第7章第5話 死闘(2)
「ジュネ将軍より、伝令です。皇王直下の旗本が数千投入された為、左翼に踏みとどまって防御に徹する。中央のフリーダ皇国軍戦力は千人程しか減っていないため、引き続き堅守するべし、とのことです!」
戦場は佳境を迎えつつあった。
中央のカタパルト王国軍は、名将ライルの率いる大軍に押されて苦戦を余儀なくされている。左翼も同じような状況だ。右翼は、三倍の兵力差が響いて極端に後退している。騎士団だからこそ辛うじて戦線崩壊していないだけ、という状況だ。
このように、微妙なバランスの元で停滞している戦場だが、いつそのバランスが崩れてもおかしくなかった。
「し、親衛隊だぁ!」
眼が良いという物見の男が不意に動転の叫び声をあげた。ジルはそれを聞いて、まるで体が凍りついたかのように目を見開いている。メルラーデ近衛隊長が息を呑む音が聞こえた。
そんなにヤバいことなのか? と疑問に思い、皆の向いている方に目を向ける。
「……ッ」
戦慄が走った。
青十字の御旗がはためいている。親衛隊。フリーダ皇王直卒の、大陸でも五指に入るという精鋭部隊が、本陣に向かって進軍してきていた。遮るフリーダ皇国軍が道を開ける。
「魚燐の陣形を組め!」
メルラーデ近衛隊長が鬼の様な形相で命令した。
「陛下。目測三千程。狙いは我が軍の本陣だと思われまする」
「これでフリーダ皇国軍は全ての戦力を投入したことになりますな。急ぎ本陣を下げるべきかと存じます」
先程叫び声をあげた物見の男の言葉に続けて、メルラーデ近衛隊長が本陣の移動を進言した。ジルはたじろいだ。俺は、何も言えずにいる。
本陣を後退させれば、それをきっかけに戦の趨勢が決まってしまうのではないだろうか。本陣の位置をこのままにしておくと、フリーダ皇国軍の旗本に打ち破られてしまうのではないだろうか。
相反する二つの思いが駆け巡り、決断することに躊躇してしまう。
俺は恐慌をきたした。どうすべきなのか分からない。かといって何もしない訳にはいかない。早く決断せねばと思えば思う程、冷静な思考ができなくなる。
俺が混乱している間にも、メルラーデ近衛隊長は後退を強く注進していた。ジルは取り乱している。恐らく、このままだと後退を受け入れるだろう。
だが、それでいいのか。
俺は疑問を覚えた。ここで下がったら、微妙なバランスの上でどうにかなっていた戦線が崩壊するかもしれない。
喚声が聞こえた。左。いや、右もだ。フリーダ皇国軍が、まるで獣のようにカタパルト王国軍に食らいついている。カタパルト王国軍はただ亀のように縮こまり、耐えるだけ。
そう、耐えるだけだ。俺達はただ、耐えているだけ……っ。
「陛下」
口を開いた。すると、決断を渋っていたジルと苛立ちながら後退を進言していたメルラーデ近衛隊長が、俺の方を向いた。
「退いてはなりません。ここで退けば、崩壊寸前のカタパルト王国軍は瓦解するでしょう」
メルラーデ近衛隊長が反論する。
「だがな、リョウ殿。このままでは、本陣が破られる。近衛隊とて、僅か五百。あれには敵わん。今の内に退いて体勢を立て直すべきだ」
「そうなのかもしれない。でも、ジルが、いや、陛下が前線に立って鼓舞すれば、あるいは!」
「無理だ。第一、どんなに運が良くても、長くは保た――――」
メルラーデ近衛隊長が押し黙った。彼の見開いた目の先。親衛隊だ。カタパルト王国軍の将兵を蹴散らし、一路こちらへ向かってくる。
「仕方ない。そう致しますか」
メルラーデは突如主張を引っ込めた。皮肉気な表情だ。
「副将の任、貴方に任せる!」
メルラーデ近衛隊長が、国王を守る最後の砦近衛隊の指揮のために騎乗した。緊張感が張り詰める。電光石火の勢いで攻め寄せてきた親衛隊が本陣に肉薄する。
メルラーデが怒声をあげ、両隊が激突した。
唸り声を上げて斬り込んで来た親衛隊に俺の足がすくむ。想像以上にヤバい。今までの戦闘より、遥かに気迫がある。
それもそのはず。両隊共に、国家最強の精鋭部隊なのだ。精鋭隊雑兵あるいは雑兵対雑兵がこれまでの戦いだとするならば、これは超精鋭対超精鋭だ。
とはいえ、数の違いは戦闘結果に大きく鳴り響いたようで。立ちどころに近衛隊が押し込まれた。メルラーデ近衛隊長が前線に立って必死の抵抗を見せているが、六倍の兵力差に近衛隊は見る見る崩れていく。
「陛下。いざとなったら俺がお守りします」
リッツが緊張した面持ちで槍を手に取った。ジルは任せたとだけ呟き、己も槍を手にする。
そこで遅まきながら、周りの部隊が本陣を潰されてたまるかと親衛隊に攻めかかった。同時に、緊急事態と見た魔術師団が親衛隊に対して一斉に魔術を集中させる。
