壁を越えた青の旅
初めてなので読みにくい点などあればお申し付けください。
私の名前はリエラ。魔法の国「セリファス」の研究者だ……ただ、今はそんな肩書きが少し空虚に感じられるかもしれない。新しい空間転移魔法の実験中に制御を失い、魔法が暴走してしまったのだ。目を開けた時にはすでに故郷の研究室はなく、代わりに目の前に広がっていたのは、果てしなく高くそびえ立つ灰色の壁だった。
壁はまるで世界を切り裂く刃のようで、海の青と対比するように冷たく塗り込められていた。壁の奥からかすかに潮の香りが鼻をつく。転移の衝撃でしばらく呆然としていたが、すぐに状況を理解した。ここは私の国から遠く離れた、閉ざされた国家「カイロス」の領域だ。外界との接触を絶ち、国民に外の世界を恐怖の対象として植え付けている国。噂には聞いていたが、まさかこんな形で訪れることになるとは。
私は深呼吸して気を落ち着けた。失敗した魔法の代償は大きい。空間転移の誤差を修正するには、まずセリファスに戻って研究資料を手にしなければならない。だが、その前にこの状況をどうにかしないと……。
「何者だ!」
鋭い声が背後から響いた。振り返ると、そこには銀髪に褐色の肌、青い瞳が印象的な男が立っていた。黒い制服に身を包み、腰には剣らしきものが下がっている。彼の姿はどこか異質で、私がセリファスで出会った誰とも違う雰囲気を放っていた。カイロスの「壁護」。正式には「障壁守護者」と呼ばれる、この国の壁を守る者たちだろうと察しがついた。
「私は……リエラ。魔法の国セリファスから来た者よ。ちょっとした事故でここに飛ばされてしまって」
私は正直に答えた。隠す理由もないし、彼の青い瞳があまりにも真剣で、嘘をつく気になれなかった。彼は一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに警戒の色を濃くする。
「魔法? そんなものは存在しない。貴様、どこの間諜だ? 壁の外から来たと言うなら、なおさら怪しい」
彼の言葉には棘があったが、その裏に隠れた好奇心も感じ取れた。私は小さく微笑むと、軽く手を振って浮遊魔法を発動させた。身体がふわりと浮かび上がり、彼の目の高さに合わせる。さすがにこれには驚いたらしく、彼は一歩後ずさった。
「魔法は本物よ。見ての通り。私はただの研究者で、敵意はない……それより、この壁の外に出たいんだけど、道を教えてくれない?」
私の言葉に、彼の顔が一瞬で強張った。
「外に出るだと? 馬鹿なことを言うな! 外は悪魔が巣食う地獄だ。出ようものなら死ぬぞ……いや、それ以前に、壁を超えようとする者は裏切り者として自動迎撃システムに撃たれる。生き残る術はない」
彼の声には確信があった。だが、私は首を振った。
「悪魔なんていないわ。外の世界は美しいのよ……特に海。あなた、海を見たことある?」
私は懐から小さな水晶の板を取り出し、魔法を込めて起動させた。セリファスでよく使う「記憶投影盤」だ。そこに映し出されたのは、青く広がる水平線、白い波が打ち寄せる砂浜、夕陽に染まる水面。私の故郷近くの海の景色だ。彼は最初、怪訝そうに水晶板を睨んでいたが、次第にその青い瞳が揺れ始めた。
「これは……何だ? 本当にこんな場所があるのか?」
「あるわ。海はね、広くて、深くて、時には優しく、時には荒々しい。でも、何より美しいの。私、こうやって海を見るのが大好きなの」
私は水晶板を手に語り続けた。波の音を聞きながら読書したこと、友達と浜辺で笑いあったこと、夜の海で星空を見上げたこと。失敗続きだった魔法の実験の合間に、海辺で一人考え事をしたこと。彼は黙って聞いていたが、その視線は水晶板から離れない。まるで吸い込まれるように。
「……あなた、名前は?」
しばらくして私が尋ねると、彼は少し戸惑ったように答えた。
「ゼイン。障壁守護者の一人だ」
「ゼイン、ね。いい名前……ねえ、ゼイン。あなた、本当にこの壁の中で満足してる? 外の世界、見てみたくない?」
私の言葉に、彼の顔が再び強張った。だが、今度はそこに迷いが見えた。
