第5章第3話 欺瞞(2)
想定外の事態である。少なくとも、ジュネは、これ以上の術策をフリーダ皇国軍がめぐらしているとは考えていなかった。
(だが、焦ることはない)
ジュネは周辺の地理に長けた幾つかの部隊に指示を出した。更なる伏兵の撃滅である。
今ジュネ軍が通っている道は狭いため、全軍を敵勢に当てることは出来ない。それはフリーダ皇国軍の算段だろうということも、兵数を集中できない攻撃は悪手だということも、ジュネは分かっている。
だが、問題ない。ジュネには伏兵を攻略する自信があった。
第一陣から第三陣までは地形を熟知している貴族軍が務め、ジュネの率いる直轄兵が核となる。
瞬時に陣立てを考えたジュネは全軍に細かな命令を出す。各部隊はいささかの遅滞もなく動き、いつでも動ける態勢をとった。余った軍勢は副官に率いさせて退路を進ませるつもりだ。
ジュネ軍は伏兵と相対した。互いに少しずつ近付いていく。
そろそろ攻めるか、とジュネが意を決した瞬間、フリーダ皇国軍は動いた。
「閣下! 敵勢目測数千の軍勢が速やかに前進してきています!」
先をとられるのを嫌がったのか、出鼻を挫くようにして第一陣に攻めかかったようだ。第一陣はその緩急に惑わされ、隊列を崩した。
ジュネは時を置かずに第二陣を前に進ませた。怯んだ第一陣の後ろから第二陣が攻撃の手を加える。第二陣は容赦ない攻勢で敵勢を後退させた。
(まずいな。敵の術中にはまっている)
おびき出された第二陣を半包囲して撃破。これが敵の思い描いている理想図だろう。さすれば、ジュネ軍の士気は落ちて隙もできることとなる。折角得た勢いをこんなところで殺される訳にはいかない。
ジュネは第二陣の指揮官に一旦退くように命じた。それで敵が面食らったら反転逆撃し、そうでなければ大人しく体勢を立て直す。連絡兵にはそう言い含めた。敵の罠にかかるまでまだ時間はある。それまでに第二陣の指揮官がジュネの意をとれるかどうかが勝負所だった。
第二陣の戦列が延びきろうとしていた。仕方がない。そう第三陣の参戦を決意したジュネが口を開こうとした、その時。
ようやく第二陣が退いた。敵勢は乱れない。
(焦らずじっくり行くことだ。それでいい)
第二陣と第一陣が陣構えをただした。第三陣、本陣共に少しばかり前進している。戦場が前に移動しているようだ。あまり引き込まれるようだと危ない。
一抹の不安を抱えつつも、ジュネは鐘を鳴らせた。攻撃の再開だ。
既に戦いの仕方については連絡してある。中央から攻めるのではなくて、両翼から締めあげるように攻勢を強める。少数である敵勢は、それで撃破できるはずだった。
第一陣と第二陣が一斉に打ちかかる。敵軍は応戦するが、最初の頃の勢いはもうない。第一陣と第二陣の兵力は敵軍よりも少ないのだが、後方の第三陣と本陣の存在が敵の動きをけん制している。結果的に、兵力差はひっくり返されていた。
両翼から押し込まれ、敵軍はじりじりと後退していく。頃合いか、とジュネは呟き、第三陣に攻撃命令を出した。
強い衝撃と共に第三陣の軍勢が敵軍に向かってぶつかって行った。
「ほう。やるではないか」
壮絶な大攻勢を前に、敵軍は踏みとどまった。思わず感嘆の声が漏れる。
小さく纏まって攻勢をやり過ごそうとしているようだ。一気に攻め崩そうとするカタパルト王国軍に対して密集陣形で対応したのは正解だろう。
矢玉がおよんで厳しい攻撃に身を晒されている敵軍は、一見無為に後退しているように見えるかもしれない。かもしれないが、実態は逆だ。カタパルト王国軍の攻勢を受け止めて、反撃の機会を狙っている。
