(2−3)ハーフォードと招かれざる客
(なんだよ、あれ)
さっきから、その言葉ばかりが、ロイの頭の中で空回りしている。
得意先にバターとチーズを届ける途中、向こうの湖に赤毛が揺れるのが見えた。
(ニーナのいつもの石拾いだな)
気づいた瞬間、心が跳ねた。物心ついたころからずっと、その幼馴染の少女は弾むようにロイの視界に飛び込んでくる。笑顔を向けられたとたんに、目の前が明るくなる。いつだって、ニーナはロイの特別な女の子だった。
上機嫌になったロイは、赤毛に向かって呼びかけようとして、固まった。
ニーナが笑っている。その笑顔の先に……男がいる。
見たことのない奴だ。くやしいことに、遠目で見てもわかるくらい、かなりの男前だった。男は穏やかな顔で、ニーナを見ている。長い髪を頭の後ろで丸めていて、そこには、ガラスの棒が1本、さしてあった。ニーナの髪細工だった。
ロイの頭が、焼けるように熱くなる。
(なんだよ、あれ)
ニーナは男に背を向けて、岸辺の石を拾っている。男はずっと、ニーナを見つめている。
ロイは人の心の動きを読むのが、得意ではない。がさつで気配りが足りないと、よく妹に叱られる。だが、今は直感が伝えていた。
あれは、特別なものを見る目だ。大切なものを、見る目だ。
ニーナは、男に、嬉しそうに笑いかけている。
(なんだよ、あれ)
頭が煮える。無意識に、拳を握る。力のこもった腕に、青筋が立つ。
(俺のニーナを、なんて目で見てやがる)
たぎる怒りに、木立のなかから飛び出そうとした。その瞬間。
まっすぐ、男の青い目が、こちらをみた。
温度の抜け落ちた視線に、射抜かれる。
ロイははじかれたように、木の幹に体を寄せて、隠れた。冷たい汗が背筋を伝う。心臓が乱れうっている。一歩も動けない。呼吸が乱れる。とっさに全身で感じていた。動いてはいけない。近づいてはいけない。
まるで獣の眼だ。
前に、森でオオカミに出くわしたことがあった。驚くでも、威嚇するでもなく、ただ、じっとこちらを見通す、あの目。
『ミ ツ ケ タ』
どろり、と、頭の後ろから、低い異様な声がした。
とっさに目をつぶる。ずるずると背中を木の幹に預けて座り込む。理屈ではない、本能的な恐怖で、歯がカタカタと震える。
『ヨウヤク、ミツケタ……』
次の瞬間、不思議な音の連なりが歌うように頭を突き抜け——
ロイは何も分からなくなった。
ハーフォードは、マーサの家を出るなり、風を切って走り出した。さっき分けてもらったばかりの魔力で腕輪は満たされている。魔術で一足飛びに飛びたいが、今は魔力の無駄遣いが惜しい。
不穏な気配の方向に、見当をつけて走る。さっきの湖の方だ。5カ月の地道な兵士生活で、格段に体力が上がっているのを感じる。こんな時だというのに軽く笑えた。何事も体験してみるものだ。
鳥たちが、急に飛び立つ。何かに驚いたように鋭くさえずっている。
視線の先、低木の茂みが不穏に揺れる。ぼきぼきと鈍く乱暴な響き。そうして草や枝を踏み折りながら現れたのは、ひとりの若い男だった。茶色の髪に、たくましい体をしている。一目見るなり、ハーフォードはぼやいた。
「町のやつか? なんか変なもんに取り憑かれてんなぁ」
うつろな目。軸の定まらない歩き方。異様だった。
ゆらゆらと、近づいてくる。
「ロイ!」
背後のまだ遠いところから、叫び声が響いた。振り返らずに、ハーフォードは重ねてぼやく。
「なんでついてきちゃったかねぇ……ニーナ! そこで止まれ! こっちにくるな」
