わたしの願いの叶え方
ごうごうと燃えるような赤。
世界が赤に満ちていた。
夕陽が真っ直ぐに葛葉の目を射貫く。ああ、なんて──強い光。
彼女の心とは裏腹に、その光は熱を帯びる。
ぼんやりとその光景を眺めて、また歩き出した。
どこまでもどこまでも歩いて行く。彼女の力が尽きぬ限り。
「行かなくちゃ」
そう呟いて、葛葉はひとり道を進んだ。
周りには誰もいない。人の気配が見当たらない。
一本道が遥か彼方まで続いているのがここからも見える。視界を遮るものが何もないのだ。
ただただ夕陽が照らし出す、そんな世界を歩きながら葛葉は思う。
『おまえなんか産まなければよかった』
すべての始まりはその言葉。
その言葉から自分の人生は荒波の中を必死で泳ぐようなものになっていったと思う。
別にそれでもよかった。葛葉は有能だった。荒波の中を必死で、けれどぐいぐい力強く泳いで行けた。
前へ。前へ。前へ。
ひたすらにそれだけを思って、生きてきた。
ふと見上げた星空を綺麗だと思った。
気付いたらそばにいてくれた友人の笑顔に心が明るくなった。
そうして幸福をひとつひとつ拾い集めながら、自分は生きていけると、そう思った。
けれど。
子どもが泣いていた。
大人が苦しんでいた。
苦しみの末に誰かを傷付ける人がいた。それは本当に復讐したい誰かには何もできないから、代わりに別の誰かで気を紛らわせるだけだと言うように。
葛葉は思った。世界は──そうなのか。
わたしたちは、そういう風にしか生きられないのか。
いちばん弱い者から食い物にされていく。踏みつけにされていく。「おまえを自分と同じ人間とは認めない」と示すかのように。
(ダメだ)
ダメだ。何とかしなければならない。
変えなければならない。変わらなければならない。
(だって、わたしたちは……)
葛葉は立ち止まった。
目の前に自分がいる。
自分がそこに立って、わたしを見て笑っている。
「世界を変えたいの?」
そいつはそう聞いてきた。
「いやあ、すごいね! 正義感のカタマリ。ご立派、ご立派」
そう言って可笑しげに笑いながら手を叩く。
「おまえは誰だ」
葛葉は相手を睨んだ。
葛葉の姿をした誰かは、微笑みをたたえて答えない。
その微笑みが空洞に見えて、葛葉はぞわりと寒気を覚えた。
するとそいつはちょっと首を傾げて、
「流石に自分と会話するのは抵抗がある? じゃあこれはどうかな」
瞬きの間に姿を変えた。
「……っ‼」
葛葉は息を呑む。
そいつは、彼女の母親の姿になっていたから。
「おいで、クズハ。願いを叶えてあげる」
優しい声でささやいて、そいつは両腕を葛葉に向かって広げてみせた。
「やめろ‼」
恐怖と怒りがないまぜになった感情を上手く扱えなくて、葛葉は思わず叫んでいた。
けれどそいつは姿を変えぬまま、そこに立っている。
「やめない。世界を変えたいのでしょう? なら代償が必要よ」
「……代償って何」
葛葉は目の前の相手から必死で顔を背けながら聞く。
「あなたの心よ!」
そいつは高らかにそう告げた。
「この世界は持ち主の願いを叶える世界。あなたはあちらとこちらを繋ぐ鏡を抜け、ここまでたどり着いた! なら叶えてあげましょう、あちらの世界を優しい世界にすると!」
「……あなたが叶えてくれるの?」
「ええ」
葛葉の母親の顔で、そいつはにこりと微笑んだ。
今度は空洞には見えなかった。ただの、ごく普通の、愛情深い母親の笑顔に見えた。
だから葛葉はこう言った。
「やっぱりやめた」
「……え?」
「お母さんの顔でそういう表情をするあんたに、あの世界を救えるとは思えない」
そいつは目に見えてうろたえた。
「な、どうしてそんな事を言う⁉ おれの力は本物だぞ‼」
「あんたは人間への理解が足りない。観察が足りない。だから無理だよ」
「くそっ‼」
そいつは一瞬でまた葛葉の姿に戻った。
