マスタング
第一章:不協和音のファンファーレ
午前五時。世界のすべてがまだ深い藍色の底に沈んでいる時間、その静寂は文字通り「圧殺」された。
一九六七年型フォード・マスタング・クーペ。四・七リッターV型八気筒エンジンが目覚めさせた咆哮は、もはや単なる機械の駆動音ではなかった。それは太古の肉食獣が夜の闇を呪って上げる、地を震わせる咆哮そのものだった。マフラーの消音器はとうの昔にその機能を放棄しており、錆びついた鉄パイプからは、ガソリンを不完全に燃焼させた黒い煙とともに、暴力的な音波が容赦なく撒き散らされている。
車内は、会話という人間に許された文化的な営みを完全に拒絶する鉄の檻だった。
「いい加減にしてって言ってるのよ!」
助手席の加奈子は、声を張り上げるというより、肺にあるすべての空気を絞り出すようにして叫んだ。喉の奥がヒリヒリと痛み、こめかみの血管がちぎれそうだった。
しかし、その決死の叫びも、ダッシュボードの奥から響く重低音と、足元から突き上げてくる鉄板の振動のなかに、一瞬で溶けて消えた。
運転席に座る夫の和樹は、そんな妻の怒髪天を衝く姿に気づいているのかいないのか、脂ぎったハンドルを両手で握りしめたまま、薄気味悪いニヤつきを顔に張り付かせていた。時折、和樹も何かを大声で怒鳴り返しているようだったが、動く唇の形からそれを読み取ることは不可能だった。エンジンの爆音が、すべての音節を粉砕し、無意味な雑音へと変えてしまうからだ。
今日、二人は結婚三周年の記念日を迎えていた。
それなのに、和樹が計画した「サプライズ旅行」とやらは、最悪の形で幕を開けた。前日の夜まで行き先を一切告げず、ただ「朝五時に出発するから着替えておけ」とだけ言い残し、まだ星の残る時刻に加奈子をこの爆音の棺桶へと押し込んだのだ。車が走り出してから一時間、マスタングはバイパスから繋がるうらぶれた国道をひたすら西へとひた走っている。車内の空気は、冷気とガソリン臭、そして二人の間に満ちる濃密な嫌悪感で凍りついていた。
加奈子の我慢は、完全に限界を超えていた。行き先も分からない、話もできない、ただ耳を破壊するような金属音に包まれて、どこかも知れぬ荒野のような景色を眺め続ける。これが和樹の言う「記念日のもてなし」なのだとしたら、この男の脳味噌はキャブレターの煤でできているに違いない。
「車を止めなさい! 止めろって言ってるのよ!」
加奈子は身を乗り出し、和樹の肩を激しく揺さぶった。さすがに危険を察知したのか、和樹の眉が不気嫌そうに跳ね上がる。和樹はちっと舌打ちをすると、ウインカーも出さずにマスタングのステアリングを左に切った。
ガタガタと酷い振動とともに、マスタングは国道の広い路肩へと滑り込み、完全に停車した。
エンジンはアイドリング状態になっても、相変わらず「ドッドッドッド」と腹に響く不快な重低音を刻み続けている。
「もうたくさん。あなた一人でどこにでも行きなさいよ」
加奈子は冷徹な声で言い放った。停車した車内なら、声を張り上げずとも言葉は届く。しかし、和樹は言葉を返す代わりに、ただ不機嫌そうに視線を正面のフロントガラスへと戻した。その傲慢な態度が、加奈子の心の中で燻っていた導火線に完全に火をつけた。
加奈子は助手席のドアを乱暴に開け放ち、シートから這い出た。国道の冷たいアスファルトに足を下ろした瞬間、耳の奥に残る金属音が遠くで鳴り響いていた。
「おい! 待ちやがれ!」
背後で和樹が初めて聞き取れる声で怒鳴った。だが、加奈子は振り返らなかった。バタンとドアを閉め、回れ右をして、マスタングが走ってきた進行方向とは逆、つまり東に向かってトボトボと歩き始めた。
残された和樹は、マスタングの運転席で数秒間、呆然と妻の背中を見つめていた。せっかく数ヶ月前から計画し、ホテルの予約まで取り、この愛車の整備に血と汗を流したというのに、この仕打ちは何だ。せっかくの記念日を台無しにされたという怒りと、男としてのプライドが、和樹の脳内で爆発した。
