(2−4)ニーナの決意
気絶したままのロイを、マーサの家に連れていく。部屋の隅の長椅子に寝かせても、蒼白な顔のまま、一向に起きる気配を見せない。
「魔術師に、意識をのっとられたんだ。体は治癒魔法で治せても、精神的な負荷がかかった分はどうしようもないからな。たぶん1日くらいは目を覚まさないと思うぜ。ニーナ、水に濡らしたタオルもってこい。頭と首まわりを冷やすだけでも、まだましだ。……なあ、マーサ」
ハーフォードは走って部屋を出ていくニーナを横目で見てから、手のひらでロイを指し示し、声のトーンを落として話し出す。
「あの魔術師の狙いは、俺じゃなかった。ニーナだ。その意味がわかるか?」
マーサの目を見て、ハーフォードは理解した。彼女は、全てを察している。ニックの特殊魔法の能力のことも。その父が亡くなった今、代わりにニーナがマルタ帝国に狙われようとしているかもしれないことも。ニーナは魔法を使えない。だが、確実に、その素質がある。
「今の俺だと、腕輪の魔力しか使えない。ちゃんとした魔術師を護衛につけるべきだ」
「それは無理だ」
マーサははっきりと言う。声をひそめ、早口で一気に告げた。
「正直に言う。さっきの戦い、遠視魔術で見ていた。残念だが、うちの商会の魔術師で、あんたより魔術の上手いやつがいない。あんたの術の展開スピードと、状況の見極めは頭抜けてる。それに、ニックが死んだなら、いずれこうなるかもしれないと思ってたんだ。だから、ニーナをカンティフラスに逃がそうとしている。あの国は、国内の魔術師が手厚く保護されていて、強力な王宮魔術師団がある。法律も整備されている。マルタ帝国の魔術師が好き勝手しづらい環境だ。せめてカンティフラスに着くまでは、名高いファラン・テナントを師匠に持つあんたを、ニーナのそばにおきたい。あんたの実力のことも、商会の情報で前から知ってる」
「なるほど。急に素直になったな。まぁ、そんなこっちゃないかと思ってた」
ハーフォードは苦笑を浮かべた。マーサは真剣な口調で続ける。
「この状況を打開するために、商会も裏から動く。カンティフラスについて安全が確保されるまで、護衛を頼まれてやってほしい。報酬は弾む。腕輪の魔力は常に補充できるように人員を用意する。腕利の剣士の護衛も、最初の移動先でもう待機している」
「……なんでそこまでする? 親友の娘だからか?」
「いや、もう、私にとっても娘だよ。あの子のガラス職人の道を守ってやりたい」
ハーフォードはまじまじとマーサの顔を見た。その顔に浮かんだ心配と懇願の色を読む。それから、静かにはっきりとうなずいた。
「わかった。カンティフラスに着いたら、あらためて商会と報酬の話をしよう。ただ、マルタ帝国への根回しはなるべく早くしてくれ」
マーサは少し肩の力を抜いて、ほっと大きなため息をついた。「ありがとう」とうめくようにつぶやいてから、きびすを返す。
「ロイの精神補助のための薬を調合してくる。あ、ニーナ、テーブルの上のお茶、冷めちゃったけど、適当に飲み食いして休んでて」
入れ違いに入ってきたニーナに声をかけ、奥の部屋に引っ込んでいった。
ロイの額に濡れたタオルをあて、しばらく気掛かりそうな表情を浮かべていたニーナが振り返り、ティーポットに手を伸ばそうとする。
「お茶、入れ直そうか」
「いや、いい。ニーナはそこに座れ」
ハーフォードの低い声が制す。急に、ひどくあらたまった顔をして、彼はうなるような声を出した。ぴりりとした空気に、ニーナはとっさに首をすくめる。怒られても仕方ないことをした自覚はあった。
しゅんと肩を落として、椅子に座る。はたして、ハーフォードは言った。
「ニーナ、お前さんさぁ。何でマーサの家でじっとしていなかった。俺を無闇に追いかけるなんて、危ないかもしれないだろ」
「だって、私もいかなきゃ、って思ったら、体がとっさに動いちゃって」
「勢いだけで走り出す前に、いっぺん落ち着け。きちんと考えて動け」
「……よく言われます、ごめんなさい……」
「それから、お前、さっき、こっちに向かって石を飛ばしたか?」
「……はい、飛ばしました」
「あれ、他の奴の前でやったこと、あるか?」
「母さんの前でだけ」
「わかった。これからは、なるべくやるな。特に、絶対に人がいるところでやるな」
「危ないから?」
「そうだ、危ないから。約束できなきゃ、旅に連れていかない」
「……わかった。約束する。ごめんなさい」
ハーフォードは、じっと確かめるようにニーナの目を覗き込む。しょげかえった彼女の様子を眺めて、しばらくして、ふわりと顔を崩して吹き出すように笑った。
「しおれた顔すんなよ。わかりゃいい」
大きな手が伸びてきて、赤毛の頭をぐりぐりと撫でる。ニーナの心がむずむず動く。くすぐったいようで、あたたかいようで、とても落ち着いていられない。それが顔に出たら恥ずかしい気がして、とっさに口を尖らせる。
「ハーフォード……お父さんみたい」
「こんな大きな娘を持った覚えはねぇよ」