後半だけ大声で怒鳴ると、ぴたり、と彼女の足音が止まった。その距離なら、まだ巻き込まずに済む。魔術師の五感は、普通の人間よりはるかに鋭敏だ。魔力を封じられていても、このくらいの気配を察知するのは慣れたものだった。ロイを見据えたまま、ハーフォードは後ろにあるニーナの気配に向かって叫んだ。
「ニーナ! こいつ、知り合いか?」
「友だち!」
「じゃぁ、ぶん殴らないほうがいいか?」
「できれば!」
「へーいよ。ニーナ、どっか木の幹の後ろに隠れてろ」
ハーフォードは素早く腕輪に手をやった。そろりと、控えめに魔力を引き出す。ひとまず、低級魔術、1回分。
ロイが、ゆっくりと立ち止まり、こちらを見る。その顔に、じわじわと、いびつな笑みが広がっていった。
『気安く何度も俺のニーナの名前を呼ぶな!って、中のコイツがわめいているぞ』
それは不思議な声だった。目の前のロイが話しているようで、遠くから響いてくるようでもある。ハーフォードが口を開くより早く、鋭いニーナの声が飛んだ。
「あなた、誰? 私の知っているロイじゃない。ロイは絶対、そんな笑い方しない」
ロイの顔をした誰かが、鼻で嗤う。歪んだ口元が、ハーフォードに言葉を投げる。
『よくもここまで逃げおおせたものだな』
気取った抑揚の口調に、ハーフォードは面倒くさそうに顔をしかめた。正直、本当に面倒くさかった。この男がどこかの魔術師に意識を乗っ取られているだけだったら、下手な攻撃魔法は使えない。動きを止めるだけの、拘束魔法にするか。そんなことを頭の片隅で考え続けながら、ぞんざいに返した。
「だから、誰だよ、あんた。何の用だ」
『お前には用はない』
「……何?」
くつくつと、ロイから陰鬱な笑い声が転げ落ちる。
その足元から、緑と黒のまだらのヘビが、音もなくぬるりと這い上がる。まるで小馬鹿にするように、長い鎌首をもたげ、舌をちろちろと出す。
木の後ろからそっと様子をうかがっていたニーナは、息をのんだ。ヘビは、知の精霊の遣いだと言われる。ありがたいものとして、触らない、近づかない。それを守っていれば、精霊の加護をいただける。ニーナはこれまでそう教えられてきたし、ヘビを怖いと思ったこともなかった。
だが。
生理的な嫌悪が沸き上がる。あのヘビは違う。あれは怖いモノ、よくないモノだ。
『……この体の男、ずいぶんその娘に執着しているな』
せせら嗤うように、語尾がわずかに揺れる。目を細めたロイが、うっそりとニーナを見た。とたんにむきだしの悪意が、ニーナの体の表面を不快に這いまわっていく。まるであのヘビのように。
直感した。
あのヘビ? ロイがおかしくなったのは、あれのせい?
悲鳴をあげたい気持ちを、ぐっと押し殺す。眉間に力を入れて、にらみ返す。負けてたまるか。ロイはニーナの反応をあざ笑い、誇示するように、ヘビが巻きついた腕をかかげてみせる。
『娘に何かあったら、どのような反応をするだろうな。この男は』
——冗談じゃないわ。
ニーナは、思わず両のこぶしをぎゅっと握る。あれがいつものロイだったら、間違いなくぶん殴っている。いや、いつものロイじゃなくたって、ぶん殴ってもいいんじゃない?
ニーナは深く息を吸い込む。よく見なくては。よく考えなくては。自分にできることを。ロイをもとに戻すには、どうしたらいい?
ちらりとハーフォードが、こちらを振り返る。その目が、「そこでじっとしてろよ」と言っている気がした。わかった!とニーナは勢いよくうなずいて、目で返事をした。私は私にできることをするから大丈夫!