「ああそうかい! 勝手にしやがれ!」
和樹はギアをローに叩き込み、アクセルペダルを床まで踏み抜いた。
フルスロットル。
一九六七年型マスタングのリアタイヤが、悲鳴のようなスキール音を上げて激しくスピンした。白煙が国道の路肩に立ち込め、ガソリンの焼ける臭いが周囲に充満する。マスタングは、怒り狂った猛獣さながらに猛加速し、加奈子を置き去りにして前方へと消え去っていった。
数キロ先、国道のカーブを曲がった先にポツンと佇むコンビニの看板が見えた。和樹はそこにマスタングを滑り込ませ、白線も無視して斜めに急ブレーキをかけた。エンジンを荒々しく切ると、ようやく世界に静寂が戻ったが、和樹の胸のうちは未だ激しい怒りの炎で煮えくり返っていた。
こうして、二人の奇妙で不条理な、そして決して交わることのない長い一日が始まった。
第二章:夫の荒野、あるいは泥濘の旅
マスタングのハンドルを叩きつけ、車を降りた和樹だったが、コンビニの放つ無機質な蛍光灯の光に照らされているうちに、少しずつ頭に血が上っていた感覚が冷めていくのを感じた。
いくら何でも、携帯電波もおぼつかないような国道の真ん中に妻を置き去りにしたのはマズかったかもしれない。そんな一抹の後悔が頭をよぎったが、自分から迎えに行くのは癪だった。
ポケットからスマートフォンを取り出す。画面を見ると、奇妙なことに加奈子の方からメッセージが入っていた。
『カッとなって降りてごめん。ところで、本当はどこに行くつもりだったの?』
和樹は、ぶっきらぼうに画面を叩いた。
『某ネズミの夢の国。ホテルの予約もしてある』
しばらくして、加奈子からの返信があった。その内容は、和樹の予想を遥かに超える奇妙なものだった。
『分かった。じゃあ、ただ戻って合流するのも面白くないから、ゲームをしましょう。お互い、今持っているものから始めて、路上で「物々交換」を繰り返しながら、最終目的地(そのホテルの前)を目指すの。どっちがより価値のあるものに交換できるか勝負よ。絶対に途中で会っちゃダメだからね』
和樹は眉をひそめた。物々交換ゲーム? なんだそれは。だが、加奈子のことだ、一度こうと言い出したら絶対に引かない。それに、普通に謝って連れ戻すよりは、この奇妙なルールに乗っかった方が、お互いのへし折れたプライドを傷つけずに済むかもしれない。
「やってやろうじゃねえか」
和樹は呟き、自分のポケットを探った。
財布とスマホ以外にあるのは、さっきコンビニの入り口付近の地面に落ちているのを拾った、潰れたタバコの箱だけだった。中を開けると、奇跡的にシケていないタバコが数本と、使い捨てのライターが残っている。
「俺のスタートはこれか」
和樹はタバコの箱を握りしめ、マスタングをコンビニの駐車場に残したまま、徒歩で国道の先へと歩き出した。
三十分ほど歩いただろうか。周囲は遮るもののない、ただただ広い荒野のような風景が広がっていた。すると背後から、国道にはおよそ似つかわしくない、鈍重で太いディーゼル音が響いてきた。
振り返ると、そこにあったのは一台のユンボ(油圧ショベル)だった。黄色い重機は、キャタピラをガラガラと鳴らしながら、時速十キロほどの信じられないような低速で国道を這っている。
運転席を見上げると、そこには作業着を着た若い兄ちゃんが、ひどく退屈そうな、気だるげな目で前を見つめてハンドルレバーを握っていた。
和樹はユンボの速度に合わせて並走し、ポケットから例のタバコの箱を取り出して、兄ちゃんに見せた。
「おい、兄ちゃん。タバコ、吸うか?」
兄ちゃんはユンボを止めることなく、窓から顔を覗かせた。
「え? タバコ? くれるんすか?」
「ああ。中身は生きてる。ライターもあるぞ」
和樹がそう言って箱を放り投げると、兄ちゃんは見事にそれをキャッチした。箱を開け、一本を口に咥えてライターで火をつける。紫煙を美味そうに吐き出した兄ちゃんは、一気に親しげな笑顔になった。
「ありがてえ! ちょうど切らしてて死にそうだったんすよ。お礼に、そこらへんまでなら、ユンボの横の取っ手に捕まって乗っていきなよ」
