プロローグ
カウンターの前に並ぶガラスケースに、芸術品のようなパフェのサンプルが並んでいる。
ここは深夜の夜パフェ専門店。照明は控えめな、パフェとお酒が楽しめるバースタイルのお店だ。
兎衣はカウンター席に座り、目の前の甘いパフェをつつきながら、隣の男の話に相槌を打っていた。
「いやぁ、最近もさ、大手から仕事の打診きちゃってさ。こっちはもうスケジュールいっぱいだったんだけど、頼まれたら断れないじゃん?」
男は兎衣の父親と同じくらいの年齢。革のジャケットを身にまとい、やけにピカピカした腕時計をしている。手元のブランデーグラスを揺らしながら、話の主導権を離す気はまるでなさそうだ。
「まあ、俺フリーでやってるから、自由は自由なんだけどさ。全部自分で管理しなきゃならないから大変なのよ」
男はWeb系コンサルだかフリーのマーケターだかをやっているらしく、仕事上の自慢話が多い。
彼の声は少し大きめで、他の客がちらりとこちらを見るのを感じる。けれど彼は気にする様子もなく、目の前のパフェにスプーンを滑らせる。
「たけちゃん本当にいつも大変そうだよね~でも、お仕事頑張ってる人ってかっこいい~!」
兎衣にとっては、ガールズバーで散々聞いてきた武勇伝だ。内心またそれかと思いながらも、言葉にはしない。
兎衣は笑顔を貼りつけたまま、目の前のパフェにスプーンを入れた。ピスタチオのアイスがしっとりと崩れる。
「ったくほんと、俺の苦労分かってくれんのはカオルちゃんだけだよ。嫁は分かってくれないからさあ」
カオルというのは兎衣の源氏名だ。男は兎衣の本名を知らない。
「え~でも、たけちゃん、そんなこと言って他のお店にも行ってるんでしょお~?」
「おいおい、妬くなって」
「だってぇ……」
「まあ、でも……カオルちゃんくらい純粋な子の方が俺には合ってるかもって思ってるよ。正直言うとさ……この前ちょっと、やらかしちゃってね」
そこで男はスプーンを止め、氷の入った水を一口飲む。そして少しだけ間を置いた後、さっきよりも声のボリュームを抑えて言った。
「ここだけの話、俺、club夢妃のキャバ嬢と付き合ってて」
club夢妃はこのあたりで名の知れた高級店。内装費に六億かかっていてキャストのレベルも高い。すすきのでもトップレベルの美女を集結させているそこのキャストと、アフターで価格帯2000円~3000円のパフェしか奢れないような男が付き合えるわけがない。
と、思うが。
兎衣は「え、そうなの~!?」と大袈裟に驚き、客の戯言にも明るく対応する。
「ほら俺、結婚したての頃も別のキャバ嬢と付き合ってたじゃん? でも証拠隠滅は徹底してて、結局バレてないんだよね。火遊びは家庭があってこそだからさ、家庭を守る努力は惜しんじゃいけないなって」
「たけちゃんは何だかんだいつもしっかりしてるよね。そういうところ好きだなぁ」
「そう、そうなのよ。気を付けてたの。なのにさ~今、究極の大ピンチが訪れてて」
「大ピンチ?」
「そのキャバの子から性病うつされちゃったの。びっくりだよ」
パフェの甘さが一瞬にして引いた。
どうやらこの男、妻子持ちなのに枕営業に引っかかっているらしい。
「……そうなんだ〜」
「あいつ、他の男と枕はしてないって言ってたからさ、まさか自分が、って感じだったんだけど。トイレ行く時すっげえ痛いんだよね。ちんこに黄色い変なの付いてるし、ずっと風邪っぽいし。まだ病院は行ってないんだけど、ネットで調べた感じ確実かなって。あはは」
無邪気に笑うその顔には、羞恥心というよりネタにしてしまえば勝ちという安い余裕が滲んでいた。
