檻から見ゆる夢
「蜘蛛の意図」-後日談-
一人の男が噂を頼りに屋敷に忍び込む。
そこは数年前、名の知れた花魁が水揚げされた行き先だった。
男は知らず知らずのうちに人が踏み込んではいけない領域へと入っていくーー。
国の重鎮や、不動の地位を築いた商人が競うように屋敷を建てている都の中でも一層大きなお屋敷に不穏な噂が付き纏っていた。
その屋敷の主人はまだ年若い青年で、感じのいい人柄。
途方もないお金持ちには違いないのだが、どこから来たのか、何の仕事をしているかは謎なのだ。
その青年が遊郭でも名の知れた花魁を水揚げしたらしい。
しかしそれは噂の域にとどまり、誰も花魁の姿は見たことがなかった。
数多の噂に好奇心を抑え切れず、俺は興味本意で屋敷に忍び込んだ。
その時は捕まった後のことなど考えていなかった。
今思えばどれだけ無謀なことを考えたのか、自分で自分を呆れるしかない。
屋敷の中は異様に人が少なく、たいした苦労もせずに忍び込めた。
これだけ広いお屋敷にもかかわらず余りに人気のない様子がどうにも腑に落ちず、身震いが起こる。
不気味に思い潔く引き返そうとすると、様子の違う扉が目に入った。
深紅の鳥が軽やかに宙を舞う様子が描かれた扉に、無骨な南京錠が違和感を醸し出す。
俺は密かな得意技を使い、南京錠を外した。
カチンっと無機質な音を立て外れたそれは、手の中で枷のようにずっしりと重い。
慎重に扉を開くと、この世のものと思えないほどの美女が、目を見張るほど美しく繊細な様式の部屋の中に一人。
まるで目に美しい花瓶の中で凛と咲く彼岸花のようだった。
艶やかな黒髪は流れるように床まで垂れ、肌は真珠のようにみずみずしい輝きを放っている。
毒々しいほどの真っ赤な口紅に、黒硝子のような瞳。
鮮やかな紅と金が惜しみなく織り込まれた豪奢な着物を、難無く自分のものにしていた。
「鼠が一匹、なんの用でありんしょう?」
きっとこの娘が水揚げされた花魁なのだろう。
その証拠に娘の圧倒的な存在感に呑まれ、ごくりと喉を鳴らした。
真っ赤な唇から鈴を転がすような愛らしい声が聞こえた。
「用がないのであれば、帰ってくんなまし。あれが、来る前に」
「……本当にいたんだ」
「なんがでありんしょうか?」
娘が訝し気な視線を向ける。
「君が夕霧花魁?」
「……いかにも、わっちが夕霧でありんした遊女でありんすぇ」
娘の表情が失くなり淡々と告げる。
「そうか、あの噂は本当だったんだな。しかし近所に住む者も君の姿を見たことがないとなると、君はここに閉じ込められているんじゃないか?」
「そうかもしれんせん。こなたの部屋の外に出たのは懐かしい昔の話でありんすから 」
「そうか……ここは君の鳥籠なんだね。空を飛びたくないか?」
「できることなら自由になりたいでありんすぇ。けれどわっちはもう飛べる翼は失ってしまいんした」
逃げられはしんせん、と呟きながら窓から空を見上げる目には、諦めや憧れ、切望が込められていた。
きゅうっと胸を締め付けられ、勝手に口が動いた。
「俺がここから出してやるよ」
「まことでありんすか?」
真っ直ぐに射ぬく視線に、深く頷く。
「ああ」
「……わっちに、無駄な期待は持たせないでおくんなまし。どうせ逃げられはしないでありんすから」
「何故諦めるんだ、もしかしたら空を飛べるかもしれないだろう」
「こなたの屋敷から出たところで絡まった糸は解けはしんせん。無駄でありんす」
俯きながら搾り出すような声だった。
娘に一歩近づく。
「ゆっ……」
「もう満足でありんすか?捕まる前にここから出ておくんなんし」
怒気を孕んだ有無を言わせない口調に、開きかけた口を閉じ、諦めて来た道を戻った。
最後に娘の姿を見ようと振り返ると、娘の元を訪ねる青年の姿が見えた。
存外に見栄えのする青年の姿に暫し様子を伺っていると、窓の格子越しに青年の底知れない黒い瞳が体を貫く。
蛇に睨まれた蛙のように、動けないでいると娘が青年に声をかけたのがきっかけに、興味がなくなったようにふいっと目線を外される。
あそこは人の立ち入れてはいけない領域だと本能が告げている。
己の愚かさを思い知り、逃げるように屋敷を後にした。
あの娘は解放されることを望んでいるのか、それとも囲われたままでいたいのかは分からない。
ただ、娘の悔しそうな横顔がいつまでも頭から離れなかった。