第4章第3話 機密
東方の豪族カール一族と反乱貴族、そして正統な王位継承者を主張しているマクシム・カタパルト。
二万人にも及ぶその錚々たる軍勢は、ジルに臣従するジュネ第三将軍率いる三千人の兵の命をまさに刈り取らんと意気揚々としていた。
王都からの援軍は来ない、という情報が彼我の士気差を広げていた。
敵の半分はおろか、四半分にも及ばぬ少勢でこの状況を打開できる訳が無い。用兵のなんたるかを分かっている者達は皆、そう思っていた。自然、空気も陰鬱となる。
だが、その中で最も軍務経験のあるだろう、ジュネ自身は、こともあろうに笑っていたのだ。
「いよいよ、だな」
側仕えのまだ若く十六七位の兵士は驚いていた。ジュネの笑みは虚勢には見えない。六倍以上の敵に追い詰められて尚、笑う理由が彼には分からなかった。
「何が、でございますか?」
そのため、反射的にそう聞いてしまったのも仕方の無いことだった。無論、護衛を職務とする側仕えの兵士が主君の意志を問うなど言語道断である。彼は失態をおかしてしまった、と思わず目をつぶって肩を縮めた。
(まずい、怒られるっ)
「聞きたいか」
しかし、意外なことにジュネの表情には怒りは見えなかった。
確かにジュネ将軍は決して厳しい人ではないが、この苦境にあって家臣が失態をおかすのを見過ごすというのは、おかしな話である。普通だったら敗勢による苛立ちを抑えきれず、必要以上に彼を叱りつけるだろう。
ジュネは苛立ちを部下にぶつけるような人物ではないが、それにしても違和感があった。
「い、いえ。出過ぎたことを申しました。申し訳ありません」
一方、ジュネ将軍といえば、こちらの頭の中は大変興奮していた。彼の違和感は的を射ていたようだ。
「気にするな」
その一因は、半月前にジル国王から届いた一通の手紙だった。
文面は、援軍は出すという趣旨のものだ。具体的には、二千から三千の国王直属精鋭部隊が王国軍の北への出発に紛れて東へ出発。強行軍を行って東方の連合軍へ強襲をする、という話だった。
強行の具体的な策も書いており、それはジュネの眼鏡に合うものだったのだ。
そして、昨日届いた新たな手紙。
明日の夜未明に強襲を行う、とのこと。ジュネにはそれと呼応して敵を撃つことを要請してきた。さすれば、必ずや敵軍を撃退できるだろう、とも書いてあった。異論は無い。
(問題は、この策を建てたのが誰か、ということだ。噂では、リョーとかいう少年がシャルロワ勢を打ち破った作戦を建てたらしいと聞いたが。その男が実在するなら、これも恐らく彼の仕業だろう。一度会ってみたいものだな。兵役は不得手とはいえ、カタパルト一の貴族シャルロワ元大公を打ち破る策を建てるとは、なかなかの人物に違いない)
「閣下。何の御用でございますか?」
「お前か。遅かったな」
「兵糧の備蓄に、少々問題がありまして。ただ、今はもう解決しています」
「そうか。さて、すまぬがお主らは下がっててくれぬか。二人で話したい」
ジュネは軍務も統括しているが、彼はその補佐役だ。少し才が走り過ぎることもあるが、なかなかに有能だ、とジュネは評価している。そのため、軍を動かすのも最初に彼に言っておこうと考えた。
人払いをして二人だけになった宿舎でジュネ将軍は口を開いた。
「そろそろ軍を動かす。準備しておけ」
補佐役の男は一瞬驚きで体を止めたが、すぐに言葉を返した。
「それは決定事項ですか?」
正直なところ、今軍を動かしても状況は良くならないだろうというのが軍の総意だ。何か考えがあるのだろうという推論に彼は至ったが、それでも信じがたいことではあった。
「ああ。敵に動きがある可能性が高い。なくても、そろそろ動かねばならないとも思っていた所だ」
嘘である。国王の手紙のことは口外するなと書かれていたし、するつもりもない。ジュネは機密保持の原則をよく理解している男だった。
「動き、とは何処へでしょう」
「さあな。そこまではつかめていない。ただ、王都から北へ大軍団が出発したのは知っているだろう。今王都の守りは薄い。敵は動くとすれば、西にだろう」
地理的には、王都の真東の方向に敵軍が駐留しておりその南にジュネらがいるということになる。街道をふさいでいる訳ではないので、やろうと思えば敵は王都の方向へ進軍できるのだ。挟み撃ちにされるのを恐れて敵は足踏みしているが、王都がガラ空きになれば決心して進む可能性は高い。