こうして和樹の最初の物々交換は、「移動手段」へと化けた。和樹はユンボのキャビンの外側にある鉄製の取っ手にしがみつき、ステップに足を乗せて、立ち乗りスタイルで進むことになった。風が顔を叩き、ユンボの強烈な振動が全身に伝わってくる。マスタングとはまた違う、ひどく無骨な移動体験だった。
「なぁ兄ちゃん、このまま国道を行くのか?」と和樹が叫ぶ。
「いや、国道をこの速度で走るの、なんか周りの車にクラクション鳴らされてしんどいからさ。そこから河川敷に降りて、裏道を行くわ」
兄ちゃんはそう言うと、豪快にレバーを操作し、ユンボを道路脇の斜面から、広大な河川敷へと侵入させた。
河川敷は、どこまでも続く泥濘とススキの原だった。
しばらく進むと、前方にぽつんと立つ人影が見えた。
ユンボが近づくにつれ、その奇妙な風貌が明らかになる。その男は、ヨレヨレの背広を着ていたが、全身から異常なほどの汗をかいており、顔はテカテカと脂ぎっていた。お笑い芸人のバナナマン日村と芋洗坂係長を足して二で割ったような、なんともユーモラスだが同時に不気味な圧迫感を持つ男だった。
アブラギッシュな男は、近づいてくるユンボに向かって、大きく手を振った。兄ちゃんが重機を止めると、男は開口一番、妙に甲高い声で尋ねてきた。
「あんたたち……泥かけ祭りの参加者か?」
「は? 泥かけ祭り?」
和樹は首を傾げた。そんな祭り、聞いたこともない。だが男は和樹たちの返答を無視し、足元に落ちていた、人間の腕ほどもある「大きな木の枝」を拾い上げた。
「これ、いい枝だ。実にいい。これをユンボのバケット(バケツ)に積もう。何かに使える」
男は勝手に大枝をユンボの先端のバケットへと放り込み、自分も運転席のすぐ横のスペースへと身を滑り込ませてきた。
「おいおい、勝手に乗るなよ」と和樹が抗議したが、男は「進め、進め!」と前方を指差すだけだった。ユンボの兄ちゃんも「まあ、賑やかな方がいいか」と気にした風でもなく、再び重機を動かした。ユンボ一台に男三人、そしてバケットには一本の大枝。光景は完全に現実の論理を失い始めていた。
不条理な行軍はさらに続いた。
ススキの藪をかき分けて進むうち、河川敷の真ん中に、不自然に建てられた小さなプレハブ小屋——ツーバイフォーのあばらやが見えてきた。その周囲は粗大ゴミや枯れ木が散乱しており、およそ人がまともに住んでいるとは思えない荒れ果てた様子だった。
ユンボがその横を通り過ぎようとした時、和樹の目に、信じられないものが飛び込んできた。
あばらやの前の泥地面に、小さな赤ん坊が一人、転がっていたのだ。
赤ん坊はオムツ一枚の姿で、全身泥まみれになりながら、火がついたように激しく泣き叫んでいた。
「おい、待て! 兄ちゃん、重機を止めろ!」
和樹は叫び、ユンボから飛び降りた。いくら加奈子とのゲームの途中とはいえ、こんな状況を見過ごせるほど焼きが回ってはいない。和樹は駆け寄り、泣き叫ぶ赤ん坊を泥の中から抱き上げた。
「誰かいないのか!」
あばらやの、建付けの悪いアルミのドアを激しく叩く。返事はない。和樹は意を決して、ドアを無理やり押し開けて中へと踏み込んだ。
室内は、カビと強烈なタバコの煙の臭いが充満していた。
薄暗い部屋の奥、壊れたソファに、一人の女が座っていた。髪は数ヶ月も洗っていないかのようにボサボサに乱れ、虚ろな目で宙を見つめながら、指に挟んだタバコを不気味なほど静かにふかしている。
「あんた、この子の親か? 外に放置されてたぞ!」
和樹が声を荒らげると、女はゆっくりと首をこちらへ向けた。その瞳には、およそ人間らしい感情の光が一切灯っていなかった。
女は立ち上がると、ふらふらとした足取りで和樹に近づき、次の瞬間、和樹の腕から赤ん坊を「ひったくる」ようにして強引に奪い取った。そして、何も言わずに奥の暗い部屋へと消えていった。
直後、奥の部屋から赤ん坊の、耳を突き刺すような激しい泣き声が響き渡った。
しかし。