鼻で笑った彼は、ふと、また真面目な顔をした。
「でも、本当にいいのか。こんな良い居場所を捨てて。ロイってやつ、お前のことを好いてるんだろ。この森だって、あの湖だって、世界のどこを探しても、こんなきれいな場所、他にはないかもしれない。なのにどうして、あえて厳しい道を選ぼうとする。もっと楽に幸せになる方法は、いくらでもあるかもしれないのに」
真剣なその目が、「引き返すなら今だ」と言っているように思えた。
「そうかもしれない。でも……」
ニーナはぐっとお腹に力を入れると、まっすぐに背筋を伸ばした。何があっても、うなだれない。しっかりと、自分の体で、心で、受け止める。前を見て、やれることをなんでもやろうと決めている。
「何が幸せかは、私が決める」
「……そうか」
ひどくまぶしいものを見るように、ハーフォードは目を細めて——やがて笑った。
「わかった。お供するわ。あんたの旅」
ニーナの意識は一気に引き寄せられる。初めて見る顔だった。心の底から滲み出てくるような、力の抜けた、柔らかくて穏やかな笑顔。もしかして……これがこの人の奥に隠されている素顔なんだろうか。
そして、とうとう思ってしまった。思ったとたん、認めざるを得なかった。もしかして、自分は、どうしようもなく惹かれ始めているのかもしれない。この、得体の知れない、何かを複雑なものを抱えていそうな、この人に。
「で、そっちの奥の部屋で様子をうかがってるやつ。いつまでそこにいるんだ?」
ハーフォードが、奥の部屋の扉に視線を投げる。
「すみません。先ほどは、助太刀する前に片づいてしまって。ヘビ魔術師への対応、勇気がありましたね」
のんびりとした声で、ゆったりとドアから現れたのは、人の良さそうな笑みをたたえた男だった。歳は30を過ぎた頃だろうか。簡素だけれど仕立ての良い衣服をまとっていて、立ち居振る舞いもどことなく上品だ。このあたりの人間ではないようだった。
「詠唱をさえぎると、魔力が暴走することもあるんでしょう?」
「タイミング次第だな。詠唱の意味がわかっていたら、切れ間に仕掛ければいいだけだ」
何事もないかのようにハーフォードは答え、ニーナはぎょっとして目を見開いた。そんなの知らない! タイミングも何もわからずに、考えなしに石を投げつけてしまった。ハーフォードが怒った理由を心底理解して、冷や汗が吹き出してくる。猛反省しながら、ニーナは不思議に思った。そもそも、なぜ、いきなり現れたこの人は、そんなことを知っているのだろう。普通の人とは縁遠い話のはずなのに。
とたんに警戒を体にみなぎらせたニーナをなだめるように、ハーフォードがぽんと彼女の腕を叩いた。
「ニーナ、落ち着け。こいつからは敵意も悪意も感じない」
「では、やっぱり、あなたがニーナさんなんですね?」
いきなり名前を呼ばれ、ニーナは固まった。男はなぜか懐かしそうなまなざしで、ニーナを見ている。
「本当に、ご両親にそっくりだ」
「……うちの親を知ってるんですか?」
「はい、うちの商会が取引させていただいている、大事な芸術家ですから」
にっこりと、男はうなずきながら、手のひらを広げた。そこには、ころんとガラス細工のブローチが転がっている。ニーナは、ふいを突かれて呼吸を止める。以前、マーサに渡したことのあるものだった。
「あなたをお迎えに来ました。マーサからこれを見せてもらって感心しました。見事にご両親の腕を引き継いでいらっしゃる。私はガイザーブル商会のダリル・ファーガスと言います。それからそちらはハーフォード・テナントさんですね。お師匠様のご高名はかねがね」
「クソ師匠を持ち上げたって、いいことないぞ」
顔を大げさにしかめて見せながら、ハーフォードは勢いよく立ち上がった。
「迎えが来たってことは、移動魔法陣の準備ができたんだな」
「ええ、ご案内します。最初の移動地点、ファーレン国へ」
「……は? ああ、そうか。マルタ帝国を避けて、南回りで行くのか。…………わかった。確かにあそこなら、魔術師が何かしてくることもないだろ。平和で合理的だな」
ひどく驚いた顔をしたハーフォードは、一瞬言葉を飲み込み、一拍置いてうなずいた。
すぐに気持ちを切り替えるようにニヤリと笑うと、いたずらっぽい色を目に乗せる。するりとニーナの手を取って立たせ、優雅にお辞儀をしてみせた。
「では、お嬢様。魔術移動の旅へとご案内いたしましょう」
ニーナはまばたきをした。元々、目鼻立ちの華やかな彼が気取って言うと、やたらと様になっている。なんなら、物語に出てくる王子様に見えないこともないくらい。けれど、ニーナの知っているハーフォードではないようで……どうせなら、あの力の抜けた笑顔を、何回だって見せてほしいのに。
「……え、誰?」
「ほんと誰だろうな! 恥ずかしくなってきたわ」
笑い飛ばすと、ハーフォードはぽん、とニーナの肩を叩いた。そのあたたかさを感じながら、押されるようにニーナは歩き出した。
明朝から旅がスタートです!
よろしくお願いします。