「なるほど。しかし、後を追うにしても敵は当然その備えをしているのでは?」
「いや」
かぶりを振ったジュネの考えを、補佐役の男は機敏に感じ取った。
「後を追うのではなく。後を、蹴散らすのですか」
「そうだ」
つまり、彼が言いたいのは敵の兵站を潰すということだ。
後ろを追ったとしても、返り討ちに合うとまではいかなくても敵の動きを遅くするのは難しいだろう。ならば、敵の本拠地、反乱貴族の領土やカール一族の支配圏を脅かす、という発想である。
まあ、それもジュネが適当にでっちあげた嘘に過ぎないのだが。
「王都は問題ない。陛下が何かしらを仕掛けているだろう」
「なるほど。では、進路は北西ですな。どこから攻めるのでしょうか」
「まずはゲタポ侯爵領からだな。ベズ子爵領を経由して、チンジャウ伯爵領へ。ゲタポ侯爵もチンジャウ伯爵も、大身だが気は弱い。特にチンジャウ伯爵は最近新たな食物の栽培に乗り出した所で、領土を荒らされるのは嫌だろう。敵の足並みはすぐ乱れる」
元から、連合軍に結束力はない。最初こそ団結しようという姿勢はあったが、圧倒的勝勢で慢心していることもあり、足の引っ張り合いが起こり始めているらしい。カタパルト王国側からも調略を仕掛けている様な感じもある。
(やはり、シャルロワ殿が敗走したことが原因だな。勝勢であること自体は変わっていないが、明確な統制者が大失態を演じたことで、一体感が無くなってきている。シャルロワ殿の影響は思いのほか大きい。やはり、彼は良くも悪くも並々ならぬ人物であったのだろう)
「確かに、敵も三千人が一斉に西を向くとは考えてないでしょうからな。ただ、それを成功させるには電撃的な速度が必要です」
「分かっている。だからお前に最初に言った」
実際に電撃戦を仕掛ける向きは西にではなく北にであるが。ともかく、電撃的に動くことには変わりない。
「期待に沿えるよう、努力します。では、情報統制はどうしましょうか」
「いつも通りでいい。主な士官には知らせる。そうでないと、いざ実戦の時に足並みが崩れかねないからな。漏れたとしても、それはそれで結構なことだろう。後ろが怖くて立ち止まってくれれば、それに越したことは無い。状況の打開を求めているのは遠征している奴らで、状況の停滞を求めているのは我々だ」
「分かりました」
少し多弁が過ぎた、とジュネは後悔した。部下に違和感は悟られたくない。
ちなみに、情報を厳しく管理しない真の理由もきちんとある。敵の目を敵自身の領土に向けさせることができれば、味方の強襲もより効果が上がるのだ。
「では、準備をしてくれ。まあ、何時でも出立できるようになっているのだから、心の準備しか要らないかもしれぬな」
「ははっ、確かにそうですな」
それでは、と補佐役の男は帰っていった。
ジュネはその後ろ姿をぼんやりと眺めた後、人払いしていた兵士たちを呼び戻した。
それにしても、である。信頼し合っている者に嘘をつくということは案外に疲れるものだな、とジュネは思った。これから同じ嘘を他の者にも言わなければならないというのは、辛いものだった。
(いや、今はそんなことを憂慮している場合ではないな……。敵を欺くにはまず味方から、とよく言う。気にする程の事でも無かろう。だが)
ジュネは無意識のうちに腕を組んだ。
(敵の不意を突いたとして、果たして勝てるのかどうか、という問題もある。察するに戦場はコーランド平原。情報の秘匿が完全に行われ、我らと陛下の二軍による奇襲が両方成功したとしても、まだ足りぬ)
「閣下。お茶をお持ちいたしました」
「うむ」
側仕えの少年から受け取った茶を一口飲んで喉をうるおすと、ジュネは己の執務机に茶碗を置いた。気が利く少年だと思いつつ口には出さなかった。そこまでの余裕がジュネにはない。
(カール軍は精強だ。これをどう対処するかが重要項。いや、むしろ、貴族軍のみを攻撃して潰走させればカール軍も引くやもしれぬか)
別の側仕えから書類を受け取ると、ジュネはその思考を止めた。考えていてどうにかなることではない。既に手は尽くしてある。
戦とは生き物である、というのがジュネの軍人としての信条だ。足りない点は戦場の機転で取り返す。
そう決意すると、机に置いておいた茶を一気に飲み干した。苦い味がした。