その泣き声は、始まってからわずか数秒の後——「ピタッ」と、まるでスイッチを切ったかのように、唐突な静寂に飲み込まれた。
不自然すぎる、死のような静寂。
和樹は背筋に冷たい氷を押し付けられたような戦慄を覚えた。奥の部屋で何が起きたのか。確かめるべきではないのか。和樹の足が恐怖で震えた。
しかし、背後から近づいてきたアブラギッシュな男が、和樹の肩にぽんと手を置いた。男の顔からは先ほどまでの狂気的な笑みが消え、無機質な、完全に冷めきった表情をしていた。
「可哀想にな」
男は、短くそれだけを呟いた。その声には、悲しみも憤りも、いかなる感情も含まれていなかった。ただ、通り過ぎる景色を淡々と描写するかのような、冷徹な無関心。
ユンボの兄ちゃんも、運転席からその様子をただぼんやりと眺めているだけだった。
この場所にこれ以上いてはいけない。本能がそう告げていた。和樹は逃げるようにあばらやを飛び出し、再びユンボの取っ手へと しがみついた。兄ちゃんは何事もなかったかのようにレバーを引き、キャタピラが泥を噛む鈍い音が再開した。
あのプレハブ小屋で何が起きたのか、誰も二度と口にすることはなかった。異常事態への完全な無関心という冷たいスパイスが、世界の輪郭を歪めていくのを和樹は感じていた。
やがて陽は傾き、河川敷に長い影が伸びる夕暮れ時となった。
ユンボが土手沿いの狭い道に出ると、そこにポツンと佇む一軒の古い団子屋が目に留まった。のぼり旗が夕風に揺れている。
「ちょっと休憩しようや」
和樹の提案に兄ちゃんも頷き、ユンボを店の前に停めた。
店から出てきたのは、腰の曲がった白髪の老店主だった。店主は、ユンボのバケットに無造作に積まれていた、あの「大きな木の枝」を見るなり、目を見開いて硬直した。
「……おお、これは! なんという見事な自然の造形だ! この曲がり具合、皮の質感……。私がずっと探していた、特大の盆栽に最高の枝じゃ!」
老店主は興奮に震える手で枝を撫で回した。
「あんたたち、これをワシに譲ってくれんか? 代わりと言ってはなんだが、今あるだけの団子をすべて、腹一杯ご馳走する!」
アブラギッシュな男が「交渉成立だ!」と叫び、和樹たちの二回目の物々交換が成立した。
店先のベンチに座り、三人で山盛りのみたらし団子を頬張る。甘辛いタレが、疲れた身体に染み渡るようだった。和樹は団子を噛み締めながら、スマホを確認したが、加奈子からの連絡はまだない。
その時だった。
団子屋から少し離れた河川敷の藪の中から、二人の人影がコソコソと這い出してくるのが見えた。
その二人組は、周囲を執拗に警戒しており、頭には奇妙な黒い覆面を深く被っていた。そして、片方の男の腕には、妙に重そうな、パンパンに膨んだ黒いナイロン製のボストンバッグが抱えられていた。
それを見た瞬間、隣で団子を食べていたアブラギッシュな男の目が、獣のようにギラリと光った。
「……泥かけ祭りだァーーーッ!!」
男は突然、鼓膜が破れんばかりの大音量で絶叫するやいなや、両腕を力一杯に振り回した。
「うわっと!?」
不意を突かれた和樹とユンボの兄ちゃんは、ベンチごと、すぐ横を流れる泥だらけの用水路へと、容赦なく突き落とされた。
どぼん、と激しい水音が上がり、和樹は頭から冷たい泥水の中に沈んだ。
「ぶはっ! ゲホッ! 何しやがる、この狂人が!」
和樹は泥水を吐き出しながら、這い上がった。全身、髪の毛の先から靴の底まで、完全にドロドロの灰色の泥にまみれていた。ユンボの兄ちゃんも同じく、泥人形のようになって激怒している。
しかし、アブラギッシュな男はそんな二人を意に介さず、「祭りだ! 祭りだ!」と叫びながら、泥だらけの和樹たちを急き立てるようにして、あの覆面二人組の方へと猛突進を始めた。
泥水の川から這い出してきた、全身真っ黒な泥まみれの男二人。そして、その後ろから汗と脂を撒き散らしながら奇声を上げて迫る怪物のごとき男一人。背後には巨大なユンボが夕日を浴びて不気味に佇んでいる。
