1 北の果ての少女
ムーンで書いた拙作のお気に入りを全年齢版に直してみました、という自己満足作品です。
ゆる〜く広〜い目でお読みいただけますと幸いです。
使用人用の裏口の木戸をキィ、と開け、メルリーシュは冬の寒空のなか、外へ足を踏み出した。
サイズの合わないくたびれた革靴をカポカポと鳴らし、こすりあわせたかじかむ小さな手に白い息を吐きかけて暖める。
短く切られた、日にすけると緑がかったもつれた金髪がキャスケットから飛び出ている。
朝食の支度を整えたら、次の仕事が始まるまで散歩にでるのはメルリーシュの日課。
頬のこけた顔に目だけが大きいのを家の者たちは魔物のようで気味が悪いと言う。
同じ屋敷に住む父方の従妹がメルリーシュの姿が目障りで、視界に入ると頭痛がするというため、家の外にでる必要があるからだ。
どんなに寒くても、肌を切るような冷たい風がふきつけても、メルリーシュは風邪をひいたりしない。
妖精の母が、亡くなるときに命の力をふりしぼってメルリーシュに「健やかであれ」と祝福を贈ってくれたからだ。
もう何度目かわからぬため息をひとつ。
(きっともう、一万回を超えたかしら?)
四年前に母が亡くなってから一日に十回はついているため息。
ふるぼけた茶色いジャケットの前をかきあわせ、メルリーシュは歩みを進めた。
どんなに鞭で打たれても、毒をもられても、痛くても苦しくても、死ぬことができない。
(お母様はなんて残酷な祝福を贈ってくださったのかしら…。)
母のことは大好きだし、死んでしまってとても悲しい。
でも、この祝福に関しては、恨めしかった。
きっと、雪の海に身を投げたって、苦しいだけで死ねはしない。
だとしたら、永遠に氷の下で苦しみ続けるのだ。
ゾッとして、身を投げるなんてとてもできない。
いつもボロしか着せてもらえなかったメルリーシュだけど、男の子用の服を着るのは良い気味だからと許してもらえる。
庭師の老夫婦ゼベスとジーナがせめて孫のお下がりをと着せてくれた少年用の冬服の上下。
ゼベスとジーナは本当は親切なのだがメルリーシュの側にいられるようにと普段は悪辣な老夫婦の演技をしている。
昔、メルリーシュの母に息子の命を救われ、大変な恩義があるからだという。
メルリーシュを伯母夫婦の虐待からかばおうとした古参の使用人たちはことごとく辞めさせられた。
乳母が屋敷を去るとき、ゼベスとジーナに「もう、あなたたちだけが頼みの綱よ」と、泣いて抱き合っていたのを覚えている。
食事を抜かれたら、メルリーシュの部屋の窓の下に作った秘密の穴にこっそりサンドイッチを忍ばせてくれている。
「こんなボロい男物の服を見つけたんですがね、着せてみたらどうでしょう?面白くないですか?」
ただでさえ幼い頃から一度も買い換えてもらえず、サイズが限界でも無理矢理きていた外套を取り上げられ、寒さで凍えるメルリーシュを見かねて、ゼベスが一芝居うってくれた。
わざと少し穴をあけたゼベスの息子のお下がりを、メルリーシュに着せてはと提案したのだ。
「あら、面白いじゃない。ふふ、じゃあ、髪もそれにあわせなきゃね。これからはそうして、男物の服ばかり着るといいわ。」
「そ……そうですね!…っはは!!」
母譲りのほんのり若葉色の光彩を含む金の髪。
父がいつも綺麗だと撫でてくれた髪。
メルリーシュの髪を切るジーナの手は震えていた。
(…でも、ありがたいことだわ。春物の女の子の服より、暖かな男の子の服のほうが、どれほどありがたいか。)
メルリーシュのもとに届けられたときにはジャケットの穴はつくろわれ、はじめに見たときよりも多めに綿が詰められていた。
ジーナが繕い直してくれたのだろう。
(ありがとう…。)
古ぼけた茶色いジャケットの前をかきあわせメルリーシュは感謝を捧げながら歩みを進めた。
海の側は海風が吹いて一層寒い。
海沿いに堤防がぐるりと張り巡らされ、海と反対側は芝生が整備された散歩道になっているのだが、今はうっすら雪が積もっている。
(今年は冬が早いわね…。長い冬になりそう……。)
深くつもった雪をかきわけながらする散歩の辛さを思うと、ため息さえ出てこなかった。
けれど、森も、海も、空も。
何がどうなってこの世界ができたのか知らないが、何もかもが美しかった。
寒くても辛くても、この美しさがいつもメルリーシュの心を優しく癒してくれた。
だから、散歩自体はとても好きだった。
堤防の果てから少し上った、この地の最果てには小さな教会があり、そこで一息つくことができる。
ほとんどの祭事は町の聖堂で行われており、教会は忘れられたように無人。
暖炉に火がたかれているような暖かさはないが、吹きっさらしの外より風がしのげて遥かに暖かい。
メルリーシュは束の間、そこで暖をとり、床を掃き、窓を磨き、この大陸、アンスロテウス大陸の創世主であるアンスロテウスに祈りを捧げて帰路につくのだ。
教会までの道のりをメルリーシュは森の側の木立にそって歩くようにしている。
寒いからといって森の中に入り込んでしまって迷子になると困るからだ。
夕飯の仕込みまでには帰らねばならないから、道になど迷っていられない。
美しい海も見えなくなってしまうし。
(それとも、肉片ものこらぬほどに森の魔物に食べ尽くしてもらえたら、お母様のもとに行くことができるかしら…。)
想像しただけで痛そうで、またメルリーシュは身震いした。
最近、そんなふうに死ぬ方法ばかりが頭を占めてしまう。
またため息をついてふと海の方をみると、前方の堤防の上にこんもりと白い固まりがあった。
(…なにかしら…。)
海風の寒さも忘れておもわずフラフラと近寄ってみる。
(人…?)
人型をした白いものが、堤防にこしかけて海を見ているのだ。
近寄ると、次第にそれがはっきり見えた。
(人ではないわ…あんな美しい方が、人なはずないもの。周囲だって、なんだかキラキラ光が舞っているし…。)
母が生きていた頃、良く読んでくれたエルフの始祖である妖精王の本に書いてあった挿し絵の人物に良く似ている。
(古のエルフの王様のようだわ…。)
白いマントの襟には金糸の刺繍。
長く伸びた足は白いスラックスにピカピカの白い革靴。
見るからに高貴な方が、こんなところで何をしているのだろうか。
あまり近寄って、去られてしまっては見つめられないから、メルリーシュは少し離れたところで止まってその人物を見た。
ずっと見ていたいくらい美しかったからだ。
だが、我知らず、寒さから体の震えがとまらなくなり、メルリーシュは我にかえった。
ここはとても寒い。
エルフの王様(仮)は寒くないのだろうか。
「あの!」
心配から、思わず声をかけてしまったのだった。