが、これは十一月の童話です。「十一月の童話」で検索すると素晴らしい「日本の童話」を読むことができます。
険しい峠に、旅人の無事を祈るために祠が建てられたのは、今から何百年も前のことだ。
その峠は、なだらかとは言い難く、急勾配なことと雨や雪が降ると地面が崩れやすくなるために日本でも有数の難所でした。
その頃、この峠の辺りまでが日本であり、この向こうは、まだ日本ではありませんでした。とはいっても、あくまでも、それは政治的な境界線であり、エゾやそれよりも北の海で採れる海産物を目当てとして、商人が峠を越えることが多い行路でもありました。
その昔、ある商人が峠の麓にある村で、奇妙な話を聞きました。
エゾと交流の深いその村では、しばしば雪の被害のために帰れなくなった流鬼の人々を泊めては、宴の席で北の国の伝説を聞くことがあり、商人がその話を聞いたのも、その村で宴が開かれていた時に、村人達がその話で盛り上がっていたからでした。
北の海には、鳥獣の姿をし、肩より上は美しい女の姿をしている化け物がいるといわれていました。
さらに、そいつは、大陸に運ぶラッコやアザラシの毛皮、砂金などの公易品を積んだ船を沈めてしまうといわれていました。
その化け物は、その美しさで船員を騙したり、人間を石にしてしまう歌を詠うといわれていて、船を出した人も何度か目撃したといいます。
その姿といったら、この世のどんな金銀財宝などにも劣っておらず、その歌声は、この世のあらゆる虫の音や川のせせらぎよりも美しかったという話です。
村人達は、化け物を清玉鳥女と呼んで、事あるごとに話題にしました。
商人は、たいそう珍しい土産話が聞けたと、とても喜びました。
あくる朝、この年初めての霜が降りて、すっかり白くなった峠の道を商人の男が出発しました。
この数日は、雨は降っておらず、道もそれほど悪くは無かったために、日がすっかり昇った頃には、男は頂上近くまでたどり着いていました。 もうすぐ、山頂に差し掛かるという時になって綺麗な川が現れたので、男は少し休むことにしました。
川の水は、とても冷たく綺麗だったため、男の疲れも幾分か、楽になりました。
男が、荷物をまとめて、歩きはじめようとすると、ふと、川下で女の泣き声がした気がしました。
見ると、歳は六から十才過ぎぐらいの女の子供が楔網に引っ掛かっていたのです。
男は驚きましたが、近付いて、
「大丈夫か、すぐに助けてやるから、待っていろ」
と言いました。
しかし女は
「いいえ、こっちには来ないでください」
と返すと、その場にしゃがみこんでしまいました。
「おい、どうしたんだ」
それでも男が近付くと、女は言った。
「私は、遠い国から来ました、この姿を人に見せる訳にはいかないのです」
女は、サッと着物を翻しその羽毛を見せつけた。
「お前……」
「私は、このとおり人の姿をしておりません。ですが、どうか私を助けてくださいませんか」
「そんなことを言って、助けた途端に、私を石に変える気だろう」
「いいえ、そんな事はいたしません。助けてくだされば、私はすぐにでもこの場を去ります」
女が必死に訴えかけるので、男は網を解いてやることにしました。
「分かった、お前を助けよう。だがな、私が網を解いたら直ぐに私の前から去りなさい。もし、私の前に姿を現すような事があれば、その時は……」
「分かっております。あなたが網を解いてくだされば、私はあなたの前には二度と現れたりしませんから」
男はそれを聞くと、持っていた鎌で網を破りました。
「どうだ、抜けられそうか」
「はい、ありがとうございました。二度と会うことはないでしょう、さようなら」
そう言うと女は、翼を広げて北の空に飛び去っていきました。
男は、しばらくの間、呆然と立ち尽くし、我に返っても女の美しさが頭から離れませんでした。
そして、男が歩き出したころには、日が暮れ始めていました。
夜までには頂上にたどり着くはずが、暗い夜道を歩かなければならず、男はとても危険だと知りながらも、そう遠くではないので先に進む事にしました。
しかし、夜の山道は、あまりにも険しく、とうとう男は片足を踏み外して、断崖から転げ落ちてしまいました。
ゴツゴツした斜面と岩肌が、容赦なく男の体を襲います。
男は、薄れゆく意識の中で風の囁きのような歌を聴きました。
すると、どうでしょう、男の体は傷口は塞がり、みるみるうちに石になって、斜面を転がり、 男は痛みを感じることなく川に落ち、やがて止まりました。
――なんてことだ、体が石になってしまった。だが、お陰で痛みは全くない。これはきっと清玉鳥女の仕業に違いない――
男が落ちたのは、
さっき女を助けた川です。
「残念ながら、私は約束を破ってしまいました」
女は、石になった男の後ろに降り立ちました。
「あなたが、崖から落ちるのを見て、とっさに歌を詠ってしまいました」
女は、石になった男の体を、鳥の前足で掴み、空に舞い上がると、頂上の見晴らしの良い所を選んで置きました。
「あなたとの約束を破ってしまった報いとして、私も石になります。そして、この場所で永遠に空を仰ぎ続けます」
女は、そう言うと、この世のものとは思えないような美しく清らかな歌を詠って石になりました。
後に、この場所には、お堂が建てられて、そこにあった二体の地蔵が納められました。
お堂は、ちょうど北の海に開かれていて、海の道を行く人と、峠を越える旅人の安全を祈っていると謂われています。