その光景は、地獄の底から這い出てきた悪鬼羅刹の軍勢そのものだった。
藪の中でコソコソしていた覆面二人組は、突然目の前に現れたその世にも恐ろしい狂気の集団を目撃し、完全に精神を崩壊させた。
「ヒィィィッッ!! 来るな! 来ないでくれ!!」
「助けてくれ! アイツらは狂ってる! 人間じゃない!」
二人組は腰を抜かし、ガタガタと震えながら後ずさった。アブラギッシュな男の狂気と、泥まみれの和樹たちの放つ圧倒的な威圧感に、彼らは完全に生命の危機を感じたようだった。
バッグを持っていた男は、近づいてくる泥まみれの和樹に向かって、半狂乱でその黒いボストンバッグを放り投げた。
「やる! これをやるから! だから命だけは助けてくれぇぇ!」
バッグを押し付けると、覆面二人組は脱兎のごとく、蜘蛛の子を散らすようにして荒野の彼方へと逃げ去っていった。
和樹は、腕の中に飛び込んできた、ずっしりと重いボストンバッグを呆然と抱きかかえた。
それを見たアブラギッシュな男は、急にピタリと動きを止め、満足げに深く頷いた。
「うむ、実によい泥かけ祭りであった」
男はそう言うと、どこからか取り出したハンカチで顔の脂を拭い、奇妙な、軽やかなステップを踏みながら、夕闇が迫る国道の向こうへとスキップで消え去っていった。まるで、最初から幻だったかのように。
第三章:妻の孤独、あるいは華麗なる連鎖
一方その頃、妻の加奈子は——。
夫の和樹が、鼓膜を破壊せんばかりの爆音と白煙を残してフルスロットルで去っていった後、静まり返った国道の路肩に、ぽつんと取り残されていた。
周囲には遮るものもなく、時折通り過ぎるトラックが、冷たい風と砂埃を巻き上げていくだけ。怒りは依然として収まっていなかったが、同時に、あまりにも不器用で言葉の足りない夫に対する、呆れと諦めが混ざり合った複雑な感情が胸を占めていた。
歩きながら、加奈子はスマートフォンを取り出し、和樹にメッセージを送った。
『カッとなって降りてごめん。ところで、本当はどこに行くつもりだったの?』
和樹からの返信は簡潔だった。
『某ネズミの夢の国。ホテルの予約もしてある』
やはりそうだったのか、と加奈子は小さく溜息をついた。あいつなりに、結婚三周年の記念日を祝おうとしていたことだけは確かだったのだ。しかし、あの爆音マスタングでの無言のドライブは耐え難い。
ただ素連に謝って迎えに来てもらうのは、どうしても自分のプライドが許さなかった。そこで加奈子の脳裏に、ある悪戯めいた思いつきが浮かんだ。
『分かった。じゃあ、ただ戻って合流するのも面白くないから、ゲームをしましょう……』
メッセージを送信し、加奈子は自分の手元を見た。
今、自分が持っているもの。身一つで車を降りたため、バッグの中の財布とスマホ、そして——今朝、バタバタと家を出る時に髪をまとめるために使った、何の変哲もない、一本の黒い「髪留めのゴム」だけだった。
「私のスタートは、これね」
加奈子は髪留めのゴムを指に絡め、前を向いて凛と歩き出した。フィナーレの場所へ、和樹よりも先に、より素晴らしいものを携えて辿り着いてやる。
一キロほど歩いた時、国道の脇にある小さなバス停のベンチに、一人の少女が座って泣いているのが見えた。小学校低学年くらいだろうか。どうやら遠足か何かの途中で迷子になり、さらに走ったせいで、結んでいた髪の毛がボサボサに解けてしまい、どうしようもなくなって泣いているようだった。
加奈子は少女の前にしゃがみ込み、優しく声をかけた。
「どうしたの? 髪の毛がボサボサになっちゃったね。お姉ちゃんが綺麗にしてあげる」
加奈子は少女の乱れた髪を丁寧に手櫛で整え、自分の持っていた「髪留めのゴム」を使って、可愛いポニーテールに結び直してあげた。
少女は涙を拭い、鏡代わりにスマホの画面で自分の姿を見ると、パッと笑顔になった。
「お姉ちゃん、ありがとう! これ、私の一番の宝物なんだけど、あげる!」
少女が小さなポケットから取り出して加奈子の手に握らせたのは、大人の手のひらほどもある、色鮮やかな渦巻き模様の「大きなペロペロキャンディ」だった。
