12 ブタメガネ呼ばわり
「…最後に抱き締めてもらったのは…裏庭で『創世記』を読んだ時ね…。」
そのあとに初潮が来て…。
あれが最後になるのなら、遠慮なくもっとかじりついておけばよかった。
一日中ルー様にべったりとぶら下がっておけばよかった。
また図書館の受付カウンターで物思いに耽ってしまったメルリーシュの前に、利用客が一人立った。
アカデミーの午後の授業時間が始まると、利用客の数がぐっと減る。
受付担当の館員が昼食に行く間は、いつも裏方で本の仕分けをしているメルリーシュが一時的にカウンターに座る。
事務仕事をしながら「留守番」をしていたはずなのに、うっかり考え込んでしまった。
差し出された本を読み取り機の下にかざしたメルリーシュは、本の返却期限が過ぎていることに気がついた。
「あの、こちら、返却期限が三日過ぎておりますので、超過料金が発生いたします。三日分ですので、六リットになりますね。」
「あら、うっかりしていたわ。でもまぁ、三日でしょう?いいじゃない。それくらい。気がつかなかったことにしてよ。」
「申し訳ございませんが、魔術で管理されているものですのでわたくしに采配できることではございません。その旨、こちらで利用登録なさるときに説明があり、案内のリーフレットにも記載されているかと思いますので…」
チッ、と舌打ちの音が聞こえた。
メルリーシュは顔をあげて鼻の上までずりさがったメガネをくいっと上げ、相手の顔を見た。
アカデミーの制服を着ている。
特注なのか襟と袖にレースをあしらってあるが。
豪華なイヤリングと腕輪をつけていて、とても華やかな容姿の美しい女性だったので、舌打ちと結び付かない。
舌打ちではなくて、何か別の音だったか、それとも誰か別の人がしたのか。
メルリーシュはその人物の後ろと左右にキョロっと目を走らせた。
フロアには離れたところで本を閲覧している一般利用客らしき人々以外、誰もいない。
「あなたね?ライブラリーで働いている融通のきかないブタメガネって。」
一瞬メルリーシュの頭を素通りしたその言葉は、一瞬の間をおいてメルリーシュの頭にジワリと浸透した。
(…ブタメガネ…。かつてない言い草ですね。いつもはせいぜい『ブスメガネ』 なのですが…。)
そもそも『ブスメガネ』 さえ聞えよがしに言われたことはあっても面と向かって言われたことは一度もない。
「…ええと、わたくしの見た目と、館内の規則は無関係かと…思うのですが…。」
「たった三日よ?あなたも魔術師よね?魔法で管理されているんだったら、あなたが魔法で干渉すれば良いだけの話じゃないの。」
超過料金の六リットは決して高い金額ではない。
メルリーシュが食堂で自分用のご褒美に買う、マシュマロ入りのホット・ショコラータを買ってお釣りがもらえるくらいの金額だ。
一般人が一生働いても片方さえ買えそうにない耳飾りをつけられる人物が出ししぶるような金額ではない。
手持ちがないのだろうか。
それなら、利用カードを作成するときに、全員デポジットを二十リット入れることになっているから…。
「…お、お手持ちがないのでしたら、お預かりしたデポジットの中から…」
バチン!!とメルリーシュの頬が叩かれ、めがねが吹き飛んだ。
カシャン、とメガネが床に落ちた瞬間、メルリーシュは自分が叩かれたのだと気がついた。
「六リットの手持ちがない!?このブタメガネが!!今わたくしを侮辱したわね!?」
これは嫌がらせだったのだ。
初めて、メルリーシュは気がついた。
懐かしい恐怖が走馬灯のようによみがえる。
息をするように殴られ、蹴られたあの頃が。
平手で打たれただけのはずなのに、手に魔力が込められていたのか、何かモノで叩かれたような衝撃で目の前がチカチカした。
頬は腫れ、口の中が切れ、血の味がする。
手で押さえたら唇の端に滲んだ血がついた。
カタカタと震えて声がだせないメルリーシュに、もう一度手が振り下ろされそうになった時だった。
「職員への暴力行為は、この国への反逆と捉えられるのでは?」
女性の背後から声がかかった。
聞き覚えのないよく通る若い男性の声だった。




