第一話 不可思議の森にて①
鬱蒼と茂る木々の間から、時折、暴力的なまでの強さを持った陽光が差し込んでくる。
ヤクモ・タケルは、漆黒のアンダースーツから一切の衣擦れの音すら立てず、幾重にも重なる巨大なシダ植物と腐葉土の絨毯を、音もなく踏み越えていた。
右太もものホルスターに提げた高周波ブレードの感触が、今の彼にとって唯一の確かな現実だった。
(……湿度の高さと、この針葉樹林の密度。以前、極秘任務で潜伏したドイツのシュヴァルツヴァルトの植生に近い、か)
タケルは傭兵としての鋭い観察眼で、周囲の環境データを脳内の引き出しと照合し続けていた。
太く、高く天を突くような樹木群。足元を覆う苔の湿り気。地形の起伏から感じる土壌の硬さ。どれもヨーロッパの深い原生林を思わせる特徴だ。
だが、歩を進めるごとに、その推測を強引にへし折るような「ノイズ」が視界に混ざり始める。
「……見たことのない植物が多いな」
タケルは歩みを止めず、太い木の幹に絡みつく不気味な青紫色のツタを一瞥した。それはまるで静脈のように脈打ち、微弱な燐光を放っているようにすら見える。
地球上のどの図鑑にも、どの国境地帯のジャングルにも、あんな毒々しい植物は存在しなかったはずだ。
生態系のベースは似ているが、細部のディテールが致命的に狂っている。
違和感の正体が掴めず、タケルの双眸がさらに険しく細められた――その時だった。
ガサッ、と前方の茂みが小さく揺れた。
タケルは即座に呼吸を殺し、全身の筋肉をバネのように収縮させて攻撃態勢に入る。右手が滑るように太もものホルスターに掛かった。
茂みを掻き分けて姿を現したのは、一匹の小動物だった。
長い耳に、丸みを帯びたシルエット。一見すれば、ただの野ウサギのように見える。
「……ウサギ、か?」
だが、タケルの目は即座にその異質な外見を捉えた。
小動物の体表の半分以上が、柔らかい毛皮ではなく、鈍い灰褐色をした「岩石」のような硬質の皮膚に覆われていたのだ。関節の可動域を一切邪魔することなく、まるで天然の装甲板材のように甲殻が形成されている。
突然変異か、それとも重度の皮膚病か。いや、自然界であんな都合よく身を守る形態に進化するとは考えにくい。どんな最貧国の紛争地帯でも、あんな奇妙な生物は見たことがなかった。
タケルがその「岩ウサギ」を冷徹に観察していた、まさに次の瞬間だった。
――バキバキバキィッ!!
先ほどの小動物の立てた音とは比べ物にならない、暴力的なまでの木々の破壊音とともに、巨大な質量が茂みを突き破って強襲してきた。
タケルは反射的なバックステップで、その巨大な質量から一瞬で距離を取った。
岩ウサギは悲鳴を上げる間もなく、その巨大な顎に一撃で噛み砕かれ、腹立たしい咀嚼音とともに飲み込まれた。
「……冗談だろ」
タケルは、感情の起伏を押し殺した声で短く吐き捨てた。
姿を現したのは、全長四メートルは優に超える巨大な『二足歩行の爬虫類』だった。
体表は岩ウサギよりも遥かに分厚く鋭利な鱗に覆われ、後脚の筋肉は恐ろしいほどに隆起している。コモドオオトカゲをそのまま立たせて小型の肉食恐竜にしたような、純粋なる暴力の塊。
タケルより遥かに巨大なその化け物は、岩ウサギを飲み込んだ後、不気味な縦孔の瞳を、すぐ眼前に立つ新たな獲物――タケルへとギロリと向けた。
(……ヴェロキラプトル等の小型恐竜に近い骨格か? いや、あんなサイズの二足歩行の爬虫類、現代の地球上に存在するはずがない。ここはジュラシック・パークかなにかか?)
巨大な二足歩行のトカゲが、獲物を威嚇するように深く息を吸い込み、巨大な顎をカッと開いた。
同時に、タケルの全身の産毛が総毛立った。
爬虫類特有の生臭い息ではなく、オゾンが焦げるような鋭い金属臭。
そして、トカゲの口腔内に、火花のような青白い光が収束していくのが見えた。
(ッ!?)
タケルが真横へ全速力でダイブした直後、トカゲの口から、耳をつんざくような放電音とともに「雷撃」が一直線に放たれた。
それはタケルが先ほどまでいた空間を焼き焦がし、背後の太い樹木の幹を黒焦げに吹き飛ばした。
回避行動をとったタケルだったが、放電の余波――空気中を伝播した電撃の枝分かれ――が、漆黒のアンダースーツごと彼の身体を掠めた。
「なに……ッ!?」
スタンガンの直撃を受けたような痺れが、太ももから背筋へと走り抜ける。
脳髄を揺さぶられるような衝撃に片膝を突くが、致命傷には程遠い。
スサノオの極厚の防護装甲があれば、文字通り蚊に刺された程度の静電気で終わっていた威力だ。
だが、問題はそこではない。
(──トカゲが、電気を吐いた……!?)
