(2−2)ニーナと旅立ちの朝
昨日はたくさん夢を見た。父と母が出てきて、いろんな話をした気がする。2人ともニコニコと笑顔で、ふわふわと幸福な時間を過ごして、目覚めた時、ひとりの部屋が急に怖くなった。父さんはもう帰ってこない。ニーナがここで待ち続けたいものは、もう何もない。
ベッドから立ち上がった瞬間、昨日マーサが旅立ちを強く後押ししてくれた意味が、すとんと腑に落ちた。昨日は流れのままに出発を決めたけれど、たくさんのことが一気に起こって、目が覚めてもまだ夢のようだけれど——この家は、もう私の居場所じゃない。自分の場所は、自分で探しに行かなくちゃ! 行けるところまで行こう。走れるところまで走ろう。どこかで息が苦しくなって倒れても、諦めずにまた進む。両親は世界中を旅してまわって、最後にこの家を見つけた。ニーナも旅した先に、きっと自分だけの居場所があるはずだ。
そして、出発の朝。
肩から下げていた、大きなバッグを地に下ろす。母が眠っている場所の前に、ひざまづく。目をつぶって、今日、旅立つことを報告した。
昨年、天涯孤独になった時。ニーナの行く末を、たくさんの人が心配してくれた。とてもありがたくて、時々、自分の将来のことを深く考えてみようとする。でも、なぜか、生まれ育った町でずっと生きていくことを、うまく想像できなかった。
もっと、広い場所で、いろんなものを見てみたい。
墓標のかわりに、イチイの若木が1本ぽつりと植えられている。とがった緑の針のような葉っぱが、わずかに風に揺れている。母の好きな木だった。
母が突然の病であっけなく逝ってしまって、初めてニーナは知った。
死ぬとは、こういうことなのだ。身ひとつで、大地に還っていくこと。
植えられたばかりのイチイを眺めて、葬儀が終わったその日、ニーナはずっとたたずんでいた。両親は、住み良い家を残してくれた。ちょっとばかりの貯えもある。そして、当面のガラス作りの材料と道具も。娘ひとりでも何とか生活していける。その心遣いに守られたまま、いつまでここで生きていけるのだろう。
「大丈夫だから。大丈夫だ」
ぎゅっと肩に回された腕と、隣で必死に繰り返す少年の声。
「ニーナは、俺が守ってやるから」
ありがとう、ロイ。そういったはずなのに、声がかすれて、言葉にならない。
「うちにくればいい。そうすれば、さびしくないだろ。俺の牛も羊もニワトリも、ミルクも卵もチーズも、ついでに俺も、全部お前のもんだ」
おろおろと言いつのる幼馴染は、あたたかかった。この人の家族になる人は、とても幸せな人だろうな。頭のどこか遠くで感じながら、ニーナはじっと、イチイの枝を見つめていた。
やがてイチイは大きく育ち、いずれ春にはクリーム色の小さな花が咲く。秋には真っ赤な実がなるだろう。そのとき、自分は、何をしているのだろう。花と実りを繰り返し、季節が数えきれないくらい巡れば、やがて自分も、こうやって死ぬ。そのとき、自分は、何をのこしていくのだろう。
ぼんやりと、ただ、目に染みる緑の葉を、見つめていた。
このつややかなイチイの緑を残すには、どうしたらいい?
その言葉に追い立てられるように、頭が動き始める。
あの枝の茶色は? これから実る赤い果実の色は? どうやって、命の色を、ガラスにすればいい?