「ああぁー、なんかとんでもないことを考えてる気がするなー」
ニーナの表情を正しく読み取ったハーフォードが、うめき声をこぼした。そして、
「あんた誰だか知らないけどさ。立ち話も飽きたし、早く帰れよ」
淡々と、煽りながら切り捨てる。ロイではないロイが、嗤ったまま、ギリリと歯ぎしりする。
「思い出せないというなら、思い出させよう」
言い捨てて、両手の指を絡ませる。親指だけを突き合わせ、不思議な形をとった。
旋律が、その唇から紡がれはじめる。
「《我、精霊の御手より生まれししもべ。御名を寿ぎ、御名によって命ずる》」
人ならざる力を借りた、古い古い格調あふれる呪文の始まりだった。魔術師の中でも歴史に深く通じたものでないと、きっと聞いたこともない。
「本気かよ。そんな古い時代のながーい魔術語を詠唱しちゃうとか。化石か、あんた」
あきれたようなハーフォードの声を聞きながら、ニーナはとっさにスカートのポケットに手を突っ込んだ。ニーナには魔術のことはわからない。でも、これだけは分かった。あの詠唱を最後まで言わせちゃダメだ。ポケットに、さっき拾った石がある。ヘビをにらむ。この距離なら、いける。狙いすまして手首をひねる。
その瞬間、
「《飛翔》」
たった一言の詠唱でハーフォードが、跳躍した。無駄も隙もない流れるような動作で、魔力で風をまとい、たやすく跳んだ。
「……ゔごっ…!」
魔術師の詠唱は断ち切られ、ロイの体が激しく後方に吹っ飛ぶ。
宙を切り裂くように身をひねったハーフォードの足が、その腹、その組んだ手を、正確に狙って容赦なく蹴り上げたのだ。
茂みに体ごと突っ込んだ男が、うめき声をあげ、そのまま動きを止めた。他には動く者もなく、風が木々を揺らす音。
——急に、のどかな森の風景が帰ってくる。転がっている男を除いて。
「気絶したかな?」
ハーフォードは、何でもなかったかのように、軽やかに歩み寄った。
倒れた襟首をつかむようにして、体を茂みから引きずりあげる。ロイの腕にぬるりと絡みいたままのヘビの尻尾をつかむ。
引きはがし、ぶらりと空中に揺れる細長い体をしげしげと観察した。
ヘビはぐったりと、まったく動かない。
詠唱しはじめた相手の魔術に、不用意に拘束魔術をぶつけるより、物理で蹴り飛ばしてしまった方が、さっさと解決する場合がある。それを実践しただけなのだが、思いもよらないことが同時に起こっていた。ハーフォードの眉がひそめられる。
「ヘビの頭が潰されてんな。でも、やったのは俺じゃないぞ……あぁ、さっき一瞬飛んできたように見えた小石か?……まさかのニーナか」
軽やかに走り寄ってくる赤毛の女の子を見やって、ハーフォードは一瞬だけ、真顔になった。あの離れた距離で、あの小さな石を、これだけの正確さでぶつけられるはずはない。何か特殊な力が働かない限り。
「確かに魔力が作用してたよなぁ。でも、本人、無意識みたいだからなぁ。どうすっかなぁ」
つぶやきながら、ぎりっと手の中に力を込める。青白い光に包まれて、まるで砂のようにあっという間に、ヘビの体が崩れていく。これを使い魔にして、ロイに取り憑いていた魔術師は、今ごろ怒り狂っているだろう。知ったこっちゃないが。
とりあえず、今は、別に対応すべき問題がある。ハーフォードは気絶したロイの体を横たえると、すぐさま治癒魔法をかけた。蹴られた衝撃で、あばら骨が何本か、いかれているはずだ。元通りにしてやらないと、さすがに気の毒だろう。
「ねぇ、ロイ、大丈夫?!」
「すまん! ぶん殴ってないけど、蹴っちまった。治癒魔法で治した」
ハーフォードはとっさに謝りながら、彼女の表情を探る。ひたすらロイに心配そうな視線を向けるニーナは、まだ、自分が狙われたことに気付いていない。それでいい。
ロイの大きな体を運ぶため、風魔法で包み込む。とにかくマーサと話をしなくては。
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