髪留めのゴムが、一本のキャンディに変わった。加奈子はそれを持って、さらに国道の先へと進んだ。
陽が高くなり、周囲の空気がじりじりと熱を帯び始める。
次に加奈子が通りかかったのは、国道沿いにある、今にも潰れそうな寂れたガソリンスタンドだった。その敷地の隅に、一台のクラシックな高級外車が停まっており、フロントフードからうっすらと煙が上がっていた。
車の横では、仕立ての良いスーツを着た、いかにも裕福そうな初老の紳士が、ハンカチで額の汗を拭きながら、ひどくイライラした様子で携帯電話で怒鳴っていた。
どうやら車が故障し、ロードサービスもなかなか来ないらしい。紳士は重度の糖尿病か何かを患っているのか、暑さとストレスのせいで急激な低血糖を起こしているようで、顔色が悪く、唇が小刻みに震えていた。
「クソッ、何か甘いものは……非常食の飴も切らしている……近くに自販機すら無いとは……」
紳士が眩暈を起こしたようにふらついたのを見て、加奈子は駆け寄った。
「あの、これ、もしよろしければ使ってください」
加奈子は、さっき手に入れたばかりの大きなペロペロキャンディを差し出した。
紳士は驚いた目で加奈子とキャンディを交互に見つめ、背に腹は代えられないと、それを受け取って口に含んだ。数分後、糖分が全身に行き渡ったのか、紳士の顔に赤みが戻り、呼吸が劇的に落ち着いた。
紳士は深く息を吐き出し、加奈子に向かって丁寧に頭を下げた。
「お嬢さん、救われた。本当に感謝する。私は低血糖で本当に意識を失うところだった。この御礼をさせてほしいが、今、手持ちの現金がなくてね。代わりに、車のトランクに積んである、今日の取引先への手土産にするはずだったこれを受け取ってくれないか」
紳士がクラシックカーのトランクから取り出したのは、高級感のある桐箱だった。隙間から覗いたのは、ワインの王様と呼ばれる、信じられないようなヴィンテージの「ロマネ・コンティ」のボトルだった。
ペロペロキャンディが、数百万円の価値もあるかもしれない幻の高級ワインへと化けたのだ。
加奈子は重い木箱を両手で抱え、再び歩き出した。すでに周囲は夕闇に包まれ、国道の街灯がぽつぽつと灯り始めていた。
国道の終着点、都会の灯りが見え始める境界線近くに、倉庫を改装した巨大なアンティークショップ兼ドレスレンタルタキシードの店があった。
その店先のガラス張りのショーウィンドウの前で、一人の若い男が頭を抱えて座り込んでいた。
男は仕立ての良すぎる風変わりなジャケットを着ており、どうやら衣装デザイナー兼、その店のオーナーであるようだった。
「ああ、万事休すだ……。今夜、最愛のフィアンセにプロポーズをする予定なのに、彼女がどうしても欲しがっていた『奇跡のヴィンテージ・ロマネ・コンティ』が、全国どこのインポーターを探しても見つからなかった……。これがないと、彼女の気難しい父親が結婚を許してくれないというのに……!」
男の呟きを聞いた加奈子は、腕の中の木箱を見つめた。そして、静かに男の前に進み出た。
「あの、お探しの一品は、もしかしてこれのことでしょうか?」
加奈子が木箱の蓋を開けると、男は弾かれたように飛び起きた。ボトルのラベルを確認した瞬間、男の眼球が零れ落ちんばかりに見開かれた。
「こ、これは……! まさにこれだ! 完璧な年代、完璧な保存状態! 奇跡だ、神様が僕のプロポーズを祝福してくれているんだ!」
男は涙を流して加奈子の手を握りしめた。
「お姉さん、このワインを僕に譲ってください! お願いします! この店にあるものなら、何でも、どれでも好きなものを差し上げます!」
加奈子は、ショーウィンドウの真ん中に飾られていた、一台のマネキンを見つめた。
そこに飾られていたのは、世界最高峰のシルクとレースをふんだんに使用し、職人が数百時間をかけて仕立てたという、息をのむほどに美しい「純白のウェディングドレス」だった。