「嫁とは元々ご無沙汰だし、うつすことはないと思うんだけど。最近下の子供が別の部屋で寝るようになったから、もし誘われたらどうやって断ろうかな~って感じ。変に怪しまれるの嫌だし」
兎衣は内心、バレて痛い目を見ればいいのにと思っていた。この男は、自分の浮気が家族に知られた時、妻や子供がどれだけ傷付くか想像もできないんだろう。その想像力の乏しさが苛立たしく、ついスプーンを握る手に力が入る。その時。
男の向こう、カウンターの奥の席から、別の人物の声が割り込んできた。
「保険診療の病院に行ったら、医療費通知でバレますよ」
男がぴくりと肩を動かし、声の主に視線を移す。兎衣もそちらを見た。
そこには、一人でパフェを食べている若い男がいた。白シャツに濃紺のカーディガン。細縁の眼鏡をかけた、どこか知的な顔立ち。こんなカップルだらけの雰囲気の店で、彼はどうやら一人のようだった。
兎衣の隣の男が訝しげに眉を寄せる。
「な……何だよお前。急に横から入ってきて」
男の向こうにいる眼鏡の男は落ち着いたまま、パフェの上の飴細工を口に運んで言った。
「先程のお話を聞くに、フリーランスの方ですよね。家に医療費通知が届けば、診療年月とかかった医療機関の名称、回数、支払った医療費の額が知られます」
彼は男の方を見ず、静かに続けた。
「聞くところこれまで何度も浮気をしているようですし、女性もそこまで鈍感ではありません。あなたは日頃から怪しまれていると思います。『証拠隠滅は徹底』しているのなら、泌尿器科への受診の証拠を残すことは避けた方が無難でしょう」
男がひくりと口角を引くつかせる。
けれど若い男は、それを相手にするでもなく再びスプーンを取り、静かにジェラートをすくった。
「『すっげえ痛い』排尿痛と尿道からの黄色い分泌物があるというのなら淋菌感染症の疑いがあります。風邪のような症状もあるとのことなのでおそらく咽頭にも感染しているでしょう。奥様とはセックスはおろかキスも控えた方がいいです。ちなみに淋菌とクラミジアの合併率は30%ほどです。他の病院なら検査結果をお伝えするのに一週間ほどかかりますが、うちの病院なら淋菌の検査もクラミジアの検査も両方最短二時間で――」
「お、おい、聞いてねえよ。さっきからお前、何なんだよ」
男が狼狽えるように口を挟む。
やけに性病に詳しい若い男は、「ああ」と気付いたように呟き、カーディガンの内ポケットから、名刺を一枚すっと取り出した。
「失礼。俺の名前は堺誠さかいせい。性感染症・性病専門クリニックおとなりケアに勤めています。予約不要、完全個室待合室、保険証不要の匿名検査で完璧にプライバシーをお守りします。家族に通院履歴がバレることはございません」
差し出された名刺の文字は、シンプルで落ち着いたフォントだった。
性感染症・性病専門クリニック
おとなりケア
医師 堺 誠
「〝どこよりも気軽に相談しやすいクリニック〟を目指しています。以後お見知りおきを」
誠の圧に押されたのか、男は躊躇いがちにそれを受け取った。
男が名刺に視線を落とした隙に、兎衣はこっそりと奥の誠の横顔を盗み見る。
パフェの栗を最後に口に運ぶ彼の顔は、まるで一仕事終えた後かのように涼し気だ。
(何あいつ……不倫の隠蔽に加担するうえに、飲食店で自分の病院の営業するとか最低)
――――これが、札幌の繁華街・すすきののガールズバーでバニーガールのコスプレをして働いている羽山兎衣はねやまういと、医局を抜けて性病専門クリニックに就職したワケあり若手医師・堺誠さかいせいの出会いだった。
最初の印象は最悪であった。