勢いが止まった。親衛隊は反転して兵を引く。
薄氷を踏むような思いだったが、どうにか守りきれたようだ。
そう誰もが思ったであろう数瞬後、俺達はそれが楽観視に過ぎないということを再度実感した。思わず総毛だつ。フリーダ皇国軍が中央の両翼寄りの部隊、つまり両翼との連結部分に攻勢を集中したのだ。
「まずい! ジル、命令を」
本陣救援のために丁度真ん中の本陣へ集中していたので、薄くなっていたこの二つの箇所が急速に瓦解していく。魔術師団は間髪いれずに二つの箇所に援護を集中した。
「両側へ散らばれ!」
ジルが命令を下した。連絡兵が大急ぎで部隊長にそれを伝える。カタパルト王国軍が横へ広がる。なんとか攻勢を防ぐ。
調子には乗れない。次はまた、本陣が攻められるだろう。
予測通り、フリーダ皇国軍とカタパルト王国軍との間合いを詰め、返す刀で親衛隊が再度攻め寄せる。近衛隊はその勢いを削ぐことさえできず、まともにぶつかった。
ヤバい。
と、そう思うより先に隊列が崩れた。狂ったように雄叫びを上げる親衛隊が近衛隊を蹴散らす様は、弱者を捕食する肉食動物の如しだった。
魔術師団は援護対象の切り替えに失敗。未だに連結部分へ魔術を発射している。結果、親衛隊にフリーハンドを与えることとなった。
親衛隊は強襲を弱めない。近衛隊の士気がくじけそうになってきていた。このままじゃ全員討ち死にだ。
「退くべきです。が、もし退かぬのであれば全力を以て戦い抜きましょう。との仰せでございました」
メルラーデ近衛隊長の連絡兵はそう言い残して再び本陣を去った。メルラーデ近衛隊長本人は、がなり声を上げて親衛隊に突っ込み、暴れ回っている。
ふと、目の端に赤い煙が映った。策を発動する合図だ。遂に、時が成った。
俺は心を決めた。死地と分かっている場所から逃げないなんて無謀な真似はしたくはなかったが。逃げたら、ジルが負け、国土は奪われ、俺の帰る道も失われる。
俺には、諦めて逃げるという選択肢はなかった。ここで負ければ、俺は全てを失うことになる。それだけは御免だった。
「退くしかない、か。糞っ」
ジルは、悔しげに、悲壮な表情を浮かべて言葉を吐き捨てた。退却の連絡をするために立ちあがろうとした時、俺は思わずまったをかけた。
「待て」
「……、リョウ。この状況で何ができる」
ジルは血の気を失っていた。青白い表情に辛うじて理性を残している。恐怖から後退しようとしている訳ではない、ということだけは分かった。それで十分だった。まだ戦える。
「ジルが最前線に立って形勢を盛り返すんだ。ここで退けば命を長らえることはできるが、フリーダ皇国軍に勝つことは絶対できない!」
「王たる者は命を簡単に捨ててはならない。生き延びなければならないのだぞ」
「狼煙は上がった。あと少し、耐えるだけだろ!」
「博打だな。今頃動き始めたところで、もう間に合わん。君主はな、一時の感情で動いてはならんのだ!」
「逃げるべきじゃない!」
ジルは、たとえここで負けても全て失う訳ではない。そして、今ここで戦うより、一旦逃げた方がいいと判断したのだろう。
でも、俺には自信がない。ここで敗れた後、挽回できる方法が思い浮かばない。だから、いや、違うか。
そうじゃない。
「退くぞ。いいな」
「駄目だ、とはもう言わない。だけどな、それはないんじゃないのか?」
近衛隊は持ちこたえていた。メルラーデが奮戦する姿が目に映る。
「不利だなんてことは、最初から分かってたじゃんか! 勝てる確率なんて、最初から低かった。それでも戦うと決断したのは。俺の策を、ジュネ将軍を、みんなを信頼したからじゃねぇのかよ!」
「そうだな。僕は見込みを誤っていた。それは認める」
「今は賭ける時だ。賭けに勝てば、ジルは勝つ。拠点を奪い返せる。皇王すら殺せるかもしれない。そして、カタパルト全土が平定される。賭けなくても賭けて負けてもどっちみち先にあるのは地獄だ」
「王の責務は……ッ」
「出来ないならここで俺を殺してくれ」
本気だった。
負けたら終わり。俺の頭にはそれしかなかった。
ジルにとって、賭けのリスクが高いだなんてことは知っていたし、再起を図る方が望みが高いだなんてことも分かっていた。それでも、俺には余裕がなかった。俺は賭けるしかなかった。
剣の柄をジルに向けた。ジルが柄を握る。視線がぶつかった。ジルが、何か言葉を紡ごうとした。
瞬間。
本陣に一人の兵士が侵入してきた。親衛隊だ。リッツが一太刀で斬り捨てる。
ジルはその死体を無機質な目で見つめ、剣を放った。死体の傍に落ちる。顔を、上げた。目には、意志が蘇っていた。
ジルは言った。
「構わん、戦おう」