第5章第2話 欺瞞(1)
備蓄基地ソーウに対する奇襲作戦は順調に進んでいた。フリーダ皇国軍の警戒は想定以下で、カタパルト王国軍の進軍速度は想定以上に高い。
「閣下。このまま進むのですか?」
「思いのほか首尾が良いのですし、この調子を保ちたいところですな」
歩兵軍団第六部隊隊長ジュワンベルクが尋ねた。続けて若い貴族が所見を述べると、他の貴族達も同調した。彼らの顔つきからは幾分か晴れやかさが伺える。万全を欠く備えに期待感を覚えているのだろう。警備がザルなのは事実だ。確かに、現在の局面は奇襲を敢行する好機のようにも見える。
だが、ジュネの胸の内はそれほど浮き立っていなかった。
(浅はかだな。まるで分かっていない)
ジュネは心の奥底でその楽観的な認識を一蹴した。
「そうだな。そうすることとしよう。だがな、敵の計略ということも十分考えられる。些細なことでもいいから、変な報告を受けたら俺に教えてくれ」
「心得ております」
貴族達が口を揃えて大丈夫だと言うが、ジュネは不安を感じられずにはいられなかった。所詮貴族は自信の栄達しか考えていない、という先入観を持っているからだろうか。
「合図があったら一斉に突撃。号令を聞いたら即座に退却するように。順番は手筈通りだ。命令を無視したら断固とした処分を下す。いいな?」
全員が理解したのを確認すると、ジュネは貴族達を自分の率いる部隊の元に出向かせた。部隊の指揮官が後方にいると素早い対応が出来なくなる。この行動も、敵軍への警戒心によるものだった。
報告が届く。フリーダ皇国軍に怪しい気配あり。一部厳重な警戒のしてある場所があるらしい。
やけにあっさりと懐へ潜り込んだ割にはこれだ。妙だと言わざるを得ない。やはりな、とジュネは口角を吊り上げた。
(いや、呑気に笑っている場合ではないと分かっているのだが。やはり戦場はこれ位の緊張感があった方がいい)
連絡兵に各部隊への伝達を命じた。
『一撃離脱』
単純な作戦だが、将の指揮能力と兵士の練度が重要になってくる。通常ならば貴族軍と混合した状態で行う作戦ではないが、現在の士気の高さとフリーダ皇国軍の陣形を考慮してジュネは成功を確信していた。
「ああ、それからジュワンベルクにはこう伝えておけ。隊列を崩すな、と」
連絡兵が散り、急いで情報を送りに行く。次にジュネは副官に対して声をかけた。
「急を要する事態になった時。万が一の時。速やかに指揮権を移行して退却するように」
本陣が急襲されたり、大きな罠にはめられる可能性もある。その時ジュネが死ぬこともある。そのような切迫した状況下で、重責ある副官の立場にいる者が判断を遅らせるというのは非情に筋の悪い行動だ。
「無論、承知しております」
そうか、そうだな。そう呟いてジュネは会話を終わらせた。
実際、当たり前のことだ。最初からジュネはこの奇襲について危険性を感じたらすぐ撤退すると言っているし、その意味が分からない男がジュネの副官として許されている訳でもない。ならば副官を信頼していないのかという問いもまた不適当だ。副官は熟練した指揮官であって、凡庸ではない。
ならば、何故このような問い掛けをしたのだろうか。
(なんのことはない。俺は、不安だったのだ。罠かもしれない。詐術を弄してあってもおかしくない。そのような危地で戦うのだ。そう簡単に心配を振り切れはしない)
それでも、ジュネの心の中には高揚感があった。気持ちは弾んでいた。この二つの感情は、相反はしていても決して矛盾するものではないのだ。
半刻経った。夜の闇が深さを増している。静まりかえった道中に行軍の足音が乾いた響きを広げていた。
「閣下。敵軍に動きが見えます。我が軍の動きを察知したようです」
ジュネは一斉攻撃の決断をした。最早一刻の猶予もなくこれ以上迷っていても時間の無駄である、と判断したのだ。
「そうか。ならば、もう潮時だろうな」
手を握り締めて深く息を吸った。腰に帯剣していた剣を抜き、天上へと突きたてる。空気を切り裂く音と共に、ジュネは大音声で進撃を命じた。