タケルの思考回路が、一瞬だけ完全にショートした。
デンキウナギのような水生生物ならいざ知らず、陸生の爬虫類が、空気中でプラズマを発生させるほどの電撃を「息」のように吐き出したのだ。
生物学の根底を覆すあまりにも非現実的な現象。今までの彼が培ってきた知識からは、あまりにもかけ離れすぎている。
「グルラァァァァァッ!!」
だが、戦場において思考の停止は死を意味する。
巨大トカゲは、仕留め損ねた獲物に向けて、再び口腔内に青白い放電の光を収束し始めた。
「──理由は後だ」
タケルは痛みを意志の力でねじ伏せ、右手のホルスターから高周波ブレードを引き抜いた。
微弱な生体電気がブレードに送られ、刃が青白く発光した。
純粋な物理切断力において、現代科学の粋を集めたこの刃を上回るものは存在しない。
直後、放たれる二発目の雷撃。
しかし、一度『見て』しまったタケルにとって、直線的で予備動作の大きい攻撃など、どれほど未知のエネルギーであろうと脅威にはなり得ない。
洗練された歩法で雷撃の射線を紙一重にサイドステップで躱し、そのまま低い姿勢でトカゲの巨大な懐へと泥臭く踏み込む。
トカゲが巨体に似合わぬ素早さで太い前肢を振り下ろそうとするが、それより速く、タケルの刃が獲物の急所を捉えていた。
「シッ!」
鋭い呼気とともに、逆手に構えた高周波ブレードが、トカゲの分厚い喉仏の下へと正確無比に突き立てられた。
超絶的な微細振動を起こす刃が、岩石のような装甲鱗をバターのように容易く切り裂き、深々と頸動脈と気道を同時に切断する。
声にならない血の泡を吹き出しながら、巨大なトカゲはその莫大な質量を地面に打ち付け、二度と動かなくなった。
タケルは刃の血糊を素早く払い落とし、安全装置をかけてホルスターに収めた。
荒い呼吸を整え、足元に転がる未知の巨大トカゲの死骸を見下ろす。
「──岩のような皮膚を持つウサギに、電撃を吐く巨大なトカゲ、か」
考えを、修正しなければならない。
ここはただの他国の山奥ではない。生態系そのものが地球の常識から完全に逸脱している。
考えたくはないが、ここは最新のバイオテクノロジーを用いた、秘匿された巨大な「実験施設」の中なのではないか。
どこかの狂った軍事国家が、生物兵器のテストグラウンドとしてこの森全体を隔離・改造している。
そう考えれば、この不自然極まりない生物たちにも説明がつく。
そうタケルが冷静に現状を分析していた、その時だった。
『──システム、セーフモード。再起動します』
静かな森の中に、無機質な女性の合成音声が響き渡った。
タケルは弾かれたように自身の右腕を見た。
転移時の落雷の過剰なエネルギーを吸い込み、完全にブラックアウトし沈黙していたはずのスサノオのコンソール端末が、微かな緑色の光を灯して起動していたのだ。
「──システムが、生きていたのか……!?」
タケルは急いでコンソールのディスプレイを確認する。
画面には、依然として無数の赤いエラーコードが羅列されている。
ナノマシンによる主装甲の生成プロセス(着装)も、機動を補佐するブースト機能も、すべてシステムダウンのままだ。
だが、画面の隅にある極小のバッテリーインジケーターに、ほんの僅かだが『1%』の文字が点滅していた。
(先ほどの、あのトカゲの電撃か)
タケルは確信した。
あの致死の落雷。そして先ほど掠めたトカゲの雷撃。
このコンソールは、外部からの強烈な「電気的負荷」を吸収し、緊急用の微小電力として変換するセーフティ機能が生きているのだ。
「スサノオ、現在地を特定できるか? GPS、あるいは近接する通信衛星とのリンクを試行しろ」
タケルは音声入力で指示を飛ばす。これがどこの国の狂った実験施設であろうと、位置さえ分かれば脱出の算段は立てられる。
だが、コンソールから返ってきたのは、非情なシステム音声だった。
『エラー。衛星との通信リンク、失敗。現在地情報、取得不能。GPS信号、未検出』
「──チッ。やはり、強力なジャミング環境下にある秘匿施設か」
舌打ちをしながらも、タケルの目には強い希望の光が点っていた。
現状は依然として最悪のままだ。位置情報もなく、部隊への救難信号を出すだけの電力もない。
だが――生き残る「手段」は増えた。
(あのような雷撃を放つ生物が他にも生息しているなら、あえてその攻撃の致死領域を外して浴び続けることで、スサノオのバッテリーを充電できるかもしれない)
一歩間違えれば死にかねない、狂気の沙汰としか思えない生存戦略。
だが、1%の生存率を強引に捻じ曲げて生還し続けるのが、ヤクモ・タケルという傭兵のやり方だった。
手探りの状況下でも、最優先すべきタスクは「電力の確保」と「地形・情報の特定」に絞られた。
タケルは右腕のコンソールを静かに撫でると、鋭い眼光を深い森の奥へと向け、再び歩き出した。