「そんなことは考えたこともない……俺はこの壁の中で育ち、壁を守るために生きてきた。外は危険だ。壁を超えたら死ぬだけだ……だが、もし本当にお前の言うような世界があるなら……いや、そんなはずはない」
彼は自分に言い聞かせるように呟いた。だが、私はその言葉の裏に隠れた微かな憧れを感じ取っていた。
それから数時間、私はゼインと話し続けた。彼は最初警戒心を解かなかったが、私が魔法を使って少しずつ彼の周りを浮遊しながら海の話を続けるうち、だんだんとその態度が軟化していった。私の水晶板に映る海の景色を何度も見返し、まるでそこに吸い込まれそうになるようにじっと眺めていた。
「ゼイン、あなた、本当は知りたいんでしょう? この壁の外に何があるのか……私と一緒に行ってみない? 浮遊魔法なら、壁を越えるのも簡単よ」
私は少し意地悪な口調で囁いた。彼の青い瞳が揺れる。だが、彼は首を振った。
「……無理だ。壁を超えた瞬間、自動迎撃システムが作動する。無数の銃が一斉に発射され、逃げ場はない。俺はそれを知っている。昔、壁を越えようとした者がいた……その惨状をこの目で見た」
彼の声には重みがあった。まるで過去の記憶が彼を縛り付けているようだった。私は少し考え込んだ後、優しく尋ねた。
「その人は、どうして壁を越えようとしたの?」
ゼインは一瞬黙り込んだ。遠くを見つめるように目を細め、ぽつりと語り始めた。
「……噂があったんだ。壁の外に自由があるって。だが、そんなものは幻想だ。奴は壁の上部にたどり着く前に蜂の巣にされた。俺たちはそれを教訓として叩き込まれた。壁を超えることは死を意味すると」
彼の言葉に、私は小さく頷いた。
「でも、私には魔法があるわ。銃の弾なんて、魔法で弾き返せる。ゼイン、あなたが銃の位置を教えてくれれば、私がなんとかする」
私の言葉に、彼はしばらく黙り込んだ。葛藤しているのが手に取るように分かった。この小さな世界で生きてきた彼にとって、壁の外は恐怖そのもの。でも、私の話した海の美しさが、彼の心に火をつけたのだ。
「……本当に、お前はそれができるのか?」
「できるわ。約束する……でも、決めるのはあなたよ。私はただ、選択肢をあげただけ」
ゼインは長い間考え込んだ。時折、水晶板に目をやり、唇を引き結ぶ。そして、ようやく口を開いた。
「……行こう。連れて行ってくれ。壁の外を、この目で見てみたい」
その言葉を聞いて、私は小さく微笑んだ。
「じゃあ、準備して。しっかり掴まっててね」
私はゼインの腕を掴み、浮遊魔法を発動させた。私たちの身体がふわりと浮かび上がり、巨大な壁の上部へと近づいていく。壁の表面には、警告の文字が刻まれていた。冷たい金属の表面に刻まれたその文字が、カイロスの閉鎖性を象徴しているようだった。ゼインが緊張した声で銃の位置を教えてくれる。
「あそこだ! 上部に配置された砲台が一斉に狙ってくる!」
「任せて!」
私は魔法を展開し、防御障壁を張った。次の瞬間、無数の銃口から弾丸が放たれる。だが、私の魔法がその全てを弾き返し、金属の音が夜空に響き渡る。しかし、一瞬、障壁が揺らぎ、弾丸がわずかにすり抜けて私の肩をかすめた。鋭い痛みに顔をしかめたが、すぐに障壁を強化する。
「おい、大丈夫か!?」
ゼインが慌てた声で叫ぶ。私は痛みをこらえて笑顔を見せた。
「平気よ! ちょっとびっくりしただけ。もう少しで越えられるから、しっかり掴まってて!」
ゼインは驚愕の表情でそれを見つめていたが、すぐに私の腕を強く握り直した。壁を越えた瞬間、目の前に広がったのは果てしない海だった。月明かりに照らされた水面がキラキラと輝き、遠くで波が寄せる音が聞こえる。ゼインの青い瞳が大きく見開かれ、彼の口から小さな呟きが漏れた。
「……美しい」
私は彼のその言葉に、満足そうに頷いた。
「でしょ? これが海よ。さあ、ここからが本当の旅の始まり。どこに行きたい?」
ゼインはしばらく海を見つめていたが、やがて小さく笑った。
「どこでもいい……この世界を、もっと見てみたい」
「じゃあ、まずは私の故郷からね!」
私たちは浮遊魔法で海の上を滑るように飛び始めた。背後には壁が遠ざかり、小さな世界がどんどん小さくなっていく。ゼインの顔にはまだ迷いの影があったが、それ以上に新しい世界への好奇心が輝いていた。