それは、三年前の結婚式では予算の都合で諦めざるを得なかった、彼女がずっと憧れていたデザインのドレスに酷似していた。結婚三年目で少しずつ失いかけていた、あの頃の瑞々しさと輝きを完璧に取り戻したような高揚感が、加奈子の胸を突き上げる。
「じゃあ……あのドレスを、私に」
加奈子が静かに微笑むと、オーナーの男は「喜んで!」と叫び、すぐにドレスをマネキンから外し、丁寧に箱へと収めた。
「あなたのような美しい心の持ち主にこそ、このドレスはふさわしい。今夜のあなたの旅が、最高の奇跡に満ちたものになりますように」
加奈子は店の更衣室を借り、その純白のウェディングドレスへと着替えた。ドレスの長い裾を両手で少し持ち上げ、加奈子はアンティークショップを後にした。
第四章:鉢合わせ
残されたのは、泥だらけの和樹とユンボの兄ちゃん、そして一台のユンボだけだった。
和樹は腕の中のボストンバッグのジッパーを、恐る恐る引き開けた。
街灯もない河川敷の薄闇の中、バッグの隙間から覗いたのは、圧倒的な厚みを持った札束の山だった。生々しい、本物の「現ナマ」が、ぎっしりと詰まっている。
「……これ、どうすんの」
ユンボの兄ちゃんが、泥にまみれた顔で、心底どうでもよさそうに呟いた。
「さあな。だが、俺の物々交換の戦果としては、これ以上ないものになったな」
和樹は乾いた声で笑った。
「じゃあ、俺、そろそろ現場行かなきゃならないから。この先で降ろすよ」
兄ちゃんはユンボを走らせ、そこから少しだけ河川敷を移動した。生い茂る葦の群生をかき分け、川の流れに沿ってゆっくりと進む。
やがて、ユンボが完全に停止した。
「おい、あれ……」
兄ちゃんが前方を指差した。
和樹はユンボの取っ手から身を乗り出し、その先にある景色に目を疑った。
夕暮れが終わり、夜の帳が下りかけ、すべてが濃い青に染まる時間帯。草の生い茂る不毛な河川敷を、一人の女性が歩いていた。
彼女は、純白のウェディングドレスを纏っていた。
裾にいくらか泥をつけてはいたが、それは紛れもなく、豪奢なレースとシルクで仕立てられた本物のドレスだった。彼女はドレスの裾を片手でエレガントに捌きながら、夜の風にスカートをなびかせ、まっすぐにこちらへ向かって歩いてくる。
加奈子だった。
和樹はユンボから飛び降りた。全身泥まみれの男と、誰もいない河川敷に佇む純白のドレスの女。あまりにも不条理で、シュールな絵面だった。
二人の距離が、一歩、また一歩と縮まる。
加奈子は和樹の前に立つと、最初に口を開いた。
「……何よ、その格好。泥まみれじゃない」
その声は低く、相変わらず少し不機嫌そうだったが、その瞳の奥には、言葉にできない驚きとおかしさが混ざり合っていた。
「お前こそ、そのドレスはどうしたんだよ」
和樹は泥のついた顔を歪めて、ニヤリと笑った。加奈子は誇らしげに胸を張る。
「物々交換の勝負でしょう? 私は、あの髪留めのゴムをキャンディに変えて、それを色んなものに変えて……最終的に、これを手に入れたのよ。私の完璧な勝利ね」
「ふん、そいつはどうかな」
和樹は抱えていた黒いボストンバッグを、加奈子の足元へとドン、と置いた。そして、ジッパーをゆっくりと引き開けた。
夜のわずかな光が、バッグの隙間から覗く、圧倒的な分厚さの札束の山を照らし出した。
加奈子は一瞬、言葉を失って目を見開いた。中身が本物の、生々しい「現ナマ」であることに気づいた瞬間、彼女は信じられないものを見る目で和樹を見つめた。
それから——フッ、と、今日一番の、最高に悪戯っぽく、狂おしい笑顔を浮かべた。
「あなた、一体路上で何をしてきたのよ」
「泥かけ祭りに参加してきたんだよ。最悪の祭りだったが、報酬だけは悪くない」
和樹が鼻を鳴らすと、加奈子はドレスの裾を揺らして小さく笑った。
第五章:泥とドレスの道行き
「じゃあ、俺はもう行くからな。二人ともお幸せに」
ユンボの兄ちゃんが、アイドリング音の向こうから暢気に手を振った。
「おう、ありがとな、兄ちゃん」
