第5章第5話 逆進(1)
雨足が強まってきた。
小雨は一昨日からずっとぱらついていたが、今日になってその勢いは数段増した。強風が吹き荒れ、豪雨がしぶいている。
横殴りの雨がブルゴーの頬を叩いた。
「団長。今夜の野営はいかが致しましょう」
兵站管理を担当する武官が騎士団長の意見を伺う。ブルゴーは少し黙考した後に己の意を伝えた。
「兵は拙速を尊ぶ。それに今は一分一秒すら惜しむべき状況だ。休みはしばらくないものと思え。そう、兵にも伝えろ」
「しかし、兵は疲れています」
「よいか、我々は戦をしているのだ。疲れているからといって休んでいれば、その分フリーダ皇国に差をつけられる」
「ですが、休まず進んだ結果疲れてしまっては、それでも差をつけられることとなるのではないでしょうか」
「疲れを考慮して休むか、疲れている時だからこそより一層努力するか。敵は油断していて前者の行動ばかりしている。そこがつけいる先だと、俺は思う」
わかりました、と返事をした兵站武官は、苦い表情をしながら野営の候補地を幾つか並べた。それぞれの候補地の長所と短所を堰を切ったように喋り出した兵站武官を制し、ブルゴーは「できるだけ隠密性の高い場所だ」と言い放った。
しばらく考え込んでいた兵站武官が最適な野営地を割り出しブルゴーに報告した。
「それにしても悪天候だ。閣下。とても嬉しいことですな」
濡れ鼠のような姿になっていた部下が相好を崩す。名をエッフェル。騎士団の副団長である。かつてブルゴーの従騎士だった青年で、ブルゴーより八歳も若い。滝の様な雨に遭えば普通の軍人ならば不機嫌になるだろう。若さの割に先が見える男だ、とブルゴーはエッフェルの発言を心中で高く評価した。
というのも、先程のブルゴーの発言は真意ではないのだ。休まず進軍する理由は、むしろ天候にこそある。
「うむ。現地民の話によれば、あと数日は続くとのことだ」
「それだけ時間があれば、クリム城への行程を大分消費できますな。フリーダ皇国軍の慌てふためく顔を見てみたいものです」
豪雨が行軍を覆い隠す。その間にひたすら進軍すれば、敵に気付かれることなくクリム城まで近付ける。エッフェルはそう言いたいらしかった。そしてそれは、ブルゴーの考えでもある。
「まあ、陛下は豪雨なしでも気付かれないと仰っていたが。やはり、駄目押しのように雨が降ると安心する」
「騎士団長閣下。油断は、禁物ですぞ」
エッフェルが語尾を上げて言う。だが、その言葉に硬い感じはない。冗談で言っているらしかった。
今は進軍中である。当然のことながら、ブルゴーもエッフェルも絶えず手綱を引き締めて疾走している。こんな時に冗談を言うとは、お前の方こそ油断しているだろう。そうブルゴーは思ったが、口には出さなかった。
「そういえば、閣下。まだ、クリム城攻略の作戦を拝聴しておりませんが。何か、あるのでしょうか」
「そうだな。お前には、というより誰にも言ってなかったな。その話は」
「騎馬隊を引き連れているのが不可解ですが、果たしてどのような策をお持ちになられているのでしょうか」
確かに、攻城戦に騎馬隊は役に立たない。つまり、騎乗して戦う熟達者である騎士団員を攻城戦に駆り立てるのは無駄でしかないのだ。いくら機動力があるからといって、戦場に役に立たない者を連れていく道理はない。
そして、その矛盾に気付いているのならば、当然エッフェルはブルゴーの策を看破しているだろう。奇襲部隊の中でも、副将であるエッフェルと各部隊長にはクリム城奪還の意を伝えている。クリム城を奪還する為に騎馬隊を使うならば、選択肢は一つしかないはずだ。
「原野戦だ。クリム城駐屯部隊をおびき寄せて撃破する。攻城は、その後でもいいだろう」
「やはり、そうなりますか。ならば、騎士団と歩兵の歩調を合わせず進軍しているのも、誘引が狙いなのでしょうな」