「人を、変えたいんだろう⁉ 悲しみ傷付く人間をなくしたいんだろう⁉ おれにはできる。おまえの願いを叶えてやれる‼」
「不思議な力で?」
「そう!おれにしか持ち得ない力で!」
ふうん、と葛葉は呟く。
「でもさ、わたしの心が犠牲になってる時点で、そこは優しい世界とは呼べないんじゃないかな」
「何を言うかと思えば綺麗ごとを! 願いを叶えるためには対価が必要なんだぞ!」
葛葉の姿をしたそいつの双眸は赤い。まるで夕陽の光のよう。
燃えるような赤。
その情熱に、葛葉はあっさりと背を向けた。
「もういいよ。わたしにはね、生きなきゃならない理由があるんだ。心を失っている暇なんてないんだよ」
そう言って、元来た道をゆっくりと歩いて行く。
ここで願いが叶わないのなら、別の方法を考えなければ。
歩きながらそんな事を考えていたら、葛葉の姿をした何かが後ろから付いて来ているらしく、背後から躍起になって声を荒げている。
「おい! クズハ! おれを無視するな!」
「わたしの答えは伝えたでしょ。付いて来ないで」
「いーや、やだね! この魔法の鏡を使いこなせる人間が現れたのは千年ぶりなんだ! ようやくの獲物を逃す悪魔が何処にいる!」
「獲物って言ってるじゃん……ますます嫌だよ」
「ならおまえはどうやって世界を変えるんだ?おまえは世界に失望していたんだろう?」
「……」
葛葉はふと黙って、立ち止まった。
背後の悪魔も立ち止まる気配がする。
自分の姿をしたそいつに向かって、くるりと振り返る。
「わたしが変わる」
「は?」
「わたしが、わたしを救う。そうして、手の届く誰かを支えられるようになる」
「はあー?」
悪魔は呆れた顔をした。
「それじゃあ、世界はそのまんまだぞ」
そうだ。
世界は、苦しむ誰かがまた別の誰かを苦しめる、連鎖を止める事なく回り続ける。
葛葉は思う。──それでも。
「それでも、不思議な力に頼るのは、対価が要るんでしょう? わたしはおまえの提示した対価は支払えない。それなら自分一人分の生きる力で、できる事を模索する」
限られた体力、限られた精神力、限られた時間。自分の持てる道具すべて使って、生きていく。
「それに……」
「それに?」
「きっとわたしだけじゃないはずだから。世界を変えたいって願うひとは」
「そうかあ?」
「そうだよ」
人間は、他者を傷付けるけれど、他者を救うこともできるはずなんだ。
前へ前へ向かう力。明るい方へ向かう力。
そういうものをきっと誰もが持っている。
自分がその力に気付いていなくても、きっかけさえあれば、きっと誰もが。
葛葉は悪魔の目を真っ直ぐに見つめて、言った。
「ありがとう。あなたが気付かせてくれた」
「……」
「わたしの弱さを、気付かせてくれてありがとう」
「ケッ!」
葛葉の姿をした悪魔はものすごく嫌そうな顔をした。
その直後、一瞬で世界は切り替わっていた。
もう真っ赤な夕陽に染まった世界ではない。辺りは真っ暗で、空を見上げればきらきらと星がきらめいていた。
葛葉はダッフルコートを着込んだ格好で、公園のベンチに座っている。
右手には緑色のコンパクトミラーが。
「……ふう」
ため息を吐いて、コンパクトミラーをぱたんと閉じた。
それをコートのポケットに突っ込んで、立ち上がる。
すると、逆のポケットに入れていたスマートフォンがぶるぶると震えた。
取り出して画面を見れば、そこには『雪が降る予報だから気を付けて帰って来てね』というメッセージが表示されている。
葛葉は気が抜けたように微笑んだ。
そうして、歩き出す。あの真っ赤な世界を歩き続けた事に比べたら、自宅までの帰り道など一瞬だ。
(わたしたちは、人間だ。ひとりひとりがあたたかい心ある人間だ)
そう信じて、まずは今できる事を。
まずは帰って、優しい同居人に笑顔でただいまを言おう。
おわり




