第4章第10話 撤退
マクシム・カタパルト。
カタパルト王国先代国王エドガーの弟アリーの嫡男であり、第二位の王位継承権を持つ。魔術理論・魔術行使に優れており、高名な学士にすらその才能を保証されたことで有名だ。伯父である国王エドガーの死後は国王を僭称し、従兄弟であるジル・カタパルトとの内戦にまで至った。
また、容姿が大変美形で怜悧な瞳が世の婦女子に持て囃されていることでもその名を知られている。国王を名乗った後は、マクシムについた貴族の娘の殆どが婚姻を夢見ていると噂されている。
その冷静沈着で知られているマクシムは、本陣で自軍を指揮する立場にありながらも、現在正気を失っていた。ジュネ軍の奇襲。ジル自らの救援。ゲネブ伯爵の裏切り。崩れる戦線。マクシムから冷静な思考を奪うには十分な惨状だった。
「糞ッ。畜生!」
彼の悪癖である。予想外のことや悪いことがあると、すぐ冷静さを失って感情を爆発させる。ただ、本陣には今他の貴族がいないためその姿を見られることはなかった。外行きの顔を気にするだけの理性は残っている。
「どうする……どうすんだよ!」
椅子を蹴り飛ばしていささか鬱憤を晴らしたマクシムは、肩で息をしながらやっと思考停止していた状態から立ち直った。
(負けだ。この戦いは敗北で終わる。それは確実。確実だが、次があることも事実だ。挽回なら、できる)
「陛下。どう致しましょうか?」
侍従が不安げな顔でマクシムの顔を覗き込み、決断を催促する。マクシムは、その質問に笑みを浮かべて答えた。
「退く。退却だ。今ここで敵軍を叩くこともできるが、それは我慢するべきだな。攻撃したところで勝敗は変わらんし、もう混戦になっている」
マクシムはそこまで言って、連絡兵にある情報を各貴族へ伝達するよう命じた。
退却というたった二言の短い通達ではあるが、それの指し示す意味は存外重い。
相次ぐ敗戦を見て、日和見していた貴族達が一斉にジルの側旧制カタパルト王国に付くかもしれないのだ。両カタパルト王国に未来はないと踏んでフリーダ皇国に付く者もいるかもしれない。総大将格のシャルロワと総大将のマクシムの両人が負けるとは、そういうことなのだ。
ただ、この状況、敗北は絶対であり後はどれだけ犠牲を減らせるかにかかっている場合では正しい判断だと言えよう。無駄に抗戦を続けるよりは、撤退して体勢を立て直す方がマシだ。旧制カタパルト王国は、北から迫り来るフリーダ皇国軍を撃退しなければならないので撤退する敵をいつまでも追撃できる程暇ではない。
「陛下。どういうことなのですかな」
マクシムに付き従う貴族の中心格であるイフミ公爵が、抗議の声を上げて本陣に戻って来た。彼の軍勢は既に撃破されている。このまま撤退戦に陥ったらまずいという思いから撤退を止めようとしているのだろう、とマクシムは考察した。戦場を見る目はないがそれを自覚して弟に指揮を任せている男だと、そう高評価していただけに、マクシムは多少の失望感を隠さずにはいられなかった。
「敗北は決定的。今更形勢を挽回するのは難しい。分進合撃は諦めてシャルロワ大公と合流するのが最善だ。フリーダ皇国の援軍のおかげで敵軍に時間の余裕はあまり無い」
「しかし」
「それに、退却を引き延ばして一番損をするのは公であろう? 確か、公の軍勢は既に撃破されているはずだ。早く撤退しておいた方がいい」
「陛下は私を臆病者だと仰せになられたいのですか!」
「恐怖を感じて逃げる。それはは臆病者だろう。だが、次の機会を得る為の撤退は大局的な判断の出来る者にしかできない。臆病とは違う。それとも、公はこれから単身突撃でもするか? 蛮勇しか持たぬ臆病者と言われたいか?」
