最後に名前を呼ばせて
ディオルを抱えて走る。私はとにかく無我夢中だった。
後ろから追ってくるのは、魔獣。鳥型で猛禽類のような姿をしており、その巨大な姿はいつぞやに見た巨狼を彷彿とさせる。
私たちより先を歩いていたディオルは、街の方を眺めてみようと大木の上に登った。しかし運悪くその木の上には魔獣の巣があり、卵があった。
卵泥棒だと見做されてしまったディオルは、空から襲いかかってきた魔獣に向かって魔法を放った。それが魔獣の逆鱗に触れて、この事態に陥ってしまったのだ。しかも相手は簡単に倒せる敵ではない。
「エルナさんッ、ディオルくんをこっちに!」
テオドールさんが的確に魔法で敵の攻撃を弾きながら、私の隣を並走する。
私が抱えて逃げるより、テオドールさんがディオルを抱いて逃げた方が早い。だから私は即座に彼にディオルを渡した。
「く……和平条約が出来てから、めっきり魔獣も少なくなっていたのに」
「逃げましょう! テオドールさん、あっちへ!」
鳥型の魔獣は比較的臆病で賢く、勝てぬ戦いをする性格ではないことが多い。魔界に留学していた際にそのように習ったのを思い出した私は、貧民街の外にある兵士の詰所を指差した。
あそこならルミナイトの武器があるだろう。相手から魔力を奪い命を削る鉱石ルミナイトは、ヴァルディオス様の片目を失明させるほどの力を持つ。
それがあればこの魔獣を倒せるし、魔獣の方から引いてくれるかもしれない。
テオドールさんはディオルを肩に担いだまま、魔法を使い続けながら走って逃げる。しかし負担が増えた分精度が落ちるのか、防御の魔法は専門外だからか。魔獣が己の羽根を武器としてこちらに飛ばしてくるが、それを撃ち落とし損ねるようになった。
しかしテオドールさんに担がれているディオルが後ろを向いて、撃ち漏らした羽根を狙って迎撃する。
「ディオルくん、やるな! あと少しだ、頑張れ!」
もうすぐ兵士の詰所だ。その油断が、私の足元を疎かにした。
地面の窪みに足を取られて、勢いよく転ぶ。擦れて熱い腕と、痛む足。前を走っていたテオドールさんの足が止まった。
「──ッ、エルナさん」
「行って! 先にディオルを安全な場所へ、早く!!」
ディオルの名前を出せば、テオドールさんが私の思うように動いてくれるのは分かっていた。彼がぎゅっと唇を噛んで、私に何かの魔法をかける。
「テオドール、ダメだよ。ママが!」
「……どうか無事でっ」
「やだ、ママ!!」
ディオルが叫ぶのと、テオドールさんが再び走り出すのと……魔獣が私の体の上を陣取るのは同時。
うつ伏せで倒れる私の背に、魔獣が嘴を振り下ろす。パキッと何かヒビが入るような音がした。
身を捩って魔獣の方を向く。テオドールさんが私にかけたのであろう防御用の結界が私を保護してくれていた。
それでも何度耐えれるかは分からない。魔獣が再度思い切り私の頭目掛けて嘴を振り下ろすが、私を襲うのはパキリと結界にヒビが入る音だけ。その音が余計に私の恐怖心を募る。
(どうにかしないと……!)
私はこんなところで死ぬわけにはいかない。でも私の魔法では倒せない。
(魔力を入れ込んだパンを投げたら、そっちに気を取られてくれる?)
かつて巨狼にやった手段を脳裏に浮かべたが、あれはあの場に私しかいなかったから出来たのだ。今同じようにやって、万が一ディオルを連れて逃げたテオドールさんの方に魔獣の興味が逸れてしまったら……。
……ディオルが危ない目に遭うくらいなら、私がこのまま引き付けておいた方がマシ!
私は自分で、囮になることを選んだ。
結界のヒビが広がって、嘴の先が内部に入る。……そろそろダメかもしれない。
魔獣が大きく嘴を開ける。あぁ……こんな光景、以前にも見た気がする。
あの時はヴァルディオス様が私を助けてくれた。
でもここに彼はいない。
『──必ず守ってやる』
そう言ってくれたヴァルディオス様の手を取ることが出来る資格があれば、どれほど良かっただろう。
彼の隣でディオルを育てて、三人で笑い合えたなら……どれほど幸せだっただろう。
今更こんな未練たらしいことを考えても、もう手遅れだ。彼には既に大切な存在が居て、私なんて彼の記憶の中に存在するのかも分からない。意図しない涙が私の頬を濡らす。
──それでも。最後に……六年ぶりに名前を呼ぶくらいは、許してもらえないだろうか?
「ヴァルディオス様……っ」
私を守っていた結界が激しい音を立てて割れる。耳を伏せたくなるような魔獣の唸り声と、襲いかかる嘴。
顔を守るようにして腕を上げた、その時だった。
私の手の甲が突然光る。複雑な紋様が浮かび上がった。
次の瞬間見えたのは、光の太刀筋。耳を裂く魔獣の断末魔。そして──
「やっと俺の名を呼んだな、エルナ」




