マンション
千香子と兎衣が暮らすマンションは、すすきのの繁華街から少し離れた裏通り、ネオンの余韻が残る静けさの中に立っている。
築年数は軽く三十年を超えていて、外壁はかつて白だったであろう塗装がところどころ灰色にくすんでいる。エントランスのタイルには細かなヒビが走っている。そんな古い建物でも、オートロックは一応後付けで設置されていて、最低限のセキュリティは保たれていた。
間取りは1LDKの狭い部屋。地下鉄の駅から徒歩圏内にしては家賃も安く、夜職の子たちが多く住む物件だ。
兎衣と千香子は、昼間は同じ大学に通う同級生である。千香子の方は二年休学していたので実年齢が上だが、年齢の差はあれど、二人は姉妹のように気の置けない友達だ。
二人ともお金に困っていて、仲良くなってからルームシェアするようになるまでそう時間はかからなかった。
兎衣の両親は兎衣が高校三年生の時に離婚した。原因は父親の浮気だった。
それまではどこにでもいるそれなりに仲の良い家庭だった。けれど大学進学を目前にして、家庭の雰囲気は険悪になった。
父は家を出て以来ほぼ音信不通。専業主婦だった母はパートを掛け持ちして兎衣の入学金を工面してくれた。しかし急な環境の変化で精神的に不安定になったのか、途中からスピリチュアルに没頭し、兎衣にかけるお金はゼロになった。
奨学金も受けているがそれだけでは足りない。教科書代、家賃、食費、交通費……何もかもが重くのしかかる。
日に日に弱って謎のブレスレットと遠隔ヒーリングに傾倒する母を見て、兎衣はこれ以上苦労をかけたくないと思い、自分のお金だけでなく母への仕送りも稼ぐため、大学に行きながらバイト三昧の日々を送っていた。
しかし兎衣は元々要領があまりよくない。学業とバイトの両立が難しく、何度か単位を落とした。
それを見かねた千香子が兎衣に、時給の高いガールズバーのバイトを紹介してくれた。衣装は派手でも接客だけならと思い面接へ行けば、意外にもあっさりと採用された。若くてある程度顔面が可愛ければ誰でもよいのだろう。
知らない世界のため最初は少し抵抗があったが、キャバクラと違ってカウンター越しの接客となるので思っていたよりも安全で、時給は高いしノルマや営業もない。
土日も一日中働くような日々とはおさらばできたので、兎衣はこの生活が結構気に入っている。
部屋の壁に設置されている古いストーブの吹き出し口から、生ぬるい空気が部屋に流れ込む。
「……寒っ。床、氷みたい」
札幌の秋はもうすっかり冷え込んでいて、寝転がればフローリングがじわじわと体温を奪ってくる。ストーブから吹き出す熱風が部屋の隅々まで届くにはまだ少しかかりそうだ。
兎衣は薄手の毛布を身体に巻き付けて、リビングのど真ん中でごろんと横になった。
「ベッド行けばいいのに」
千香子はテーブルにノートパソコンを広げ、手元のレポートに視線を落としたまま兎衣に言う。明るい画面の光が、薄暗い部屋の中でぼんやりと千香子の頬を照らしている。
兎衣は顔の半分だけを毛布から覗かせて答えた。
「お風呂入る気力もうないんだもん。まだちょっと気持ち悪いし」
「まったく……酒好きってのはどうして何回も痛い目見ても酒をやめないんだか」
「えへへ」
「褒めてない」
「てか、バイトした後も課題やるなんて、千香子はほんと真面目だね」
「あたしたちこっちが本業でしょ。兎衣は明日までのレポート終わったの?」
「あっ!」
「……忘れてたか」
「日付変わる前にやらなきゃ! 大丈夫、簡単に感想書くだけのやつだから!」
兎衣は慌てて横に転がっているスマホに手を伸ばし、毛布にくるまったまま課題提出用のサイトにログインする。千香子に言われて思い出した。また単位を落とすところだった……と焦りながら、キーボードを親指で打つ。
千香子はしばらくパソコンに向かって大学のレポートと格闘していたが、提出できたのか不意に手を止め、唐突に聞いてきた。
「兎衣、あんた枕とかしてないよね?」
「するわけないじゃん!」
兎衣は信じられない気持ちで千香子の方を見た。
パソコンから顔を上げて頬杖をつき、こちらを見つめる千香子と目が合う。
「……まあ、そりゃそうか。あんた処女だしね」
「そう! 初めてを店で出会ったお客さんとなんてありえない! 急に何で?」
「いや、今日のお医者さん、クラミジアが流行ってるって言ってたから。あたしの体感としても、この辺じゃずっと増えてるって聞くし。もしヤってるなら一応忠告しとこうと……」
「ヤらないヤらない。人生でちゅーすらしたことないよ、私」
ぶんぶんと首を横に振ると、千香子が「ならいいけど」とおかしそうに笑った。
兎衣は少女漫画で育っているため夢見がちで、初めてのキスはロマンチックかつインパクトがある運命的な出会いを果たしたイケメン男子と、と決めている。だから貞操は意地でも守っているのだ。
「あんた頭空っぽだし。何も考えずに変な客と関係持ってたら危ないかなって」
「ないない。しかも、せいびょーって現代じゃ普通に治るんでしょ? 風邪みたいなもんじゃん」
「治療が遅れたら後遺症残るやつもあるって聞くよ。あんまり甘く見ない方がいいかも」
兎衣は「そっかぁ……」と答えながら再びスマホの画面に視線を移し、ふと、常連客たけちゃんのことを思い出していた。
そういえば、彼もクラミジアを合併している可能性があると言われていた気がする。性感染症は意外にも身近であるらしい。
でもやっぱり、まだまだ相手ができる予定のない兎衣からしたら遠い存在だ。
兎衣は課題の提出ボタンを押した後、自分は大丈夫だろうと思いながら、まどろみに沈んだ。