「陛下、私は恐怖を感じてなどいません。訂正して下さい」
「そうだな、公は臆病でも蛮勇でもない」
「戦況を御報告致します!」
ここまで口論を続けていると、連絡兵が大声で戦況の報告をしに来た。次々と貴族の名前を挙げて彼ら全員の軍勢が撃破されたあるいはされつつある、と締めた。イフミ侯爵を説得しようとしている姿を見て気を利かせたのだろう、とマクシムは頬を緩めた。
彼の努力は実り、イフミ公爵は何も言い返そうとしない。マクシムはそれを了解の意だと受け取ることにして、家臣に退却の準備を進めるよう再度命令した。
「は。分かりました。では、陛下は一番先にお逃げ下さい」
当然のことである、とイフミ公爵は当たり前のことの確認作業をしているのだと思った。そんな無駄なことをしている時間があるなら早く準備をしろ、と怒鳴りたい気持ちを抑えて、足をトントンと小刻みに揺する。
しかしその落ち着きの無い様子も直ぐに止まった。マクシムがイフミ公爵の想像を超える発言をしたのである。
「最後まで残る。殿だ」
想像を超えたのは家臣も同じだったようで、皆口を空けて茫然としている。彼らを擁護すると、撤退戦の最後尾を総大将が自ら受けるという異常な行動に驚愕したのは正しいと言えよう。撤退戦は総大将を逃がすのが第一目標なのであり、肝心の大将が殿と言う一番危険な役目を受けるのは間違っているのである。
(確かに、本来王自ら殿を務めるのは誤りだろう。だが、だからこそその効果は)
「大丈夫だ。策はある。それとも、国王の命令に従えないとでも言うつもりか?」
「ははぁ、何かあるのですかな。よろしければ、この私にそれをお教えなさって下さりますと助かるのですが」
イフミ公爵は暗にそのふざけた行動をやめろ、と皮肉を放った。マクシムはそれに動じず、言葉を返す。
「二度、負けた。二度だ。信頼は随分と損なわれていよう。失われた信頼は、命を賭して取り戻す。それがカタパルト王の矜持だ」
家臣達が威勢よく返事をして、退却の準備を始めた。イフミ公爵は戸惑う。
(どういうことだ? 殿をして死んだらどうする。王が死んだら我らも終わりなのだ。ジル・カタパルトに見せしめにされるかフリーダ皇国の風下に置かれるかしかなくなる。それでは、困るのだよ。私は既にマクシム・カタパルトを全面的に支持しているのだ)
(だが)
「では、陛下。私は先に戻らせてもらってもよろしいでしょうか」
イフミ公爵の問いにマクシムは首肯する。
イフミ公爵はそれを聞くと、無言のままに本陣を出た。僅かな兵力と共に自領へ戻る準備を始めるのだ。マクシムはその後ろ姿を見て、ほっと溜息をもらした。
(グベルトン・イフミ。軍事の素人で戦争に関してはからっきしだが、イフミ公爵の地位を継いでからの政治手腕は本物だ。地味で目立たないが、保守派の中でも相当の影響力を持っている。臆病でもない。彼には、生きていて貰わなければならない。僕が真の王となるために)
マクシムは頭の中に打算を張り巡らせる。絶体絶命の戦況を前に、彼はそれ程の焦燥感を抱いていなかった。
(マクシム・カタパルト。先代国王の甥であり、王位第二継承権を持つ男。女からの評判の良さに若者はやれ軟弱だだのと妬んでいるが、馬鹿ではない。ジル・カタパルトよりかは余程頭は回るだろう。何か、策はあるはずなのだ。そして、私がそれを知る必要はない。策があって、無事に帰ってくるならそれで十分だ)
イフミ公爵は頭の中に考えを張り巡らせる。彼は軍事に関しては愚鈍だが、権謀術策渦巻く政界で頭角を表してきただけあって、知略は十分持ち合わせていた。