和樹が応えると、ユンボはガラガラと音を立てて、夜の闇の奥へと去っていった。河川敷に残されたのは、静寂と、泥まみれの夫と、純白のドレスの妻。そして、大金の詰まったバッグだけだった。
「ねえ。ネズミの国へ着いたら、一番高いチケットを買って、最高のスイートルームに泊まりましょう。そして、あなたのその汚い泥を、全部綺麗に洗い流してやりましょう」
「ああ、そうしよう。……だけどな、加奈子」
和樹は首の後ろをボリボリと掻いた。
「車、ここにはねえんだ」
「は? 何言ってるのよ」
「さっきのコンビニに置いたままだ。ここから数キロ先にある」
加奈子は呆れたように溜息をついた。
「信じられない。じゃあ、この重いドレスを着て、真っ暗な河川敷を何キロも歩けって言うの? 最悪」
「……チッ、分かったよ」
和樹は現ナマの詰まったボストンバッグを前できつく抱え直すと、加奈子に背中を向け、不器用にしがんだ。
「おい、乗りな」
「……本気?」
「ドレスが汚れるだの何だのうるさく言われる方が面倒だ。ほら、早くしろ」
加奈子は一瞬ためらったが、最高級のシルクの裾を大胆にからげると、泥だらけの夫の背中へと飛び乗った。
「うおっ、重っ」
「失礼ね! ドレスの重さよ!」
和樹は泥に足を滑らせそうになりながらも、加奈子の太ももをがっしりと支え、一歩を踏み出した。
夜の河川敷は暗く、足元はぬかるんでいる。全身泥まみれの男が、数千万円の札束を抱え、背中には純白のウェディングドレスを纏った妻を背負って歩く。それは、客観的に見ればこれ以上なく奇妙で、不条理な行軍だった。
歩くたびに、和樹の体から乾きかけた泥と汗の臭いが漂ってくる。しかし、加奈子は不思議と不快ではなかった。むしろ、彼の首に腕を回し、その広い背中の体温を感じているうちに、胸の奥の尖った感情がみるみるほどけていくのを感じた。
「ねえ、和樹」
「あ? なんだよ、重いから喋らせんな」
「ありがとう」
耳元で囁かれた言葉に、和樹は一瞬だけ足を止めたが、「ふん」と鼻を鳴らして再び歩き出した。照れ隠しにわざと荒い足取りになる夫が、加奈子には少しだけ愛おしく思えた。
一歩、また一歩と泥を踏み締め、やがて二人は河川敷の斜面を這い上がり、国道の脇へと戻ってきた。
遠くに、無機質な蛍光灯の光を放つコンビニの看板が見える。その駐車場に、ぽつんと佇む一台の影があった。
一九六七年型フォード・マスタング・クーペ。
街灯に照らされたその凶悪なシルエットを見た瞬間、二人はまるで我が家に帰ってきたかのような安堵感を覚えた。
和樹はマスタングの助手席の前にたどり着くと、加奈子をそっと地面に下ろした。金額を数える必要も、これがどこから来たのかを追及する必要もなかった。路上という名の不条理な荒野が、彼らの結婚三周年の記念日に与えた、これが本物の「報酬」だった。
お互い、何を経験してきたのかは分からない。だが、スマートフォンの画面越しに紡がれた奇妙な共犯関係が、この狂った結末を導き出したことだけは確かだった。
和樹は助手席のドアを開け、ドレス姿の加奈子を丁寧にエスコートして乗せた。現ナマの詰まったバッグは、加奈子の足元へと無造作に転がされた。和樹もまた運転席に乗り込み、泥だらけのハンドルを再び握る。
キーを回すと、四・七リッターV8エンジンが、再び大気を引き裂く咆哮を上げた。
「ドッドッドッドッド……!!」
静寂は一瞬にして粉砕され、野生の爆音が周囲を満たす。
和樹はアクセルを軽く踏み込み、ギアを入れた。
バックミラーを見ると、彼らが今日通り過ぎてきた、あの奇妙な河川敷も、ユンボも、アブラギッシュな男も、あの赤ん坊のあばらやも、すべては夜の闇と霧の向こうへと消え去り、まるで最初から何も存在しなかったかのように静まり返っていた。
しかし、助手席には純白のドレスを着た、世界で一番美しく、自由で、最高に不機嫌な妻が、満足げに前を見つめて座っている。
マスタングの爆音は、今夜だけは、彼らの破滅的で幸福な未来を祝福する、最高のファンファーレとなって、夜のハイウェイへと響き渡っていった。
(完)