手強い敵だな、とジュネは気を張り詰めた。
本陣を率いて前進し、先頭に立ったジュネは目を凝らして戦況を見守る。今の所、敵軍は必至の防勢で猛攻を耐えている。敵はいつ反転するのか。ジュネは考え迷った。
戦場の後方で待機しているジュネ率いるカタパルト王国直轄兵。その存在を考慮するならば、攻勢に出るのは間違っている。
たとえ攻勢に移ってもこちらにはまだ予備兵力があるのだ。そして恐らく敵軍には予備が無い。どちらが勝つかは自明の理だ。
(ならば何故敵は先程逃げなかったのだ。退却するには十分な間合いがあったろうに。退かずに攻めてくるということは、勝算があるか指揮官が阿呆かどちらかなのだ。そして戦場の士気を見る限り後者は有り得ない)
ならば、敵はまだ切り札を温存しているのか。熾烈な攻撃を受けて敗走すら有り得るこの状況で、まだその切り札を出さずに我慢しているというのか。
ジュネの体に悪寒が走った。
直後、猛烈な攻勢を浴びせていたジュネ軍の構えが、崩れた。
「迂回奇襲か! あの状況で横入りするとは、やってくれる!」
敵軍の後方に待機させていた騎馬隊を大きく迂回させて、ジュネ軍を横から突いたのだろう。敵軍は間髪入れずに反転して、ジュネ軍へ深く斬り込んだ。混乱。形が崩れる。
まずい。明らかにまずいと言える状況だ。ジュネは遂に重い腰を上げた。本陣の参戦である。後詰めも数百ほど用意しているが、役に立つかどうかは分からない。ここで勝負を決めなければならない。
「行くぞ。総攻撃だ」
鐘が鳴り、轟音が戦場に大きく響いた。大地を揺らすような音響が、戦火を交える両軍に趨勢の変化を意識させる。
鬨の声を挙げて攻めかかるカタパルト王国直轄兵が、先程まで襲いかかってきていた敵勢の勢いを削ぎ、逆撃を仕掛けた。
今この瞬間こそが、勝敗分岐点。
そう確信したジュネは総攻撃の下知を出し、自ら前に出て剣を振るった。
数人雑兵を斬り倒したところで、名のある兵士が大音声を上げて勝負を仕掛けてきた。
十数合剣戟を交えるも、決着がつかない。ジュネは敢えて隙を見せた。敵兵は空気を切り裂く音と共にその槍でジュネの急所を突いた。
ジュネはその突きを裏から擦り上げて、剣を斜めに振った。
袈裟切りだ。敵兵は表情を苦しそうに歪ませながら、血飛沫を上げた。そのまま地面に倒れる。動かない。命を失ったようだ。
死んだ敵兵を一顧だにせず、ジュネは怒声を上げた。
俺に付いてこい。そう言わんばかりの姿に、部下達もまた雄叫びを上げて前に突き進む。練度も士気も高い直轄兵に、長引く戦いで疲労の色濃い表情を見せる敵兵は気圧されている。
ジュネは戦場を俯瞰した。
勢いはこちらにある。先程までジュネ軍を圧倒していた敵軍だが、もうその勢いはない。
こちらから見て右側にある敵軍の左翼が、崩れる。ジュネは思わず目を細めた。部下達に敵軍の左翼を集中的に攻撃するように命令を下す。ジュネは勝利を確信した。
弱った所を叩くのは戦場の道理であり、今や敵軍の左翼は絶好のカモである。そう呼べるほど、弱っている。
浮き足立った敵軍の左翼と、踏みとどまろうとしている敵軍の中央にある軍勢。その間を騎馬隊が駆け抜けて、敵陣を完全に寸断した。横との連携がとれなくなった敵軍の左翼は、前方からの攻勢に押されて及び腰になる。
増していく圧力に耐え切れなくなったのか、遂に敵軍の左翼が潰走した。
「勝ったな」