「そうなるな」
歩兵団は、現在ブルゴー達騎士団の後方を進んでいる。エッフェルには、ブルゴーの描いている戦の姿が見えているようだった。
騎士団が先行していきなりクリム城周辺に現れる。とはいってもフリーダ皇国の諜報網もそこまで薄くはないので近付く途中で気付かれるだろう。それでいいのだ。
少数しかいない騎士団は、敗残兵を装ってクリム城に近付く。クリム城の兵力は国王によると五千は超えているので、戦いを挑んでくるだろう。守将は苛烈な性格で副将も血気盛んだと聞いたので、それは間違いない。
その油断したところを原野戦で叩く。騎士団は精鋭なので、兵力に勝る敵軍とも五分かそれ以上の戦いは出来るだろう。勝てなかったところで、すぐに歩兵の援兵が来るのだ。勝負は決まっている。
「ならば、野戦で勝利した後はどうするのです」
当然の質問だった。クリム城は要塞である。ちょっとやそっとの攻撃では落ちない。たとえ守るのが野戦で敗北した軍勢であっても、だ。
しかし、そこはブルゴーに秘策があった。抜け道、である。そもそも、これがなければクリム城奪還など思いつきもしなかっただろう。
「勝った後のお楽しみだ。無論、策はある」
まだ言えないが、とブルゴーは続けようとした。だが、出来なかった。エッフェルの姿に違和感を覚える。
「……」
「いかが致しましたか?」
そうだ、間違いない。ブルゴーは確信した。先程から圧迫感がなくなってきたような気がしたのも、その所為だろう。
エッフェルも少し遅れてその異変に気付いたようだった。眼光を鋭くして呟く。
「雨が止みましたな」
「そのようだな。そういえば、今思い出した」
現地民からの情報。それは、この時期この地域は雨が降り易いということだった。また、一度強い雨が降ったらしばらく続くだろうとも聞いた。そして、もう一つ。
「たまに、強い雨がピタリと止むことがある。それは極稀なこと。か」
折角の雨だったのに残念なことだ、とブルゴーはため息をついた。緊張感を取り戻し、部下に斥候を出すように命じる。しばらくは速度を落として周りの状況を把握することだ。
ふと、ブルゴーは緊張感にかられた。何か、嫌な予感がする。
「まぁ、またすぐに雨は降るのでしょうし。短期間で敵の斥候がここまで来るなんてことは、まずないでしょうな」
エッフェルが、気楽な感想に同意を求めてきた。ブルゴーは答えない。
(嫌な感じがするな……。根拠はない。ないのだが、この嗅覚のようなものは俺が戦場で培ってきたのだ。この抽象的な感覚に助けられたことは何度もある。無視していいものなのだろうか)
南東に位置する本軍に何かがあったか? それはない、とブルゴーはかぶりを振った。
今頃はジュネ将軍と合流しているはずだ。カタパルト一の将軍がついていて不測の事態が起こることはまずないといっていいだろう。
まさか、敵もカタパルト王国と同じことを考えていて、今頃王都が陥落している? それも有り得ない。ブルゴーは否定した。
ガストン皇王もライル将軍も軍人としては慎重である。それに、現在は優勢なので敵軍はどっしり腰を据えた格好をしている。第一、敵の作戦目標はカタパルト王国北部の占領だ。王都まで奪っても補給などの問題で長く保てはしない。それを一番分かっているのは、兵站を司る敵将ライルのはずだ。
(ならば、この寒気は何だ? 何かが危ない。王都でも、本軍でもない、何かが。その何かとは……)
即ち、ブルゴー軍。
ぞわり、と。ブルゴーの体に、今度は明確な悪寒が走った。体の中で何かが蠢くような気がする。胃が、キリキリと悲鳴を上げた。走る痛みを抑えて、ブルゴーは目つきを険しくする。
「閣下! 大変です!」
斥候から話を聞いた連絡兵が声の限りに叫んだ。
「前方に敵軍の姿あり! その規模、およそ数万人とのことです!」