送迎
ふらついた足で勢いよく跳ねるも、ほぼ同時に込み上げてきた吐き気が勝つ。
「……っ、うっ……!」
誠の胸ぐらに手をかけようとしていた兎衣は、吐きながら膝から崩れ落ちた。誠の足元は吐瀉物でぐちゃぐちゃだ。
「おい……勘弁してくれ……」
誠がうんざりしたように額を押さえた、その時だった。
「兎衣ー? ボーイさんが吐き気止めくれたよーって、あっ……」
廊下の奥から、千香子が顔を覗かせた。兎衣の体調を心配して探しに来たのだろう。が、次の瞬間、彼女は足を止め、目の前の光景に絶句する。
地べたにへたり込んで吐いている兎衣。そのすぐ横に立ち尽くす、通りすがりらしき背の高い男。床には盛大なリバースの名残り。
「……何これ、地獄絵図?」
そんな千香子の独白を最後に場に沈黙が流れる。
誠は目を閉じて、短く息を吐いた。
「……ビニール袋とペーパータオルを持ってきてくれ」
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いつの間にか眠っていた兎衣は、揺れる車内の後部座席で目を覚ました。
目を開けようとするが、まぶたが重い。頭の奥がずんと痛む。
「……ん、うぅ……」
わずかに声を漏らすと、冷えた皮シートの感触が現実味を帯びてきた。
薄暗い車内。外の街灯が窓越しにちらちらと流れていく。
どうやら兎衣はどこかへ運ばれているようだった。状況を飲み込めずにいるうちに、前方から微かに人の話し声が聞こえてくる。
「いやぁ、ほんとすみません。初対面なのにあたしまで送ってもらっちゃって。この時間帯、送迎のボーイさんがいないんですよね。終電あるからそれで帰れって言われちゃって」
「ついでだからいい」
だんだんと意識がはっきりしてきた。
助手席に座っているのは、同じガールズバーで働いているキャストの千香子で、その隣……運転をしているのは、性病専門家の誠だ。低くぶっきらぼうな声で千香子に返答している。無愛想なその口調には、疲労と諦めが混じっているように聞こえた。
「あの辺ガルバとかキャバしかないのに、ほんとに酒入ってないんですか?」
千香子が運転席に座る誠に疑わしげな視線を送っている。
「俺は酒、飲めねえよ」
「じゃあ何しにあのビルに……」
「一階に夜パフェ専門店あるだろ。あそこのあんみつパフェがうまい。期間限定のやつが今日までだったから仕事帰りに寄った」
「……一人でですか?」
「ああ」
「へえー……」
表情は見えないが、千香子の気持ちがこちらにまで伝わってくるようだった。きっと彼女は今、男一人であの店に入るのなかなか勇気あるな……と思っているだろう。一階の専門店は照明も暗く、近くのホストクラブにいるホストたちの王道アフタースポットでもある。そんな中で一人パフェを食べに来る客など稀有だ。
兎衣はまだ少し気分が悪かったので動かず、後部座席に横たわったまま前方の二人の会話に耳を傾け続けた。
「誠先生の勤めてる病院、店から近いんで、今日のお礼に他のキャストにもおすすめしときますね。最近うちの女の子たちの間でクラミジアがすごい流行ってるみたいなんで」
「……それは今年の冬からか?」
「え、何で分かるんですか」
「うちに来る患者が急増した。市の患者報告数を見ても増えてる。全体的に増えてるが特に女性が多い。不自然なくらいだ」
二人の会話をぼんやり聞いていると、不意に、バックミラー越しに誠と目が合った。途端、低い声で文句を投げられる。
「おい、クソ兎」
「…………え、私?」
「起きてんなら声かけろ」
誠の発言でようやく兎衣の起床に気付いたらしい千香子もこちらを振り向いた。
「あ、やっと起きた。気分は大丈夫?」
「袋置いてるから吐きたくなったらそこに吐け。俺の車を少しでも汚したら殺す」
優しい千香子の言葉と、鞭打つような誠の脅し。温度差で風邪を引きそうだ。
しばらくして、兎衣と千香子が暮らすマンションの少し手前で車が停まった。
「あたしたち同じマンションでルームシェアしてるんで、あの子のことはあたしが運びます」
街灯の下、千香子がドアを開けて車外に出て、後部座席の兎衣に手を差し出す。
「ほら、立てる?」
頷いて身を起こした兎衣は、千香子の肩に体を預けるようにして車から降りた。まだ少し地面が揺れている気がする。
千香子が助手席のドア越しに誠へ頭を下げた。
「本当にありがとうございました。……変な子ですみません」
「別に。仕事柄慣れてる」
誠は短く答え、静かに車を発進させた。
そのまま車がゆっくりと走り去るのを見届けてから、千香子が兎衣の腰を支えながら歩き出す。
こういう時、いつも面倒を見てくれるのは千香子だ。申し訳ない気持ちになった。
「千香子、いつもありがとう。……でも、知らない人の車に乗るの危ないよ。住所もこの辺だってバレたし。怪しい人だったらどうすんの」
兎衣は、痛む頭を押さえながらも千香子らしくない不用心さを指摘した。
しかし千香子は悪びれずに答える。
「大丈夫だって。一応免許証見せてもらったし、車のナンバーも控えてるし。あたしらみたいな貧乏学生は、こういうところでタクシー代ケチらなきゃ。――それに」
千香子が少し得意げに笑った。
「伊達に水商売長くやってないから、いい人か悪い人かは見れば分かる」
「……あの人がいい人だってこと?」
「うん」
「え~……」
兎衣は、千香子に誠を肯定されたことが少し不満だった。しかしあの男にお世話になったのは事実である。酒のせいで記憶が朧気だが、兎衣は確かあの男の前で吐き散らかした。それでも嫌がらずに送ってくれたあたり、悪い人ではないのだろう。
マンションのエントランスへゆっくりと歩いていく。秋の夜風は少し寒いくらいだった。