敵軍は左翼の潰走から時を移さず行動した。総退却である。だが、敗走するのを甘く見逃すジュネではない。小さく纏まりながらも素早さを維持して退く中央の軍勢ではなく、敗走に戸惑い浮き足立っている右翼を優先して攻撃するように命令した。
(なかなかの良将が率いている様だし、中央を崩すのは少し難しい。出来ないことはないが、損害が出るだろう。それよりも、右翼と左翼を完全に潰すことだ。)
さすれば、熟した果実が落ちるように敵軍が総崩れするだろう。ジュネはそう呟いた。
手始めに、敵軍の右翼と中央の間を、騎馬隊に走らせた。これで敵軍は三分された状況になる。左方に位置する中央の軍勢との連携がとれなくなった右翼は、左翼と同じように潰走した。
蜘蛛の子を散らすように逃げる敵勢に、容赦ない追撃がかかる。背を向けた敵兵が一人また一人と絶命していく。
ジュネは自軍の右翼と左翼に位置する部隊に、敵軍中央の軍勢を包囲殲滅するように命令した。必死に逃げようとしている敵軍は、しかし、後ろに向けた背中をいいように攻撃されている。
「閣下。勝ちましたな」
ジュネの元で本陣を指揮していた部隊長ジュワンベルクがポツリと言葉を漏らした。
事実である。後は雑巾を絞るように敵軍を全方位から絞り上げるだけだ。指揮官はなかなかに有能そうだったので、彼の命を奪えばフリーダ皇国軍の戦力は減退するだろう。
だが、油断は禁物だった。既に勝利は決まっているが、この戦いはあくまでも局地戦。全体を見ればカタパルト王国軍が不利なのは依然として変わらないのだ。今はこの局地戦でどれだけフリーダ皇国軍の戦力を減らすかが重要だった。
八分の勝利ではもの足りない。完全な勝利を以て初めて、カタパルト王国軍の現在の劣勢を少しはマシに出来るのだ。
包囲されている敵軍がある一点を集中攻撃していると、注進が入る。ある一点とは、敵軍から見て後方にある部隊のことらしい。
ジュネは周りの幾らかの戦力をまわして備えとするように命令した。しかし、それが裏目に出た。
敵軍が集中攻撃の的を変えたのだ。先程まで攻撃していた場所の隣に位置する軍勢に標的を変え、集中攻撃を浴びせる。標的となった部隊は隣に戦力をまわしていたため、呆気なく撃破された。
ジュネは顔色を変えた。糞ッ、と言葉を吐き捨てて、逃げる敵軍を追うよう全部隊に一斉に命令を出した。追撃命令を知らせる鐘が鳴り、ジュネ軍は必死に敵軍に追いすがる。
してやられた。そう思わずにはいられない、見事な撤退だった。
両翼を潰されて、敗北は決定的。そのような状況下で兵を纏めてきちんと退却するのは、容易なことではない。凡百の将では出来ないことだろう。
だが、いくらか疑問も残る。それ程の指揮官が何故完敗するまで戦場に留まったのか。本陣が参戦したあの時すぐにでも退いていれば、敵軍はここまで圧倒的な敗北を味わわずに済んだはずだ。
まあ今そんなことを考えても仕方がない。ジュネは思考を打ちきった。
「閣下。敵軍が森の中に逃げ込みました。このまま追撃いたしますか?」
「追撃だ。地の利は我らにある。攻撃には地理に長けた貴族の部隊を優先させろ。本陣の軍勢は待機だ」
大軍の利が生かしにくい森に敵が逃げ込んだため、総力を挙げて追撃することはできない。だがその分の損失は、味方の部隊が地形を熟知しているという利点によって帳消しになるだろう。
包囲殲滅出来なかったことは悔み種だが、まずまずの結果に終わった。ジュネは安心感と達成感、そして僅かばかりの悔恨を覚えた。
こうして、カタパルト王国とフリーダ皇国の戦いの初戦は、カタパルト王国軍の圧勝で幕を閉じた。世に言う、ソーウ奇襲戦である。