「突撃!」
何千もの兵卒が雄叫びを上げ、駆ける衝撃で大地が鳴動する。意気盛んに声を上げた軍勢は一匹の獣となってフリーダ皇国軍と激突した。意表を突かれたフリーダ皇国軍はカタパルト王国軍の突撃を防ぎきれず、若干ながら後退した。
その間僅か幾数分である。
だが、フリーダ皇国軍とて何の備えもしてこなかった訳ではない。冷静さを取り戻すと時を置かず反撃に移行した。幾らかの勇猛な部隊が瞬時に突出することでカタパルト王国軍を浮き足立たせ、フリーダ皇国軍はその間に体勢を立て直したのである。
揉み合う状況に移行して押し合う両軍。とはいえ、先を取ったカタパルト王国軍の優勢は依然として変わらない。そのように考える各部隊が必死に猛攻を繰り出す中、ジュネは違う見方をしていた。
(懐までは簡単に潜り込ませてくれたが、その割に防御は堅い。まあ、このまま攻めていればいつかは打ち破れるであろう程度の堅さでしかないので、その点は問題ないのだが……)
罠。
ジュネが唯一懸念している事項である。
攻勢に移った後も未だ伏兵は見当たらないので、今のところはまだ敵の網にはかかっていないだろう。だが、このまま敵中にいれば飛んで火に居る夏の虫。包囲されて逃げられなくなる前に退くべきだ。
そうジュネは考えていた。
「退くぞ。法螺貝を鳴らせ」
鈍く大きい音が戦場に響き渡る。それと同時にカタパルト王国軍は素早く後退した。整然な動きで退却するカタパルト王国軍に、フリーダ皇国軍首脳部は追撃を行う余裕すら持てなかった。フリーダ皇国軍の部隊の一部が散発的に追撃を行うが、周りとの連携をとれていないのですぐに撃破される。
手ごたえは良い。良すぎる。もう一度攻めかかってもいいのではないか。
ジュネはいささか逡巡した。すぐに気を改める。調子に乗って高望みした将に結果が付いてくることは少ない。あったとしても、偶然である。
ほどなくして、ジュネは手堅く退いたことを自賛?した。
伏兵による奇襲である。
直前に察知したジュネは辛うじて防備を固めた。方陣。四角形に組まれたこの陣は、前後左右どこからの攻撃でも防ぐことが出来る。防御に適した陣形だが、一度隊列を割られると弱い。密集しているため、混乱に弱いのだ。
伏兵はジュネ軍の後方やや左を急襲した。そこに位置していた貴族の軍勢が崩れた。だが方陣は崩れない。防備を固めるというのは単に方陣を組むというだけではないのだ。自軍の弱点の補強も立派な防備である。
そして、フリーダ皇国軍はジュネの予想通りの場所を攻撃してきた。敵の指揮官は戦を知っているらしい。ただ、それ以上にジュネが巧緻だった。その場所に中央から直轄兵が移り、すぐに防備の穴を埋めていたのだ。
伏兵の勢いが少しずつ削られていく。攻撃、特に伏兵による奇襲は初手が肝心だ。初手でカタパルト王国軍を崩せなかったのだから、奇襲の失敗は目に見えていた。
いや、それも後になってから分かることだろう。ジュネは自身の油断を恥じた。
いまだ追撃の軍勢はまだ来ない。ようやく追い始めたところなのだろう。だが、もしかしたら退却の道を回り込まれいるかもしれないのだ。用心するのに越したことはなかった。
「閣下。敵勢が後退し始めました」
手綱を引き締め、ジュネは目をこらす。確かに後ろへ退いている。反転攻勢を目論んでいる訳でもなさそうだった。
「よし。我々も退くぞ」
ジュネは追撃の許可を出さず引き続き退却するよう下知した。敵勢は反転することなく距離を離していく。ジュネの判断は正解だったようだ。もしかすると、反転攻勢を狙っていたのだが整然な撤退に追撃の意志を失ったのかもしれない。
ジュネは息を吐き、安堵の表情を見せた。
恐らく敵の企てはあの伏兵による急襲だったのだろう。ならば、それを撃退した今はもう何も恐れることはない。注意深く退却すればいいだけだ。
そこまで思考を深めて、ジュネは顔を上げた。
憂慮するべき懸案はもうない。そう見たジルの元に注進が入った。
進路の横に更なる伏兵の姿あり。