ただ、無性に、ガラスをいじりたかった。
どのように家に帰ったか、よく覚えていない。気づいたら、ひとりでガラス工房にいた。
机いっぱいに道具をならべて、炉に盛大に炎をたいて。黙々と、粉をまぜ、火で溶かし、混ぜたガラスを丸めてのばして、さらに形を整えて。
夜通しひとりで作業を繰り返す。
そのうちにたぶん、少し笑っていた気がする。形の定まらない熱いガラスから、自分の望む形を生み出していく。そこにはただ、やわらかくて自由な時間があった。
満ち足りた気持ちで、やがて作り終えて炎を落とす。作ったばかりのガラス細工の数々をぼんやり眺めているうちに、心が軽くかるくなっていく。自分には、両親の残してくれた、ガラスと技術がある。ガラスを作れる元気な体がある。それは、本当に幸せなことだろう。
あれから1年。思っていたより早く、旅立ちの朝が来た。
ニーナは、すっくと自分の足でしっかり立って、イチイに微笑みかけた。
いってきます、母さん。どこまで行けるか、自分の力を試してきます。
振り返ると、数歩離れたところで、ハーフォードが、神妙な顔で彼女を見守っている。思い切り笑いかけた。
「さて、いこっか!」
目の前を歩くニーナの赤毛が揺れている。ハーフォードは大きなカバンを2つ下げて、ついていく。
バッグを取り上げられて、すっかり身軽になった彼女は、落ちていた木の枝を振り回しながら、楽しそうに口笛を吹いている。ハーフォードは少しだけ、懐かしい気持ちになる。調子を合わせて口笛を吹いたら、ニーナが驚いて振り返った。
「知ってるの? 母さんのふるさとの歌」
「よくニックも吹いてた」
「父さんが?」
ハーフォードは、ただ笑ってうなずいて、口笛の続きを吹き始める。これ以上は、この平和な風景には不似合いな話だった。前をいくニーナの頭が一瞬だけ、少しうつむいて、それからしゃんと前を見る。ハーフォードの口笛に合わせて、やがて今度は元気な鼻歌が聞こえてきた。
うっそうとした夏の森。こもれびが柔らかく降り注ぐ。わずかに踏み鳴らされた、道とも呼べないような道の先に、マーサの家がある。ふたり縦並びで歩いていく。
チュリー、チュルチュル、チュリー。澄んだ高いさえずりがして、
「コマドリ!」
ニーナはその小鳥の姿をさがし、口笛で鳴き声を真似る。
「コマドリって、首もとがふんわりオレンジ色でかわいいよね」
振り返った彼女を、ハーフォードは困惑のまなざしで見返した。
「鳥の名前とか、意識したことないな」
「ほら」
ニーナは突然手を伸ばし、自分の肩より少し高いところにあるハーフォードの肩を、とんっと押さえる。ふたりの目の高さを同じにしてから、向こうの木の枝を指さした。
「リンデンの木に止まってるの、わかる? 小さな白い花がいっぱい咲いてる。あの木の枝の先」
明るい灰色の羽、顔から胸にかけてほっこりとオレンジの小鳥。このあたりではよく見る可愛らしい鳥だ。ハーフォードの目がわずかに大きくなる。
「あれか」
「いたでしょ?」
チュイチュイチュイ。
透き通った鳴き声を落として、コマドリが飛び去っていく。中腰のまま、その姿を目で追うハーフォードの背中をぽんと叩いて、
「出発!」
ニーナは再び歩き出す。
そんな調子で、あっちで立ち止まり、こっちで立ち止まり。そのたびにハーフォードはニーナの指し示すものに好奇心のかたまりのような視線を向けた。ニーナは気づく。自分には当たり前で、普通で、なんてことのない鳥も木も花も、彼にはみんな初めまして、なのかもしれない。
特に、湖を見た時の反応がとても良かった。
目を丸くして、口は半開きになっている。
ニーナはくすくす笑いながら、かがんで岸辺の石をいくつか拾い上げた。次々と、ハーフォードの手の中に落とす。
赤、茶。薄いグリーンに紫、オレンジに黄色……
さまざまな色の小石が、積み上げられていく。
澄んだ水をたたえた湖の底には、さらに色彩ゆたかな石が無数に転がっている。
「ここにくれば、世界のすべての色がある」
歌うようにつぶやく。母がよく口にしていた言葉だった。スカートをたくし上げながら、水辺のぎりぎりまで歩いていって、またいくつか石を拾い上げる。
「母さんと父さん、私が生まれる前には、いろんな国を回って、ガラスを売りながら旅をして。この湖を気に入って、あの家に住みはじめたんだって」
わずかに風が吹き抜ける。光のかけらがきらきらと、水面に浮かんで消えてゆく。それを目で追いかけてから、ニーナはもうひとつ、鮮やかな青い石をハーフォードの手の中に置いた。
「これ、あなたの瞳の色みたい。瑠璃色」
「俺の目なんて、こんなにきれいじゃないだろ」
「この色だよ。光の加減で青が微妙に変わって見える。ちゃんと鏡を見たことある?」
ハーフォードが何かを言いかけた時、虹色のウロコの群れが、俊敏に、手の届かないすこし先をよぎっていった。
「ニジウオがいる! 美味しいんだ。知ってる?」
指差しながら、自分よりちょっと背の高い顔を見る。ハーフォードはわずかに目を細めて、湖面ではなくニーナを見ていた。
その眼差しに、ニーナの心臓がぴょこりと変なふうに動く。それには気づかなかったふりをして、ずんずんと先に進んだ。
「ほら、あれがマーサの家」
こもれびを顔にのせたまま、ニーナはハーフォードを振り返る。首をめぐらせ、背後の木立の隙間に遠ざかっていく湖を見納めていた彼は、前に顔をむけ、「おう」と明るく返事をした。
湖を過ぎてしばらくしたところに、その家はある。家と呼んでいいのだろうか。一瞬ためらわれるくらいに、まわりに溶け込んでいる。遠目からみると、緑の小さな山のように見える。近くに来てみると、ツタに抱きつかれたレンガの壁が、ようやく見えてくる。
森に飲み込まれるようなその小さな平家が、マーサの住まいだった。
ニーナは弾む足取りのまま、横の方に回り込み、トントン、とノックする。
「マーサ、きたよー!」
とたんに、ぎいっととびらが押し開いて、
「なんだい、早かったね」
ひょっいっとマーサの顔がのぞいた。髪の色がすっかり変わっているハーフォードを見上げて、にやりと笑う。
「おやまあ、誰かと思った。見事に茶色に化けたね」
言いながら、二人をとびらの中に招き入れた。
そこは、こじんまりした部屋だった。ツタの葉に陽射しを遮られた室内は、ひんやり涼しい。壁面いちめんにしつらえられた棚には、ガラス瓶や木箱がぎっしりと並べられている。
部屋の小ささに、不釣り合いなほど大きく厚みのある木のテーブルが置かれている。今はその上に、両手で抱えるくらいの大きさのカゴがあって、大きく縮れた緑の葉がこぼれんばかりに詰め込まれていた。その葉から、赤くて立派な茎が勢いよく伸びている。ニーナはテーブルの上に身を乗り出して、歓声をあげた。
「美味しそうなルバーブ!」
「さっき、茎を甘く煮たから、出発前に腹ごしらえしていくといい。ニーナの好物だろ」
「ありがとう! お茶は私がいれる!」
「まかせた。砂糖煮は台所の鍋の中にあるよ。戸棚にパンが入ってるから、一緒にもってきて」
ニーナはにっこりしながら、勝手知ったる様子で、さっと奥に消える。
「さて」
マーサは、彼女が部屋から出ていくのを見届けてから、目の前の男に向き合った。
「まぁ、座んなよ」
「いや、いい」
ハーフォードは簡潔に答えた。ニーナが消えた瞬間、笑顔を引っ込めた彼は、鋭い眼差しで窓の外をうかがう。
「それより、あんたの魔力を貸してくれ。なるべくたくさん。気づいてんだろ。近くになんか厄介そうなのがいる」
「へぇ、魔力が使えない割には敏感なんだね」
「五感まで封じられてる訳じゃないからな」
ニヤリと不敵に笑うと、ハーフォードはマーサに腕輪をずいっと差し出した。
続きはまた明朝!よろしくお願いします。